元旦メッセージ
2005.1.1(火)
ベック兄メッセージ(メモ)
西軽井沢国際福音センターにて
引用聖句
使徒の働き 20章24節
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けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵 みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。 |
28節
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あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。 |
この28節の、「あなたがたは自分自身に気を配りなさい」というみことばについて、少しだけご一緒に考えてみたいと思います。
旧約聖書を見ると、当時の祭司たちが二重の、すなわち二種類の奉仕を持っていたことが分かります。すなわち、幕屋の外における奉仕と幕屋の内における奉仕です。祭司たちが幕屋の内で忠実に主に仕えるなら、それは同時に幕屋の外においても公に立派な奉仕をすることを意味していました。そうでなければ単なる形式的な教えにすぎなかったのです。
私たちも同じように、私たちが持っているもの以外は、これを他人に与えることが出来ません。そして私たちが富んでいるかどうかということは、私たちが自分自身に気を配っているかどうかということに掛かっています。私たちの心の状態がいかなるものであるかを知るために、私たちがどれほど他人のために一生懸命奉仕をしたかということもさることながら、最も大切なことは、「私たち自身にどれほど気を配っているか」ということです。
私たちの重要な関心事は、イエス様をよりよく知ることなのでしょうか。私たちが主の前に黙想し、主のみ声を聞き、主イエス様との交わりを持つことが、その他のことよりも優先されているでしょうか。悪魔は、ほえたける獅子のように私たちの周囲を駆け巡っているのです。そして私たちに少しの隙でもあれば、私たちを主イエス様から引き離そうとしているのです。
パウロも、この事実を良く知っていました。ですから、エペソの長老たちにそのことを警告したのです。
使徒の働き 20章29節、30節
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私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。 |
いろいろなことを通して、悪魔は私たちの信仰を駄目にしようと狙っています。
その中でも特に五つのことに注意しなければなりません。
1.馴れ合い
2.極度の多忙
3.自分が分からなくなってしまうこと
4.霊的な栄養失調
5.無気力状態
そこでこれから一つ一つ簡単に説明してみたいと思います。
1.馴れ合い。
人間というものはあらゆることに慣れるのが非常に早く、それゆえにそれが大きな危険となっています。具体的には、主イエス様に対する初めの愛、互いの愛、そして未信者に対する責任感などが、この馴れ合いによって希薄になってしまうのです。ですから私たちは、いつも自分に対して不信感を持ち、自分は今本当に主イエス様や他の人たちを心から愛しているかどうか、失われゆく魂に対して強い責任感を持っているかどうかを、絶えず吟味し反省しなければなりません。もしも主イエス様に対する愛がすべてのことにおいて推進力となってないなら、私たちは浅薄となり、実り少ない者となり、無用の長物に成り下がり、非常に鈍感になってしまうのです。ですから主は、「自分自身に気を配りなさい」と戒めておられます。
2.極度の多忙
悪魔は、私たちを極度の多忙に追い込み、私たちの信仰を駄目にしようと試みています。私たちはいつも極度の多忙のゆえに、「主イエス様を第一にする」という一番大切なことをおろそかにする危険に取り囲まれて生きているのです。仕事や時間に追われる人間とならないように注意すべきです。多くの兄弟姉妹は、仕事に追われて御霊に導かれていません。もしも仕事に追われてばかりいるなら、御霊よりも仕事のほうに私たちの神経が使われ、御霊による導きが不可能となってしまうのです。その結果、何らかの成果を収めるかに見えても、実際には豊かな実を結ばず、成長するかに見えても、実際には成長していないという、あわれむべき状態に陥ってしまうのです。私たちは内面的、霊的に貧困な者となり、各自の個性を失い、周囲の影響によって、根無し草のようになってしまう危険に取り囲まれています。
主イエス様は、パウロやステパノのような人格者を望んでおられますが、御霊が各自の人格をすべて支配なさることが出来るときに、可能となります。
大いに祝福されたフランスのアドルフ・モノルトは、死の病床で、「あなたは人生をもう一度始めることが出来るなら、何をしますか」と尋ねられたとき、「より多く働くよりは、より多く祈りたい」と答えたのです。
けれども悪魔は、このような祈りの生活をしないようにと、いろいろ私たちを妨げようとしています。自分自身に気を配りなさい。御心にかなった祈り人になりましょう。
3.自分自身が分からなくなってしまうこと
私たちは多くのことを信じ、自分のものにしたと思い込んで、それを宣べ伝えるのですけれど、実際は、心の底から体験的に知っていないことが数多くあるのではないでしょうか。いつの間にか、傲慢な気持ちが頭をもたげ始め、霊的な目が曇り始め、やがて霊的な盲目になってしまうことが少なくないのです。ですから、私たちは、毎日自分がすべてのことを、主イエス様に対する愛からしているのか、それとも他の動機からしているのかを吟味しなければなりません。
4.霊的な栄養失調
同じ思いを持った兄弟姉妹との交わりを持つことが少なくなると、私たちは平凡な者になってしまいがちです。そのためには、毎朝静かな黙想のときを持ち、主イエス様との交わりを持つことが必要です。自分自身の心の奥深くで、ただ主イエス様にのみ向けられた信仰の眼をしっかりと開くことは、外面的な静けさに優ってはるかに大切です。
私たちは、大勢の人たちに取り囲まれて生活していますけれど、本当の安らぎと心の平安は、ただ主イエス様の中にのみあります。主イエス様が私たちの心を満たしてくださるところには、いつ、いかなるところにおいても、全き平安があるのです。この世のことはすべて些細なことであり、主イエス様との交わりこそがすべてであるべきです。
パウロはテサロニケ第一の手紙の中で、「つとめて静かにしなさい」と書き記しています。静けさは必要であり、可能です。その秘訣は、毎朝私たちは聖書を読むだけでなく、食べることであり、自分のものとして感謝することであり、すなわち、主イエス様を体験的により良く知って、主の力を身に帯びることです。そうしないと私たちは霊的な栄養失調に陥ってしまうのです。
5.無気力状態
信じる者はだれでも、精神的な疲れと倦怠の危険の中に生きています。私たちは本当の喜びや望みを生き生きと体験し、それを持ち続けることの出来ないような瞬間というものがあります。多くの場合は、自己愛などからこのような無気力状態がやってきます。このような無気力状態は罪です。このような無気力状態から脱出するために、みことばを食べ、自分のものとし、主イエス様に感謝することがどうしても必要です。私たちはいつも自分自身を吟味しなければなりません。聖霊はあらゆる真理に導くために与えられたお方ですが、自分自身に対する真理を与えるためにも遣わされています。
次の問いについて毎日よく考えることは非常に大切です。
すなわち、
・私たちの祈りの生活は、いったいどのような状態なのでしょうか。
・とりなしの祈りにおいて、忠実と真実があるのでしょうか。
・私たちの時間、私たちの力、私たちの持ち物を、どのように使っているのでしょうか。
・主イエス様のために死ぬという心備えは、今もあるのでしょうか。なければ、いったいどうしてそのようになってしまったのでしょうか。
・ただ主イエス様の誉れだけが、私たちの目の前にあるのでしょうか。
パウロは素晴らしい証しを持っていました。彼の告白とは、前に読みました箇所です。
使徒の働き 20章24節
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けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。 |
自分自身に気を配りなさい。
使徒の働き 20章32節前半
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私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。 |
毎日みことばをいただきましょう。みことばについて深く考えましょう。みことばは、私たちを守る力を持っています。
主イエス様が私たちになしてくださった導きと守りを思い出し、それが自分にとって、いかなる意味を持っているか深く考えましょう。
主イエス様は、私たちに、すべてのことにおいて、とこしえのものを見る目をお与えになりたいと思っておられます。そうすれば、私たちは、無気力状態や、間違った依存や、心の狭さから解放された、真に自由な人間となることが出来ます。
32節後半
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みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。 |
神は建てることがお出来になります。主はおできになり、それを成したいと望んでおいでになります。それに至る道は、次のようなものです。
みことばを深く味わい、みことばを食べ、その力が大いなるわざをなすことが出来ますように。
主と、そのみことばの権威に従うとき、成長し、豊かな実を結ぶようになるのです。
私たちはみな、パウロと同じような態度で主に仕えることが出来るように祈りましょう。
使徒の働き 20章20節
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私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエス様から受けた、神の恵みの福音を明かしする任務を果たし終えることが出来るなら、私の命は少しも惜しいとは思いません。 |
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