勝利の秘訣
2004.5.25(火)
ベック兄メッセージ(メモ)
引用聖句
コリント人への手紙・第一 1章4節から9節
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私は、キリスト・イエスによってあなたがたに与えられた神の恵みのゆえに、あなたがたのことをいつも神に感謝しています。というのは、あなたがたは、ことばといい、知識といい、すべてにおいて、キリストにあって豊かな者とされたからです。それは、キリストについてのあかしが、あなたがたの中で確かになったからで、その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けるところがなく、また、熱心に私たちの主イエス・キリストの現われを待っています。主も、あなたがたを、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところのない者として、最後まで堅く保ってくださいます。神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。 |
コリント人への手紙・第一 15章1節から4節
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兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、… |
コリント人への手紙・第一 15章55節
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「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」 |
コリント人への手紙・第一 16章13節、14節
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目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。男らしく、強くありなさい。いっさいのことを愛をもって行ないなさい。 |
今、池田兄から、『信徒の諸教会』という本について、「一言だけ紹介してください」と頼まれました。後で彼も紹介しますけれど、昔、兄弟姉妹がよく買った本です。集会で出している本ではないので、値段が高いのです。以前は2500円でしたが、今は1500円です。池田兄の努力によって、少し安く買えるようになったのです。イギリス人のブロートベントという男が書いた本です。ドイツ語にも訳されています。「初代教会からの歩み」についての本です。
いろいろな人たちが、「教会と集会の違いは何か」と聞くでしょう。大きな違いはありません。どこの教会でも、本物の信者もいるし、偽者の信者もいます。集会の中でも、本物の信者もいるし、偽者の信者もいます。大したものではありません。問題はいつも一つだけです。救われていない人たち、親戚、友人たちを、喜んで集会に連れて来ることが出来なければ問題です。それだけです。「自分の行っている教会は、ちょっと心配です。つまづくのではないだろうか」と思うようになれば、つらくなるのではないでしょうか。私たちは、いつか天国に行くためだけに救われたわけではないでしょう。私たちを通して、他の人たちも導かれなければなりません。
この間の土、日曜日に、福岡県の志賀島で「喜びの集い」がありました。その時、二十何人の人たちが初めて見えて、祈るようになられたのです。横浜の一人の姉妹も参加されました。もちろん、遊ぶためではなくて、家族の人たちを誘うためです。彼女は一番末子ですが、五人のお姉様たちが見えましたし、友だちも見えました。結局、そのようにあるべきではないでしょうか。やはり、イエス様を知らない人たちが導かれなければ、大変ではないでしょうか。
何ヶ月間にわたって、同じテーマについて話しました。テーマは、『走りましょう』でした。のんびりする時ではありません。イエス様は来られます。近いうちに。
パウロは、「私は、イエス様によって捕えられてしまった。監禁されてしまった者として走ります」と言いました。
ピリピ人への手紙 3章13節、14節
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私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。 |
ピリピ人への手紙 3章17節
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兄弟たち。私を見ならう者になってください。 |
初めに司会の兄弟がお読みになりました引用箇所は、そういう意味なのです。「兄弟たち。私を見ならう者になってください」。
コリントの教会は、大したものではなかったのです。第一コリントを読むと、もうどうしようもありません。あの人たちは何のために救われたのか、めちゃくちゃでした。未信者でさえもなかなか犯さないような罪を、コリントにいる信者たちは犯してしまったのです。
けれども、パウロは彼らに書いたのです。初めの引用聖句の最後に読んでいただきました箇所です。
コリント人への手紙・第一 16章13節、14節
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目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。男らしく、強くありなさい。いっさいのことを愛をもって行ないなさい |
題名を付けようと思えば、『勝利の生活への道』、或いは『勝利の秘訣』ということになるのではないでしょうか。
パウロは、このみことばをコリントにいる兄弟姉妹に書き送ったのです。「勝利の生活への道」を示したかったからです。彼らにはそれがどうしても必要だったからです。というのは、コリントの教会において、多くのことがめちゃくちゃだったからです。
使徒パウロは、いわゆるキリスト教の教えを伝えようとしたのではなく、イエス様を紹介しただけです。先に話した本を読むと、ある意味でがっかりします。何が分かるかといいますと、主なる神の最大の敵はいつも聖書学者でした。悲劇的です。聖書を読んで、「分かった」と思えばおしまいです。そんなものではありません。神は、信仰を持っていても高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みを与えられます。
パウロは、イエス様を紹介したのです。イエス様が紹介されれば、もう他には何も出来ないでしょう。早く手を引いて、「今度は、イエス様あなたの番です」という態度をとると、イエス様は必ず働いてくださいます。
コリントにいる信者たちは、「圧倒的な勝利者」ではなくて、あらゆる点において駄目になっていたのでした。けれど、私たちもまた、多くの挫折を知っているのではないでしょうか。しばしば、主の名誉を汚してしまったのではないでしょうか。私たちは、しばしば、主の働きの妨げとなっているのではないでしょうか。
ここで、二つのことが明らかです。
1.あらゆる信者は、勝利の生活を営みたいと願っています。
「イエス様をよりよく知りたい」という気持ちがなければ、その人は救われているかどう
か、大きな問題です。
2.聖書は、この勝利の生活がいかに私たちに分け与えられるかを、はっきりと私たちに
示しています。そして、これは敗北の生活ではなく、勝利の生活を送ることが主のみここ
ろであり、目標であることを意味しています。
例えば、イエス様は、当時の信じる者に次のように言われたのです。
ヨハネによる福音書 8章36節
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「もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです」。 |
皆さんご存じでしょう。人間は宗教によって束縛されます。不自由になります。間違った罪悪感を持つようになります。イエス様は、自由にしてくださいます。自由があれば、聖霊の働きの結果として、人間は本当の意味で喜ぶことが出来るのです。
パウロはまた、次のように書いたのです。
ローマ人への手紙 6章14節
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というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。 |
結局、罪に支配されなくてもよいのです。イエス様は勝利者です。イエス様は、解放してくださるのです。また、パウロは、
ローマ人への手紙 8章3色7節
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私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。 |
「圧倒的な勝利者となる」ことは、自分のことを考えれば、「不可能。無理」としか言えません。けれども、パウロは、その秘訣についてはっきり言っているのです。「私たちを愛してくださった方によって」。全部イエス様です。勝利者なるイエス様に頼ると、うまくいきます。そうでないと、全部的外れです。
また、パウロは、今話したコリントにいる兄弟姉妹に書いたのです。
コリント人への手紙・第二 2章14節
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神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。 |
これも、勝利を意味しているのです。
今日、私たちは、コリントの信者たちに向けたパウロの言葉について、詳しく考えたいと思います。初めに読みました引用箇所です。
コリント人への手紙・第一 16章13節、14節
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目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。男らしく、強くありなさい。いっさいのことを愛をもって行ないなさい。 |
ここでは、気持ちのよい忠告ではなく、それ以上のことが取り上げられています。即ち、福音が宣べ伝えられています。そして次のように言われています。
「生きておられるまことの神は、あらゆる救われた者が、勝利の生活を送ることを可能にしてくださいます」と。
主は、命令を実行する力をお与えにならずには、いかなる命令をもお与えになりません。私たちは、いかなる良い忠告をも必要としません。私たちが必要とするのは、福音です。福音とは、一つの教えではなく、主イエス様ご自身です。私たちが必要としているのは、イエス様だけです。私たちが何をなすべきかを、誰かが私たちに語ってくれることは大切かもしれないけれど、はるかに大切なことは、誰かが私たちに、「命令に従う力」を与えてくださることです。
この聖句で問題になっていることは、理論ではなく実践そのものです。これらの聖句は、将軍の命令のような響きを持っているのではないでしょうか。将軍は指令し、最終的に統括します。将軍は、これらの事柄が尊重されるなら、勝利が確実であるということを知っているから、そのように行ないます。
前に何度も話したように、キリスト者は、主イエス様の兵卒であるべきです。愛弟子であるテモテに、パウロは、次のように書いたのです。
テモテへの手紙・第二 2章3節、4節
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キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。兵役についていながら、日常生活のことに掛かり合っている者はだれもありません。それは徴募した者を喜ばせるためです。 |
「私と一緒に喜んでください」ではないのです。
「イエス様を喜ばせたい」という願いを持たない人の信仰は、疑わしいものです。イエス様を本当の意味で知るようになった者は、やはり、「イエス様を喜ばせたい」という願いを持つようになります。
ですから私たちは、今日、真剣に自分自身に問うてみましょう。私たちのためにご自分のいのちを与えてくださった方に喜んでいただくことが、私たちの心からの願いでしょうか。イエス様を信じることだけではなく、「本当にイエス様に喜んでいただきたい」という願いが、考えられないほど大切です。なぜなら、パウロは、コリントの人たちに書いたのです。
コリント人への手紙・第一 16章22節
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主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。 |
大変です。「主を愛さない者は、のろわれよ」。もちろん、地獄へ行くのではありません。ただ、祝福され得ないだけです。けれど、主の祝福がなければ、もうおしまいです。
それでパウロは、「マラナ・タ」と書いたのです。ギリシヤ語です。「主よ、来てください」という意味です。結局、イエス様を愛する者は、「来てください」と、必ず祈らざるを得ないのではないでしょうか。イエス様に喜んでいただきたいという願いを持つべきです。この願いを持っていなければ、ちょっと問題ではないでしょうか。
私たちはみな、恐ろしい戦いの中に放り込まれています。エペソ書6章を見ると、次のように書き記されています。毎日覚えるべきみことばではないでしょうか。
エペソ人への手紙 6章12節
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私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。 |
「格闘」とは、「戦い」です。「血肉」とは、「人間」です。
しかし、主に感謝しましょう。最後の勝利はすでに獲得されているからです。イエス様は、ご自分の死と、ご自分のよみがえりを通して、悪魔の力に対する完全な勝利を獲得してくださったのです。イエス様は、父なる神の右に高められ、座しておられます。
イエス様の獲得された勝利を、すべての信者の生活の中で明らかにさせるために、御霊が、聖霊が遣わされました。この御霊に働く余地が与えられると、私たちは、イエス様の勝利にあずかります。それは、私たちの勝利ではなく、イエス様の勝利です。
この勝利にあずかるため、私たちは何をしなければならないのでしょうか。
パウロは、一文章の中で、五つのことに言及しています。前に読みました第一コリント6章13節と14節です。私たちはそれを他の言葉で、次のようにも言うことが出来ます。
1.常に警戒し、用心すること。
2.信頼によって強められること。
3.成長して、完全に大人になること。
4.主イエスにだけ拠り頼み、依存すること。
5.すべて愛をもって行なうこと。
1.「目を覚ましていなさい」という命令について、考えたいと思います。
これは明白な、間違うことのない命令です。「目を覚ましていなさい」。「あなたがたは、目を覚ましていなさい。常に警戒し、用心していることが大切です」と、パウロはコリントにいる人たちに書き送ったのです。
私たちは、見回りをしている兵士に例えられます。目を覚ましていることは、最高のおきてです。というのは、敵はどんな瞬間でも攻撃しかけて来るからです。これは、私たちすべての者に当てはまるのではないでしょうか。
三つの敵が、私たちに対立しています。
即ち、「この世」。
それから、聖書は、「肉」と言っているのです。
もう一つの敵は、「悪魔」です。
私たちが絶えず警戒し、用心していないと、これら三つの強力な敵が私たちに襲いかかるでしょう。私たちは、これらの敵について何を知っているのでしょうか。
私たちを取り巻く「この世」について、私たちの内に住む「肉」について、そして、私たちを攻撃する「悪魔」についてです。
@ 私たちの最初の敵は、私たちを取り巻く「この世」です。今の目に見える世界です。
すでに言いましたように、パウロは、コリントの信者たちに手紙を書いています。このコリントという所は、当時ギリシヤの最も重要な都市であり、商業と教育の中心地だったのであります。コリントは豊かで、美しくて、魅力的でした。けれども、他方において、罪と誘惑に満ちた所でもありました。
コリントの信者たちは、ようやく、少し前に信仰に導かれました。大部分の人たちは、偶像礼拝者でしたし、道徳的に堕落した生活を送っていました。けれど彼らは、主イエス様との出会いを通して、自分たちの罪が赦されているということを確信するようになったのです。それによって彼らは、以前に少しも知らなかった喜びを得るようになりました。「今からは主イエス様のために生きたい」ということが、彼らの切なる願いだったに違いありません。けれども、彼らを取り巻く「この世」は、彼らを再びとりこにし、無力にし、麻痺させるように、あらゆる手段を使って誘惑しました。
私たちが、今、コリントにいようが、ニューヨークにいようが、ロンドンにいようが、東京にいようが、どこで生活しようが、至る所で私たちを取り巻く「この世」は、私たちをめくらにし、惑わし、快適な生活を欲するようにと誘惑します。
ヨハネは、この問題について、次のように書いたのです。このみことばも、私たちにも当てはまります。
ヨハネの手紙・第一 2章15節から17節
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世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。 |
A 私たちの第二の敵は、私たちの内に宿る「肉」です。
ここで、「肉」とは、根本的に、滅びるしない私たちの生まれつきの罪の性質を意味します。パウロは、そのことを知っていて、次のように正直に告白したのです。
ローマ人への手紙 7章18節
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私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。 |
どうして知るようになったのでしょうか。体験したからです。
「イエス様を喜ばせたい。イエス様のために生きたいけれど、全部逆になってしまった」。結局、「私は駄目です」とパウロは言ったのです。「善が住んでいない」。善が住んでいなければ、悪しかいません。
ローマ人への手紙 7章18節
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私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。 |
何十年間も、イエス様に仕えたパウロの告白です。ローマ書7章を見ると分かります。
そして最後に、パウロはどうにもならず、次のように叫んだのです。
ローマ人への手紙 7章24節
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私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。 |
これが終わりではないとは、何と素晴らしいことでしょうか。
さらにパウロは、重荷がおろされた気持ちで、次のように続けて言いました。
ローマ人への手紙 7章25節
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私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。 |
主のうちに解放があります。何としばしば、私たちは、私たちの罪深い性質のとりこになることでしょう。これは私たちが、「肉の罪」、或いは「霊の罪」を犯すときに明らかになります。
聖書は、はっきり、「肉の罪」と、「霊の罪」とを区別しているのです。
例えば、「肉の罪」は、ガラテヤ書5章19節から21節の中で数えあげられています。もちろん、この手紙はイエス様の恵みによって救われた人たちに書かれた手紙です。もし、信じる者が、同じ罪を犯すことがなければ、書く必要はなかったのです。
ガラテヤ人への手紙 5章19節から21節
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肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。 |
けれども、「霊の罪」は、さらに巧妙です。即ち、「誇り」、「批判精神」、「不寛容」などであります。
B 私たちの第三の敵は、私たちを攻撃する「悪魔」です。
悪魔は、私たちの本当の敵であり、強大な力を持っていて、私たち一人一人を駄目にしようと狙っています。悪魔は、どんな代価を払っても、私たちをわなに陥れる決心をしています。私たちが、勝利の秘訣を知らないなら、悪魔は、私たちを手玉に取ります。
悪魔はいろいろな顔を持っています。ある時には、「ほえたけるしし」として誘惑します。ペテロの手紙で、悪魔は、「ほえたけるしし」と呼ばれています。
ペテロの手紙・第一 5章8節
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あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。 |
今日も、そうなのです。最も熱心なのは、悪魔ではないでしょうか。昼も夜も、いつも信じる者を駄目にしようと攻撃しているからです。ここで悪魔は、「ほえたけるししのようなものである」と書いてあります。
別の時には、「ほえたけるしし」よりも、「光の天使」として誘惑します。次のように書かれています。
コリント人への手紙・第二 11章14節
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サタンさえ光の御使いに変装するのです。 |
ですから、私たちが悪魔の考えをよく知ることは、どうしても必要ではないでしょうか。パウロは、次のように言っています。
コリント人への手紙・第二 2章11節
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私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。 |
私たちは、いかにすれば悪魔に抵抗することが出来、その結果、悪魔が逃げ出さなければならないか、を学ばなければなりません。
「この世」、「肉」、そして、「悪魔自身」は、私たちを少しも休ませません。私たちは警戒して、用心していないと、災いです。
ですから、とても大切な命令として、「目を覚ましていなさい。悪魔があなたがたを陥れないように注意しなさい」と、パウロは、コリントにいる兄弟姉妹たちに言ったのです。
誰が、日々勝利を経験しているでしょうか。私たちの最初の答えは、次の通りでした。
いつも警戒し用心している人、目を覚ましている人、眠りに陥らない人です。
2.私たちは、第二番目の点について、少し考えてみたいと思います。
即ち、「信頼によって強められること」です。「堅く信仰に立ちなさい」。これもまた、明白な命令です。このことばを読むと、やはり、第一コリント15章の最後のみことばを、思い出すのではないでしょうか。
コリント人への手紙・第一 15章58節
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ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。 |
ここで大切なことは、信じることだけではなく、信仰に堅く立つことです。
ある新聞に、一冊の本を読む学生の写真が出ていました。彼は、めがねをかけており、それによってかなり学識があるように見えました。そこに書かれている見出しが、とてもおもしろいものでした。「成功する人は、勉強を始める人ではなく、勉強を始め、かつ、本当にその勉強を続けることが出来る人です」と。当たり前の話しです。
多くの人たちは走りますが、途中で疲れます。止めます。前に学んだように、デマスのような態度をとります。デマスは、パウロの親しい同労者でした。彼は、パウロを捨てて、またこの世を愛するようになりました。悲劇そのものです。けれども、誰でも経験するのではないでしょうか。
パウロでさえも、「私は失格者にならないように、自分のからだをたたいている」と言っています。自分のからだをたたくことは、自分の考えていること、思っていることを大切にしないこと、主は何と言っておられるか、それだけを考えることではないでしょうか。
堅く、信仰に堅く立つことこそが、要求されています。私たちは、しばしばあきらめてしまわないでしょうか。戦いがいっそう激しくなり、攻撃もますます度を加え、絶望の可能性が非常に大きくなると、私たちはみな、内面的に疲れてしまう危険にさらされます。
けれど、私たちは、簡単に放棄する理由を決して持ってはいません。というのは、「堅く立ち、動かされることなく、いつも主のわざに励むように」と命令されているのであれば、これは、主によってのみ、可能であるからです。
これらのみことばは、よみがえりの書である第一コリント15章の終わりにも記されています。この書において、福音の内容が何であるか、イエス様の復活の事実と栄光が何であるか、詳しく述べられています。それと同じように、信仰によって主イエス様と結びついている者の復活が述べられています。更に、私たちの主イエス様の再臨、死とよみに対する勝利も言及されています。堅く立つこと、動かされないことは、どうしても必要です。
その際そこにとどまり、堅く立ち、動かされることのない、この内面的な確信の土台は、いったい何でしょうか。何があっても戦い続け、主イエスの勝利に堅く立つことの土台は、いったい何でしょうか。言うまでもなく、みことばです。みことばのみです。
私たちが拠り頼むべきものは、主の大いなる約束です。「信仰に堅く立ちなさい」と言われる時、私たちは、いつも、私たちの信仰の唯一の土台がみことばであるということを、はっきりと知っておかなければなりません。私たちが考えたり、感じたり、真理と見なしたりするものではなく、主のみことばが語られることこそ、徹底的に大切なことです。
それだけが、私たちの信仰の土台でなければなりません。
パウロは、テモテに次のように書いたのです。
テモテへの手紙・第二 2章15節
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あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。 |
人は、曲がって生きること、即ち、聖書を自分勝手に解釈することも出来ます。ドイツのいわゆる聖書批判は全部そうなのです。悲劇的です。「聖書はそう言っているけれども…」。「神のみことばも含まれているけれども、人間的な考えも入っている」。そういう考えによって、聖書は全く役に立たないものになります。
イエス様は、「あなたのみことばは、真理です」と言われたのです。イエス様がこの態度をとることがお出来になったから、私たちも、安心して同じ態度をとることが出来ます。絶対に騙されません。
いわゆる聖書批判は、本当に最も恐ろしい毒であります。私たちは、決して、聖書の一箇所だけを、聖書全体の関連から取り出してきて、それによって私たちが好ましいと思うことを基礎付けようとすることをしてはなりません。私たちが主のみことばを判断すべきではありません。みことばが私たちを裁き、整頓したいと望んでおられるからです。
「信仰に堅く立ちなさい」という表現で述べられている、もう一つの、別の側面は、「主に信頼し続けなさい」ということです。誘惑や試練によって、屈服させられないようにしなさい。いろいろな困難や悩みがあなたの上に襲いかかり、あなたが理解出来ないような苦しみに耐えなければならないような時、主イエスに対するあなたの信頼を失わないようにしましょう。
悪魔の攻撃の目標は、私たちの信仰です。私たちが、もはや主に信頼しないようにと、悪魔はあらゆる代価を払って誘惑します。
私たちは、私たちの主を多くの点において理解出来ません。やはり、いったいどういうことかと考えます。しばしば私たちは、なぜ主が、このようなことを、あのようなことをお許しになるのか、全く分かりません。どんなに努力しても、私たちは背後にある意味を少しも理解出来ません。けれど、それにもかかわらず、信頼に堅く立つことが大切です。
主は、主がなさったことを、主がお許しになることをご存じです。
私たちの信頼の土台は、みことばであり、主の約束です。素晴らしいみことばが書き記されています。
ヘブル人への手紙 13章5節
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主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」 |
大切なのは、それだけなのです。主が何と言っておられるか。聖書が何と言っているか。「決して」は、「決して」です。だから、唯一の土台なるものは、主の約束です。
主は、「決して捨てない」と言われたから、私たちは、確信に満ちてこう言います。
「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が私に対して何が出来ましょう」。
私たちは、次のような時に、主イエスの勝利にあずかることが出来ます。
@ いつも警戒し、用心して眠り込まない時です。
A 信頼によって強められる時です。
その土台は、主の真実なみことばです。主のみことばに基づいて、私たちは、信頼することが出来ます。主は、決して、決して私たちを失望させることはなさいません。
3.成長して、完全におとなになることです。
前に読みました箇所の中で、「男らしくなりなさい」という表現は、成長しておとなになること、つまり、本当の意味で成長することを意味するのです。
次の問いが現われてくるかもしれません。
・私たちは、もうどのくらい長い間、主イエス様のものとなっているのでしょうか。
・私たちは、霊的な領域において、まだ幼いのでしょうか。
パウロは、次のように告白しています。一つの証しでもあります。
コリント人への手紙・第一 13章11節
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私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。 |
これは、パウロの告白でした。私たちの場合はどうでしょう。私たちも子どものことをやめたのでしょうか。
実、成熟のしるしは、第一コリント3章3節を見ると、「ねたみ」や「争い」です。
コリント人への手紙・第一 3章3節
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あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。 |
エペソ人への手紙 4章13節に、主が目指される目的について書いてあります。
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ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。 |
大切なことは、「信仰の一致に達すること」、「御子主イエス様に関する知識の一致に達すること」、「完全におとなになること」です。けれど、これはどうすれば可能でしょうか。
・どうすれば、私たちはいつも警戒し、用心していることが出来るのでしょうか。
・どうすれば、私たちは信仰によって強められることが出来るのでしょうか。
・どうすれば、私たちは成長することが出来、もはや幼子ではなく、おとなとして信仰生活を送ることが出来るのでしょうか。
私たちすべての者にとって明らかなことは、このことが、自分の力では絶対に出来ないということです。
どうして、私たちは絶えず挫折するのでしょうか。その根拠は、次のようなことです。
即ち、私たちは、主がご自身の勝利の生活を、私たちの中に生かすことがお出来になるために、主イエス様に働く余地を差し上げることが必要なのですが、その代わりに、自分で勝利の生活を送ろうとしてしまうのです。「私ではなく、私の内におられるイエス様」、これこそが、勝利の生活です。
すべての挫折は、私たちが、主の御霊の導きと働きに従う代わりに、自分の力でやろうとしたということを示しています。というのは、私たちは、とても不可能なことを自分でやろうとするからです。誰一人、主に喜ばれる生活を送ることは出来ません。それは全く不可能なことです。誰一人、自分の力で勝利の生活を送れるほど、強くはないからです。
4.私たちの四番目の命令は、次のことです。「主にだけ拠り頼み、依存すること」です。「主にだけ拠り頼み、依存すること」。このことが私たちの標語であるなら幸いです。なぜなら、自分の力でやろうとすることは、全く無意味だからです。
私たちは、この世とこの世の霊によって影響されずにこの世で生活することは、絶対に出来ません。私たちは、私たち自身の堕落した生活を直そうとしたり、克服したりすることは絶対に出来ないのです。ですから、イエス様が必要なのです。自分の力で悪魔に対抗して勝利を勝ち取ることは、絶対に出来ません。ですからパウロは、当時の信じる者を励ましたのです。
エペソ人への手紙 6章10節
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終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。 |
聖書のどこにも、「頑張って、一生懸命になって、自分の力で強くなりなさい」と書いてはないのです。いくら努力しても疲れます。
5.最後に、もう一つの大切な命令がありました。
「すべて愛をもって行ないなさい」。行なうことです。「いっさいのことを、愛をもって行ないなさい」とあります。私たちが愛によって、しかも主の愛によって満たされることが、すべてに勝って大切なのではないでしょうか。
主の愛は、私たちの生活の中で明らかにされなければなりません。主の愛は、私たちの行ないによって示されなければなりません。主は、次のように、パウロを通して言われたのです。
ローマ人への手紙 5章5節
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私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです |
このみことばによると、新しく生まれ変わった者はみな、誰でも例外なく聖霊によって神の愛を持つ者です。「聖霊は、すべての信仰者に与えられているから、御霊の実は、愛である」と聖書は言っています。「人間の心の中に神の愛がある」と、パウロはここで言っているのです。
神の愛で満たされるために、私たちは、御霊に満たされなければなりません。
あらゆるキリスト者のおもな特徴は、この愛であるべきではないでしょうか。
ヨハネによる福音書 13章34節、35節
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「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」 |
今まで、「勝利の秘訣」について考えました。私たちは、今、それがいかになされるかを知っています。けれど、今ここで大切なことは、この知識を実践に移すことです。
私たちがその覚悟であるなら、私たちの生活は変えられるようになり、私たちは、大いなる喜びに満たされます。主は、私たちを、主の名誉と栄光のために、主に仕えるように、お用いになるに違いありません。
了
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