人間をとる漁師にしてあげよう(4)
2004.10.19(火)
ベック兄メッセージ(メモ)
引用聖句
ヨハネの福音書 8章12節
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イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
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マタイの福音書 5章14節
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「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。」 |
エペソ人への手紙 5章8節、9節
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あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。−光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。− |
今朝八時過ぎに、この集会の一夫婦がみえました。イエス様を信じていますし、イエス
様を愛していますが、やはりいろいろなことがあるからです。その後で、また別の夫婦が
みえました。イエス様を知らない夫婦なのです。彼は大きな会社の経営者ですが、やはり
将来のことが分からないし、いろいろなことで考えるようになったのです。夫婦同士で、
祈るようになりました。是非覚えていてください。広島に住んでいるご夫婦なのです。
そのような人たちにイエス様を紹介することは、素晴らしい特権なのではないでしょうか。
『日々の歌』の中に、一つの歌があります。「わが慕う主イエスよ。我に満ちたまえ。御霊とみことばで導きたまえ。主のしもべとして、みことばを伝えゆく者となしたまえ。主のあとに我は従う」。このような心構えを持つと、主は必ず導いてくださいます。
先週、私たちは、「疑っている人々にどのように対応するべきか」について考えました。
表面的に疑っている人もいるし、真面目に疑っている人もいます。疑いの持論における
決まり文句についても考えました。即ち、「私は人格的な神の存在を信じない」。それから、「私はキリストの神性を疑う」。もう一つは、「私は聖書が神のことばであることを疑う」。
このようなことでした。最も大切なことは、みことばに頼ることです。
パウロがテサロニケへ行ったことにより、テサロニケの人たちは、紹介されたイエス様を信じ受け入れたのです。パウロによって納得させられたからではありません。けれども、彼らは、「主よ。語ってください。真理を知りたい、偽物は結構です。本物が欲しいです」。
ですから、パウロは書いたのです。
テサロニケ人への手紙・第一 2章13節
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こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。 |
みなさんは聖書を読むと、何回も経験したことがあるでしょう。ちょっとピンと来ません。けれど、元気になります。みことばは素晴らしいものです。元気のもとです。
イエス様は言われました。
マタイの福音書 5章18節
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「まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」 |
マタイの福音書 24章35節
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「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」 |
また、ヨハネ伝の中で、
ヨハネの福音書 10章35節
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「もし、神のことばを受けた人々を、神と呼んだとすれば、聖書は廃棄されるものではないから、…」 |
とあります。
ヨハネの福音書 8章47節
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「神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」 |
と、イエス様は当時の聖書学者たちに言われたのです。
「いかにして、イエス様のためにたましいを獲得することができるのか」という問題は、私たちが生きる瞬間瞬間に、最も大切な差し迫った問いかけとなるのです。
パウロの証しは素晴らしい証しです。
コリント人への手紙・第一 9章19節から21節
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私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。律法を持たない人々に対しては、――
私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが、―― 律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。 |
パウロの心からの願いは、いつも、「できるだけ多くの人たちを得る」ということでした。
私たちの心からの願いは、いったい何でしょうか。もし、私たちが、「人をすなどる人になりたい」と願えば、必ずなります。主は、用いようと望んでおいでになるからです。
ソロモンは、
箴言 11章30節で、
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知恵のある者は人の心をとらえる。 |
「たましいを獲得する」と言ったのです。
初めに、兄弟がお読みになりました箇所の中で、イエス様は、「わたしは、世の光です」
と言われました。すでにイエス様に会ったことのある兄弟姉妹はみな、このことを知って
いますし、確信しています。私たちは、私たちのわがままのために十字架に架かってくださった主イエス様を心の目で見ました。私たちは主イエス様の声を心の耳で聞いたのです。即ち、「わたしは、世の光です。わたしは、光そのものです。唯一の世の光です。わたしに従ってくる者は、やみの道を歩くことがなく、いのちの光を持つのです」と。
私たちは、ただ一つのことができます。即ち、光に向かって歩むか、光を避けて歩むか
のどちらかです。もし、光に向かって歩むなら、本当に祝福されます。私たちは、今まで
光に向かって歩んできたことを悔いている兄弟姉妹に出会ったことがありません。主イエス様を信じるようになったことを、後悔したことがあるでしょうか。
「わたしは、世の光です」と言われた主イエス様を人間が信じると、神の子どもとなり、救われます。けれども、イエス様は、従うようになった弟子たちに、「あなたがたは、世の光です」と言われました。主がご覧になるとき、私たちは「東京の光」なのでしょうか。
この東京には、私たちよりも名誉のある有力な人たちがたくさんいます。けれどもその
大部分は、私たちの家族、即ち、主なる神の家族に属してはいません、救われていません。
私たちは、まだ救われていない人たちの真っただ中で生活をしています。私たちは、毎日毎日、間違った望みを抱いている人たちと、職場などで接触します。イエス様は、「あなたがたは、世の光です」と言われます。私たちは、そのような人たちをイエス様のところへ導くべきです。
ですから、私たちは今日、そのような人たちにどのように対応すべきかを考えてみようと思います。
題名は、『間違った望みを抱いている人々にいかに対応したらよいか』です。
いわゆる、いさおし、正しい人たちの持論には、いろいろな種類があります。
1.「私は正しい生活をすることによって天国へ行く」と考えている人がいます。
このいわゆる「良い生活」には、一般に、「良い行ない」、「良い働き」という意味があり
ますが、聖書は何と言っているでしょうか。何があっても、「聖書は何と言っているか」と考えるべきではないでしょうか。
ローマ人への手紙 3章10節から12節
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「それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」 |
聖書はそう言っているから、間違いなくそうです。私たちが、それを信じても信じなく
ても、関係ありません。
ガラテヤ人への手紙 2章16節
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しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。 |
良い行ないや、良い働きで満足をしている人は、主なる神ののろいのもとに立っている
のだということを教えてあげなさい。
ガラテヤ人への手紙 3章10節
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というのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」 |
とあります。同じ事実について、ヤコブも似ていることを書いたのです。
ヤコブの手紙 2章10節、11節
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律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。なぜなら、「姦淫してはならない。」と言われた方は、「殺してはならない。」とも言われたからです。そこで、姦淫しなくても人殺しをすれば、あなたは律法の違反者となったのです。 |
最近、ドイツのご夫婦がアメリカまで行きました。子どもは一歳二ヶ月の双子でしたが、
生まれたとき、二人の頭がつながっていたのです。その手術をした医師は、世界一の外科医です。これまでに何回も成功しましたが、今回は特別でした。ドイツの雑誌も、全く宗教と関係のない雑誌も、いろいろなことを書きましたし、テレビにもとりあげられました。このような子どもが生まれることを、あらかじめ親は分かっていたのです。みな、「堕ろした方が良いですよ。無理です」と言いました。けれども、テレビでも奥さんははっきり言ったのです。「堕ろすことは殺すことです。絶対にしません」と。手術をしている間に一人の子どもは、天に召されました。もう一人は、今の段階で元気なのです。それも奇蹟です。
テレビにも出たドイツの町では、千人くらいが集まって祈ったのです。そのようなことは、普通だったらドイツのテレビには出ません。けれどもあの母親は、「堕ろすことは殺すことです。私たちは主イエス様を信じているので絶対にしません」という態度をとることができたので、やはり晴らしかったと思います。
マタイ伝に、同じ意味のことが書いてあります。
マタイの福音書 22章37節から40節
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そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」 |
イエス様が、いわゆる良い行ないをいかに判断されているかを、間違った望みを抱いて
いる人たちに教えてあげるべきです。
ルカ伝の18章はよく知られている箇所ですが、聖書を全く知らない人たちに読むには、非常に素晴らしい例え話です。
ルカの福音書 18章9節から13節
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自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』」 |
「自分を義人だと自任し」とは、「自分を正しい者だと自任し」ということです。「パリサ
イ人」とは、当時の聖書学者でした。イエス様のご判断は、
ルカの福音書 18章14節
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「あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」 |
聖書全体の言わんとしていることは、それです。へりくだって、「あわれんでください」
という心構えを持つ者は、必ず受け入れられます。
マタイの福音書 5章20節
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「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。」 |
ルカの福音書 16章15節
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イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心をご存じです。人間の間であがめられる者は、神の前で憎まれ、きらわれます。」 |
つまり、主は、全部ご存知です。
サムエル記・第一 16章7節
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しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」 |
とあります。また、
ヘブル人への手紙 11章6節
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信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。 |
とあります。また、
ヨハネの福音書 3章36節
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御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。 |
ヨハネの福音書 6章29節
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イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」 |
私たちの題名は、「間違った望みを抱いている人々にどのように対応するべきか」です。
いわゆるいさおし、正しい人たちの持論には、いろいろな種類があります。今話したように、「私は正しい生活をしているから大丈夫です。天国にはいれるのではないか」と考えている人はたくさんいます。このいわゆる「良い生活」には、一般に、「良い行ない」、「良い働き」という意味がありますが、大切なことは、人間の考えていることよりも、「聖書は何と言っているか」です。
2.次に、「内に省みてやましからずんば、千万人といえども我往かん」という態度です。
あらゆる国のたくさんの人たちが、このようなことを言います。この言葉のむなしさを
示すべきではないでしょうか。
箴言を見ると、次のように書かれています。ソロモン王の書いたことばです。
箴言 14章12節
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人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。 |
このことばは、主なる神の前における誤った良心の結果であり、主なる神の前から責任を逃れるあわれな試みであるということを教えてあげなさい。
ヨハネの福音書 3章20節、21節
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悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。 |
とあります。
間違った望みを抱いている人たちが、すべてのことを正しく行なっているかどうかを尋ねなさい。また、その人の嘘を示しなさい。イザヤ書を見ると、イザヤは次のように言っ
たのです。
イザヤ書 64章6節
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私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。 |
「みな」と書いてあります。創世記を見ると、すでに同じ事実について書かれています。
創世記 8章21節
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主は、そのなだめのかおりをかがれ、主は心の中でこう仰せられた。「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。」 |
「すべての人間の心の思い計ることは、初めから悪である」と主は言われます。伝道者の
書にも、同じことが書いてあります。
伝道者の書 7章20節
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この地上には、善を行ない、罪を犯さない正しい人はひとりもいないから。 |
とあります。「ひとりもいない」。ですから、パウロは前に読みましたように、
ローマ人への手紙 3章10節から12節
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「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」 |
なお、目の前に、主なる神のみことばの鏡を置いてあげなさい。
ペテロの手紙・第二 2章18節、19節
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彼らは、むなしい大言壮語を吐いており、誤った生き方をしていて、ようやくそれをのがれようとしている人々を肉欲と好色によって誘惑し、その人たちに自由を約束しながら、自分自身が滅びの奴隷なのです。 |
詩篇 17篇10節
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彼らは、鈍い心を堅く閉ざし、その口をもって高慢に語ります。 |
箴言 18章12節
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人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。 |
とあります。
またペテロは、
ペテロの手紙・第一 5章5節
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同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。 |
まことの神は、高ぶる者に対立するお方ですけれど、へりくだる者に豊かなる恵みを
与えられるのです。
間違った望みを抱いている人たちにどのように対応したらよいのでしょうか。
3.多くの人たちは、「主なる神は愛であるから、神はひとりも滅ぼさないはずだ」とい
う持論があります。
主なる神の愛がどのようなものであるかを、このような間違った望みを抱いている人た
ちに教えてあげるべきです。主なる神は、人間の堕落した罪深い状態にも関わらず、人間を確かに心から愛しておいでになります。この考えられないほど大きな愛について、聖書はいったい何と言っているのでしょうか。非常によくまとめられている素晴らしい箇所です。
ヨハネの手紙・第一 4章9節、10節
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神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。 |
パウロも、この主の大いなる愛について書いたのです。例えば、
ローマ人への手紙 5章8節
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しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 |
そして、聖書の中心となるみことばとは、ヨハネ伝3章16節でしょう。
ヨハネの福音書 3章16節
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神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 |
ローマ人への手紙 8章32節
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私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。 |
来たるべき救い主について、二千六百年前にイザヤは書いたのです。
イザヤ書 53章5節
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しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 |
「失われゆく人たちは自分の意思で失われゆくのだ」ということを教えてあげるべきです。
パウロは、テモテへの手紙の中で書いたのです。
テモテへの手紙・第一 2章4節
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神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。 |
と書いてあります。
ペテロもまったく同じことを書いたのです。
ペテロの手紙・第二 3章9節
|
主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。 |
エゼキエルという預言者も、同じ事実について書き記したのです。
エゼキエル書 33章11節
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「彼らにこう言え。『わたしは誓って言う。―神である主の御告げ。―わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。』」 |
イエス様は約束してくださいました。
ヨハネの福音書 3章15節
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「それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」 |
永遠のいのちを得ることこそが、主の望まれるところです。
ヨハネの福音書 3章18節
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御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。 |
正直になろうとしない人たち、頭を下げたくない人たち、すべての人に来る正しいさば
きを、「神は愛であるからだれも滅ぼさない」と思い込んでいる人たちに示すことばです。
例えば、
ローマ人への手紙 2章4節、5節
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それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。 |
心のかたくなさと悔い改めのない心のゆえに、いつかさばかれるのです。
前に読みましたヨハネ伝3章に書かれています。
ヨハネの福音書 3章36節
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御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。 |
「御子に聞き従わない者」、つまり聞き従いたくない人たち、頭を下げたくない人たちです。
すでに、イザヤは当時書いたのです。
イザヤ書 5章20節
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ああ。悪を善、善を悪と言っている者たち。彼らはやみを光、光をやみとし、苦みを甘み、甘みを苦みとしている。 |
今の世界は、混乱と不法の世界で、このような状況になってしまっているのです。
ペテロ第二の手紙の3章から二、三節読みます。
ペテロの手紙・第二 3章9節から11節
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主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。 |
ペテロの手紙・第二 2章4節、5節には、
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神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました。また、昔の世界を赦さず、義を宣べ伝えたノアたち八人の者を保護し、不敬虔な世界に洪水を起こされました。また、ソドムとゴモラの町を破滅に定めて灰にし、以後の不敬虔な者へのみせしめとされました。 |
とあります。
イザヤ書 57章20節
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しかし悪者どもは、荒れ狂う海のようだ。静まることができず、水が海草と泥を吐き出すからである。「悪者どもには平安がない。」と私の神は仰せられる。 |
ヨハネの福音書 3章18節
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御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。 |
「信じなかった」という意味は、信じたくなかったからです。正直になろうとしなかった
からです。
間違った望みを抱いている人たちにどのように対応したらよいのでしょうか。
4.「私は自分の最善を尽くして来た。だから救われる」と考えている人がいます。
「もし、らい病人が最善を尽くしたら、そのらい病から解放されるかどうか」と尋ねなさい。最善を尽くそうと努力をしている人は、絹の着物で臭い膿のからだをおおっている人と同じです。ですから、聖書は言っています。
ミカ書 7章4節
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彼らのうちの善人もいばらのようだ。正しい者もいばらの生け垣のようだ。あなたの刑罰の日が、あなたを見張る者の日が来る。今、彼らに混乱が起きる。 |
とあります。主の物指しを教えてあげなければなりません。主の物指しとは、いったいどのようなものでしょうか。前に読みましたが、
ローマ人への手紙 3章23節
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すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、… |
誰か、最善を尽くすことによって、主なる神の栄光に達した者があるかどうかを尋ねな
さい。最善を尽くすということは、主の指し示した道と違う道を通って天国に行くという
むなしい試みです。イエス様は言われました。
ヨハネの福音書 14章6節
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イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」 |
結局、イエス様しかないのです。
ヨハネの福音書 10章1節
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「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。」 |
最善を尽くす努力は、自分を主イエス様から救ってもらうことを拒むことです。
ローマ人への手紙 10章3節
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というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。 |
とあります。
また、イエス様は、いわゆる「山上の垂訓」の中で言われました。
マタイの福音書 7章13節、14節
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「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」 |
マタイの福音書 5章20節
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「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。」 |
本当に良いことをするとは、イエス様を信じることを意味しているのではないでしょう
か。ローマ書を見ると、次のように書かれています。
ローマ人への手紙 3章24節、25節
|
ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。 |
ローマ人への手紙 4章4節、5節
|
働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。 |
また、前に読みました、
ヨハネの福音書 3章18節
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御子を信じる者はさばかれない。 |
ヨハネの福音書 3章36節
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御子を信じる者は永遠のいのちを持つ… |
ヘブル人への手紙 11章6節
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信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。
|
と書かれています。
間違った望みを抱いている人たちにどのように対応したらよいのでしょうか。
5.いろいろな考えがありますが、もう一つは、「私は、やはり一つの信仰を持っている。
だから天国にはいれる」と考えている人も大勢います。
その人たちに、「信仰とは何か」を理解しているか。また、それは悪魔をも信じていることなのではないかと尋ねなさい。
ヤコブの手紙 2章19節
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あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。 |
結局、神の存在を疑う人は、目くらにされている人間だけです。悪魔も悪霊も、神の存
在を信じています。否定しようと思ってもできないからです。目に見えない世界のことが
分かっているからです。けれども、悪魔も悪霊どもも、信じているが、救われていません。
「身震いしている」と書いてあります。
あらゆる信仰が魂を救うことができるものではありません。主なる神の贈り物として、罪人である私たちが受け取る信仰によってのみ、救われるのです。
ですから、パウロは、例えばエペソ書2章の中で書いたのです。
エペソ人への手紙 2章8節、9節
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あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。 |
この恵みの贈り物の必要条件は、「悔い改め」です。
マルコの福音書 1章15節
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「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」
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意味は、「悔い改めてから赦されたことを信じることができる」。これこそ福音そのものです。
使徒の働き 2章37節、38節
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人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」と言った。そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。」
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使徒の働き 3章19節
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「そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。」
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改心はいつも、イエス様を信じることを意味しています。信じることとは、罪人をきよ
める恵みを認めることを意味しているのです。ですから、パウロは喜んで、ローマにいる
兄弟姉妹に書くことができたのです。
ローマ人への手紙 5章1節、2節
|
ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
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ヘブル人への手紙 11章1節
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信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。 |
間違った望みを抱いている人たちにどのように対応するべきなのでしょうか。
6.ある人たちは言います。「教会に属することにより、または、仏教を信じる、神道を信
じることにより、天国へ行けるものだと思っています」と。
もちろん、主なる神のご判断は違います。
ヨハネの福音書 3章3節
|
イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
|
ヨハネの福音書 3章6節
|
「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」
|
「新しく生まれなければ」、駄目です。
ペテロも同じことを書いたのです。
ペテロの手紙・第一 1章23節
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あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。 |
ヨハネの手紙・第一 5章4節、5節
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なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。
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私たちは、間違った望みを抱いている人たちにいかに対応したらよいのでしょうか。
一つのことがはっきりしています。私たちを取り巻いている、眠っている人たちの目を
覚まさなければならないということです。間違った望みは、消さなければいけません。
どうしたらできるのでしょうか。
答えとして、いくつかの質問を設けます。
・イエス様が、私たちのすべての喜びの源なのでしょうか。
・私たちは、「主イエス様をもっとよく知りたい」と思っているのでしょうか。それとも、他の願いを持っているのでしょうか。
・聖書は自分の宝であり、毎日飢え渇きをもってみことばを読んでいるのでしょうか。
・私たちは、人に話すよりもイエス様に話すことを好むのでしょうか。
もし、私たちがこの問いすべてに対して、「はい」と答えることができるなら、周りの人たちはみな、イエス様を求めるようになるに違いありません。もしそうなら、家族のまだ救われていない者、友だち、同じ職場の人たちは、だんだん心が穏やかでなくなってきます。
自然の力は確かに強いものです。ちっぽけな人間は、例えば地震に対して、台風に対し
て、何もすることができません。けれど、この天と地を創造されたお方の力強さは、人間の力と比べることはできません。支配者なる主の賢さと強さは、筆舌に尽くし難いものです。そして、私たちは、悔い改めの恵みを通してこの主なる神の子どもとなることができたのです。
もう一つのことを悟るべきでしょう。例えば、大海の水を汲み尽くそうとする者は誰もいないでしょう。その努力は、初めから完全にむなしいものです。
他方、私たちは、人のたましいを救うという力強い努力をします。それは何という馬鹿らしいことでしょう。悪魔の奴隷を、生けるまことの神の子どもにしようというのです。
なぜ私たちは、人々を救おうとするのでしょうか。たとえそれが、私たちの聖書からの知識や、祈り、友情、伝道であったとしても、御霊のみが人のたましいを解放することがおできになるのです。御霊だけがそれをなさりたいのです。御霊はそのために私たち一人一人を用いようと望んでおいでになります。
最後に、ゼカリヤ書を読んで終わりましょう。
ゼカリヤ書 4章6節
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すると彼は、私に答えてこう言った。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。 |
ここで仰せられただけではなく、今もそう呼びかけておいでになるのです。
即ち、私たちの聖書の知識、祈り、友情、伝道によらず、「わたしの霊によって」と主は
呼びかけておいでになるのです。
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