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メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


捕えられた者として歩みましょう(7)
   
2004.4.27(火)
ベック兄メッセージ(メモ)

 
引用聖句
テモテへの手紙・第一 6章1節から21節
 くびきの下にある奴隷は、自分の主人を十分に尊敬すべき人だと考えなさい。それは神の御名と教えとがそしられないためです。信者である主人を持つ人は、主人が兄弟だからといって軽く見ず、むしろ、ますますよく仕えなさい。なぜなら、その良い奉仕から益を受けるのは信者であり、愛されている人だからです。あなたは、これらのことを教え、また勧めなさい。違ったことを教え、私たちの主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教えとに同意しない人がいるなら、その人は高慢になっており、何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことばの争いをしたりする病気にかかっているのです。そこから、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑りが生じ、また、知性が腐ってしまって真理を失った人々、すなわち敬虔を利得の手段と考えている人たちの間には、絶え間のない紛争が生じるのです。しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。しかし、神の人よ。あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。私は、すべてのものにいのちを与える神と、ポンテオ・ピラトに対してすばらしい告白をもってあかしされたキリスト・イエスとの御前で、あなたに命じます。私たちの主イエス・キリストの現われの時まで、あなたは命令を守り、傷のない、非難されるところのない者でありなさい。その現われを、神はご自分の良しとする時に示してくださいます。神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。また、人の益を計り、良い行ないに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。テモテよ。ゆだねられたものを守りなさい。そして、俗悪なむだ話、また、まちがって「霊知」と呼ばれる反対論を避けなさい。これを公然と主張したある人たちは、信仰からはずれてしまいました。恵みが、あなたがたとともにありますように。


 今日の題名は、『父親のような忠告』であります。
 イエス様の呼びかけは、いつも、「おいで。わたしのところに来なさい」ということでした。「わたしのところに来なさい。結果として、まことの喜びを知るようになり、心配から解放されるようになり、また、永遠のいのちを持つようになるから、安心して、将来に向かうことが出来ます」。
 誰でもありのままの状態で、イエス様のみもとに行くことが出来ます。けれど、いつまでもありのままの状態にとどまり続けることは許されません。使徒たちは、どうして手紙を書いたのでしょうか。結局、そのことのためなのです。救われた人たちが、成長しなければ、用いられなければ、主は悲しまれるのです。

一番大切なのは、とにかくイエス様のみもとに行くことです。つまり、イエス様を知るために、イエス様のみもとに行くことです。けれども、キリスト教を宗教の一種類として考えてイエス様のところに行くのではなく、イエス様を意識して救い主として受け入れるために、イエス様のみもとに行くことが必要です。
 イエス様を受け入れた人は救い主を持っているのであり、そして、救い主を持っている人は、言うまでもなく永遠のいのちを持っています。そして、永遠のいのちを持っている人は、永遠に救われています。悔い改める用意の出来ている罪人として、イエス様のみもとに来る人を、イエス様は必ず受け入れてくださいます。そして、イエス様によって受け入れられた人は、罪を赦され、神の子とされます。
 どうして、私たちは、今日のような集いを持つのでしょうか。「イエス様のみもとに来なさい」という福音を宣べ伝えるためです。
 ドイツに、次のような子どもの歌があります。「イエスのみもとに来なさい。イエスのみもとに来なさい。イエスのみもとに来なさい。今、ただちに、イエスのみもとに来なさい」。どなたか、瀬島兄に会ったら頼んでみてください。彼は暗記しています。ドイツ語で歌っているのです。確かに、簡単な歌ですけれど、これこそが問題の解決ではないでしょうか。

イエス様は、自由にしてくださいます。イエス様は、罪の赦しを提供しておられます。イエス様は、生き生きとした希望を与えようと望んでおられます。イエス様を通して初めて、内容ある人生と、はっきりとした目的を持った意味のある人生が、確立されます。
 イエス様のみもとに来るということは、救われることを意味しています。最初は、「私たちが何を手に入れることが出来るか」ということに重点が置かれます。例えば、「罪の赦し」、「まことの心の平安」、「まことの喜び」、「生き生きとした希望」などです。
 けれども、時代は、それからさらに進行しなければなりません。というのは、いつまでも元の状態にとどまることは許されないからです。即ち、イエス様を通して私たちがいただいたものは、確かに素晴らしいことですけれど、さらに、私たち自身が用いられなければならないのです。即ち、イエス様は、何を望んでおられるのでしょうか。「イエス様を喜ばせるためにどうしたらいいのでしょうか」と問うべきです。

パウロは、テモテに手紙を書いたのです。テモテは、パウロに、第二テモテ1章2節によると、「愛する子」と呼ばれ、また、第一テモテ1章2節によると、「信仰による真実のわが子」と呼ばれています。従って、テモテは、パウロの霊的な息子だったのです。彼は、パウロから福音を聞き、パウロによってイエス様に導かれたのです。パウロとテモテは、親子のようだったのです。
ピリピ人への手紙 2章22節を見ると、次のように書かれています。
 しかし、テモテのりっぱな働きぶりは、あなたがたの知っているところです。子が父に仕えるようにして、彼は私といっしょに福音に奉仕して来ました。

 この素晴らしい関係は、どのようにして生じたのでしょうか。テモテは、ルステラで生まれました。彼の父は、ギリシヤ人でした。そして、異邦人として偶像礼拝者であったことは確かです。けれども、テモテは、幼いころから主のみことばを聞き、しかも彼の祖母ロイスと、彼の母ユニケを通してみことばを聞きました。
テモテへの手紙・第二 1章5節を見ると、次のように書かれています。
 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
   私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています。

 パウロは、第一回の伝道旅行の間、ルステラを訪ねました。そして、当時若いテモテが、イエス様のものとなったことは確かです。7年後に、パウロは再びルステラにやって来ました。そして彼は、テモテが信仰によって成長し、ただ単にイエス様を救い主として心に受け入れただけではなく、主に従っていることを知りました。テモテについて一文章だけですけれど、次のように書かれています。
使徒の働き 16章2節
 ルステラとイコニオムとの兄弟たちの間で評判の良い人であった。

 結局、みな、気が付いたのです。「彼は、イエス様を心から愛しているし、自分のために何も欲しがらない。イエス様だけが中心になられれば、彼は喜ぶ」、そういう評判でした。
 テモテは、その後で、パウロの同労者となりました。彼は故郷を去り、パウロとともに町から町へと福音を宣べ伝えるようになったのです。霊的な息子が、同労者になりました。
 その内面的な結び付きは、ますます密接になったのです。パウロは、「テモテは信頼することが出来る」と認識したのです。ですから、彼は、テモテをある一定の同労の時の後、エペソに遣わし、そこで主に仕えるようにさせました。エペソの素晴らしい信じる者の群れの中で、彼は、主に仕えたのです。
 パウロは、テモテに次のように書いたのです。
テモテへの手紙・第一 6章11節、12節
 しかし、神の人よ。あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。

 この言葉は、テモテに対する、「父親のような忠告」であり、また、まことの愛の表現です。もちろん、この言葉は、テモテにだけ当てはまるのではなく、こんにち、私たち一人一人にも当てはまるものです。3つの点に分けて、少しだけ考えてみたいと思います。

1.「逃避への命令」についてです。「これらのことを避けなさい」とあります。
2.「従順への呼びかけ」。「熱心に求めなさい」とあります。
3.「戦いへの要請」。「戦いを勇敢に戦いなさい」とあります。
「避けなさい」。「求めなさい」。「戦いなさい」です。 

1. 「逃避への命令」について考えたいと思います。「これらのことを避けなさい」。
 ヤコブは、当時の信じる者に、次のように書いたことがあります。
ヤコブの手紙 4章7節
 悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。

「立ち向かいなさい」。このみことばを見ると、主に従うことの一面は、「対抗する」、「譲らない」ことです。しかし、もう一つの側面は、「避ける」ことです。この聖句においては、「避けなさい」と言われています。状況によって、「抵抗しなさい」と言われたり、「避けなさい」と言われます。
 内面的な成長のため、また、自分の安全のため、ここでパウロは、「避けなさい」という父親のような忠告を与えています。初めに、司会の兄弟がお読みになりました引用箇所の、第一テモテ6章4節から10節の中で、5つのことが挙げられています。それらに対して、テモテは、「避けなさい」と言われています。

@ その第一は、「誇り」です。
「誇り、うぬぼれ、おごり高ぶり、傲慢を避けなさい」。「誇り」は、「謙遜」の反対です。
イエス様について、聖書は何と言っているかといいますと、
ピリピ人への手紙 2章7節、8節
 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

 ご自分では何もなさらず、しもべの形をとられ、ご自分を無になさったことが、イエス様の特徴であったことが分かります。悪魔については、イエス様と正反対のことが記されています。
イザヤ書 14章13節、14節
「あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』」

 悪魔、即ち「暁の子」、「明けの明星」と呼ばれた者は、主によって高く上げられました。そして、彼は、自分自身でさらに高くなろうと試みました。悪魔は誇るようになりました。今の箇所の中で、何回も、「私、私、私」という言葉が出てきます。「光を運ぶ者」と呼ばれた悪魔は、高ぶりました。即ち、彼は、へりくだる覚悟を持たなくなりました。天においても、ただ謙遜な者だけが場所を持っています。自分自身で自らを高くする者は、低くされます。彼は、全然避け所を持っていません。というのは、主なる神は傲慢な者に抵抗なさるからです。ヤコブ書に、聖書全体の言わんとしていることが、簡単にまとめられ、書かれています。
ヤコブの手紙 4章6節
「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」

 自らを低くしたくないゆえに、主なる神が、恵みを与えることの出来ない者に対しては、ただ永遠のほろびだけがとどまります。「誇りを避けなさい」と、パウロはテモテに命令しました。
テモテへの手紙・第一 6章4節
 その人は高慢になっており、何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことばの争いをしたりする病気にかかっているのです。

「高慢になって」、「何一つ悟らず」、「病気にかかっている」という3つの事柄は、一つにまとめられ、あげられています。なぜでしょうか。傲慢な者は自分自身に対してめくらであり、それによって病気なのです。そういう人は、用いられ得ません。そして、悪魔は喜ぶのです。

A 「汚れ」です。
テモテへの手紙・第一 6章5節に、「知性が腐ってしまった」と書かれています。
 また、知性が腐ってしまって真理を失った人々、…

創世記の39章7節から13節までに、私たちは、エジプトの王に仕える侍従長ポティファルの妻についての記事を読むことが出来ます。彼女は知性の腐った婦人でした。彼女は、汚れと情欲とによって支配されたのです。ヨセフは、彼女の誘惑に抵抗しても無駄だということが分かったから、逃げました。距離を置くことは、ここでは最善の助けです。

アブラハムの甥であるロトは、ソドムの誘惑に抵抗しようとしましたけれど、「日々彼の魂は、彼が見たこと聞いたことを通して悩まされた」と聖書は言っています。
ペテロの手紙・第二 2章8節
 というのは、この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行ないを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。

とあります。「この義人」とは、ロトです。初め、ロトは、「抵抗出来る」と思っていましたが、そういう訳にはいきませんでした。彼は、主が、「彼の安全は逃げることにある」と彼にお語りになるまで、言葉に言い表わせないほど苦しみました。
創世記の19章を見ると、やはり、「逃げなさい。逃げなさい」とあります。
創世記 19章17節から19節
 彼らを外のほうに連れ出したとき、そのひとりは言った。「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう。」ロトは彼らに言った。「主よ。どうか、そんなことになりませんように。ご覧ください。このしもべはあなたの心にかない、あなたは私のいのちを救って大きな恵みを与えてくださいました。しかし、私は、山に逃げることができません。わざわいが追いついて、たぶん私は死ぬでしょう。」

 ここで2回、「いのちがけで逃げなさい」とあります。「あらゆる不純な思い、あらゆる不純な言葉、あらゆる不純な行ないを避けなさい」と、パウロはテモテに書いたのです。

主の恵みにより、私たちは、子羊である主イエス様の血潮で洗いきよめられましたけれど、目を覚ましていることは、どうしても必要です。悪魔はあらゆる手段と方法を用いて、私たちを駄目にしようと誘惑します。
創世記 39章12節
 それで彼女はヨセフの上着をつかんで、「私と寝ておくれ。」と言った。しかしヨセフはその上着を彼女の手に残し、逃げて外へ出た。

 ヨセフは妥協しないで逃げました。彼は上着を失いましたが、良心を保ちました。人間的に考えるなら、彼は多くのものを失いました。即ち、彼は地位を失い、牢獄に入れられたのです。2年間、刑務所の中で過ごすようになったのです。

B 「不満足」です。
 テモテへの手紙・第一 6章8節
 衣食があれば、それで満足すべきです。

と書かれています。
イスラエルの民について、私たちは、次のように読むことが出来ます。
民数記 11章1節 
 さて、民はひどく不平を鳴らして主につぶやいた。主はこれを聞いて怒りを燃やし、主の火が彼らに向かって燃え上がり、宿営の端をなめ尽くした。

とあります。民がひどく不平を鳴らしたことを、ここで読むことが出来ます。
イスラエルの民は、主の奇蹟的なみわざによって自由を得ました。エジプトの奴隷の状態から解放され、彼らは雲の柱、火の柱について行きました。けれども、これらの信者たちと、救われた人たちは、「不平を鳴らした」とあります。彼らは不満でした。不平を鳴らす者は、主を見失います。不平を鳴らす者は、それによって意識的に、或いは無意識に主ご自身に文句を言います。はっきりとした態度をとるべきです。だからパウロは、「不満を避けなさい」と書いたのです。パウロは刑務所の中で書いたのです。
ピリピ人への手紙 4章11節
 私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。

と書いたのです。パウロは、どうしてここで、「学んだ」という言葉を使ったのでしょうか。なぜなら、人はそれを生まれつき持ってはいないからです。いろいろなつらいことを通して、そのことを学ぶようになります。

C 「愚かで有害な多くの欲」も避けるべきであります。
 最初に読んでいただきました引用箇所です。
テモテへの手紙・第一 6章9節
 金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。

とあります。そのうちの多くのものは、良いものです。けれど、また、いくつかのものは、悪いものです。ここで、パウロは、「愚かな欲」が存在する可能性について書いています。それによって支配されてしまう人は、次第に苦しみます。
 聖霊は、あらゆる信者のうちに住んでいます。そして、大切なことは、御霊が私たちを支配し、決定することが出来ることです。聖霊の支配にないすべての欲は、私たちを損なうことになります。ですから、私たちはそれを避け、逃げなければなりません。

D 「金銭欲」です。
 最初に読みました引用箇所です。
テモテへの手紙・第一 6章10節
 金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。

 金銭は、祝福になり得ますが、呪いとしても作用します。金銭に対する私たちの態度は、決定的に重要です。私たちが持っているすべてのものは、自分の自由には出来ません。それは、委託された財産に過ぎないからです。多くの人は、「収入の十分の一が捧げられなくてはならない」と言います。旧約聖書の時代においては、確かにそうでした。けれども、新約聖書においては、主が十分の一では満足なさらず、すべてを意のままになさりたいと明言されています。もちろん、言うまでもなく、主は人間の金を必要とされません。欲しいと思われません。心の態度が問題なのです。即ち、「主よ。私はどうしたらいいのでしょうか」。この態度で、私たちは、瞬間、瞬間、主の前に立つべきです。
聖書の中で、私たちは、信じる者が金持ちになってはいけないということを、どこにも読み取ることが出来ません。
 アリマタヤのヨセフという男は、金持ちでした。だから、彼は、イエス様がみすぼらしく葬られることのないようにすることが出来たのです。彼は、自分のために造った素晴らしい墓を、イエス様のために提供したのです。
 バルナバという男も、金持ちでした。彼が土地を売りましたので、「困る人たちは誰もいなかった」と、使徒の働きにあります。
使徒の働き 4章34節  
 彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、…

とあります。
 また、信仰の父と呼ばれているアブラハムは、確かに、主の友とも呼ばれました。そして、彼について、聖書は、「彼が豊かであった」と言っています。
創世記 13章2節
 アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた。

 大金持ちでした。主は、信者が豊かであってはならないと、言ってはおられませんけれども、金銭愛そのものは決して良くないと明言されています。
 金銭欲に負けてしまった若者について、先週少し話したのですけれども、もう一度読みます。
エリシャのしもべであるゲハジについてです。
列王記・第二 5章20節
 そのとき、神の人エリシャに仕える若い者ゲハジはこう考えた。「なんとしたことか。私の主人は、あのアラム人ナアマンが持って来た物を受け取ろうとはしなかった。主は生きておられる。私は彼のあとを追いかけて行き、必ず何かをもらって来よう。」

結果は大変でした。
列王記・第二 5章27節
「ナアマンのらい病は、いつまでもあなたとあなたの子孫とにまといつく。」彼は、エリシャの前から、らい病にかかって雪のように白くなって、出て来た。

 おそらく、彼は戻らなかったでしょう。回復されなかったでしょう。預言者エリシャは、ナアマンの富を意識して拒みました。けれども、彼の召使いゲハジは、それをどうしても欲しがりました。ゲハジは富を愛しました。聖書はゲハジが嘘をつき、それによって金持ちになったことを確かに示しています。けれど、結果として、彼はらい病人になってしまったのです。彼は、前に読みましたみことばを経験しなければなりませんでした。即ち、
テモテへの手紙・第一 6章10節
 金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。

 主よりも富を愛する者は信仰から外れてしまいます。その人が、もはや主と結びついていないからです。金銭愛は、非常に大きな危険です。ですから、「金銭愛を避けなさい」という明白な命令がなされているのです。この命令は、真剣に受けとめなければなりません。

ここまで、私たちは、「逃避への命令」、即ち、「これらのことを避けなさい」というみことばを見てきました。


2.「従順への呼びかけ」を見てみることにしましょう。「熱心に求めなさい」。
 私たちは、パウロがテモテといかに親しい関係を持っていたかを見てきました。ひとことで言うと、彼らは心から愛し合っていたのです。この愛の表現は、「逃避への命令」でした。「誇り、不純、不満、愚かで有害な欲、そして、金銭欲を避けなさい」。さらに、この愛の表現は、「服従への呼びかけ」でもありました。
パウロの「父親のような忠告」は、6種類の忠告です。

@ 「義」を熱心に求めなさい。
テモテへの手紙・第一 6章11節
 あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。

 ここで、「義」、或いは、「正しさ」という言葉は、「正直」という意味を持っています。私たちは、正直でしょうか。純粋でしょうか。私たちの動機はきよいでしょうか。私たちの家族、親戚、友人、主にある兄弟姉妹との関係は、いったいどうなのでしょうか。
 イエス様は、私たちがどんな代価を払っても、「正直であること」を望んでおられます。

A 「敬虔」を熱心に求めなさい。
 即ち、大切なことは、主イエス様に似た者となることです。主の目標は、私たちが主の手によって造り変えられることです。頭の知識や、努力や、奉仕よりも、はるかに大切なことは、私たちが自分自身から解放され、主イエス様が、私たちのうちで形をとることがお出来になることです。

B 「信仰」を熱心に求めなさい。
 主イエス様が、私たちに期待しておられるものは、素直な信頼です。主イエス様に信頼する者は信頼されます。信仰と忠実は、お互いに切り離すことが出来ないからです。忠実な人は、信頼されます。イエス様は、私たちを信頼することがお出来になるのでしょうか。主にある兄弟姉妹は、本当に私たちを信頼出来るのでしょうか。私たちは約束を守ることが出来るのでしょうか。旧約聖書の中に短い文章があります。
列王記・第二 12章15節
 彼らが忠実に働いていたからである。

 これは、私たちについても言うことが出来るのでしょうか。

C 「愛」を熱心に求めなさい。
 お互いの愛は、キリスト者の間違うことのない特徴でなければなりません。愛はお互いに共存しているところで、またお互いの時を持つところで、またお互いに苦しみをともにするところで、またお互いに祈り合うところで現われます。
 初代教会について、またイエス様の言われたことについて、次のようにあります。
ヨハネによる福音書 13章34節、35節
「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」

D 「忍耐」を熱心に求めなさい。
 忍耐は、私たちが生まれつき持っているものではありません。主イエス様が、私たちの生活の中に入り込んでくださる時、私たちは、喜びとイエス様のために生きる熱心さとで満たされます。けれど、誘惑や試練や迫害がやってくると、また人が私たちから退いてしまったり、人に誤解されたりすると、多くの人は勇気を失います。ぺっちゃんこになってしまいます。
 今、多くのことをどのような試練の中で経験しなければならないか、私は分かりませんけれど、押し潰されないでください。すべてのことを、忍耐をもって耐え忍んでください。ヤコブは、次のように、当時の信じる者を励ましたのです。
ヤコブの手紙 1章12節
 試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。

E 「柔和」を熱心に求めなさい。
柔和とは弱さである、と思っている人がいますけれど、またそれは、この世の考えであるかもしれませんけれど、主のみことばは、「柔和とは、主イエス様に似た性質である」と言っています。よく知られている箇所です。
マタイによる福音書 11章29節
「わたしは心優しく、へりくだっている…」

とイエス様は言われたのです。イエス様は、ご自分について、このように言うことがお出来になったのですけれども、私たちは誰一人、自分について、イエス様と同じように言うことは絶対に出来ません。生まれつき持っていないからです。それではどうして私たちは柔和になれるのでしょうか。それは、一朝一夕に出来るものではありません。ひとつの、発展段階です。そのことについて、イエス様は次のように言われました。
ルカによる福音書 9章23節
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」

「日々」と書いてあるので、毎日の戦いです。「自分を捨てる」ということは、自分の欲に対して明白な否定をすることです。そして、イエス様がすべてのことにおいて優先されることに対して、意識的に肯定することを意味します。イエス様は、私たちの身代わりとして十字架で死んでくださいましたけれど、イエス様の柔和が、私たちの生活の中に明らかになると、イエス様は、私たちの身代わりとして、私たちのうちに生きてくださいます。
パウロは、そのことを書いたのです。
ガラテヤ人への手紙 2章20節
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」

「もはや私ではない」。これこそ、主に従うことの目標です。「私ではなくイエス様」です。「イエス様が盛んになり、私は衰える」、これこそが、主に従う者の特徴です。


3.最後に、「戦いへの要請」について、少し考えたいと思います。
 「戦いを勇敢に戦いなさい」とパウロはテモテに書いたのです。信仰者の生活は、「戦いの生活」です。パウロは、この戦いを次のように書き記しています。よく読まれる箇所ですけれど、いつも覚えるべき箇所です。
エペソ人への手紙 6章12節
 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

「血肉に対する」とは、即ち、「人間に対する」ということです。
エペソ人への手紙 6章11節
 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。

とあります。たとえ敵が兄弟であっても、私たちは恐れる必要がありません。というのは、主イエス様が、私たちに武具を提供してくださるからです。私たちがしなければならないことは、既に悪魔を征服された主に単純に従うことです。私たちが妥協しないで主に従うなら、主のご臨在と主の勝利とを期待することが出来るのです。主イエス様は、ご自分に属する者を決してお見捨てになりません。

テモテは、一つの戦いに巻き込まれました。そこで、3つの事柄について少しだけ考えて、終わりたいと思います。
@「戦いの目標」とは、何でしょうか。
 A「戦いに召し出されたこと」とは、いったいどういうことなのでしょうか。
 B「戦いの報い」とは、いったい何でしょうか

@ 「戦いの目標」は、何でしょうか。
 それは、信仰の戦いであることは言うまでもありません。主イエス様は、それを次のような言葉で述べられました。「御国が来ますように」。即ち、イエス様のご支配が明らかになるべきです。悪魔が、「勝利を治めることが出来る」と思っているところにおいてです。 
人間によって引き起こされる戦争は、それが聖戦と呼ばれるものであったとしても、すべては悪魔によって吹き込まれ、悪魔の支配を広めるために役立っているものです。どれほど多くの心と家族の中で、悪魔が勝利を治めているのでありましょうか。けれど、私たちは、信じる者として戦いを要請されています。というのは、イエス様の勝利が明らかになるべきだからです。パウロはテモテに書いたのです。
テモテへの手紙・第二 2章3節
 キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。

と書いたのです。私たちが、主イエス様に服従し、主イエス様に従い、主イエス様によって導いていただくなら、勝利は確実です。私たちは、主の勝利が人間の生活の中に入ってくることを経験します。ですからパウロは、いろいろなことで悩んでいるコリントの兄弟姉妹に書いたのです。
コリント人への手紙・第一 15章57節
 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。

A 「戦いに召し出されたこと」とは、いったいどういうことなのでしょうか。
テモテへの手紙・第一 6章12節
 信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、…

とあります。救われることによって、信じる者は戦いに召し出された者となります。もちろん、主は誰をも強制なさいません。けれど、この戦いを知らない者の生活は、妥協だらけの生活です。そしてまた、満たされていない生活です。テモテは、戦いに召し出されただけではなく、主の兵士として戦う者となりました。人生の終わりに至るまで、テモテは、主イエス様の忠実な兵士でした。戦いとは何でしょうか。
12節においては、次のことが指摘されています。
テモテへの手紙・第一 6章12節
 多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。

と書いてあります。テモテは主イエス様を告白する証し人でした。テモテは主イエス様を指し示しました。テモテにとって大切だったことは、主イエス様がすべての事柄において最優先されることでした。

B 「戦いの報い」とは、いったい何でしょうか。
 テモテへの手紙・第一 6章12節
 永遠のいのちを獲得しなさい。

「獲得する」とは、動くことなく、しっかりと持ち続けることを意味します。
「永遠のいのち」とは、主イエス様です。
 新しく生まれることによって、私たちは、共通に主イエス様を知るだけではなく、共通に主イエス様とともに生活すること、生きることが許されています。そして、この共通の生活は、死で終わらず、永遠に、私たちは主イエス様とともにいることが許されるのです。私たちが、このことをしたり、あのことをしなかったりするからではなく、しっかりと、主イエス様にしがみつくから、報われるのです。さもなければ、私たちは失格者になってしまいます。イエス様にしがみついている者は、イエス様が忠実であられ、忠実であり続けてくださることを経験します。
ヘブル人への手紙 10章23節、24節
 約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。

色旧約聖書に出てくる人物に、エサウがいます。ヤコブの兄でした。彼は、長子の権利を持ち続けようとしなかったのです。彼は戦いに召し出されましたが、戦いに加わりませんでした。彼は、結局、自分のことだけを考え、報われなかったのです。彼は私たちすべての者に対しての深刻な、重大な警告です。
 私たちは、この信仰の戦いを戦いぬく覚悟であれば、本当に幸いです。この信仰の戦いは、私たちが顔と顔とを合わせて、主イエス様にまみえる時に終わります。


信仰の人として、私たちは、テモテのような態度を取るべきです。テモテは、パウロの「父親のような忠告」を受けました。
即ち、
・「逃避への命令」を受けただけではなく、誇り、汚れ、不満、有害な欲、金銭欲を避けたのです。
・「従順への呼びかけ」を聞いただけではなく、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めました。
・「戦いへの要請」を受けただけではなく、目標を目指し、戦いに参加し、報いを受けたのです。

私たちも同じ態度を取るなら、本当に幸いだと思います。





                                  了



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更新履歴


メッセージ・証し集インデックスページ

◆メッセージ(ベック兄)

※一部、テープの転換による不明部分あり

神のみことばは神のみことばである(5) 2006. 4. 18
神のみことばは神のみことばである(4) 2006. 4. 11
神のみことばは神のみことばである(3) 2006. 4. 4
神のみことばは神のみことばである(2) 2006. 3. 21
家族の救い 2006. 3. 19
神のみことばは神のみことばである(1) 2006. 3. 14
主イエスは神の子キリストである(4) 2006. 3. 7
主イエスは神の子キリストである(3) 2006. 2. 28
主イエスは神の子キリストである(2) 2006. 2. 14
主イエスは神の子キリストである(1) 2006. 2. 7
勝利の生活の秘訣 2006. 1. 24
イエス・キリストのからだ 2006. 1. 17
主の永遠からの予定 2006. 1. 10
元旦メッセージ 2006. 1. 1


2005年度のメッセージ集
2004年度のメッセージ集
2003年度のメッセージ集