人間をとる漁師にしてあげよう(6)
2004.11.2(火)
ベック兄メッセージ(メモ)
引用聖句
箴言 24章11節・12節
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捕えられて殺されようとする者を救い出し、虐殺されようとする貧困者を助け出せ。
もしあなたが、「私たちはそのことを知らなかった。」と言っても、人の心を評価する方は、それを見抜いておられないだろうか。あなたのたましいを見守る方は、それを知らないだろうか。この方はおのおの、人の行ないに応じて報いないだろうか。
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マタイの福音書 9章36節から38節
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また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。そのとき、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」 |
ドイツには一つの有名な歌があります。クリスマスの頃によく歌う歌です。次のような内容のものです。「この世は失われてしまった。しかし、キリストがお生まれになった。
だから喜べ。大いに喜べ!」。そういう歌なのです。この歌によって、二つの事実と一つの
命令が明らかにされています。
すなわち第一の事実は、「この世が失われてしまっている」という事実です。この事実は、
日々私たちに示されて、明らかになっているのではないでしょうか。けれど、残念なことに、この事実は当たり前のようになってしまって、ほとんど私たちの心を動かさないほどにまでなってしまっています。そしてこの世はだんだん暗くなり、愛のない世界になってしまったのです。
これに対して、二番目の事実は、「キリストがお生まれになった」という事実です。この事実は、私たちをはるかに感動させるべきものであり、この喜びの訪れは、広く宣べ伝えられるに値するものです。
そして主の命令は、「喜びなさい。大いに喜びなさい!」というものです。この喜びの源は何かと言いますと、「主イエス様がお生まれになった」ということ、「大いなる代価を払って、代わりに死なれ、救いが成就された」ということ、そして、「私たちは、とこしえに主のものとなることが赦されている」ということです。けれど、この特権は、同時に責任をも意味しています。そしてこの責任とは、「人をすなどる者となること」です。すなわち、「人から人へと福音を宣べ伝えること」を意味しているのです。主イエス様は、今日も言われます。「わたしは、あなたを、人をすなどる者としよう」と。
今読みましたマタイの福音書9章の中で、イエス様は当時の人々をご覧になったときに判断されたのです。「彼らは、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている」と。
そのとき、イエス様は弟子たちに言われました。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい」と。
主イエス様が人となられ、また十字架に架かってくださったことの目的は、まさにたましいを救うこと以外の何ものでもありませんでした。
イエス様が群衆をご覧になったとき、イエス様のうちに何かが起こったのです。すなわ
ち、イエス様は群衆をあわれまれ、そのため心のうちに大きな感動が生まれたのです。と
いうのは、これらの群衆は「羊飼いのいない羊のように弱り果てて倒れていた」からです。
羊飼いのいない羊は、あわれです。羊は、自分自身を守ることができません。必ず駄目になります。
私たちのテーマは、『いかにして、主イエス様のためにたましいを獲得することができるのか』です。
今までいろいろな点について一緒に考えましたが、考えたというよりも、聖書を読んだだけです。みことばだからです。
そして、人を導くためには、やはりみことばしかないのです。人を納得させようと思っ
てもうまくいきません。けれども、人がみことばに頼るようになれば、理解できなくても、
必ず生ける希望を持つようになり、元気になります。
今まで、「無関心で冷淡な人々に、いかに対応すべきでしょうか」。それから、「疑っている人々に、いかに対応すべきでしょうか」。また、「間違った望みを抱いている人々に、いかに対応したらよいのでしょうか」。これらのことについて、一緒に考えてまいりました。
そして先日は、「これから先のことを思い煩っている人々に、いかに対応したらよいのか」という点について考えました。
ある人は、「私は、非常に大きな罪人ですから、救われるのはもう無理でしょう」と言い
ます。けれども、イエス様は大きな罪人のために来られました。イエス様は聖書学者たちと親しくなることができなかったのです。彼らは「自分は大きい」と思い込んでしまった
からです。ですから、イエス様は意識して「わたしは罪人の友です」と語り続けられたのです。
またある人は、「私はもう希望がない。失われている」と言う場合もあります。けれども、イエス様は、「わたしは失われた人々を探して救うために来たのだ」と何回も言われました。
別の人は、「私は人殺しです」と言います。聖書はこう言っています。
イザヤ書 1章18節
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「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。」 |
また、別の人は、「救われる前に、イエス様のところに行く前に、自分を改良しなくては
いけないのではないでしょうか。そのままではちょっと…」と言います。患者は、良くなってから医者のところに行くのでしょうか。違います。良くなるために行くのです。放蕩息子はありのままで、ルンペンそのままの者として、父親のところに行ったのです。
また、ある人は、「私は悪い道を捨てるには、あまりにもしっかりと縛られている」と言います。
「私は、もうすでに試みたけれども、うまくいかなかった。堕落してしまった」と言う人もいます。
そういう人々に、次のことを尋ねるべきではないでしょうか。
すなわち、
・「自分は、罪を完全に打ち砕いているのか」と。
・また、「自分を、主イエス様に完全にゆだねているのか」と。
・また、「救われていない家族のために、親戚友人たちのために、本当に期待を持って主に
近づいたのか。彼らに対して無関心ではなかったのか。妥協したのではないか」と。
・それから、「救いを求めている人々の前でイエス様を証ししたのか。主であるイエス様を
紹介したのか」と。
・それから、まったく個人的なことですけれど、「毎日、飢え渇きを持ってみことばを読んでいるのか」と。
言うまでもなく、みことばを読むのは、知識を得るためなのではなく、イエス様をより
よく知るためです。聖書の中心とは、決して「一つの教え」ではなく、「主イエス様」です。
一つの教えを信じ込むことによっては誰も救われ得ません。飢え渇きを持って、「イエス様。
今から読みます。何も分からなくてもいいけれど、あなたをよりよく知りたいです」と、祈って読むと、必ず主は働いてくださいます。
・それから、失敗したとき、さらに問うべきことは、「自分の祈りの生活は、いったいどう
いうものなのか」ということです。
祈りがなくイエス様に従う者は、舵のない船のようなものです。この船は、間もなく恐ろしい岩に乗り上げ、壊れてしまいます。
パウロは、手紙の中でこう書きました。
テサロニケ人への手紙・第一 5章17節
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絶えず祈りなさい。 |
イエス様は、ルカの福音書で次のように言われました。
ルカの福音書 18章1節
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いつでも祈るべきであり、失望してはならない…。 |
ルカの福音書 18章7節から8節
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まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。 |
祈ると、主は働いてくださいます。
また、エペソにいる人々にパウロは書いたのです。
エペソ人への手紙 6章18節
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すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。 |
「御霊によって」です。ある人々のためだけではなく、「すべての聖徒のために」です。
また、吉祥寺集会所の額に書かれているみことばは、本当に祈りへの呼びかけなのではないでしょうか。
イザヤ書 40章31節
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主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。 |
主は生きておられます。知恵を持つお方で、また力を持つお方です。ヘブル書の著者は、次のように書いたのです。
ヘブル人への手紙 4章16節
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ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。 |
つまり、困っている人々への一番大切なすすめのことばは、それなのではないでしょうか。
祈りましょう。何でもお出来になる方にお任せすると、主は必ず働いてくださるのです。
「試みたけれど脱落した」のは、いったいどうしてでしょうか。
今話しましたように、自分が罪を完全に打ち砕いていなかったかもしれない。また自分をイエス様に完全にゆだねなかったかもしれない。それから、救われていない知り合いの人々に対して無関心で、この世と妥協してしまったかもしれない。あるいは人の前でイエス様を証ししなかったのかもしれません。また、毎日飢え渇きをもってみことばを読み、自分のものにしたのではなかったのかもしれません。
それでは、「祈りの生活」とは、いったいどういうものなのでしょうか。
祈りのない兄弟姉妹は、本当にかわいそうです。惨めです。あわれむべき存在です。
祈りのない兄弟姉妹には、喜びがありません。実が結ばれません。
祈りのない兄弟姉妹は、言うまでもなく、救霊者とはなり得ません。
イエス様のための「働き」は、「祈り」以外のものに代えることは決してできません。私たちは、主イエス様との親しい交わりがなくても、集会を持ったり、本を配ったり、救いの道を説くことができますけれど、イエス様との交わりがなければ、主のみこころにかなった生活をすることはできません。主のための「働き」は、「祈り」以外の何ものにも代えることはできないのです。
主イエス様は、ただ一つの要求を持っておられます。私たちのような者と「交わりを持
ちたい」と思っておられるのです。確かにイエス様は、世界の創造主であり、見えるものも見えないものも全部お造りになったお方です。けれども、どうしようもない人間のために悲しんでおられます。結局、人間一人一人のことを思っておられるのです。イエス様は、「一人一人と交わりを持ちたい」と望んでおられます。私たちも、同じ要求を持っているでしょうか。
自分の祈りの生活は、いったいどういうものなのでしょうか。
祈りの霊がなくなる理由は、いったいどこにあるのでしょうか。そのすべての邪魔者を取り除かなければなりません。何の罪か、いちいち名前を挙げて、イエス様の前に告白しましょう。
イエス様の前に、次の質問について、ゆっくり考えるべきではないかと思います。
すなわち、
・「私の祈りの生活は、罪によって力のないものとなっていなかったでしょうか」。
・「私の祈りの生活は、焦り、不規則、不信仰によって妨げられていなかったでしょうか」。
・「私の祈りの生活は、実りがなかったのではないでしょうか」。
・「私は、イエス様との交わりを持ち、それによって人々のたましいを救う力を持っているでしょうか」。
・「私は、自分のこと、自分の仕事、自分の家族のためにだけ祈っているのでしょうか。あるいは、全世界のために祈っているのでしょうか」。
・「私の祈りの生活は、いろいろな思い煩いのために誘惑されてはいないでしょうか」。
祈りのうちに、大きな仕事をすることができるのです。それをいつも覚えるべきです。
それを信じないと、悪魔の勝利になります。毎日、祈りの意味と力を、よりよく学ぶべきではないでしょうか。
私たちは、本当に自分のためではなく、イエス様のために働いているのでしょうか。
心の緩みは受け身になり、実を実らせません。イエス様のための働きは、楽しく、信仰のエネルギーを永遠の実へと強めるのです。ちょっと、一箇所見てみましょうか。
マタイの福音書 25章14節から27節
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「天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。 彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。五タラントを預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。同様に、ニタラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。」 |
主人は本当に喜んで、ある人に「良い忠実なしもべだ」と言い、他の人には「悪いなまけ者のしもべだ」と言わざるを得なかったのです。
私たちは、いかにしてこれから先のことを思い煩っている人々に対応すべきでしょうか。
ある人々は、「私はあまりにも多くのものを捨てなければならない」と言います。生まれながらの人は、ダイヤモンドだと思って普通の硝子のかけらを持っています。その人の目は、イエス様の富を見ることはできません。ですから、その人はこの世のむなしいものから離れられないのです。すべてのものを失うよりも、自分のたましいを失うよりも、この世のものを全部捨てたほうがましです。
イエス様は次のように言われました。
マルコの福音書 8章36節
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「人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。」 |
欲しいものを全部持つようになっても、永遠のいのちを持っていなければ、結局、役に立たないのです。
また、ヨハネは次のように書いたのです。
ヨハネの手紙・第一 2章15節
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世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。 |
主なる神によって大いに用いられた二人の偉大な人々、モーセとパウロは、「すべてのものを捨てて、すべてのものを得た」のです。このことを、「私はあまりにも多くのものを捨てなければならない」と言う人々に教えてください。
モーセについて聖書は次のように言っています。
ヘブル人への手紙 11章24節から25節
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信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。 |
「パロの娘の子と呼ばれること」を、モーセは、もちろん意識して拒んだのです。選ぶ前
にやっぱり考えるでしょう。どうしようか。どちらを選ぼうかと。モーセは、苦しむことを選びました。どうしてかと言いますと、
ヘブル人への手紙 11章26節
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彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。 |
つまり、主の恵みによって長い目で見ることができたのです。
彼の決心の結果は何であったかと言いますと、二百万人の人々が奴隷の状態から解放され、主を礼拝するようになったのです。
もう一人、同じ態度を取ったのは、パウロでした。彼は次のように告白しています。
ピリピ人への手紙 3章7節
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しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。 |
結局、「キリストのゆえに」です。
モーセについても同じことを書いています。「キリストのゆえに」、彼は全部捨てたのです。パウロもそうです。彼は、「キリストのゆえに」、すべてを損と思うようになりました。
ピリピ人への手紙 3章8節
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それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。 |
「私の主であるキリスト」。これはすばらしいことばです。彼は、イエス様のことが大嫌いでした。けれども、このイエス様が、彼にとって「すべて」となったのです。イエス様のために生きることは最高の特権だと、彼は思いました。
聖書の中で「救い主」ということばは、よく出てくると私は思っていました。けれど、実はあまり出てきていません。24回だけです。不思議なことです。「救い主」が、24回だけです。しかし、「主」ということばは、670回出てきています。イエス様は、私たちにとって単なる助け手だけであれば、ちょっともったいないことです。
イエス様は、人間に仕える「しもべ」ではありません。「主の主」です。モーセにとっ
ても、パウロにとっても、主イエス様は単なる「救い主」ではなかったのです。「主」です。
「支配者」でした。だから、彼らは大いに用いられるようになったのです。
「私はあまりにも多くのものを捨てなければならない」と言う人には、さらに、「父なる神は、主イエス様を持っている者に、絶えず、必要なものを間違いなく与えてくださる方である」と、教えてあげるべきです。
詩篇の作者は、次のように書いたのです。
詩篇 84篇11節から12節
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まことに、神なる主は太陽です。盾です。主は恵みと栄光を授け、正しく歩く者たちに、良いものを拒まれません。万軍の主よ。なんと幸いなことでしょう。あなたに信頼するその人は。 |
この詩篇の作者であるダビデにとっても、主は本当にすべてでした。どうして、すべてになったかと言いますと、全部をゆだねたからです。
よく知られている、すばらしい箇所なのですけれど、パウロはローマにいる兄弟姉妹に次のように書いたのです。
ローマ人の手紙 8章31節
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では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれ が私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。 |
つまりイエス様によって、すべてが与えられています。どういう人間であれ、みな、主によって考えられないほど愛され、心配されています。だからこのように書かれています。
ヨハネの福音書 3章16節
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神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 |
とあります。「世」とは、「人間一人一人」のことです。
イエス様の語られたたとえ話に出てくる、地獄の金持ちは、「自分の失われたいのちを救うことができるのなら、すべてをささげてもよい」と思ったのです。
ルカの福音書 16章19節から31節
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「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」 |
とあります。貧乏人ラザロは死んで、アブラハムのふところに連れて行かれました。金持
ちは死んで葬られ、「ハデス」つまり死者の国で苦しみました。
私たちは、いかにしてこれから先のことを思い煩っている人々に対応すべきでしょうか。
ある人もまた言います。「私は、主を信じることによって、私の友だちを失くすでしょう」と。その人にこう尋ねなさい。「その友だちは、あなたの死の時に、暗い死の谷までついて来てくれるのでしょうか。またその友だちは、永遠の滅びからあなたを救うことができるのでしょうか」と。
詩篇の作者は次のように書いたのです。
詩篇 1篇1節
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幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。 |
また、次のようにソロモン王は書いたのです。
箴言 13章20節
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知恵のある者とともに歩む者は知恵を得る。愚かな者の友となる者は害を受ける。 |
ヤコブも、最も厳しいことを書いたのです。
ヤコブの手紙 4章4節
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貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。 |
やはり、イエス様も確かに同じように厳しく言われました。
マタイの福音書 19章29節
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また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。 |
つまり、「みことばに頼り、すべてをイエス様にゆだねて、主イエス様が私たちの生活に
対する支配権をお持ちになるならば、絶対に後悔しない」ということです。
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