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メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


人間をとる漁師にしてあげよう(9)
   
2004.11.30(火)
ベック兄メッセージ(メモ)

 
引用聖句
詩篇 81篇10節から14節
 わたしが、あなたの神、主である。わたしはあなたをエジプトの地から連れ上った。
  あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。しかしわが民は、わたしの声を聞かず、イスラエルは、わたしに従わなかった。それでわたしは、彼らをかたくなな心のままに任せ、自分たちのおもんぱかりのままに歩かせた。ああ、ただ、わが民がわたしに聞き従い、イスラエルが、わたしの道を歩いたのだったら。わたしはただちに、彼らの敵を征服し、彼らの仇に、わたしの手を向けたのに。」

ルカの福音書 13章34節

 ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。


人間はいろいろなことを考えて計画します。けれど、なかなか計画通りにいきません。
先日来、来年はいつバンコクに行くべきかとずっと考えていました。本当は、来年は止めるつもりだったのです。不信仰の者ですから…。(笑) なかなかうまくいかなかったし、一番熱心な姉妹のご主人たちはみな転勤で日本に戻られ、いったいどういうことなのかと。でも日本にいる姉妹たちのプレッシャーに負けて、バンコクの姉妹たちは、「いいですよ。やりましょう」ということになりました。
ところが結果は、今までと違って一番嬉しい集いになりました。今まで姉妹がたのご主人たちは、バンコクのホテルでの食事のために来られたようでした。集会には出席しようとは思われなかったようです。(笑い話のようですね。)でも今回は、何人か集会に参加されるようになって、祈るようになられたご主人たちもいらっしゃいました。ちょっと考えられないことでした。そうなると、やはりこれからも続けてやらなくてはならないのではないかと思うようになったのです。
「来年の2月はどうですか」「いやあ、正月ですから…。バンコクでは旧正月になりますからどうしましょうか」云々と。「それでしたら、3月にしましょう」と、私たちは考えたのですけれど、正月のほうがいい。なぜなら、正月は、日本人学校は休みがないのです。そうすると、家族で出かけられないから、むしろいいのではないでしょうか。けれども、ホテルは全部予約でいっぱいです。今まで使ったホテルもダメらしいのです。ですから、今から探さなくてはいけません。みなさん是非覚えて祈ってください。
私たちは、もちろんいろいろなことを考えます。計画します。けれど、私たちの思いの奥底で、「イエス様。人間の計画はあなたの再臨によってすべて解決されますように」と、祈るべきではないでしょうか。

イエス様はいつ来られるのでしょうか。
決められた人数が満たされた瞬間です。最後のイラク人、最後のスイス人、最後の日本
人が導かれればその瞬間、イエス様は私たちを迎えに来られます。したがって、信じる者にとって一番大切なことは、やはり、人をすなどることなのではないでしょうか。
主は、「用いたい、満たしたい」と思っておられます。
詩篇81篇 10節後半

「あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。…」

けれどもその後で、
11節、12節

「しかし、わが民は、わたしの声を聞かず、イスラエルは、わたしに従わなかった。それでわたしは、彼らをかたくなな心のままに任せ、自分たちのおもんぱかりのままに歩かせた。…」

「自分勝手なことをやりたければ、もういい。どうぞ。けれど、用いられませんよ」と。

ですからもっとも大切なことは、聞く耳を持つことです。どういう人間が聞く耳を持つかと言いますと、自分の弱さ、みじめさが分かる人々なのではないでしょうか。今、司会の兄弟が言われたように、私たち人間のすることは結局ダメなのです。もし、聞く耳を持つなら用いられる器となります。けれど、器も用いられたからこそであって、その人間が偉いのではなく、ちょうど台所の包丁が一つの道具にすぎないのと同じことです。自分で何にもできない。あなたがたの手により用いられれば、非常に役に立つものですけれど、そうでないとダメ。結局人間とはそういうものなのです。ですから、「お手上げです。何もできないけれどよろしく…」と言わざるを得ないでしょう。

どうして、私たちはイエス様のことを紹介しなくてはいけないのでしょうか。
もちろん人々が導かれ、救われ、決められた人数が満たされるためです。そうすると、
イエス様が来られるからです。もちろんほかの理由もいっぱいあります。

例えば、「地獄」は、もちろん現実です。多くの人々は「地獄があるのか」と聞きます。一番、地獄のことについて話されたのはイエス様なのです。ですからイエス様にとって、「地獄」は現実的な場所です。「地獄」それすなわち、「とこしえに失われた状態」が事実存在しているゆえに、イエス様を宣べ伝えなければならないのです。イエス様ほどはっきりと「地獄」のことについて語られた人はほかにいません。イエス様ほど、「地獄」を警告している人も一人もいません。
地獄とは、「とこしえに、赦されざる罪を担い続けていかなければならない状態」、すなわち、「とこしえに罪を犯し続け、とこしえにのろわれた状態にとどまる」ことなのです。
地獄があるから、信じる一人一人は自分の使命を正しく知り、そして永遠のために、また主イエス様のために、たましいを救うという目的を持たなければなりません。

また、こんにちのさまざまな状況は、だれもが救われなければならないということを、聖書がはっきり示しているのです。こんにちもはや、本当に親密な家族というものはあまり存在していないのではないでしょうか。例えば、多くの離婚がそれをはっきり証明しています。たとえ離婚までいかなくても、本当の交わり、本当の相互理解、そして、本当の愛が存在する家庭が少ないと言ってもよいのではないでしょうか。また、教育の場である学校といえども、子どもたちに心の支えを与えることができなくなっているということも、だれでも気がついています。多くの国々の政府もまた、決して善の模範ではなく、悪魔に惑わされているのではないでしょうか。

まずこんにち世界が必要としているのは、主イエス様を信じることです。ただイエス様お一人だけが、あらゆる問題に対する解決そのものなのです。このことが、多くの人々に宣べ伝えられなければなりません。そして、そのためにイエス様は一人一人を用いようと心から望んでおられるのです。こんにちの、地獄の現実的存在、また堕落した世界に対する救霊の必要が明らかになります。

次にもう一つ、イエス様のお苦しみは、だれもが救いを必要としていることをはっきりと語っているのではないでしょうか。イエス様の苦しみ、主イエス様の犠牲、主イエス様の死は、間違いなく次のことを語っています。すなわち、主なる神にとってすべての人のたましいが尊いものであり、この世のすべての富にまさるものであるということです。
みなさんが暗記しているみことばなのですけれど、ヨハネ伝3章16節を通してはっきり分かる事実です。
ヨハネの福音書 3章16節

 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

イエス様の唯一の願いはいったい何だったのでしょうか。失われている者を捜し求め、
救うことでした。確かにどんなに努力しても、頑張ろうと思ってもうまくいきません。
けれども必要なのは、前に話したように、聞く耳を持つことです。人を導こうと思えば、まず大事なことは、従順に従うことなのではないでしょうか。すべての信者に、主のみことばが当てはまります。すなわち、イエス様は、「わたしに従って来なさい。そうすれば、わたしはあなたがたを、人をすなどる者にしよう」と言っておられます。

では、何がいったい大切なのでしょう。この箇所によると、「従うこと」です。福音書の中で何回も何回も、「わたしに従いなさい」ということばが出て来ます。主に従うことだけが要求されています。そのほかは何の役にも立たないのではないでしょうか。もちろん、
ここで従うということは、日常生活の小さなことにも忠実であることを意味します。
イエス様は次のように言われました。
ルカの福音書 19章17節

 あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。


私たちの人生のすべての鍵を、主に渡し、主にすべてをゆだねましょう。そうすれば、この瞬間から、主のしもべ、主の道具、主の器となるのです。そして、まず主に仕えるための教育と準備を始めることです。そうすれば、主は人を救うためにお用いになります。「主に従うこと」「主にすべてをあけ渡すこと」、このことが要求されています。つまり、主に結びつくこと、主につながることが大切です。私たち自身の努力は、決して実を結びません。実は、私たちが主に従っていること、主に従うことの結果にすぎません。

「わたしに従いなさい」。「わたしにつながっていなさい」。「ゲッセマネの園に至るまで、
わたしに従いなさい」。「目を覚まして、わたしとともに祈り、かつ戦いなさい」。「総督の
家の前まで、わたしに従いなさい」。「たとえ、あなたが訴えられ、悪魔の憎しみを経験するようなことがあっても、わたしに従いなさい」。「宿営の外に出て、辱めを身に受けても、わたしに従いなさい」。「十字架に至るまでも、わたしに従いなさい」。「恐ろしい孤独と、暗黒に至るまでも、わたしに従いなさい」。「わたしとともに、苦しみをともにする備えをしなさい」。「わたしに従いなさい。わたしはよみがえった主です。わたしの勝利の力をあなたも体験すべきです」。
ヨシュア記 1章3節

「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。…」

ほかのことばで言えば、「信じれば、OK。信じれば、神の栄光を見る」ということです。「わたしは、あなたがたを人をすなどる者にしよう。わたしがしよう。あなたは決してできないからです」。

主のお働きは、創造的なみわざです。存在しないものが存在するようになります。人間は、自分の力や努力によって人をすなどることは決してできません。また人間は、研究や頭の知識によって人をすなどることも不可能です。人はただ主の創造的なみわざによってのみ、人をすなどることができるのです。「主の栄光のため、また、人を救うご奉仕のために、私をお用いになってください」。このように主に祈る者になりたいものです。

イエス様が、弟子たちを、人をすなどる者としてお用いになるため、「主イエス様に従うように」と呼びかけられたことは、「自分の網を捨てなさい」ということだったのです。そして、弟子たちは網を捨て、自分のものを全部捨て、彼らを妨げるものをすべて捨てました。すべてのものを、第二次的なものとして捨てたのです。

パウロもまた、自分の網を捨てたのではないでしょうか。彼の告白は次のものです。
ピリピ人への手紙 3章7節

 しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。

主の働きにとって妨げとなるものは、自分自身のものをすべて、投げ捨てます。私たちの最大の敵は、結局自分です。自分自身の自我そのものです。主のみことばは語っています。
ゼカリヤ書 4章6節

「『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の主は仰せられる。…」

この学びのシリーズ(9/28〜)で、私たちはどのような人々と出会うようになるのか、そして彼らをどのように導くべきかと考えてまいりました。
無関心で冷淡な人にいかに対応するべきか。あるいは、疑っている人々、間違った望みを抱いている人々にどのように対応したらよいのかと。

今日も、また何箇所かを読みたいと思うのです。すなわち、「救われたいと思う人々に
いかに対応すべきなのでしょうか」。
多くの人々は救われたい気持ちでいっぱいですけれど、救いとは何であるかさっぱり分
からないのです。救いとはもちろん言うまでもなく、一時的な問題の解決ではありません。普通の人々は、一時的に問題が解決されれば、「ああ、助かった。救われた!」と言うのですけれど、これは本物ではありません。また次の問題が必ず出て来るからです。けれども、本当の意味での救いを求める人々は、どのように導かれたいと思っているのでしょうか。
 自分のたましいの救いに悩み、「救われたい」と思っている人は、すでに聖霊の働きのもとにいます。なぜなら、聖霊は、罪について人の目を開かせるからです。ですから、「主よ。ああしてください。こうしてください」というよりも、「あわれんでください。お赦しになってください」という祈りこそが、もっとも大切なのではないでしょうか。

結局、悔い改めること、正直になることこそが、要求されています。悔い改めのないところには、信仰はありません。なぜなら、聖霊は罪について人の目を開かせるからです。
悔い改めのない信仰は、もちろん救いを得させるものではありません。ですから、聖書はいつも、両方を示しています。「悔い改めて、信じなさい」。意味は、悔い改めてから赦されたことを信じてもいい。ピンと来なくても関係ないということです。
マタイの福音書 21章32節を見ると、次のように書かれています。

 というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。
  しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。

もし、悔い改めようとしなければ、救いに至る信仰もあり得ないのです。

詩篇の作者は次のように書いたのです。
詩篇 38篇6節

 私はかがみ、深くうなだれ、一日中、嘆いて歩いています。

18節

 私は自分の咎を言い表わし、私の罪で私は不安になっています。

と、作者は書いたのです。結局、悩むようになり、苦しむようになり、ペチャンコになり、
やはり赦してもらいたいと思うようになったのです。
悔い改める必要性について、聖書は初めから終わりまで強調しているのです。

パウロはコリントにいる人々に書いたのです。
コリント人への手紙・第二 7章10節

 神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。

「役に立たないものです」と正直になり、へりくだること。悔いた心を持つことこそが、
要求されています。ヨハネ第一の手紙1章9節も、非常にすばらしいみことばです。
言うまでもなくこの箇所も、未信者のためではなく、イエス様を信じる者のために書かれたものです。
ヨハネの手紙・第一 1章9節

 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

「私たちが」、私たち信じる者が、です。「すべての罪」、意識している罪だけではなくて、
無意識のうちに犯した罪が山ほどあるでしょう。
「すべて赦されます」と、ここに書いてあります。けれど条件付きです。「もし、…なら」と、書いているでしょう。「自分の罪を言い表わすなら」ということは、認めることだけではなく、言い表わすことそのものです。
もちろん、だれにでも話すことではなくて、おもに主の前に、です。もし人間に対する罪であればもちろん、その人の前にも、やはり頭を下げなくてはいけません。その後は、楽になるのです。普通の人間は、「相手の前に頭を下げることは嫌です。恥ずかしくて」と言います。けれども大切なことなのです。
この間も、一人の姉妹は、本当に苦しいけれど言いたいと告白して、「結婚する前に、別の男性と一緒になって子どもができたけれど、堕ろしてしまいました。ずっと、何年間も隠していました」と。かわいそうです。主は赦したくて、赦したくてしかたがないのです。けれど条件は、「言い表わすこと」なのです。イエス様に罪を告白しない限り、主は赦すことがおできになりません。
ですから、悔い改めたいと思う罪人は、まず第一に自分の罪を主の前に告白することが
大切です。

詩篇の作者であるダビデは告白したのです。有名な詩篇の32篇の5節です。私たちがへりくだると、いろいろなことで苦しくなりますが、やはり詩篇32篇と51篇を読むと、また希望が湧いて来ます。主は恵み深いお方であることを、新たに知ることができるからです。
詩篇 32篇5節前半

 私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。

ダビデは、視覚的に隠そうと思ったのです。何週間だったか、何ヶ月間だったか分かりませんが…。「私はどうしましょう」「だれにも分からなければいいだろう」とダビデは悪魔の声に耳を貸したのです。けれども、最後まで隠し続けることはできなくなってしまったのです。
5節後半

 私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。

「赦された!」。この確信を持つことによって、彼はまた元通りになり元気になったのです。救われたいと願う人に、「世の罪を取り除く、神の小羊である主イエス様」を、教えてあげてください。
旧約聖書の中で、「諦める必要はない。失望しなくてもいい。希望がある。罪の問題を解決するお方が現われる」という内容の(例えば、イザヤ書の53章)、非常にすばらしいみことばがあります。イエス様が十字架につけられる六百年前に書かれた箇所です。
ユダヤ人は、このイザヤ書53章を読もうとしません。絶対に。なぜなら、この箇所を通して、「十字架につけられたイエス様こそが、約束された救い主である」と証明されているからです。イスラエル民族の全体として、今日までこの事実を認めようとしません。認めるなら、大変なことになります。しかし、将来、イスラエルの民はそれを認めるようになり、国民として悔い改めるようになります。日本の国民は絶対に一つになって悔い改めようとしませんし、ドイツもそうです。イスラエル以外のほかの国々は、その意味で、将来性のない国です。イスラエルだけが将来性のある国なのです。
イザヤ書 53章4節

 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

結局、彼は自分の罪のために罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
5節、6節

 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

理解できないほどすばらしい、来たるべき救い主に対する預言のことばです。

救われたいと思う人たちに、次のような箇所を示すべきなのではないでしょうか。
ペテロの手紙・第一 2章24節、25節

 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。

ガラテヤ人への手紙 3章13節

 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。

 「私たちのために」、あらゆる人間のためにです。キリストは私たちのためにのろわれた
お方になられたのです。意味は、「捨てられた者となられた」のです。私たちの罪を赦すために、ほかの道はなかったのです。

ヨハネも、また同じように書いたのです。
ヨハネの手紙・第一 2章2節

 この方こそ、私たちの罪のための、――私たちの罪だけでなく全世界のための、――なだめの供え物なのです。

求めている人々、救いを得ようと願っている人々に示すみことばなのではないでしょうか。

イエス様は、正しい者のためではなく、罪人のために死なれたことを教えてあげなさい。
そのための一つの適切な箇所は、ローマ書の5章なのではないかと思います。
ローマ人への手紙 5章6節

 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。

8節

 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

つまり、私たちの代わりに犠牲になられ、代わりに死に渡された主イエス様こそ、私たち一人一人を愛し尽くしてくださっている証拠そのものです。

さらに、主なる神は、「罪人であり、主の前に滅び、失われている自分の状態を認めている人々を、義とされる」ということを教えてあげなさい。義とされることとは、罪を赦されることだけではなく、永久的に受け入れられ、よしとされることです。
イエス様に義と認められた人は、生まれてから死ぬまで一度も罪を犯さなかったかのようにしてくださいます。考えられない、ピンと来ないことです。けれどこれこそが、聖書を通して提供されている救いです。
ローマ人への手紙 4章5節

 何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。

どうして、義と認められることがあり得るのでしょうか。その答えはコリント第二の手紙
の5章21節です。もちろんこのような箇所を読んでも、「そうか」と思っても、本当の意
味で、つかめるものではありません。永遠の世界に入ってから初めて、イエス様の犠牲とはどのようなものであったか分かるようになります。この箇所もそうです。
コリント人への手紙・第二 5章21節

 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。

意味は、罪のかたまりとされたということです。

あらゆる時代のすべての人間のすべての過ち、わがままを、イエス様がご自分ひとりで犯したものとされ、父なる神様に取り扱われたその方こそ、十字架につけられたイエス様です。考えられない、しかし、これこそが聖書の中心テーマです。ちっぽけな人間は、何を信ずべきなのか、また何をするべきかではなく、イエス・キリストが罪とされ、私の代わりに罰せられたと言う事実を信じることだけなのです。
救われたいと願う人に、イエス様の流された血潮の力を教えてあげなさい。「イエス様の血はすべての罪を洗いきよめる」と聖書は語っています。もしイエス様の血潮を信じるなら、自分の罪は取り除かれ、もはや主なる神はその罪を思い出されることはないのです。
「わたしはあなたの罪を決して思い出さない」と書かれています。流されたイエス様の血潮を信じる者は救われ、もはやさばきに至ることはありません。

イザヤ書の1章18節は、前にも何回も開いた箇所ですけれども、やはり希望を与えるものです。
イザヤ書 1章18節

「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。…」

イエス様の血は、すべての罪をきよめるのです。

パウロも、同じ事実について次のように書いたのです。
ローマ人への手紙 3章24、25節

 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。

イエス様の犠牲とイエス様の流された血潮の力は、考えられないほどすばらしいものです。

ヨハネの手紙・第一 1章7節

 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

「光の中をあゆんでいるなら」、そのときのみ、です。「交わり」、本当の交わりです。「す
べて」とは、すべてです。過去の罪であり、現在の罪であり、将来の罪です。

エペソ書の1章7節でも、パウロは次のように書いたのです。これこそが、初代教会の変わらない喜びの源でした。
エペソ人への手紙 1章7節

 私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。

「私たちは罪の赦しを受けている」と言うことのできる人こそ、幸せなのではないでしょうか。そのような人々だけが、安心して将来に向かうことができ、死ぬことができるのです。言うまでもなく、これは人間の努力の結果ではありません。これは、神の豊かな恵みによることです。主が恵んでくださらなければおしまいです。

またローマ書に戻りまして、5章を見ると、パウロは、このイエス様の流された血潮の価値について次のように書いたのです。
ローマ人への手紙 5章7節から10節

 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。

救われたいと願う人に、イエス様は完全に救うことがおできになることを教えるべきです。ヘブル書の著者は、このイエス様の完全な救いについて次のように書いたのです。
ヘブル人への手紙 7章25節

 したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。

このようなみことばを簡単に読みますけれど、イエス様による完全な救いは本当の意味で、人間の理解や想像の出来ないことです。人間はいくらみじめであっても、イエス様はすべてがお出来になるのです。

ユダ書の最後の2節を見ても、同じように書かれています。これも、すばらしい事実を
表わすみことばです。

ユダ書 24節、25節

 あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、すなわち、私たちの救い主である唯一の神に、栄光、尊厳、支配、権威が、私たちの主イエス・キリストを通して、永遠の先にも、今も、また世々限りなくありますように。アーメン。

とあります。イエス様は救うことがおできになり、また守ることもおできになるお方です。
ペテロの手紙・第一 1章5節

 あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。

救われたいと願う人に、どうしたなら救われるか、それは自分の行ないではなく、ただただ信仰により救われることだということを強調すべきです。そのために非常にすばらしい、大切なみことばは、ローマ書ではないでしょうか。
ローマ人への手紙 3章25節から27節

 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。それでは私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。

とあります。

使徒行伝の中に、一つの実例が書き記されています。
使徒の働き 16章31節

 ふたりは、「 主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。

「ふたり」とは、パウロとシラスだったのです。信じれば、自分だけではなく、主は家族
の救い、親戚の救い、知り合いの人々の救いを約束しておられるのです。
ヨハネの福音書 3章16節

 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

「世を」、あなたを、私を愛された。
ヨハネの福音書 3章36節

 御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。

とあります。「御子に聞き従わない者、頭を下げたくない者、従おうとしない者」は、なのです。
もう一箇所、読んで終わりましょうか。
ローマ人への手紙 10章9節、10節。

 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。


もう一つ、「信仰は感情とは全く関係がない」ということです。
多くの人々は、罪の苦しみのうちに滅びるという感情にとらわれています。ですからその
人に、「信仰とはイエス様がなされたみわざを自分から認めることです」と言いなさい。
ヘブル人への手紙 11章1節

 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

とあります。

主なる神の約束は語っています。「イエス様の血はすべての罪からきよめる」と。
揺れ動くあらゆる感情にも関わらず、それを安心して信じることができるのは、分かったからではありません。「聖書はそう言っているから」なのです。



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メッセージ・証し集インデックスページ

◆メッセージ(ベック兄)

※一部、テープの転換による不明部分あり

神のみことばは神のみことばである(5) 2006. 4. 18
神のみことばは神のみことばである(4) 2006. 4. 11
神のみことばは神のみことばである(3) 2006. 4. 4
神のみことばは神のみことばである(2) 2006. 3. 21
家族の救い 2006. 3. 19
神のみことばは神のみことばである(1) 2006. 3. 14
主イエスは神の子キリストである(4) 2006. 3. 7
主イエスは神の子キリストである(3) 2006. 2. 28
主イエスは神の子キリストである(2) 2006. 2. 14
主イエスは神の子キリストである(1) 2006. 2. 7
勝利の生活の秘訣 2006. 1. 24
イエス・キリストのからだ 2006. 1. 17
主の永遠からの予定 2006. 1. 10
元旦メッセージ 2006. 1. 1


2005年度のメッセージ集
2004年度のメッセージ集
2003年度のメッセージ集