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メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


人間をとる漁師にしてあげよう(17)
   
2005.3.1(火)
ベック兄メッセージ(メモ)

 
引用聖句
コリント人への手紙・第二 5章14節から6章2節
 というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。


 今、読んでくださった箇所は、当時の使徒たちや初代教会の兄弟姉妹たちの証し、また
告白でもあります。
コリント人への手紙・第二 5章20節後半
   私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。

コリント人への手紙・第二 6章1節、2節

 私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。

 今日救われようと思う人は、今日救われます。本当にすごい! 福音そのものではな
いでしょうか。
 今までずっと、主の願いである人間の永遠の幸せについて考えました。神は、本当に
そのように約束してくださっただけではなく、そう思っておいでになります。
コリント人への手紙・第二 5章21節前半

 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。

 人間を救うために、イエス様は死に渡されたのです。殺されてしまったのです。人間が
悔い改めて真理を知ること、即ち、イエス様を知ることこそが、主なる神のご目的です。
もちろん、それだけではありません。救われた人たちが一つになり、神のみ住まいになることも主のご目的です。
 ですから前回、「教会を建て上げる秘訣」について、ご一緒に考えたのですが、今日は、「信じる者みなに与えられている使命」について、つまり「三つの使命」について考えたいと思います。

 聖書を読むと、主から特別なメッセージを託された人たちのいることがわかります。こ
れらの人たちは、主のご計画のある面を特に知らせ、それを中心に人々に告げ知らせるように、主により立てられた使者です。いろいろな悩みや苦しみを通して、このような特別なご奉仕のできる人が生まれてきました。
 全能なる主は、何人かの人たちに、特別なメッセージを与えられました。このメッセージは、特別なメッセージとして人々に告げ示されています。それは、告げ示した人自身がそのことを、身をもって体験しているからです。

 新約聖書を見ると、「三つの違った種類のご奉仕」があることがはっきりわかります。
 この三つの種類のご奉仕は、互いに共通したところがありますが、また違った面もあり
ます。そうかと言って、互いに違った面が矛盾していたり、相逆らっていたりもしていません。このご奉仕の違いはどこから生まれてくるかといいますと、奉仕者それぞれに、主が、異なった賜物を与えておられるからです。

 そこで、新約聖書の中の、三つの違ったご奉仕をした三人の代表的人物、即ち、ペテロ、
パウロ、ヨハネを挙げて、この三人について学んでみたいと思います。
主はこの三人に、それぞれ異なったメッセージを与えておいでになります。この三人からのメッセージを学ぶとき、私たちは、主のみこころがどこにあるかを悟れるようになれば幸いです。
 はっきり言えることは、ペテロもパウロもヨハネも、一つの宗教のため、キリスト教の
ために宣伝したのではなく、十字架の上で犠牲になられ、復活なさり、昇天なさり、高く
引き上げられたイエス様を紹介したのです。

1.新約聖書を読むと、「ペテロ的ご奉仕」といったものがあったことに気付きます。
 マルコ伝の著者のマルコは、直接イエス様とともに過ごした時間はごく短かったので、彼は、いろいろなことを知る可能性がなかったのです。けれどもマルコは後に、ペテロと一緒に長い間過ごしたのです。マルコ伝を見ると、イエス様についての知識は大部分、ペテロから得たものであることが窺い知れます。ですから逆に、マルコ伝を見ると、ペテロのイエス様に対する知識がどのようなものであったかがわかるわけです。
 また、ペテロについては、ペテロの書簡を見れば、その使命がわかりますし、使徒行伝
を見ると、彼がどのようなご奉仕をしたかよくわかります。

ペテロに与えられた特別なご奉仕、特別な使命とは、いったいどのようなものだったのでしょうか。
イエス様はペテロを召されたときに、「わたしは、あなたを人間をとる漁師にしよう」と仰せになりました。このイエス様のみことばは、ペテロに与えられたご奉仕がどのようなものであるか、そのままよく表わしているのではないかと思います。
 ペテロのご奉仕は、「できるだけ多くの人たちを主のみもとに連れて行くこと」でした。
のちになって、イエス様はペテロに、「わたしは自分の教会を建てよう。わたしはあなたに天国のかぎを授けよう」と言われました。一箇所見てみるとわかります。
マタイの福音書 16章16節から19節

 シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」

素晴しい使命です。もう一箇所、
ヨハネの福音書 21章18節から22節

「まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現わすかを示して、言われたことであった。こうお話しになってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るのを見た。この弟子はあの晩餐のとき、イエスの右側にいて、「主よ。あなたを裏切る者はだれですか。」と言った者である。ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」

 ペテロに一つのかぎが与えられたのです。かぎはご存知のように、扉を開くために使う
物です。また、かぎは事を始める印です。かぎによって物が開けられ、そこで初めてことが始まります。
 ペテロのご奉仕は、いつもご奉仕を切り開いていく始めの役を果たしていました。ペテ
ロのご奉仕によってエルサレムの教会が始まり、またコルネリオが住んでいたカイザリヤ
の地方の教会も、ペテロによって始められました。ペテロは最初ユダヤ人の間にだけ伝道
をしていましたが、やがて異邦人の間にも福音を宣べ伝え、その始まりとしてコルネリオ
の家族を主に導いたのです。
 ペテロは、異邦人たちに、福音を最初にもたらした伝道者でした。ペテロは、新しく事を始めるかぎを主から託された人でした。ペテロが人々に告げ示したメッセージは、福音であり、天国であり、主なる神の国でした。
 彼のメッセージの中心は、「どうしたら天国にはいることができるか」ということでした。
五旬節のとき、彼のメッセージは、「悔い改めて信じなさい」。意味は、「悔い改めたら救わ
れたことを信じ、そのために感謝できます」と。

 イエス様がペテロをお召しになったとき、彼はどうしたでしょうか。彼は漁師でした。イエス様に呼ばれたとき、魚をとる網を海に投げ捨てて主に従ったのです。マタイ伝に、次のように書かれています。
マタイの福音書 4章18節から20節

 イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」彼らはすぐに網を捨てて従った。

 彼のそれからのご奉仕は、ちょうどイエス様に従ったそのときにしたことと同じようなものでした。彼は、網を人々の上に投げ、多くの人たちを捕らえ、主のみもとに導いて来ました。海に網を投げますと、いろいろな種類の魚がとれますが、ペテロは人々に網を投げ、いろいろな種類の人々を捕らえました。今話したように、ユダヤ人だけではなく、異邦人たちも導かれ、救われるようになりました。
 ペテロは、新しい地を開くかぎを託された奉仕者でした。彼はいつも、あるご奉仕の始
まりを切り開いて来ました。これが、いわゆる、「ペテロのご奉仕」の特徴です。


2.パウロのご奉仕を見てみましょう。使徒行伝の9章からお読みいたします。
使徒の働き 9章5節から15節

 彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって、町にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」同行していた人たちは、声は聞こえても、だれも見えないので、ものも言えずに立っていた。サウロは地面から立ち上がったが、目は開いていても何も見えなかった。そこで人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行った。彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしなかった。さて、ダマスコにアナニヤという弟子がいた。主が彼に幻の中で、「アナニヤよ。」と言われたので、「主よ。ここにおります。」と答えた。すると主はこう言われた。「立って、『まっすぐ』という街路に行き、サウロというタルソ人をユダの家に尋ねなさい。そこで、彼は祈っています。彼は、アナニヤという者がはいって来て、自分の上に手を置くと、目が再び見えるようになるのを、幻で見たのです。」しかし、アナニヤはこう答えた。「主よ。私は多くの人々から、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。彼はここでも、あなたの御名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから授けられているのです。」しかし、主はこう言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。」

 パウロはペテロと違った面を持っていましたが、それでもペテロと一つでした。パウロは、ペテロとまったく同じように福音を宣べ伝えていきましたが、さらに進んだところにまで入っていきました。
 主がパウロに与えられた使命は、「まことの教会、イエス様のからだなる教会を、打ち立てること」だったのです。主が信者たちに何を備えておられるか、信じる者に対する主の心は何であるか、これを教えるのがパウロに託された使命でした。
 パウロは、やはり上からの光、また啓示によって、まことの教会とは何であるかを示され、集まった信者に啓示されたことを教えました。まことの教会を建て上げていく使命を負わせられていたのです。

 ペテロは、異邦人に伝道を始める前に一つの幻を見たことが使徒行伝に記されています。
使徒の働き 10章11節から14節

 見ると、天が開けており、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りて来た。その中には、地上のあらゆる種類の四つ足の動物や、はうもの、また、空の鳥などがいた。そして、彼に、「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい。」という声が聞こえた。しかしペテロは言った。「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」

とあります。天より、いろいろな種類の動物が入った布がつり降ろされた幻を見せられ、
いろいろな人たちをすなどるように教えられて、伝道を始めました。

 パウロはこれと少し違います。ペテロは網と布を持ってすなどる人でしたが、パウロは
天幕作りの技術を持った人でした。ペテロの手には布があり、パウロの手には天幕があり
ました。布は、縫い目のない未完成のものです。天幕は、布を一つの形に縫い上げたもの
です。
 このように、パウロに与えられた使命、ご奉仕は、彼が幕屋作りであったように、主の
家を、からだなる教会を建て上げていくことでした。
 パウロにとって大切だったのは、人々が救いにあずかるだけにとどまらないで、さらに
進み、成長し、主の家が建て上げられていくことでした。パウロは、ペテロのように一日
三千人もの人々を救いに導くといった多くの出来事を目にしませんでした。パウロの使命
は、このように救われた人たちが、上からの幻に従って一つの教会に建て上げられていくことだったのです。

 主イエス様は、回心し、熱心に信者の群れに集い、良い信者になることだけを願ってはおられません。主イエス様は、信じる者が、きよめとか、解放とか、ことばはいろいろ異なっても、特別な体験をすることを第一に願ってはおられません。天から来られた一人のお方、主イエス様をかしらとする一つのからだ、教会が建て上げられていくことを願っておいでになります。

 パウロは、コリントにいる兄弟姉妹に次のように書いたのです。コリント第一の手紙の
12章12節を見ると、キリストについて書かれていますが、ここで語られている主イエス様は、「主イエス様と救われた人たちが一つになった一つのからだ」を示していることがわかります。私たちは、このまことの主イエス様を見ることができたら幸いです。
コリント人への手紙・第一 12章12節

 ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。

 主なる神の目からご覧になると、まことのキリストとはイエス様だけではなく、イエス様とそのからだである教会が一つになった姿を、まことの教会と見ておられます。
主なる神は、ただ一人の息子だけではなく、ご自分の栄光に引き入れられるべき多くの息子、娘を持ちたく願っておいでになります。つまり、主の目からご覧になると、主イエス様と教会とは、ばらばらではなく、また教会の一人一人は、ばらばらの息子、娘たちではなく、一つになって見えるのです。
 このまことのキリストは、天のいのちと栄光を輝かしているのです。パウロは、この福
音を伝えるために使命を受けていました。

 パウロは、ペテロとはこのように違ったメッセージを持っていました。ペテロもそれを認めていたことがわかります。彼は、次のように書いたことがあるのです。
ペテロの手紙・第二 3章15節、16節

 また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。それは、私たちの愛する兄弟パウロも、その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおりです。その中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所の場合もそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。

 ペテロはここで、「私たちの愛する兄弟パウロ」と書いたのです。

 また、パウロは、大工の棟梁のような役をしていました。
コリント人への手紙・第一 3章10節前半

 与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。

 パウロは、主イエス様という土台を据え、その上に建物を建てました。パウロは、主の
ご目的を信じる者に示そうとしました。主のご栄光を現わすために、信じる者がどのように主の家に建て上げられていかなければならないかを教えました。
 けれど、そのうちに、パウロの身にいろいろな困難がやって来ました。パウロのメッセ
ージに反対する者たちも出て来ました。それでパウロは、ピリピ人への手紙の2章21節
に、同じく福音を宣べ伝える者たちに向かって、次のように言わなければならない状態で
した。
ピリピ人への手紙 2章21節

 だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。

 またパウロは、一つの辛い経験についても書いたのです。彼が殉教の死を遂げる最後の
手紙なのです。テモテ第二の手紙の中で、次のように書いたのです。
テモテへの手紙・第二 4章16節、17節

 私の最初の弁明の際には、私を支持する者はだれもなく、みな私を見捨ててしまいました。どうか、彼らがそのためにさばかれることのありませんように。しかし、主は、私とともに立ち、私に力を与えてくださいました。それは、私を通してみことばが余すところなく宣べ伝えられ、すべての国の人々がみことばを聞くようになるためでした。私はししの口から助け出されました。

 結局、彼はまったく見捨てられ、一人ぼっちになったのです。けれど、「主は私とともに立たれた。私に力を与えられた」と。「アジヤにいる者たちはみな、私から離れていった」
とパウロは書いたのです。
 この「アジヤの人たち」とは、いったいだれを指しているのでしょうか。パウロが自ら
土台を据えた、アジヤの七つの教会の兄弟姉妹でした。言い換えれば、アジヤの人たちは、
主がパウロを通して教えられた主のご目的を退け、神のみこころを捨てたのです。
 同じテモテに、パウロは、「自分が捕らえられ弁明しなければならなかったとき、一人も
自分を助ける者がなく逃げて行った」と書き送っています。しかし、そのようなときにあ
っても、パウロは、「主だけが私とともに立ち、私を助けてくださった」と喜んで言うことができたのです。
 使徒時代の末期の教会は、このように、実に駄目な状態になってしまったのです。


3.第三番目の奉仕、使命とは、ヨハネのご奉仕です。
 ヨハネに、主なる神から託されたご奉仕とは、いったいどのようなものなのでしょうか。
ヨハネは、そのヨハネ伝1章1節、それから、ヨハネ第一の手紙1章1節に、次のように
書いたのです。
ヨハネの福音書 1章1節

 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

 その「ことば」の代わりに、もちろん、「主イエス」と入れてもいいでしょう。
「初めに、主イエスがあった。主イエスは父なる神とともにあった。主イエスは神であっ
た」と。

 次に、ヨハネ第一の手紙1章1節と2節をお読みいたします。
ヨハネの手紙・第一 1章1節、2節

 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、―このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。―

 パウロの亡きあと、主は、ヨハネをご自分の道具としてお用いになりました。
 ヨハネは、ペテロとはまったく違った使命を与えられていました。ヨハネのご奉仕は、
ペテロがご奉仕の糸口を切り開いていったこととは、おおよそかけ離れたものでした。
 また、ヨハネのご奉仕は、パウロのように、教会の秘密を語るといったものでもありま
せんでした。しかし、ヨハネは、パウロ以上のメッセージを伝えたというわけではありません。メッセージは、パウロがその頂点をなしています。パウロは、主が永遠から持っておられた計画の全部を告げ示しました。旧約聖書の時代より、主は、少しずつご自分のご計画をお示しになられましたが、パウロの時に至って、パウロにご自分のすべてのご計画をお示しになられたのです。
 主は、パウロに全部のご計画をお示しになられたのに、なぜさらにヨハネを必要とされ
たのでしょうか。それは、使徒時代の終わりに、信者たちが悪魔のいざないに遭い、主の
ご目的を見失ってしまったので、ヨハネが必要でした。

 エペソの教会がどのようになっていたかということは、エペソ書とエペソについて書か
れている黙示録2章を見るとわかります。三十五、六年の間に、あのエペソの教会は変わりました。
ヨハネの黙示録 2章4節、5節

「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。」

 ここでヨハネが立てられ、堕落してしまった教会をもう一度光に導く役を果たしました。
ヨハネは、別に何も新しいことを告げ示したのではありませんでした。彼は、主の光から
遠ざかってしまった兄弟姉妹を回復させるメッセージを携えていったのです。

 主イエス様がヨハネをご奉仕に召されたとき、ちょうどヨハネは網を繕っていました。ペテロは召されたとき、彼は網を海に投げていました。パウロは天幕を作る人でした。
聖書は言っています。
使徒の働き 18章3節

 自分も同業者であったので、その家に住んでいっしょに仕事をした。彼らの職業は天幕作りであった。


 ヨハネが召されたとき、彼は何をしていたのでしょうか。網を繕っていました。マタイ
伝4章に戻ります。マタイ伝4章の21節、22節です。20節まではペテロとアンデレ
について書かれています。今度は、ヨハネについて書かれています。
マタイの福音書 4章21節、22節

 そこからなお行かれると、イエスは、別のふたりの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイといっしょに舟の中で網を繕っているのをご覧になり、ふたりをお呼びになった。彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った。

とあります。ヨハネは、ペテロと同じ漁師でしたが、彼は召されたとき、ペテロの場合と違って、岸に腰を下ろして網を繕っていました。繕うことは、元通りにすることです。
ヨハネのご奉仕がそうでした。ヨハネは、堕落した教会を初めの状態に戻そうとしました。

 ここでちょっと、ヨハネによって書かれたところを見てみましょう。
 ヨハネの福音書は、四福音書のうち一番後に書かれていますし、ヨハネによる書簡は、
書簡の終わりに書かれ、また、ヨハネの黙示録は、聖書の一番終わりに位置しています。
ヨハネによって書かれたこれらの聖書の箇所は、ほかの人たちが書いたのとは、まったく
違った面を持っています。
 ヨハネは、マルコのように主イエス様が何をなさったか、主イエス様についてイエス様のなさったことを述べていません。また、「山上の垂訓」のように、イエス様の戒めを述べていません。「一里ともに行くように頼まれたら、二里一緒に行き、上着をくれと頼まれたら、二枚やりなさい」などと、そのようなことは書いてないのです。
 ヨハネは、初めに返り、ことの確信に触れ、イエス様との交わりが正しければ、すべてが大丈夫であることを告げています。ヨハネは、表面的なこと、例えばマタイ伝の、あの主イエス様の系図のようなものには、あまり気を留めなかったのです。
 ヨハネは、主から心が遠く離れてしまった人たちが、何とかして主のみもとに立ち返る
ように心を痛めていたのです。ヨハネは、新しいメッセージを伝えませんでした。ただ、
誤った道に行ってしまった兄弟姉妹を、元のところに連れ戻すメッセージをしたのです。

 ヨハネの福音書には、二つのことが強調されています。それは、「恵み」と、「まこと」
という二つのことです。真理はいつも何かを求め、恵みはいつも与えてきます。この真理
と恵みの一つになったお方が、もちろん主イエス様です。
 ヨハネ伝の中に書かれています。ある姦淫を犯した女性が、イエス様のもとに連れて来
られたとき、イエス様は女に向かって、「お前には罪がない」とは言われなかったし、また
連れて来たパリサイ人たちに、「この女はこれでよい」とも言われなかったのです。イエス
様は、取り巻く人たちに、「罪のない者が、まずこの女に石を投げなさい」と言われました。
ヨハネの福音書 8章7節後半

「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」

 このイエス様のことばの裏には、イエス様が決して真理を曲げるお方でないということ
が含まれています。しかし同時に、主イエス様は、恵みそのもののお方でもありました。
ほかの者たちがその場を去ると、イエス様は女に、「わたしもあなたを罰しない」と恵みの
声をお掛けになりました。ヨハネによる福音書を見ると、この二つの面が、即ち、「恵み」と「まこと」が含まれていることに気付きます。

 けれど、ヨハネの書いた手紙を見ると、そこには、「恵み」と「まこと」ということばが
使われていません。その代わりに、「光」と「愛」ということばが使われています。「神は
光であり、神は愛そのものである」と強調されています。

 ヨハネは、福音書で真理について語りました。同じ真理について、書簡でも語っていま
すが、彼は、「真理」ということばを使わないで、「光」ということばを使っています。同
様に、福音書で、「恵み」について語っていますが、書簡ではもはや同じ恵みについて語っ
ても、「恵み」ということばを使わず、「愛」ということばを使っています。いったいどう
してでしょうか。
 もし主の光が人の心に射して来るなら、そこには真理が現われるからです。同じように、
主の愛が人の心に来るなら、そこには恵みが生じるからです。主ご自身が光と愛そのものであられるからです。この光と愛が人間に照らされますと、真理と恵みになります。

 けれど、ここで注意すべきことは、この真理と恵みが、人によって誤って使われること
があるということです。聖書を通して、何でも証明しようと思えばできます。自分勝手に
解釈すれば…。
 主が光であり、愛であるという事実は、動かすことができません。人間が曲げることの
できない事実です。ヨハネが生きていたときの教会は、霊的に後退していました。ですか
ら、彼は、初めのところに立ち返るように、戻るようにと呼びかけたのです。
 恵みとまことは、人によって誤って用いられてしまいました。そこでヨハネは、光と愛
という主のご性質を強く人々に訴え、そこへ戻るように勧めたのです。
 このように、ヨハネのメッセージは特に新しいものではなく、ただ、「初めに返るように」と勧めたにすぎません。

 さらに目を転じて、ヨハネの黙示録を見ると、「すべてのことは元通りになる」と書かれています。聖書の初めの、創世記では、すべてのものが主の御手によって造られたことが書かれてあり、それから時を経るに従って、駄目になっていったことが書かれています。
しかし、終わりの、黙示録には、「すべてのものが新しくされる」と告げられています。
創世記ではエデンの園について書かれていますが、黙示録では一つの町について書かれて
います。パウロはまことの教会を見ました。同じこの様を、ヨハネは上から下りてくる都として、主から見せられました。ヨハネは、特に新しいことを述べませんでしたが、「すべてのことが元通りになり、回復する」と告げ知らせています。

 私たちはここまで、ペテロ、パウロ、ヨハネに与えられた三つのそれぞれの異なったご奉仕を見てきました。
・まず、ペテロは、多くのたましいを主のみもとに導きました。
・次に、パウロは、上からの示しにより、まことの教会を建て上げていきました。大工の
棟梁のような役をしたことを見てきました。
・最後に、ヨハネは、駄目になったすべてのことが元通りに回復すると伝えた人であるこ
とを見てきました。

 多くの信じる者は、この地上に主のみこころにかなった教会を建て上げることは不可能
であると考えています。「二、三年はみこころにかなった教会ができて、保つことができる
だろう。しかし、しばらくすればまた壊れてしまう」と考えます。パウロも実際に、この
悲劇を体験しました。
 しかし、ヨハネのメッセージを見ますと、希望が持てます。ヨハネは、「人の失敗を見な
いで、光と愛そのものであられる主を見つめなさい」と教えています。そこに希望がある
ということです。ヨハネは、「主なる神は決して変わらない。主のご計画は決して変えられ
ない。そして必ず成就される」と言っています。
 パウロは、ペテロのメッセージよりさらに進んだところまで来ました。ヨハネは、この
パウロのメッセージをさらに堅くし、「上より下る主の都」を私たちに教えてくれました。

 この都は、地上の教会の雛形のようなものです。黙示録の21章を見ると、次のように
書かれています。
ヨハネの黙示録 21章1節、2節

 また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。

 ここまで、三つのご奉仕を見て来ましたが、これは、私たちと実際にどのような関係が
あるのでしょうか。
これは、主のみこころにかなった教会を建て上げるには、この三つの種類のご奉仕が必要であることを教えています。
・まず、網を広げ、たましいをすなどるペテロのご奉仕がどうしても必要です。
・これに続いて、すなどられた信者が成長する、パウロのご奉仕がやはり必要です。
・それに続いて、生ぬるい状態になってしまった信者を元通りに引き上げるためにした、ヨハネのご奉仕が続きます。

 私たちのご奉仕は、ペテロ的な面だけなのでしょうか。
たましいが主のみもとに立ち返るだけで満足しているのでしょうか。
それとも、それらの人たちが霊的に成長することを考えているのでしょうか。
私たちの願いは、主のみこころを為していくことにあるのでしょうか。

これに対する私たちの答えは、いったいどのようなものなのでしょう。
 この質問は、答えるに難しいと思いますが、私たちの願うことはいわゆる理想的な教えにとどまらず、さらに前へ人々を導くご奉仕にあずかるべきなのではないでしょうか。

 あるお父さんが、自分の息子を医者にしようと願います。息子はその願いを受け入れて、
医者になるべき大学に入ります。けれど、それでお父さんの目的が果たされたわけではあ
りません。お父さんの計画の第一歩が始まったに過ぎません。
 確かに、ペテロ的なご奉仕はどうしても大切です。さらに熱心に御霊に導かれて、たま
しいを主のみもとに連れ来たる人たちが出ることを願っています。
けれど、人々が主の御救いにあずかっただけで、私たちは満足していてよいのでしょうか。多くの人たちが救われることは実に素晴らしいことですが、救われた信者が別々に、ばらばらになっていることは、主のみこころではありません。

 主が願っておられることは、これらの信者が主イエス様と一つになって、一つのからだ
をかたち造ることです。ですから、「からだなる教会」という表現がよく使われています。
 この幻は実に尊いものであり、これらを見るためには、多くの代価を払わなければなり
ません。生まれながらの人間は、すべて犠牲として主の御前にささげられなければなりま
せん。イエス様と教会が一つになった、この一人の人の中に、古き人が宿る余地はありません。
 バプテスマのヨハネは言ったのです。
ヨハネの福音書 3章30節

「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」

「あの方」とは、「主イエス様」です。

 また、このまことのキリストをかしらとする教会においては、命令をする者はもちろん
人間ではありません。主ご自身となるはずです。人の命令と主の命令に、同時に従うこと
はできません。もし私たちが教会とは何かを本当に知ったなら、イエス様だけをかしらと
して認めるでしょう。けれども、イエス様だけをかしらとして仰ぐとき、それまでの伝統
や組織や人間の考えとの間に摩擦が生まれてくるでしょう。

 主なる神は多くのばらばらに分かれた信者を求めてはおられません。イエス様をかしらとし、全部の信者を肢体とする一つのからだができあがることを望んでおいでになります。

 ある学者が、一人のキリスト者に言ったのです。「俺は天国に行きたくない。なぜなら、
創世記から今まで、数知れない人たちが天国へ行って、大変混み合っているから、そんな住みにくいところに行きたくない」と。イエス様を信じるようになった別の者は答えたのです。「とんでもない話です。天国にはただ一人の人しかいません」。学者はもちろんびっくりして、「いったいどういうことなのか」と。「実は、天国には、イエス様をかしらとし、すべての主のいのちにあずかるようになった者は、かしらの肢体にすぎないのです。これは、永遠の昔から、主なる神が抱いておられるご計画です」と説明したのです。

 主は今もなお、このご目的を実現なさるために働いておられます。私たちの目指すところは、主のそれと違っているのでしょうか。また、主なる神のご目的は、私たちの目的と違うのでしょうか。ただ大切なのは、主のみこころがなされていくということです。
私たちは、すでに主のご目的を見ているのでしょうか。主のからだである教会が、私た
ちのすべてとならなければなりません。
 もし私たちがこれを知るなら、ほかのものでは決して満足できない状態になります。
もちろん、これは決して一つの教えではありません。天的な事実です。永遠の昔から持っておられた主のご目的を見ることこそが大切です。

 主は、こんにちも、ご自分と心を一つにする人を尋ね求めておられるのです。主は、ペテロと同じように、人をすなどる漁師として用いることを願っておられます。けれど、主は、私たちがそこにとどまることで満足されません。かつてパウロにお与えになったのと同じメッセージを、私たちにも託したく願っておいでになるのです。
 多くの人たちはパウロの教えに教理的には賛成しますが、実際には不可能であると考えます。私たちは、ヨハネのように希望を失わず、主だけを仰ぎ見たいものです。そうするなら、私たちは素晴らしいことを経験するようになります。

もう一度、パウロに与えられたメッセージがどのようなものであったか考えましょう。
各地方の集会が、かしらなる主イエス様のご栄光を現わすことを主は願っておられ、そして各地方の集会が、全部有機的につながって、一つの主イエス様の肢体をなすことを、主は願っておいでになります。
 そのうちに、使徒時代も終わりに近づき、教会が堕落してしまい、これを回復させるた
めにヨハネのメッセージが必要となります。
短くヨハネのご奉仕をまとめるなら、「七つの教会の勝利を得る者に対する約束」と、まとめることができます。主は、堕落してしまった教会の中にも、勝利を得る者を捜し求めておられます。

 最後に、もう一度ヨハネの黙示録から二箇所見ましょう。七つの教会に似ている箇所がいっぱいあります。「勝利を得る者は…」と。
ヨハネの黙示録 2章7節  

「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」

ヨハネの黙示録 12章10節から12節

 そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現われた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。それゆえ、天とその中に住む者たち。喜びなさい。しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。」

「勝利者」とは、だれでしょうか。それは特に良いキリスト者ではなく、当たり前の平凡
な、主の救いにあずかった人たちです。
主によって、「勝利を得る者」と呼ばれない兄弟姉妹は、まだ成長していない者です。「勝利を得る者」とは、主がご自分のご目的に心の目を開かせて、見せることのできた人たちを言います。

 主のご目的は、決して変わりません。主の目指しておいでになるところは、キリストをかしらとし、信じる者を肢体とする一人の新しい人のことであります。

 主は、信じる者が勝利に勝利を重ね、悪魔が逃げてしまわなければならないほどに勝ち
得て余りある生活を送ることを願っておいでになるのです。これはヨハネの言っている、
「勝利を得る者」を意味しているのです。

 私たちが、主のご目的が何であるかを見ることができると、やはり「用いて頂きたい」と切に願うようになります。



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◆メッセージ(ベック兄)

※一部、テープの転換による不明部分あり

神のみことばは神のみことばである(5) 2006. 4. 18
神のみことばは神のみことばである(4) 2006. 4. 11
神のみことばは神のみことばである(3) 2006. 4. 4
神のみことばは神のみことばである(2) 2006. 3. 21
家族の救い 2006. 3. 19
神のみことばは神のみことばである(1) 2006. 3. 14
主イエスは神の子キリストである(4) 2006. 3. 7
主イエスは神の子キリストである(3) 2006. 2. 28
主イエスは神の子キリストである(2) 2006. 2. 14
主イエスは神の子キリストである(1) 2006. 2. 7
勝利の生活の秘訣 2006. 1. 24
イエス・キリストのからだ 2006. 1. 17
主の永遠からの予定 2006. 1. 10
元旦メッセージ 2006. 1. 1


2005年度のメッセージ集
2004年度のメッセージ集
2003年度のメッセージ集