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メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


人間をとる漁師にしてあげよう(13)
   
2005.1.25(火)
ベック兄メッセージ(メモ)

 
引用聖句
ローマ人への手紙 13章11節
 あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。

イザヤ書 6章8節

 私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」

使徒の働き 9章36節から42節

 ヨッパにタビタ(ギリシヤ語に訳せば、ドルカス)という女の弟子がいた。この女は、多くの良いわざと施しをしていた。ところが、そのころ彼女は病気になって死に、人々はその遺体を洗って、屋上の間に置いた。ルダはヨッパに近かったので、弟子たちは、ペテロがそこにいると聞いて、人をふたり彼のところへ送って、「すぐに来てください。」と頼んだ。そこでペテロは立って、いっしょに出かけた。ペテロが到着すると、彼らは屋上の間に案内した。やもめたちはみな泣きながら、彼のそばに来て、ドルカスがいっしょにいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せるのであった。ペテロはみなの者を外に出し、ひざまずいて祈った。そしてその遺体のほうを向いて、「タビタ。起きなさい。」と言った。すると彼女は目をあけ、ペテロを見て起き上がった。そこで、ペテロは手を貸して彼女を立たせた。そして聖徒たちとやもめたちとを呼んで、生きている彼女を見せた。このことがヨッパ中に知れ渡り、多くの人々が主を信じた。


 先日、J姉妹のお見舞いに行きました。姉妹は、非常に弱られて目も開けられないし、あまり話すこともできなかったのですが、「早く行きたい」という気持ちでいっぱいでした。四人の子どもたちを残すことは、やはり大変だと思います。一番下の坊やは私が行った前の日が、八歳の誕生日だったのです。ですから、母親にとっては、心の戦いだったことが想像されます。けれど、人間は病気のために死にません。主の決められた時にならないと…。そして、彼女も、ご主人であるU兄弟もやはり、「主の決められた時が必ず最善である」と確信することができたのは、本当に感謝です。
 この死を通しても主は働くことがおできになり、葬儀は、今日(火曜日)の午後にしたかったのですが、やはりJ姉妹の大ぜいのお友だちみんなに連絡し、みなさんに来ていただいて福音を聞いてほしいので、明後日の木曜日になったのです。
 私たちはどうして救われたのでしょうか。主に仕えるため、主に用いられるためにです。二千六百年前に、イザヤは告白したのです。
イザヤ書 12章2節

 見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。

「みなさん見てください! 主は私のために救いとなられました」。
「救い」とは、人間の考えている、幸せ、あらゆる問題の解決よりも、もっとすばらしいものです。「救い主を持つこと」なのです。

 今、司会の兄弟がお読まれた箇所は、当時大切だったでしょう。そうでなければ書かなかったはずですが、こんにち私たちのために、もっともっと大切なのではないでしょうか。
ローマ人への手紙 13章11節

 あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。

 先日、「眠っているヨナ」について考えました。彼は預言者であり、神のしもべであったはずでしたが、「もう何も聞きたくない。嫌です」と寝込んでしまったのです。
ローマ人への手紙 13章11節

 あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。

「救い」とは、「救い主」です。「近いうちに来られる、花婿であるイエス様」です。
 
主は、昔と同じように、「だれを遣わそう」と願っておいでになります。「だれが行くの
であろう。だれがわたしを紹介するのでしょう」と。
 当時、イザヤは、主の声を聞いたとき言いました。
イザヤ書 6章8節

「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」

 主に仕えようと思えば、自分自身を犠牲にしなければなりません。自己否定のない奉仕は、自己満足にすぎません。それは、まったくむなしい、役に立たない努力です。
「自分の思いを捨てたくない。自分の思っていることは正しい」と信じている人は、決して用いられません。「自分の思いこそが、みこころだ」と主張する人も、かわいそうなのではないでしょうか。
 イエス様は、「みこころを行なおうと思えば、わかる」と言われました。即ち、その人が用いられるようになり、祝福されるようになります。イエス様の絶えざる呼びかけとは、
「おいで。わたしのところに来なさい」だけではなく、「わたしについて来なさい」です。
「どうして?」。「あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。

 先ほど読みましたタビタという女性は、主を信じただけではありません。強調されているのは、彼女は女の弟子でした。そしてその結果は、使徒行伝9章42節に書かれているとおり、「多くの人々が主を信じた」と。彼女は、救われていただけではなく、主の弟子であったに違いありません。もちろん、このタビタという女性については、先ほど読んでいただきました箇所しかないのです。ですから、私たちは彼女について多くのことを知ることができません。彼女は、ヨッパという所に住んでいました。ヨッパという町は、地中海の近くにある町でした。けれども、彼女の生い立ちについて、また彼女の年齢について、家族の状況について、何も書いていないので、結局、何もわかりません。彼女の口から出たことばは、一言も記されていません。
 けれど、私たちが知り得ることで一番大切なことは、とにかく、彼女は神の子であり、それだけではなく、主イエス様の女弟子であったことです。彼女はイエス様に従っていた人でした。このことは、その当時非常に大切だっただけではなく、こんにちも非常に大切です。すなわち、私たちひとりひとりが、「イエス様を体験的に知り、従っていこう」と願うことです。

イエス様を持っている者はすべてを持っており、イエス様を持っていない者は何も持っていません。
数年前のことでしたが、ドイツでだれでも知っている大会社の社長の息子のことです。彼は、欲しいと思う物は全部買ってもらえたのです。「お父さん、ちょっと新しいスポーツカーが欲しい」。「ああ、いいよ」。恵まれた男でした。けれども彼は、「人生は無意味である」という意味の遺書を残して自殺してしまったのです。このように、イエス様がともにいらしゃらなければ、人生は本当に意味のないものです。

 いったい何が人間に欠けているのでしょうか。そして、何が人間を満たしてくれるので
しょうか。それは決して、お金でも、健康でも、立派な教養でも、名誉でも、力でもあり
ません。それらのものは、せいぜい生きている間、わずかな期間だけに通用するものかもしれません。実際は、永遠なるものが一番大切なのではないでしょうか。

 ただイエス様だけが、私たちの人生を意味あらしめ、価値あらしめるのです。これこそ
このタビタの経験でした。すべて目に見える外面的なこの世のものは、決して彼女の飢え渇きを満たさなかったのです。
 どういうわけか、彼女は重荷を感じていました。心の平安が彼女には欠けていたのです。
けれど、ある時ヨッパで、彼女は、今まで聞いたことのない素晴らしい福音に接することができたのです。おそらく、ペテロが彼女に福音を宣べ伝えたのでしょう。その時彼女は、
生まれて初めてイエス様のことについて、即ち、処女降誕や、数えきれないほどの癒しの奇蹟、罪なき方の苦しみと死、さらに復活と昇天について聞いたのです。
このイエス様に、タビタは完全な信頼を置いたのです。彼女は、「イエス様こそこの世の救い主であり、私のために犠牲になられたお方である」と信じました。このような霊的な体験をしたことのしるしとして、彼女は洗礼を受けたのです。
彼女は洗礼を受けた時、次のように告白したことでしょう。「今まで、私の人生には、目的も望みも本当の喜びもありませんでした。けれど、イエス様が、私の債務を支払ってくださり、罪を赦してくださったために、まったく新しいいのちが与えられました」。
 まったく新しい喜びと平安とが彼女の心を満たし、彼女は、イエス様を心の底から敬愛
したのです。イエス様のことが大好きになったのです。タビタと同じように、イエス様に
対して心の扉を開く者は本当に幸いです。

 私たちの人生にとって、いったい何が必要なのでしょうか。
 一番大切なことは、私たちも、タビタのように神の子となることです。そのために何が
必要なのでしょうか。
 第一に、自分が救われなければならないという必要性を感じることです。
 第二に、人間的な努力はむなしいということを知ることです。

 即ち、自分も、他人も、決して自分自身を救うことはできないということです。すべて
人間的な努力は、見込みなく望みなきものです。
聖書が言っている「救い」とは、「罪の問題の解決」です。「罪のゆえに聖なる神の怒りのもとにある人間は、主との平和を持ち、債務が支払われ、罪は赦され、永遠のいのちを持つ」と聖書は言っています。
けれど、これは人間が努力しても、上からの光が与えられなければ得られません。言うまでもなく、宗教によっても得られません。イエス様だけが、与えることがおできになるのです。なぜなら、イエス様は罪に対する聖なる神のさばきの的になられ、ご自分の聖い、尊い血によって債務を支払われ、罪を赦してくださったのです。
この真理の事実を心で受け入れ信じる者は、主なる神ご自身の平和、罪の赦し、永遠のいのちを持つことができるのです。これこそ、ヨッパにいるタビタの経験でした。「すべての人間は、自分の力によって罪滅ぼしをすることはできない。どうしてもイエス様が必要である」と彼女は知るようになりました。そして、「主よ。私は今、罪人としてあなたのみもとに参ります。あなたが私を贖ってくださったことを心から感謝します」と祈るようになったに違いありません。このようにイエス様に向かって言うことのできる人は幸いです。
 
タビタのように、神の子となるためには、結局、二つのことが必要です。
 1.「主の言われること」を、認めること。
 2.「イエス様」を、受け入れることです。

1.「主の言われること」とは、いったい何でしょうか。主は何を言っておられるのでしょうか。
 主は、「絶対に癒されない罪の病、それはまったく改善の望みがない」と言っておられます。けれど、イエス様は私たちの身代わりになってくださったのです。そして、イエス様が成し遂げてくださった、「十字架上での身代わりの死」は十分です。

2.「イエス様」を受け入れることです。
 黙示録の22章17節を見ると、次のように書かれています。
ヨハネの黙示録 22章17節後半

 いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。

 言うまでもなく、ここで「いのちの水」の代わりに、「永遠のいのち」、「罪の赦し」、「神
との平和」と、言い換えてもよいでしょう。「いのちの水」とは、結局、「イエス様による救いの贈り物」です。
 ここに、「ほしい者は、受けるがよい」と記されていますが、本当に欲しがっているかど
うかが問題です。欲すれば、それを受けるようになるに違いありません。けれども、欲しいと思わなければ、将来は真っ暗やみです。イエス様は、決して強制するようなことはなさいません。ですから、欲しければ与えられます。欲しくなければ結構です。
 受ける者は、もちろん持つのです。即ち、その人は神との平和を、罪の赦しを、神の子
とされた喜びを持ち、永遠のいのちを持つようになります。
 
けれど、先ほど話しましたように、このタビタという女性は神の子になっただけではありません。主イエス様の弟子でした。タビタはイエス様の弟子として、イエス様に忠実に従いました。
 そこで、彼女から、次のような問いかけがイエス様に向かってあったことでしょう。
「イエス様。あなた様は私のために死んでくださり、尊い代価を払って私を買い取ってく
ださいました。そのようにして救われた私は、あなたのためにいったい何をすればよいの
でしょうか」と…。
 彼女の目は、その時突然、苦しんでいるやもめたちの姿を発見し、彼女たちにイエス様
のことを宣べ伝えることこそ、自分の人生に与えられた使命であることに気がついたので
す。彼女は、やもめたちのために自分の財産を売っていろいろな物を買い与え、布で服を縫ったりして、イエス様に仕えたのです。マタイ伝に次のように書かれています。
マタイの福音書 25章40節

『あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

 つまり、彼女の願いは、やもめたちから感謝されることではなく、イエス様に仕えるこ
とでした。「イエス様のために生きたい」と願うことは、彼女の人生の目的でした。「彼女
は、数々の良い働きや施しをしていた」と書いてありますが、タビタは愛に満ち、他人のために、正しく言えば、「イエス様のために」、自分を無にした人でした。

 けれどある時、病気になって彼女は死にました。集まった人たちは、彼女のために涙を
流し、いつまでも泣いていました。それはタビタが物質的にいろいろと助けてくれたからではなく、自分たちを一番理解し、愛してくれたからです。だれでも悩みや苦しみのある者は、タビタのところへ行ってすべてを打ち明けると、彼女はそれをよく理解してくれたのです。タビタは心から人々を愛し、いつも彼らのために配慮をしたのです。疑いもなく、彼女は彼らにイエス様のことを話し、それによって多くの人たちが新しく造り変えられたのです。イエス様こそ、彼女の賛美にほかなりませんでした。
 しかし今や、彼女は、死んで静かに横たわっているのです。そのため人々は、気が転倒
してしまい、どうしてよいかわからなくなってしまったのです。
 けれども、その時突然、尊敬すべき人が現われたのです。それこそほかならぬペテロで
した。やもめたちはみな、ペテロのそばに寄って来て、タビタが生前作ったものを泣きな
がら見せたのです。なぜタビタが死んだのか、彼女たちはその訳がわかりませんでした。
ペテロはみなに、「外に出てほしい」と頼みました。彼の心は、非常に感動していたのです。彼は、主のみこころは何であるか、はっきりと知りたく思いました。
 
突然、彼は、イエス様と一緒に経験したことを思い出したことでしょう。それは、カペナウムという町で起こったことでした。十二歳の少女が死んで、すべての者が大声で泣き叫びました。その時イエス様は、「泣くことはない。彼女は眠っているだけです」と言われました。そして、イエス様は彼女の手を取って抱き起こし、「娘よ。起きなさい」と言われました。すると少女は起き上がったのです。弟子たちにとっても、ペテロにとっても忘れられないことでした。
 それから、またほかのこともペテロは思い出したでしょう。それは、イエス様と一緒に
ナインにいたときのことでした。葬式の行列が通ると、イエス様は、死んだやもめの息子
をよみがえらせなさいました。これも、ペテロたちに忘れられないことだったでしょう。
 それから最後に、ベタニヤでのことも思い出したでしょう。その時は、ラザロが死んで葬られてから四日も経っていたのです。イエス様は、死んだラザロのしかばねに向かって、「ラザロよ。出て来なさい」と言われました。すると、そのとおりラザロは出て来たのです。

 このような事実を思い出したペテロは、イエス様はここでも奇蹟を行なうことを望んで
おいでになることと確信したのです。そこで、ひざまずいて祈り、それから死体のほうに
向いて、「タビタよ。起きなさい」とおっしゃいました。すると、彼女は目をあけて、起き上がりました。それからペテロは、聖徒たちを呼び入れました。驚きと、崇拝と、賛美と、感謝が人々の心をとらえました。
 そして、このことはすぐヨッパ中に知れ渡りました。多くの人たちが、タビタのところ
にやって来ました。「ペテロが宣べ伝えたイエス、そしてタビタが信じたイエスが、本当に
死人をよみがえらせられたお方であるなら、聖書に預言されたメシヤに違いない」と考え、
多くの人たちが主イエス様を信じました。
 
ここで、一つのことがはっきりしています。即ち、タビタが、ただ単に神の子どもであ
ることに満足して、イエス様に忠実なしもべ、また弟子でなかったなら、彼女に愛された
多くの人たちが彼女のために泣き悲しんだり、ペテロを呼びに行ったりするようなことは
決してなかったでしょう。もし、彼女が生きている間、自分のことばかりを考え、お化粧することに夢中になったり、隣近所に出かけて人の悪口ばかり言ったりしたなら、彼女が
死んだとき、多くの人が彼女のために泣き、悲しむようなことはなく、簡単に葬り去られ、
すぐに忘れられてしまったことでしょう。

 こんにち、多くの問題は、「イエス様を信じる者は決して少なくないが、主の弟子は少ない」ということなのではないでしょうか。多くの人はイエス様を信じますが、その人たちの信仰生活は、必ずしも主イエス様を証しすることではなく、かえって恥となるようなことがあるのではないでしょうか。

 主の弟子とは、何を意味するのでしょうか。イエス様の望んでおいでになることを行な
うことです。イエス様の弟子の特徴は、「主に従うこと」です。

マタイ伝に、次のような厳しいことばが出ているのです。ちょっとお読みいたします。
マタイの福音書 7章21節から23節

「わたしに向かって、『主よ。主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟を沢山行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。』」

 ですから、実際に主に従う者こそ、イエス様の弟子です。イエス様に従うということは、
主イエス様の徹底的な支配を受けることです。そして、イエス様の弟子は、絶えず、「主よ。
あなたは今何を望んでおいでになるのでしょうか」とイエス様に問うべきです。
 
新約聖書でイエス様が、「わたしについて来なさい」と招かれたとき、それは、「わたしの弟子となりなさい」という呼びかけでした。マタイ伝を見ると、次のように書かれています。
マタイの福音書 4章19節、20節

「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」彼らはすぐに網を捨てて従った。

マルコの福音書 2章14節

「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって従った。

もう一箇所、
ルカの福音書 5章27節、28節

「わたしについて来なさい。」と言われた。するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。

とあります。外面的には、イエス様に従って行くことは、今まで自分の生活の領域の中に
あった物や人を捨てることを意味しました。
マタイの福音書 19章21節

「あなたの持ち物を売り払って…わたしについて来なさい。」

 

とイエス様は言われたことがあります。

 また、マルコ伝の中に、弟子たちの態度について書かれています。
・アンデレとペテロは、
マルコの福音書 1章18節

 すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。

・ヤコブとヨハネは、
マルコの福音書 1章20節

 イエスがお呼びになった。すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスについて行った。

とあります。
・また、マタイ、昔のレビについて、同じことが書いてあります。
ルカの福音書 5章28節

 レビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。


 こんにちのイエス様の弟子も、当時と同じように、すべてを捨ててイエス様に従う決意
を常に持っていなければなりません。少なくとも内面的には、そのような態度がどうして
も必要です。
 未信者の家族親戚は、私たちとは別の世界に住んでいます。ですからそこには、越えがたい断絶があります。「どうして? なぜ?」と彼らが考えたとしても、もちろん理解することはできません。したがって、みこころならば、全国を巡り歩いて、或いは、外国へまでも出かけて、イエス様を宣べ伝えるように示される場合もあります。そのようなことが実際に示されるかどうかは別としても、少なくともそのような心の備えが必要です。

イエス様の時代には、多くの人たちがイエス様に従いました。
マタイの福音書 4章25節

 大ぜいの群衆がイエスにつき従った。

マルコ伝にも同じことが書いてあります。
マルコの福音書 3章7節

 大ぜいの人々がついて行った。

マルコの福音書 5章24節

 多くの群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。

とあります。
 イエス様は、これらの群衆に対して、多くのみわざと奇蹟とを行なわれました。しかし
彼らは、本当にイエス様に従っていく心の備えが、まだ十分にはできていませんでした。
数節読むとわかります。
ルカの福音書 9章57節から62節

 さて、彼らが道を進んで行くと、ある人がイエスに言った。「私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます。」すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」イエスは別の人に、こう言われた。「わたしについて来なさい。」しかしその人は言った。「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」すると彼に言われた。「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」別の人はこう言った。「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」

 非常に厳しい話です。結果はどうだったでしょうか。ヨハネ伝の6章60節を見ると、次のように書かれています。先ほど読んだ箇所の中で、「おびただしい群衆がついて行った」とありますけれども、急に変わりました。
ヨハネの福音書 6章60節

 弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」

「弟子たちのうちの多くの者」とは、大部分だったでしょう。
ヨハネの福音書 6章66節

 弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。

 これらの人たちは、聞くことだけで、行なうことをしませんでした。従順でない弟子は必要とされません。自分の思いを捨てて、主のみこころだけを大切にすることが、どうしても必要です。ですから、イエス様の取られた態度について、絶えず考えるべきではないでしょうか。
マタイの福音書 26章39節

 それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」

マタイの福音書 26章42節

 イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」

 イエス様が、ご自分に従うことの重大さを、弟子たちに繰り返し言われたことは間違い
ありません。例えばルカ伝の14章、これも確かに厳しいことばです。もちろん主イエス
様の厳しさとは、愛の表われに過ぎなかったのです。主は、「祝福したい、用いよう」と望んでおいでになるからです。
ルカの福音書 14章25節から33節

 さて、大ぜいの群衆が、イエスといっしょに歩いていたが、イエスは彼らのほうに向いて言われた。「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった。』と言うでしょう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。」

 これは、救われる条件ではありません。用いられる条件です。

 弟子としてイエス様に従うことは、徹底的な献身を意味し、あらゆる人間的な絆からの分離を意味するのです。マタイ伝10章の中に、似ている箇所があります。
マタイの福音書 10章34節から38節

「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」

「わたしよりも」、これはアンダーラインをすべきです。

 また、マルコ伝の8章の中で、福音書一つ一つを見ても同じことが強調されています。
神の子になることは、少なくとも主にとって十分ではありません。主は、弟子を求めて
おいでになります。「わたしはあなたがたを、人間をとる漁師にしよう」。
マルコの福音書 8章34節から38節

 それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。」

「わたしについて来たいと思うなら」です。ついて来たくなければ、結構です。
 主イエス様に従うことは、毎日自分の意思と自分の思いとを、主に明け渡すことです。
「私の思いではなく、どうかみこころだけがなるように」。

ヨハネ伝の10章を見ても次のように書かれています。
ヨハネの福音書 10章4節

「彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。」

ヨハネの福音書 10章27節

「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。」

「わたしの羊はわたしについて来る」。事実として、イエス様はこのように言われたのです。
イエス様の声に聞き従わない者は、イエス様の弟子ではありません。イエス様の声に聞き従う者は、決して道に迷うことがありません。けれど、イエス様の声に聞き従わない者は、闇の中をさ迷うのです。そして、いつも波のように揺れ動いて定まりがないのです。
今イエス様に従う者は、生きている間だけではなく、死んでからも、豊かな報いを受けます。結局、損をしません。

マルコ伝10章を見ても、イエス様は次のように言われたのです。ペテロとイエス様の会話です。
マルコの福音書 10章28節から30節

 ペテロがイエスにこう言い始めた。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。」イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。」

 倍、三倍、五倍だけではなくて、「百倍」です。

 
最後に、今まで述べたことの要約をしましょう。
弟子とされることの必要不可欠な条件は、徹頭徹尾イエス様を信頼し、明け渡す献身です。
正月の「喜びの集い」のとき、愛するS兄弟は言われました。「私の今年の切なる願いは、もっともっと主に信頼したい。何でも知っておられ、何でもおできになるお方に心から信頼したい」と、証しをしてくださいました。
 自分の親しい家族や友人よりも、だれよりも主を愛し、イエス様のためにすべてを捨て、
すべてを失う備えのできている者だけが、イエスの弟子となることができるのです。「主よ。
主よ」と呼ぶ者がイエス様の弟子なのではなく、ただ主のみこころを行なう者だけが、本
当の弟子です。

 主の弟子となると、その結果、必然的に憎しみや迫害を伴うでしょう。「弟子は師にまさ
ることはない」と聖書に書かれているように、主イエス様は死の受難を体験されたわけで
すが、主の弟子とされた者も、迫害を受けたり憎まれたりするくらいのことは当然であると言えましょう。「山上の垂訓」の中で、次のように書かれています。
マタイの福音書 5章11節

「わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。」

「同情すべき」なのではありません。「幸せ」です。

 ペテロは、同じ意味のことばを、その第一の手紙の中で書いたのです。彼の使命とは、
兄弟姉妹を励ますこと、力づけることだったのです。
ペテロの手紙・第一 4章14節

 もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。

 ここでも同じことばが書いてあります。「幸せ」です。
 イエス様の弟子は、あれこれと思い煩う必要はありません。イエス様ご自身が、すべて
を良いように配慮してくださるからです。

もう一度「山上の垂訓」に戻りましょう。マタイ伝の6章。素晴らしい約束です。
力、希望を与えるみことばです。
マタイの福音書 6章25節から32節

「だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。」

 これこそ、非常に慰めを与えることばです。どのような問題があっても、あなたがたの天の父は、知っておいでになります。
マタイの福音書 6章33節、34節

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」

 イエス様の弟子は恵まれた人たちです。祈りにおいて自由と権威を持っているからです。

ヨハネ伝14章を見ると、イエス様は次のように弟子たちに約束してくださったのです。
ヨハネの福音書 14章12節

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。」

ヨハネの福音書 14章14節

「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」

 嘘を知らないイエス様は、このように約束してくださいます。
「イエス様の弟子は、蛇のように賢く、鳩のようにすなおであるべきです」とあります。
マタイの福音書 10章16節

「いいですか。わたしが、あなたがを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。」

 こんにち、この世が必要としている人は、イエス様に従って行く者、即ち、「イエス様の
弟子」にほかなりません。イエス様の弟子だけが、この世の光であり、地の塩です。
 主イエス様の弟子とは、この堕落している時代にあって、みことばをしっかりと受け止
め、主の御声に聞き従う者です。

 どうでしょうか。私たちはみな、「神の子」となる特権にあずかったのでしょうか。
もしそうでないなら、その機会が与えられているかどうか、受け入れて信じ、主イエス様の救いのみわざのために感謝しなさい。

 そして、私たちはみな、「イエス様の弟子」なのでしょうか。自分の罪が赦され、神の子
とされたあとで、イエス様は「ご自分に従うこと」即ち、「弟子になること」を望んでおいでになります。「わたしについて来なさい」とイエス様は呼びかけておいでになります。

 私たちは今までと同じように、自己決定と自己支配とをこれからも続けていきたいので
しょうか。それとも、献身と本当の自由との新しい人生を始めたいのでしょうか。
 
すべては、本当に主イエス様を信じることを望むか否かの決断にかかっています。そうすれば、タビタの例のように、多くの人たちがイエス様を信じるようになり、救いに預かることになります。

 いったいどうしてでしょうか。タビタは、主イエス様の弟子だったからです。 



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◆メッセージ(ベック兄)

※一部、テープの転換による不明部分あり

神のみことばは神のみことばである(5) 2006. 4. 18
神のみことばは神のみことばである(4) 2006. 4. 11
神のみことばは神のみことばである(3) 2006. 4. 4
神のみことばは神のみことばである(2) 2006. 3. 21
家族の救い 2006. 3. 19
神のみことばは神のみことばである(1) 2006. 3. 14
主イエスは神の子キリストである(4) 2006. 3. 7
主イエスは神の子キリストである(3) 2006. 2. 28
主イエスは神の子キリストである(2) 2006. 2. 14
主イエスは神の子キリストである(1) 2006. 2. 7
勝利の生活の秘訣 2006. 1. 24
イエス・キリストのからだ 2006. 1. 17
主の永遠からの予定 2006. 1. 10
元旦メッセージ 2006. 1. 1


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