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メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


人間をとる漁師にしてあげよう(3)
   
2004.10.12(火)
ベック兄メッセージ(メモ)

 
引用聖句
マルコの福音書 1章16節から18節
 ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。

マルコの福音書 3章14節から15節

 そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。


 今、司会の兄弟が言われましたように、御代田で二つの結婚式がありました。T兄弟と姉妹の結婚式、本当にすばらしいものでした。そして昨日は、Y兄弟とT姉妹の結婚式でした。私も、今回ほどこの結婚式のために祈ったことはありませんでした。少し心配だったのです。地元の人々の結婚式だったからで、それは初めてのことでした。そして、地元の人々が、(未信者の方々ですが、)だいたい150人くらいみえました。
 
センターを建てたとき、オウム真理教の問題つまり、このような建物を建てると、「おそらく似たような宗教ではないか」と思った人もいましたし、私たちを批判する人々もいました。ですから、「ここで行なわれる結婚式は、いったいどういうものか」と思われた人もたくさん出席したことでしょう。けれど、今回は、結婚式に招待されたのですから、平気な顔で来ることが出来たと思います。

お嫁さんのお父様には、2ヶ月前に初めてお会いしました。もちろん、「あんな所で結婚式を挙げるのはけしからん」云々と。日蓮宗の方だそうです。(どうでもいいことですけれど。)(笑)そして、いろいろなことを話し合ってから、「まぁ、いいだろう」ということになり、お父様も列席されました。けれど花嫁さんのお父様は、この結婚式で、始めから終わりまで泣いてばかりおられました。喜んで、喜んで、喜んで…。ですから、どうして、国際福音センターが御代田に建てられたのかを思うのです。

このセンターは、本当は東京で建てたかったのですけれど、いくら土地を探しても見つ
かりませんでした。その当時土地の値段は大変高かったのです。東京ではできなかったので仕方がなく御代田になってしまったのですが、人間的な計画は全く役に立たないものだと思わされました。
 御代田町民には、何の反応も起こらないという状態でした。救われた人はもちろん何人かいますけれども、町全体としては駄目でした。ですから、今度の結婚式はいったいどういうものになるのかと思っていたのです。けれども、結婚された二人の証は、本当に良かったのです。
 
まず、彼の証しはどのように始まったかと言いますと、「私は大嘘のY・Tです」と(笑)。彼は、結婚前に集会で兄弟姉妹に質問されたのです。「どう?結婚のことは祈っているの?相手はいるの?」と。彼は「いない」と言いました。しかし実はいたのです。彼は4年間主から離れていました。彼は、彼女に「自分はイエス様を信じている」ということがずっと言えませんでした。ですが主はあわれんでくださいました。彼女はそれを感じたのです。そして、分かってしまったとき、彼は、「実は、私はイエス様を信じているので、あなたのことが好きだけれど、あなたがイエス様を信じなければ無理です。結婚できません」と、彼女に言ったのです。彼女は、「私もイエス様のことを知りたいです。けれど、結婚のためなら嫌です」と言いました。「あなた自身で、イエス様を体験的に知らなければならない」と彼は彼女に伝え、彼女は、4ヶ月前に初めて集会に来ました。4ヶ月間、未信者としてです。1、2回、集会に来るうちに、彼女の心が開かれ、はっきりとした確信が与えられるようになったのです。本当にすばらしいことです。
 
彼女の証しも本当に良かったのです。おそらく、聞いた人々は忘れられないのではないかと思います。つまり、イエス様の呼びかけとは、「すべて疲れた人、いろいろなことで悩んでいる人はおいで。わたしのところに来なさい」と。「キリスト教に入れ」ではなく、「教会に行きなさい」でもなく、「いい子になれ」でもないのです。ただ、「わたしのところに来なさい。休ませてあげます」と。そして、T・K姉妹はそうしたのです。イエス様のところに行って解放され、本当に喜びに満たされるようになったのです。けれども、イエス様は、「おいで。わたしのところに来なさい」とおっしゃっただけではなく、「全世界に出て行け。福音を宣べ伝えなさい。わたしを紹介しなさい」とも言われました。彼女は、4ヶ月の間にイエス様のところに行っただけではなくて、出かけてイエス様を紹介するようになりました。


 私たちの最近のテーマは、『私たちは、いかにして、主イエス様のためにたましいを獲得することができるのか』というものです。
・ 重要な質問と確証
・ たましいの救いの根本要素
・ たましいの救い手
・ たましいを救う人に対する忠告
以上について考えました。

そして先週は、「無関心で冷淡な人々といかに接するべきなのでしょうか』という質問に
ついて考えたのです。6つの点がありました。
1.「その人自身が、主なる神の前に罪人であるということ」を教えてください。
2.「何が罪であるか」を示してください。
3.「罪の結果は非常に恐ろしい」ということを教えてください。
4.「不信仰の恐ろしさ」も示してください。
5.「主のすばらしい愛」を指し示してください。
6.「恵みとは何か」ということを教えてください。

 主の恵みによって救いにあずかるようになった者は、だれでも、イエス様を知ったその
日を大切な日として区別するでしょう。その日から、私たちはもはや悪魔と結びついた者
ではなく、主なる神の子どもなのです。そして、今まで想像もしなかった心の平和と喜び
と自由を得たのです。
 けれど、ここに一つの要求があります。それは、家族の方々や友人たち、また親戚の人々
も、このような平和と喜びと自由をもたなければならないということです。ですから、私たちは、心の内で、「どうしたら、主イエス様のためにたましいを獲得することができるか」
と質問したのです。

 ある兄弟が、私に一通の手紙をくださいました。その中に、彼の下宿の6人の方が、聖
書を読んでいて、そのうちの1人が救われた、ということが書いてありました。これは、彼にとって大きな喜びでした。
別の兄弟が、顔を輝かせて私のところに来られました。何が起こったのでしょうか。彼
は、前から1人の友だちにいろいろなことを話しましたが、今日初めて、その人と一緒に祈ることができたということでした。
他の姉妹は、友だち2人を集会に案内しました。結果として今は、彼女たちは単なる友
だちではなく、主にある姉妹となったのです。これもあの姉妹にとって大きな喜びです。
また、別の姉妹は、長い間独りぼっちでしたが、姉妹のお姉さんもイエス様によって救
われ、主にある姉妹になったのです。言うまでもなく、今、お二人は、家族全体の救いの
ために祈るようになったのです。
悩んでいる人々が、主イエス様のみもとに導かれ、救われると、私たちは喜びに満たさ
れます。私たちはみな、先程読みましたように、人をとる漁師になるべきです。

 主なる神の敵である悪魔は、一日中、「どうしたら人間を混乱させることができるのか、
滅ぼすことができるのか、いかにして人の心の目を見えなくすることができるか」ばかり考えています。
 その反面、主イエス様は、すべての人のために、十字架で、完全な救いを備えられました。「どうしようもない者」として、イエス様のみもとに行き、イエス様の成された「救い」
を感謝したら、その人は救われます。

 イエス様は、この福音を他の人に伝える人を捜しておられます。ですから、イザヤ書の
中で、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と主は当時だけではなく、今日も言われます。
私たちは、イザヤのように答えることができるのでしょうか。
「ここに私がおります。私を遣わしてください」と答える人はだれでしょうか。
「私たちはいかにして、主イエス様のためにたましいを獲得することができるか」という
問題は、私たちが生きる瞬間瞬間に、最も大切な、そして差し迫った問いなのです。

 前回は、『無関心で冷淡な人々といかに接するべきなのでしょうか』と考えたのですけれ
ど、今日はちょっと違う種類の人間について考えたいと思います。
 すなわち、『疑っている人々と、いかに接するべきなのでしょうか』ということについて少し考えたいと思います。
 疑っている人々の中には、次の二種類のタイプがあります。「表面的に疑っている人々」
と「真面目に疑っている人々」です。

1.表面的に疑っている人々  
 表面的に疑っている人はみな、多かれ少なかれ、自分が疑っていることを誇っています。
けれど根本的には、その人の疑いは、罪のお上品な言い訳に過ぎないのです。そのような人はいつも、「聖書の言っていることは本当であるはずがない。本当であるならば、私は騙
された者なのだ」と言うのです。
 このような種類の人々に対しては、たくさんの時間を費やすべきではありません。特に、役に立たない議論はすべきではありません。表面的に疑っている人に、その人の疑ってい
る原因を示してあげなさい。例えば、
ローマ人への手紙 1章25節

 それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。

ローマ人への手紙 1章28節

 また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。

表面的に疑っている人々の目の前に、主なる神のみことばの鏡を掛けてあげましょう。そ
してその人に、何が疑いの原因であるかを示してあげなさい。
ローマ人への手紙 1章29節から31節

 彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。

「疑う者」は、聖書によると「愚かな者」です。この愚かさの結果は、聖書で次のように
言われています
コリント人への手紙・第一 1章18節

 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。

愚かさの結果は、永遠に滅びゆくことです。ですから、疑いを捨てて、十字架のことばを
信じる者は、決して後悔しませんと。
コリント人への手紙・第二 4章3節、4節

 それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々のばあいに、おおいが掛かっているのです。そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。

「この世の神」、すなわち悪魔です。なんと真剣なみことばでしょう。このみことばは真実です。
テサロニケ人への手紙・第二 2章10節

 また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。

すなわち、「彼らは、意識して拒んだから」です。
テサロニケ人への手紙・第二 2章11節から12節

 それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。

そして、
テサロニケ人への手紙・第二 1章7節から8節

 苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現われるときに起こります。そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。

 今まで、「表面的に疑っている人々」について、考えました。
 次に、「真面目に疑っている人々」について、考えたいと思います。


2.真面目に疑っている人々
 この種類の疑っている人々は、「表面的に疑っている人々」よりも、もっと知的な人々で
す。彼らは、自分たちの疑いには根拠があると思っていますから、彼らの疑いも、一口で
言えば、「自分は信じることができない」ということです。
 その人々に、ご自分の父親や友だちを信じているかいないかを尋ねてみてください。「あ
る人を信じるということ」は、「その人の話したことばを信じるということ」であることを、
教えてください。すなわち、言ったことが真実であり、そこには欺きもなければ、欺こうとする試みもないということを信じることです。
 疑っている人は何かを信じています。その人々に、次の聖書の箇所を示してあげなさい。
ヨハネの福音書 7章17節

 だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。

知ろうと思えば、行なおうと思えば、わかるのです。
このみことばが、真面目に疑っている者が誠実であるかないかを決定しています。もし、
その人が誠実ならば、その人が主のみことばを読むことによって、主なる神はご自分の意
思を行ないたいと思っておられるということを教えてあげなさい。なぜなら神のご意思は、
聖書にだけ、はっきりと明らかに示されているからなのです。
 主は何を考えておられるのでしょうか。何を望んでおられるのでしょうか。
ヨハネの福音書 20章31節

 しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。

つまり、私たちが「まことのいのち、永遠のいのちを得ること」こそが、主なる神の望ん
でおられる唯一のことがらなのです。さらに、その人に次の箇所を示してください。
ヘブル人への手紙 11章6節

 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

主は、生きておられるから、祈りを聞いてくださるし、報いてくださいます。主は、祈り
に答えてくださるお方です。なぜなら、主イエス様は、誠実な祈りを全部聞き、答えてくださる方なのです。
 ですから、真面目に疑っている人々は、すでに主なる神の前に行なったことが、どんな
ことであるのか、次のように祈りましょうと言ってあげなさい。
「神様。イエス様があなたのひとり子であるということを、私は知りませんけれど、明らかにしてください。もしも、あなたが私にそれを明らかにしてくださいましたら、私は、
イエス様を自分の救い主として受け入れます」と、祈ればよいのですと教えてあげてくだ
さい。

聖書の中に記されている3人の真面目に疑っている人物、すなわち、ナタナエルとトマスとパウロが、いかにして、生けるまことの神主イエス様を知るようになったかを示してあげてください。

@ ナタナエル
まずナタナエルについての箇所は、
ヨハネの福音書 1章45節

 彼はナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」

イエス様は、本当はナザレの人ではなく、ベツレヘムの人でした。イエス様はヨセフの子
ではなく、奇蹟的にお生まれになった方です。けれども、彼らはそのように言ったのです。
ヨハネの福音書 1章46節

 ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」

「自分で調べてみなさい」ということです。
ヨハネの福音書 1章47節から49節

 イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」

彼は真面目に疑ったのです。けれども、やっぱり救い主に会いたかったに違いありません。この救い主に会った瞬間、「あなたは神の子です」と告白したのです。

A トマス
 次はトマスです。私たちが主イエス様を疑うと「あなたはトマスの親戚なのか」とよく言われますけれど(笑)、
ヨハネの福音書 20章24節、25節

 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。

すなわち、「復活なさった主を見た」と言ったのです。
25節から29節

 しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」

伝説によると、このトマスは、中国まで行ってイエス様のことを紹介しました。それから
殉教の死を遂げました。疑った者トマスは、完全に変えられて、福音を宣べ伝える者にな
ったのです。

B パウロ
 もう一人は、パウロです。パウロについての箇所は使徒の働きに書き記されていますが、
使徒の働き 26章9節から20節

 以前は、私自身も、ナザレ人イエスの名に強硬に敵対すべきだと考えていました。そして、それをエルサレムで実行しました。祭司長たちから権限を授けられた私は、多くの聖徒たちを牢に入れ、彼らが殺されるときには、それに賛成の票を投じました。また、すべての会堂で、しばしば彼らを罰しては、強いて御名をけがすことばを言わせようとし、彼らに対する激しい怒りに燃えて、ついには国外の町々にまで彼らを追跡して行きました。このようにして、私は祭司長たちから権限と委任を受けて、ダマスコへ出かけて行きますと、その途中、正午ごろ、王よ、私は天からの光を見ました。それは太陽よりも明るく輝いて、私と同行者たちとの回りを照らしたのです。私たちはみな地に倒れましたが、そのとき声があって、ヘブル語で私にこう言うのが聞こえました。『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。』私が『主よ。あなたはどなたですか。』と言いますと、主がこう言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起き上がって、自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現われたのは、あなたが見たこと、また、これから後わたしがあなたに現われて示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』こういうわけで、アグリッパ王よ、私は、この天からの啓示にそむかず、ダマスコにいる人々をはじめエルサレムにいる人々に、またユダヤの全地方に、さらに異邦人にまで、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行ないをするようにと宣べ伝えて来たのです。

 ナタナエルも、トマスも、パウロも、真面目に疑った人々だったのです。けれども聖書の中に、「求めよ。そうすれば与えられる」と約束されていますから、彼らは真面目に疑ったために、彼らの心の目が開かれるようになったのです。
 真面目に疑っている人々に、「頭では、人間の知恵では、主なる神を認めることができな
いのだ」ということを教えるべきなのではないでしょうか。イエス様は次のように言われました。
マタイの福音書 11章25節、26節

 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。

ソロモン王は次のように言ったのです。
箴言 3章5節

 心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。

と。なぜなら、それは意味のないことだからです。
ヘブル人への手紙 11章1節

 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

とあります。知的な疑いの根拠がどこにあるかを、その人々に教えてあげなさい。
コリント人への手紙・第二 4章3節から4節

 それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々のばあいに、おおいが掛かっているのです。そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。

この聖句における「この世の神」とは、「悪魔」を意味しているのです。また、「不信者の思い」とは、「知的な考え」を意味しているのです。


 今まで、表面的に疑っている人々について、また真面目に疑っている人々について考え
たのですけれど、今度は、疑いの理論の決まり文句について、考えましょう。
疑いの理論の決まり文句について
1.「私は、人格的な神の存在を信じない」という考え方です。
 このように言う人々に、その理論が非合理的であるということを明らかにしてあげなさ
い。例えば、その人の時計やその人の家は自然に出現するものではありません。目に見え
る自然界は、創造主である神の作品であることを表わしているものだということを明らか
にしてあげなさい。
 創世記の1章1節は、本当に大切なことばです。このことばを否定する者の生活は的外
れなものです。内容のない生活になります。何を考えているかと言いますと、
創世記 1章1節

 初めに、神が天と地を創造した。

 多くの人々は、無神論、唯物論、または進化論を信じていますから、創造者としての神
を信じていません。けれど、創世記1章1節は、これらの主義を全部否定しています。
・ 無神論は、主なる神の存在を否定しています。けれど、聖書に、「初めに、神が天と地を
創造した」と書いてあります。
・唯物論は、すべての現象は、物質から成り立っている、すなわち、世界は物だけから出
来ているという世界観です。けれど、聖書は、「初めに、神が天と地を創造された」と言っているのです。
・進化論は、世界は無機物、または他の物から発展してきたという教えです。けれど、聖書は、「初めに、神が天と地を創造した」とあります。時計や家は、創り主として時計屋さんや大工さんが要ると同様に、天地の創造は、私たちに創造主を明らかにしています。
ローマ人への手紙 1章19節、20節

 なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。

 動物は、人間と同じように見ることができます。しかし動物には理性が欠けています。
すなわち、人間はある働きを見ると、同時にその働き人までも考えることができます。
ですから、ダビデという王様は、当時のイスラエルの民に次のように書いたのです。
詩篇 32篇9節

 あなたがたは、悟りのない馬や騾馬のようであってはならない。それらは、くつわや手綱の馬具で押えなければ、あなたに近づかない。

詩篇 8篇1節

 私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。あなたはご威光を天に置かれました。

詩篇 8篇3節

 あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、

詩篇 19篇1節、2節

 天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。

詩篇 33篇6節

 主のことばによって、天は造られた。天の万象もすべて、御口のいぶきによって。

とあります。そして、ある意味で結論として次のように書かれています。
詩篇 14篇1節

 愚か者は心の中で、「神はいない。」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行なっている。

主なる神の存在を否定するということは、狂気の沙汰です。なぜなら、悪霊どもでさえも、
「神はいない」などとは決して思っていないからです。
ヤコブの手紙 2章19節

 あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。

悪霊の信仰は、救いにある信仰ではありません。本物の信仰だったら、信じて大いに喜ん
でいる者となるのです。
 主なる神は、人が不信仰のうちに蒔いたものの刈り取りをなおざりになさるような方で
はないのです。
ヨハネの黙示録 21章8節

「しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との 燃える池の中にある。これが第二の死である。」

とあります。
 疑いの理論における決まり文句にはもう一つあります。今まで考えましたのは、「私は、
人格的な神の存在を信じない」という考え方でした。


2.「私は、キリストの神性を疑う」という考え方。
 疑いの理論における決まり文句のもう一つは、「私は、キリストの神性を疑う」というも
のです。このような人々には、次の2ヶ所を教えてあげなさい。
出エジプト記 3章13節から14節

 モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました。』と言えば、彼らは、『その名は何ですか。』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた。』と。」 v

このみことばの意味は、「主は、始めのない終わりのない永遠なる方です」という意味です。
ヨハネの福音書 8章58節

 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」

現実問題として、アブラハムはイエス様がこの世に来られる2,000年前に生きていた男でした。けれどもイエス様は、「アブラハムが生まれる前から、わたしはいる」と言われたのです。人として生まれた、主なる神の御子である主イエス様は、聖なる神として明らかになっています。この神は、燃える柴の中でモーセに現われた神なのです。
 ですから、イエス様はご自身についても言われました。
ヨハネの黙示録 1章17節

 それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、…

つまり「初めのない、終わりのない、永遠なるお方」なのです。
マルコの福音書 14章61節、62節

 しかし、イエスは黙ったままで、何もお答えにならなかった。大祭司は、さらにイエスに尋ねて言った。「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」そこでイエスは言われた。「わたしは、それです。人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。」

また、
ヨハネの福音書 10章30節

「わたしと父とは一つです。」

と、イエス様ははっきり言われました。主イエス様が天と地の造り主であることを疑って
いる人々に教えてください。
ヨハネの福音書 1章3節

 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

「この方」とは、「主イエス様」のことです。ヨハネだけではなく、パウロも同じ事実につ
いて書いたのです。
コロサイ人への手紙 1章16節、17節

 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。

このイエス様の偉大さについて、いくら考えても理解できません。想像もできません。け
れども、へブル人への手紙の著者も同じように書いたのであります。
ヘブル人への手紙 1章2節、3節

 この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

ヘブル人への手紙 1章10節

 またこう言われます。「主よ。あなたは、初めに地の基を据えられました。天も、あなたの御手のわざです。

疑っている人々に、「イエス様は、まことの神であり、そして父なる神と全く同じ栄光と崇
拝を要求しておられる」ということを教えてあげなさい。
ヘブル人への手紙 1章8節

 御子については、こう言われます。「神よ。あなたの御座は世々限りなく、あなたの御国の杖こそ、まっすぐな杖です。

聖書の中心となる事実は、そういうものです。エホバの証人たちは、イエス・キリストは神ではない。神のこどもに過ぎないと言います。イスラム教徒たちは、神は子どもを持っていない。キリストは決して神ではないと言います。けれど聖書ははっきり言っています。もし、イエス・キリストが神でなければ、救いはあり得ません。希望も存在しないのです。
コリント人への手紙・第一 2章7節、8節

 私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。

 先程読みましたように、トマスはイエス様に言ったのです。「私の主。私の神」と。イエ
ス様は、彼に言われました。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信ずる者
は幸いです」と。
 疑っている人々に、もしイエス様を信じないならば、その人は、聖書によると「嘘つき」
であり、「いのちを持っていない」ということを教えてあげなさい。

ヨハネは、どうしてあの手紙を書いたかと言いますと、結局、末の世に住んでいる人々を励ますため、注意するため、力づけるために、書いたのです。
ヨハネの手紙・第一 2章22節

 偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否認する者、それが反キリストです。

ヨハネの手紙・第一 2章24節

 あなたがたは、初めから聞いたことを、自分たちのうちにとどまらせなさい。もし初めから聞いたことがとどまっているなら、あなたがたも御子および御父のうちにとどまるのです。

ヨハネの手紙・第一 5章5節

 世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。

ヨハネの手紙・第一 5章10節から12節

 神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。神を信じない者は、神を偽り者とするのです。神が御子についてあかしされたことを信じないからです。そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、御子を持たない者はいのちを持っていません。

「いのち」とは、「永遠のいのち」です。「主イエス様を持つ者はいのちを持ち、信じよう
としない人々は滅びる」ということを教えてあげなさい。
 けれども、「罪のうちに死ぬ」とは、何でしょうか。次のように書かれています。
ヨハネの黙示録 21章8節

 しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。

ヨハネの福音書 20章31節

 しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。

 疑いの理論における決まり文句の一つは、「私は、人格的神の存在を信じない」という
ものでした。そして、二番目に「キリストの神性を疑っている」というものでした。
三番目は、「私は、聖書が神のことばであることを疑う」と考える人々についてです。


3.「私は、聖書が神のことばであることを疑う」という考え方
 一般に、主のみことばである聖書に反対している理論は、原始的で表面的です。たとえば、無条件に私たちは時刻表を信じているのに、どうして神のみことばを疑うのでしょうか。「疑う原因は、自分のわがままである」ということを教えてあげなさい。
ヨハネの福音書 3章20節、21節

 悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。

 人間が信じる信じないに関わらず、神のみことばは神のことばです。昨日もひとりの方
が言われたのです。「書いた人は人間でしょう」と。その通りです。けれど、書いた人々は、自分で考えたり、どうしようか、何を書こうかと思ったことがないのです。主に教えられたみことばだけを書いたのです。
ローマ人への手紙 3章3節から4節

 では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。」と書いてあるとおりです。

 そして、「旧約聖書は、新約聖書と同様に主のみことばである」と教えてあげましょう。
ペテロは非常に大切なことばを書き記しました。もちろん、このペテロは、大学に行きま
せんでした。魚をとる漁師だったのです。けれど、彼はこのように書いたのです。
ペテロの手紙・第二 1章21節

 なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。

テモテへの手紙・第二 3章16節

 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。

 そして、イエス様は、「あなたのみことばは真理です」と言われました。当時の聖書は、
もちろん旧約聖書しかありませんでした。イエス様は、「旧約聖書は真理です」と言われたのです。イエス様が旧約聖書を信じられましたから、私たちも安心して信じることができるのではないでしょうか。
 復活日の朝、イエス様は二人の男に出会われました。よく知られている箇所です。
エマオへ行く途中の二人でした。
ルカの福音書 24章27節

 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。

ルカの福音書 24章44節

 さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」

テサロニケ人への手紙・第一 2章13節

 こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。


聖書のことばを神のみことばとして受け取ると、だれでもが、希望を持つようになり、元気になります。



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◆メッセージ(ベック兄)

※一部、テープの転換による不明部分あり

神のみことばは神のみことばである(5) 2006. 4. 18
神のみことばは神のみことばである(4) 2006. 4. 11
神のみことばは神のみことばである(3) 2006. 4. 4
神のみことばは神のみことばである(2) 2006. 3. 21
家族の救い 2006. 3. 19
神のみことばは神のみことばである(1) 2006. 3. 14
主イエスは神の子キリストである(4) 2006. 3. 7
主イエスは神の子キリストである(3) 2006. 2. 28
主イエスは神の子キリストである(2) 2006. 2. 14
主イエスは神の子キリストである(1) 2006. 2. 7
勝利の生活の秘訣 2006. 1. 24
イエス・キリストのからだ 2006. 1. 17
主の永遠からの予定 2006. 1. 10
元旦メッセージ 2006. 1. 1


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