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メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


イスラエルの民
   
2004.5.11(火)
ベック兄メッセージ(メモ)

 
引用聖句
出エジプト記 1章8節から16節
 さて、ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こった。彼は民に言った。「見よ。イスラエルの民は、われわれよりも多く、また強い。さあ、彼らを賢く取り扱おう。彼らが多くなり、いざ戦いというときに、敵側についてわれわれと戦い、この地から出て行くといけないから。」そこで、彼らを苦役で苦しめるために、彼らの上に労務の係長を置き、パロのために倉庫の町ピトムとラメセスを建てた。しかし苦しめれば苦しめるほど、この民はますますふえ広がったので、人々はイスラエル人を恐れた。それでエジプトはイスラエル人に過酷な労働を課し、粘土やれんがの激しい労働や、畑のあらゆる労働など、すべて、彼らに課する過酷な労働で、彼らの生活を苦しめた。また、エジプトの王は、ヘブル人の助産婦たちに言った。そのひとりの名はシフラ、もうひとりの名はプアであった。彼は言った。「ヘブル人の女に分娩させるとき、産み台の上を見て、もしも男の子なら、それを殺さなければならない。女の子なら、生かしておくのだ。」



先々週でしたか、テモテについて、一緒に考えてまいりました。パウロは、救われた人々の成長のために、非常に心配したのです。テモテのことも、彼の祈りの対象だったのではないかと思います。パウロは、彼に次のように書いたのです。「キリスト・イエスの立派な兵士として、私と苦しみをともにしてください。一緒に苦しみましょう」と。

今朝も、ある姉妹は、「お見舞いに行きたいけれど、何を話したらいいのでしょうか」と聞かれました。誰でもが持っている問題ではないかと思いますけれども、結局、「私は何か話さなくてはいけない。何か教えなくてはいけない」という考え方は、ちょっと違います。相手の人は、本当の意味で、備えられている魂かどうか分からないでしょう。ですから、「一度、やはり、あなたとともに悩みたい。この本を読んだけれど、私にとても良かった。もしかすると、あなたのためにもちょっと励ましになるかもしれません」と、それで十分かもしれません。結局、祈りによって、主は働いて、人間の心を開いてくださいます。

パウロは、「私と苦しみをともにしてください。苦しむことがなければ問題ではないのでしょうか」「あなたは召された信仰の戦いを勇敢に戦いなさい」と、テモテに書いたのです。
救われることによって、信じる者は、「戦いに召し出された者」となります。もちろん、主は誰も強制なさいません。「わたしに従いたいと思えばどうぞ。従いたくなければ、結構です」。けれども、この戦いを知らない者の生活は、妥協だらけの生活であり、満たされていない生活であり、実を結ばない生活です。

テモテは、戦いに召し出されただけではなく、主の兵士として、戦う者となりました。人生の終わりに至るまで、彼はイエス様の忠実な兵士でした。パウロにとって本当に喜びの種だったのです。
パウロとテモテは、父親と息子のような関係だったのです。テモテは、父親のような、パウロの忠告を受けたのです。
すなわち、この間考えたように、
・「逃避への命令」を受けただけではなく、誇り、汚れ、不満、有害な欲、金銭欲を避けたのです。
・また、「従順への呼びかけ」をも、テモテは聞いただけではなく、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めました。
・もうひとつ、「戦いへの要請」を、テモテは受けただけではなく、目標を目指し、戦いに参加し、報いを受けるようになったのです。これは決して当たり前のことではありません。

使徒たちの書いた手紙の中で、強調されているのは、「主に従うことは大変です。ひとつの戦いです。けれども私たちの戦いとは、決してこの目に見える世界に対する、すなわち人間に対する戦いではなく、悪霊に対する戦いです」ということです。
  
黙示録の中で、高く引き上げられたイエス様は、この地上で悩んでいた、苦しんでいた兄弟姉妹に、全部で七つの手紙を送られたということが分かります。
最後の教会は、いわゆるラオデキヤの教会でした。このラオデキヤの教会は、終わりの時代における教会なのです。すなわち、「イエス様は教会の外に立っておられた。けれども、この教会を諦めてしまわれることはなく、愛をもって、この教会に呼びかけておられる」と書いてあります。このラオデキヤの教会は、曖昧な教会でした。すなわち、この世の人々から認められることを求めて、みことばの、御霊の声に、聞き従おうとしなかったのです。これは結局、「キリストなしの教会」、「中心のない形だけの教会」でした。

「末の世の教会の特徴」は、次のようなものです。
すなわち、聖書の真理に関しては、人は、自分の好きなような解釈をすればよいと思ってしまうのです。聖書が何を言っているかということではなくて、自分またほかの人々がどのように考え、どのように決定するかが大切である、となってしまいます。

ラオデキヤの教会はどういうものであったかと言いますと、「効き目のない塩」となってしまったのです。結局、役に立たない、用いられない器になってしまったのです。
イエス様は、真実なる、忠実なる証人であられますから、ラオデキヤの教会の状態を、よく知っておられたのです。
黙示録 3章の15節を見ると、次のように書かれています。
「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」

聖書の中でよく、「あなたの父は知っている」、「わたしは知っている」ということばが出てきます。もちろん、主にとって知られていないことはありません。
このラオデキヤの教会に対して、主は何を言われたかと言いますと、「確かに、わたしがしていることをあなたがたは知らない。あなたのところにあるものは、すべてが見せかけであり、真実なものは一つもない」。「あなたがたの富は見せかけのものであり、実際にはあなたがたは貧しい」。「あなたがたが着物を着ても、何の役にも立たない。なぜなら、あなたはわたしの前にまったく裸であり、あなたの裸はわたしの目に明らかであるからです」。「あなたが見えるというのは、誤りです。実際、完全な目くらです」と、主は当時の教会に言わざるを得なかったのです。悲劇的なのではないでしょうか。


今、司会の兄弟がお読みになりました箇所の中で、イスラエルの歴史について書かれています。旧約聖書には、創世記の12章からマラキ書まで、イスラエルについて書かれています。今の時代について、いわゆる教会の時代について、ひとことも書いてないのです。けれども、やはり、イスラエルの歴史について考えることは、非常に大切です。なぜなら、「旧約聖書はどうして残されているか」と言いますと、ユダヤ人のためだけではなく、私たちのためでもあります。モーセの後継ぎだったヨシュアは、次のようにイスラエルの民に言ったのです。
ヨシュア記 13章の1節。
「あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている。」

結局、全地でなければ、すなわち、提供されているものを自分のものにしなければ、主は満足されません。一文章だけですけれども、次のように書かれています。私たちにも、当てはまることばではないでしょうか。
歴代誌・第二 25章9節
「主はそれよりも多くのものをあなたに与えることがおできになります。」

主は、「もっともっと与えたい。もっともっと祝福したい。用いよう」と望んでおられます。過去を振り返ってみて、自分の体験したことを語り合い、考えることは、確かに意味あることです。日本では、年末になると、新しい出発をするために、会社などでよく忘年会が行なわれますけれど、このようなものは、本当は何の役にも立たないのではないでしょうか。過去を忘れることが大切なのではありません。私たち自身のことを、真剣に反省することこそ、しなければならないことです。

昨日、ある兄弟の入院された病院に行きました。彼は、高校生のときだったでしょう。オートバイ事故で足が折れ、ばい菌が入って大変な状態だったのです。そして去年12月に、階段から落ちて、また同じ足が折れてしまい、5ヶ月も入院しています。いつ退院できるのか、そしてよくなるのかどうかも、まったく分からないのです。何週間か前に、彼から電話があって、昨日会うことが出来たときには、本当に嬉しかったのです。
彼は、「悔い改める恵みにあずかるようになりました。私のイエス様に対する愛は足りなかったのです」と言われたのです。誰でも言うべきではないでしょうか。「もう、やっぱり私はダメなのです」と。けれども、もちろん、彼はそれだけではなく、「イエス様はお捨てにならない。告白した、明るみに出された罪はもう罪ではない。イエス様は赦してくださり、忘れてくださる」と言われたのです。

結局、過ぎ去ったことは過ぎ去った。「今から」です。過去について考えると、「私には悔い改めがあまりなかった」、「滅びに向かって歩んでいる人々に対するあわれみの涙、私たちを取り囲んでいる、失われている魂に対する燃える愛が足りなかった」、「私は持っているものすべてを主にささげていなかった」、「良からぬものから離れることも、あまり、なされていなかった」と、誰でも言わざるを得ないのではないでしょうか。


イエス様は、全く新しいリバイバルを起こそうと思っておられます。リバイバルとは、前に話したように、「新しく目覚めたいのち」のことです。新しく目覚めたと言うことは、、その前にすでにいのちがあるはずです。ですから、いわゆるリバイバルとは、信じる者の間だけで起こるものです。未信者は目覚めるにもいのちを持っていませんから、新しく目覚めることは出来ません。もしイエス様が、私たちの過ち、わがまま、罪を示されるなら、そのとき、リバイバルが起こります。それから、主は偉大な力をもって未信者の方々に、働きかけるようになられます。

私たちの主は、「恵もう、もっともっと与えよう」と望んでおられます。その条件とは、何なのでしょうか。
イエス様は、山上の垂訓の中で、「心の貧しい者は幸いです」と言われました。ペテロも、ヤコブも、何回も同じことを引用したのです。
ペテロの手紙・第一 5章5節。
 神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。


ここで、「未信者」と書いていません。「神は高ぶる未信者に敵対し」、と書いてないのです。救われていても、傲慢があれば、高ぶりがあれば、主は知らん顔をされます。用いられません。


前に話したように、イスラエルの歴史は、本当に奇跡の歴史と言ってもいいでしょう。ですから、このイスラエルの民の過去、イスラエルの民の現在、イスラエルの民の未来について考えると、やはりいろいろなことを教えられるのではないかと思います。
エジプトでのイスラエルの民について、前に読まれました箇所の中で書かれています。
出エジプト記 1章の13節、14節。
「それでエジプトはイスラエル人に過酷な労働を課し、粘土やれんがの激しい労働や、畑のあらゆる労働など、すべて、彼らに課する過酷な労働で、彼らの生活を苦しめた。

とあります。
イスラエルの民は、エジプトの奴隷となっていました。彼らの毎日は奴隷の仕事でした。それは、パロの奴隷としての、実に苦しい生活だったのです。イスラエルの民は、当時、パロのむごい支配のもとで、ため息をつき、押さえつけられていたのです。パロは、イスラエルの民に男の子が産まれるとすぐに殺しました。パロはイスラエルの民を奴隷として酷使し、やがては滅ぼそうと考えたのです。エジプトの支配下のイスラエルの民は、奴隷であり、貧乏であり、苦しみと死のありさまでした。

イスラエルの民は、主の御前に罪を犯しました。イスラエルの民はパロに縛り付けられていました。イスラエルの民は、主との交わりが不可能になってしまったのです。「主のさばきはすぐに来る」と言われたのです。主のさばきは、「すべての初子は死ななければならない」というさばきでした。
死は、罪の報酬です。罪のあるところにさばきがあり、死があります。主は聖なるお方であり、罪を耐え忍ぶことがお出来になりません。この聖なる主は、同時に愛のかたまりです。すなわち、主は、罪人の死を望んではおられません。罪人を救い、解放し、新しくすることを望んでおられます。
主のみこころは、さばきから免れることです。主のみこころは、イスラエルの民がパロの奴隷から解放されることでした。それだけではなく、主のみこころは、ご自身の民が、新しい民としてエジプトから導き出されることだったのです。ですから、罪は覆い隠されなければならなかったのです。鎖が断ち切られなければなりませんでした。イスラエルの民は、新しくならなければならなかったのです。
出エジプト記 12章の5節から8節
 あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る。そしてイスラエルの民の全集会は集まって、夕暮れにそれをほふり、その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。その夜、その肉を食べる。すなわち、それを火に焼いて、種を入れないパンと苦菜を添えて食べなければならない。

12節、13節
 その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしは主である。あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。

28節から30節
 こうしてイスラエル人は行って、行なった。主がモーセとアロンに命じられたとおりに行なった。真夜中になって、主はエジプトの地のすべての初子を、王座に着くパロの初子から、地下牢にいる捕虜の初子に至るまで、また、すべての家畜の初子をも打たれた。それで、その夜、パロやその家臣および全エジプトが起き上がった。そして、エジプトには激しい泣き叫びが起こった。それは死人のない家がなかったからである。

主は、さばきを告げ知らされました。けれども、一つの救われる逃れ道がありました。しみのない、傷のない小羊が殺されることです。そしてこの小羊の血を家の柱と、かもいに塗るのです。イスラエルの民全部は、この救いの道を知っていました。エジプト人も、この救いの道を聞き、知っていました。けれど、エジプト人は、主から与えられた救いの道を拒みました。
恐るべきさばきの夜がやってきました。主は、国を通って行かれ、家々では、誰かが死にました。エジプトの家々では初子が死にました。けれどイスラエルの家々では、誰も殺されず、ただ、子羊が代わりに葬られただけでした。
この子羊は、救い主なる神によって定められた身代わりなのです。子羊は、イスラエルの民の身代わりに死にました。柱に塗られた血は、もうすでに、そこに死の備えがあり、罪が覆われていることの証拠です。エジプト人は子羊を殺しませんでしたから、さばきにあったのです。イスラエルの民は、救いの道を選びました。子羊の血が彼らをさばきから守ったのです。子羊の血が、刑罰から守ったのです。

レビ記 17章11節。血の大切さについて、次のように書かれています。
 なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。

旧約聖書の中で、もっとも大切な箇所の一つなのです。この箇所は、私たちに、「いのちは血のうちにある」と教えています。ですから、血はいのちと同じです。もし、血を取るなら、必ず死にます。血を流すことは、いのちを犠牲にすることです。
イスラエルの民は、パロの所有物でした。もし奴隷が自由になろうとするなら、あてがいを、身代金を、払わなければなりません。主はご自身のために、その釈放金をお与えになったのです。この釈放金は子羊の血です。
子羊の血が流され、初子は殺されませんでした。初子は、主によって贖われたのです。初子は、主の所有物になったのです。初子は、イスラエルの全国民の身代わりです。ですから、全国民は主に属しています。主のものです。イスラエルの民は、主によって、パロから贖い出されました。罪は、子羊の血によって償われました。鎖は、血によって解かれました。民は新しくされました。何によってでしょうか。全国民は、血を流した子羊の肉を食べました。それによって、イスラエルの民はエジプトから解き放たれ、主に従う力を得たのです。

私たちの以前の生活はどのようなものだったのでしょうか。パウロは、ローマ書の中で、次のように答えています。
ローマ人への手紙 6章17、18節
 神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。

17節に「罪の奴隷」、18節に「義の奴隷」という表現が使われています。
私たちの過去は、何というひどい状態だったことでしょう。生まれながらの人はみな、その状態にあります。

ここにもっとも大切な問いがあります。すなわち、
生まれながらの人の、主なる神に対する「立場」、「関係」、及び「状態」は、どうなって
いるのでしょうか。

1.主に対する生まれながらの人の「立場」について、聖書は何と言っているのでしょうか。
すなわち、生まれながらの人は、すべて例外なく、
・生きておられるまことの神を、知らない。
・生きておられるまことの神に、感謝しない。
・生きておられるまことの神を、愛さない。
・生きておられるまことの神を、信じない。
・生きておられるまことの神を、畏れない。
・生きておられるまことの神を、ほめたたえない。真理に歯向かう。
・生きておられるまことの神を、知ろうとしない。真理を信じない。
・生きておられるまことの神の福音に、従わない。
・生きておられるまことの神の、敵である。
ということが、聖書によると明らかになります。生まれながらの人間の、主なる神に対する立場とはそういうものです。

2.生まれながらの人の、生きておられるまことの神との「関係」とはいったいどういうものなのでしょうか。聖書の答えは次のようなものです。
すなわち、生まれながらの人はみな、例外なく、
・生きておられるまことの神から、遠ざかっている。
・生きておられるまことの神の前に、罪がある。
・生きておられるまことの神によって、さばかれている。
・生きておられるまことの神の怒りのもとに、いる。
・生きておられるまことの神のいのちから、遠く離れている。
この世の中で主なる神のない者であり、未来においても神のない者です。これらのこと
が、聖書によって明らかにされます。

3.生まれながらの人間の、生きておられるまことの主に対する「状態」とはいったいどういうものなのでしょうか。聖書の答えは次のようなものです。
・生まれながらの人間は、主イエス様を救い主として持っていませんし、また、主として考えていません。だから、生まれながらの人間は、自分自身の生き方をしているのです。
・生まれながらの人間の性質は、罪に汚れています。ですから、その人の行なうことも罪にまみれています。
・生まれながらの人間は、主に対して死んでおり、罪と自分と悪魔に対しては、生きています。
・生まれながらの人間は、悪魔の力の中にいるのであり、結局、前に読みましたように、罪の奴隷です。
・生まれながらの人間は、救いと希望から見失われています。この悲しい状態は、悪魔は生まれ変わっていない人の思いを拒まないので、したがって、その人が自分の危険を知らないというところにあります。ですから、この生まれながらの人間は、主なる神を認め、愛し、つかみ、求めようとしません。

私たちは、今、生まれながらの人間の、「立場」、「関係」、そして「状態」を見てきました。その中に自分の姿を認めたのでしょうか。今まで、このような状態を認めたことがあるのでしょうか。もし今までに認めたことがなかったなら、それは、悪魔が自分の目をくらませていたからです。もし、そのような状態のもとにいるのでしたら、その人は、「永遠のいのちを持っておらず、主の怒りのもとにいる」と聖書は言っているのです。


イスラエルの民は、生きておられるまことの神の御前に罪を犯したのです。イスラエルの民は、結果としてパロに縛りつけられていたのです。イスラエルの民は、主との交わりが不可能になってしまったのです。私たちは、主イエス様を受け入れているなら、私たちの罪はおおわれ、悪魔から贖い出され、主との交わりを持っています。

イエス様に与えられている名前は、「小羊」です。イエス様こそが、「神の小羊」と呼ばれています。この世が造られる前、人間が一人もいなかったとき、イエス様は、「神の小羊」と呼ばれたのです。すなわち、「いつか将来、堕落する人間の代わりに死ぬ。救いの道を選ぶ」と、イエス様は思われたのです。

ヨハネ伝1章の29節は、みなさんが暗記しているみことばですけれども、バプテスマのヨハネは、イエス様を紹介する者でした。イエス様の道を備える者でした。イエス様が初めて公にお姿を現わされたとき、このヨハネは次のように叫んだのです。 
ヨハネの福音書 1章29節
「見よ。世の罪を取り除く神の小羊。」

結局、大切なのは、いろいろなことを学ぶこと、知ることなのではありません。人間は、一つの教えを信じ込むことによって救われ得ません。大切なのは、「人間は罪滅ぼしのために、何も出来ない」と知ることです。ヨハネが、イエス様を「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」と呼んだとき、多くの人は嬉しくなったのではないでしょうか。私たちは出来ません。けれど、この方は、救いの道を開くことの出来るお方です。
弟子になったペテロは、後に次のように書いたのです。
ペテロ第一の手紙 1章の18節、19節
 ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。

主イエス様は、「しみのない小羊」です。主イエス様は、人間によって十字架につけられました。十字架の義はイエス様の血によって彩られたのです。主イエス様は、私たちの代わりに、裁きをその身に背負われました。また、イエス様の血によって、私たちは解放されたのです。その血によって私たちの罪は赦されたのです。イエス様の血によって、私たちには新しいいのちが与えられたのです。

イスラエルの民の救いの道は、流された血を信じ、子羊の肉を食べることでした。私たちの救いの道も、それとまったく同じなのではないでしょうか。
私たち主イエス様を信じる者は、イエス様の流された血を信じ、その血が私たちの代わりに流されたことを信じています。イエス様は、私たちの罪を負うために死なれたのです。私たちは、流された血を感謝し、イエス様は、私たちに罪の赦しの確信をお与えになります。
イスラエルの民は肉を食べました。私たちもまた、イエス様の肉を、すなわち小羊の肉を食べなければなりません。イエス様を食べることとは、イエス様を自分のものとすることです。イエス様を、救い主として受け入れることです。

ヨハネの福音書 6章54節を見ると、次のように書かれています。
 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。

同じくヨハネの福音書 1章の12節に、
 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

とあります。「この方を受け入れた人々」とは、イエス様を自分のものとした人々のことです。私たちはいったいどうでしょうか。みな、もうすでにイエス様のものになったのでしょうか。もし、まだそうでなかったら、主イエス様を見上げるべきです。


イエス様は、私たち一人一人の身代わりです。イエス様は、一人一人の身代わりに死なれ、私たちの罪をその身に担われたのです。それは、私たちが信じても信じなくても、動かすことのできない事実です。
自分の罪のもとで悩む必要はありません。なぜなら、イエス様は私たち一人一人に対して、大きな喜びと平安を備えておられるお方です。悪魔の奴隷、情欲の奴隷、人間の奴隷になる必要はありません。イエス様の血は私たちのために流されました。ですから、以前のように歩む必要はありません。イエス様は一人一人のために、全く新しいいのちを備えておられます。
へりくだり、自分の不完全さ、みじめさ、罪深さを認め、そして復活なさった、今日も生きておられるイエス様に話すことが出来るのは、すばらしいことではないでしょうか。
イエス様は本当に待っておられます。祈りを必ず聞いてくださるのです。

結局、人間は自分で選ばなければなりません。奴隷と、貧困と、苦しみと、死と、罪を選ぶか、あるいは、生きておられる、神の小羊であるイエス様を選ぶかのどちらかです。自分で選ばなければなりません。

モーセは選んだのです。モーセは、選んだのち、決して後悔しなかったのです。
ヘブル人への手紙 11章24節から26節。
 信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。

結局、イエス様から目を離さなかったのです。
信仰によって、彼は王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見えるようにして、忍び通したからです。
モーセは、確かに選んだのです。そしてその結果、彼は何を経験したのかと言いますと、「主に信頼する者は、決して、決して失望させられない」ということです。



                                  了



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※一部、テープの転換による不明部分あり

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神のみことばは神のみことばである(4) 2006. 4. 11
神のみことばは神のみことばである(3) 2006. 4. 4
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