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メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


イエス様をお喜ばせしよう
   
2004.7.6(火)
ベック兄メッセージ(メモ)

 
引用聖句
テサロニケ第一の手紙 4章1節
 終わりに、兄弟たちよ。主イエスにあって、お願いし、また勧告します。あなたがたはどのように歩んで神を喜ばすべきかを私たちから学んだように、また、事実いまあなたがたが歩んでいるように、ますますそのように歩んでください。

ヨハネの福音書 15章4節から8節

「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」

コロサイ人への手紙 1章10節

 また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。


 私がこの場に立つのは、一月半ぶりでしょうか。もっと長かったかもしれません。
 先月、ドイツで過ごした時間というのは、本当に主によって祝福された時でした。いくつかの喜びの集いがあっただけではなく、ドイツに帰国した際には、いつも子ども時代の友だちと会えるのです。私の昔からの友だちは、必ず毎年集まります。もちろん、みな、年配者になっています。みな何十年間も主に守られて、主に仕えるようになった人々です。私たちは、ドイツにいる間に、そういったいろいろな人たちに会うことができます。
 親戚もたまに集まります。去年は集まらなかったのですが、今年は60人ぐらい集まりました。みな知らない人です(笑)。名前でさえも知らないのです(笑)。けれどもイエス様を紹介する時となりますから、いつも感謝です。日本の社会も同じではないでしょうか。親戚がたくさんいても、なかなか会えないのではないでしょうか。結婚式や葬儀の時に、会うことが出来る程度です。けれど、やはり葬儀の前に会って、話し合えたり、イエス様を証しすることができるなら、もっと良いのではないかと思います。
 私にとって、大変感謝なことになったのは、妹とゆっくり話し合うことができたことなのです。私が初めて日本に来た時、彼女はまだ4歳だったのです。ですからお互いのことを知りません。その後彼女は、いろいろな苦しみを経験したそうです。強制的に結婚させられたり、また離婚することになってしまったりして、幸せな人生とは言えなかったようです。けれど、今回、私が白血病になったことを聞いて、召される前に(大笑)、ゆっくり話したいと言ってくれて、彼女に会うことができたのです。今までにやはり、いろいろな誤解はありましたけれど、一緒に祈ることができたことは、本当に感謝でした。

ミヘルスベルクでの喜びの集いも、本当に祝福されて、合計22人の方々が初めて祈るようになったのです。みことばを聞くことは大切なことですけれど、祈るようにならなければ中途半端なことなのです。また、たとえ祈ったとしても、それは単なる第一歩に過ぎませんので、是非彼らのために、みなさんもお祈りください。
 一方、モスクワでも、ある奥さんとゆっくり話し合うことができました。Kさんです。彼女のことも、是非覚えて祈ってください。駐在中の棚村兄姉、そして小沢兄姉も大いに喜んでいました。他に来られた人々は、Iさん、そしてOさんたちご夫婦です。
ご主人のK・Oさんは、ほとんど外国で働いておいでになったそうですが、「私は、一度教会にも行って洗礼を受けはしたものの、実は放蕩息子です」と言われました。奥さんは、このご主人を見て「この人は本当にクリスチャンなのだろうか」、そういう気持ちなのですが、彼にしても、奥さんのことは、「もういいです」という不信頼の気持ちのようでした。奥さんは、S・Oさんです。
 もうひとりの方はIさんで、少しばかり顔をお見せになっただけでしたけれど、彼女も飢え渇きをいただくことができますようにお祈りください。
更にもう一人。ずっとバスのガイドをされていた人で、モスクワ大学の4年生。日本語を上手に話され、もうすでに結婚されているそうです。秋には日本に来られ、東海大学で、9ヶ月間勉強することになっておられます。彼女が導かれるようにお祈りください。現在は、モスクワのオーソドックスな教会に参加されているのですが、モスクワではプロテスタントの教会もカソリックのようなもので、自分で聖書を読んではおられず、はっきりした救いの確信もなく、喜びもない状態です。今後は必ず集会に出られるようになると思いますから、是非覚えて祈っていてください。

 今日の主題は、『イエス様をお喜ばせしよう』というものです。
 イエス様を信じ、また、イエス様を知るようになった兄弟姉妹は、イエス様無き人生の
無意味さを味わうようになりました。また、いかなる努力も知力も、主なる神と人間との間の隔ての壁を取り除くことができないことも知るようになりました。自分自身が破産したことを主に申し上げ、自分の債務を、主イエス様に告白する恵みにあずかる体験をしたからです。幼子のような信仰を持って、罪の赦しを乞うことの結果として、イエス様の血潮によって自分が贖われ、神の子どもとされたことを経験的に知るようになり、もはや神によって裁きを受けることがないことも確信するようになったのです。それは、分かったからではなく、聖書がそのように言っているからです。そしてイエス様を知るようになった兄弟姉妹は、「イエス様に喜ばれたい」と、切に望むようになったのです。

 最も大切なこととは、何でしょうか。一番大切なことがなされるということです。これこそが、一番大切なことなのです。
現代人はみな、非常に忙しい毎日を送っています。「このことは…、あのことは…どうし
てもしなければならない」ということを知っています。私たちは、このこともあのことも喜んでやりたいと思いますが、どんなに頑張ってみても時間と力が足りません。限りある時間の中で、すべてのことをすることはできないのです。ですから、私たちは、「何が一番大切なことか」と考えることが、必要ではないでしょうか。よく考えて選択しなければなりません。
最も大切なこととは、「主イエス様をお喜ばせすること」です。
 新たに信仰に導かれた人たちに対して、パウロはテサロニケ人に向かって書いたのです。
テサロニケ第一の手紙 4章1節

 終わりに、兄弟たちよ。主イエスにあって、お願いし、また勧告します。あなたがたはどのように歩んで神を喜ばすべきかを私たちから学んだように、また、事実いまあなたがたが歩んでいるように、ますますそのように歩んでください。

「主をお喜ばせするべき」です。

 救われている人と、救われていない人との違いは、いったい何でしょうか。
救われている人は、「イエス様をお喜ばせしたい」と願っています。できるかどうかは別で
す。けれども、やはりイエス様をお喜ばせしたいという気持ちを持っています。救われて
いない人は、もちろんイエス様に対してめくらであり、イエス様の声に対してつんぼです。
私たちは毎日、「私の思いはイエス様に喜ばれているのだろうか。私の言動はイエス様に喜ばれるのだろうか」と、新たに問うべきではないでしょうか。これこそ最も大切なことです。

 それでは、「喜ばれる」ということばは、日常どのように使われているのでしょうか。
 「他の人に喜ばれる」ということばは、好みが合うとか考えが一致するという場合に、よく使われます。結婚の場合にも、その前には必ず気に入られるということが起こるはずです。例えば、外見、性質、全存在が魅力的な場合、男性も女性も「気に入った」と言います。しばしば多くの場合、外面の顔、形から評価します。「彼女は美しい」、「彼は男らしい。格好がいい」と。だから気に入るのであり、だから好きになるのです。けれど、しばしば、多くの人が失望しているという現実に直面します。というのは、外側の見かけは、偽りだからです。外側の美しさよりも大切なのは、最も内面的な性質です。人間は騙したり、騙されたりします。ですから、非常に多くの苦しみ、悩み、絶望に陥るのです。
 けれどもここでは、人間に気に入られることが大切なことではなくて、生きておられるまことの主なる神に気に入られることが大切なのです。私たちは、このことについて真剣に考えると驚かざるを得ません。というのは、
・いったいどうしたら、私たちは、光そのものであり、少しも暗いところのない主イエス様に、喜んでいただけるのでしょうか。
・いったいどうしたら、私たちは、絶対的な聖さと、神聖そのものであられるイエス様に、
喜んでいただけるのでしょうか。
・いったいどうしたら、私たちは、愛そのものであられる主イエス様に、喜んでいただく
ことができるのでしょうか。

・イエス様は、光そのものです。けれども、何と多くの利己的な性質、何と多くの偽善と二重人格が、私たちの内にあることでしょう。
・イエス様は、絶対的な聖なるお方です。けれども、何と多くの嘘と矛盾が、私たちの内
にあることでしょう。
・イエス様は愛そのものです。けれども、私たちのうちには何と多くの自己追求と自己中心があることでしょう。

 イエス様は、いかに私たちを気に入ってくださるのでしょう。

 人間の創造以前に、主なる神は、「みこころにかなう人間が欲しい」と計画してくださっ
たのです。
エペソ人への手紙 1章4節

 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。

主ご自身が、ご自分の方から、私たちと主との間の裂け目をふさぐ道を用意してくださいました。すなわち、主イエス様が、私たちの罪のための「贖いの代価」を支払ってくださいました。その代価とは、主イエス様がささげてくださった「いのち」なのです。
ローマ人への手紙 5章8節 

 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

とあります。

父なる神は、どうして、人間を喜ぶことがおできになるのでしょう。それは、「主に喜ばれる生涯を送ろう」と、私たち人間が自分の力で努力することではありません。主イエス様が、私たちの代わりに死んでくださり、そして私たちのために生きていてくださるからです。
 救われたばかりの兄弟姉妹に対して、私はしばしば次のように言います。「今から、クリ
スチャンらしい生活をしようと努力するのをやめてください。どうせできませんから」。
すると、救われたばかりの多くの兄弟姉妹は、驚いて、「けれども、そのようなことが要求
されているのではないでしょうか」と言われます。しかし、イエス様のものになっても、
イエス様をお喜ばせしようとする自分の努力は、すべて、「敗北から敗北へ」という結果に終るだけです。

 イエス様がお生まれになった時、御使いは次のように告げ知らせました。クリスマスの
ときによく読む箇所なのですが、お読みいたします。
ルカの福音書 2章9節から14節

 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」

「主キリスト」とは、「期待された救いの神であるメシヤ」です。そして、ここで「御心にかなう人々」という表現が使われています。生きておられるまことの神が喜んでくださるのは、ただ「イエス様」だけです。

今、主イエス様が受け入れてくださる者は、主イエス様の内にあり、主イエス様の義に
よって、御心にかなった人間とされています。けれども、それは自分自身のすばらしさのゆえではなく、ただイエス様の贖いのゆえにそうされているだけなのです。
 主イエス様の内にある者、すなわちイエス様と結び付いている者の生涯は、必ずイエス
様によって変えられます。必ず実が結ばれるのです。使徒たちの書いた手紙を見ると分か
ります。使徒たちはみな、「救われた人々が、成長するように」と、心から祈り続けました。
エペソ人への手紙 1章5節から7節

 神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。

神の子となることと、罪の赦しは、人間の努力ではありません。全部が主の恵みです。

コロサイ人への手紙 1章12節から14節にも、同じようなことが書き記されています。

 また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神に、喜びをもって感謝をささげることができますように。神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。

 成長のこと、実を結ぶことについての最も適切なみことばは、ヨハネの福音書15章4節から8節まででしょう。イエス様は、「わたしはぶどうの木であり、あなたがたはその枝です」と言われました。
ヨハネの福音書 15章4節から5節

「わたしにとどまりさない。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」

「自分の努力」ではなく、「私たちの内におられるイエス様」。これこそ勝利と、祝福と、実を結ぶことの秘訣です。

 私たちにとっては、イエス様に喜ばれることが、最も大切なことなのです。それでは、実際に何を意味しているのでしょうか。
3つのことが言えるのではないかと思います。
1.イエス様は、私たちの裏表のない愛を、心から望んでおられます。
2.イエス様は、私たちの喜びをもった奉仕を、望んでおられます。
3.イエス様は、私たちの正直な態度を、望んでおられます。

1. イエス様は、私たちの裏表のない愛を、心から望んでおられます。
 まず、主は私たちの心からの愛を、望んでおられるのです。もちろん聖書全体が、同じことを何回も繰り返し言っていますが、申命記の6章5節を見ると、次のように書かれています。イエス様も、あとで何回もこの箇所を引用してくださいました。
申命記 6章5節

 心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

「主の存在を認めなさい」ではありません。「主を信じなさい」なのでもありません。「主
を心から愛しなさい」と言われたのです。
 イエス様は、ご自分の弟子であるペテロに、3度同じことを尋ねられたのです。すなわち、「あなたはわたしを愛しますか」と。
イエス様は、今日も、私たちに同じように問われておいでになるのではないでしょうか。私たちは本当にイエス様を愛しているでしょうか。

 イエス様を愛するということは、ただイエス様を信じるということだけでなく、それ以上のことです。
例えば、
ホセア書 6章6節 

 わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。

主のお考えと人間の考えとでは、根本的に異なっていることが分かります。
サムエル記・第一 15章22節から23節

 するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、 耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」

このサウルという王は、結局、主に用いられなくなってしまったのです。主の存在を信じてはいたのですけれども、初めの愛から完全に離れてしまったのです。

 主を愛する者は、主がどのようなことを喜んでくださるかを知りたいと望みます。だからこそ、次のことを覚えるべきでしょう。
ある律法が私たちを導くのではなく、イエス様に対する愛が、私たちを導くのです。毎日、「主よ。私は何をしたらよいのでしょうか。あなた様は何を望んでおられるのでしょうか」と尋ねましょう。そうすれば、主の祝福が豊かに注がれます。

 イエス様に喜ばれること、これこそ最も大切なことです。それは、実際に何を意味するのでしょうか。主は私たちの裏表のない愛を心から望んでおられるのです。


2. イエス様は、私たちの、喜びをもった奉仕を、望んでおられます。
 主イエス様に喜ばれる奉仕とは、自分自身を無にした奉仕です。主イエス様のために、喜んで犠牲を払う備え、そして自分自身をささげ、自分を否定する備えのできた奉仕を、です。
そのような生涯は、イザヤ書に記されています。結局、主のお考えと、イスラエルの民の考えとは違いました。
イザヤ書 58章5節から10節

 わたしの好む断食、人が身を戒める日は、このようなものだろうか。葦のように頭を垂れ、荒布と灰を敷き広げることだけだろうか。これを、あなたがたは断食と呼び、主に喜ばれる日と呼ぶのか。私の好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。そのとき、暁のようにあなたの光がさしいで、あなたの傷はすみやかにいやされる。あなたの義はあなたの前に進み、主の栄光が、あなたのしんがりとなられる。そのとき、あなたが呼ぶと、主は答え、あなたが叫ぶと、「わたしはここにいる。」と仰せられる。もし、あなたの中から、くびきを除き、うしろ指をさすことや、つまらないおしゃべりを除き、飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、あなたの光は、やみの中に輝き上り、あなたの暗やみは、真昼のようになる。

と、主は言われたのです。
一言で言いますと、自己否定が要求されます。すなわち、自我の死、自分自身の願いを
捨てることであり、自分自身の利益を捨てることです。

 今まで私たちは、二心のない愛と、喜んで行なうご奉仕を通して、イエス様が喜んでくださることを見てきました。 


3. イエス様は、私たちの正直な態度と心を、望んでおられます。
「正直な態度を通して、主イエス様が喜んでくださる」と、聖書ははっきり言っているのです。
歴代誌・第一 29章17節の前半。

 私の神。あなたは心をためされる方で、直ぐなことを愛されるのを私は知っています。

とあります。主は、直ぐな心の持ち主を捜し求めておられます。

 ソロモン王も、同じことを何回も強調して、おもに箴言の中にいろいろなことを書いたのです。例えば、
箴言 11章20節

 心の曲がった者は主に忌みきらわれる。しかしまっすぐに道を歩む者は主に喜ばれる。

「まっすぐに道を歩む者は主に喜ばれる」とあります。
11章27節

 熱心に善を捜し求める者は恵みを見つけるが、悪を求める者には悪が来る。

「熱心に善を捜し求める者」は、主に喜ばれるのです。
12章2節。

 善人は主から恵みをいただき、悪をたくらむ者は罰を受ける。

「善人」は、主に喜ばれます。
12章22節

 偽りのくちびるは主に忌みきらわれる。真実を行なう者は主に喜ばれる。

「真実を行なう者は主に喜ばれる」とあります。

 「失敗すること」は、別に大変な問題ではありません。けれども、「曖昧にすること」、「隠
すこと」、「陰でコソコソすること」は、悪いことであると、ソロモンははっきり書いたのです。
 ただ人前だけを上手にとり繕い、人間を喜ばせようとする人は、物事を曖昧にしたり、
隠したりします。けれども、イエス様の前に光のうちを歩む者は、もはや隠したり、曖昧
にしたりすることはできません。

「主イエス様に喜ばれる生涯」、これこそ、私たちの人生の内容であるべきなのではないの
でしょうか。その秘訣は、私たちの内に主イエス様が生きておられるかということです。

 私たちは、いつも失敗ばかりする者ですけれど、イエス様は、何でもおできになるお方です。主により頼み、徹頭徹尾主に信頼する者は、勝利から勝利に至ります。
ヘブル人への手紙 13章20節から21節

 永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から導き出された平和の神が、イエス・キリストにより、御前でみこころにかなうことを私たちのうちに行ない、あなたがたがみこころを行なうことができるために、すべての良いことについて、あなたがたを完全な者としてくださいますように。どうか、キリストに栄光が世々限りなくありますように。アーメン。

とあります。ここで、「みこころを行なうことができる」と書き記されています。

 最も大切なことは、いったい何なのでしょう。答えは、「主に喜ばれること」です。
主は、私たちの裏表のない愛を、望んでおられます。
主は、私たちの喜びをもった奉仕を、望んでおられます。
また主は、私たちの正直な態度を、望んでおられます。


 最後に、主のみこころにかなった人の一人を、聖書から見てみたいと思います。
 昔むかしの人だった、アダムから七代目のエノクという男のことです。「エノクは、みこころにかなう人であった」と、聖書は言っています。創世記5章に、彼のことについて書かれています。彼はどうしてみこころにかなう人だったのでしょうか。
創世記 5章23節から24節

 エノクの一生は三百六十五年であった。エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。

彼は主を信じただけではなく、主を愛した者として、「主をお喜ばせしたい」と願い、主と
ともに歩んだ人でした。そして死を見ないで、そのままで天国へ行きました。彼について
次のように書かれています。
ヘブル人への手紙 11章5節

 信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。

聖書は、はっきり言っています。エノクは、「主に喜ばれている」人でした。

主に喜ばれるということは、エノクにとって毎日、毎日、主とともに歩むことであり、一瞬、一瞬、主と結び付いていることを意味していたのです。
彼は、毎日何十回も、「主よ。私はどうしたらいいのでしょうか、教えてください」という態度を取ったのです。

 主を信じるということは、ただ単に主のみことばを幼子のように受け入れるということ
だけではなく、意識して、主にのみ、より頼むということでもあります。

「信仰がなければ、主に喜ばれることは不可能です」と、聖書は何回も何回も強調しています。
 主を信じるということは、結局、主に頼ることです。主に頼ると、大いに祝福されるようになるからです。

 エノクの生涯は祝福された生涯でした。どうしてであるかと言いますと、彼は何があっても、「私は主をお喜ばせしたい」と、切に望んだからなのです。



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メッセージ・証し集インデックスページ

◆メッセージ(ベック兄)

※一部、テープの転換による不明部分あり

神のみことばは神のみことばである(5) 2006. 4. 18
神のみことばは神のみことばである(4) 2006. 4. 11
神のみことばは神のみことばである(3) 2006. 4. 4
神のみことばは神のみことばである(2) 2006. 3. 21
家族の救い 2006. 3. 19
神のみことばは神のみことばである(1) 2006. 3. 14
主イエスは神の子キリストである(4) 2006. 3. 7
主イエスは神の子キリストである(3) 2006. 2. 28
主イエスは神の子キリストである(2) 2006. 2. 14
主イエスは神の子キリストである(1) 2006. 2. 7
勝利の生活の秘訣 2006. 1. 24
イエス・キリストのからだ 2006. 1. 17
主の永遠からの予定 2006. 1. 10
元旦メッセージ 2006. 1. 1


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