元気のもと
2005.1.11(火)
ベック兄メッセージ(メモ)
引用聖句
ローマ人への手紙 10章9節
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なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。 |
ローマ人への手紙 14章8節から9節
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もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。
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コリント人への手紙・第二 4章5節
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私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。
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コリント人への手紙・第二 5章15節
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また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。 |
今日のテーマは、『主イエスの支配は元気のもと』というものです。このことについて、
少し考えたいと思います。
以前に話したことがあるのですが、「聖書の中心なるテーマは、『救い主なるイエス』である」と思います。けれども聖書を読むと、ちょっと違うのではないでしょうか。
「救い主なるイエス」という表現は、聖書の中で26回しか出てきません。けれど、「イエス・キリストは主である」という表現は、670回も出てきます。今読んでいただいた、引用聖句を見てもわかります。
ローマ人への手紙 10章9節
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なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
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もしイエス様がよみがえられたなら、もちろん「救い主」だけではなく、「主」そのものです。
ですから、初代教会の人々は、
コリント人への手紙・第二 4章5節
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私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。 |
と言ったのです。「救い主なるキリスト」ではなく、「主なるキリスト」です。
イエス様はどうして死なれたのでしょうか。最初に読みました引用箇所の中に書かれています。
ローマ人への手紙 14章9節
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キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。
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「主となるために」、イエス様は死なれたのです。ですから、このイエス様のご支配こそが
確かに、「元気のもと」です。イエス様こそが、支配者そのものです。偶然はありません。主は、背後で導いてくださるお方です。
「イエス様は、すべてのものの主であられること」。このことこそ、初代教会の宣べ伝えた福音です。
「イエス様は、すべてのものの主である」、これこそが、初代教会の「元気のもと」でした。
初代教会の信者たちは、上からのいのちに満たされていました。また、集会を開く度に
会衆も満たされていたのです。集会を開く度に会衆は増え、またそこでなされる信者の証しは、泉が溢れ出る如く豊かで力に満ちていました。「日々」、つまり毎日、「人々は導かれ、信者の群れに加えられた」と聖書は言っているのです。
信者ひとりひとり、また集会全体のうちに、イエス様の満たし、主の豊かないのちを、見ることができました。この秘訣は、「すべてのものの主なるイエス様」でした。すなわち、「イエス様の絶対的なご支配」でした。
今、司会の兄弟が祈りの中で言われましたように、この末の世に生きている私たちの取るべき態度は、「主よ。私はどうしたらよいのでしょうか」ということではないでしょうか。
主はどのような態度を望んでおられるのでしょうか。先程、賛美しましたように、「主に従います」という態度を取ることではないでしょうか。
「はい。主よ。私は信じます」というみことばが、ヨハネの福音書11章27節に書き記されています。このことばは、イエス様が、一度死んだラザロをよみがえらされる時、ラザロの姉であるマルタに語りかけられた際の、マルタの返事の中に出てくることばです。
ヨハネの福音書 11章21節から27節
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マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」
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マルタは、「救い主よ。助けてください」ではなくて、「主よ」と呼びかけました。すばらしい答えです。「はい。主よ。私は、信じております」と…。
このヨハネの福音書11章を読むと、そこには、一方において、ラザロの復活が記されており、そしてまた他方において、ラザロの姉妹であるマルタとマリヤをイエス様が慰めてくださったことが記されています。
イエス様が、この二人の姉妹に語られた時、二人の姉妹は7回も、「主よ」「主よ」「主よ」ということばを使ったのです。その当時、「主」ということばは、多くの人によって使われたことばでした。こんにちも、このことばはいろいろな意味を含みながら使われています。
例えば、日本語の「○○さん」という場合、「…さん」ということばは、男の人に対しても女の人に対しても、また結婚している人に対しても、結婚していない人に対しても使われています。ドイツ語では、いろいろな区別がはっきりしています。男か女か、結婚しているか結婚してないか、はっきりしています。ですから、日本語の「…さん」ということばは、極めて曖昧な意味を持つことばではないでしょうか。
ずっと以前に、(おそらく15、6年前でしょう。)ある兄姉と一緒に家庭集会に行く途中、本当にきれいな富士山が、はっきりした姿を現わしているのが見えました。そこで兄弟が、姉妹のお孫さんに、「見てごらん。富士山が見えますよ」と言われました。お孫さんは「ふじさんってだぁれ?」と聞き返したことが印象的でした。そのとき姉妹は、「ふじさん」が人ではなくて、「山」であることを、お孫さんに説明なさいました。
イエス様の復活の朝、二人の弟子は、エマオという村に向かっていました。そのとき、
復活なさったイエス様が急に姿を現わされたのです。けれど、そのお方がイエス様である
ということが分からなかった二人にとって、イエス様は、「見知らぬ人」に過ぎなかった
のです。
心の目が開かれた時、「そのお方が、自分たちの『主』であられるということが分かった」と聖書は言っています。そしてイエス様を再発見した二人は、喜びに満たされ、すばらしい証し人とされました。
マルタとマリヤにとって、イエス様は決して「見知らぬ人」ではなかったのです。「だれかある人」ではなかったのです。文字通り「自分たちの主」に、他ならなかったのです。
聖書の中に、「主」ということばが出てくるとき、そこにおける「主」は、「すべてを支配なさるお方」を意味しているのです。私たちは、やがてすべての民が、イエス様のことを、「主である」と告白するときがやって来ることを知っております。
ピリピ人への手紙 2章6節から11節
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キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。
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単なる「救い主」ではありません。すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白
するようになります。悪霊たちも、悪魔も、それを告白せざるを得ないようになります。
パウロにとっても、この「主」は、すべてのすべてとなり、彼は喜んでそのお方の奴隷
となりました。よく彼の手紙の中に、「主イエス・キリストの奴隷であるパウロ」と書かれ
ています。誇りを持って彼は書いたのです。「この『主の主であるイエス様』に仕えること
は、最高の幸せである」と。次のように書かれています。
コリント人への手紙・第二 4章5節
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私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。
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そして、この「主」を、マルタは認め、意識してイエス様を「主」として受け入れたのです。私たちも、「主」ということばを数多く用います。主の御名を口にしますけれど、その「主」は、本当に私たちのすべてを支配なさるお方なのでしょうか。
ラザロの姉であるマルタは、「はい。主よ。私は信じます」と言いましたが、イエス様は
それをお聞きになったとき、本当に喜ばれたに違いありません。残念ですけれども、みな
すぐそういう態度を取らなかったのです。
イエス様の弟子であるペテロは、まったく反対のことをイエス様に向かって言ったのです。イエス様がペテロの支配者となられるまでには、大変な戦いがありました。確かに、ペテロは3年半の間イエス様の愛を受け、イエス様とともに生活し、イエス様のなされた数多くの奇蹟を目の当たりにして、「イエス様こそまことの神の子である」と心から信じたのです。「もうイエス様から離れられない。行くところがない」と彼は心から言えたのです。
けれどもご存知のように、このペテロは、イエス様が捕われ、自分の身に危険が及んだとき、何と言ったでしょう。イエス様を指して、「私はあの人を知らない」と三度も否んだではないでしょうか。そのときのペテロの心は、本当に暗やみでした。その後イエス様が、ペテロの心の内に光となり、支配者となられるまでには多くの戦いがありました。よく知られている箇所なのですけれど、使徒の働きの中に、そのうちのひとつの戦いについて書き記されています。
ペテロはあるとき祈っていました。祈りとはまず礼拝であるべきです。「私のような者のために犠牲になって、代わりに死んでくださった主イエス様、本当に感謝します」と。
そして、主に対する感謝の表われとして、「私はどうしたらいいのでしょうか」…
ペテロが、「今日、明日、明後日、どうしたらよいのでしょうか。教えてください」と祈ったとき、彼は幻を見たと聖書は言っています。ペテロが祈っていると、天から大きな布に包まれて、いろいろな種類のきよくない汚れた動物が天からつり下ろされるのを見たのです。やがて天から声があって、「ペテロ。これを食べなさい」。ペテロは、「私はきよくないものを、食べるわけにはいきません」と言いました。彼は、「はい。主よ」と言わないで、「いいえ、主よ」という気持ちでした。
つまり、ペテロは上からの声に逆らいました。けれど、ペテロに与えられたこの幻は一度だけではなく、二度でもなく、三度も起こりました。そして、布に包まれた動物が天に引き上げられたちょうどそのとき、コルネリオ(偉い軍人だったのですけれど)という、異邦人の召し使いがペテロを訪れ、「どうかコルネリオのところに来てください」と頼みました。そこでペテロは、きよくないとされていた異邦人のもとに行くことになったわけですが、その決心が固まるまでには、並々ならぬ心の戦いがあったのです。
ユダヤ人たちは、確かに恵まれた国民であり、非常に頭のよい人々です。どうして多くの悩みや苦しみを受けなければならなかったのかと言いますと、傲慢になったためです。
預言者たちは、みなユダヤ人です。聖書が記している「選びの民」とは、ユダヤ人です。確かにそうなのです。けれども彼らは、主に用いていただきたいという気持ちを持つことがなく、傲慢になってしまったのです。
ペテロがまず言ったのは、「主よ。嫌です。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を
食べたことがありません」。このように、ペテロは、「主よ」ということばを使いながらも、
実際は、主に従おうとはしなかったのです。ペテロはすべてを支配なさる「主」を体験的に知ることができなかったため、信じられないと思ってしまったのです。彼は自分の理性に動かされてしまい、その結果、このような否定的な態度を取ってしまったのです。
その点では、マルタもまた、自分の理性によっては理解できないような困窮な状態に陥っていましたが、それにも関わらず、「はい。主よ。信じます」という態度を取ったのです。
ペテロはやがて戦いに勝ち、主の仰せにまったく従ってコルネリオのもとに行ったとき、
主の偉大なる栄光と、溢れるばかりの祝福とを経験することができたのです。ペテロは、コルネリオのところでどんなメッセージをしたのでしょうか。ちょっと不思議なのです。それは、「イエス・キリストは、すべてのものの主である」というメッセージでした。
普通だったら、ちょっと的外れではないかと思われます。ペテロは、コルネリオが聖書のことを知らなかったので、「人間の罪とはどういうものであるか」、「この罪の問題はどのように解決されたのか」と、話したらいいのではないでしょうか。けれどペテロは、
使徒の働き 10章36節
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神はイエス・キリストによって、平和を宣べ伝え、イスラエルの子孫にみことばをお送りになりました。このイエス・キリストはすべての人の主です。
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と。偉大なる救い主。すばらしい贖い主だけではない。「イエス・キリストは、すべての人の主です」と、彼は宣べ伝えたのでした。
このペテロが宣べ伝えたメッセージの結果は、素晴らしいものでした。コルネリオ及び彼の家族だけではなく、親族全部も救われ、そのうえ更に、聖霊に満たされたのです。
使徒の働き 2章4節
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すると、みなが聖霊に満たされ、… |
「ユダヤ人たちは聖霊に満たされた」と書いてあります。この初めての五旬節を経験したのは、ユダヤ人だけでした。ユダヤ人だけが聖霊に満たされたのです。異邦人ではありません。このコルネリオの家で起こったことも、同じことでした。
ペテロが夢にも思ったことでなく、想像することもできないことでした。もちろん理解することもできなかったのです。しかし、これらすべてのすばらしい出来事は、どこから起こって来たかと言いますと、それは、ペテロが新しく主のご支配をいただいたところから起こって来たのだということを知ることができます。
それまでのペテロは、イエス様をほんの少ししか経験していなかったのです。けれども、
このとき、主がどのように偉大なるお方であるか、体験的に知り、自分のものとすることができたのです。
使徒の働き 11章17節
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「どうして私などが神のなさることを妨げることができましょう。」
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「私のような者がどうして神を妨げることができようか」と彼は言っていますが、これは
自分の考えは本当に制限されたものであり、主イエス様に心の目を向けるなら、イエス様はどんなに偉大な方であり、すべてのすべてであられるかがわかるということを私たちに教えてくださっていると思うのです。
もちろん、ペテロは、ほかの弟子たちに攻撃されたのです。ヨハネも反発したでしょう。ヤコブも怒ったでしょう。「何をしているのですか。あなたは」と。そして彼は、「私のような者がどうして神を妨げることができようか。私たちの経験したことは、あの異邦人たちも同じように経験したのです。やはり異邦人たちも、主なる神によって大いに愛されています。異邦人たちのためにも、イエス様が犠牲になられたのです」。彼がこのように証しすると、みな黙って、反対する術がなくなってしまったのです。
私たちもペテロと同じように、新しく心の目を開いてくださる主イエス様こそすべての主であられることを知るなら、その結果、主の豊かな満たしにあずかることができるようになるに違いありません。
イエス様は単なる助け手ではありません。「主」であられます。イエス様の御名を呼ぶこ
とと、イエス様が支配権を持っていらっしゃることを認めることとは、根本的に違います。これからは、「はい。主よ」ということばが、私たちの特徴となることができますように。
イエス様ご自身が、「わたしは、よみがえりであり、いのちであり、真理そのものです」というみことばによってご自身を現わしてくださいました。主のみことばとは、取りも直さず主ご自身の啓示そのものでした。
かつて、モーセがまことの神に出会ったとき、「あなたはどなたですか」と尋ねましたが、
そのとき主は、「わたしは、『わたしはある』という者である」と仰せられました。そして、
イエス様もまた同じことばをお使いになりました。このことを通して、イエス様はご自身
が「約束された救いの神、永遠から永遠に至るまでまことの神である」と言われたのです。
ラザロの姉であるマルタの信仰内容は、ある教義や教えではなく、ご自身を現わしてく
ださった主イエス様そのものでした。彼女は、この主に全幅の信頼を置くことができたの
で、元気になりました。マルタは、「わたしが生きるゆえにあなたがたも生きるべきである」
という主の御約束が真理であることを、体験的に知ることができたのです。
それまで迫害されてきたナザレ人イエス様が、復活なさった者として、タルソのサウロの生活の中にはいっておいでになったとき、サウロの条件反射は次のようなものでした。
「はい。主よ。私はあなたが約束された「主」であり、しかも、主の主であられることを信じます。あなたは偽り者ではなく真実なお方ですから、あなたに全幅の信頼を置きます。
主よ。あなたは私に何をするようにとお望みになっているのでしょうか」と。
パウロは、非常に早く、内面的、霊的に成長した人でした。主に用いられた器でした。
いったいどうしてでしょうか。パウロは、当時秀才が集まったガマリエルの門下生となり、当時の最高の教育を受けた者だったからでしょうか。決してそうではありません。
パウロは、イエス様を信じる者を迫害するために、ダマスコに向かって急いでいるその
道すがら、主の光に照らされ、回心して、数日の間ダマスコの兄弟たちとともに過ごしました。そのとき直ちに、「イエス・キリストは万民の救い主であり、すべての者の主である」と宣べ伝え始めたのです。
なぜ、パウロはそのように霊的に早く成長したかと言いますと、彼は回心のとき、「主よ。
あなたはどなたですか。主よ。私はどうしたらよいのでしょうか」と2回とも、イエス様を「主」とお呼びしました。パウロにとって、初めからイエス様は限りなく「主」でした。彼の満たされた、祝福された生活の秘訣とは、結局、「イエス様のご支配」でした。
使徒の働きを見ると、他の使徒たちも、イエス様を「救い主」として宣べ伝えたというよりも、イエス様を「主」として宣べ伝えたのです。なぜなら使徒たちは、主の永遠からのご計画は、イエス様がすべての者の「主」であるということを知っていたからです。
イエス様は、すべての者の「主」となられるために、「救い主」となられたのです。もし、全人類が悪魔の支配のもとにあるなら、イエス様は支配者となることがおできになりません。ですから、イエス様は十字架に架かり、全人類を悪魔の支配から解き放ち、救い出し、支配者となられました。
「イエス様はすべての者の主であられる」。これが、使徒たちの証しでした。
もしイエス様が「主」であられるなら、救い主でもあられるはずです。イエス様は、私たちの生活において、救い主であられるばかりでなく、「主」として崇められていなければいけません。私たちは、新しく生まれ変わっただけでは十分ではありません。霊的に育って、満たしに至らなければならないのです。
ですから、使徒たちは、イエス様を「主」として宣べ伝えたのであり、それが父なる神のみこころであると宣べ伝えたのです。イエス様のご支配は、イエス様の豊かな満たしに至る秘訣です。「元気のもと」そのものです。
私たちが、パウロやマルタと同じような態度を取るなら、必ず豊かな祝福を受けるに違いありません。マルタもパウロも、「はい。主よ。信じます」と告白したのです。
福音書の中で、ある盲人たちについていろいろなことが書かれています。この盲人たちは何と言ったかと言いますと、同じく、「はい。主よ」「はい。主よ。私たちはあなたの力を疑いません」という答えでした。
マタイの福音書 9章27節から30節
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イエスがそこを出て、道を通って行かれると、ふたりの盲人が大声で、「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください。」と叫びながらついて来た。
家にはいられると、その盲人たちはみもとにやって来た。イエスが「わたしにそんなことができると信じるのか。」と言われると、彼らは「そうです。主よ。」と言った。
そこで、イエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ。」と言われた。 すると、彼らの目があいた。 |
とあります。イエス様が盲人たちに、「あなたがたはわたしが奇蹟を行なう力を持っている
と信じるのか」とお尋ねになると、「はい。主よ。私たちは信じます。あなたの力を疑いません」と、彼らは答えたのです。
私たちもまた、解決することができないように思われる諸問題と困難を、目の当たりに
するとき、主は、「あなたがたは、わたしがそれらの問題を解決することができると信じますか」とお尋ねになるのです。
人間的に考えるなら、まったく解決不可能に思われることであっても、イエス様が本当に絶対的な主であられるなら、あらゆる問題が実際には解決されているのです。イエス様が「主」であられるゆえに、主はどのような困窮も解決してくださる力を持っておられます。
二人の盲人が、「はい。主よ。私たちはあなたの力を疑いません」と証ししたとき、その
ことによって私たちの主は、全権を持つことがお出来になる状態になっておられ、まったく自由な身となっておられるのです。すなわち、ご自身の力を現わすことがおできになられたのです。
私たちは自分たちの多くの家族が、あるいは親しい人々が、まだイエス様を信じていない現実を見ると、まったく望みのないような気持ちに襲われることがあるかもしれません。
けれどもそれにも関わらず、私たちが、盲人が取った態度すなわち、「はい。主よ。あなたの力を疑いません」という信頼の態度を取るなら、私たちもまた盲人たちと同じように、
主の奇蹟と力とを体験するようになります。
主イエス様にとって不可能なことはひとつもありません。イエス様に信頼する者は間違
いなく奇蹟を体験します。
マタイの福音書 13章51節
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「あなたがたは、これらのことがみなわかりましたか。」彼らは「はい。」とイエスに言った。
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弟子たちの告白は、「はい。主よ。私たちがあなたのみこころに服従する限り、あなたを
体験することができます」というものでした。つまり弟子たちは、イエス様の言われることは絶対的真理であるということを明らかにしています。
主のみことばである聖書が言っていることすべてを、私たちが理解することが大切なのではありません。イエス様の弟子たちでさえ、その当時、イエス様の例え話の霊的な真理については体験的に知ることができなかったのですけれど、それにも関わらず、彼らは、
「イエス様のみことばは絶対に正しく、疑問の余地は全くない」と証しをすることができたのです。
何年か前に私たちは、救いの必要性について知るように導かれ、そして、「イエス様こそ
私たちの罪のための贖いである」ということを、知ることができるようになりましたけれど、今から振り返ってみると、私たちはその当時はほんの少ししか理解することができなかったこと、そしてまたこんにちといえども、このすばらしい主イエス様の偉大さについてはほんの少ししか知っていないということを、認めざるを得ないのではないでしょうか。
その当時、私たちは、「人間のすることはすべて的外れである。そしてそれは罪の結果で
ある」と言われたことがらに対して、「はい。主よ。その通りです。良いものはひとつもありません」と認めて、単純に受け入れました。
それから、主のみことばがイエス様の贖いの卓越さ、完全さについて宣べている事がらを、
「はい。主よ。私は信じます。あなたに感謝します」と言って、信仰によって主のみこと
ばを受け入れる恵みにあずかるようになったのです。
そしてそれ以来、私たちは絶えず主によって、「あなたは、わたしがあなたに示すことを、
わたしのみこころとして受け入れる備えができていますか」と問われる者となりました。
私たちはみな、自分自身の考えを持っています。けれども、イエス様こそ私たちの唯一の
主であられるならば、私たちは主に従わなければなりません。そして、「主よ。いったい私は何をなすべきでしょうか」と、主のみこころだけを尋ね求めなければなりません。
イエス様は、私たちの考えを尋ねておられるのではなく、従順を要求しておられます。
そして約束もしておいでになります。
詩篇 32編8節
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わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。 |
と、詩篇の作者であるダビデは言ったのです。
最後にもう一箇所。
ヨハネの福音書 21章15節から17節
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彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」
イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」
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「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存知です」と、ペテロは証しすることができたのです。
イエス様は、ペテロの過去に犯した失敗に対して、少しの批判もなさいませんでした。
赦されているということは、主もお忘れになってくださったということなのです。「わたしは、あなたの罪を二度と思い出さない」と主は約束しておられます。
イエス様は、ペテロに、「これからは絶対失敗しないように約束してもらいたい」と彼に要求することをなさいませんでした。ただ、「わたしを愛しますか」、三度、「あなたは私を愛しますか」と主に尋ねられ、即座にペテロは、「はい。主よ」と答えました。
私たちは信仰の歩みの中でいろいろと要求され、しかもしばしば過剰に要求されていることも確かですが、主のための仕事を、主ご自身以上に大切だと思ってしまう危険にさらされているのではないでしょうか。その場合、イエス様は、もはや「主」となることがおできになりません。
私たちの主は、今日も、「はい、私はすべてにまさってあなたを愛します。あなたは、私
にとってすべてのすべてです」という告白を待っておられます。
最後にもう一箇所、読んで終わります。
コリント人への手紙・第二 1章8節から10節
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兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。 |
結局、彼らは、「私たちはもう信じています。信頼しています。頼っています」と思ったのです。けれど、まだでした。より頼む者となるために、彼らは理解しがたいことを経験しなければならなかったのです。
イエス様は、今からも間違いなく救い出してくださるお方であられますから、私たちは前向きに将来に向かうことができるのです。
私たちも、
マルタのように、「はい。主よ。私はあなたの啓示を信じます」
盲人たちのように、「はい。主よ。私たちはあなたの力を疑いません」
また弟子たちのように、「はい。主よ。私たちはあなたのみこころに服従します」
またペテロのように、「はい。主よ。私たちはあなたをすべてにまさって愛します」
と告白できれば、本当に幸いと思います。
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