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メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


人間をとる漁師にしてあげよう(10)
   
2004.12.7(火)
ベック兄メッセージ(メモ)

 
引用聖句
テサロニケ人への手紙・第一 1章9節から10節
 私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。


 まず、一通の手紙を紹介したいと思います。主にある姉妹の手紙なのですけれど、今日
言いたいことが、全部手紙の中に含まれていると思います。
 彼女は、現在まだ入院されています。けれども、自分のことを忘れ、病院で知り合いに
なった人たちの救いのために、必死になって祈っている姉妹なのです。17人の名前を書いて送ってくださいました。一人一人どういう状況か云々と。
 彼女は、まず三箇所のみことばを書かれたのです。結局、病気になったり、いろいろな
問題を持つようになったりすると、みことばのすばらしさ、大切さを知るようになるので
はないかと思います。
このような手紙でした。
申命記 32章4節

 主は岩。主のみわざは完全。まことに、主の道はみな正しい。主は真実の神で、偽りがなく、正しい方、直ぐな方である。

使徒の働き 14章22節

「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。」

コリント人への手紙・第二 4章10節

 いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。

 …いつもお祈りくださり、ありがとうございます。病気をいただいて、たましいの価値やこの世のすべてのことから切り離されて、ただ主イエス様との静かなお交わりの中へ入れていただいていることは、本当に感謝です。
 みことばは、いのちそのものです。すぐに主から離れ、自分勝手に生きようとする高ぶ
りをいつも思わされます。
また、どういうわけか、救われる以前より私の周りには病気で苦しんでおられる方が多
いのです。今まで、そして今でも、その方々の心の痛みは全く分からない者であるにも関
わらず、口先だけで慰めようとしたり、主イエス様にのみ御栄光を帰そうとする者でなかったことを悔い改めさせられております。
 主は、本当にすばらしい方ですね。偉大な方です。もっと、もっと主を知りたいです。
病んで、ますますイエス様の愛を教えられ、喜びに満たされています。
 このすばらしいイエス様を、周りの方々に少しでもお伝えできますよう、また、私が砕かれますように、これからもお祈りに覚えていただければ感謝です。
手術後、計6回の抗癌剤治療のために、大学病院への入退院を繰り返してまいりましたが、ちょうど『喜びの集い』のときに、最終回の投与予定となっています。主のみこころでしたら、ベックさんに、求めておられる方々を見舞っていただきたく願っています。
どうぞよろしくお願いします。…

 彼女は、「みことばは、いのちそのものです。主は、本当にすばらしい方ですね。偉大な
方です」と言われました。彼女は、家族のため、子どもさんたちのために、何にもできなくなってしまいました。けれども、「この病気も与えられているものです」と言われたので
す。主は、私たちに「良いもの」しか与えられないお方です。ですから彼女も、いわゆる
「助け」を欲しいというよりも、「助け主をよりよく知りたい」と思うようになり、荷が軽くなったのです。結局、彼女が救われた目的は、用いられるためです。


初代教会の人々は、次のように書いたのです。「私たちは、神の同労者です」と。
コリント人への手紙・第二 6章1節

 私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。

あり得ることです。
 イエス様は、あるとき、自分の知恵によって虜になったペテロに、このように言われた
ことがあります。
マタイの福音書 16章23節

「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

ですから、毎日が「戦い」の連続なのではないでしょうか。
イエス様のささげられた祈りとは、本当に最高の祈りであり、祈りというよりも礼拝で
した。「わたしの思いではなく、みこころだけがなるように」というものです。

 引用聖句の中で、パウロは、「テサロニケにいる人々は、救われただけではない。偶像か
ら、神に立ち返っただけではない。彼らは、主に仕える者になった。そして、再臨を待ち
望む者となった」と言ったのです。

 話は変わりますが、先日近江八幡での集会に行きました。初めてのあちらでの『喜びの集い』だったのですけれど、大勢の兄弟姉妹が集まりましたし、5人の方が洗礼を受けるようになり、主のみ名を呼び求めた人々は12人でした。ぜひ続いて祈ってください。
近江八幡に行く途中で、ある病院に行きまして、I姉妹にお会いしました。その姉妹は、三十何年か前にイエス様を信じ、救われ、受け入れられたのです。そして、ずっとご主人の救いのために祈って来られましたけれども駄目でした。姉妹は大変悩んでおられました。けれども、ご主人は癌を与えられました。そのとき、姉妹から電話がありました。「どうしたらいいのでしょうか。主人が救われてもらいたいのですけれど」と。
 私がお勧めしたのは、リンデの本です。「『実を結ぶ命』を一度、2、3ページだけでもお読みになったらいかがでしょう」と。「今、ご主人は時間がおありですから、ご主人に読んでさしあげたらどうでしょう」と。
 今までは、やはり一般の男性のように、暇になればゴルフをなさっていたご主人でした。
結局、奥さんよりも、会社と結婚してしまったのです。
 けれど先日、私が行きましたとき、ご主人は完全に変えられていたのです。奥さんはあの本を毎日、ご主人に何ページか読んであげたのです。そしてリンデの「死」の箇所になったとき、ご主人も泣いてしまわれたとのことです。それからご主人は祈るようになられて、イエス様を信じ、受け入れられたのです。
 今、ご主人は、会社の人たちとあまり会いたくないそうです。主にある兄弟姉妹と会いたいと思われるようになってしまいました。ただひたすら、みことばを読んで、過ごしておられるとのことです。それだけ、主により頼むようになられたのです。本当にみことばとは、いのちそのものです。
 人間は、やはりすぐ諦めます。「どうせ駄目ではないか」と。けれど、主は家族の救いを
約束されました。ですから、私たちは祈り続けるべきではないでしょうか。


救霊の勧めの前提条件、すなわち、「いかにして人々を獲得したらよいのか」。そして、「そのために絶対に必要なものは何か」ということこそが大切です。
私たちの主は、漁師のペテロに呼びかけられました。「今からあなたは、人間をすなどる者となるべきです」と。
 
魚を獲ることと、救霊との間には、若干の類似点があります。
1.まず、目的をはっきりと自覚しなければなりません。
 今まで、私たちは救霊の必要について考えてまいりました。「何が一番大切であるか」と
いうことは、もう分かっていることです。すなわち、「道徳や宗教」ではなく、「救い」が
問題なのです。
 目的を自覚するということは、自分の欲することを知り、自分の成すことを熟慮するこ
とに他なりません。あなたの全存在は、そのことに向けられなければなりません。
「できるだけたくさんの魚をとりたい」と思う漁師は、全神経を集中して魚をとらなけれ
ばなりません。彼は、本を読んだり、ラジオを聴いたりすることはできません。魚をとる
ためには、集中力と決断力が必要です。イエス様のために、「人をすなどろう」と思う者は、
同様に、全神経を集中し、それを断固として行なわなければなりません。
 目的をはっきりと自覚しましょう。イエス様のために、「救われて欲しい」と思う人々のことだけを考えましょう。すなわち多くの祈り、たゆまざる決意、そして、これらの人々に専ら奉仕することが必要です。

2.次に、魚のことを正しく知る必要もあります。
「人々をイエス様のもとに導こう」と思っている人は、
@ 聖書のことを知るべきです。聖書こそが回心の種そのものです。
A 人間の心のことを知る必要があります。魚のことを正しく知るべきです。
人間は、みなそれぞれ異なっています。私たちは、人々を知り、尊敬し、そして、とりわけ愛さなければなりません。
 魚をとることも人をすなどることも、その方法を主イエス様から学ぶことは、一朝一夕にできるものではありません。御霊は、聖書と人間の心を知っている者だけを用いることがおできになるのです。

3.餌として最も良いものだけを用いましょう。
 実際には、いろいろな魚がいるわけですから、魚と同じように、餌もまたいろいろある
わけです。
けれどもすべての魚に対して、針はただ一つだけであり、それはすなわち「神のみことば」、聖書そのものです。けれども、一匹の魚に対してそれにふさわしい餌を選ばなければなりません。漁師は魚に合わせなければならないのです。
 みことばを愛するにも関わらず、魚に合わせることをしない人々、すなわち、救われる
べき人に合わせることをしない人々がいます。けれど、それでは人々が驚いて逃げてしま
います。魚に責任があるのではなく、責任は漁師にあるのです。
 こんにちの人間は、みな悩んでいます。みないろいろな問題を抱えているのです。悩んでいる人々は求めています。偽物ではなくて、本物を求めています。

4.もう一つの大切なことは、自分自身を見えないようにすることです。
 釣りをする場合、三つの原則があるでしょう。すなわち、
@ 見えないようにすること
A 見えないようにすること
B 見えないようにすること
これこそが、もっとも大切なことです。

 旧約聖書の中で、祭司は、主なる神と人間との仲保者として存在しました。いつの時代
も、カソリック教会は同じことを我物顔にやっているのです。けれども、新約聖書におい
ては、それとは違った原則が通用しているのです。すなわち、「自分自身を見えないように
すること」であり、人をすなどる者は、「決して中心になってはならない」ということです。

バプテスマのヨハネは、本当に人をすなどる者でした。エルサレムに住む人々、ユダに住んでいる人々はみな、「ヨルダン川へ行って、悔い改めのしるしとして、彼から水のバプテスマを受けたい」と願ったのです。けれども彼は、「中心になろう」と一秒も思ったことがないのです。彼は何を望んでいたかと言いますと、「イエス様が盛んになられ、私は衰えるべきである。イエス様が盛んになられれば、私は嬉しい」というものでした。

 魚は、よい目を持っております。人々も、私たちが前面に出ようとしているのか、それとも、人々を捜し求めて、救おうと願っておられるお方がイエス様であられるのかを見ているのです。
 魚は、私たちが見えている限り、餌を食べようとしません。たとえ、どれほど聖書的であろうと、私たちが前面に出てしまうなら、人々は離れてしまいます。見られるべきただ一つの餌は、イエス様なのです。
「見えなくなるようになりたい」と思うことは、一朝一夕にできるものではなく、ただ、苦しい教訓によってのみ、それを学ぶことができるのです。

5.もう一つ、自分自身に気をつけることです。
 すなわち、あなたの心の状態が非常に大切です。魚は、針を持つ手が何であるかを感じ
るのです。私たちが、失望、落胆したり、打ちのめされたような状態にいるとき、だれも
イエス様のみもとに引き寄せることができないでしょう。
 鱒をとる場合、針は水面スレスレに置いて、それを軽く動かさなければなりません。そ
して、餌だけが見える状態にしなければなりません。

 次に、心が解放され、喜びを持ってイエス様を見上げ、「主は必ず奇蹟を成してくださる」
ということを100%信頼することです。このような態度のときにのみ、人々はイエス様
のみもとに引き寄せられるのです。
箴言 25章11節

 時宜にかなって語られることばは、銀の彫り物にはめられた金のりんごのようだ。

とあります。「金のりんご」、すなわち「救いの福音」は、「銀の彫り物にはめられる」わけ
です。したがって、そのように魅力的なものでなければなりません。

以上のことをまとめると、
・「主の平和が、私たちを満たしていること」、
・そして「主の喜びが、私たちから輝き出ていること」、
・そして「主の御霊が、私たちに人を漁るための軽い手を与えてくださること」
これらのことは、考えられないほど大切です。

 今まで、私たちはいろいろな人々について考えてまいりました。先日は、「積極的に救わ
れたいと願う人々に、いかにして対応すべきか」についてだったのですけれども、今日は、全く違う種類の人間についてちょっと考えたいと思います。
すなわち、『背教者に対して、いかに対応すべきか』ということです。
 背教者には二種類の人がいます。
その一つは、「イエス様のところへ帰りたい」という願いを持っていない人です。
もう一つは、「帰りたい。どうしたらイエス様のみもとに帰ることができるのか」と思って
いる人です。

初めに、全部の人が背教者ではないということを考えなければいけません。なぜなら、背教したと思われる人は、もともとその全部が、本当の信者だったとは限らないからです。
 ヨハネの手紙第一の中で、次のように書かれています。ヨハネは、初代教会の兄弟姉妹
にこの手紙を書いたのです。
ヨハネの手紙・第一 2章19節

 彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし私たちの仲間であったのなら、私たちといっしょにとどまっていたことでしょう。しかし、そうなったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためなのです。

多くの人は、外面的な理由を求めて、イエス様を信じたと告白します。使徒の働きの中で、こういう実例があります。
使徒の働き 8章18節から24節

 使徒たちが手を置くと聖霊が与えられるのを見たシモンは、使徒たちのところに金を持って来て、「私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にも下さい。」と言った。ペテロは彼に向かって言った。「あなたの金は、あなたとともに滅びるがよい。あなたは金で神の賜物を手に入れようと思っているからです。あなたは、このことについては何の関係もないし、それにあずかることもできません。あなたの心が神の前に正しくないからです。だから、この悪事を悔い改めて、主に祈りなさい。あるいは、心に抱いた思いが赦されるかもしれません。あなたはまだ苦い胆汁と不義のきずなの中にいることが、私にはよくわかっています。」シモンは答えて言った。「あなたがたの言われた事が何も私に起こらないように、私のために主に祈ってください。」

前に言いましたように、そのような人々は、しばらく経つと、彼らが仮面を外すときが来ます。それは、「彼らは出て行った。しかし、彼らは私たちに属する者ではなかった」という証明がなされたに過ぎません。
 
このような、ひどい偽善者とともに、本当の背教者ももちろんいます。本当の背教者とは、イエス様を本当に信じながら、再びこの世に捕われた人々です。
これらの人々は、自分の良心を殺し、平気で毎日を過ごしている人々です。このような人々に対応することは、大変難しいのです。その人と話をする前に、たくさん祈ることが必要です。機会があったら、次のようなみことばを、その人に見せてあげてください。主の嘆きの声です。
エレミヤ書 2章13節

 わたしの民は二つの悪を行なった。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。

エレミヤ書 2章19節

 あなたの悪が、あなたを懲らし、あなたの背信が、あなたを責める。だから、知り、見きわめよ。あなたが、あなたの神、主を捨てて、わたしを恐れないのは、どんなに悪く、苦々しいことかを。――万軍の神、主の御告げ。――

「わたしの民」です。「異邦人たち」ではありません。これは、一度救いにあずかった「イ
スラエルの民」に書き記されたみことばです。他にも似ている箇所は、いっぱいあります。
例えば、
箴言 14章14節

 心の堕落している者は自分の道に甘んじる。善良な人は彼から離れる。

イザヤ書 30章1節

 ああ。反逆の子ら。――主の御告げ。――彼らははかりごとをめぐらすが、わたしによらず、同盟を結ぶが、わたしの霊によらず、罪に罪を増し加えるばかりだ。

詩篇 7篇12節から14節

 悔い改めない者には剣をとぎ、弓を張って、ねらいを定め、その者に向かって、死の武器を構え、矢を燃える矢とされる。見よ。彼は悪意を宿し、害毒をはらみ、偽りを生む。

エレミヤ書 3章13節から14節

 ただ、あなたは自分の咎を知れ。あなたは自分の神、主にそむいて、すべての茂った木の下で、他国の男とかってなまねをし、わたしの声を聞き入れなかった。――主の御告げ。―― 背信の子らよ。帰れ。――主の御告げ。――わたしが、あなたがたの夫になるからだ。わたしはあなたがたを、町からひとり、氏族からふたり選び取り、シオンに連れて行こう。


「イエス様のもとへ帰りたい」と思っている背教者に、どのように対応したらよいのでしょうか。
普通、この種類の人々は、絶望に近い状態です。なぜならこの人たちは、聖書のみことばを知っていて、その聖句が自分たちを責めるので絶望しているからです。
例えば、よく引用される箇所ですけれども、
ヘブル人への手紙 6章4節から6節

 一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。

このヘブル人への手紙の箇所は、堕落した人々について言っているのであって、罪を犯し
た人々のことを言っているのではありません。
 「堕落する」とは、「意識して主イエス様に反抗すること」を言います。これを、その悩
んでいる人に教えてあげてください。また、その人に、「意識してイエス様に反抗したのか
どうか」を尋ねてください。
 心が頑なになってしまって、悔い改めてイエス様のみもとに戻ろうとしない人もいます。その人に、このような状態かどうかを尋ねてください。もしそうだったら、イエス様を再び十字架におつけすることになります。
 
「イエス様のもとに帰りたい」と思っている人に、どのように対応したらよいのでしょうか。
その人には、ペテロが三回も、イエス様を拒んだ事実を教えてあげなさい。そしてそのペテロでさえ、再びイエス様に受け入れられ、新しい力を授かったことを話してあげなさい。よく引用される箇所ですけれども、次のように書かれています。
ルカの福音書 22章31節

 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。

イエス様は、「わたしは悪魔の祈りを聞き届けた。よしとした」と言われました。けれども、
それで終わりではありません。
ルカの福音書 22章32節

「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

確かに、悪魔の攻撃の結果として、ペテロはとんでもない方向に行ってしまいました。
ちょっと見てみましょうか。
マルコの福音書 14章30節

 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたは、きょう、今夜、鶏が二度鳴く前に、わたしを知らないと三度言います。」

マルコの福音書 14章66節から72節

 ペテロが下の庭にいると、大祭司の女中のひとりが来て、ペテロが火にあたっているのを見かけ、彼をじっと見つめて、言った。「あなたも、あのナザレ人、あのイエスといっしょにいましたね。」しかし、ペテロはそれを打ち消して、「何を言っているのか、わからない。見当もつかない。」と言って、出口のほうへと出て行った。すると女中は、ペテロを見て、そばに立っていた人たちに、「この人はあの仲間です。」と言いだした。しかし、ペテロは再び打ち消した。しばらくすると、そばに立っていたその人たちが、またペテロに言った。「確かに、あなたはあの仲間だ。ガリラヤ人なのだから。」しかし、彼はのろいをかけて誓い始め、「私は、あなたがたの話しているその人を知りません。」と言った。するとすぐに、鶏が、二度目に鳴いた。そこでペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは、わたしを知らないと三度言います。」という主のおことばを思い出した。それに思い当たったとき、彼は泣き出した。

とあります。
 もう一箇所、ペテロについては、ヨハネの福音書21章15節からです。全部、よく知ら
れている箇所ですけれども、イエス様が十字架につけられ、葬られて、復活なさったあとの出来事についての箇所です。
ヨハネの福音書 21章15節から18節

 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」

ペテロは、本当にすばらしく回復し、初代教会の指導者のひとりになり、大いに祝福され
ました。彼にとって、とんでもない方向に行ったことは、本当に大切なことだったのです。
結局、「私も、生まれてから死ぬまで、わがままで、迷える羊に過ぎません。主が守ってく
ださらなければ、主に用いられなければ、もう全部駄目です」と、彼は知るようになりました。
 
大切なのは、もちろん信じる者の考えではありません。イエス様の言われていることばです。例えば、イエス様は次のように言われました。本当にすばらしいことばです。
ヨハネの福音書 6章37節

「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。」

そうでない人々は、もちろん来ようとしません。
ヨハネの福音書 6章37節

「そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」

「決して」は、「決して」です。悔い改めた人々を、イエス様は受け入れてくださいます。
そして、イエス様によって受け入れられた人々は、永久に救われています。

ヨハネの福音書10章を見ても、同じ事実について書いてあります。ここも「決して…ない」
です。「決して」は、「決して」です。
ヨハネの福音書 10章26節から28節

 しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。


与えられている「永遠のいのち」とは、「永遠のいのち」です。
ヨハネの福音書 10章29節

 わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。


次の箇所は、多くの背教者を絶望に落とし入れます。
ヘブル人への手紙の内容は、「信じる者は滅びることができるか、できないか」という、そのような問題ではありません。「主が与えようと思っておられる報いを与えられるか、どうか」ということです。
ヘブル人への手紙 10章26節から27節

 もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。

「続ける」には、アンダーラインをすべきでしょう。これは普通の罪ではなくて、意識して犯す罪を言っているのです。「意識して罪を犯すこと」とは、「意識して悪魔の側に立ち、主なる神に敵対すること」です。結局、「悔い改めたくない気持ち」です。

 その人に、この罪を犯したかどうか尋ねてください。次の聖句をその人に示したらよい
かもしれません。本当にすばらしいみことばです。
イザヤ書 43章24節、25節

 あなたはわたしのために、金を払って菖蒲を買わず、いけにえの脂肪で、わたしを満足させなかった。かえって、あなたの罪で、わたしに苦労をさせ、あなたの不義で、わたしを煩わせただけだ。わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。

主に告白した罪は、主は思い出されないのです。また、
エレミヤ書 29章11節から14節

 わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。わたしはあなたがたに見つけられる。――主の御告げ。――わたしは、あなたがたの捕われ人を帰らせ、わたしがあなたがたを追い散らした先のすべての国々と、すべての場所から、あなたがたを集める。――主の御告げ。――わたしはあなたがたを引いて行った先から、あなたがたをもとの所へ帰らせる。」

昔、ある王は、自分勝手な道で歩んでしまったのです。しかし彼は、主のさばきを受けただけではなく、悔い改める恵みにあずかるようになりました。
歴代誌・第二 33章12節、13節

 しかし、悩みを身に受けたとき、彼はその神、主に嘆願し、その父祖の神の前に大いにへりくだって、神に祈ったので、神は彼の願いを聞き入れ、その切なる求めを聞いて、彼をエルサレムの彼の王国に戻された。こうして、マナセは、主こそ神であることを知った。

その前の節を読むと分かります。主は先に王に語られたのです。けれども聞く耳がなかったのです。「嫌だ」と思ったのです。けれども悩みを受けたとき、そのとき初めて王マナセは、大いにへりくだったのです。彼は、「助け」を経験したというよりも、「助け手」である主を、違う意味で知るようになったのです。
 
第一ヨハネの中で、いつも喜びとなることばがあります。これも、もちろん、異邦人、未信者のために書かれたことばではなく、信じる者のために書かれました。信じる者の状態がどうであれ、当てはまることばです。
ヨハネの手紙・第一 1章9節

 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

へりくだればOKです。

 いわゆる「放蕩息子の話」を見ても、分かります。読んでみましょうか。読むたびに、やはり「主はすばらしい。偉大なるお方。恵み深いお方。へりくだれば、主は恵んでくださるお方」と知るのです。
ルカの福音書 15章11節から24節

 またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。」

主のお気持ちの表われそのものなのではないでしょうか。イエス様は、「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」と言われました。放蕩息子が受け入れられたように、間違いなく受け入れられます。
 
また、ある人は言います。「私は聖霊に対して罪を犯した」と。多くの信者は、「自分が
聖霊に対して罪を犯した」と言って、大いに悩んでいます。これらの人々に、「聖霊に対し
て罪を犯すとは、どういうことを言うのか」と尋ねますと、たいていは分からないのです。
マタイの福音書 12章22節から32節

 そのとき、悪霊につかれた、目も見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが彼をいやされたので、そのおしはものを言い、目も見えるようになった。群衆はみな驚いて言った。「この人は、ダビデの子なのだろうか。」これを聞いたパリサイ人は言った。「この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。」イエスは彼らの思いを知ってこう言われた。「どんな国でも、内輪もめして争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも、内輪もめして争えば立ち行きません。もし、サタンがサタンを追い出していて仲間割れしたのだったら、どうしてその国は立ち行くでしょう。また、もしわたしがベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのなら、あなたがたの子らはだれによって追い出すのですか。だから、あなたがたの子らが、あなたがたをさばく人となるのです。しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。強い人の家にはいって家財を奪い取ろうとするなら、まずその人を縛ってしまわないで、どうしてそのようなことができましょうか。そのようにして初めて、その家を略奪することもできるのです。わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、聖霊に逆らう冒涜は赦されません。また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。」

「ダビデの子」とは、約束された救い主のことです。

当時の聖書学者たちは、「イエスは、悪魔によって、めくらと、おしの霊に憑かれている者を追い出した」と言いました。しかし、あの聖書学者たちは、悪霊に憑かれた者の悪霊は、神の霊によって追い出されたことを知り、確信したのです。彼らは、それをはっきり知っていながら、「それを追い出したのは、悪魔だ」と言いました。なぜなら、それほどまでにイエス様のことを憎んでいたからです。それが聖霊であるとはっきり知っていながら、「悪霊である」と言った場合、それは聖霊に対して罪を犯したことになります。

御子イエス様に対する罪と、聖霊に対する罪を一緒にしてはいけません。御子に対する罪は赦されるからです。パウロの証しになりますけれども、次のように書かれています。
テモテへの手紙・第一 1章13節から15節

 私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

「最もひどい者は私です」とパウロは言いました。

多くの信者は、信者の心の中に悪い霊が働き、欲しくないのに、悪い思いがその心に浮か
んできます。そして、悪霊が最後に、「お前は、聖霊に対して罪を犯している」とささやきます。そしてその人は絶望して、「私は永遠に滅びる」と言います。これらのことは、みな悪霊のしわざです。この悪霊を信じている者は、結局、嘘を信じていることになります。
 もし、新生した人で、このような悪霊の攻撃にあっている人があれば、前に読みました
箇所を読むべきです。
ヨハネの福音書 10章28節から30節

「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。わたしと父とは一つです。」

どうして、「聖霊に対する罪」が赦されないかと言いますと、悔い改めがないからです。悔
い改めればOKです。
 
けれども、何があっても正直になりたくない、悔い改めたくない人たちもいます。
例えば、イエス様の弟子のひとりは、そうでしょう。ユダは、心からイエス様こそが遣わされた救い主であると確信したのです。イエス様が殺されると彼は夢にも思ったことがないのです。裏切ることが殺すことと彼は思っていなかったのです。けれど、イエス様が殺されると分かったとき、彼は、もらった金を返して、「私は、罪を知らない方を裏切った」と告白して、自殺してしまったのです。もし彼が、十字架につけられたイエス様のところに急いで行って、「イエス様。私は、三年半大嘘つきでした。『主よ。主よ』と言ったけれど、本当はそう思っていなかったのです。どうしようもない者です。ごめんなさい」と、言ったならば、イエス様は必ず、「安心しなさい。あなたの罪は赦されています。あなたは
今日、わたしとともにパラダイスにいます」と言われたに違いありません。けれども彼は、意識してそうしたくなかったのです。

 ローマ人への手紙の中で、初代教会の喜びの源について読むことができます。
ローマ人への手紙 8章32節から39節

 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

もう安全です。
ペテロの手紙・第一 1章3節から5節

 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わさ
れるように用意されている救いをいただくのです。

悪魔に攻撃された人たちが、イエス様の流された血潮のために感謝し、また、みことばの約束に頼るならば、悪魔はどうすることもできません。
ヨハネの福音書 1章12節

 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。


一度「神の子」とされた者は、「永遠のいのち」を持っています。滅びることがありませ
ん。けれど、報いられない可能性はもちろんあります。主に用いられなくても、もちろん救われています。けれども、主は用いたくて、用いたくて仕方がないのです。

私たちが、「主に用いられる器になりたい」と願えば、イエス様は必ず恵んでくださいます。



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◆メッセージ(ベック兄)

※一部、テープの転換による不明部分あり

神のみことばは神のみことばである(5) 2006. 4. 18
神のみことばは神のみことばである(4) 2006. 4. 11
神のみことばは神のみことばである(3) 2006. 4. 4
神のみことばは神のみことばである(2) 2006. 3. 21
家族の救い 2006. 3. 19
神のみことばは神のみことばである(1) 2006. 3. 14
主イエスは神の子キリストである(4) 2006. 3. 7
主イエスは神の子キリストである(3) 2006. 2. 28
主イエスは神の子キリストである(2) 2006. 2. 14
主イエスは神の子キリストである(1) 2006. 2. 7
勝利の生活の秘訣 2006. 1. 24
イエス・キリストのからだ 2006. 1. 17
主の永遠からの予定 2006. 1. 10
元旦メッセージ 2006. 1. 1


2005年度のメッセージ集
2004年度のメッセージ集
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