従ったほうがよい
2005.1.9(日)
ベック兄メッセージ(メモ)
西軽井沢国際福音センターにて
引用聖句
出エジプト記 40章1節
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主はモーセに告げて仰せられた。 |
16節
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モーセはそのようにした。すべて主が彼に命じられたとおりを行なった。
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34節
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そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。
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列王記・第一 8章11節
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祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである。
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エゼキエル書 44章4節
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彼は私を、北の門を通って神殿の前に連れて行った。私が見ると、なんと、主の栄光が主の神殿に満ちていた。そこで、私はひれ伏した。
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ヨハネの福音書 1章14節
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ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
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今朝の題名は、『従ったほうがよい』という題名です。どうして従ったほうがよいのでしょうか。もし、ご主人が「あなたが洗礼を受けるなら離婚だよ」と言われるなら、受洗は今やめて、ご主人の意見を受け容れ、あとでご主人と一緒に受けるほうがよいのです。あなたの受洗よりも、やはりご主人の救いのほうが大切ではないでしょうか。(けれど、もしご主人が「信仰を捨てろ」と言われるのなら、それは従い得ないのです。)
あるいは結婚問題のことで、どうしても親が賛成してくれない場合、いったんその意見を受け容れて従った方がよいのです。どうしてでしょうか。それは、「親」だからです。もし、どうしても結婚したいと思ったとしても、やはり親が賛成するまで待っていたほうがよいと思います。親を無視して結婚した人たちは、必ずあとで悩みます。うまくいくはずはありません。人間よりも、主なる神が立てられた秩序に従うべきです。
どうして従ったほうがよいかと言いますと、主に従うと絶対に後悔をしないからです。
損をしないからです。なぜ従うべきなのでしょうか。それは納得したからではありません。わかったからでもないのです。主のみことばだからです。
最近、うちの娘スーシーは、一冊の本をよく宣伝しています。『信仰とは感情ではない』という題名です。私はまだ読んでいませんけれど、非常に良い本だそうです。何かを感じたから信じるのではない。理解できたから従うのではなく、主を知るため、よりよく主を知るため、主のご栄光を拝するために、従うべきなのです。
先に読みました出エジプトの箇所の中では、まずモーセについて書かれています。
モーセは、主に祈ったことがあるのです。「主よ。あなたの栄光を私に見させてください」。この祈りは聞かれたのです。モーセは主の栄光を見たのです。いったいどうしてでしょうか。従ったからです。
「主はモーセに告げて仰せられた」「モーセはそのようにした。すべて主が彼に命じられたとおりを行なった」「そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた」。
従った結果は、主の栄光を拝することでした。
そして、ソロモンの時代の祭司たちも、同じように主の栄光を見たのです。
列王記・第一 8章11節
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主の栄光が主の宮に満ちた…。 |
とあります。
エゼキエルという預言者も、同じことを経験することができたのです。
エゼキエル書 44章4節
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主の栄光が主の神殿に満ちていた。そこで、私はひれ伏した。
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拝んだ。礼拝せざるを得なくなったと。
イエス様の弟子たちも、もちろん同じことを経験しました。
ヨハネの福音書 1章16節
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私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。 |
とあかしすることができたのです。
初代教会の初めての殉教者であるステパノも、主の栄光を見たと使徒行伝7章に書き記
されています。彼らはかの心無い人々に迫害されたとき、彼に神の栄光が現われ、イエス
が神の右に立っておられるのが見えたと書いてあります。
使徒の働き 7章55節
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しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスを見て、…
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パウロは、テサロニケにいる兄弟姉妹に次のように書いたのです。
テサロニケ人への手紙・第一 2章12節
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ご自身の御国と栄光とに召してくださる神にふさわしく歩むように勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じました。 |
すなわち、私たちは、主なる神によって、御国とその栄光とに召された者です。なぜ主のご栄光が当時の幕屋に満ち満ちたのでしょうか。また、どうして弟子たちは主のご栄光を拝し、ステパノは主のご栄光を見ることができたのでしょうか。
私たちに関しても、聖書は私たちを、「御国と栄光に召した」と記されているのですから、私たちが、この「栄光」とはいったいどういうことなのかと疑問を持つのは当然です。
「栄光」とは何なのでしょう。
ヘブル書の1章3節を見ると、ひとつの答えが出ると思います。
ヘブル人への手紙 1章3節
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御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。
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この箇所により、はっきり知り得ることは、私たちの主イエス様ご自身が、父なる神の栄光の輝きそのものであるということです。
もう一箇所、
ペテロの手紙・第一 4章14節
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もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。
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イエス様のみ名のために受ける苦しみに対してペテロは、「同情すべきではない。気の毒だと思うべきでもありません。『幸せです』と思いなさい」と言っています。
ここで、「聖霊は栄光の霊である」と書いてあります。この二つのみことばは、私たちの疑問に答えるものではないでしょうか。
いったい、栄光とは何なのでしょう。私たちに現わされた主のご臨在こそ栄光です。
イエス様は神の栄光の輝きとして、天より下られ、私たちの住むこの地上においでになりました。弟子たちはこれを見て、「私たちは神の栄光を見た」とあかししたのです。イエス様の上には、主なる神のきよい霊が限りなく注がれていました。どうしてでしょうか。イエス様は完全に従順であられ、父なる神のみこころに全くかなったお方だったからです。
イエス様が私たちの上に、その御かたちを形造ってくださる、そのはかりにしたがって、その度合いにより、私たちは主のご栄光を見ることができるのです。
三つの点に分けて、少しだけいっしょに考えてみたいと思います。
1.主に従う重要さ。
2.従順と不従順の結果。
3.全き信仰の要求。
1.まず、主に従う重要さについて考えたいと思います。
いったいどうして主イエス様に従うことは、そんなに大切なのでしょうか。イエス様は、
ご自分のご臨在を現わしたい、ご自身のご栄光を明らかにしようと望んでおられるからで
す。父なる神のご栄光は、従順によって現われます。イエス様に従うなら、主のご栄光を見ることができます。イエス様が語られるたびごとに、私たちが従うなら、主のご臨在を経験することができ、主のご栄光を見ることができます。
日常生活において、主は私たちに、「これはいけない」、「あれはいけない」、「こう
すべきだ」とささやいてくださいます。このどんなに小さなささやきにも、私たちが従順
に聞き従うなら、主はご自身のご栄光を現わしてくださいます。このご栄光は、私たちを
して、「主、われとともにいます」という確信に導きいれ、この確信は、限りない平安と
深い喜びに私たちを憩わせます。イエス様に従順に従うなら、この主のご臨在とご栄光を
経験することができます。
この事実を、五つの実例で見てみましょう。
@ モーセ
A イエス様の弟子たち
B ラザロのお姉さんであるマルタ
C アナニヤ
D ペテロ
@モーセについて、すこし考えたいと思います。
モーセは実に主に従順でした。聖書を読んでいくと、「モーセは主が命じられたとおり
にした」と、何回も何回も書き記されています。もう一度出エジプト記の40章を開いて
みましょう。ここで、同じ章の中に、何回も同じ表現が出てきます。
出エジプト記 40章19節
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幕屋の上に天幕を広げ、その上に天幕のおおいを掛けた。主がモーセに命じられたとおりである。 |
21節
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箱を幕屋の中に入れ、仕切りのために垂れ幕を掛け、あかしの箱の前を仕切った。主がモーセに命じられたとおりである。
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23節
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その上にパンを一列に並べて、主の前に供えた。主がモーセに命じられたとおりである。
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25節
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そうして彼は主の前にともしび皿を上げた。主がモーセに命じられたとおりである。
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27節
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その上でかおりの高い香をたいた。主がモーセに命じられたとおりである。
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29節
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全焼のいけにえの祭壇を、会見の天幕である幕屋の入口に置き、その上に全焼のいけにえと穀物のささげ物とをささげた。主がモーセに命じられたとおりである。
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32節
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会見の天幕にはいるとき、または、祭壇に近づくとき、彼らはいつも洗った。主がモーセに命じられたとおりである。 |
そして、その従順の結果、
34節
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そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。 |
とあります。
モーセは本当に従順でした。結果として彼は主のご栄光を見たのです。
A 弟子たちについて
弟子たちはさまざまな敗北の中から、またさまざまな経験を通した結果として、「私たちは主の栄光を見た」とあかしすることができました。弟子たちの場合、主がくださる様々な訓練の経験から学んだ「従順」の結果、主の栄光を見たということが言えるようになったのです。私たちと同じように、あの弟子たちも、初めからすぐに主のみことばに対して従い得ませんでした。
ヨハネの福音書 11章7節、8節
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その後、イエスは、「もう一度ユダヤに行こう。」と弟子たちに言われた。弟子たちはイエスに言った。「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。」
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ここを読むと、弟子たちのイエス様に対する態度がどのようであったか分かるような気
がします。弟子たちは、以前ユダヤで迫害されたことを思い出し、「イエス様。イエス様。
あの迫害をお忘れになったのですか。これから行くなら、またとんでもないことになりま
す」と言って、尻込みしたわけです。しかし、弟子たちは、最後には主イエス様に従って
ユダヤに行きました。この従順の結果は何だったのでしょうか。迫害だったのでしょうか。
そうではなく、その結果は、驚くべき主のご栄光を拝することになったのです。すなわち、死人のラザロが、死よりよみがえらせられた奇蹟を見ることができたのです。
「従ったのは良かった!」と彼らは言うようになったのです。
B マルタについても、同じことがわかります。
ヨハネの福音書 11章39、40節
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イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」
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主は確かに命令してくださったのです。「墓の石を取りのけなさい」。これに対して、
マルタはすぐに主に従いませんでした。「主よ。もう臭くなっています。私の弟ラザロは死んでから四日も経っていますから、とんでもない。もうダメです」と言ったのでした。けれども最後に、イエス様のみことばに従い、墓の石を取りのぞいたとき、死人のラザロは生き返り、墓から出て来ました。驚くべき主のご栄光を拝することができたのです。
もし、不従順のために、墓の石が取りのぞかれないでそのままにされていたなら、主のご栄光を拝することができなかったでしょう。
C アナニヤについても、ちょっと考えたいと思います。
使徒の働き 9章10節から11節
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さて、ダマスコにアナニヤという弟子がいた。主が彼に幻の中で、「アナニヤよ。」と言われたので、「主よ。ここにおります。」と答えた。すると主はこう言われた。「立って、『まっすぐ』という街路に行き、サウロというタルソ人をユダの家に尋ねなさい。そこで、彼は祈っています。」
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13節、14節
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しかし、アナニヤはこう答えた。「主よ。私は多くの人々から、この人がエルサレムで
あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。彼はここでも、あなたの御名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、
祭司長たちから授けられているのです。」 |
イエス様がアナニヤに現われ、「アナニヤよ。サウロのところに行きなさい」と言われ
ました。そのときアナニヤはすぐに主に従うことをしなかったのです。どう言ったかと言
いますと、「主よ。とんでもない話ではないでしょうか。あなたが『行け』と言われてい
るサウロとは、私たちを迫害する指導者です。恐ろしくて行くことはできません。」と。
けれど、彼も最後には主に従いました。そのとき、アナニヤは、やはり従順の結果として主のご栄光を拝することができたのです。もしあのときアナニヤが主に従わなかったなら、サウロは、のちのパウロはどうなったことでしょう。あの偉大な使徒パウロは生まれなかったに違いありません。
D ペテロについて考えてみましょう。
使徒の働き 10章13、14節
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そして、彼に、「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい。」という声が聞こえた。しかしペテロは言った。「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」
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彼は、「主」と言ったのですけれど、ほんとうはそう思わなかったのです。主だったら従
います。彼は従う気持がありませんでした。
確かに、主がペテロに、「これらの獣をほふって食べなさい」と言われたとき、ペテロ
はやはり従順ではなかったのです。「主よ。聖書にきよくない物は食べてはならないと書
いてあるのではないですか。とんでもない話です。食べるわけにはまいりません」。
ペテロはそのとき、ユダヤ人と同じく異邦の民も、神の祝福にあずかることができると
いうことを信じませんでしたし、考えられなかったのですけれど、最後にペテロは主に従
い、異邦人であるコルネリオのところへ行き、主のご栄光を目の当たりに拝することができたのです。コルネリオ及びその家族、また親族一同、そこに居合わせた人々がみな、救われ、聖霊に満たされたのです。
正しい結論は、「主に従いましょう。みことばに従いましょう」。なぜなら、モーセ、
弟子たち、マルタ、アナニヤ、ペテロのように、主のご栄光を拝することが、また、主のご臨在を味わい知ることができるからです。
今まで私たちは、イエス様に従う重要さについて考えてまいりましたが、次に、従順と
不従順の結果について、考えてみたいと思います。
2.私たちの従順の結果、また不従順の結果は、いったいどういうものでしょうか。
私たちが従うか従わないかの決定は、実に大切です。すなわち、主のご栄光を拝するか、
または、主の備えられているご栄光を取り逃がしてしまうかのどちらかだからです。
・もし、モーセが主に従わなかったら、主なる神のご栄光は幕屋に満ちなかったでしょう。
・もし、弟子たちがイエス様に従ってユダヤに行かなかったら、やはり主のご臨在、また主のご栄光を拝することはできなかったでしょう。
・アナニヤの従順なくして、パウロはいったいどうなっていたことでしょう。
・もし、ペテロが主に従っていなかったなら、ペテロ自身もコルネリオも、決して主のご
栄光を拝することができなかったはずです。
私たちの決定によって、私たちは主のご栄光を見ることができますし、また、天の窓を閉ざしてしまうこともできるのです。
・マルタのように、「主よ。ラザロが4日間も墓の中にいて腐っているのを、お忘れにな
ったのですか」と言って、石を取りのけることをしなかったなら、どうでしょう。ラザロはよみがえられなかったばかりでなく、主のご栄光を拝することができなかったでしょう。
・もし、主が私たちに、「あの兄弟、この姉妹を訪問しなさい。」と語られたとき、「主
よ。あの兄弟は意識して罪を犯し、この姉妹は自分の仕事を偶像のようにして集会に来
ていません。とんでもない話です。何をやってもダメです」と言うなら、同じように私たちは自分自身、信仰を進めることもできず、また主のご栄光を拝することもできないでしょう。離れているその兄弟姉妹も、やはり主の豊かな祝福とご栄光に接することができないでしょう。
私たちはどんな道を選んでいるのでしょうか。
主のささやきに対して不従順で、主のご栄光を拝する道を自ら閉ざしているのでしょうか。それとも、日々主に聞き従い、従順をもって主のご栄光を拝しているのでしょうか。
3.全き信仰の要求。
すなわち主の栄光を拝するには、全き信仰が必要であるということについて、少し考えたいと思います。
主イエス様は、マルタに、「『もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る』と
わたしは言ったではありませんか」と言われました。ここでは、「従うなら、」と言われ
ていないのです。「もし信じるなら、」と言われています。けれど、従順と信仰は同じな
のではないでしょうか。
ヘブル書の二つの箇所を調べてみると分かります。ここで著者は、当時の信じる者に、
イスラエルの経験について次のように書いたのです。
ヘブル人への手紙 3章19節
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それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。 |
4章6節
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こういうわけで、その安息にはいる人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえにはいれなかったのですから、…
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とあります。ここではイスラエルの民がエジプトの国から救い出されて、四十年間、荒野
でさまよった…
(テープ転換のため、不明)
…イスラエルの民は、主がカナンの国に導き入れてくださるという約束を、不信仰のゆえに従わなかったのです。すなわち、不従順のその根が不信仰です。
・モーセは、いったいどうして主の栄光を拝することができたのでしょうか。
それは、モーセが主に示されたそのとおりに幕屋を作ったからです。
・マルタはなぜ主のご栄光を拝することができたのでしょうか。マルタは信じて、従って、墓の石を取りのけさせたからです。もしあの墓の石を取り除かなかったら、死に打ち勝つ主のよみがえりの力は現わされなかったでしょう。
・前に挙げた人々は、主に従いたくなくて従わなかったのではありませんでした。
ユダヤへ行って栄光を拝した弟子たちは、行く前にあれほどまでに迫害されたユダヤへ
なぜ再び主は行きたいと言われるのか理解できなかったのです。
・マルタにとって、腐って匂いのする、四日間も墓の中に入っている死人がよみがえるなどということは、到底理解できないことでした。
・またあのアナニヤは、荒れ狂ってイエス様を信じる者を迫害しているサウロが、祈りの
人、主の御名を呼び求める者となるとは、夢にも思っていなかったのです。
・またペテロは、汚れた者を食べなさいという主のことばを理解することができなかったのです。
理解できない、考えられない、想像することもできないということは、やはり、不信仰
のゆえですが、この不信仰は不従順となるにおよんで、その頂点に達します。その結果は、
天の窓が閉ざされ、主のご栄光を拝することができなくなるのです。
けれども、モーセ、弟子たち、マルタ、アナニヤ、ペテロは、おのおの主のみ栄えを拝
するようになりました。どうしてでしょうか。彼らは主に従順に従ったからです。
箴言の3章5節は、みなさんよく知っている箇所なのですが、短いけれども非常に大切なみことばです。ソロモン王の書いたことばです。
箴言 3章5節
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心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。
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どちらかに決めなくてはいけません。人間に与えられている理性とは、概念を作る能力、
結論を引き出す能力、判断を下す能力であり、しかもそれこそ、まさに人間に与えられて
いる宝物です。けれどもそれにも関わらず、人間とは、なんと多くの見当違いや計算違い、
あるいは意味のないことをして、頭を抱え込むことでしょう。
この理由から、主は私たちに対しても、「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにた
よるな」と言っておられます。
・信仰とは、主なる神に対する絶対的な信頼です。これに対し人間の理性は、自分の体やいのちを心配しますが、その結果は不信仰に終わります。
・信仰とは、全知全能なる主のすべてを確信することです。これに対して人間の理性は、
主なる神の全知全能なることを疑います。これもまた不信仰の現われです。
・信仰とは、目に見えないお方を見ます。これに対して人間の理性は、心配そうに目に
見えるものを見るのです。これもまた不信仰の現われにほかなりません。
それゆえに主イエス様を信じるということは、徹頭徹尾自らを主にゆだねることです。
信仰とは、主なる神のみことばに対して、まったく従順であることを意味しています。
「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな」。理解することができず、馬鹿ら
しく見え、不可能に見えても、主のささやかれる声に従いましょう。
そうするなら、主のご栄光により、不可能に見えたことが現実に可能となってきます。
一つの実例は、エレミヤ書に書かれています。
エレミヤ書 32章6節から9節
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そのとき、エレミヤは言った。「私に次のような主のことばがあった。見よ。あなたのおじシャルムの子ハナムエルが、あなたのところに来て、『アナトテにある私の畑を買ってくれ。あなたには買い戻す権利があるのだから。』と言おう。すると、主のことばのとおり、おじの子ハナムエルが私のところ、監視の庭に来て、私に言った。『どうか、ベニヤミンの地のアナトテにある私の畑を買ってください。あなたには所有権もあり、買い戻す権利もありますから、あなたが買い取ってください。』私は、それが主のことばであると知った。そこで私は、おじの子ハナムエルから、アナトテにある畑を買い取り、彼に銀十七シュケルを払った。
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主が預言者エレミヤに「アナトテにある畑を買いなさい」と言われたとき、エレミヤは、
「ふん、とんでもない。アナトテは恐るべき敵が住んでいる。カルデヤ人たちの地ではな
いか」とは言わなかったのです。敵のものとなった土地のために金を払うのは、人間的に
考えればおかしい。馬鹿らしいことです。けれどもエレミヤはアナトテの畑を買いました。
なぜなら、主は、「この土地は近いうちにまたイスラエルのものとなる」と約束してくだ
さったからです。
本当に覚えるべきは、信仰生活における従順の結果は驚くべき豊かな主の祝福です。私たちは自分の考えに従うことなく、ただみことばにただちに従ってゆく信仰生活を送りたいものです。
エレミヤ書 32章17節
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「ああ、神、主よ。まことに、あなたは大きな力と、伸ばした御腕とをもって天と地を造られました。あなたには何一つできないことはありません。」
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27節
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「見よ。わたしは、すべての肉なる者の神、主である。わたしにとってできないことが一つでもあろうか。」
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私たちの主イエス様にとって不可能なことは一つもありません。「行って、アナトテに
ある畑を買いなさい」。主のことばを信じ、主に不可能なことはないことを信じ、従順に
従うなら、驚くべき主の栄光を拝することができるのです。
主がみことばをもって私たちに語ってくださったら、どんなに不可能に見えてもすべて
をなしてくださる主の御力を信じ、目に見えるところは不可能なことでも従いましょう。
そのとき、主の豊かなるご栄光と祝福を経験し、またそれを拝することができるのです。
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