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メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


人間をとる漁師にしてあげよう(16)
   
2005.2.22(火)
ベック兄メッセージ(メモ)

 
引用聖句
マタイの福音書 16章13節から25節
 さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。 わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。 ハデスの門もそれには打ち勝てません。わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」そのとき、イエスは、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と弟子たちを戒められた。その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。


心の中でちょっと祈ってもらいたい方がいらっしゃいます。U・K姉妹です。六十一歳で、
末期の癌です。医者は「おそらく今日の午前中しかもたない。」と。今朝、またご主人から電話があって、「どうしてももう一度会ってもらいたい」。ですから、集会が終わったらすぐ行くつもりです。またご家族のことも是非覚えてください。ご家族は四人ですけれど、みなバラバラに別の教会に行っていて、本当の意味での祈りの一致がないそうです。息子さんがちょっとノイローゼ気味になっておられるので、主が働くことがおできになるように覚えていてください。狭山に住んでおられます。

今日の集いはいつものように、イエス様を紹介する集いです。主イエス様は本当に比類
なきお方であり、嘘を知らないお方ですから、安心して信頼することができるお方であり、
人間ひとりひとりの気持ちを100%理解することが出来、人間ひとりひとりをまったく
個人的に愛していてくださるお方です。このイエス様に従うことこそが、最高の特権なの
ではないでしょうか。

聖書は言っています。
マタイの福音書4章18節、19節

 イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」

イエス様は彼らをお救いになるつもりであっただけではなく、彼らを用いようと望んでおられたのです。主のみこころは、「人間が、みなひとりひとり悔い改めて、真理を知るようにです。そのためにイエス様は、「ついて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」と言われました。


イエス様の最終的なご目的は、個人個人の救いよりも、ご自分の教会を建て上げることです。ですから、今朝は、『教会を建て上げる秘訣とは、いったい何なのでしょうか』というテーマについて考えたいと思います。
主イエス様は目的をお持ちにならないお方ではありません。いつもはっきりとしたひとつの目的を持っておられます。この時代にどのような目的を持っておられるのか。イエス様は前からよくご存知でした。イエス様は目標をお持ちになり、目標を目指して死に向かって行かれました。主イエス様は死なれたのち、三日目に約束どおりによみがえられ、今、天の御位に座しておられますが、イエス様はそこで休んでおられるわけではありません。イエス様は、そこから聖霊を送られ、ご自分の目的を完成しようとなさっておられます。イエス様が望んでおられる目的とは、いったい何なのでしょうか。
今話しましたように、イエス様ははっきり、「わたしはわたしの教会を建てよう」と言われたのです。主のご目的は、「ご自分の教会を建て上げること」です。イエス様がこの時代になさろうとしておられるこのみわざを、もちろん神の敵である悪魔もよく知っています。もし知っていなければ、こんなにこのみわざに反対し、逆らうはずがないからです。けれどもイエス様はかつて次のように言われました。「わたしはわたしの教会を建てよう」。よみも、力も、それに打ち勝つことはありません。

この天的な教会を啓示され、今までの幾世紀ものの間に生きた人々は、驚くべき激しい教会に対する悪魔の働きを見てきました。主イエス様が私たちの心の目を開き、ご自分の目的である教会を私たちに教えることがおできにならないなら、主は決して、「わたしの心にかなった者だ」とは、おっしゃらないでしょう。

私たちの目的はいったい何なのでしょうか。悪魔がイエス様のご目的に対し絶えず心を留めているように、私たちも主のご目的をいつも心に留め、考えているでしょうか。多くの人々は滅びゆくたましいをイエス様のみもとに導いて、それをひとつの組織、ひとつの団体に導き入れて、それで満足しているかもしれませんが、イエス様はそれで満足なさいません。
何年前であったかちょっと忘れましたが、多分茨城県の那珂湊で、だったと思います。ひとりの姉妹がとても輝いた顔で言われたのです。「私の一番好きなことばは、エペソ書1章23節です」と。ちょっとお読みいたします。
エペソ人への手紙 1章23節

 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

今日は時間がありませんが、どうか静かなところで、このエペソ書1章15節から23節までを、「主よ。どうか私の心の目をお開きになってください」と祈りながらお読みになってください。すばらしい個所です。パウロの、心からの、救われた人々のための祈りでした。


今日は、三つの点についていっしょに考えたいと思います。
1.三つの大切な点とは何なのでしょうか。
2.重要な質問とはどういうものなのでしょうか。
3.必要な材料とはいったい何なのでしょう。

1.まず、教会を建て上げる秘訣について考えると、どうしてもはっきりさせておかなければならない、大切な点を挙げて考えてみるべきだと思います。
三つの点とは、
@ 新しい土台をもつこと。
A 十字架が必要であること。
B 主イエス様の絶対的なご支配。
です。

@ まず、教会は新しい土台をもっているということです。
イエス様ご自身は、「わたしはわたしの教会を建てよう」と言われましたが、それは、どこで言われたみことばでしょうか。今、司会の兄弟のお読みになりました個所を見てもわかります。
マタイの福音書 16章の13節、18節

 さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、…「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。」

イエス様は教会についてカイザリヤの地方で話されたのです。この地方は首都エルサレムから一番遠く離れた地方でした。またこの地は、ガリラヤ湖の北端に位置しています。このピリポ・カイザリヤで、イエス様はご自分のご目的である、「わたしはわたしの教会を建てよう」というみことばを宣べられたのですが、なぜこの地方で言われたのでしょうか。
これは、ご自分のこのご目的は、今までの古い伝統とは何の関わりもない新しいもので
あることを、教えるためにほかならなかったのです。それまでユダヤにおいては、宗教組織として宮にまつわるいろいろな古い伝統があったのです。けれど、イエス様はご自分の教会をこのような土台の上には建てないとおっしゃるのです。教会は、イエス様の教会でなければなりませんでした。ですから、イエス様は新しい土台をお建てになったのです。この土台は、イエス様ご自身です。
ペテロは、イエス様にはっきりと「あなたこそ生ける神の子キリストです」と申し上げました。教会がイエス様の教会でなければならないのなら、その教会は、肉の欲によらず、血筋によらず、人の欲にもよらず、ただ主なる神によって生まれたものでなければならないはずです。
したがって、教会は決してひとつの組織であるべきではないはずです。人間はひとつの
クラブを作って、そこで聖書を学ぶことはできますが、それは決してイエス様のからだなる教会とは言えません。教会は、主なる神によって生まれたひとつの生きた有機体であるべきです。伝道や人の力によって生まれ、人の努力、この世の力によって支えられている教会は、本当の教会とは言えないわけです。

「あなたは、生ける神の子キリストです」。このペテロの告白は、教会の秘密を解く鍵のようなことばです。このことばは、教会のかしらが主イエス様であることを言い表わしています。教会のかしらであるイエス様は上から来られたお方ですから、主イエス様のからだである教会も、上から生まれたものでなければならないことは言うまでもありません。
教会という意味は、「この世から召し出されたもの」という意味です。したがって教会は、この世に関わりをもち、興味を持ってよいはずがありません。
教会を建て上げていくために、まず、新しい土台が必要であることを述べてきました。


A 十字架がどうしても必要であることを考えるべきです。
ピリポ・カイザリヤ地方は、地理的には、今話しましたように首都から一番離れている地方であるだけではなく、霊的にもひとつの意味があります。イエス様は、この地方で初めてご自分が十字架にお架かりになることを明らかにされました。21節を読むとわかります。
マタイの福音書 16章21節

 その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。

どのようにして、イエス様はご自分の教会を建て上げていかれなければならなかったのでしょう。「多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえる」とイエス様ご自身が言われたのです。イエス様とともに教会を建てあげるために働こうとする者は、教会を打ち建てるために、イエス様は死に渡されなければならなかったということを知らなければな
りません。イエス様は、ご自分のいのちをお捨てになって初めて、教会を建て上げることがおできになりました。
ですから、イエス様とともに十字架につけられた者だけが、イエス様とともに働く者と
なることができると言えましょう。
人間の努力をもって、新約聖書の教会をよく考え、構想を練ることが、教会を打ち建てるためにまず大切なことではありません。何にもまさって大切なことは、「イエス様とともに、十字架につけられて、この身が死に渡される」ということです。

私たちは、パウロと等しく、「私はキリストとともに十字架につけられた。生きている
のは、もはや私ではなく、キリストが私のうちにあって生きるのである」と言えるようにならなければなりません。イエス様の教会を建て上げるために必要なのは、いわゆるご奉仕ではなく、「十字架を背負って主に従うこと」です。
マタイの福音書 16章24節

 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

イエス様は決して強制なさいません。「ついて来たいと思えば、」「来たくなければ結構です。けれど必ず後悔します」とおっしゃっています。

いつ教会が建て上げられるのでしょうか。それは、私たちが主のみこころは何であるかを知り、そのためには、どんなに悩んでも、苦しんでも、誤解されてもよいと覚悟を決めるときに、主はご自分の教会を建て上げられるようになります。
多くの人たちは、熱心に主のために働き、仕えようとしますけれど、「わたしはわたし
の教会を建てる」と言われる主のみこころを深く知っていないということは、悲劇と言わなければならなりません。

またある人々は喜んで真理を宣べ伝えますが、主イエス様の十字架を担ってイエス様に何処までも従おうとしません。「収穫は多いが働き手は少ない」と、確かに書かれてい
ます。けれど第一の悩みは、働き人の少ないことではなく、働き人の量より質が問題です。

イエス様はご自分の教会の土台を据えるために死に渡されました。私たちは主とともに
十字架につけられ、すべてを主に明け渡すとき初めて、主とともに主の教会を建てること
ができるのです。イエス様は、決して、「わたしはひとつの教会を建てよう」とは言われ
なかったのです。「わたしはわたしの教会を建てよう」と言われたのです。イエス様は、
私たちが主イエス様とともに教会を打ち建てる仕事にあたることを許してくださいました
けれど、その教会を、いかなる人間も自分のものとして使用することは許されていません。

B 主イエス様の絶対的なご支配
イエス様の教会は、あくまでもイエス様の教会であり、所有権はイエス様にあります。
イエス様はご自分の教会を、「ひとつの団体のために、ひとつの組織のために、ひとつの
国民のために建てよう」とは言われなかったのです。イエス様は、ご自分のために教会をお建てになります。多くの人は、「私は主のために働いている。教会の責任を持っている」と言いますが、人間が教会を主に差し上げることはできません。イエス様はご自分の教会を、ご自分がご自分に迎えると言われます。
エペソ人への手紙 5章27節

 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。

教会の所有権は、ひとつの組織、ひとつの国民にはありません。教会は、ただイエス様のものです。教会は、ある宣教師、ある牧師のものでもなく、隅から隅まで主のものです。教会は、「聖霊の宮」、「主なる神の住まい」、「御子イエスの花嫁」であるとあります。

もう一箇所見てみましょうか。パウロが、教え子であるテモテに書いた手紙の中の大切
なことばです。
テモテへの手紙・第一 3章15節

 それは、たとい私がおそくなったばあいでも、神の家でどのように行動すべきかを、あなたが知っておくためです。神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。

このことばを読むと、私たちにとって大切なのは、どのように教会を導くか、どのように教会を治めるか、どのように教会を助けるかなどということではなく、「自分自身、主の家でいかなる生活を送るべきか」が、大切であるということがよくわかります。
教会は神の家であり、主なる神ご自身がそこに住んでおられると書いてあります。教会は隅々まで主のものです。したがって教会を支配したもうお方はイエス様だけであるべきです。イエス様は、教会のお客様ではなく、教会のかしらであり、支配者であり、教会はイエス様のみこころを行ない、主イエス様の願いを満たしていかなければならないはずのものです。

ここまで、どうしても知らなければならない三つのことを、ともに学んできました。
@ 教会の土台は、伝統や組織ではなく、新しい土台、主イエス様ご自身であることを見
てきました。教会のかしらであるイエス様は、天から来られましたから、からだである教会も上から生まれたものでなければなりません。教会は、天的な有機体として地のものとは何の関わりも持たないものです。
A 教会は、キリストとともに死に、日々イエス様の十字架を担って主イエス様にだけ従
っていく者だけが、この教会の建設のみわざに参加することができるということも見てきました。
B 教会の特徴はイエス様だけがご支配なさるべきです。私たちの場合も、ある人、ある
組織、ある教派のものではなく、隅から隅まで主イエス様のものであるべきはずです。
今まで私たちはこのように三つの大切な点について考えてまいりました。


2.大切な質問について考えたいと思います。
では、私たちはイエス様とともに働く者なのでしょうか。それとも、イエス様の働きを妨げる者なのでしょうか。このことについて考えたいと思うのです。

イエス様は、「わたしは、わたしの教会を建てよう」と言われたのです。主だけがこの
霊の宮を建てることがおできになる方です。どんな人間もこれを建てることはできません。私たちは、主とともに働くことができますけれど、優先権は常に主にあるべきです。人間は、自分の思い通りに、ここあそこの教会を建てようと言うことは出来ません。パウロでさえも、自分で教会を作ることはできなかったのです。
ご存知のように彼はタルソの町に生まれましたが、この町は大きな都市でした。パウロ
は、この町でも証しし、伝道したに違いありません。人間的な考えではこの生まれ故郷に
教会を打ち建てたかったに違いありません。けれどパウロは、やがてバルナバに導かれて、
タルソからアンテオケに行き、そこですばらしい教会を建て上げることができました。
もちろん主がお働きになったのですが、これを見ましても、パウロは自分がどこで働く
かということさえ、主の導きによらなければならなかったのであり、自分が好きなところ
を選ぶことはできなかったのです。パウロは、主のご目的とご計画をよく知っていました。
イエス様がご自分で、ご自分の教会をお建てになることを確信したのです。だからパウロ
は、主にその身を任せ導いていただき、「我もはや生きるにあらず。キリスト、我がうちにありて生きるなり」という態度を取り続けたのです。
私たちも、パウロと同じように主とともに働く者となりたいものです。もしイエス様の
みわざの邪魔をし、用いられないような状態になったら、まことに悲しむべきことであり、わざわいと言わなければなりません。

主の御手を縛り、主のわざを妨げる三つのことがあります。
@ 自己中心の霊。
A 二つに分かたれた霊。
B 狭い心の、他を入れない霊。
です。

@ 自己中心の霊について。
イエス様は、「あなたを建て上げる」とは言われなかったのです。「わたしは、わたし
の教会を建てよう」と言われました。もちろんイエス様は私たちを祝福してくださいます
けれど、それはほかの人々に私たちを通して祝福が及ぶための祝福です。もし、私たちが
自分たちだけの祝福を願い求めるなら、それはイエス様の教会を打ち建てようとなさる、
その御手を縛り、主のみわざを妨げることになります。
主イエス様が、「わたしは、わたしの教会を建てよう」と言われたとき、ペテロはすでに、イエス様のみわざを妨げようとしていました。ペテロは、自分のことばかりを考えていました。イエス様が、「十字架にかからなければならない」と言われたそのとき、もしイエス様が十字架で亡くなられたなら、自分も困ってしまう。そこで、イエス様に十字架には架からないでくださいと頼みました。このように、ペテロは自分のことを中心に考えることにより、イエス様のみわざを妨げてしまう結果になったのです。

A 二つに分かたれた霊も、主のみわざを妨げます。
妥協することなく主に従わなければなりません。主の恵みによって導かれ救われた人たちは、互いに平和の絆をもって結ばれ、愛の交わりがなければ、教会は建っていきません。これは決してたやすいことではありません。本当の愛を持つことは大変です。けれど私たちは、自らのむずかしいことに目を留めず、主の恵みがそれを成してくださることに目を留めていきたいものです。
いわゆる一致をはかるために、真理を曲げることはできません。主のみこころと反対の思いを持っている人たちと、妥協してまで交わっていくこともできません。けれど、どんなに真理のためでも、兄弟姉妹に対して愛のない立場をとってはなりません。たとえ、ほかの兄弟姉妹が自分の考えと違う考えを持っていても、その人の上に立ってその人を裁くようなことがあってはなりません。絶えず愛を持って、平和の絆を持って、一つの霊に結ばれていかなければなりません。これがまことの愛であり、この愛なくして、イエス様の教会は建っていきません。

教会を建て上げていくことは、決して簡単なことではありません。主のみわざを妨げる
ものは、今言いましたように、自己中心の霊であり、二つに分かれた霊であり、狭い心、
狭い心の霊、即ち、兄弟姉妹を受け入れない心です。

B 狭い心の霊は、イエス様の教会を建て上げる邪魔になります。
主の目はあまねく各教会を見渡され、ご自分の教会を建てようとなさっておられますが、
主イエス様は、「わたしは、わたしの多くの教会を建てよう」とは言われなかったのです。
「わたしは、わたしの教会を建てよう」と、「一つの教会を建てる」と、願っておられる
のです。
この、主イエス様の言われる、「一つの教会」は、言うまでもなく世界的なものです。ある人は、日本の教会を建てようと考えています。そして日本人でない者は、外人として、日本の教会から締め出そうとする人たちもいます。これらの人たちは、日本の教会は日本人が責任を取るべきだと考えますが、これらの人たちの教会は、ある特定の国民のものでも、個人のものでも団体のものでもなく、教会はただ主イエス様のものであることを全く知らない人たちです。もし、まことの教会が何であるか、心の目で見ることができなければ、主のまことの働き人とはなることができません。狭い心の霊は、主イエス様の御手を縛り、その働きを妨げます。

今まで三つの大切な点、そして重要な質問について考えました。

3.必要な材料について。
教会を建てるためには、どのような材料を使ったらよいのでしょうか。それはペテロの
ような男を使う必要があります。イエス様はペテロに、「あなたはペテロである」と言われ、すぐそのあとで、「わたしは、わたしの教会を建てよう」と言われたのです。ペテロは、上よりの光によって、上からの啓示によって、主イエス様がどのようなお方であるかを教えられ、ペテロという人間は変えられていきました。ペテロのように、上よりの啓示
によって主イエス様を知った人たちを、主は教会を建てる材料としてお用いになることが
できるのです。
聖書は言っています。
マタイの福音書 16章17節

 するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。

主イエス様は、ペテロをいつも、「ヨナの子シモン」と呼んでおられたのです。ペテロの父親はヨナだったのですけれど、ヨナとはどんな人だったのでしょうか。だれもわかりません。聖書は、このペテロの父親について何にも教えていません。ですから、それを知っている者はだれもいません。シモンは、だれも知らない、知られていない人の子ですから、名もない人でした。イエス様は、このような人を教会を建てるためにお用いになります。イエス様は、シモンの、生まれつきの力をもって主のみわざを助けようとするところが主のみわざの妨げになるので、彼を召し出すことができませんでした。主イエス様は、ペテロの生まれながらの人を見ないで、このダメなペテロをご自分の恵みによって造り変えることができることを、よく知っておられたので、ペテロをお選びになったのです。

シモンは「ヨナの子シモン」のままではいませんでした。やがて彼は変えられ、イエス様に、「汝はペテロである」と呼ばれるようになったのです。ペテロは、キリストにある新しい人間に生まれ変わりました。ペテロは、主イエス様に、「あなたは、生ける神の子キリストです」と言いました。イエス様は彼に向かって、「わたしもあなたに言う。あなたはペテロである」と言われたのです。
人の心はイエス様を知ることによって変えられていきます。イエス様は私たちにとって
どのようなお方であるか、また私たちのうちにどのようなみわざをなさるお方であるかを
知り、それに基づいて歩んで行くなら、そのような人を、主イエス様は教会を建てる材料
としてお用いになることができます。

イエス様は、どのような人を、教会を建てる材料としてお用いになることができるので
しょうか。イエス様は、ペテロのような人を、教会を建てるために用いられるのです。
「あなたはペテロである」。「わたしは、わたしの教会を建てよう」。
ペテロのような人とは、堅く立って動かされない人です。それから強い人です。また、
霊的な人です。シモンのような男が、主の恵みによって、ペテロと呼ばれる男に変えられました。ペテロという意味は、「岩」ですが、岩のように文字通り動くことのない者に、彼は変えられたのです。教会を建てるためには、ペテロのように、はっきりとした立場を取る、動かされることのない性格の持ち主が必要です。

ペテロは、かつては、海の砂のように定まりのない、信頼のおけない人物でした。あるときには主を思い、その次の瞬間には主から目を離し人のことを思う、そういう男でした。
先ほど読みました個所、23節に戻りましょう。
マタイの福音書 16章23節

 しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。 あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

主イエス様は、彼に「バルヨナ・シモン。あなたは幸いである。あなたにこのことを現
わしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。」と言われた直後、「サタン
よ。引き下がれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを
思っている」と言わなければならないような、定まりのない男でした。天よりの啓示によ
って、神の子を知らせた直後、もうサタンの手に用いられるといった有り様でした。これ
は、彼の性格が弱く、まことに信頼のおけない人物であったことを表わしているのではないでしょうか。

このシモンは、いったいどのような経験を通して、ペテロに変えられたのでしょうか。
それは、十字架と五旬節の経験を通して、まったく変えられたからです。私たちの生まれながらの人間は、本質的に悪い性質を持っています。その人の持っている一番弱い性質で、教会を建て上げるご奉仕には何の役にも立ちません。
私たちは、パウロのように、「生きているのはもはや私ではない。キリストがわたしの
うちに生きているのである」と心から言うことができれば、やはり主は用いられるようになります。全生涯を聖霊のご支配のうちにゆだねると、用いられるようになります。これこそが、ペテロの経験でした。
イエス様は五旬節の経験をしていない弟子たちに、ご自分をすべて任せることがおできにならなかったのです。ですから弟子たちに、ご自分がキリストであることを、だれにも言ってはいけないと言われたのです。
マタイの福音書 16章20節

 そのとき、イエスは、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と弟子たちを戒められた。

弟子たちは、信頼のおけない自己中心的な人たちばかりでした。私たちはどのようにしたら、信頼のおける、堅く立った者になることができるのでしょうか。24節にあります。
マタイの福音書 16章24節

 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」

ペテロは十字架と五旬節を通して、初めて、岩のように動くことのない者になりました。ペテロは、自分で自分を、「ペテロ」、岩とは呼びませんでした。この名前は、主が自らつけてくださった名前です。自分でどんなに努力しても、自らを信頼のおける人間にすることはできません。
マタイの福音書 26章33節から35節

 すると、ペテロがイエスに答えて言った。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみなそう言った。

マタイの福音書 26章73節

 しばらくすると、そのあたりに立っている人々がペテロに近寄って来て、「確かに、あなたもあの仲間だ。ことばのなまりではっきりわかる。」と言った。すると彼は、「そんな人は知らない。」と言って、のろいをかけて誓い始めた。するとすぐに、鶏が鳴いた。

主イエス様は自ら、シモンに、「ペテロ」という名前をおつけになり、そうすることに
より、ご自分が、揺るぎやすいシモンを、岩のように動かない者に造り変えることができ
ることをお教えになったのです。ペテロの名前だけでなく、その性質が変えられました。
これを経験した者を通して、主は教会をお建てになるのです。
生まれながらの弱い性質を持ったままにとどまっている人は、主のみわざを妨げ、主の御手を縛ってしまいます。十字架により、自己から解き放たれ、聖霊のご支配に身を任せた人々だけを、主はご自分の教会を建てるためにお用いになります。
もし、私たちがこのように造り変えられていかなければ、私たちの交わりは、ひとつの
クラブにとどまり、決して教会となっていかないでしょう。

ペテロのような人は、今話しましたように、「堅く立って動かされない人」であり、
そして、「強い人」です。岩のもうひとつの特徴は強いということです。

パウロは、エペソ書で次のように祈っています。
エペソ人への手紙 3章16節

 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。

もし、私たちが主のみこころにかなった教会でありたいと思うなら、私たちには主より
の強さが必要です。

シモンはこの主なる神の強さを持っていました。ペテロは、まったく主に従おうと決心
したそのとき、反対のことをしてしまったのです。イエス様を三度も否んでしまいました。
ペテロ自体そんなに弱い男ではありませんでしたけれど、ペテロを引き止め、落とそうとする悪魔の力に対抗するためには、十分な強さを持っていなかったのです。五旬節の後も、同じく悪魔の力は強く働きましたが、主イエス様は約束どおり、よみに打ち勝つ教会を建て上げられました。この戦いはこんにちまで続いています。

私たちは、ともにひとつになって、心を合わせて生活し、主に、これこそまことの教会
であると認められるような教会に建て上げられていきたいものです。
イエス様が、私たちを十字架と御霊により、強い人としてくださったら、本当に幸いです。

ペテロのような人とは、今話しましたように、
1.堅く立って動かされない人であり、
2.強い人であり、
3.霊的な人です。

コリント人への手紙・第一 10章4節を見ると、「霊の岩」について書かれています。

 みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。

「岩は霊である」とも、書かれています。

ペテロは、肉につける信者から霊的な信者に変えられるという段階を、通らなければならなかったのです。ペテロは人間の思いでことを為そうとしたとき、イエス様に「邪魔者」
と言われました。主イエス様の教会は、霊の家です。ペテロ第一の手紙2章5節を見ると、
この表現が使われています。
ペテロの手紙・第一 2章5節

 あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。

教会は霊の家である以上、それに連なる信者もみな、霊的であるべきはずです。多くの
人々は、霊的とはどういうことであるか正しく理解しないかもしれません。何か漠然とし
たものを考えているようです。これはもちろん誤りです。

イエス様は霊的なお方でした。すなわちイエス様は、心にあることをそのまま口に出し、説教されたことを、身をもって為していかれました。イエス様は、父なる神のみこころは、私たちが、口先でなく、身をもって、みことばと恵みに従順に従うことであることを、教えられたのです。

イエス様が建て上げようとなさっておられるまことの教会は、「兄弟姉妹が心をひとつにして、ともに礼拝し、祈る人々のこと」を言います。このためには、それに連なる肢体である信者ひとりひとりが、霊的でなければならないことは言うまでもありません。
同じ霊、同じいのち、同じ思いをもって、御栄えのために心を用いていく者でなければならないということです。
したがって、イエス様の教会を建て上げていくことは、第一に、内面的な霊的な事がらであり、外面的な形は、第二、第三の問題であるべきです。

兄弟姉妹は、御霊に満たされ、時々刻々、主の御かたちに似せられていくことが、大切です。このような者になりたいものです。
主の御霊に満たされ、主の御かたちに似せられた教会になりたいものです。

そして、イエス様のからだの一部として、私たちひとりひとりが、イエス様のからだに
欠けたところのなくなるまでに、満たしていきたいものです。



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メッセージ・証し集インデックスページ

◆メッセージ(ベック兄)

※一部、テープの転換による不明部分あり

神のみことばは神のみことばである(5) 2006. 4. 18
神のみことばは神のみことばである(4) 2006. 4. 11
神のみことばは神のみことばである(3) 2006. 4. 4
神のみことばは神のみことばである(2) 2006. 3. 21
家族の救い 2006. 3. 19
神のみことばは神のみことばである(1) 2006. 3. 14
主イエスは神の子キリストである(4) 2006. 3. 7
主イエスは神の子キリストである(3) 2006. 2. 28
主イエスは神の子キリストである(2) 2006. 2. 14
主イエスは神の子キリストである(1) 2006. 2. 7
勝利の生活の秘訣 2006. 1. 24
イエス・キリストのからだ 2006. 1. 17
主の永遠からの予定 2006. 1. 10
元旦メッセージ 2006. 1. 1


2005年度のメッセージ集
2004年度のメッセージ集
2003年度のメッセージ集