人間をとる漁師にしてあげよう(7)
2004.11.9(火)
ベック兄メッセージ(メモ)
引用聖句
イザヤ書 45章2節、3節
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わたしはあなたの前に進んで、険しい地を平らにし、青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る。わたしは秘められている財宝と、ひそかな所の隠された宝をあなたに与える。それは、わたしが主であり、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることをあなたが知るためだ。
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黙示録 5章11節から14節
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また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。 |
ドイツに、アイドリゲン姉妹会のルツ姉妹がいらっしゃいます。現在アイドリンゲンの老人ホームに入っておられます。88歳くらいでしょうか。彼女のことはちょっと真似ができません。毎日いろいろな人に会って、必ずイエス様のことを紹介された姉妹なのです。いろいろなアイデアも持っておられたのです。ある時一文章だけ書いて、「今日会う人たちみなに差し上げます」と。彼女がどのような文章を書かれたかと言いますと、「明日のために勇気を欲しいですか? 明日のために希望を欲しいですか?」。みな、驚いて言いました。「もちろん欲しいです」と。断った人は一人もいませんでした。それがきっかけになって、いろいろな人たちと話すことができ、主のところに導くことができたのです。
この間の土、日曜日に、新潟へ行きました。結局、新潟の人たちこそが、勇気、希望が
必要なのではないでしょうか。けれども、本当の意味での希望を与えることができるのは、言うまでもなく、イエス様しかおられません。
新潟でいろいろな人と会ったり、話し合ったりしたのですが、ぜひ祈ってもらいたいの
で、お名前を紹介します。Iさん。新潟で一生懸命主に仕えようと思っているS姉妹の知り合いの方です。Hさん、75歳です。K姉妹のお母様なのです。Oさん、52歳。離婚されています。娘さんが三人おられます。Mさん19歳。Mさん21歳。Rさん24歳。それからSさん、30歳。今までずっと札幌に住んでおられまして、札幌で親しくなったN姉妹のお知り合いなのです。ですからN姉妹は、彼女を誘うために札幌から飛んで来られたのです。Tさん、56歳。集会のI兄弟の同級生なのです。Uさん、16歳。K姉妹の妹さんの娘さんなのです。それからIさん、75歳ですが、横浜のS姉妹のお父様のお姉様なのです。
祈ると、主は必ず働いてくださいます。私たちは、どうしてイエス様を知るようになっ
たのか、はっきり分かりません。けれども、何のためかと言うことははっきり言えます。即ち、イエス様を紹介するためです。
使徒の働き 1章8節
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「あなたがたは、……地の果てにまで、わたしの証人となります。」 |
とイエス様は言われました。
「証人になりなさい」よりも、これは一つの約束というよりも、事実です。「あなたがたは、
…なる」。主とつながっている人は、必ず用いられるようになります。
私たちは、「主はもっと大いなることをなさりたいと願っておいでになる」という幻を、持つ必要があるのではないでしょうか。もし、私たちが今までの状態に満足しているなら、イエス様は悲しくなられるでしょう。「一億三千万人の日本人が福音を聞く」ということが、私たちの切なる願い、また、祈りであるべきではないでしょうか。
今、司会の兄弟がお読みになりましたイザヤ書の中に、やはり素晴らしい約束が書き記
されています。私たちは、自分の家族でさえも、親戚、知り合いの人たちでさえも、導くことができないのに、どうしようかと思います。もちろん、自分ではできないことが決まっています。けれども、主は約束しておいでになります。
イザヤ書 45章2節、3節
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わたしはあなたの前に進んで、険しい地を平らにし、青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る。わたしは秘められている財宝と、ひそかな所の隠された宝をあなたに与える。それは、わたしが主であり、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることをあなたが知るためだ。 |
「わたしは、与える」。主は支配者です。王の王です。何でもおできになる方であると考
えると、やはり勇気が出ます。
福音書の中に、あるかわいそうな病人について書いてあります。三十八年もの長い間、
彼はべテスダの池のほとりで病いを患っていました。そして、彼はイエス様に言いました。
「私を助けてくれる人が一人もいません。全く一人ぼっちです。私のことを配慮して心配
する人はいません。誰一人いません」と。
すでに三千年前に、詩篇の作者は書き記したのです。
詩篇 142篇4節
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私を顧みる者もなく、私の逃げる所もなくなり、私のたましいに気を配る者もいません。 |
これこそが、多くの人たちの叫びではないでしょうか。人間は、人間を一人ぼっちにさ
せてしまいます。人間は、自分のことばかりを考えます。「私は、弟の番人なのでしょうか」
というカインのような態度を取ることは、こんにち当たり前のことになってしまっている
のではないでしょうか。
信じる者にとって最も大切なことは、一人一人が強い責任感を持って、イエス様のこと
を紹介することです。
二つの問題について考えることが大切だと思うのです。あらゆる時代のすべての信じる
者が、おそらく同じ答えを出すのではないでしょうか。
1.あなたの人生の最も大切な経験は何でしょうか。
答えは、「イエス様との出会い以外の何物でもありません」。
2.人間に与えることができる最も大切な助けは何でしょうか。
答えは、また再び同じように、「イエス様を知ることができるように、人間を助けることです」。
結局、「イエス様を紹介すること」こそが、私たちに与えられている使命であり、また特権
です。
『いかにしてイエス様のためにたましいを獲得することができるでしょうか』。これは、私たちのテーマです。イエス様はペテロにだけではなく、信じる者みなに言われます。即ち、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」と。
今まで、いろいろな種類の人間について一緒に考えました。例えば、「無関心で冷淡な
人々に、いかに対応すべきでしょうか」。或いは、「疑っている人々に、いかに対応したらよいでしょうか」。それから、「間違った望みを抱いている人々に、いかに対応すべきでしょうか」。また、「私たちは、いかにしてこれから先のことを思い煩っている人々に、対応したらよいでしょうか」。
そこでいろいろなことについて考えました。ある人は、「私は非常に大きな罪人であり、救われることは難しいでしょう。不可能ではないでしょうか」。別の人は、「私はもう失わ
れています。希望がありません」。別の人は、「私は人殺しです」。またある人は、「私は救
われる前に、イエス様のところへ行く前に、自分を改良しなくてはならないのではないで
しょうか」。或いは、「私は悪い道を捨てるにはあまりにもしっかりと縛られています」。
また、「私はすでにそれを試みたけれど、また脱落しました」。「私はあまりにも多くのものを捨てなくてはなりません。私は私の友だちをなくしてしまう…」と言う人もいます。
また、別の種類があります。「私は嘲られることを恐れます」。けれど、永遠に失われる
より、嘲られるほうがましなのではないでしょうか。嘲りを恐れることは、主イエス様を
恥ずかしく思うことを意味します。次のような箇所を、その人に示してあげなさい。
箴言 29章25節
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人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。 |
大切なことばです。
マルコの福音書 8章38節
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「このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。」 |
イエス様を恐れる者は、人間の嘲りを恐れません。解放されます。聖書ははっきりそう
言っています。次の箇所も示したらよいかもしれません。
箴言 22章4節
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謙遜と、主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである。 |
結局、損をしません。「人を恐れるとわなにかかる」。けれど、「主を恐れることの報いは、
富と誉れといのちです」。
第二列王記に、次のようなことばがあります。時々悩んだり、どうしようという気持ちを持つとき、非常に勇気を与えることばではないでしょうか。
列王記・第二 6章16節
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すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」と言った。 |
あの若い召使は、現実を見たとき、「ああもう大変だ。おしまいだ。どうしよう」という気持ちになったのです。目に見えない現実が見えなかったからです。初代教会の人たちは、「私たちは見えるものによらないで、信仰によって歩みます」と。ですから、どのようなことがあっても、「私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだ」と考えると、勇気が湧いてくるのではないでしょうか。
詩篇の作者であるダビデは、また次のように告白したのです。このように言える人は、
本当に幸せです。
詩篇 27篇1節
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主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。 |
主は生きておられるから、もう心配をする必要はありません。良い牧者として、必要な
導きと守りを与えてくださるお方であるからです。
詩篇 34篇8節
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主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。 |
ペテロも次のように書いたのです。
ペテロの手紙・第一 3章12節
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「主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行なう者に立ち向かう。」もし、あなたがたが善に熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。いや、たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません。 |
私たちの代わりに、十字架の上で犠牲になられたイエス様について考えると、安心して何でもゆだねられます。
黙示録にも、主を恐れる大切さについて書き記されています。
黙示録 14章7節
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彼は大声で言った。「神を恐れ、神をあがめよ。神のさばきの時が来たからである。
天と地と海と水の源を創造した方を拝め。」 |
とあります。人間は、主を恐れるか、人間を恐れるかのどちらかです。「主を恐れることは
知恵の初めである」とソロモンは言ったのです。人間を恐れると、ぺちゃんこになります。知らないうちに人間の奴隷になってしまうのです。
また、別の人たちは次のように考えます。「私はイエス様に従う者として迫害されるかもしれない」。この事実を小さく言うことなく、このような場合は、事実であるということを教えてあげるべきではないでしょうか。「確かにその通りです」と。
イエス様のための苦しみは、信じる者の特権であるということを教えてあげるべきです。なぜなら、その人は、イエス様の足跡を踏んで歩くことが赦されているのですから、安心です。「十字架なくしては、王冠はない」と聖書は言っています。
例えば、ヨハネ伝を見ると、次のように書かれています。
ヨハネの福音書 15章19節、20節
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「もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。しもべはその主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。もし彼らがわたしのことばを守ったなら、あなたがたのことばをも守ります。」 |
と、イエス様は当時の弟子たちに言われたのです。
ほかの福音書の中にも、似ていることばがいっぱいあります。
例えば、
マタイの福音書 10章38節
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「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」 |
「その人は滅びるようになる。地獄に行く」ではありません。それは別です。けれども、
用いられるための唯一の道とは、イエス様に従うことです。
パウロは、当時の信じる者に、はっきりと隠さずに言ったのです。
テモテへの手紙・第二 3章12節
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確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。 |
「みな」とは、「みな」です。例外はないのです。何の問題もなく反発もなければ、たとえ苦しんでいないとしても、それはイエス様に従っているとは言えないでしょう。けれども、初代教会の人たちの態度は、本当に素晴らしい態度でした。
ローマ人への手紙 8章18節
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今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。 |
パウロは、このような確信を持っていたのです。
結局、いろいろなことで悩むこと、苦しむことは、当然のことです。けれども問題は、
私たちの態度です。問題を持つことは、大した問題ではなくて、問題に対する反応が問題
なのです。
初代教会の人たちは、「今確かにつらい。苦しい。けれどいつまでも続くものではない。今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものである」と。比べなければ、ぺちゃんこになります。目に見える現実によってがんじがらめになり、縛られるようになれば、本当に大変です。決して証しになりません。
また、マタイの福音書の5章を見ても分かります。有名な『山上の垂訓』です。
マタイの福音書 5章10節から12節
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「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。」 |
「気の毒」ではありません。「同情するべき」でもありません。「幸せ」なのです。
マルコ伝8章を見ても、同じ内容のことばが書かれています。
マルコの福音書 8章35節
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「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。」 |
マルコの福音書 8章38節
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「このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。」 |
とあります。
初代教会の人たちは、確かにいろいろなことで悩みました。けれども、「これは当然だ。当たり前だ」と彼らは思ったのです。使徒行伝の5章を見ると分かります。
使徒の働き 5章40節、41節
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使徒たちを呼んで、彼らをむちで打ち、イエスの名によって語ってはならないと言い渡したうえで釈放した。そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。 |
「悲しみながら、泣きながら」ではありません。
テモテへの手紙・第二 2章12節
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もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。もし彼を否んだなら、彼もまた私たちを否まれる。 |
とあります。もう一度、使徒行伝に戻りまして、
使徒の働き 14章22節
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弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。」と言った。 |
「経なければならないかもしれない」ではありません。事実として書かれています。
私たちの取るべき態度とは、いったいどのような態度なのでしょうか。
へブル書の著者は、次のように書いたのです。よく知られていることばです。非常に大切な箇所です。
ヘブル人への手紙 12章2節、3節
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信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがたは、罪人たちのこのような犯行を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。 |
「十字架につけられたイエス様のことを考えなさい」。どうして?「それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです」。
十字架の上で犠牲になられ、復活なさり、高く引き上げられ、また近いうちに迎えに来
て下さるイエス様について考えると、誰でも元気になります。これこそ明日のための勇気、
また、希望を意味しているのではないでしょうか。
もう一箇所、
ペテロの手紙・第一 2章20節、21節
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罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。 |
また、次のように言う人もいます。即ち、それは、「イエス様に従うと、私の仕事や立場を悪くするのではないでしょうか」と。
イエス様に悔い改めたとき、ある人は自分の地位を捨てなければならないかもしれません。けれど、イエス様のためにあることをやめた人は、主なる神はいかに素晴らしくあられるかということを、体験するに違いありません。
その人に、次のような約束を示してあげなさい。素晴らしいイエス様の、嘘を知らないイエス様の、お約束です。
マタイの福音書 19章29節
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「また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。」 |
「イエス様に従う者は全部悪くされる」と考えるのは、誤りです。
誠実な主なる神は、しばしば何か良いものを与える代わりに、信者たちから何かを取り
去られることがあります。なぜなら、その人にもっと良いものをお与えになるためにです。
他方、主は、次の事がらにおいても、ご自身の誠実さをお示しになっています。つまり、
イエス様に対しての徹底的な悔い改めが行なわれると、主はご自身の誠実さを示され、私たちの今の立場よりも、「すべてのことを働かせて益としてくださる」というところにも、表わされています。ですから、次のように書かれています。
マタイの福音書 6章33節
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「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」 |
そうしなければ、もちろん駄目です。主を第一にすると、「すべて与えられます」。すべてを与えることがおできになる方が与えてくださるのであるならば、幸せなのではないでしょうか。
マルコの福音書 8章36節
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「あなたがたは、……地の果てにまで、わたしの証人となります。」 |
「人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。」
欲しいもの全部が与えられたとしても、主イエス様とつながっていなければ、心は相変わらず空っぽです。いつかは主に答弁を求められ、言い訳が役に立たない時が来ます。
また、次のように言う人もいます。「主は不公平で恐ろしい」と。
この持論の裏付けは、いつも表面的です。戦争、飢饉、地震、差別等々の大小に関わらず、不公平だなどと言うことが、引っ張り出されます。その場合、多くの人は、「主はあらゆることを強制されるから、不公平で恐ろしいと思います」と。
その人に、主がどのようなお方であるかを、聖書の中に求める努力をしたかどうかを、尋ねなさい。そして、主なる神を訴えることは危険であり、傲慢であるということを教えてあげなさい。ローマ書の9章20節のことばを示してもよいと思います。
ローマ人への手紙 9章20節
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「あなたがたは、……地の果てにまで、わたしの証人となります。」 |
しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。」と言えるでしょうか。
ヨブ記の中でも、次のように書かれています。
ヨブ記 40章2節
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非難する者が全能者と争おうとするのか。神を責める者は、それを言いたててみよ。 |
人は、自分の非運や、困難や、試練に遭って立腹し、そのために、「主なる神は不公平で
恐ろしい」と訴えているのです。この態度の行き着くところは憂鬱に導かれることを、教えてあげなさい。主と争うことは、災いです。それは悪魔の仲間の誘惑です。
主なる神は、人をご自身に引き寄せ救うために、むちをお用いになることが、しばしばあります。ですから、ヘブル書の中に、次のように書かれています。
ヘブル人への手紙 12章5節から7節
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そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。 |
イエス様が、私たちのためにどれだけ苦しく、恐ろしい打撃に耐え抜かれたかを教えて
あげなさい。そのために最も適当な箇所の一つは、イザヤ書の53章ではないでしょうか。
イザヤ書 53章3節
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彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。 |
5節
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しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 |
主なる神は、正しい義なるお方であられるから、私たちの罪のために、ひとり子であら
れる主イエス様を死に追いやらなければならなかったのです。この関係における人の罪の恐ろしさを、その人に教えてあげてください。
もう一つの言い分は、「私は赦すことができない」です。
「赦すことができない」ということは、「赦したくない」ということを意味しています。
おのれを辱める者を赦さないということは、本当に恐ろしいことです。「赦すことができな
い」、または、「赦したくない」のどちらにしろ、「不安である」ということを教えてあげな
さい。
ハバクク書を見ると、次のような箇所があります。
ハバクク書 2章4節
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見よ。心のまっすぐでない者は心高ぶる。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。 |
さらに、「主の赦しの命令に従わない者は、主によって捨てられる」ということを教えてあげなさい。
ローマ書を読むと、次のように書かれています。
ローマ人への手紙 1章28節
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また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。 |
ローマ人への手紙 1章31節
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わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。 |
とあります。
『山上の垂訓』の中にも、同じことばが出てきます。
マタイの福音書 6章15節
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「しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」 |
大変厳しいことばです。「人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦し
にならない」。
ヨハネ第一の手紙を見ると、次のように書かれています。
ヨハネの手紙・第一 3章15節
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兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。 |
また、ある人たちは言います。「自分は恵みの時を逸した。もう遅すぎる」と。
この持論には、いろいろな原因があります。憂鬱、肉体的病い、恵みを受け取るための
むなしい努力、救いの認識の確信不足、自己分析などがそれです。そのような人に、次の箇所を教えてあげなさい。
ヨハネの福音書 6章37節
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「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」 |
結局、へりくだり、ぺちゃんこになった者としてイエス様に祈り、「あわれんでください。お赦しになってください」という態度を取るなら、主は間違いなく受け入れてくださいます。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」と。
詩篇 102篇17節
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窮した者の祈りを顧み、彼らの祈りをないがしろにされなかったからです。 |
もちろん今日もそうです。また、前にも読みました箇所ですが、
イザヤ書 1章18節
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「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」 |
イザヤ書 42章3節
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彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。 |
これも素晴らしい事実です。考えられないほど多くの人たちが、「もう捨てられた」と言
います。あり得ません。主はお離しにならないからです。
ローマ人への手紙 5章20節
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律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。 |
とあります。悔い改めるに遅すぎるということは、決してありません。
ペテロの手紙・第二 3章9節
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主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。 |
悔い改めることができるから、喜びの集いです。ルカ伝の23章の中に、悔い改めた人の実例が書かれています。
ルカの福音書 23章39節から43節
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十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」 |
「パラダイス」とは、「天国」です。
最後に、もう一箇所を読んで、終わりましょう。
黙示録 22章17節
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御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください。」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。 |
「いのちの水」とは、「罪の赦し」、「神との平和」、「永遠のいのち」です。
コリント人への手紙・第二 6章2節
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確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。 |
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