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メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


精密検査の必要性
   
2005.1.2(日)
ベック兄メッセージ(メモ)

西軽井沢国際福音センターにて
 
引用聖句
コリント人への手紙・第一 11章26節〜28節
 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲むものがあれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。 

ローマ人への手紙 13章11節、12節

 あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。 

哀歌 3章40節

 私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。 


今日の題名は、『健康によい精密検査の必要性』です。いま最後に読みました箇所は非常に大切な箇所です。
哀歌 3章40節

 私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。 

このエレミヤ哀歌は大変短い本です。その中で私たちは、エルサレムの後悔と恥について、すなわち、このエルサレムという町が、主なる神の裁きによっていかに荒れ果てた町となるかについて読むことが出来ます。それは、本当に落胆させられ、打ちのめされるような大変なものでした。
けれども、3章の半ばを見ると、私たちは力を与えられ、高く引き上げてくださる励ま
しのことばを読むことが出来ます。
哀歌 3章22節から26節

 私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です。」と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。主はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに。主の救いを黙って待つのはよい。

31節、32節

 主は、いつまでも見放してはおられない。たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる。 

確かに私たちは、絶えず励まされることを必要としています。そのために主は私たちに
多くの約束のみことばを与えてくださいました。けれど私たちが自分たちを吟味し、探求し、尋ね調べることは、丁度それと同じように必要です。ですから40節に、「私たちの道
を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう」とあります。私たちが静かに主によって吟味していただくことはとても大切です。主が私たちに語ってくださり、妨げになっているものをすべて明らかに示してくださるように、調べていただく必要があります。
 
詩篇の作者であるダビデは、次のように祈りました。このダビデの心構えを持つことこ
そが、大切ではないでしょうか。よく知られている詩篇の箇所です。ここでよく出てくる
ことばは、「私」、「私」、「私」です。他人ではない。他の兄弟姉妹ではない。「私」です。
詩篇 139篇23節、24節

 神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。  

6回も、「私」と言うことばが出てきます。私たちがはっきりと知っていなければならないことは、どんなに私たち自身を見つめても、実際には何の役にも立たないということです。自分自身を見つめる者は打ちのめされた気持ちにならざるを得ません。

主イエス様だけを見ないと落ち込みます。私たちが、自分自身を見つめるなら、少なくとも千回、偉大なる主イエス様を見なければなりません。しかも、私たちはまず、私たち
の動機が本当に正しいものであるかどうか、主のみ顔によって自分たちを吟味すべきです。
そうでなければ、私たちは簡単に流されてしまい、いかに下へ向かって行くか全く気づか
ないようなときがあるのです。

「絶対的なより頼み」を、意識しないで生きる者は災いです。私たちは、自分の惨めさ、無力さ、すべての失敗を認め、そのままの状態でイエス様のところへ行くことが赦されています。そうすると、主は必ず新しい力を、勇気を、希望を与えてくださるのです。
ですからエレミヤは、「私たちの道を尋ね調べて主のみもとに立ち返ろう」と言っています。
ここで記されているように、信じる者はだれでも、何度も何度も悔い改めて、主に立ち
返ることが必要です。それによってのみ、主は新たに生かすことがおできになるからです。

私たちは主のみ心にかなう者なのでしょうか。「はい、そうです」と言える人はおそらく
一人もないでしょう。ですから私たちは、私たちの道を尋ね調べて主のみもとに立ち返ることがどうしても必要です。私たちが主と結びついていないことや、主の愛がもはや私たちを駆り立てないということはあり得ることなのです。テモテ第二の手紙を見るとパウロは次のように書き記したのです。
テモテへの手紙・第二 2章21節

 ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。

ここに、事実として書き記されています。「もちいられる器になる」と。
一つの可能性についてというよりも、一つの事実について記されています。

『健康に良い精密検査の必要性』というのが私たちの主題です。次に3つの点について考えてみたいと思います。
1.私たちの生活を尋ね調べること。
2.私たちの障害物を認めること。
3.私たちの歩みを吟味すること。

言い換えると、
1.私たちは自分の生活を尋ね調べなければなりません。
2.私たちは自分の障害物を認めなければなりません。
3.私たちは自分の歩みを吟味しなければなりません。

1.まず、私たちの道を尋ね調べましょう。
ここで大切なのは、「私たちの」ということが強調されています。すなわち、他の人では
なく、私たち自身の道が吟味され、究明され、尋ね調べられるべきです。他の人々の道を
判断したり調べたりすべきではありません。問題となっているのは、私たち自身です。

パウロは二箇所で、まず私たちが自分自身の生活を吟味しなければならないこと、問題
となっているのは、他の人々ではなく、私たち自身であることを指摘しています。
すなわち、一人一人が主の御前に静まり、次のような願いを持って、主の光に自分自身を照らし出していただくべきです。「主よ、どうかあなたの前に妨げとなっているものを尋ね調べ、明るみに出してください」と。
コリント人への手紙第二、13章を見ると、次のように書かれています。コリントにいる
主の恵みによって救われた兄弟姉妹に書かれたことばです。
コリント人への手紙・第二 13章5節

 あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。

ともすると、私たちは他の人々を吟味したり、判断して裁いたり、他の人のいろいろな点を詮索したりしがちです。私たちは福音を聞くときでさえ、聞いた事柄が自分自身に関係のあることではなく、「これはあの人に当てはまる」、「そのことにあの人が気がついたら良いのに…」と思ったりすることがあります。私たちが自分たちの生活を尋ね調べ、意識的に主の光の中に自分自身をおくことの必要性について、聖書は多くのことを語っているのです。

次に、そのことがどのようにして行われるべきかという質問について考えましょう。
この問いには3つの答えが考えられます。
@ 規則正しく行なうこと。
A 適当にではなく、徹底的に行なうこと。
B 正直に行なうこと。

@ 私たちは規則正しく、自分の生活を尋ね調べなければなりません。
前に司会の兄弟がお読みになりましたコリント第一の手紙11章28節のみことばは、パン裂きについて述べていますが、聖書によるとパン裂きは、たまに行なわれるのではな
く、しばしば規則正しく行なわれるべきです。すなわち、私たちは、私たちの主について、主イエス様の死について、苦しみについて、主イエス様の成就なされた勝利について考えるべきです。パン裂きの時、私たちは、ゴルゴタ、すなわち主イエス様の十字架における犠牲を思い起こし、御座と引き上げられた主イエス様を見上げ、そしてもうすぐ実現される主イエス様の再臨を待ち望みます。けれど、「私たちの生活を尋ね調べなければならない」と、パウロは使命をもって語っております。
私たちは、イエス様が祝福し、ご自身を啓示し、奇跡のみわざをなしてくださる妨げとなるものがないかどうかを、尋ね調べなければなりません。明らかに私たちに要求されていることは、「あなたの生活を尋ね調べなさい」ということですが、それは妨げるものが思い当たったときに、主の聖餐から遠ざけるためではなく、悔い改めてパンを食べ、杯を飲むためにです。
このことは、一人一人が自分自身のことを吟味して、ふさわしくなければパンとぶどう酒を隣りの方に廻すことを意味しているのではなく、一人一人が自分を尋ね調べて、赦しを必要とすることが私たちに示されているのです。

聖餐式の前にいつも兄弟たちは、聖餐式はどのようなものかと説明します。もちろん、大切なことですけれど、忘れられていることがあります。それは「洗礼を受けているか、受けていないかは関係ありません。救われている人たちはもちろんあずかるべきですが、救われていても意識して罪の中に生きている人は、あずかるべきではありません。何かを隠しているなら、あずかるべきではありません」ということも、強調すべきではないでしょうか。

実際私たちは主の前にへりくだって、身をかがめ、罪過を告白するなら、主はすべてを
赦してくださり、その赦しが受け入れられた後、私たちはパンを食べ、杯にあずかるべき
です。したがって、精密検査の目標は、私たちががっかりして身を退くことや、断念しようとすることではなく、主イエス様とのさらに親密な交わり、さらに大いなる祝福を「新に持つため」なのです。もちろん私たちは、日曜日の朝、パン裂きの時だけに自分の生活を検査するだけではなく、規則正しく、しばしばなされるべきです。
例えば、大晦日、新年、喜びの集い、特別の祝福を受けたときも、自分を吟味することが必要です。というのは、私たちはともすると主に対して感謝の少ない者となり、自分自身のことを考えてしまいがちだからです。また、試練のときにも、私たちは自分の生活を検査することが必要です。
しかしその際に、「なぜ、どうして」と尋ねるのではなく、「主よ、あなたの目標は何でしょうか。あなたは、そのことを通して私にいったい何をお語りになりたいのでしょうか」と、尋ねることが大切です。

私たちが主から離れているとき、私たちと主との間に妨げるものが入ってくるとき、主
は私たちを教育してくださいます。すなわち、主は私たちを罰するのではなく、そのこと
を通して、私たちを更にみもと近くに引き寄せるために、私たちを教育なさるのです。
ですから、悩みや試練のとき、私たちは主の光を主に願い求め、私たちの生活を検査し、主がすべてを明らかにしてくださることが大切なのです。しばしば主のみ手が働かないようにしてしまうものは、私たちの不信仰であり、私たちの不従順であり、私たちの不純な動機なのです。私たちが主に仕えても、ほとんど、あるいは全く実を結ぶことが出来ないとき、私たちは改めて自分たちの生活を調べる必要があります。

以上のことをまとめてみると、私たちの精密検査は規則正しく、頻繁に行なわれるべき
であるということが言えます。

A 徹底的な精密検査も必要です。
究明するとか、吟味すると言うことばは、うわべだけでなく徹底的に行なわれるべきで
あることを、私たちに示しています。私たちは何度も何度も、主に真剣に願い求めるべきです。すべての隠れている障害物と、私たちと主イエス様の間にあって妨げとなっているものを、明らかに示してくださいと…。

B 正直に行なうことが必要です。
モーセは、次のように祈りました。
詩篇 90篇8節

 あなたは私たちの不義を御前に、私たちの秘めごとを御顔の光の中に置かれます。

これはモーセのあかしです。不義と秘めごとは、光の中に置かれなければなりません。
たとえば、歯医者に行き、痛んでいるところが発見され、しかしその歯は抜かなくても良
い場合、まず、みなが嫌がる歯の穿孔機、すなわち歯に穴を開ける機械が使われ、傷んでいるところはすべて徹底的に除去されます。するとその歯は突然大きな穴が開くことになりますが、使うことが出来るようになります。この方法は、痛みを伴うかもしれませんが、やりがいのあるものです。ちょうどそれと同じように、私たちも徹底的に私たちの生活を検査しなければなりません。
 何年か前の話ですが、T兄弟の医院に訪ねたとき、T兄弟は頼んだわけではなかったの
に、早速、徹底的に調べてくださったのです。全部の歯をレントゲンで調べてくださいました。私は大丈夫、たいしたことはないと思ったのですけれど、至るところ痛んでいる箇所があることが分かりました。もっと早く来て治療していただくべきだったのです。
私たちが主の器として主に用いていただくために、主との交わりを持ちたいと願うなら、
何度も何度も自分自身を徹底的に検査していただく必要があります。

以上のことをまとめてみると、私たちの精密検査は、まず、規則正しく、次に徹底的に、
それから、どこまでも正直であることが要求されます。

私たちの人生について、4つの価値判断があります。
・私たちの周囲が、自分について何を考え、またどのように自分を評価するか。
・自分と一緒に住んでいる家族が、自分について何を考え、どのように評価するか。
・自分自身が、自分について何を考え、自分をどのように評価するか。
・最も大切なことですが、生ける、まことの主なる神が、自分について何を考え、どの
ように評価なさるか。

なぜ精密検査が必要なのでしょうか。
主が私たちの人生をご覧になるのと同じように、私たちも、自分の人生をみることがで
きるために、すなわち自分自身を本当に知るようになるためです。
他の人たちが、私たちについて何を考え、どのように見ているか、あるいは、私たちが、
自分自身について何を考え、どのように自分を見ているかということではなく、決定的に
大切なことは、燃える炎のような目を持ち、造られたもので主の目に隠しおおせるものは何一つなく、主の目にはすべてがさらけ出されてしまうという、その主が、私たちをどのようにご覧になるかということです。
私たちは他の人の目には模範的に思われることはあり得るでしょう。また私たちは自分
の過ちを他の人の目から上手に隠すことも出来ます。けれど、主の前に隠しおおせること
が出来るものは何一つありません。

ダビデは、前に読みました詩篇139篇の中で、主がすべてをご存知であると告白して
います。ここでまた、「私」、「私」ということばが8回出てきます。
詩篇 139篇1節から4節

 主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそはわたしのすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。

 主なる神の目に隠しおおせるものは何一つありません。ですから、私たちは主に近づく
とき、全く正直でなければなりません。

エレミヤ記 23章24節

 人が隠れた所に身を隠したら、わたしは彼を見ることができないのか。――主の御告げ。――天にも地にも、わたしは満ちているではないか。――主の御告げ。――

私たちは、「主よ、どうかすべてを明らかにしてください。私を尋ね調べ、あなたを悲し
ませたところをお示しください」と祈ることが出来れば幸いです。と言うのは、主はいつも私たちを赦してくださるおつもりなのですから。
主は、私たちをあらゆる不義から聖めることを待っておられます。私たちは私たちの道を尋ね調べましょう。これは必要なことです。そのことを私たちは規則正しく、徹底的に、
正直に行ないましょう。しかし、必要な精密検査に属するものは、私たちの検査だけでは
なく、私たちの障害物を認めることでもあります。


2.障害物の認識について考えてみたいと思います。
 私たちは私たちの障害物を認めなければなりません。「私たちの道を尋ね調べて、主のみ
もとに立ち返ろう」。主は立ち返るべきであると言っておられますが、いったいどうしてで
しょうか。それは私たちが間違った方向に進んでしまったからです。私たちは戻らなけれ
ばなりません。どうして? それは、私たちが主から離れてしまったからです。…
(テープ転換により不明)
 
…信者で長い間主の御手にある器でした。士師記16章を読むと分かります。サムソン
が主の臨在を通して、自分の抑えがたい情熱によって、気がつかないうちに主の霊が自分から去ってしまったことを認識したという事実を知ることが出来ます。神の敵はサムソン
をあざ笑いました。というのは、彼は神の霊なしには、力なく、望みなく、助けのないものになってしまったからです。何という悲劇でしょうか。

ダビデ王は、ただ単に神の民に属していた者だというだけではなく、主なる神によって選ばれたイスラエルの民の指導者でした。サムエル下の11章を見ると、彼がバテ・シバと姦淫を犯し、ナタンの奉仕によって自分自身を主の光の中に見ることが出来、そのことを、隠さず次のように告白しなければならなかったのです。「その姦淫をした男は私です」。ここにも大きな悲劇があります。

旧約聖書の中で最も用いられた預言者であるエリヤは、主なる神によって特別に遣わされたしもべでしたが、しかし彼は落胆して荒野に引き返し、主に、自分のいのちを奪って欲しいと真剣に祈りました。彼はペッチャンコになってしまったのです。列王記上の19章を見ると分かります。そのことに対して、悪魔はどのように勝ち誇ったことでしょうか。

 イザヤという預言者は、自分自身を主の光の中に見ました。彼は自分の不潔さ、不純さに驚いて、次のように叫ばざるを得なかったのです。「ああ、私はわざわいなるかな。私はもう駄目です」と。すべての障害物を、彼は認識して告白したのです。

イエス様の弟子たちについて考えても分かります。最後の晩餐のとき、主は彼らに言わ
れました。「あなたがたの一人がわたしを裏切ります」。すると一人の例外もなく、すべて
の弟子たちは驚いて尋ねました。「主よ、それは私でしょうか。」

私たちも、「主よ、それは私でしょうか。」と問うべきです。「私があなたを悲しませた
のでしょうか。隠れたところにある障害物を私にお示しになってください。私の障害物を
認める恵みをお与えになってください」。

 弟子たちの中の中心人物はペテロでした。ルカ伝22章を見ると、彼は自分の恐るべき、
絶望的状態を認めるようになったことが分かります。「彼は外に出て行き、激しく泣いた」
と記されています。

 これらの主のしもべたちは主に立ち返りました。というのは、彼らは主の命令に従ったからです。「私たちの道を尋ね調べてください」。このことを行なう者には、立ち返り、戻る恵みが与えられるようになります。自分自身を検査してもらう人は、すべてのことを明るみに出していただく備えを持っています。そのような人は、私たちのうちにある悪しきもの、不要なもの、憎むべきものだけがあることをも経験しなければなりません。
認識した後には、告白が続かなければなりません。というのは、告白したときに罪が赦さ
れるからです。おそらく、主は、私たちの人生の中に、主を悲しませ、主の祝福の流れを
押し止める者が他にもあることを、私たちに示してくださるでしょう。

光の中に出ることを敢えてしてみましょう。すべて偽善的な行為をやめましょう。
私たちも、
サムソンのように、力のない、望みのない、助けのないあらゆる状態から脱出すべきです。
ダビデのように、あらゆる偽善と姦淫から脱出すべきです。
エリヤのように、あらゆる無気力さと絶望、落胆から脱出すべきです。
イザヤのように、あらゆる盲目の状態と不純から脱出すべきです。
ペテロのように、あらゆる思い、高ぶりと傲慢から脱出すべきです。

必要な精密検査、あるいは健康診断に浴する者としては、すでに考察しましたが、
1.私たちの人生の精密検査
2.私たちの障害物の認識
3.私たちの歩みの吟味が挙げられます。
「わたしたちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう」。

いまここに出される質問は次のようなものでしょう。
私たちが主に立ち返るとき、主は私たちを受け入れ、赦し聖めてくださるのでしょうか。この問いは、聖書の中で間違いなくはっきりと答えられています。主との交わりが破れたとき、主から遠ざかったとき、自分勝手な道を行ったとき、しかしそれにもかかわらず、後に主のみもとに立ち返るなら、主は、ご自身の御名のゆえに私たちを受け入れ、赦し、あふれるほどに祝福してくださるのです。
私たちはすでに見てきましたように、サムソン、ダビデ、エリヤ、イザヤ、ペテロは、
自分の罪過を認め、主に告白し、主のみもとに立ち返った後で全く回復されました。
私たちは主の命令に従ったのでしょうか。すなわち、私たちは主の前に、主の光の中に、
私たちの道を尋ね調べたのでしょうか。私たちはその結果として、自分自身の債務を知ら
せ、認識された債務を本当に告白したのでしょうか。私たちはあれこれではなく、ただ主
おひとりだけを必要としているということを認識したのでしょうか。

私たちは私たちの歩みを吟味することによって、私たちに主のすばらしい恵みを明らかにする5つの事実に注目したいと思います。
・主は約束してくださる。
・主は確約してくださる。
・主は招いてくださる。
・主は願っておられる。
・主は待っておられる。

そこで、これら五つのすばらしい事実を、手短かに考えて終わりたいと思います。
・主は約束してくださるお方です。
すなわち、イエス様は私たちが自分の債務を告白するとき、私たちを完全に聖めてくだ
さると約束しておられます。いうまでもなく、主によって赦された罪は忘れられています。
永久的に。したがってこれほど簡単なものはありません。イエス様は自分の債務を正直に告白すること以外には何も望んでおられません。すなわち、正直に自分自身の駄目な状態を認め、打ち砕かれる備えを持つことが大切です。私たちは主の約束を心から喜ぼうではありませんか。
次のみことばは、未信者のためというよりも、信じる者のために書かれていることばです。
ヨハネの手紙・第一 1章9節。すばらしい、喜びの知らせです。

 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。


・主は確約してくださるお方です。
すなわち、イエス様は私たちが罪を犯さなくてもよいように、すべてを成し遂げてくださいました。主イエス様は、ただ単に罪の債務からだけではなく、罪の力からもあがなってくださいます。しかし、主は私たちが倒れたときにも配慮してくださいました。次のような確約を、主は、ヨハネ第一の手紙の中で私たちに述べておられます。 
ヨハネの手紙・第一 2章1節、2節

 私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための、――私たちの罪だけでなく全世界のための、――なだめの供え物な
のです。

私たちには御父の御前で弁護してくださる方があり、それは義なるイエス・キリストです。

・主は招いてくださるお方です。
すなわち、イエス様のみもとに立ち返り、戻るようにと招いておられます。その際、主
は、私たちが主の恵みにあずかることを保証してくださいます。もちろん、このことばも
イスラエルの民に与えられたみことばです。
イザヤ書 55章6節、7節

 主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。


・イエス様は私たちに願い求めておられるお方です。
すなわち、主に立ち返り、すべての障害物はイエス様によって完全に取り除かれ、傷は
癒されると主が確約してくださるのです。すべてのことが絶望的に思われ、回復の可能性
が全く考えられないようなときでも、主は奇跡を行なうことがおできになります。
エレミヤ書3章、これもすばらしい主の呼びかけです。
エレミヤ書 3章22節

「背信の子らよ。帰れ。わたしがあなたがたの背信をいやそう。」「今、私たちはあなたのみもとにまいります。あなたこそ、私たちの神、主だからです。…」

これは、ご自身が真理そのものであり、絶対にみことばを守るお方の約束です。「今、私た
ちはあなたのもとにまいります」と書いてありますが、私たち全員がこの態度をとることを主は切に願っておられます。

・イエス様は私たちを待ち望んでおられるお方です。
しかも両手を大きく開いて待っておられます。「わたしのもとに来なさい」と、主はしば
しばおっしゃいました。すなわち主イエス様は、ただ単に口だけの約束ではなく、真剣に
私たちのことを考えて、待っていらっしゃるということが、このみことばからも分ります。
「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」。
主イエス様のみもとに行く者は受け入れられ、永遠の救いを持つ者となり、罪の赦しと
永遠のいのちを持つようになります。私たちはこれらの事実を大切にするとき、主の恵み
に圧倒されます。

主の恵みは、私たちにとって理解できないほどすばらしいものです。私たちの唯一つの
望みでもあります。
「私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう」。
主のみもとには赦しと恵みがすべての人のために備えられているのです。



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更新履歴


メッセージ・証し集インデックスページ

◆メッセージ(ベック兄)

※一部、テープの転換による不明部分あり

神のみことばは神のみことばである(5) 2006. 4. 18
神のみことばは神のみことばである(4) 2006. 4. 11
神のみことばは神のみことばである(3) 2006. 4. 4
神のみことばは神のみことばである(2) 2006. 3. 21
家族の救い 2006. 3. 19
神のみことばは神のみことばである(1) 2006. 3. 14
主イエスは神の子キリストである(4) 2006. 3. 7
主イエスは神の子キリストである(3) 2006. 2. 28
主イエスは神の子キリストである(2) 2006. 2. 14
主イエスは神の子キリストである(1) 2006. 2. 7
勝利の生活の秘訣 2006. 1. 24
イエス・キリストのからだ 2006. 1. 17
主の永遠からの予定 2006. 1. 10
元旦メッセージ 2006. 1. 1


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