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メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


人間をとる漁師にしてあげよう(14)
   
2005.2.8(火)
ベック兄メッセージ(メモ)

 
引用聖句
使徒の働き 8章26節から40節
 ところが、主の使いがピリポに向かってこう言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」(このガザは今、荒れ果てている。)そこで、彼は立って出かけた。すると、そこに、エチオピヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財産全部を管理していた宦官のエチオピヤ人がいた。彼は礼拝のためエルサレムに上り、いま帰る途中であった。彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい。」と言われた。そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが、わかりますか。」と言った。すると、その人は、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう。」と言った。そして、馬車に乗っていっしょにすわるように、ピリポに頼んだ。彼が読んでいた聖書の箇所には、こう書いてあった。「ほふり場に連れて行かれる羊のように、また、黙々として毛を刈る者の前に立つ小羊のように、彼は口を開かなかった。彼は、卑しめられ、そのさばきも取り上げられた。彼の時代のことを、だれが話すことができようか。彼のいのちは地上から取り去られたのである。」宦官はピリポに向かって言った。「預言者はだれについて、こう言っているのですか。どうか教えてください。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。」ピリポは口を開き、この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた。道を進んで行くうちに、水のある所に来たので、宦官は言った。「ご覧なさい。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何かさしつかえがあるでしょうか。」そして馬車を止めさせ、ピリポも宦官も水の中へ降りて行き、ピリポは宦官にバプテスマを授けた。水から上がって来たとき、主の霊がピリポを連れ去られたので、宦官はそれから後彼を見なかったが、喜びながら帰って行った。それからピリポはアゾトに現われ、すべての町々を通って福音を宣べ伝え、カイザリヤに行った。


昨日、家内の妹からまた電話がありました。ちょっといいニュースだったのです。最近の津波のことですが、インドネシアでたくさんの人たちが死ななければならなかったのです。もちろん、それも主のご計画だったのでしょうけれど、ある町のイエス様を信じる人たち(四百人いるそうです)は、クリスマスをお祝いしたいと願いました。けれど、インドネシアはイスラム教徒の国ですから、政府の許可がなければもちろん無理なのです。断られました。つまり、イスラム教徒がそれを聞いて導かれると、困ってしまうからです。「山へ行きなさい」。彼らはその命令に従順に従って、山へ行ってクリスマスをお祝いしたのです。その結果、四百人みんなが津波から守れたのです。(笑)イスラム教徒や多くの人は、やはりクリスチャンたちの神はすばらしいと認めざるを得なくなってしまったのです。

私たちの最近のテーマは、『私たちはただ救われるために救われているのではない。用いられるために救われた』です。イエス様は、ペテロとアンデレを呼ばれたとき、そして、ついてくるようにと言われたとき、はっきりおっしゃいました。「あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」と。イエス様に従っている者は、取りも直さず、イエス様から、人をすなどる人として召されたことを意味しているのです。

先日、私たちは、非常に急いでいたヨナという預言者について、考えたのです。結局、彼が遣わされた町は滅びないで救われました。罪を悔い改めたから、恵みの神に呼ばわったから、ニネベの十二万人以上の人々は、立ち返り、さばきにあうことがなく、恵みにあずかることが出来たのです。主は、ひとりも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
ニネベは救われたのです。ヨナは、「用いられた道具」ということでした。けれども、この、神のしもべであるヨナの気持ちはまったく違うものでした。ニネベの人々がみな、悔い改めないで、例外なく滅びるようになったなら、彼は大いに喜んだことでしょう。
ちょっとひどいのではないでしょうか。でもヨナ書の中に書いてあるのです。
ヨナ書 3章10節

 神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になった。それ
で、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった。

そこで終わればよかったのですけれど、その次のことは大変です。
ヨナ書 4章1節

 ところが、このことはヨナを非常に不愉快にさせた。ヨナは怒って、主に祈って言った。ああ、主よ。私がまだ国にいたときに、このことを申し上げたではありませんか。それで、私は初めタルシシュへのがれようとしたのです。私は、あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直されることを知っていたからです。主よ。今、どうぞ、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましですから。」

「私はちゃんとわかっていましたよ」。これはちょっと考えられない態度ではないでしょうか。ヨナは、結局、主とまったく違う考えを持っていたのです。
イザヤ書 6章8節

 私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」

彼は遣わされるようになり、大いに用いられるようになったのですが、主に仕えようと思えば、自分自身を犠牲にしなければならないのです。自己否定のない奉仕は、自己満足であり、まったくむなしく、役に立たない努力です。ヨナは確かに急いだのです。走ったのです。主の御顔を避けて逃げたのです。

今いっしょに読みました使徒行伝の箇所を見ると、まったく違うことが書かれています。
主題は、『急いでいる伝道者』と言ってもいいでしょうが、言い換えれば、『善は急げ』。
または今、いっしょに賛美しました『日々の歌』107の6番、♪「恵みのときは過ぎ去り行く。急ぎ伝えよう。みことば」♪ です。
もう一度読みましょう。
使徒の働き 8章29節、30節

 御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい。」と言われた。そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが、わかりますか。」と言った。

「御霊が言われた」。「そこでピリポは走った」。この使徒行伝8章は、非常に躍動的な箇所です。いつも何かが動いています。より正しく言いますと、この中でひとりの男が全力疾走しています。彼こそ主の弟子であり伝道者であるピリポでした。先日、私たちはひとりの女弟子、タビタについて考えたのです。今日は、ひとりの男の弟子であるピリポについて考えたいと思います。

この使徒行伝の6章8節以下と7章で、私たちはもうひとりの主の弟子であるステパノ
が宣べ伝えた福音について、彼が議会の前でいかに勇敢に主イエス様の側に立ったか、そ
してそのために殉教の死を遂げたかを読むことができます。この8章の中では、ピリポが
登場し、このピリポが、石で殺されたステパノの代わりに登場したという印象を私たちに与えます。
サマリヤで、ピリポは大ぜいの群衆に福音を宣べ伝えました。そのことによって多くの
人々が導かれ、悔い改めて救われ、生活が根本的に変わり、多くの病人がいやされました。
けれどそれから珍しいことが起こりました。ピリポが主イエス様の弟子として、主の御手
にある器として大いに用いられ、サマリヤのいたるところで主の働きに関する大きな喜び
が広まりましたが、この大いなる祝福の働きの最中に、ピリポはまったく違った命令を受け取りました。ピリポは、福音をこの大群衆にではなく、ひとりの男に運ぶことになってしまったのです。
8章30節に、「そこでピリポが走って行くと…」と記されています。主の弟子である
ピリポは急いでいます。主の霊に導かれ、主の命令に従い、彼は大体160キロ以上歩き
ました。ピリポは一種の秘密命令を受けていました。というのは、主がいったい何を意図
しておられたか、彼はそのとき知らなかったからです。ピリポは何が起こるのかわからず、
多くの心開いた人々から引き離されました。その人たちから、そしてせっかく備えられたたましいから離れることは、人間的に考えればもったいないことでした。けれど、イエス様のお考えは私たち人間の思いとは根本的に違っています。ピリポの経験はアブラハムの経験のようなものだったのではないでしょうか。
ヘブル人への手紙 11章8節

 信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。

どこへ行くべきか、何にもわからなかったのですが、彼は出て行ったのです。御霊の導きに従いました。やがて、ピリポはイエス様が何を考えておられるのか少しずつわかってきました。突然目の前に、エチオピヤ、アフリカからの馬車を見たのです。そのとき御霊の命令が来ました。「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい」と。そこでピリポは命令に従いました。「彼は走って行った」と聖書は言っています。160キロあとで一種のラストスパートが行なわれたのです。
ピリポは急いで行きました。いったいどうしてでしょうか。ある人の説明は次のような
ものです。「もしピリポが急がなければ、エチオピヤ人がイザヤ書53章を読み終わって、
54章に移ってしまったのではないか」(笑)。イザヤ書53章は、54章よりもずっとはっきり、約束された救いについて詳しく記されているのです。
ピリポは走りました。私たちも走るべきです。多くのたましいを主イエス様に導きたい
と思う者はだれでも、走るべきではないでしょうか。
多くの孤児たちのために働いたことで世界的に知られている兄弟がいます。フリードリ
ヒ・フォン・ボーデルシュヴィングという人です。後にイギリスで同じような仕事をした
ジョージ・ミラーは、彼の弟子のような者になったのですが、このフリードリヒ・フォン・ボーデルシュヴィングがあるとき次のように叫んだことがあるそうです。「グズグズしないでください。さもないと周りにいる人々は死んでしまいます」。彼は1881年生まれです。そして1910年、ドイツのベーテルで召された兄弟でした。結局、「急がないとダメですよ」ということです。


そこで、次の問いについて考えたいと思います。
なぜピリポはそんなに走ったのでしょうか。どうしてそんなに急いだのでしょうか。
もちろん金メダルを得るためではありません。
1.イエス様が何かをするようにピリポに命令をお与えになったから、彼は走ったのです。
ピリポは主の命令を果たす覚悟でした。ヨナとまったく違います。
2.福音がゆだねられましたから、ピリポは走ったのです。ピリポは福音を宣べ伝える覚
悟でした。
3.緊急を要すること。すなわち生死に関わることが問題となっていたので、ピリポは走
りました。
4.救われなければならないたましいを見たので、ピリポは走りました。そしてピリポは
このたましいを主に導きたいと切に望みました。
5.イエス様のご計画が実現されるために、あらゆる救われたたましいが、一つの鎖の環
と同じような働きをすることがわかったので、ピリポは走りました。

これらの五つの答えについて更に考えてみたいと思います。

1. イエス様が何かをするようにピリポに命令をお与えになりましたので、彼は走りました。ピリポは主の命令を果たす覚悟だったのです。彼の覚悟は、26節、27節にはっきりと表現されています。
使徒の働き 8章26節、27節

 ところが、主の使いがピリポに向かってこう言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」(このガザは今、荒れ果てている。)そこで、彼は立って出かけた。

「どうして? なぜ?」と、彼は考えようとしないで従いました。29節、30節でも、私たちは、彼の従順さの決意を見ることができます。
使徒の働き 8章29、30節

 御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい。」と言われた。そこでピリポが走って行くと、…

ためらってグズグズしたり、問い返したりしないで、ピリポは従いました。すぐただちに
従うことこそが、彼の特徴でした。
彼は主イエス様によって用いられました。いったいどうしてでしょうか。彼は主の御声に耳を傾け、すぐに従う覚悟ができていたからです。主イエス様がサマリヤにおける祝福された仕事から離れるようにとピリポに命令されたとき、彼はどうなるのかわからずに従いました。そして、今や荒野の中で同じことが起こったのです。ピリポは従いました。

ピリポは、詩篇の作者とともに次のように言うことができたのです。
詩篇 119篇32節

 私はあなたの仰せの道を走ります。あなたが、私の心を広くしてくださるからです。

ピリポの本心は次のようなものでした。すなわち、「私は主のために生き、無条件に主に従うつもりです」と。ピリポは、ダビデの召し使いたちが取った態度を取りました。
サムエル記・第二 15章15節

 王の家来たちは王に言った。「私たち、あなたの家来どもは、王さまの選ばれるままにいたします。」


ピリポのような人はこんにちも必要なのではないでしょうか。イエス様がお用いになることの出来る人たちが必要です。
・こんにち必要とされているのは、イエス様の側に立つ兄弟姉妹です。
・こんにち必要とされているのは、多くを尋ねることなく、すぐに従う兄弟姉妹です。
・こんにち必要とされているのは、主の御声を聞いて、主によって導いていただきたいと     思う兄弟姉妹です。
・こんにち必要とされているのは、次のような確信を持っている兄弟姉妹です。
すなわち、イエス様はご自身のなさるすべてのことをご存知でいらっしゃるという確信。
そして、イエス様はご自身の許し給もうすべてのことをもご存知であるという確信。
更に、意図されておいでになるものすべてをご存知であるという確信。
これです。
主イエス様は、「人間を用いたい」と願っておられます。それは、
・多くの人に福音を宣べ伝えることであり、
・ひとりの人と語ることであり、
・日曜学校で教えることであり、
・ひとりの病人を見舞うことです。

イエス様によって用いられるもっとも大切な前提は、「喜んで主にだけ従う」という心
構えです。私たちの心のもっとも深い態度は、詩篇の作者と同じ態度であるべきです。
詩篇 40篇8節

 わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。

ピリポは喜んで主の御声に聞き従う覚悟でした。ですから彼は走ったのです。
彼は、主イエス様に従いたかったので、急いだのです。
イエス様が何かをするようにピリポに命令をお与えになりましたから、彼は走ったのです。彼は主の命令を果たす覚悟でした。


2.福音がゆだねられましたので、ピリポは走りました。
ピリポは福音を宣べ伝える覚悟でした。この出来事から二十年たって、ピリポは伝道者
として描かれるようになりました。使徒行伝の21章の8節を見ると、次のような箇所があります。彼は主を大事にしたので、彼だけではなく、家族もやはり祝福されたのでした。
使徒の働き 21章8、9節

 翌日そこを立って、カイザリヤに着き、あの七人のひとりである伝道者ピリポの家にはいって、そこに滞在した。この人には、預言する四人の未婚の娘がいた。

「預言する」とは、主を宣べ伝えることです。イエス様を紹介する四人の娘たちがいたのです。伝道者とは、ほかの人にイエス様を宣べ伝えるように召されている者です。父親であるピリポだけではなく、娘たちも同じ願いを持つようになったのです。
「私に福音を宣べ伝えられただけではなく、私はそれを通して信仰に導かれましたが、私が救われることだけでは十分ではなく、大切なことは、福音がさらに宣べ伝えられるためにと、私に福音がゆだねられたことです」ということを、彼も家族の人々もみんな知っていたのです。
実際このことは、ピリポにとって単なる頭の知識ではありませんでした。彼はそれを実際に行なったのです。ピリポは、主イエス様についての喜びの訪れを更に宣べ伝えました。
私たちもまた、ピリポとまったく同じように、「救い主イエス様についての知らせを、更に宣べ伝えるように召されているのだ」ということを、忘れてはなりません。私たちは、「救い」と「逃れ道」と「望み」とが存在するということを、失われたたましいに告げ知らせるように召されています。

パウロは、テサロニケにいる人々に書いたのです。一文章だけです。
テサロニケ人への手紙・第一 2章4節

 私たちは神に認められて福音をゆだねられた者です。

私たちは、福音をゆだねられた者です。生けるまことの神は、私たちにすばらしい賜物、
すなわち主イエス様を与えてくださいました。福音とはひとつの教えではありません。
「イエス様ご自身そのもの」です。そしてイエス様と一緒にすべてが与えられています。ローマ書8章32節は、よく知られている箇所ですけれども、次のように書かれています。
ローマ人への手紙 8章32節

 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

私たちに、ひとつの教えよりもむしろ、ひとりの人格者、つまり主イエス様そのものが備えられているのです。
私たちに、次のことが明言されています。
・ほかの人たちも、主の豊かさにあずかることができるように、一生懸命になりなさい。
・ほかの人たちが、イエス様の中に本当の満足を見いだすすべてのことを、行ないなさい。
・ほかの人たちが、罪の奴隷から、また時間の束縛から解放されるように、励みなさい。

マルコの福音書 16章15節

「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」

イエス様を紹介しなさい。福音は決して単なる教えではなく、主イエス様ご自身です。
イエス様を宣べ伝えなさい。イエス様こそあらゆる問題に対する解決そのものです。
私たちは福音を宣べ伝えているのでしょうか。あるいは自分が救われていることだけに満足しているのでしょうか。罪から救ってくださる主イエス様の福音を宣べ伝えない者はわざわいです。

ピリポは非常に急いでいました。どうしてでしょうか。ピリポは喜びの訪れを宣べ伝え
ることを急いだのです。ピリポはそれを宣べ伝えないで、自分だけのものとすることが出
来ませんでしたし、また、そうしたいとは思わなかったのです。

マタイ伝の28章を見ると、また次のように書かれています。「走っている女性たち」
についての箇所です。
マタイの福音書 28章5節から8節

 すると、御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました。」そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った…。

「のんびりしてはいけない。急いで行って…」とあります。

この婦人たちはなぜそんなに急いだのでしょうか。イエス様がよみがえられたので彼女
たちは急いだのです。彼女たちは、主イエス様の死体が墓の中にあると思っていました。
けれど、御使いは、イエス様がよみがえられたことを彼女たちに告げ知らせました。この福音を、彼女たちはなす術もなく絶望的な状態に置かれている弟子たちに、早く伝えたいと思いました。確かに私たちもみな同じことをしたことでしょう。イエス様がよみがえられたという喜びは、私たちを急ぐように駆り立てたに違いありません。しかしこんにち、私たちは何をしているのでしょうか。ローマ書の1章をちょっと見てみましょう。
ローマ人への手紙 1章14節、15節

 私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。

「ぜひ福音を、主イエス様を、伝えたいのです」。あらゆる信者は負債を負っている債務者です。すなわち、信じる者はだれでもイエス様の福音を宣べ伝える義務を持っています。
いわゆるキリスト教の宣伝をするのではなく、イエス様を証しすることです。

なぜピリポは急いだのでしょうか。今話したように、
イエス様が何かをするようにピリポに命令をお与えになりましたから、彼は走ったのです。
福音がゆだねられましたから、彼は走ったのです。
彼は福音を宣べ伝える覚悟でしたから。


3.緊急を要すること、すなわち生死に関わることが問題となっていたから、彼が走った
のです。
イエス様にとって、ピリポを宦官である財務長官に出会わせられたことは、容易なことでした。しかも一方の者が他方の者にとって助けとなり得た瞬間に、ふたりを結び付けられたのです。ピリポが即座に従わなかったなら、この出会いは実現しなかったでしょう。イエス様は、心備えのできた財産管理者が、イエス様の福音を知らされるようになることをお望みになったのです。そしてピリポは同じ思いに満たされました。ですから、彼は急いだのです。

私たちは次のことを忘れてはなりません。イエス様の福音を宣べ伝えることほど、緊急
を要するものは何一つないということです。失われたたましいをイエス様と出会うようにするために、いかなる時間も失われることは許されません。イエス様を持っていない多くの人たち、つまり救いもなく、平安もなく、望みもなく、罪の赦しもない多くの人たちは、あらゆる安けさを奪い取られて、動揺させられます。

イエス様は次のように言われました。
ヨハネの福音書 9章4節

 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。

そしてまた、パウロの証しが、私たちの証しでもあるべきです。
コリント人への手紙・第一 9章16節

 というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います。

今の時代は恵みの時です。だれに対しても成就された救いの知らせが提供されなければなりません。しかし、この恵みの時は大変な勢いで終末に向かっています。やがて最後の審判の時が始まります。ですから急がなければならないのです。
サムエル記・第一 21章8節

 ダビデはアヒメレクに言った。「ここに、あなたの手もとに、槍か、剣はありませんか。私は自分の剣も武器も持って来なかったのです。王の命令があまり急だったので。」

王の王であられる主イエス様の「救い」の事がらは、緊急を要するのです。私たちの周囲の人々は、永遠の滅びに向かっています。彼らは、神なく、望みなく死んで行くのです。使徒パウロの心からの叫びは、小羊なるイエス様のために多くのたましいを獲得することでした。血潮によって買い取られたたましいは、主イエス様と接触すべきです。

使徒パウロは、エペソの長老たちに次のように告白したのです。
使徒の働き 20章20節、21節

 益になることは、少しもためらわず、あなたがたに知らせました。人々の前でも、家々でも、あなたがたを教え、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。

パウロと同じようにピリポもまた、「喜びの訪れ」を宣べ伝えて、彼の責任を果たすことを急ぎました。ピリポは黙っていることができなかったのです。ピリポは、自分が体験した主イエス様の恵みと愛について、宣べ伝えざるを得なかったのです。ピリポは、急ぎました。というのは、不滅の人間のたましいが、永遠に救われるか滅びるかという大きな問題がかかっていたからです。

私は、その人を通して多くの人々がイエス様に導かれた、ひとりの伝道者のことを読んだことがあります。ある晩、彼は何千人もの人々に向かって話し、イエス様のことを紹介したのです。そして多くの人々はその晩、決心をしました。その晩遅く、彼はタクシーで帰宅しましたが、家に着く前にそのタクシーの運転手もまた、イエスを信じる信仰に導かれたのです。この兄弟のおもな特徴は、彼が使命の緊急性を確信し、イエス様について宣べ伝える機会を何一つ逃がさなかったと言うことでした。
なぜピリポはそんなに急いだのでしょうか。


4.救われなければならないたましいを見たので、彼は走りました。そしてピリポはこのたましいを主に導きたいと切に望んでいたので、走ったのです。イエス様は財産管理者が救われるという恵みを与えてくださったのです。
・ピリポはいかに導いたのでしょうか。
非常に急ぎながらも、よく考え、勇気を出して、断固たる態度で行動しました。
・なぜピリポは、求道者の財産管理者を主イエス様のみもとに導くことができたのでしょうか。
それは、彼自身イエス様を体験したからです。なぜなら、彼は主のみことばがたましいを救うことができることを確信していたからです。
ピリポは、宦官が求めていて、主イエス様を必要としているということを知っただけではなく、イエス様ご自身が、宦官を捜し求めておられるということを知っていたからです。もちろん宦官に近づくことは簡単なことではなかったでしょう。そのためにはやはり勇気が必要だったことでしょう。というのは、宦官がただ一人で車に乗っているということは絶対なかったからです。そのような高官はまちがいなく、大ぜいの部下を連れていたはずです。けれど、急いでいるピリポは、あらゆる人間のたましいのために、「主イエス様が死んでくださったのだから、どうしても救われなければならない」ということをよく知っていました。
多くの人たちが、私たちを通してイエス様のみもとに導かれ、それを通して贖いを見いだすということは、私たちの関心の的となっているでしょうか。電話がかかって来ると、私たちはさまざまな仕方で対応するでしょう。「…何ということか、また電話か…」と。絶えず中断されて、仕事を続けることができません。あるいは、次のような態度を取ることもできるでしょう。「おそらく私がイエス様について語ることのできるたましいが緊急を要しているのでしょう」と。

ピリポは、荒野で車のあとを走っていたとき、次のように言うこともできたはずです。
「この忌々しい車め。こんなにひどい埃を巻き上げて。埃がひどくてなにも見えない。目や鼻や口に埃が入ってひどいものだ。願わくば早く埃が消えて無くなりますように」と。
ピリポは、口や目や耳や鼻に入っている埃には無頓着でした。馬車の中にいるこの人が
大切な人間であるに違いないと、彼は独り言を言いました。「私は、彼にこの地上に来られた救い主のことを、どうしても宣べ伝えなければならない」と。

私たちが出会う人、そして私たちが知っている人はだれでも、イエス様がご自身の命を捧げてくださったのですから、救われなければならないたましいなのです。そして生けるまことの神は、このご奉仕のために私たちひとりひとりを用いたいと願っておられます。福音は、あらゆる人間のもっとも深い苦悩を静めてくださる唯一の「喜びの訪れ」です。

なぜピリポは急いだのでしょうか。なぜなら、キリストの愛が迫っていたからです。
コリント人への手紙・第二 5章14節

 というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。

とあります。
ピリポは、この人をイエス様のみもとに導こうと急いでいました。そして、この努力は
いかに報われたことでしょうか。ピリポは、たったひとりの、ひとつのたましいのために
一生懸命努力しました。ひとつひとつのたましいどれもが、イエス様にとっては全世界の富よりも価値のあるものです。主なる神は、いかなるたましいに対しても決して無関心ではありません。
エチオピアの財務長官は、見知らぬピリポに、車の中に座るように頼みました。それは、
彼の霊的飢え渇き、満たされない状態、救いに対する熱望の現われでした。財務長官が、
読んでいた聖書の箇所はイザヤ書53章でした。私たちはみな、この箇所が、預言された救い主がいかにして身代わりの苦しみを通してご自分を無になさるか、また救いの代価としてご自分のいのちを捨ててくださるかについて、もっともよく書き記されているところであることを知っています。イエス様を救い主として受け入れようとしないユダヤ人たちは、このイザヤ書53章を絶対に読みません。もしこれが本当だったら自分たちは間違っていたことになるからです。
使徒の働き 8章32節から35節

 彼が読んでいた聖書の個所には、こう書いてあった。「ほふり場に連れて行かれる羊のように、また、黙々として毛を刈る者の前に立つ小羊のように、彼は口を開かなかった。彼は、卑しめられ、そのさばきも取り上げられた。彼の時代のことを、だれが話すことができようか。彼のいのちは地上から取り去られたのである。」 宦官はピリポに向かって言った。「預言者はだれについて、こう言っているのですか。どうか教えてください。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。」ピリポは口を開き、この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた。


ピリポは、彼にユダヤ教について語ったり、初代教会について語ったり、信者について
語ったりすることに何の関心も持っていませんでした。ピリポは財務長官にイエスの福音
を宣べ伝えたのです。福音として、主イエス様ご自身のことを宣べ伝えたのです。大切な
のは、主イエス様であり、しかもただイエス様おひとりであるということを、決して忘れてはなりません。そして、本当にイエス様だけを大切にする人は主によって用いられます。
なぜなら、その人はいかなる自己名誉をも追求しないからです。確かにピリポは財務長官をイエス様のみもとに導いたあとで、主を証しする大切さを指摘したはずです。
なぜなら自分が救われることだけが大切なのではなく、主イエス様があらゆる信者をご自分の代わりに、使徒として用いたいと願っておられるからです。イエス様の中に救いを見いだした人は、このことを水のバプテスマによって証しする特権を持っています。財務長官は、途中で水のある所を見ると、「洗礼を受けるのに何かさしつかえがあるでしょうか」と聞いたのです。
使徒の働き 8章36節から39節

 道を進んで行くうちに、水のある所に来たので、宦官は言った。「ご覧なさい。水があります。私がバプテスマを受けるのに、 何かさしつかえがあるでしょうか。」そして馬車を止めさせ、ピリポも宦官も水の中へ降りて行き、ピリポは宦官にバプテスマを授けた。水から上がって来たとき、主の霊がピリポを連れ去られたので、宦官はそれから後彼を見なかったが、喜びながら帰って行った。

二人は水の中へ降りて行ったのですから、これは全身が水の中に潜る浸礼であったこと
がわかります。まちがいなく、ピリポは従者たち全員に対して、彼らが今自分の目で見ることが何であるか、なぜ財務長官が洗礼を受けるのか、それはどのような理由からなされるのかを説明したはずです。

このようにしてすべての人は、福音として主イエス様の成し遂げられた救いのみわざを
聞きました。私たちは、さらに財務長官が喜んで進んで行ったことを読むことができます。
私たちは、彼がなぜ喜ぶことができたかをもちろん知っています。すなわち彼は救い主に
出会ったのです。彼は罪の債務が消し去られたことを確信したからです。また彼は洗礼に
よって自分が救われていることを公に証しすることが出来たからです。
なぜこのようなことが起こったのでしょうか。それは、ピリポが急いで彼をイエス様のみもとに導いたからです。なぜピリポはそんなに急いだのでしょうか。


5.イエス様のご計画が実現されるために、あらゆる救われたたましいが、ひとつの鎖の環と同じような働きをすることがわかったので、ピリポは走ったのです。
この個所は、一つのたましいが如何にして主のみもとに来て救われたかということだけ
が私たちに報告されています。けれど、このただひとりの人が重要人物でした。現代であれば、そのようなことが起これば、早速『財務長官がエルサレムからの帰途、キリスト者になった』という見出しで、新聞、ラジオ、テレビで報道されたことでしょう。実は、この人を通して、初めて福音がアフリカに伝えられたという奇跡が起こったのです。
ここでもまた私たちは、主イエス様にとっては、このひとりの人の救いだけではなく、彼によって影響され、福音を聞くであろう多くの人々が大切であったということを、知ることができます。
財務長官は、鎖の中でひとつの大切な環だったのです。彼は、アフリカが主イエス様の
福音を聞くようになる、救い主の器となる特権が与えられました。私たちは、主に忠実でなければなりません。大変な緊急性をもって福音は宣べ伝えられなければならないのです。
私たちは、私たちを通して救われる人々を、イエス様が後に、如何にお用いになるかをうかがい知ることができません。日曜学校の青年、私たちが電車の中で会った人、私たちがもう何年もの間会っていない同級生たち、その人たちが救われ、聖霊に満たされるなら、その人たちを主がどのようにお用いになり、祝福されるのか、だれが知っているのでしょうか。
注目に値することは、最後までピリポが相変わらず急いでいるということです。急いで
いるだけではなく、彼は急に見えなくなってしまったのです。
使徒の働き 8章39節

 水から上がって来たとき、主の霊がピリポを連れ去られたので、宦官はそれから後彼を見なかったが、喜びながら帰って行った。

ピリポは、いつも急いで福音を宣べ伝えました。ピリポは確かに、「急いでいる伝道者」
だったのです。ピリポは、イエス様が用いることのおできになった人でした。なぜなら走ったからです。使徒行伝の6章3節によると、ピリポは「御霊に満ちた人だった」と書いてあります。すなわち、ピリポは御霊に満たされていました。
御霊に満たされている人は、急いで福音を宣べ伝えざるを得ません。御霊に満たされている人にとって大切なのは、主イエス様おひとりだけです。ですから、御霊はピリポをも連れ去られました。御霊に満たされた人は、「視界から消えて見えなくなりたい。目立ちたくない」という切なる願いを持っています。ピリポはすべての名誉と誉れが、ただイエス様お一人だけに与えられることを願っていました。「主イエス様だけが盛んになり、私は衰えなければならない」と、心から言うことができれば幸いです。

大切なのは何なのでしょうか。もう一度まとめましょう。
・主の命令と命令を果たす覚悟。
・与えられた福音を宣べ伝える覚悟。
・生死に関わる問題として警告を与える覚悟。
・救いを得る必要性と導く覚悟。
・主のご計画の実現と自分が衰える覚悟
です。

ヨハネの福音書 3章36節

 御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。

「御子を信じる者は永遠のいのちを持つ」。けれど、その後に、「御子を信じない者は…」とは書いていないのです。「従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる」。

ですから、大切なのは、
「聞く耳を持つこと」また、「従う覚悟を持つこと」ではないでしょうか。 



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◆メッセージ(ベック兄)

※一部、テープの転換による不明部分あり

神のみことばは神のみことばである(5) 2006. 4. 18
神のみことばは神のみことばである(4) 2006. 4. 11
神のみことばは神のみことばである(3) 2006. 4. 4
神のみことばは神のみことばである(2) 2006. 3. 21
家族の救い 2006. 3. 19
神のみことばは神のみことばである(1) 2006. 3. 14
主イエスは神の子キリストである(4) 2006. 3. 7
主イエスは神の子キリストである(3) 2006. 2. 28
主イエスは神の子キリストである(2) 2006. 2. 14
主イエスは神の子キリストである(1) 2006. 2. 7
勝利の生活の秘訣 2006. 1. 24
イエス・キリストのからだ 2006. 1. 17
主の永遠からの予定 2006. 1. 10
元旦メッセージ 2006. 1. 1


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