人間をとる漁師にしてあげよう(11)
2004.12.14(火)
ベック兄メッセージ(メモ)
引用聖句
ヨハネの福音書 12章24節から26節
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「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。」 |
先週、二度も四国に行きました。徳島の「喜びの集い」が始まる前に、ある病院に行きました。どうして行ったかと言いますと、入院されている姉妹から一枚の手紙をもらったのです。ちょっと部分的にお読みいたします。
まず三箇所のみことばが書いてあるのです。
申命記 32章4節
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主は岩。主のみわざは完全。まことに、主の道はみな正しい。主は真実の神で、偽りがなく、正しい方、直ぐな方である。 |
二番目の箇所は、
使徒の働き 14章22節
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「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。」 |
もう一箇所、
コリント人への手紙・第二 4章10節
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いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。 |
……いつもお祈りくださりありがとうございます。病気をいただいて、たましいの価値やこの世のすべてのことから切り離されて、ただ主イエス様との静かなお交わりの中へいれていただいていること、本当に感謝です。みことばはいのちそのものです。すぐに主から離れて、自分勝手に生きようとする高ぶりをいつも思わされます。また、どういうわけか、救われる以前より、私の周りには病気で苦しんでおられる方が多いのです。今まで、そして今でも、その方々の心の痛みはまったく分からない者であるにも関わらず、口先だけで慰めようとしたり、主イエス様にのみご栄光を帰す者ではなかったことを、悔い改めさせられております。主は本当に素晴らしい方ですね。偉大な方です。もっともっと主を知りたいです。病んで、ますますイエス様の愛を教えられ、喜びに満たされています。こんな素晴らしいイエス様を周りの方々に少しでもお伝えできますよう、私が砕かれますように、これからもお祈りに覚えてくだされば感謝です。また、手術の後は計六回の抗癌剤治療のため、徳島大学病院への入退院を繰り返してまいりましたが、ちょうど喜びの集いのとき、最終回の予定です。みこころでしたら、求めている方々を見舞っていただけたらと願っています。どうぞよろしくお願いします。……
そして、二十一人の患者さんたちの名前と、どのような状況におられるのかと書かれていたのです。
病院に行った日、また別のリストをもらったのです。七十人の人たちの名前が書いてあ
りました。彼女のおられる部屋は四人部屋だったのですが、やはりみな、聞く耳を持っていらっしゃいました。五十歳から六十歳くらいの奥さんたちです。彼女は一番お若くて、四十六歳なのです。彼女のことも是非覚えてください。
病室でみなさんのために話していたとき、突然一人の奥さんのご主人もお入りになりました。彼は真剣そのものでした。何回も涙を流されて…。姉妹の証しが、結局素晴らしかったからです。彼女はだいたい八十何人かの人たちと交わって、本を渡したりして、主を紹介されたのです。本当に、徳島の集会の宝物だと思ったのです。
どうして病気になってしまわれたのでしょうか、入院されたのでしょうか。「もちろん、イエス様を紹介するためでした」と、彼女は確信しておられるのです。
たましいを獲得することは、あらゆる信者にとっての主の使命です。イエス様を信じるあらゆる者は、この最も大切なご奉仕のために召し出されています。
けれども、イエス様のためにたましいを獲得したいというこの上もない特権を、本当に
知っている者は少ないのではないでしょうか。多くの信じる者は、自分の仲間や近所の人たちのたましいの救いに対して、全然責任を感じていません。
エゼキエル書 3章18節
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「わたしは彼の血の責任をあなたに問う。」 |
というみことばは、私たちに、大変な責任を提示しています。
イエス様は、人間のたましいを非常に価値あるものとして尊重なさいましたから、たま
しいを滅びから救うために、喜んで天の栄光をお捨てになって、この地上の貧しさ、悩み、恥、死の苦しみを受けてくださいました。
一つのたましいの価値がそれほど高価なものであるなら、その救いのためにはどれほど
の距離も遠すぎることはなく、どれほどの重荷も煩わしくはなく、いかなる配慮も大きす
ぎず、いかなる仕事も難しすぎることはありません。
インドの地で、主によって非常に祝福されたD.レイマードという人は、次のように告白しました。
「私は、主イエス様の栄光のためであれば、どうなっても構いません。どこでどのように住んだとしても、どのような困難を経験しようとも、それが主イエス様のためにたましいを獲得するためであるなら、どうでもよいことです」。
彼がこうした態度を取ったので、インドで本当に素晴らしいリバイバルが起こるようになりました。
一人のたましいを、悪魔の支配している王国から、天の素晴らしい光へ導く器として主の御手の中にいることほど、大いなる栄光はありません。
一人の無神論者の信念をちょっと紹介いたします。無神論者は次のように書いたのです。
「もしも私が宗教家であるなら、この人生における私の信仰の認識と実践が、死後のいのちの運命に絶対的な影響を及ぼすということを、真実をもって、確信して、徹底的に信じるでしょう。宗教は私にとって、文字通りすべてを意味するでしょう。この世の喜びを、私は無価値な屑として脇に捨て去ってしまうでしょう。この地上のものに対する追求は、私の目には愚かなことであり、この世的な考えと感情は、まったく無価値なものだからです。私の最初の思いは、朝目覚めても宗教であり、同じように、夜眠りに就くときにも宗教でありましょう。私は、目に見えるもの、この世の宝のためによりも、朽ちることのない天の宝のために働くでしょう。イエス様のためにただ一つのたましいを獲得することは、私にとって何十年という苦しみの生涯に値します。この世の誇りも、計算も、私からこの目標を奪い去らないでしょう。この世の名誉は、私が福音を宣べ伝えることに対する、いかなる妨げともならないでしょう。私は目に見えないお方、即ち、主なる神と語り、私の感情は、新たに燃え始めることでしょう。喜怒哀楽に満ちたこの地上は、一瞬たりとも私の思いを支配しないでしょう。これらすべては、永遠のこの小さな一断片にすぎず、いかなることばも、一個の砂粒にすぎないほど小さいものでしょう。私は永遠の世界だけを大切にし、私の周りにいる失われたたましいのことだけを考えるようになるでしょう。なぜなら、そのたましいは、間もなく永遠の滅びに至るか、永遠の幸せに至るかのどちらかだからです。この地上のことだけに思いを馳せ、一時的な幸せを追求し、朽ちゆく財産を得ようとする、そのような愚かな者たちのために、私は苦労するでしょう。それから、私は、時が良くても悪くても、次のことを宣べ伝えることでしょう。『たとえ全世界を儲けたとしてもたましいを損なうなら、何の得になるであろう』と」。云々と。
以上私は、この無神論者の考えたこといくつかを紹介したのですが、その場合、「万が一、もし万が一、自分が宗教家だったならば」、別のことばで言うと、「もし万が一、神がいらっしゃるならば」という条件付きの文章であることに注意すべきです。言うまでもなく、無神論者は主なる神の存在を否定しているわけです。しかしそのような条件を、実際にはまったく認めていないわけですが、そのような無神論者でさえ、「万が一」という条件をつけて考えることは可能です。そうだとしますと、そのような無神論者の言ったことばは、即ち、条件付きの文章は、主イエス様の人生観とまったく同じことになることが分かります。そして、言うまでもなく、私たちも同じ心構えを持つべきではないでしょうか。
たましいを獲得するためにどうしても必要なことは、救われていない人たちのために心
配すること、彼らを愛することです。愛されたくない人は一人もいないでしょう。ほかの人から除け者にされ、孤立し、絶望的になった人は、決して幸せではありません。
こんにち、隣人愛についていろいろ言われていますが、結局みな、自分、自分、自分
のことしか考えていません。本当の悩みは見過ごされてしまっています。人間は、静けさと愛をみな切に求め憧れています。人間の心は、憩いのないものです。満たしてもらいたいのです。認められたいと思っているのです。
けれども、それらの背後には、永遠なるもの、まことの満足を与えてくださるお方、即ち、イエス様に対する飢え渇きが隠されています。こんにち、必要とされているものは、もちろんキリスト教の宣伝者でも、世界改革者でもありません。ただ過ぎ行くもの、一時的なものだけを追い求めることは虚しいことだからです。
もし、私たちが主イエス様を第一にし、イエス様を心から愛し、その動機が純粋である
なら、私たちの周囲の人たちは自発的にイエス様を信じ、イエス様に従う決心をするよう
になります。実はこのことが、こんにち一番必要とされているのです。
私たちの周りにいる人たちは、私たちがその人たちを本当に愛していること、私たちが
助けてあげたいと思っていること、その人たちのために存在している、その人たちのため
に喜んで犠牲を払う時間を持とうとしていることに、気がついているでしょうか。
また、更に必要なことは、周りの人たちのために苦しむことです。イエス様の苦しみにあずかることです。イエス様は群衆をご覧になったとき、かわいそうに思われたのです。羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れていたので、かわいそうに思われたのです。
周囲の人たちを、イエス様の目でもって見ることが大切です。即ち、本当の悩みを見る
こと、知ることが大切です。
ドイツの歌の中に、次のような一節があります。
「こんにち、世界が必要としているものは、主イエスです。主お一人だけが世界を解放することがお出来になる」と。
イエス様の目でもって何百万人という人たちの現実の姿を見る人は、イエス様の嘆きと同じ気持ちを持ちます。その人たちは、この世が与えるものではなく、本当に必要としているものを与えることが出来るのです。
使徒行伝の3章に出てくる乞食は、当然ですが、お金が、また、施し物が欲しかったの
です。なぜなら、そうした物でこの貧乏人は満足したでしょうから。けれども、その乞食
は、幸運にもその期待を裏切られ、その代わりに、彼はもっと素晴らしいものを頂いたのです。もちろん一時的に過ぎ行くものではなく、まったく新しいいのちを頂きました。即ち、乞食は、「自分が欲しかったもの」ではなくて、「必要としていたもの」を与えられたのです。もしお金をもらったとしても、彼の心は満たされなかったでしょう。一時的な助けであったかもしれませんが、主のみこころは全く違うものでした。彼は、完全にいやされたのです。主の力を体験したよりも、救い主を信じるようになったのです。
周りの人たちを配慮する者は、苦しみ始めます。エルサレムを思ってお泣きになった主
イエス様の苦しみを理解するようになります。エルサレムの町、そして、人々がまことの平和のために必要なものを欲しいと思わず、反対に拒んだゆえに、主イエス様はお苦しみになりました。悔い改めて、救いに至る機会を提供されているにも関わらず、意識的、あるいは無意識に、再三にわたって拒み続けて来た人たちのゆえに、イエス様はお苦しみになり、涙を流されたのです。
みこころにかなう信じる者の群れとは、いったいどのようなものなのでしょうか。
それは、正しい教えを持ったり、この世的な不信仰をさばいたりすることによってではなく、それらの人たちのために、私たちが身をかがめ、共に苦しむことによって見分けられます。
主の霊は深い同情の霊です。ともに苦しまなければ、決して傷はいやされません。ともに苦しむことのできない者は、決して主の愛を伝える者とはなりません。
「人間は永遠に滅びる」という知識は、私たちを目覚めさせ、たましいの救いのための奉仕へと駆り立てます。私たちが、その人たちのために祈っていること、また、苦しんでいることを彼らが気づくとき、彼らはもはや無関心にとどまることができません。恐れず、大胆に、主イエス様のあかしをすることができるように祈りましょう。
主イエス様を十字架につけた世の中で、イエス様をあかしすることは、決して簡単では
ありません。それは、初代教会の信者たちにとっても、決して簡単なことではなかったの
です。ですから、彼らは祈ったのです。彼らの祈りが書き記されています。
使徒の働き 4章29節
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「主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。」 |
主に備えられた人たちのところに導かれるよう祈りました。
「主よ。私は何をすべきでしょうか。あなたが望んでおいでになることをしたいのです」という態度を持つことこそが大切です。
使徒行伝の中に出てくるピリポは、この心の備えができていました。ですから、主は導くことがおできになり、用いることがおできになったのです。
適切な時に、適切なことばを語ることができるように祈りましょう。主お一人だけが、
いかなる場合においても、何が必要であるかをご存知です。
たましいの救いのために祈ることは、結局、悪魔に対する戦いの宣言です。私たちは、
まったく特定のたましい、即ち、一人一人の名前と結び付いたたましいのために、祈らなければなりません。つまり、一つ一つの祈りの対象が、主にもたらされなければなりません。
時と場所を定めた祈りも大切でしょう。答えが与えられるまで、祈り続けましょう。
「疑わずに信仰をもって祈りなさい」とヤコブ書に書かれています。
ヤコブの手紙 1章6節
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ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。 |
主から大いなることを期待しない者は、主を侮る者です。主は、ご自分のことばを必ず守られます。期待できそうに思えない人でも、主に期待しなさい。祈りは、人を救う場合の主の最も力強い道具です。
失われている人たちに対して、重荷を負うことは大切です。イエス様を信じている多くの姉妹は、まだイエス様を信じていないご主人を持っています。ともに生活をするとき、まったく孤独な拒絶された状態に置かれますが、それに対してほかの兄弟姉妹はどれだけの重荷を負っているのでしょうか。
まことの交わりは、ともに苦しみ、ともに重荷を負い合う備えがいつもできている状態
にあります。
ガラテヤ人への手紙 6章2節に、次のように書かれています。
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互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。 |
即ち、「互いの重荷を負い合いなさい」と。
イエス様のために他人の重荷を負う者は、必ず報いられます。信じる者の一致が明らか
になるところでは、未信者も驚き、導かれるようになります。「見よ。彼らは何とお互いに
愛し合っていることか。何とお互いに重荷を負い合っていることか」と初代教会の人たちについて書かれています。
パウロ、また使徒たちの切なる願いとは、何だったのでしょうか。
「幾人かでも獲得したい」という願いでした。聖書のどこにも、「すべての人が救われる」とは約束されていません。けれど、動かすことのできない確かなことは、すべての人が救われることを、主は望んでおいでになるということです。主のご目的と、信じる者の持つべき目標は、失われているたましいが、イエス様を通して、いのち、また豊かないのちを見いだすことです。
イエス様は、救いのみわざを成し遂げられました。そこで今、私たちに与えられている
使命は、イエス様の犠牲による贖いを、ただ宣べ伝えることだけです。どうでしょうか。
私たちは、自分の親しい人たちが救われて欲しいと思っているでしょうか。そうだとする
なら、祈りの名簿を作り、その人たちのために規則正しく祈り始めましょう。主のお約束
に信頼しましょう。機会をつかんで、自分にとって主イエス様がどのようなお方であるか、
一番分かりやすいあかしをしましょう。そして主が働いくださって、その人たちをみもと
に引き寄せてくださることを主に感謝しましょう。というのは、主は必ず約束を守ってく
ださるからです。主は嘘をおっしゃいません。
実は熟して収穫を待っています。悩みによって備えられ、主イエス様を受け入れたいと願う人たちは、至るところにいます。学校でも、職場でも、主婦の間でも、喜んでイエス様のところに来る人たちがどこにでもいます。けれど、どのようにして主のところに行くことができるのかを、誰もその人たちに話してくれません。
あらゆる時代の最大の誤りの一つは、「主を知らない人たちは、まことの神について、も
はや何一つ知りたいと思っていない」という考え方です。決してそうではありません。悩んでいる人たちはみな、求めています。確かに、何を求めるべきか分かりません。けれども、イエス様だけが紹介されれば、主は必ず奇蹟をなしてくださるのです。
「多くの人たちは、福音に対してまったく無関心になってしまっている」と、思い込んでいる人もたくさんいますが、これも偽り以外の何ものでもありません。あらゆる人間は、永遠なるもの、変わらないもの、存続するものを求める気持ちを持っています。御霊は、この飢え渇きを引き起こしてくださるのです。
けれどもこれらの人たちは、どのようにしてイエス様のために獲得されるのでしょうか。確かに、人間はこんにち、いかなる宗教も望んではいません。多くの人たちは、いわゆるキリスト教と何の関係も持ちたくありません。彼らは、宗教的な形式に関心を持っていません。けれど、イエス様があかしされるとき、多くの人は、主の力、主の愛、主の赦しを経験したいと望む者となります。
私たちがいつも経験することは、イエス様のゆえに、非難され、罵られ、責任を押し付けられることです。けれども、たいていの場合、それは本当の気持ちを隠すために行なっている、うわべだけの技法にすぎません。例えば、信じる者のせいにしたり、その欠点を指摘したり、信じる者の弱さ、主なる神との挫折、聖書とその矛盾、世界史とその無意味さなどが指摘され、批判されます。しかし、多くの人が、私たちが考えるよりもはるかに救いを求めて待ち望んでいるということを、決して忘れてはいけません。
もちろん、それはしばしば長い道のりが必要でしょう。まず、挨拶から始まって、自己
紹介を経て、最初の親しい会話、さらに集会への招待といった具合です。出会いと交わりなどの接触は、しっかりと結び付けられなければなりません。この接触こそ、信頼の芽生えとなるものです。正しい時に、正しい事を言うことができるために、信用はどうしても必要です。相手を無視したような態度を取ると、たいていの場合、その後で、もはや会話を続ける機会を失うことになります。何が許され、何が許されないかの分別は、どうしても必要です。会話は、あらかじめ備えられなければなりません。
私たちが行なうことは、まだ主を信じていない周囲の人々の、心の戸を開くか、閉じるか、どちらかです。私たちの行動によって、「信仰が人間を変える」ということを読み取ることができるはずです。私たちは、主に属している者として、主をあかしする使命を持っています。私たちが、イエス様に対する愛によって行動することは、決して無駄なことではありません。必ず実を結ぶのです。
「主のみことばが空しく戻ることはない」ということを知ること、そしてまた、「小さなことにおける忠実は必ず報われる」ということを知ることは、新しい勇気を与えてくれます。
大切なことは、まず語り合うこと、それから、その人を主との語り合い、即ち、祈りに
導くことです。「救われるために何をなすべきでしょうか」と真剣に問う心から、信仰は始
まります。
誰でも、救われるためにどうしたらよいのかを教えられる必要があります。私たちが知
っている人たちは誰でも、イエス様が私たちに導いてくださった方々ですから、この人た
ちは、私たちから救いについて、救い主について、正しい知識を知るべきであり、また、
私たちは、それを伝える責任と使命を持っています。
主の救いの、「喜びの訪れ」を、隠してはなりません。このように主をあかしする義務は、ほかの人と会話をするように、私たちをほかの人たちに導いてくれます。イエス様と出会った人は、その素晴らしい救いという喜びの訪れを、ほかの人たちにも伝え、その人たちが主と出会うようになることが大切です。
ある接触の目的は、人がイエス様のみもとに行くことです。しばしば、あれもこれも、いろいろなことがなされますが、決定的に大切なことは、イエス様のみもとに連れて行くことであり、そのことがおろそかにされがちなのです。イエス様のみもとに導かれた人たちは、新しい者に造り変えられます。
福音を宣べ伝える機会を狙うべきです。何百万人もの人口をかかえる大都会では、ともすると、身近な隣人、例えばクリーニング屋さんと酒屋さんの存在を見失いがちですが、そうであってはいけません。どのようにして救いの確信を持つに至るのかについて、まだ一度も聞いたことのない人は、数え切れないほど大勢いるのです。
もちろん私たちはみな、数え切れないほど多くの伝道の機会を与えられています。家庭
で、友だちや親戚や隣りの人や、職場の同僚の間で、また電車の中や路上で、至る所に福
音を宣べ伝える機会が存在しています。
イエス様を信じる者は誰でも、イエス様の大使であり、主なる神との和解を受け入れて、
滅びから救われるようにということを、まだイエス様を信じない人たちに教えてあげなけ
ればなりません。真理を求めている人たちに、主なる神がイエス様を通して約束してくだ
さった救い、また助けの御手を、その方々にも提供すべきです。主の助けは、人生のどのような状態のときにも、たとえ絶望的な状態でも、死に直面したようなときでも、さばきのときですらも、永遠の助けであり続けるのです。
あかしの中心は、言うまでもなく、自分の経験よりもイエス様であるべきです。即ち、
「イエス様の死によって、私たちは永遠のいのちを約束され、イエス様の復活によって、死は力を失った」ということが中心となるべきです。私たちは、決して恥をこうむらない生き生きとした望みを持っています。
イエス様はいつも呼んで、招いておられ、イエス様は決断を迫っておられ、イエス様は
明日のことよりも、その人の現在のことを思っておいでになります。イエス様は、人間を変えるだけではなく、新しく造り変えることを望んでおいでになります。イエス様が招いて解放してくださる人は、煩わしい人間関係から解放され、死の恐怖から解放された証人となるのです。イエス様によって解放された人は、喜びと感謝に満ち、主イエス様のために進んで奉仕をしたいと願うようになります。イエス様は、絶えることのない喜び、いかなる悲しみも奪うことのできない喜びを与えてくださるのです。
私たちの周囲にいる大部分の人たちは、確かに、キリスト教に対して何の興味も持っていません。けれど、それこそイエス様の証人にとって、大きなチャンスなのではないでしょうか。なぜなら、私たちは決してキリスト教の宣伝をしようとしているのではないからです。イエス様だけを宣べ伝えたいと思っているからです。
しかしまた、キリスト教に対して、わずかであっても関心を持っている人もいますが、
たいていは信仰についての正しい知識を持ち合わせていません。或いは、「信仰を持っては
いても救いの確信がない」と言う人も相当います。そういう人たちは、どうしたらよいか
分からずにいます。つまり、どうしたらイエス様を受け入れることができ、正しく知るこ
とができるかが、全く分からないのです。これもまた、私たちのチャンスです。
あらゆる人間は、主が人間に何を求めておいでになるか、主の目標のご計画が何である
かを知る権利を持っています。主イエス様のゆえに、生けるまことの神が、私たち一人一
人をどれほど愛しておいでになるか、知らずにいてはなりません。それを宣べ伝えること
は、私たちに与えられている使命であり、また責任です。福音を宣べ伝えることは、生き
甲斐のある人生があるということを、公に知らせることにほかなりません。
大部分の人は、こんにち、家庭においても、職場においても充実した生活を送ることができなくなっているのが実情ではないでしょうか。そのような状態から解放されて、大事に至らないために、どうしてもイエス様が必要です。周りにいる人たちの中で、悩んでいる人たちを見過ごしにすることはできません。ですから、福音は宣べ伝えられなければなりません。
どのようにして、人は救いに対する飢え渇きを持つことができるようになるのでしょうか。
それは、多くの場合、キリスト教の教えによるというよりは、むしろイエス様の恵みによって変えられた人たちのあかしの生活を見ることからです。私たちが考えるよりはるかに多くの人たちが、当時のギリシヤ人のように、「私たちはイエス様を見たい」という願望を抱いています。
「刈り入れのときは近づき熟しています」とイエス様は言われました。このようなイエス様のビジョン、主の見かたが必要です。備えられたたましいは、イエス様のみもとに導かれなければなりません。それは、私たち人間によってなされなければなりません。
初めに読んで頂きましたみことばの中に、はっきり書かれています。
ヨハネの福音書 12章24節から26節
|
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。」 |
犠牲なしには、いかなる実も結ぶことは出来ません。主の愛が、私たちを駆り立てなければなりません。悩んでいるほかの人たちとともに悩むことを、主は望んでおいでになります。主の愛を持ってこの世の悩みを見る者は、福音を宣べ伝え、あかしせざるを得ません。みことばに信頼すると、奇蹟を経験することが出来ます。
イエス様は、私たちの期待に応じて、必ず答えてくださいます。「主よ。私は何をしたら
よいのでしょうか」という態度をとり続けることが大切です。前に話したピリポは、結局、
この態度を取ったからこそ、主によって用いられ、導かれ、普通は誰もいない所、即ち、
荒野へ導かれ、そこで求めているたましいに導かれたのです。このように導かれた人は、ほかの人を導くことができるのです。聖書は言っています。
ヨハネの福音書 3章18節
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信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。 |
ヨハネの手紙・第一 5章12節
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御子を持つ者はいのちを持っており、御子を持たない者はいのちを持っていません。 |
ヨハネの福音書 3章36節
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御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。 |
信じない者はすでにさばかれている。御子を持たない者はいのちを持たず、その人の上
に神の怒りがとどまると。
一度、十分間だけでも静まって、自分の知り合いの人たちのことを考えるべきです。自
分の夫、妻、息子、娘、兄弟姉妹、またイエス様を知らない多くの知人、友人たちのこと、
彼らはみなすでにさばかれており、主の怒りが彼らの上にとどまっているということにつ
いて、考えるべきではないでしょうか。
「イエス様を信じない者はすでにさばかれており、その人の上に主の怒りがとどまる」ということを考えたとき、心に何の重荷も感じない人たちは、新しいいのちを持っているか
どうか、疑わしいものです。けれども、重荷を感じる者は、真剣に祈り始め、そのために
犠牲を払う覚悟ができています。
非常に祝福され用いられた人が、臨終のとき尋ねられました。「あなたはいろいろなこと
を知っています。一番大切なのは、いったい何ですか」。答えは、次のようなものでした。
「神学でもなく、論議を展開する議論でもなく、たましいの救いです」と。
人をすなどる者になるのは、自分の努力によってではありません。人をすなどる者にな
るのは、研究や頭の知識によるのでもありません。人をすなどる者は、主の創造的なわざ
によるのです。
イエス様が弟子たちに、人をすなどる者としてお用いになるために、従うようにと呼び
かけられたとき、弟子たちは、自分たちの網を捨て、妨げとなるもの、引きとどめようと
するものすべてを捨て、副次的なもの、即ち、第二、第三のものを捨ててしまいました。
パウロも、自分の網を捨てたのです。彼は、次のように言ったのです。ピリピ書3章、
よく知られている箇所です。
ピリピ人への手紙 3章7節
|
私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。 |
聖書は言っています。
ゼカリヤ書 4章6節
|
『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』 |
ほかの方法や道にもよらず、人間の計画にもよらずと。
「わたしに従いなさい。わたしはあなたがたを、人をすなどる者にしよう」。
一人の人が主を第一にすると、それは、ほかの人たちにも広がっていくということを、
私たちは何度も経験しています。一人の人が主のために失われたたましいを獲得しようと
すると、その波紋は次々と広がり、ほかの人たちも突然同じ目標と願望を持つようになり
ます。
イエス様の前に、大いなることを期待しつつ立ち続ける人は、ほかの兄弟姉妹もまた、
同じ霊によって捕えられるということを、やがて経験するようになります。誰でも影響を
及ぼす者です。自分自身を大切にしようとする者は、ほかの人もまた、自分自身を大切に
するようになり、それによって死が入り込んでしまうということを経験します。ですから、
イエス様は言われました。前に読んで頂きました箇所です。
ヨハネの福音書 12章24節、25節
|
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」 |
イエス様が私たちを導きたいと思っておいでになる道は、きわめて長く、きわめて狭く、十字架まで続いています。自分のいのちを愛する者、自分のものに固執する者、自分自身を否定する備えのない者は、霊的なかたわになってしまいます。
絶えず覚えるべきこととは、いったい何なのでしょうか。
イエス様が私たちにお与えくださったみことばは、目に見える世界のあらゆる現実より
も信じるに足るものとみなされます。私たちの主イエス様は、みことばを成就するために、
自然法則全体をも打ち破ることがおできになるということを覚えましょう。
また、私たちの主イエス様は、ご自分の約束を決してお破りになりません。イエス様はすべての力を握っておいでになります。イエス様のみことばは永遠の真理ですから、必ずみことばの通りになります。この真理を私たちは必要としています。このみことばに信頼すると、奇蹟を経験します。間違った謙遜、つまり、不信仰によって、私たちは主の御名を汚すことになります。
イエス様のために生きる備えのあるところには、歓呼の喜びが私たちの心を満たし、そ
れは、革命的な働きをします。私たちの周囲の人々は、急にみことばを聞くようになり、飢え渇きを持つようになります。そして、私たちは、備えられた心に福音を宣べ伝えるチャンスと可能性を持つようになります。
「あなたの信じたとおりになる。信じると神の栄光を見る」と約束されています。
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