人間をとる漁師にしてあげよう(12)
2005.1.18(火)
ベック兄メッセージ(メモ)
引用聖句
ローマ人への手紙 13章11節から14節
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あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。
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ヨナ書 1章6節
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船長が近づいて来て彼に言った。「いったいどうしたことか。寝込んだりして。起きて、あなたの神にお願いしなさい。あるいは、神が私たちに心を留めてくださって、私たちは滅びないですむかもしれない。」 |
ヨシュア記 7章10節
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主はヨシュアに仰せられた。「立て。あなたはどうしてそのようにひれ伏しているのか。」
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出エジプト記 14章15節
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主はモーセに仰せられた。「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え。」
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一昨日、ハガキをもらいました。一文章をちょっと読みます。「私は、なかなか悔い改めができなくて、聖霊を悲しませる弱い者です」。(もし、「自分は大丈夫だ」と思えば、大変です。)夜になって一日を振り返ってみると、結局、そのような祈りしかささげられないのではないでしょうか。けれども、主は、駄目な人間を用いようと望んでおいでになります。
今日も、「キリスト者に与えられている使命」について、考えたいと思います。副題名は珍しい題名かもしれませんが、『十二万以上の人間』です。これは聖書からとりました。
ご存知のように、昨年12月26日に、考えられないほどの大きな地震と津波によって、死者が、始めは何万人と言われたのですが、急に十万人以上ということになりました。今はおそらく十六万人になったでしょう。けれども、十二万と聞いた時、「あ、ヨナ書に書いてあるではないか」と思ったのです。
ヨナ書に、次のように書かれています。
ヨナ書 4章11節
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「まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」
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「十二万以上の人間」について、主は無関心ではなかったのです。
もし、みなに注意をされていたなら、大部分の人たちは助けられたに違いありません。けれども、注意をされても聞く耳を持たない人たちもいたのではないかと思います。津波が来ることについても、「そんなことはあり得ない」と思い、逃げなかった現代人たちも、必ずいたに違いありません。地震のあと、津波がタイまで押し迫って行くのに二時間かかったそうです。ですから、注意をしようと思えば、十分にできたのではないでしょうか。タイにいる兄弟姉妹はみな、安全だったのです。昨日、I兄弟が戻って来られて、お聞きしましたが、みなさんお元気だそうです。
私たちの最近のテーマは、『いかにして主イエス様のために、たましいを獲得することが
できるか』でした。そこで今日は、ヨナという預言者について考えたいと思います。
私たちの質問とは、「私たちの心の願いはいったい何でしょうか」。また、「主イエス様の
心の願いはいったい何でしょうか」。「私たちの心の願いとイエス様の願いとは、同じなの
でしょうか」ということです。
当時、主の願いとヨナの願いは、同じではなかったのです。
私たちにとって一番大切なことはいったい何でしょうか。自分の仕事でしょうか。自分
の興味でしょうか。自分の集まりでしょうか。自分の奉仕でしょうか。或いは、イエス様
をお喜ばせしたいという願いでしょうか。イエス様は、私たちを見て、本当に喜ぶことがおできになるのでしょうか。
イエス様のみこころにかなった生活をして、まことに、主だけをお喜ばせしようということこそが、最も大切です。
イエス様は何を欲っしておいでになるのでしょうか。イエス様の心からの願いは、いっ
たい何でしょうか。聖書の答えは、主イエス様はひとりも滅びることがないように願っておいでになるということです。よく知られている、ペテロ第二の手紙の3章9節に書かれています。
ペテロの手紙・第二 3章9節
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主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
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ですから、主の願いは、人間が救われることです。罪の赦しを得、永遠のいのちを持つ
ことです。そのために主なる神は、人間を救おうとされて、ご自分のすべてである最も愛されるお方、即ち、主イエス様をお与えになられたのです。
私たちの心の願いは、やはり人を救うことなのでしょうか。この目標を頭に入れていな
い者は用いられません。イエス様は、私たちが信じれば信じるほど多くのことを為してくださいます。私たちがイエス様にどれほど信頼しても、し過ぎるということはありません。「もし信じれば、神の栄光を見る」と約束されています。
一つのことがはっきりしています。私たちの不信仰のために、主は今までにあまり多く
のことを為すことがおできにならなかったのではないかということです。
私たちの心からの願いは、いったい何なのでしょうか。イエス様をもっとよく知りたい
のでしょうか。本当の祈り人になりたいのでしょうか。
そのための道は、私たちが人のたましいを獲得するために出かけるところにあるのです。もし私たちがそれをするなら、祈らざるを得なくなります。そうすれば、イエス様をよりよく知ることができるようになります。イエス様との生き生きとした結びつきを持って生活をしているキリスト者は、たましいの滅びゆく人たちに、イエス様への道を指し示す人にほかなりません。
さらに、私たちが人のたましいをすなどるということは、偉大な仕事であり、しかも、主ご自身が、人間にこの仕事をお赦しになられたということは、すばらしい特権ではないでしょうか。イエス様がペテロとアンデレに、ついて来るようにとおっしゃった時、彼らに言われました。「わたしについて来なさい。あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう」と。イエス様に従っている人は、それは取りも直さず、イエス様から人をすなどる者として召された人を意味しているのです。私たちは、この大切な事実を確信し、自覚しているのでしょうか。
聖書を見ると、驚くべきことばがよく出てくることに気が付きます。例えばイザヤ書の
55章の8節、9節です。よく引用される、絶えず覚えるべきことばです。信じる者、救いにあずかった者に、語られていることばです。
イザヤ書 55章8節、9節
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「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。−主の御告げ。−天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」
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この箇所は、私たち主イエス様を信じる者と主との間に、何の結びつきも存在しないと
いうことを明らかに示しています。私たち信じる者の思いは、常に主の思いと対立すると
いうことです。
確かに、多くの兄弟姉妹は喜んで証しをします。即ち、「私はそむきの罪を犯す者だった。
私は羊のように迷った者だった。私は自分勝手な道に向かう者だった」と、過去形を使い
ますが、今はどうでしょうか。
イザヤ書の43章24節の後半に書かれています。
イザヤ書 43章24節
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「あなたは…、あなたの罪で、わたしに苦労をさせ、あなたの不義で、わたしを煩わせただけだ。」
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過去だけではなく、今もそうではないでしょうか。
もう一つの驚くべきことばが、ヨハネ伝6章に書かれています。
ヨハネの福音書 6章63節
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「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。」 |
ということばです。「肉」とは、言うまでもなく、人間の知恵、人間の力、人間の努力です。
この箇所は、原典を見ると強調されていることがわかります。この訳では、そのところがあまりよく表わされていないように思われますが、原典に忠実な表現を使うなら、「肉は、決して、決して、何の益ももたらしません」というように表現できるでしょう。すべての思いや行ないというものは、まったく何の価値も持っていないということです。つまり、ことばを代えて言えば、「御霊の働きによらないものはすべて、肉から出ているものである」と言えるでしょう。すべて人間的なものはこの世的であり、ヤコブは、「悪魔的である」とまで言ったのです。
初めは御霊で始まったにも関わらず、肉によって完成されるという信者が少なくないの
ではないでしょうか。イスラエルの王であるサウロという王様は、肉によって完成された
信者の実例です。彼は、もう駄目だと思って、自殺をしてしまったのです。
ガラテヤ地方の信者たちも、同じような危機に陥る可能性が非常に強かったことがわか
ります。これは、パウロの痛みだったのです。ガラテヤ書3章3節を見ると、彼は当時の
兄弟姉妹に、次のように書いたのです。
ガラテヤ人への手紙 3章3節
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あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。 |
ですから、御霊で始まることだけが大切なのではなく、むしろ、「御霊によって歩むこと」
が、大切であることがわかります。
ガラテヤ人への手紙 5章16節
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私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。 |
ガラテヤ人への手紙 5章25節
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もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。 |
私たちが、主の光の中に私たちの生活を見ることができ、自分が盲目であることに驚き、
心からの悔い改めをすることによって、主の豊かな祝福にあずかることができるように、
切に求めたいものです。
何としばしば、私たちは主のみこころに反することをしているのではないでしょうか。自分の意見や思いが正しいと思えば、もうおしまいです。ですから、ハガキをくださった兄弟は言われたのです。「私はなかなか悔い改めができなくて、聖霊を悲しませている弱い者です」と。
かつて、イエス様は弟子たちに向かって言われました。「しばらく休みなさい」。これは、
主のはっきりとした命令でした。「休みなさい」。
当然のことですが、人が休むべき時間というものは確かにありますけれど、それと同時
に、主は弟子たちに対して、まったく違うみことばをかけておられたのです。「まだ眠って
休んでいるのか」と。その時は、眠ったり休んだりしている時ではなく、目を覚まして祈り続けなければならない時でした。イエス様のお考えと、弟子たちの考えとは違いました。
そして、ヨナという預言者についても、同じことが書かれています。このヨナは、深く眠っていたのです。けれども、その時は、眠るべきではなかったのです。
ヨシュア記 7章10節
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主はヨシュアに仰せられた。「立て。あなたはどうしてそのようにひれ伏しているのか。」
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ひれ伏すこととは、主を崇めることです。礼拝をすることです。このヨシュアは、地に
ひれ伏して主に祈り、主を崇拝したのです。けれどもその時は、主に祈るべき時ではなく、罪がきよめられなければならない時でした。ですから、主はヨシュアに、「立て」と仰せになりました。その時そこには、イスラエルの民の不従順、盗み、隠しごとがあったのです。そのようなものがあった場合には、もはや祈ることは意味がないのです。
私たちの場合は、いったいどうでしょうか。いかに多くの不従順を告白しなければなら
ないことでしょう。また、何と多くの盗みを犯したことでしょう。自分の名誉を人に誇りたがったり、自分が中心になりたがったり、人によく思われたがったりすることなどは、全部盗みであると聖書は言っています。なぜなら、すべての誉れとすべての栄光は、ただ主にのみ帰されるべきであるからです。
また、何と多くの隠しごと、偽り、偽善などを行なっていることでしょう。そうすると、「敬虔な形をしていても、その実を否定する者になる」と、パウロは書いたのです。
出エジプト記の14章15節を見ると、また次の箇所があります。
出エジプト記 14章15節
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主はモーセに仰せられた。「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え。」
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モーセは主に叫びました。心から祈ったのです。そして主はモーセに仰せられました。
「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか」。確かに、主に叫ぶべき時がありますが、この
時は叫ぶべき時ではなく、主は、全き従順を待ち望んでおられたのです。
今まで述べたことを通して、私たちは、自分の思いや自分の行ないが、いかに主のみ思いとみわざとから離れており、違っているものであるかということを、知ることができるのです。私たちは、祈るべき時に眠ってしまいます。罪を告白し、光の中に明らかにしなけれならない時に祈り始めます。また、主が私たちの従順を待っておいでになる時に、私たちは主に叫んでしまいます。そのような者なのではないでしょうか。結局、「なかなか悔い改めができなくて、聖霊を悲しませている者です」と。
これらの事実をつまびらかに知ることができたら、主がいかに忍耐をお持ちになり、大いなるみわざによって私たちを取り扱われ、決して見捨てることをなさらないことに気がつくはずです。主の恵みがなければ、確かにおしまいです。
私たちも、祈らなければならない時に眠ってしまったり、罪を告白して明らかにしなけ
ればならない時に祈り始めてしまったり、主に従順に従うべきである時に叫び出したりす
るなら、その時には、もはや主との交わりを持つことができないことを知らなければなり
ません。
これらの事がらは、私たちが主と結びつき得ないことの現われなのではないでしょうか。
その時には主との生ける交わりもなく、また、御霊による導きも存在していません。私たちが、罪を光の中にさらけ出し、それを主のみもとに偽らずにありのまま差し出すことをしなければ、祈ることも、主に呼ばわることも、何の価値もないのです。
私たちが、全く妥協せずに主に従うなら、必ず主は答えてくださいますが、そうでなけ
れば、主は決してお答えになりません。
もう一度ヨナ書に戻ります。
ヨナ書 4章11節
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「まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」
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昨年の津波で、確かに大勢の人間が死にましたが、死んだ動物がいたということは全く聞いていません。ドイツのニュースで、「死んだ動物はいない」と報告されたのです。人が死んだ海岸のすぐ近くには、大きな動物園があったのです。そのために多くの人たちが、あの島に観光に行っていたのですが、死んだ象も、死んだ虎も、死んだウサギもいなかったそうです。みな早めに逃げたからです。死んだ魚も、一匹もいなかったそうです。みな深いところまで逃げてしまったのです。付近にはいろいろな島があり、そこには原住民もいますが、この原住民たちの中で、死んだ人は一人もいませんでした。みな親や、おじいさん、おばあさんから教えてもらっていたのです。「鳥が変な鳴き声をする時は逃げなさい。高い所に逃げなさい」と。彼らはそれを覚えていて、逃げて助かったのです。その意味で、やはり動物は人間よりも…。(笑)
ニネベにいる家畜も、主にとってどうでもよかったことではなかったのです。ましてや、
主の愛の対象である人間の、死をまた滅びを、望む神は存在していません。主は、ニネべに住む十二万以上の人たちに対して、無関心ではあられなかったのです。ですから、預言者であるヨナは遣わされたのです。
彼がどうして信じ救われたかと言いますと、彼を通して滅びゆく人たちが導かれるべきだったからです。このヨナは、いわゆる預言者であり、主のしもべでした。「主よ。お話になってください。しもべは聞いております」。即ち、「しもべは従うつもりです。従いたいのです。あなたのみこころだけを行ないたいのです」。この心構えこそが、預言者たちの態度でした。
預言者たちは、自分でいろいろなこと考えたり、勉強したり、そして結果としてすべて
をまとめて話したのではありません。預言者たちは、主の口として用いられた器に過ぎま
せんでした。主はこのように語られ、これを宣べ伝えよと命令なさったので、彼らは主の
命令どおりに行なっただけなのです。単なる管のようなものに過ぎなかったのです。預言
者であるしもべたちにとって大切であったのは、自分で考えることではなく、従順に従う
ことでした。
確かに、預言者たちはみな、イスラエルのために遣わされたのです。けれど例外がありました。ヨナという預言者は、異邦人たちの救いのために、ニネベに遣わされました。
ヨナ書 1章1節から3節
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アミタイの子ヨナに次のような主のことばがあった。「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」しかしヨナは、主の御顔を避けてタルシシュへのがれようとし、立って、ヨッパに下った。彼は、タルシシュ行きの船を見つけ、船賃を払ってそれに乗り、主の御顔を避けて、みなといっしょにタルシシュへ行こうとした。
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この箇所を見ると、ヨナは非常に急いだのです。どうしてでしょうか。主の宮に行くた
めでしょうか。王様に呼ばれて急いだのでしょうか。あるいは、何か特別な使命を受けて
いたのでしょうか。決してそうではありません。彼は、「主の御顔を避けて、タルシシュへのがれようとした」と書いてあります。
いったいどうしてヨナは逃げようとしたのでしょうか。なぜ主のしもべであるヨナは、
主の御顔を避けようとしたのでしょうか。主から受けた使命が、彼にとって重過ぎて、大き過ぎて、また嫌ったために、それに耐えることができなかったのでしょうか。
主のしもべであるヨナは、主とは違った考えを持っていたのです。主が何を望まれ、何を為そうとしておられるかを思い測ることが出来なかったのです。
ヨナ書 1章1節
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アミタイの子ヨナに次のような主のことばがあった。 |
ヨナに、主のみことばが与えられたことがわかります。主のみことばは、一つの事実で
あり、行為であり、また出来事です。主がヨナに対して望んでおられることは、ヨナが行なうこと、ヨナとともに行なうこと、ヨナを通して行なうことでした。
ヨナ書 1章2節
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「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」
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と、主はヨナに命じられたのです。大きな町であるニネベは、わざわいでした。主はヨナを立たせて、この町に向かうことを望まれました。「主なる神の怒りが近づいている」と。
ヨナは、そのことを警告し、説教するように急ぐべきでした。主は、ニネベを戒めたく思われ、また注意することをも望んでおいでになりました。主は、大きな町であるニネベに対して、あわれみを持っておられたのです。
その時のヨナの態度とは、とんでもないものでした。近づいて来る神の怒りと滅びゆく
ニネべの町に対して、彼は全く知らん顔をしたのです。無関心でした。主がヨナに、「行け」と命令なさった時、彼は、「はい」と答えようとしなかったのです。彼のはっきりした態度は、「主よ。嫌です。行きたくありません。イスラエルの民のためだったら何でもします。けれど、異邦人のためには嫌です。行きません」。
主は、ご自分のしもべを用いたく思っておられたのですが、そのしもべは、そのことを
好みませんでした。「嫌です」。これが、神のしもべヨナの気持ちの表われでした。
その警告は、私たちにも向けられています。救いと赦しを与えようと望んでおられる主は、招いておいでになります。
「わたしのために行きなさい。あなたは、福音をまだ聞いたことのない人たちに宣べ伝えることを、勇気を出して行なうべきです。急げ。警告せよ。叫べ。そして、主の御名によって行け。主はあなたを用いようと望んでおいでになります」。
ヨナ書 1章3節
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しかしヨナは、主の御顔を避けてタルシシュへのがれようとし、立って、ヨッパに下った。
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主の御顔を避けて逃げることは危険です。創世記の4章16節に、次のように書かれて
います。
創世記 4章16節
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それで、カインは、主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みついた。
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カインは、主の前から去ってしまいました。ヨブ記に似ていることばが書かれています。
ヨブ記 1章12節
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主はサタンに仰せられた。「では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない。」そこで、サタンは主の前から出て行った。
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カインは、主の前から去って行きました。悪魔も、主の前から出て行ったのです。
けれど、それだけではなく、神のしもべであるヨナも、同じことをしてしまいました。「彼は、タルシシュ行きの船を見つけた」と書いてあります。それはヨナにとって、願ったりかなったりでした。「これは主の導きではないか」と。
主は、ヨナの逃避を本当に許しておられるのでしょうか。主はご自分のしもべの不従順に対して、それでよいとおっしゃるのでしょうか。
「彼は、タルシシュ行きの船を見つけ、船賃を払った」と書いてあります。無料ではなか
ったのです。この船賃は、もちろん高いものだったに違いありません。タルシシュまでの
距離は、ニネベまでの距離よりも三倍も遠くでしたから、船賃もニネベに行くよりは三倍
も高かったに違いありません。
このように主の御顔を避けると、多くの費用を費やさなければなりません。高い費用を
払うことは、決して金銭的な意味だけではありません。やすらぎ、平安、喜び、幸せなど、
多くのものをも犠牲にしなければならないのです。主の御顔を避ける時には、多くの費用
を払わなければならないことに、注意しなければなりません。
あるドイツの歌の内容に、次のようなものがあります。
♪「主は今日も招いておいでになります。心の備えをしなさい。主の招きを避けようと、
するのですか。主の御顔を避けようとするのでしょうか。失われた人たちのために犠牲を払おうとはしないでしょうか。もはや本当の喜びを持ちたいとは思わないのでしょうか。主なる神の命令に対して拒み続けるのでしょうか。主は今日も招いておいでになります。心の備えをしなさい」。
そして二節は、
♪「主はここにおられる。主に対して従順に、『はい』と言いなさい。主に自分のわがままな意思を明け渡しなさい。そうすれば、主はあなたの心を静め、主ご自身の平安で満たされるのです。自分の意思を行なう者は、決して神のみこころに安んじることはありません。主はここにおられ、あなたの心からの返事を待っておられます」
「ヨナは、主の御顔を避けてタルシシュへのがれようとし、立って、ヨッパに下った」と
書いてあります。「ヨナは船底に降りて行った」と、5節に書かれています。ヨナはヨッパ
に下り、船底に降りて行ったそれゆえに、ヨナがいつも下へ、下へと向かっていることが
わかります。
私たちの心の奥底を最も揺り動かすものは、いったい何なのでしょうか。切に主を大事
にし、主にだけ従いゆく心構えのできていない者は、たちどころに主から引き離されて、
下へ、下へと落ちて行くのです。もちろんそれは終わりではありません。
ヨナ書 1章4節、5節
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そのとき、主が大風を海に吹きつけたので、海に激しい暴風が起こり、船は難破しそうになった。水夫たちは恐れ、彼らはそれぞれ、自分の神に向かって叫び、船を軽くしようと船の積荷を海に投げ捨てた。
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突然、嵐がやって来て、激しい暴風が起こりました。暴風は主によって遣わされたもの
であり、逃げようとする神のしもべヨナを、捕えるためになされたものです。
水夫たちは非常に驚き、恐れました。彼らは大声で叫び、多くの者はひざまずきました。彼らは、船の積荷を海に投げ捨てました。「どうして私たちは滅びなければならないのでし
ょうか。いったいこの原因はどこにあるのでしょうか」と、異邦人たちは自分の神に尋ねました。「これは、はたして偶然に起こったのでしょうか。それとも運が悪かったのでしょうか。あるいは不幸な出来事に過ぎないのでしょうか。いったい誰のせいなのでしょう。私たちのせいなのでしょうか」と、彼らは口々に叫びましたが、神のしもべであるヨナは、天の神である主に尋ねようとしませんでした。
では私たちは、困難や病気、その他理解しがたいことが起こった場合に、主イエス様に「いったいなぜでしょうか」と、尋ねるでしょうか。
水夫たちは、「あの見知らぬ者はいったいどこにいるのか」と思って、ヨナを捜しました。
その時、彼は船底で横になり、ぐっすり寝込んでいました。神のしもべである預言者ヨナ
が、ぐっすり寝込んでいたのです。ヨナは使命を持っていたにも関わらず、寝込んでしま
いました。多くの人たちが危険な状態にある時でも、神のしもべであるヨナは眠っている
のです。上では暴風が荒れ狂っているというその時に、ヨナは、船底でぐっすり寝込んでいたのです。
ヨナ書 1章6節
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船長が近づいて来て彼に言った。「いったいどうしたことか。寝込んだりして。起きて、あなたの神にお願いしなさい。あるいは、神が私たちに心を留めてくださって、私たちは滅びないですむかもしれない。」 |
ヨナは、聞かず、気が付かず、何も知らなかったのです。当然です。眠っている者は、
聞くこともできないし、見ることもできないし、知りたいとも思いません。ヨナは、主の
御声を聞こうとはしませんでした。また、悩み、苦しんでいる人たちに目を留めようとも
しなかったのです。なぜなら、彼は、「主の御顔を避けて逃げた」からです。
私たちはいったいどうでしょうか。私たちも主から逃避しているのでしょうか。ヨナと
同じように眠っているのでしょうか。苦しみ、悩み、困っている状態の中で、主の御顔を見、主の御声を聞きたいと思わないのでしょうか。
ヨナ書 1章6節、7節
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船長が近づいて来て彼に言った。「いったいどうしたことか。寝込んだりして。起きて、あなたの神にお願いしなさい。あるいは、神が私たちに心を留めてくださって、私たちは滅びないですむかもしれない。」みなは互いに言った。「さあ、くじを引いて、だれのせいで、このわざわいが私たちに降りかかったかを知ろう。」彼らがくじを引くと、そのくじはヨナに当たった。
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すべてはヨナのせいでした。水夫たちには何の責任もなかったのでしょうか。水夫たち
も同じく罪人ではなかったのでしょうか。水夫たちはヨナよりも罪が軽かったでしょうか。
しかしヨナは、主を知っていた人でした。主に遣わされた預言者でした。主のしもべでした。それにも関わらず、彼は主の御顔を避けて逃げてしまいました。ですから、ここに不幸が起こったのです。
水夫たちは、「告白せよ。言いなさい。いったいどういうことか」などと、口々にヨナに
言いました。これは、ヨナの逃避の終わりでした。主から遣わされた嵐は、ヨナを捕まえました。異邦人たちは、ヨナに告白を迫りました。ヨナは、それ以上逃げることができなくなってしまったのです。しかし、逃避は主の御手の中で終わりました。これこそ、恵みではないでしょうか。いかなる者も、主から逃げ切ることはできません。
主は、開かれた口によって、ヨナを明るみに出されました。
主は、女中の指さしによって、ペテロを明るみに出されました。
主は、ナタンという預言者を通して、ダビデを明るみに出されました。
主は、天の光を通して、ダマスコに向かうサウロを明るみに出されました。
私たちも、もうすでに明るみに出された経験があるでしょうか。今日、明るみに出されることを望んでいるでしょうか。私たちは、主によって見つけ出され、明るみに出されることを望むでしょうか。隠さず、告白しようではありませんか。
いったいヨナは、何を告白したでしょうか。「私は、神によって特別に選ばれた民に属する者です。私は、すべてを造られた栄光の主に出会ったのです。私は、海と陸を造られた天の神、主を礼拝しています。私は、滅びゆく人たちに対して、さばきが臨む前に警告するようにと召された者です。しかし私は、神に対して不従順であり、主の御顔を避けてのがれようとしました」。
ヨナは自分を言い繕うことをせず、すべてが自分のせいであることを率直に認めました。ヨナは、主に対し、真理に対して、債務を負っていることを認めました。ヨナは、自分が死に値する債務を負っており、死の判決を受け、海の中に投げ込まれることを良しとしただけではなく、そのことを願ったのです。
「罪の支払う報酬は死です」。しかし、主は語っておいでになります。「わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。彼がその態度を悔い改めて生きることを喜ばないだろうか」と。
ヨナは、いかに悔い改めて、生きるべきだったのでしょうか。ヨナがいかに悔い改めるかについては、ヨナ書2章1節から10節までを見るとよくわかります。時間が足りないので、今は読みませんが、あとでゆっくりお読みになってください。
ヨナは、結局、何を経験したのでしょうか。ヨナは、死の谷を通って来ました。主は、彼から多くのものを取り去られ、多くのものをお与えになりました。
ヨナはいったい何を取り去られたのでしょうか。ヨナのわがままな意思、主に対する反抗、盲目さ、自分の力と自信とを取り去られました。
そして主は、彼に、何を残しておかれたのでしょうか。「彼の召命と使命」、それにほかなりません。
それでは、いったい何が与えられたのでしょうか。彼は主の光によって、自分の本当の
姿を見ることができ、完全な赦しと恵みにあずかることができたのです。どうしても主に
従いたいという意思も与えられ、そのために使命を果たす力も与えられたのです。
ヨナは、船から海へ投げ込まれ、それによって多くのものを得ることができました。
私たちも、ヨナと同じように、自分のわがままな意思、主に対する反抗、盲目さ、自分の力と自信とを投げ込もうではありませんか。
新しく変えられたヨナは、陸地に上がることが赦されました。まったく変えられたヨナ
は、主のみことばを聞きました。
ヨナ書 3章1節、2節
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再びヨナに次のような主のことばがあった。「立って、あの大きな町ニネベに行き、わたしがあなたに告げることばを伝えよ。」
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主のみことばは、今度はヨナによって応えられました。ヨナは主に従い、ニネベに行っ
たのです。ニネベは非常に大きな町でした。そこには十二万人以上の人たちが住んでおり
ました。「もう四十日すると、全員滅ぼされるぞ」と、ヨナは叫びました。主はニネベに対して無関心ではあられなかったのです。主は、十二万人以上のニネベの住民をあわれまれました。
ニネベは、取りも直さずこの世の象徴です。この世は非常に大きなものです。何百万人
という救われていない人たちが、この世に生活しています。主は、この世を愛しておいでになります。
ヨハネの福音書 3章16節
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神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
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主なる神は、そのために御子を死に渡されました。イエス様は、何百万という人の罪の
報いを受けてくださいました。
テモテへの手紙・第二 1章10節
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キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。
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とあります。また、
ローマ人への手紙 6章23節
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罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
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ヨナは、滅びゆくたましいに対する主の大いなる愛を知り、一日中歩き回って、恐れる
ことなく、主のことばを宣べ伝えました。ヨナは町中を歩いて、大いなる悪がはびこって
いるのを見、主のさばきのことばを宣べ伝えました。
なぜ、ヨナは人間を恐れなかったのでしょうか。ヨナは、死の谷を通って来たからです。
ヨナは、自分自身を捨てたからです。ヨナはまったく妥協せずに、主に従ったからです。
そのようなしもべを、主は用いたく思っておいでになるのです。
そのようなしもべを、主は求めておいでになるのです。
そのようなしもべを、主は多くの訓練を通して教育されるのです。
死の谷を通って来た者、また、自分自身を捨てた者を、こんにち主は必要としておいでになるのです。
ヨナは、さばきと恵みを宣べ伝えました。「もう四十日すると滅ぼされる」という、ヨナ
によって伝えられたみことばのうち、「滅ぼされる」ということは、確かに、さばきを意味
しています。けれど、「もう四十日すると」ということばは、恵みを意味しています。なぜ
なら、四十日の間に、罪を悔い改めることができるからです。
今も、恵みの時です。今日、自分の罪を明るみに出し、赦しを受ける者は救われます。けれど、恵みの時は限られています。「恵みを受けなさい」。これこそ、喜びの訪れ、即ち、福音なのです。
ニネベでは、何が起こったのでしょうか。ヨナはあざ笑われ、あざけられ、追い出され、
殺されたのでしょうか。そうではありません。3章5節を見るとわかります。
ヨナ書 3章5節から9節
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そこで、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで荒布を着た。このことがニネベの王の耳にはいると、彼は王座から立って、王服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中にすわった。王と大臣たちの命令によって、次のような布告がニネベに出された。「人も、獣も、牛も、羊もみな、何も味わってはならない。草をはんだり、水を飲んだりしてはならない。人も、家畜も、荒布を身にまとい、ひたすら神にお願いし、おのおの悪の道と、暴虐な行ないとを悔い改めよ。もしかすると、神が思い直してあわれみ、その燃える怒りをおさめ、私たちは滅びないですむかもしれない。」
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結局、ニネベの人たちは悔い改めました。ニネベには何が起こったのでしょう。ニネベはついに悔い改めました。恵みの神に呼ばわりました。ニネベは立ち返りました。さばきに陥ることがなく、恵みにあずかるようになりました。
主は、一人でも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおいで
になるのです。
テモテ第一の手紙の2章を見ても、同じことが書かれています。
テモテへの手紙・第一 2章4節から6節
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神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。
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私たちは、本当に主が願っておられること、望んでおられることを理解しているのでし
ょうか。主は、愛と救いを提供したく思っておいでになります。主は、自分自身を捨て、
主の愛によって救いを得させるしもべを求めておいでになります。
ニネベは、私たちひとりひとりを必要とします。この世は滅びに向かって進んでいます。ニネベは、例えば、ある場合にはあなたの家庭であり、また、ある場合にはあなたの職場でありましょう。主についてのはっきりとした証しを公にすることは、恥ではありません。
ローマ人への手紙 1章16節
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私は福音を恥とは思いません。 |
「福音」の代わりに、「主イエス」と考えるべきではないでしょうか。
ヨナの最後を読むと、ちょっと悲しくなります。人間とはまったく自分勝手な者である
こともよくわかります。ヨナは、仕方がなくて主に従うようになりました。そして奇蹟が
起こったのです。しかし、それこそをヨナは望んでいなかったのです。ニネベの人たちが、
みな悔い改めないで、みな例外なく滅ぶようになったなら、彼はかえって喜んだのです。
ヨナ書 3章10節から4章1節
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神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になった。それで、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった。ところが、このことはヨナを非常に不愉快にさせた。ヨナは怒って、…
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と書いてあります。4章1節から11節までを読むとわかります。けれども主は、
ヨナ書 4章11節
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「まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」
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と。
初めに読みましたローマ書13章は、本当に絶えず覚えるべきです。
ローマ人への手紙 13章11節
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あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。
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主の再臨は近いのです。
イザヤ書 6章8節
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私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」
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と、イザヤは言ったのです。
主に仕えようと思えば、自分自身を犠牲にしなければなりません。自己否定のない奉仕は、自己満足であり、まったく虚しい、役に立たない努力です。
確かに多くの人たちは、「主に仕えたい」と言いますが、従おうとしません。結局、自分自身を大切にするのではないでしょうか。「自分の思いを捨てたくない。自分の思っていることは正しい」と信じているからです。「自分の思いこそがみこころだ」と主張する人も
います。
誰も反対することがないために、「みことばが与えられた」と言う人もいますが、前に言いましたように、みこころだけを行なおうという意思、また切なる願いがなければ、いくらみことばが与えられたと言っても、何にもなりません。
「みことばを行なおう、みこころを行なおう」と思えば、わかるようになります。即ち、
「その人は導かれるようになり、用いられるようになる」と、イエス様は約束してくださったのです。
イザヤのように、「ここに、私がおります。私を遣わしてください」という願いを、持つことができれば、本当に感謝です。
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