捕えられた者として歩みましょう(6)
2004.4.20(火)
ベック兄メッセージ(メモ)
引用聖句
テモテへの手紙・第二 4章7〜18節
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私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。あなたは、何とかして、早く私のところに来てください。デマスは今の世を愛し、私を捨ててテサロニケに行ってしまい、また、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマテヤに行ったからです。ルカだけは私とともにおります。マルコを伴って、いっしょに来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。私はテキコをエペソに遣わしました。あなたが来るときは、トロアスでカルポのところに残しておいた上着を持って来てください。また、書物を、特に羊皮紙の物を持って来てください。銅細工人のアレキサンデルが私をひどく苦しめました。そのしわざに応じて主が彼に報いられます。あなたも彼を警戒しなさい。彼は私たちのことばに激しく逆らったからです。私の最初の弁明の際には、私を支持する者はだれもなく、みな私を見捨ててしまいました。どうか、彼らがそのためにさばかれることのありませんように。しかし、主は、私とともに立ち、私に力を与えてくださいました。それは、私を通してみことばが余すところなく宣べ伝えられ、すべての国の人々がみことばを聞くようになるためでした。私はししの口から助け出されました。主は私を、すべての悪のわざから助け出し、天の御国に救い入れてくださいます。主に、御栄えがとこしえにありますように。アーメン。 |
今、読んでくださった箇所は、パウロの遺言のようなものなのではないでしょうか。彼が殺される前に、最後に書いた手紙です。彼は、「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました」と言うことができたのです。私たちは誰もが、まだパウロようには言えないのではないでしょうか。
この間、私たちは、パウロの一人の同労者、パウロと一緒に福音を宣べ伝えたデマスについて考えました。このデマスという男は、無言の告白をしたのではないでしょうか。すなわち、「私は勇敢に戦わなかった。走るべき道のりを走ろうとしなかった。途中でやめてしまった。また、信仰をも守ろうとしなかった。信仰の創始者であり完成者であるイエス様から目をそらしてしまったのです」と。
何年前だったか忘れてしまいましたけれども、ある兄弟姉妹の娘さんは、突然27歳で召されたのです。その娘さんは絵を描くのが大好きだったので、召された日も、朝起きて絵を描いたのです。そして絵を描いただけではなく、絵のわきに一つのみことばも書いたのです。どういうみことばかと言いますと、「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう(黙示録2章10節)」というものでした。「私は、近いうちに召される」という気持ちがあったかどうか分からないけれども、その娘さんは、「いつ召されても、私の行き先は決まっている。天国だ」と確信することができたのです。
「忠実でありなさい。そうすれば…」そうしなければ、もちろん駄目なのです。つまり、条件つきです。
パウロは、「義の栄冠のためだったら、今の人生そのものを、喜んで主におささげいたします」という態度をとったのです。けれども、途中で駄目になる可能性があるのです。
彼は、次のように告白したのであります。
コリント人への手紙・第一 9章24〜27節
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競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。 |
パウロは、「私も何十年間主に仕えたけれど、失格者になる可能性がある」と、はっきり分かったのです。
「自分の身体を打ちたたくこと」とは、いったい何なのでしょうか。「自分の考え、自分の思っていること、感じていることを大切にしないこと」なのではないでしょうか。大切なのは、私ではなく主です。
「失格者になる可能性が存在する」と、聖書ははっきり言っているのです。
デマスは失格者になってしまったのです。考えられないことです。彼はイエス様に出会った時には、本当に喜びに満たされて、「イエス様は、私の代わりに死なれた。うれしい。このイエス様のためにこれから生きたい。今までの人生は無意味でした。はっきりとした目的を持っていなかったからです」と、彼は思っただけではなく、イエス様のことを紹介したい気持ちでいっぱいでした。けれど、途中でやめたのです。ちょっと考えられない、悲劇的なことなのではないでしょうか。
黙示録の2章と3章、非常に大切な2章なのですけれども、当時の、今のトルコにある教会に宛てた手紙について書かれています。3章を見ると、ラオデキヤの教会も、その危険に直面したのではないかと言わざるを得ません。すべてを知りたもうイエス様は、次のように言われました。
黙示録 3章15〜17節
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「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」 |
盲目になること、みじめになることは、別に問題ではありません。けれども、そのことを知らなければ、大変な問題なのではないでしょうか。
もちろん、彼らは知ろうとしなかったのです。「自分は大丈夫だ」と思ったのです。結局、本当のいのちが流れなかったのです。
けれども、ラオデキヤに集まった兄弟姉妹に対してだけ、主はこのように言われたのではなく、本当に模範的な、すばらしい、エペソにいる兄弟姉妹にも主は言われました。
黙示録 2章4節、5節
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しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。 |
この箇所を見ると、主の口から吐き出される可能性があり、また、燭台が取りはずされる可能性もある、とはっきり書き記されています。
ですから、「自分は大丈夫だ」と思えば、非常に危ないのではないでしょうか。
主が守ってくださらなければ、私たちがみことばにだけ頼らなければ、知らないうちに、悪魔の働きによってめくらにされてしまいます。
前に話したように、デマスはパウロの友達であり、同労者であり、彼もイエス様のことを心から愛したのです。強制されて福音を宣べ伝えたのではないのです。自発的に喜んで伝えたのです。
ピレモンへの手紙 24節
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私の同労者たちであるマルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくと言っています。 |
「デマスは、パウロにとって喜びの種だった」と、はっきり言えます。
コロサイ人への手紙 4章14節
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愛する医者ルカ、それにデマスが、あなたがたによろしくと言っています。 |
パウロは、デマスと本当に一つでした。このパウロの同労者であるデマスは、「イエス様」よりも「今の世」を愛するようになり、パウロを捨てたのです。ただパウロを捨てただけではなく、イエス様と結びついているパウロを捨てたのです。ですから肢体であるパウロだけでなく、かしらなるイエス様を捨てたことになったのです。
デマスは、救い主としてのイエス様は捨てなかったのです。けれども、「イエス様のご支配」を、もう欲しくなくなってしまったのです。
「イエス様のご支配」の一つの現われは、信じる者が、毎日「主よ。私は、どうしたらいいのですか。お教えになってください」という態度をとることです。
テモテの手紙・第二 4章7、8節
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私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。 |
ここにある「主の現われ」とは、主の再臨のことです。
この間の土・日曜日に、沖縄に行きました。宮古島からも兄弟姉妹たちが喜んで出席されたのです。その中の一人の姉妹は、「イエス様は、5年以内に来られるでしょう。けれど、5年間も待てません。無理です。疲れました。3年間だったら…。でも、それも危ないです」と言われたのです。
彼女の置かれている環境を見ると、とても大変です。けれども、そういう話を聞くと、うれしくなります。辛いからとか、解放してもらいたいからではなく、やはり「イエス様と一緒になりたい。一秒も早くイエス様と一緒になりたい!」と。これこそが、主に対する愛の現われなのではないでしょうか。
エペソにいる人々は、そういう愛を失ってしまったのです。彼らは、相変わらず、もちろんイエス様を信じましたし、必死になってイエス様に仕えようと思いました。けれど、待ち望むために救われたということを、彼らはきれいに忘れてしまったのです。悲劇的なのではないでしょうか。
主の現われを慕う者は、みこころにかなう人々であるとはっきり言えます。
パウロのもう一人の同労者に、マルコがいます。テモテ第二の手紙の中での、パウロのマルコに対する判断はすばらしい判断です。「マルコは、役に立つ者である」と。すなわち、「用いられる器であります」。
福音書を読むと分かります。マルコの母親は、マリヤと呼ばれていますけれども、彼女は、主を信じるようになっただけではなく、自分の家を主に提供した女性でした。
ですから、イエス様は、若いマルコの家にしばしば出入りしておられました。そのため、マルコは、若い時からイエス様をその目で見、イエス様のみことばをその耳で聞くことのできた、確かに幸せな男でした。
使徒の働き 12章12節
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こうとわかったので、ペテロは、マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家へ行った。 |
マルコの実家は、初代教会の兄弟姉妹の「逃げ場」であり、「交わりの場」であり、それから「祈りの場」でもあったのです。
マルコは、イエス様をもちろん知るようになり、そして珍しいことを経験したのです。ゲッセマネのことを体験的に知るようになったのです。
マルコの福音書にだけ、書かれている箇所があります。一人の青年について書かれています。この青年とは、間違いなくこのマルコだったのです。
マルコの福音書 14章51、52節
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ある青年が、素はだに亜麻布を一枚まとったままで、イエスについて行ったところ、人々は彼を捕えようとした。すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、はだかで逃げた。 |
マルコとは、そういう青年でした。身の危険を感じたときに逃げたのです。裸で逃げたのです。
使徒の働き 12章25節
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任務を果たしたバルナバとサウロは、マルコと呼ばれるヨハネを連れて、エルサレムから帰って来た。 |
使徒の働き 13章5節
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彼らはヨハネを助手として連れていた。 |
ある時、マルコは、自ら「奉仕に立とう」と決心し、パウロとバルナバの大伝道旅行に加わりました。マルコは、各地で主のみわざを目のあたりに見て旅を続けたのですけれど、その旅は決して楽な旅ではなかったのです。飢えもあったでしょう。身の危険にもさらされたに違いありません。そしてある時、マルコは苦しさに耐えかねて、パウロとバルナバから離れ、エルサレムに逃げ帰ってきてしまったのです。
使徒の働き 13章13節
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パウロの一行は、パポスから船出して、パンフリヤのペルガに渡った。ここでヨハネは一行から離れて、エルサレムに帰った。 |
面白くない、辛い、厳しいから、帰ってしまったのです。その後、少し悲しい出来事について書かれています。
使徒の働き 15章37〜39節
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ところが、バルナバは、マルコとも呼ばれるヨハネもいっしょに連れて行くつもりであった。しかしパウロは、パンフリヤで一行から離れてしまい、仕事のために同行しなかったような者はいっしょに連れて行かないほうがよいと考えた。そして激しい反目となり、その結果、互いに別行動をとることになって、バルナバはマルコを連れて、船でキプロスに渡って行った。 |
このバルナバとは、マルコの叔父だったのです。親戚でした。ですから親戚を守ろうという気持ちを持つことは、誰でも分かるのではないでしょうか。
マルコは自分勝手な道を選び、自分の思いを大切にし、まずバルナバ、またパウロから離れてしまったのです。
彼は、イエス様を信じなくなったのではありません。ただバルナバとパウロから離れてしまっただけです。けれども、一緒に働かなくなった結果、ピシデヤでの主の働きを経験することができなかったのです。マルコは、主の豊かな祝福にあずかることができなくなってしまったのです。
私たちが不従順になると、当然主は私たちなしに働かれるようになり、他の人々を祝福されるのです。
「マルコは、信頼できない兄弟だ」と、パウロは知るようになり、「一度離れてしまった者、仕事のために同行しなかった者は、一緒に奉仕することはできない。なぜなら、心を一つにすることができないからだ」と思ったのです。「一緒にやったとしても、それは偽善的な行為だ。主は、よしとされない」と、パウロは思って決めたのです。
このパウロの判断は、どうでしょうか。厳し過ぎるのでしょうか。もし、パウロがそのように私たちについて判断するとどうでしょうか。
マルコは、「彼と縁を切る。もう関係を持ちたくない」と思わなかったのです。彼は静まったのです。そして、「パウロは、私のことを嫌いになっただけではない。パウロのとった態度は、主のとられた態度である」と思ったのです。
兄弟姉妹の欠点を見出そうと思えば、いくらでも見つけられます。何でも悪く解釈することができるからです。兄弟姉妹を批判すること、悪口を言うこととは、私たちの生まれつきの性質の現われに過ぎません。もし、私たちが自分の思い、また気持ちによって支配
されるならば、用いられ得ません。主はそのような者を祝福されないからです。
イエス様は、弟子になる条件、用いられる条件について、次のように言われたのです。
ルカの福音書 9章62節
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するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」 |
このことは、永遠に滅びてしまうということではありません。ただ用いられ得ない、祝福され得ないということだけです。けれども、主の祝福がなければ、すべてはむなしいのではないでしょうか。
マルコは、後ろを見ただけではなくて、逃げてしまったのです。その後、彼はいったいどのように考えたことでしょうか。「私は裏切った。もうおしまいだ。私のために、パウロとバルナバは争いを起こしてしまった。ともに働くことができなくなってしまった」と、大いに自らを責めたに違いありません。
けれども、主は駄目な者をお捨てになりません。離されません。主は、「大いなる陶器師」と呼ばれています。この陶器師は、仕損じた器をもお捨てにならないで、御手のうちに取り上げられたのです。そして偉大なる陶器師は、この器をまったく新しく造り変えられたのです。
そして後に、マルコを「役に立たない者」としていたパウロが、「マルコを連れて、一緒に来なさい。彼は私の勤めのために役に立つからです」と、テモテに書き送っているほどに、マルコは、主に仕える忠実なしもべと変えられたのです。
マルコは、パウロに対して悪口を言いふらそうと思わなかったのです。彼は、主の恵みによって、徹底的に悔い改める恵みにあずかるようになったのです。マルコは、犠牲的に主に仕え、主の誉れを大切にするようになったのです。結局、彼は兄弟姉妹の信頼を得るようになったのです。
「マルコは変えられた。みんなが彼のことを尊敬するようになった」と聞いた時、パウロはいかに喜んだか、言葉で言い表わせないのではないでしょうか。
確かに、このマルコは救われていました。たぶん、ペテロを通して導かれたのではないでしょうか。そして彼はパウロの同労者となりました。けれども、「同労者として役に立たない者」になってしまったのです。パウロのこの判断は正しい、とマルコ自身が分かるようになり、パウロの態度こそ、本当の愛の現われだったと知るようになったのです。
パウロは、マルコについて「彼は役に立つ者だ」と言うようになりました。
テモテへの手紙・第二 4章11節
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マルコを伴って、いっしょに来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。 |
マルコは、本当の意味でのパウロの同労者となり、マルコの福音書の著者となったのです。このマルコの福音書により、どんなに多くの人々が救われ、イエス様のみもとに立ち返り、またどんなに多くの兄弟姉妹が、マルコの福音書によって祝福されてきたでしょう。
マルコは、主のみこころにかなう器に変えられたのです。一つになったパウロとマルコは何という美しい光景でありましょうか。
分裂の霊に対して、私たちは妥協のない態度を取るべきです。確かにパウロは、長い間、マルコのことについて考えた時、悲しかったでしょう。けれどこのマルコこそが、パウロにとって一つの苦い経験だったというよりも、主を賛美する源になったのです。
悔い改めたくない気持ち、自分は正しいと思う気持ち、あらゆる批判を赦したくないと思う気持ちこそが、悪魔の蒔いた種の結果であります。
マルコの悔い改めは本物でした。なぜならば彼は、喜んで自発的に、自分を強く責めたパウロの下で仕えるようになったからです。
マルコは、自分自身を否定することを学びました。「自分はどうでもいい」と思うようになったのです。だからこそ、彼は、福音書を書くために用いられる道具となったのです。
結局、彼はデマスと違って回復されたのです。
デマスは戻ったかどうか、回復されたかどうか、聖書は何にも言っていません。もちろん天国に行ったでしょう。けれども報いられませんでした。「私は、何という愚かな者だったのか」と思ったに違いないけれど、マルコは回復されました。
覚えるべきことは、「今までのことは過ぎ去っている」ということです。問題は「今から」です。間違った方向に行った兄弟姉妹たちも、悔い改めることができます。回復が欲しいと思えば。どういう罪があっても、主はいつも悔い改めの霊を注ごうと望んでおられます。
私たちの生活は、実を結ぶものなのでしょうか。へりくだれば、祝福され、回復され、豊かに恵まれるだけではなく、周りの人々にも祝福となることができるのです。
私たちは、デマスについて考えましたが、聖書は確かに彼の回復について、何も言っていません。回復されなかった可能性があります。失格者になった可能性があります。せっかく救われたのに、以前は祝福された奉仕をしたのに、横道にそれて行ってしまったのです。デマスは、主のみこころよりも自分の思いを大切にするようになってしまったのです。
また、マルコについても少し考えました。彼は、確かに臆病者で、苦しみたくない男でした。けれども、彼は主の恵みによって、みこころにかなう器になったのです。
この手紙を書いたパウロは、殉教の死を遂げる前に、まごころから言うことができたのです。
テモテへの手紙・第二 4章7節
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私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。 |
パウロは、悪霊に対して戦ったのであり、あらゆる偶像礼拝に対して、またあらゆる偽善に対して、命がけで戦ったのです。彼の告白は確かにすばらしいものです。何回も読んだ箇所ですけれども、すばらしい決心、また告白、証しです。
使徒の働き 20章24節
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けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。 |
「満たされた人生」とは、どういうものなのでしょうか。与えられた使命を知ること、そして、この使命を果たし終えることです。なぜならば、それによって、主が栄光をお受けになるからです。イエス様が中心になり、主が栄光をお受けになるなら、私たちも必ず満たされるようになります。すなわち、私たちの心は、主ご自身の喜び、主ご自身の平安、主ご自身の希望でもって満たされるのです。
ローマの刑務所の中で、パウロは次のように書いたのです。「キリストは、私のいのちです」と。結局、「イエス様は、私のすべてです。イエス様からもう離れられない」と。
イエス様こそが、パウロにとってすべてのすべてになったのです。「イエス様なしには、私はもう生活したくない。イエス様なしの生活は、まったく無意味でむなしい。イエス様に頼れば、助けられ、守られ、用いられる。イエス様に頼ると、安心して将来に向かうことができるだけではなく、希望を持って死ぬことができる」と、パウロは確信したのです。
「死ぬことは、自分にとって損ではない。益だ」と、パウロは言うことができたのです。なぜならば、イエス様と一緒になるからです。これこそ、最高なのではないでしょうか。イエス様と一緒になることは、想像できない栄光そのものです。
「死を通ってきたから、御国で私は考えられないほどの栄光にあずかり、永遠にわたって、私は罪人のかしらとしてイエス様を拝することができる」と、パウロは確信したのです。
パウロの著しい特徴は、「ただイエス様だけを喜ばせること」でした。イエス様に出会った時に、もうすでに彼は、「主よ。私は、これから何をしたらいいか分からないのです。お教えになってください」と、パウロは主のみ声に耳を傾けて、それに聞き従ったのです。
パウロは、生涯、主の指図通りに動いたのです。パウロは、誰が何と言おうと、「十字架の道」を選んだのです。「十字架の道」は、確かに「恥とそしりの道」です。
イエス様は、「十字架の死に至るまで従順であられた」とあります。釘がイエス様を十字架につけたのではありません。私たち一人一人に対するはかり知れない愛こそが、イエス様を十字架につけたのです。
私たちが十字架の敵であるか、あるいは十字架をいとわず、恥も死もいとわず、すべてを主にささげているか、イエス様は全部ご存知です。
パウロはローマの刑務所から、次のように書くことができたのであります。「私の主であるキリスト・イエス」と。かつて彼は、このイエス様のことが大嫌いでした。イエス様を信じる者を命がけで迫害したのです。
けれども、彼は変えられました。誇りをもって、喜びをもって、イエス様を「私の主」と言えるようになったのです。「私の助け手」だけではない。「私の主、キリスト・イエス」。
ピリピ人への手紙 3章8節
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私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。 |
私たちも、すべてを主にささげた同労者として、献身者として、自分の持っている考え、意思、感情、すべてを主にささげ、また、自分が当然持ってよいと思われる権利も、主にささげようではありませんか。これこそが、イエス様の死なれた一つの目的です。
コリント人への手紙・第二 5章15節
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キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。 |
自分のために生きる人は、必ず後悔します。失格者になるからです。
「私の代わりに死なれ、復活なさったイエス様のために生きたい」と望む者は、従う力も持つようになります。
了
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