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メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


人間をとる漁師にしてあげよう(1)
   
2004.9.28(火)
ベック兄メッセージ(メモ)

 
引用聖句
使徒の働き 2章33節から47節
「ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。ダビデは天に上ったわけではありません。彼は自分でこう言っています。『主は私の主に言われた。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまではわたしの右の座に着いていなさい。』ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」と言った。そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」ぺテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい。」と言って彼らに勧めた。そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行なわれた。信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。

使徒の働き 3章1節から11節

 ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。すると、生まれつきの足のきかない男が運ばれて来た。この男は、宮にはいる人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。彼は、ペテロとヨハネが宮にはいろうとするのを見て、施しを求めた。ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい。」と言った。男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。この人が、ペテロとヨハネにつきまとっている間に、非常に驚いた人々がみないっせいに、ソロモンの廊という回廊にいる彼らのところに、やって来た。

使徒の働き 4章4節

 しかし、みことばを聞いた人々が大ぜい信じ、男の数が五千人ほどになった。

使徒の働き 5章14節

 そればかりか、主を信じる者は男も女もますますふえていった。

使徒の働き 5章40節から42節

 使徒たちを呼んで、彼らをむちで打ち、イエスの名によって語ってはならないと言い渡したうえで釈放した。そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。そして、毎日、宮や家々で教え、イエスがキリストであることを宣べ伝え続けた。

使徒の働き 6章7節

 こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰にはいった。


 初めに、今まで私の病気のことを心配して、祈ってくださったことを心より感謝します。
 私自身は、どうしても早く元気になりたいという気持ちがなかったのです。「主よ。お任
せ致します」。どうしてか、なぜか分かりませんけれど、(ドイツでも全く注意しようとはしませんでした。)日本に帰ってきてから受けた診察の結果、医者から、「これからは毎週血液検査のために来なくてもいいです。一週間おきでいいです」と言われました。今度は10月4日になります。予防のための薬も飲まなくてもいいそうですから、ちょっと不思議なのではないかと思います。医者は私よりも喜んでいたらしいです。「このような薬は、今まで使ったことがないし、非常に効果的でしたから、嬉しい」と。今度の学会のとき、発表するのではないでしょうか。(笑)

 時々、メッセンジャーの兄弟は、電話で報告してきます。日曜日にメッセージに行った地で、「本当に良かった。祝福された。新しい人も福音を聞いた…」と。もちろん犠牲なしにできません。金曜日の夜遅く会社から疲れて帰ってきて、また土曜日に出かけなくてはなりません。けれどもみな、日曜日に戻って来ると、「本当に良かった」と言います。主が祝福してくださったからです。
最近、ある兄弟は、「福音を宣べ伝えたけれど、個人的に導くことができなかったから、
今度あなたが行く時によろしくお願いします」と言いました。言うまでもなく、人を導くために議論してはいけないし、また、納得させようと思っても、何もなりません。けれど、
いわゆる求道者は、どうしても救いの確信を得ることが大切です。そのために、みことば
を宣べ伝えるメッセンジャーだけではなくて、姉妹たちも用いられなければなりません。私がいてもいなくても、みな、しなければならないのではないでしょうか。
 ですから、今日から五、六回にわたって、『いかにしてイエス様のためにたましいを獲得
することができるのか』というテーマについて、一緒に考えてみたいと思います。

・私たちの心の願いはいったい何でしょうか。また、イエス様の心の願いは何でしょうか。私たちの心の願いとイエス様の心の願いとは、同じなのでしょうか。
・私たちにとって一番大切なのは、いったい何でしょうか。それは自分の仕事でしょうか。自分の興味でしょうか。自分たちの集まりでしょうか。
・イエス様が私たちをご覧になって、喜んでくださるのでしょうか。主のみこころにかなった生活をして、真に主をお喜ばせしようということこそが、一番大切なのではないでしょうか。
・イエス様は、何を欲っしておいでになるのでしょう。イエス様の心からの願いは、いっ
たい何でしょう。主は何を望んで、おいでになるのでしょうか。

ペテロ第二の手紙の中で、一つの答えがはっきり書かれています。結論から言いますと、
主イエス様は、「ひとりも滅びることがないように願っておられる」ということです。よく知られている、よく引用される箇所です。
ペテロの手紙・第二 3章9節

 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

「すべての人が悔い改めて、救われるように」。これが、主の願っておいでになることです。
もう一箇所、これも素晴らしいみことばです。
ヨハネの福音書 6章40節

「事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」

人間が「永遠のいのちを持つこと」、これこそが、主のみこころです。ですから、主の願いは、人間が救われることなのです。主は人間を救うために、ご自身が最も愛する方、御子イエス様をお与えになられたのです。

 私たちの心の願いは、人を救うことなのでしょうか。この目標を頭に入れていない者は、
用いられないし、怠け者です。毎週、何人かの人たちが救われるように、期待すべきではないでしょうか。

 今、司会の兄弟がお読みになりました箇所の中に、「主は毎日人を救われた。信じる者の
群れに加えてくださった」とあります。「毎日」、これこそが、主の望んでおいでになるこ
となのではないでしょうか。主のみこころは変わりません。主は何でもおできになるお方です。毎日とは多過ぎると考える人もいるけれど、絶対にそんなことはありません。イエス様は、私たちが信じれば信じるほど、多くのことを為してくださいます。私たちが主にどんなに信頼しても、信頼し過ぎるということはありません。「もし信じれば、神の栄光
を見る」と約束されています。

 一つのことがはっきりしています。私たちの不信仰のために、主は今まで、あまり多く
のことを為すことがおできにならなかったのではないでしょうか。
 イエス様がご自分の故郷であるナザレへ行かれたとき、そこでは力あるわざを一つも為すことができず、ただ少数の病人に手を置いていやされただけでした。どうしてであるか
と言いますと、彼らの不信仰のゆえです。マルコ伝を見ると、次のように書かれています。
マルコの福音書 6章5節、6節

 それで、そこでは何一つ力あるわざを行なうことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。イエスは彼らの不信仰に驚かれた。

 結局、イエス様は、故郷であるナザレで、もっとたくさんのことをなさりたかったに違いありません。けれど、彼らの不信仰によって、ただ二、三人をいやされただけでした。
 ナザレの人たちと同じことが、私たちについても言えるかもしれません。即ち、「あなた
がたの中でも、あなたがたを通して、わたしは力あるわざを今まであまり行なうことがで
きず、ただ少数の者だけが罪を赦され、喜びを与えられただけなのです」と。

 私たちの心の願いは、いったい何でしょうか。イエス様をもっとよく知りたいのでしょ
うか。本当に祈る人になりたいのでしょうか。そのための道は、私たちが人のたましいを
獲得するために出かけることにあるのです。もし私たちがそれをすると、自分の無力さを感じるようになり、祈らざるを得なくなります。そうすれば、主を素晴らしく、より良く知ることができるようになります。
 私たちの心からの願いは、いったい何でしょう。もし私たちが、主イエス様と一緒に人のたましいを救う者になりたいと思っているなら、本当に幸いです。

ですから、「いかにして、主イエス様のためにたましいを獲得することができるか」ということについて、何週間かにわたって考えたいと思います。

 今日は、四つの点について、少しだけ考えたいと思います。
1.重要な質問と確証について。
2.たましいの救いの根本要素について。
3.たましいの救済者、たましいの救い手について。
4.たましいを救う人に対する忠告と原則について。

1.「重要な質問と確証」について。
 私たちは、主イエス様を信じる者として、人のたましいを救う者なのでしょうか。それ
とも、私たちは、一生涯信心深い様子はしているけれど、何をおいてもまず必要な救いの奉仕を、なおざりにしている者たちに属するのでしょうか。
 たましいをすなどらないキリスト者は、ちょうど、土地を損なう実らない木のようなものであるということを覚えるべきです。イエス様のために、救われていない人のたましいを獲得することをためらったり、「そのチャンスがないのだ」などと言ってはなりません。言いわけはいつも、「やりたくない」ということを表わしています。

 主イエス様との生き生きとした交わりを持って生活をしている信じる者は、たましいの
滅びゆく人たちに、イエス様への道を指し示す人たちにほかなりません。
 さらに、人のたましいを救うということは偉大な仕事であり、しかも主ご自身が、人間に、この仕事をすることをお許しになったということは、素晴らしいことなのではないでしょうか。
イエス様が、ペテロとアンデレに、「ついて来るように」とおっしゃったとき、彼らに言わ
れたのです。
マタイの福音書 4章19節

「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」

 イエス様に従っている者は、取りも直さず、イエス様から人をすなどる人として召されたことを意味します。私たちはこの大切な事実を確信し、自覚しているのでしょうか。

 また一方、救われた者として救いの奉仕をしない者は、必ず霊的に損なわれるのであり、
「どうでもよいのだ」というような者になってしまいます。将来、イエス様の前に進み出
るとき、空手の人はどれほど辛いことでしょう。
今朝、ダニエル書から一箇所読みました。『日々の光』の中で、引用された箇所です。
ダニエル書 12章3節

 思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。

とあります。私たちは、このように素晴らしいみ約束に面と向かっていながら、なおも、信心深いなどということで満足しているのでしょうか。いいえ、私たちが最初の愛を捨てない限り、私たちはそのままではいられないはずです。
 もし、私たちが最初の愛を捨ててしまっているなら、悔い改めましょう。そして上からの力を得、自分の満たし、主の御名によって勇気を持ち、たましいの救いの働きに出かけましょう。その際に、これから述べる私の話が、少しでも役に立ったら幸いと思います。

 私たちは、いかにして主イエス様のためにたましいを獲得することができるのでしょう
か。ここまで、「重要な質問と確証」について、少し考えました。


2.次に、「たましいの救いの根本要素」について。
 イエス様を信じる者は、たましいを救う者でなければなりません。たましいを救う者で
ない信者は、「どうでもよい」という危険な状態にいるのです。けれど、イエス様との生き生きとした交わり、また、結びつきを持って生活をしている者は、地獄に滅びゆく多くの人たちを、無関心に眺めているなどということはできないはずです。それどころか、必ず、この確実に滅びに落ちて行く失われたたましいを救い、主イエス様のところへ導こうとするのです。

@ まず、人のたましいの救いに必要なものは、繊細な感情です。
 主イエス様に対してまだ回心していない人を救うためには、配慮が必要です。真心と愛
のこもった慎みが、これから種を蒔こうとする土地に用意されなければなりません。配慮とは、まず、救われつつある人の、個人的関心事の相手になってあげるということです。
話しをしている間にも、その人に何が必要かを指し示してあげることも必要です。

A  次に、イエス様との祈りの結びつきが必要です。
 この結びつきがなければ、配慮は何の役にも立ちません。決定的勝利は、絶えず祈りに
よって勝ち取られるのです。

B そして、能力です。
 たましいを救う者は、聖書を用いなければなりません。主のみことばだけが、罪人を救
う力を持っているからです。けれど聖書を用いようとする人はまた、聖書を知らなければなりません。どこに適当な箇所があるかを知らなければなりません。聖書を応用することができなければなりません。そのためには、みことばの箇所を暗記することをお勧め致します。

C  更に、主のみことばが真実であるということを、絶対的に確信することです。
 主のみことばに対して、少しの疑い、少しの不安でも持っているなら、結果は不確かな
ものとなり、失敗します。なぜなら、疑いとか不安は、聖霊の働きを無力にするからです。
疑いや不安は、ちょうど小児麻痺のウイルスのようなものです。例えば、「神なき者、回心
していない者は滅びる」という確信のない者は、たましいの救済にも積極性はないのです。

D  加えて、決して絶望することのない信仰です。
 ある場合には、完全に見込みがないように思われるかもしれませんけれど、イエス様を考えている人は、偉大なことを経験することが許されます。絶望している信仰では主イエス様の偉大さを見ることができません。しかし、イエス様にいかりを下ろした信仰は、主の御手を動かすことができるのです。

E 最後に、忍耐です。
 忍耐のないたましいの救済者は、役に立つどころか、害になります。結果を豊かに結ぶたましいの救い手は、主の「とき」を考えることに慣れていなければなりません。なぜなら、主の「とき」は、私たちの「とき」の配分と全く異なっているからです。例えば、ノイローゼ気味の、辛抱強くない漁師は、魚をあまり獲らないか、又は全く獲らないのと同じです。たましいを救いたいと思いながらも、この忍耐を知らない人は、絶対に必要な主イエス様の忍耐を、なおも学ぶべきではないでしょうか。次のように書かれています。
マタイの福音書 4章19節

 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」

 私たちに当てはまることばでもあります。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人
間をとる漁師にしてあげよう」。
 今まで、「重要な質問と確証」、及び、「たましいの救いの根本要素」について話しました。


3.「たましいの救済者」、即ち、「たましいの救い手」について。
@ 人のたましいを救う者は、完全にイエス様に従う者でなければなりません。
 中途半端な人は、ほかに別の興味を持っています。即ち、信心深そうな話とか、信心深
そうな事業、又は、楽しみな場所とかを、愛しているのです。
 イエス様は、「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」と。あらゆる機会を、主のご意志として受け取る備えのない人は、結果の乏しい人です。また、何かあることで妥協してしまっている人は、ちょうどルカ伝に出てくる畑を耕す人のような者です。即ち、「手を鋤につけてから、うしろを見る人」のような者です。
 全く妥協のない、断固とした態度の持ち主だけが、イエス様と一緒に十字架につけられた素晴らしい生活をすることができるのです。

A 実り多い、たましいの救い手は、聖霊に満たされていなければなりません。
 救われた兄弟姉妹の中で、御霊に満たされている者が少ないということは、非常に悲し
い事実です。御霊によって示された道を歩まない兄弟姉妹は、多くの実例が示すように、
狂信、又は、その人をふざけ半分の信仰に追いやるのです。
 信じる者の生活にイエス様の死とよみがえりの力が働いていないなら、御霊の満たしを
自分のものとすることができません。聖霊の満たしをいつも願っている者は、前もって、
ローマ書6章6節のどうしても必要な真理を自分のものとしなければなりません。よく、知られている箇所です。
 ローマ人への手紙 6章6節

 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。

 原語を見ると、「確信する」となっています。

B たましいを救う人は、祈りの人でなければなりません。
 この場合、静かな小部屋での祈りや交わりの祈りが問題なのではなく、絶えざるイエス様との祈りの結びつきが問題なのです。人のたましいを救いたいと思う者は、この非常に大切な仕事をしている間、イエス様と絶えず結びつきを持っていなければなりません。
 さらに、次のような事がらを祈ることが大切です。即ち、備えられたたましいに会えるようになりますように、と。私たちは、会う人全部に、いきなりその人のたましいの救いについて語りかけるなどということは、もちろんできません。
 イエス様は、私たちにいつも的を得たみことばを送ってくださり、個々の人の取り扱いに適確な方法を必ず示してくださいます。主は、私たちのするこの仕事を祝福してくださいます。たましいの救いの働きの前後の祈りは、働きそのものと同じくらい大切です。

C  たましいを救う人は、たましいを救いたいという要求で、一貫していなければなりません。
まだ救われていない人の苦しみを見て、涙も流さないような兄弟姉妹は、イエス様のた
めに情熱を燃やすことが何を意味しているかを知らない人でしょう。医者は自分が手術をする患者を愛さなくても、その技術が優れているなら良い外科医であるとも言えるでしょう。けれど、滅びゆく人を愛さないたましいの救済者は、実を結ぶことのないたましいの救済者であると、はっきり言えます。
 百何十年前に、スコットランドにジョン・ノックスという兄弟がいました。非常に祝福さ
れ、用いられた人だったのですけれど、彼は何を祈ったかと言いますと、「主よ。私にスコ
ットランドを与え給え。さもなくば、私は死にます」と祈ったのです。
 イエス様に対して情熱を持たず、イエス様のために人を救おうとする気持ちを、精神と
たましいにみなぎらせていない人は、自分の信仰生活を信心深い利己主義としてしまう者
です。


4.「たましいを救う人に対する忠告と原則」について
 どうしたら、たましいの救いの働きをすることができるのでしょうか。
@ 口で話すことによってです。
 この方法によるたましいの救済は、最も結果の多い大切な方法です。この方法の右に出
るものはありません。個人的接触はしばしば奇蹟を現わします。この接触を妨げる障害が
山のようにあっても、「信仰は山をも移し換える」ということをはっきり知ることが大切です。

A 本をあげる、配ることによってです。
 私たちはもっともっと、集会で出している本を使うべきではないでしょうか。もちろん、配る本、求めている人たちにあげる本は、良いものでなければなりません。お百姓さんは、一番良い種を蒔くように心がけます。お百姓さんは、収穫のときに失望しないように良い種を蒔くのです。本は確かにたくさんあります。けれど、実際に良いものは少ないのではないでしょうか。その本はまだ主を知らない読者が曖昧に妥協することなく、二者択一、即ち、あれかこれか一つを選ぶことを迫るような本でなければなりません。

B 個人的な手紙によってです。
 手足を切断され、木の切り株のように、横になったままでいなければならない、ある若
い婦人がいました。その婦人はそのような痛ましい状態にもかかわらず、イエス様のため
に働きたいと思いました。彼女は長い間考えた後、指物師に自分の体を固定することがで
き、万年筆をも備えた台を作らせました。そして、このように大変な骨の折れる方法で次々と数千の手紙を書いたのです。そして、この手紙が数百人の人たちを救う原因になったのです。

C イエス様のための奉仕や、聖書の学び、或いは、喜びの集いに招くことです。
 この場合、福音を宣べ伝える者は、生まれ変わった者であることと、全福音を省略する
ことなく伝えること、及び、聖書の霊感を信じている者であることが前提となっています。
この霊感とは、聖書は主のことばであり、主が人に書かせられた書物だからです。聖書を書いた人は聖霊によって書いたのであり、自分の考えで書いたのではありません。ですから、聖書は霊感の書です。

 
次に、「導くための原則」について。

@ あなたと話している人の話を遮ってはいけません。むしろ、その人の話を聞きながら、
その場合に聖書のどのような箇所を適用すべきかを、祈りとともによく考えることです。

A いつも目標をつかんでいなければなりません。その目標から、決して自分がそれて
はいけません。本来の目標と結論に導く機会を逃してはなりません。

B たとえ挑戦を受けたとしても、激しく答えてはいけません。
 テモテへの手紙・第二 2章24節、25節

 主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍び、反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう。

「いつも変わりなく、親切でありなさい」とあります。

C 勇気を持ちなさい。誰でも恐れを抱いてはなりません。恐れを抱き不安を持っている
信者は、ほかの人に感銘を与えません。

D 決して議論をしてはなりません。テモテ第一の手紙を見てみましょう。
 テモテへの手紙・第一 6章20節

 テモテよ。ゆだねられたものを守りなさい。そして、俗悪なむだ話、また、まちがって「霊知」と呼ばれる反対論を避けなさい。

とあります。もう一箇所、

 愚かで、無知な思弁を避けなさい。それが争いのもとであることは、あなたが知っているとおりです。

 自分の論拠は、聖書に書かれているものであってほしいです。なぜなら、主のみことば
が岩を打ち砕くハンマーのようなものであって、自分の論拠は岩を砕くことができません。

D 尋ねている人自身に、できれば聖書の箇所を読んでもらうことも大切です。
 その度ごとに、その人に、「聖書のみことばが真理である」ということを信じるかどうか
尋ねなさい。もし信じなかったなら、そして、もしそうすることが必要なら、聖書のほか
の箇所を引用して、その人にみことばを説明しなさい。いかなる場合にも、聖書をおろそかにしてはなりません。

マルコの福音書 1章16節、17節

 ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」

 イエス様はシモンをご覧になりました。シモンは名前を二つ持っていたのです。「シモン」は、人間の弱さを表わしています。イエス様がシモンを初めてご覧になられたとき、シモンを特別に良い人間とは思われませんでした。事実シモンは、十字架に架かられるイエス様を、鶏が鳴く前に三度も否定してしまったのです。けれどもシモンは変えられたのです。「ペテロ」になったのです。このペテロが聖霊降臨節のとき素晴らしい証しをし、イエス様を紹介したのです。このことも、イエス様はこのシモンを呼ばれたとき、すでにご存知だったのです。
イエス様は、今の人間だけをご覧になるのではなく、主の恵みによってその人間がいかに変わるかも見ておられるお方です。
イエス様は、シモンをご覧になりました。そして、イエス様は、私たちをもご覧になっておいでになるのです。私たちが良い人であろうが、悪い人であろうが、また、適当な人であろうが、不適当であろうが構いません。私たちをご覧になって、私たちをも呼んでおられる主は、素晴らしいお方です。忠実なお方です。そして、その主の呼びかけとは、私たちにも当てはまるものです。
「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」



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メッセージ・証し集インデックスページ

◆メッセージ(ベック兄)

※一部、テープの転換による不明部分あり

神のみことばは神のみことばである(5) 2006. 4. 18
神のみことばは神のみことばである(4) 2006. 4. 11
神のみことばは神のみことばである(3) 2006. 4. 4
神のみことばは神のみことばである(2) 2006. 3. 21
家族の救い 2006. 3. 19
神のみことばは神のみことばである(1) 2006. 3. 14
主イエスは神の子キリストである(4) 2006. 3. 7
主イエスは神の子キリストである(3) 2006. 2. 28
主イエスは神の子キリストである(2) 2006. 2. 14
主イエスは神の子キリストである(1) 2006. 2. 7
勝利の生活の秘訣 2006. 1. 24
イエス・キリストのからだ 2006. 1. 17
主の永遠からの予定 2006. 1. 10
元旦メッセージ 2006. 1. 1


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