人間をとる漁師にしてあげよう(15)
2005.2.15(火)
ベック兄メッセージ(メモ)
引用聖句
マタイの福音書 9章36節から38節
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また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。そのとき、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」
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ヨハネの福音書 10章3節、4節
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「門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。」
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ヨハネの福音書 10章14節
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「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。」
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ヨハネの福音書 10章27節
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「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。」
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ヨハネの黙示録 3章15節から17節
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「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」
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先日、私たちは、福音を宣べ伝えるために走っていたピリポについて考えました。彼は、その時、一人の人を導く特権にあずかったのですが、この一人の人が、アフリカで初めてイエス様のことを紹介するようになりました。教会の歴史を見ると、北アフリカで多くの教会ができるようになったのは、間違いなく彼のご奉仕の結果でした。
ピリポは、備えられている多くのたましいから離されて、荒野へ導かれたのです。彼は、「荒野なんて、誰もいないのではないか」と思ったかもしれませんが、導きに従いました。結果として、あのエチオピヤ人を導くことができたのです。彼がはっきりわかったのは、「私が主イエス様との出会いに導かれたまことの理由は、アフリカで主を宣べ伝えるためだったのだ」ということでした。
ピリポはどうして用いられたかと言いますと、結局、従ったからです。「従うこと」は、
考えられないほど大切です。
ヨハネの福音書 3章36節
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御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。 |
聞き従わないと、おしまいです。希望はありません。永遠の滅びです。
ここで、「信じること」とは、「聞き従うこと」となっているのです。結局、信じることと、従うこととは同じことなのです。信仰が本物であれば、やはり従うようになるに違いありません。
ですから今日は、この「イエス様に従うことの大切さ」についていっしょに考えて
いただきたいと思います。三つの点に分けましょう。
1.なぜイエス様に従うべきなのでしょうか。
2.イエス様に従うための条件とは何でしょうか。
3.イエス様に従うことと十字架との関係は、いかなるものなのでしょうか。
1.なぜイエス様に従うべきなのでしょうか。
イエス様に従うことをしないばかりか、イエス様のみこころを行なわないという多くの人たちがおり、イエス様のことについて、「過去のことだ」と考える人がいます。
多くの人は、「聖書に記されている真理を認めれば、それで十分だ」と考えます。聖書に記されていることとは、イエス様は神の御子であり、神の小羊として完全な救いを成就し、復活なさり、すべてを支配しておいでになるお方であるという考え方です。
また、このような真理を宣べ伝えられればそれで十分だと考えている人が、少なくないのではないでしょうか。けれど、本当は、「イエス様に従うこと」が一番大切なことです。
イエス様は、「わたしの羊はわたしに従います」とおっしゃいました。「従ってもらいたい」ではありません。「わたしの羊は従う」と、はっきり言われたのです。そうすると、従わない羊は、イエス様のものではなく、救われていないことになります。
このことを正しく理解していないなら、それこそその人の生涯は大変なことになります。
そしてまた、そのような人によって影響を受ける人たちも、とんでもないことになります。
本当に主イエス様に従うことをせずに、主の恵みと測り知れない愛だけを信じる者がいるなら、その人の道は誤ったものにならざるを得ません。ただイエス様の恵みだけを要求して、イエス様に従わない者は、イエス様を締め出して、自分の判断で行動し、結果的に、遠回りをすることにほかなりません。
恵みとは、素晴らしい福音のみならず、イエス様が完全に支配なさることでもなければ
ならないのです。言葉を換えて言うなら、恵みは私たちが執着しているものから解放するものです。従って、イエス様に従うということは、決して頭で考えるものではなく、実際の行ないにほかなりません。
この点について、聖書は本当に厳しいことを言っています。即ち、「もし、目が罪を犯すならその目をえぐり出し、手が罪を犯すならその手を切り捨てよ」と主は命じておいでになるのです。
恵みと主に従うことは、密接不可分のものであり、どちらか一つだけを切り離して考え
るということはできないのです。どちらか一つだけが切り離されるなら、それは、もはや
意味のないものであり、力のないものとなってしまうのです。
先ほども申しましたように、イエス様に従う備えなくして恵みにあずかるということは、
決してあり得ません。確かに、提供された恵みを受け入れた者だけが、主イエス様に従う
ことができます。
なぜ、イエス様はご自分に従うことを要求しておいでになるのでしょうか。
それは、私たちを、富んだ者とならせようとしておられるからです。主イエス様が与えようとしておられるもの、即ち、「恵み」は、決して主に従うことと別個のものではないのです。私たちが、本当に主イエス様に従う備えのあるときにのみ、主イエス様は私たちに恵みを与えてくださり、豊かに富ませることがおできになるのです。
イエス様に従うことは、取りも直さず、イエス様のみこころに私たちのすべての思いを
明け渡すことです。このことだけは、いかなる人といえどもそうせざるを得ないことなのです。
イエス様に従うことは、まさに、日々主に対して従順であることを意味しています。「主
よ。語ってください。聞く耳があるだけではなく、従いたいのです」と。
「主に従うように」との招きそのものが、確かに大いなる恵みなのではないでしょうか。
本当にイエス様に従う者だけが、心から主を賛美し、ほめたたえることができるのです。
悪魔は、私たち人間が主の恵みを信じようとするときには、それほど抵抗しませんが、イエス様にだけ従おうとするときには、猛烈な反対をするのです。
私たちは、日々豊かな主の恵みにあずかろうとするなら、主イエス様に従う必要性を知
らなければなりません。その結果、私たちの生活は、からの器にすぎないか、それとも満ち溢れる泉かのどちらかになるのです。
2.イエス様に従うことの招きと、その必要条件について。
まず、マタイ伝から一箇所、お読みします。
マタイの福音書 4章18節から20節
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イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」彼らはすぐに網を捨てて従った。
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どんなに迷える羊でも従うことができます。従うと安全です。イエス様は、私たちを救うためにだけではなく、用いるために、「わたしについて来なさい」とおっしゃっています。
「彼らはすぐに網を捨てて従った」とあります。「明日また考えさせてください」ではあり
ません。「すぐ、直ちに網を捨てて従った」。
マタイの福音書 4章21節、22節
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そこからなお行かれると、イエスは、別のふたりの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイといっしょに舟の中で網を繕っているのをご覧になり、ふたりをお呼びになった。彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った。
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ここも、「すぐ」と書いてあります。マルコ伝の1章を見ても、非常に似ていることばが
書き記されています。弟子たちにとって、忘れられないことだったからです。
「イエス様に呼ばれて、イエス様に従う恵みはすばらしい」と彼らは思ったのです。
マルコの福音書 1章16節から20節
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ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。また少し行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをご覧になった。彼らも舟の中で網を繕っていた。すぐに、イエスがお呼びになった。すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスについて行った。
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もう一箇所、次のルカ伝です。
ルカの福音書 5章1節から11節
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群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸べに立っておられたが、岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われた。するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」と言った。それは、大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚いたからである。シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。
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「でも…」とありますが、このように、「でも…」と、従ってみたらよいのですね。(笑)
福音書を見て明らかなことは、主イエス様ご自身が、ご自分に従うべき人たちを召され
たということです。イエス様は、人々を召される前に、その人のことをじっと見ておられ
たことも聖書からわかります。「主はご覧になった」ということばが、繰り返し、繰り返し
出て来ることに気がつきます。
その際に大切なことは、自分の力でついて行くか行かないかということではなく、私たちの心の状態がどうであるかということなのです。
イエス様は、この罪深いペテロを呼ばれたとき、すでに五旬節の日のことが、もちろんわかっておられたのです。途中で、彼は確かに失敗します。自分のみじめさがわかるようになります。もうおしまいだと思うようになるのですが、それは終わりではありません。「彼こそが用いられる。人間をとる漁師になる」とイエス様はもちろんご存知でした。
・イエス様に従うということは、幼子の如く従順に聞き従うことです。
・また、イエス様に従うということは、たとえどれほど大きな犠牲を払おうとも、「イエス様とともに行く」という心構えです。
・また、イエス様に従うということは、主イエス様の要求に対して、いつでもそれに応じることです。
イエス様のお働きによって信仰が生まれ、この信仰が本当の従順を生み、この従順の現われが、イエス様に従うことにほかなりません。人間的に見れば、主イエス様に従うということは愚かか、馬鹿正直に思われるものです。いったい信仰とは何でしょうか。
信仰とは、自分が価なく罪深い者であることを認めることです。イエス様を信じるとい
うことは、取りも直さず、自分自身を信じないということです。
本当にイエス様を信じる者は、決して人間的な尺度で物事を計ることをしないという、このような信仰こそ、「イエス様に従う」となるのです。幼子のように従順な行ないというものは、人々を傾聴させ、沈黙させるものです。
レビ、後のマタイが、イエス様に従うように召されとき、彼は、「喜んで、すぐにイエス様のために食事を用意した」と聖書は言っているのです。もちろん、仲間、知り合いの人をみな誘って、案内したのです。
イエス様に従うことは、決して個人的な事がらではありません。まことに、イエス様がすべてを支配なさることを意味しているのです。
イエス様に従うことは、決して隠れていることができません。イエス様に従うことは、与えられた恵みを感謝することであり、人々の前で主を証しする勇気の表われでもあります。レビ(後のマタイ)は、その時、どうして職業を辞めてイエス様に従うようになったのか、必ず証ししたに違いありません。
イエス様は私たちを召されるとき、私たちがすぐに従うことを望んでおいでになります。主イエス様は、本当にお用いになることのできる者を召し出され、主に従う者を心から求めておいでになるのです。そして、そのような者だけが、完全に主の支配下に置かれるのです。そして、イエス様にすべてを明け渡す者だけが、主に召し出され、また、用いられるようになります。
福音書の中に、富んだ金持ちの青年について書いてあります。この青年はすべてを正直
にイエス様の前に言い表わし、イエス様にすべてを明け渡すことをしなかったため、悲し
げにイエス様から離れて行き、主に従うことができなかったのです。
主に従うということは、主の前に、見栄を張ることをせず、誇らず、傲慢にならず、自
信に満ちた振る舞いをせず、立派な振りをせず、心から飢え渇き、心の貧しい者であり、
イエス様のみことばを聞き、主に従うことを切に求めることにほかなりません。
イエス様を愛するがゆえにイエス様に従順であることこそ、主に従うことです。イエス様を本当に愛する者だけが、主に従順に従う者となります。
「なぜ主イエス様に従うべきか」、「イエス様に従うための条件とは何か」という二つの点
について考えたのです。
3.最後に、「主イエス様に従うことと、十字架との関係はいかなるものか」という点について。
まず、マタイ伝の16章をちょっと見てみましょう。
マタイの福音書 16章21節から26節
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その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」
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「だれでもわたしについて来たいと思うなら」です。「ついて来たくなければ結構」です。もちろん、イエス様が十字架の苦しみを避けようとなさったなら、主は、悪魔に従うことになってしまわれたことでしょう。主の目からするなら、十字架の苦しみは、どうしても受けなければならないものでした。十字架と苦しみから離れようとすることは、人間的であり、この世的であり、やみから出てくるものです。十字架なくして、主に従うことはあり得ません。
マタイの福音書 16章24節
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「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」
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とあります。
ヨハネ伝の6章に、次のように書かれています。結局、多くの宗教はいろいろなことを教えているのです。なかなか良いことも教えているのです。けれども、いつも、「十字架は
どこにありますか?」と聞くべきです。十字架がなければ、駄目です。人間は一つの教えを信じ込むことによっては、決して救われません。
ヨハネの福音書 6章67節から69節
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そこで、イエスは十二弟子に言われた。「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」
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主イエス様は、私たちが告白したり、心の中で認めること以上のものを望んでおいでに
なるのです。もし私たちが、表面的に主イエス様のみそばにいて、主に従うような振る舞いを見せたとしても、それだけでは決して本当の意味で主に従うことはできません。自分自身をより多く愛する者は、決して主イエス様に従うことはできません。
私たちは、ペテロがイエス様を拒み、「私はそんな人は知らない。私とは何の関わりもない」と偽ったことをよく知っています。私たちも自分自身を捨てなければ、結局、ペテロと同じように、イエス様を拒むことになってしまうのです。
「自分自身を捨てる」とは、次のようなことでしょう。即ち、「私は、自分の肢体、即ち、私自身とは関係がなくなっている。自分自身は全く大切ではない。あなたがたがこの私をどうしようと、それは私にとってどうでもよいことです。ただ、あのイエス・キリスト、私の生ける主であられ、父なる神の一人子なる主イエス様だけを証しし、大切にしています」。
「自分自身を捨てる」とは、自分の願い、自分の意思、自分のいのちを一番大切なものとせず、それらを全部捨てて、ただイエス様だけを第一にすることです。
そのような実例は、聖書の中にいっぱいあります。
例えば、モーセは、そのままいけば人間的な努力なしで、王の跡継ぎになれたはずですが、「彼はそれを捨てた」と聖書は言っています。彼は、自分自身を捨てました。それによって、彼は考えられないほど多くの人たちを救う器となったのです。損をしませんでした。
ヨセフという男も、ポティファルの妻の言う通りにすれば、大金持ちになり、この世的にも最高の名誉と富を得ることができたでしょうけれど、彼は、己がいのちを損したならば、何の益にもならないことをよく知っていました。彼は自分自身を捨てました。そして、そのことによって多くの人たちが救われ、いのちを得ることができたのです。
また、主に従うことは、主のために喜んで死ぬ備えができていることをも意味しているのです。
今話しましたペテロは、イエス様が捕えられようとしたとき、剣を抜いて、その一人に切りつけました。もちろん、彼は自分が捕えられることを覚悟はしていたでしょう。けれども彼は、自分の誇り、自分の傲慢などの人間的な思いをことごとく捨て去ることができなかったのです。
イエス様が十字架につけられたとき、(即ち、全人類の罪を背負って尊い血潮を流して
くださったとき、)そこには誇りや傲慢な思いはなく、本当に砕かれた状態でした。
イエス様に従うということは、己に死ぬことであり、主イエス様のために、喜んで死に
応じることであり、すべてを主にささげることです。
それが、具体的にどのようなことかは、『山上の垂訓』が明らかにしています。
『山上の垂訓』とは、マタイ伝5章から7章までの箇所なのです。
・マタイ伝5章は、「主に従い十字架を負う者は、隣人に対して新しい関係を持つ」と言っ
ているのです。そして、その人の生活は、自分自身のためであるとか、人に気に入られた
いというようなものには向けられていないのです。ただ一つの願いは、主イエス様に仕え、
イエス様のご栄光を拝することにほかなりません。そして、隣人も十字架の一断片となり、
隣人を本当に愛することができるようになるのです。
・マタイ伝の6章は、「主イエス様に従うことと、きよめが結びついている」と言っており
ます。きよめとは、自分自身の栄光を捨てることです。また、きよめとは、ただイエス様にのみ栄光と誉れとを帰すことです。
また、イエス様に従う者はだれでも、祈りの人となるのです。その人の心構えは、自分
自身が大切なのではなく、自分の思いではなく、「主のみこころが行なわれますように」ということです。
また、祈りだけでなく、断食のことについても記されています。断食とは、自分自身に
対してあわれみの思いを抱くのではなく、他人に対してあわれみ深いことです。
そして、本当に主イエス様に仕え、主イエス様に従う者は、主が何を望んでおいでにな
るか、またイエス様がいかに導かれるかに対して、常に細心の注意を払うはずです。「主よ。
私はどうしたらいいのでしょうか。知らせてください。教えてください。導いてください」
という心構えを持ち続けることです。
イエス様に従う者は、決して明日のことを思い煩いません。なぜなら、主イエス様は、
常に私たちを見守り、昨日も今日も永遠に変わることなく、私たちのことを心に留めてい
てくださるからです。イエス様を知らない者は思い煩いますが、イエス様を知っていなが
ら、それにも関わらず思い煩う者は、主に栄光を帰さない者です。
・そして、マタイ伝7章は、「イエス様に従うことが、イエス様の再臨と密接に結びついている」ということです。本当にイエス様に従う者にとっては、この世のものはすべて見せかけの価値しか持っておらず、ただイエス様の再臨を待ち望むことが唯一の喜びです。
「イエス様は必ず来てくださる」。この確信こそ、主に従う者を支配しているのです。
イエス様のためのあらゆる奉仕は、自分自身が死ぬことを意味しています。他人のため
に本当に仕えることは、自分自身を捨てて献身することです。
私たちが喜んで主イエス様に従おうが、勝手に自分の道へ行こうが、イエス様は今日も、
「従って来なさい」と私たちを招いておいでになります。イエス様に従うか、否か、この
選択にすべてのことがかかっていると言っても言い過ぎではありません。
イエス様は、私たちを主の口から吐き出されるか、さもなければ主とともに勝利の栄光
の座に着かせてくださるか、どちらかをなさるのです。イエス様に従うと、言うまでもなく、イエス様といっしょになれます。そうするなら、孤独から解放されます。
いくら愚かな羊であっても、従うことができます。迷える羊に向かって主は言われない
でしょう。「ライオンになりなさい。虎になりなさい」と。これはまったく不可能で、あり得ないのです。
大切なのは、迷える羊である私たち人間ではなく、「羊飼いなるイエス様」なのです。
従うと安全に守られます。これこそが、まことの幸せなのではないでしょうか。
長野県のY兄の描かれた、かわいい、かわいい子羊の絵の下に、次のみことばが書き記されています。先ほど読んでいただきました箇所です。
ヨハネの黙示録 3章17節
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「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」
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私は、ある姉妹からこのはがきをもらいましたが、姉妹は、このみことばの下に、次の
ように書かれたのです。「このみことばは私にぴったりです。主の忍耐に感謝です」。
詩篇23篇の1節と5節を読んで終わります。みなさんが、暗記している箇所です。
詩篇 23篇1節
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主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。 |
主は私のものです。
詩篇 23篇5節
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私の杯は、あふれています。 |
「私は喜びに満たされている」。なぜなら、心配する必要がないからです。
イエス様は、導いてくださるお方であられるだけではなく、「道」そのものであられるからです。
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