人間をとる漁師にしてあげよう(18)
2005.3.8(火)
ベック兄メッセージ(メモ)
引用聖句
ローマ人への手紙 1章1節
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神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ、
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ローマ人への手紙 6章17節
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神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの基準に心から服従し、
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ローマ人への手紙 7章18節から24節
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私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。 |
コリント人への手紙・第二 4章4節
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そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。
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何年前だったのか忘れましたけれど、有名な雑誌、『Time』の中で読みましたが、あるユダヤ人の夫婦についての記事でした。題名は、「Free
At Last」。 日本語に直すと、「最終的に自由になった」となります。どういう話かと言いますと、その夫婦はソ連に住んでいて、ソ連で結婚しました。奥さんが翌日、故郷であるイスラエルへ行くようになったのです。結局、ソ連から脱出するようになり、亡命が許可されたので、喜んでイスラエルに帰ったのです。ご主人の場合は、「ちょっと待ってて」という話だったのでしたけれど、「二、三週間以内に必ずOK」と、初めは言われたのです。けれどダメでした。いくら申し込んでも拒否されてしまいました。彼はスパイだと言われ、刑務所に入れられるようになり、九年間も刑務所の中で過ごすようになってしまったのです。奥さんは彼に、「詩篇」という聖書の部分を送りましたので、このみことばだけが彼の力となり、希望となったのです。刑務所の中では聖書を読んではいけないという規則があったのですが、彼は断固として従おうとしなかったのです。聖書が取り上げられれば、彼は生きられないからです。結果として、百三十日間、二日分ずつに分けられたわずかな食べ物しかもらえなくなったのです。けれど、奥さんはご主人のために必死になって祈り、戦いました。彼女にとって遠すぎるという場所もなかったし、見知らぬ人もいなかったし、いかなる機会を使っても、ご主人の自由のために彼女は戦い続けました。周囲の人たちが彼女に何と言っても、彼女は動かされず、希望を持ち続けたのです。そして結果的に、自由にされました。
人間にとって自由になるということは、考えられないほど大切なのではないでしょうか。若者はよく、「自由になりたい」と願って、家出をしてしまいますし、あれこれ言います。しかし、人間は自由になることができるのでしょうか。主イエス様のしもべになったとき初めて自由になれるのではないかと思うのです。ですから今日の主題は、『自由にされた主のしもべ』にしたいと思います。
今、司会の兄弟のお読みになりました個所の中で、パウロは、「主イエスのしもべであるパウロ」と書いたのです。原語では、「しもべ」ではなく、「奴隷」となっています。
これこそパウロの喜びそのものでした。主イエスに仕えることこそが、彼にとってすべてのすべてでした。私たちひとりひとりに対しての主なる神のご目的は、「私たちがいつまでも主イエス様に仕える」ということです。つまり、「しもべ」となり、「奴隷」となるということなのです。
けれど、主に仕えるとはいったいどういうことなのでしょうか。しばしば私たちは、主
のためにこのことをやったり、あのことをやったりすることを意味すると考えたり、ある
いは、主のためにせわしく働くことを意味すると考えたりしがちなのではないでしょうか。
けれども、本当は、「主のしもべであること」とは、「徹頭徹尾主イエス様にお従いし、いつもみこころにお従いする備えができていること」を意味しているのです。
今から三千年前に、ダビデの家来たちは王に言ったのです。「私たちあなたの家来は、王様の選ばれるままにいたします」と。強制されたからではなくて、喜んでダビデのために仕えたいと彼らは願ったのです。ダビデのしもべたちは、結局自分を無にして、すべてのことを王に委ね、王の命令に絶対服従したいという気持ちでいっぱいだったのです。
けれど、主の前にこのような態度を取らず、またこのような強い願いを持たない者は、本当は自由ではなく、罪の奴隷であり、自我の奴隷であり、悪魔の奴隷なのです。はっきり言えることは、イエス様を信じる者はもはや罪の奴隷となる必要は毛頭ないということです。今読んでいただきました個所の、
ローマ人への手紙 6章17節
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神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。
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「義」とは、もちろん主イエス様ご自身です。「イエス様は私たちのために義とされた」と書いてあります。罪の奴隷は、イエス様の奴隷となりました。ここで、「服従した」ということばの意味は、自分自身をまったく明け渡し、降参したことを意味しております。自分自身の罪を告白し、イエス様の救いのみわざに心から感謝し、すべてをイエス様に明け渡した人は、もはや罪の債務から解放され、罪の力のもとにもいない状態にあることを知る必要があります。また、イエス様を信じる者は、もはや自我の奴隷となる必要もまったくありません。今読みました個所のあかし、パウロの正直な告白は、だれもが経験したのではないでしょうか。
ローマ人への手紙 7章18節から24節
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私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
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パウロは、「だれが、私を救い出してくれるのだろうか」と叫んだ後、「それはただ主
イエスおひとりだけである」と答えています。パウロは、信じる者として自分自身の力で
は自分自身を罪から解放することができないことを、よく知っていました。ですから彼は、自分自身のむなしい努力を放棄しました。彼は歓喜の声を上げて、「主イエスがこの罪の問題を解決してくださった」と言わざるを得ませんでした。つまり、「主イエス様は、私の古き人とともに十字架につけられた」からです。
もうひとつ、信じる者はもはや悪魔の奴隷とされる必要もありません。前に読みました箇所、コリント第二の手紙4章4節なのですけれども、「この世の神」という表現が使われています。この世の神とは、結局悪魔です。今の目に見える世界を支配しているのは、はっきり悪魔です。もちろん主の支配のもとです。主がお赦しにならなければ、悪魔は何にもできません。ここで、パウロはコリントにいる人たちに書いたのです。
コリント人への手紙・第二 4章4節
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そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。
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主イエス様を信じない人々が事実を認めようが認めまいが、無関係です。実際私たちは、今や悪魔の奴隷から解放され、偉大なる解放者である主イエス様に属し、主のものであることを確信できるということは、大いなる恵みなのではないでしょうか。罪に縛られ、自我に縛られ、また悪魔に縛られている。これこそ本当に恐るべき奴隷の状態です。
それに対して、罪の債務を赦していただき、罪の力から解放され、とこしえに悪魔を打ち滅ぼされた方であるイエス様に結ばれていることは、何という恵みであり、自由でありましょうか。
パウロは、コリント第一の手紙に、「奴隷」、「自由」、「自由人」ということばを、
次のように使いました。
コリント人への手紙・第一 7章22節
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奴隷も、主にあって召された者は、主に属する自由人であり、同じように、自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。
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ここでも、「奴隷」ということばが出てきますが、ここでは、それはもはや、罪と悪魔
との奴隷を意味しているのではありません。「キリストに属する奴隷」とは、「罪と自我と悪魔から私たちを解放してくださったイエス様にある全き自由人」です。「主に属する自由人」であることを意味しています。
ある詩人は、喜びをもって次のように歌ったのです。「主は何というすばらしいお方で
しょうか。おお主よ。あなたは何というすばらしいお方でしょうか」と。その主に仕えることが赦されているとは、何という特権でしょうか。そして主に仕えることが赦されているという特権は、ただ一時的な今の時だけではなく、全き永遠に対しても有効です。
黙示録 22章3節、4節
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もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。 |
いつまでも主に仕えることは、最高の恵みなのではないでしょうか。神のみことばであ
る聖書は、福音としてはっきりと言っています。「罪の奴隷となる必要はない」。自我の
奴隷となる必要はない。また悪魔の奴隷となる必要はないということです。
出エジプト記21章に記されているひとりの奴隷について、少し考えたいと思います。
出エジプト記 21章1節から6節
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「あなたが彼らの前に立てる定めは次のとおりである。あなたがヘブル人の奴隷を買う場合、彼は六年間、仕え、七年目には自由の身として無償で去ることができる。もし彼が独身で来たのなら、独身で去り、もし彼に妻があれば、その妻は彼とともに去ることができる。もし彼の主人が彼に妻を与えて、妻が彼に男の子、または女の子を産んだのなら、この妻とその子どもたちは、その主人のものとなり、彼は独身で去らなければならない。しかし、もし、その奴隷が、『私は、私の主人と、私の妻と、私の子どもたちを愛しています。自由の身となって去りたくありません。』と、はっきり言うなら、その主人は、彼を神のもとに連れて行き、戸または戸口の柱のところに連れて行き、彼の耳をきりで刺し通さなければならない。彼はいつまでも主人に仕えることができる。」
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この特権が与えられるということです。
この若者について、三つの事がらに分類されましょう。
1.彼は、代価によって買い取られました。
2.彼は、ひとつの選択の前に立たされました。
3.彼は、愛によって克服されたのです。
1.奴隷は代価をもって買い取られました。
2節に、「あなたがヘブル人の奴隷を買う場合、彼は六年間、仕え、七年目には自由の身として無償で去ることができる」とあります。「あなたが奴隷を買う場合、」と書いてありますが、ここで明らかなことは、主人が奴隷を買い、奴隷は主人によって買い取られるということです。この若者は奴隷市に立っておりました。そしてだれかによって買い取られることを待っておりました。しかし、彼はいったいどうしてこのような厳しい状況に置かれ、この厳しい運命に直面しなければならなかったのでしょうか。ひとつの可能性として考えられることは、彼の両親がたいそう貧しく、生活のためにこの若者を売らなければならなかったことが考えられますが、もうひとつの可能性は、彼が債務を支払わなければならないような何らかの事態に陥り、裁判の結果奴隷となるべき判決を受けたことも考えられます。
ここで、この若い青年の状態を思い浮かべて見ましょう。彼は鎖に繋がれ、自由に動く
ことができず、自分自身が希望する人に売られていくのではなく、一番高い代価を支払っ
た人のところに売られていく身として、その人が買い取ってくれるのを待っておりました。
そしてある日、そのように一番高い代価を支払った人のものとなってしまったのです。
私たちもまた、罪と自我と悪魔との奴隷であったことについては、先ほどすでに申し上
げました。イエス様は次のように言われました。
ヨハネの福音書 8章34節
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イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。
罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。」 |
「罪を犯す者は、罪の奴隷である」と。
もう一箇所、パウロはエペソにいる兄弟姉妹に次のように書いたのです。
エペソ人への手紙 2章2節、3節
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そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊にしたがって、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
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しかしある日、彼らはイエス様に出会い、すべてが変わったのです。私たちも主イエス
様に出会い、個人的にイエス様を信じることが赦されるようになりました。イエス様が私
たちの贖いの代価を支払ってくださったことを信じることができたのです。イエス様は、そのために最も高い代価を支払ってくださいました。すなわち、イエス様はご自分のいのちをもって支払ってくださったのです。そのために、イエス様の尊い血が流されたのです。救いの代価とは、イエス様の流された血潮でした。パウロは次のように書いたのです。
テモテへの手紙・第一 2章6節
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キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。
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これこそが、聖書の中心なのではないでしょうか。キリストは、すべての人の贖いの代
価、救いの代価として、ご自身をお与えになりました。パウロだけではなく、ペテロも、
同じ事実について次のように書いたのです。これもよく知られている個所です。
ペテロの手紙・第一 1章18節
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ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。
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「流されたキリストの血」こそが、聖書の中心そのものです。
もう一箇所、買い取られた事実について次のように書いてあります。
コリント人への手紙・第一 6章19節、20節
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あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。
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「買い取られた」。
2.奴隷は、ひとつの選択の前に立たされました。
出エジプト記21章に出てくる奴隷は、代価をもって買い取られただけではなく、ひと
つの選択の前に立たされたのです。
出エジプト記 21章2節、5節、6節
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「あなたがヘブル人の奴隷を買う場合、彼は六年間、仕え、七年目には自由の身として無償で去ることができる。しかし、もし、その奴隷が、『私は、私の主人と、私の妻と、私の子どもたちを愛しています。自由の身となって去りたくありません。』と、はっきり言うなら、その主人は、彼を神のもとに連れて行き、戸または戸口の柱のところに連れて行き、彼の耳をきりで刺し通さなければならない。彼はいつまでも主人に仕えることができる。」
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確かに、彼は高い代価をもって買い取られましたが、六年後には、彼は自分が望むなら、
自由になることができました。それは彼の決断に委ねられていたのです。六年間、すなわ
ち二千百九十日、つまり、五万二千五百六十時間、この人は自分の主人に仕えたのです。
そして今や彼は自由の身となり、そこを去っていくこともできるようになりました。彼は
自分が望めば、自分の計画によって自分自身の好きな道を自由に選ぶことができるように
なったのです。
私たち主イエス様を信じる者もまた、同じようにそのような選択の前に毎日立たされて
いるのではないでしょうか。イエス様は、私たちをご自身の血潮の尊い代価をもって買い取ってくださいました。それで私たちは、今や買い取られた者としてひとつの選択の前に立たされているのです。すなわち主に仕え続けるか、あるいは再び新たに罪と自我と悪魔
との奴隷になることを選ぶかのいずれか、二者択一の前に立たされているわけです。
主は、ご自身に仕えることをだれにも強制なさいません。「わたしに従いたいと思えば結構です。従いたくなければよろしい」と。
ヨシュア記24章で、当時のヨシュアの取った態度について次のように書かれています。
ヨシュア記 24章の14節から15節、21節から24節
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「今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい。あなたがたの先祖たちが川の向こう、およびエジプトで仕えた神々を除き去り、主に仕えなさい。もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。」それで民はヨシュアに言った。「いいえ。私たちは主に仕えます。」
それでヨシュアは民に言った。「あなたがたは、主を選んで、主に仕えるという、自分自身の証人である。」すると彼らは、「私たちは証人です。」と言った。「今、あなたがたの中にある外国の神々を除き去り、イスラエルの神、主に心を傾けなさい。」民はヨシュアに言った。「私たちは私たちの神、主に仕え、主の御声に聞き従います。」
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15節の、「もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい」。本当にすばらしいところです。「自由にしなさい」。けれど、「私と私の家とは、主に仕える」と。
ヨシュアは、信じるイスラエルの国民に対して次のように言いました。「あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい」。
つまりヨシュアは、「あなたがたは自分で自分の道を好きなように自由に選びなさい。
主は決して強制的に選ばせることをなさらない」と言ったのです。つまり、自分の自由な意思で決定するように迫られているのです。主によって救われた者、主によって贖い出された者は、これからいったいどのような道を選び、いかなるものとともに、いかなるものに属する者として人生を歩むか、自分で決断することを要求されているのです。
私たちも、ヨシュアと同じように、「私はどこまでも主に仕えます」と告白できれば、
幸いです。私たちは自由意思を持っていますから、主に仕えないで、自分自身の道を行く
と決断することもできます。
イザヤ書の53章。よく知られている個所なのですけれども、次のように言っています。
イザヤ書 53章6節
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私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。
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これは、本来未信者の姿でありますが、残念ながら信じる者もしばしばこれと同じよ
うな状態に陥りやすいのではないでしょうか。自分自身の道を行きたいと願う者は迷う
ようになります。そういう状態に引き出されてしまっているのです。
もう一度、出エジプト記21章の奴隷のことに戻りますと、彼は今や非常にむずかしい
選択の前に立たされたのです。私は行くべきか、とどまるべきか。この場合行くことが、
主人のもとを去ることを意味していることが明らかです。しかし、それだけは彼がどうしてもやりたくなかったことです。
21章5節
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…『私は、私の主人と、私の妻と、私の子どもたちを愛しています。自由の身となって去りたくありません。』…
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「私は、私の主人に対する愛からとどまります」。これが彼の決断の選択でした。
私たちは、今日、「私は主イエス様を愛している」と言うことができるのでしょうか。私たちの主イエス様に対する愛は、いつも主イエス様の私たちに対する愛の答えです。
ガラテヤ書の2章20節は、パウロの告白です。喜びの証しでした。信じる者にとって、一番大切なことばかもしれません。
ガラテヤ人への手紙 2章20節
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私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
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「私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった神の御子」、これこそがパウロの喜びの
証しでした。先ほどの奴隷は、六年間もの間、自分の主人に仕えました。もちろん問題は
その主人がどういう人物であるか。もし良い主人であれば、六年間も夢のように心地よく過ぎるでしょうけれど、もし残酷な主人に仕えるならば、毎日毎日が地獄のような苦しみの連続となるでしょう。六年間と言えば、前に話しましたように換算すると、二千百九十日になります。
奴隷が主人に仕え、そして今や新しい年が始まったわけですが、その七年目の第一日の
朝、主人は奴隷の前に立ち、「今日、お前はだれに仕えたいかを選択し、決定しなさい」
と言ったのです。すると奴隷は即座に、「私は私の主人を愛しています。自由の身となっ
て去りたくありません」と答えたのでした。
私たちもまた今日、私たちの主イエス様に、次のように証しをしたいと願う者なのでしょうか。
「主イエス様。私はあなたを愛しています。私は自分勝手な道へ行くのが心配です。私はあなたのみそばにいたいのです。ただひとり、あなたにのみ私は仕えたいのです。私は去りません。あなたのみそばにいること。そしてあなたに仕えることこそ、もっとも幸せな人生です。ほかに良きものを私は何も知りません。あなたの御前には喜びが満ちています」と。
これはパウロがとった態度でもありました。「私を愛し、私のためにご自身をお捨てに
なった神の御子から、私は決して離れたくない」と。「私はいつまでも主にのみ仕えたい
のです。私はただ主イエス様のためにのみ生きたいのです。そして、主のためにのみ生活したいのです。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」。そのとおりパウロは最後まで主に仕え、そして殉教の死を遂げたのです。
ヨハネの福音書6章67節、68節を見ると、次のように書かれています。
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そこで、イエスは十二弟子に言われた。「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。」
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今まで、私たちは尊い代価を支払って買い取られた者が、ひとつの選択の前に立たされ、
そして彼が自由の身となって主のもとを離れて行きたくないと決断したことを見てきまし
た。しかしそれはいったいどうしてでしょうか。それは第三番目ですね。彼は愛によって
克服されたからです。
3.奴隷は、愛によって克服されたのです。
愛によって克服されたことの意味、克服されたことの内容について。
@ はっきりとした決断
A 公の証し
B 絶えざる献身について
@ この奴隷の特徴は、はっきりとした決断であったと言えます。
「私は私の主人を愛しています。自由の身となって去りたくありません。主人のもとに私はとどまりたいのです」。この決断は、ただ主を信じるといったようなものだけではなく、徹頭徹尾全く主に仕えること、そしてただ主のためにだけ生きることを意味しています。
私たちは、いつかこのような決断をしたことがあるのでしょうか。イエス様は、本当に私たちの全生活を支配しておられる主であられるのでしょうか。私たちは、主イエス様に従順に従おうとしているのでしょうか。主のみこころだけがなされることを本当に望んでいるのでしょうか。
A この奴隷の特徴は、公の証しでした。
出エジプト記 21章6節
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「その主人は、彼を神のもとに連れて行き、戸または戸口の柱のところに連れて行き、彼の耳をきりで刺し通さなければならない。彼はいつまでも主人に仕えることができる。」
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「主人は彼を神のみもとに連れて行った」と記されていますが、この場合、聖書の欄外にも書いてありますように、「さばきびと」という意味の方が、「神」という表現よりも適切であると思われます。すなわち、さばきびとは当時も存在したように、いろいろな問題や紛争を解決するために必要とされた重要な役目を担った人でした。そして大切なことは、主人と奴隷との関係に関する約束ごとは、ただ二人の間だけでなされるのではなく、さばきびとのところで公にされる必要があったということです。
このことは、救いの場合にも当てはまり、ただ単に個人的な関係や、主との間になされることとしてだけではなく、そのみわざが公の前で証明される必要があります。例えば、水のバプテスマにあずかることも、その意味で、公の証しであると言えます。いうまでもなく、救われるためではなく、救われた証しとして、です。
マタイ伝の10章を見ると、次のように書かれています。
マタイの福音書 10章32、33節
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「ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。」
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ローマ人への手紙の10章を見ても、同じことが書かれています。
ローマ人への手紙 10章9節、10節
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なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
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愛によって克服されたとは、何を意味しているのでしょう。
@ はっきりとした決断。
A 公のあかし。
そして、絶えざる献身です。
B 絶えざる献身
出エジプト記 21章6節
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「その主人は、彼を神のみもとに連れて行き、戸または戸口の柱のところに連れて行き、彼の耳をきりで刺し通さなければならない。彼はいつまでも主人に仕えることができる。」
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「いつまでも主人に仕える特権が与えられる」。戸口で耳をきりで刺し通すという風習は、
絶えざる献身が約束されたことを証明する当時のひとつの儀式でした。もちろん、これは
決して強制されてすることではなく、この決心は自由な選択と公のあかしの結果であった
わけです。彼は、「刻印された人」となったのです。なぜなら彼の耳は刺し通されたから
です。
最後にダビデの経験について考えましょう。なぜなら、ダビデも同じようなことを詩篇で証ししているからです。確かに、ダビデも、罪と自我と悪魔の奴隷でした。
詩篇 40篇2節から8節
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私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。幸いなことよ。主に信頼し、高ぶる者や、偽りに陥る者たちのほうに向かなかった、その人は。わが神、主よ。あなたがなさった奇しいわざと、私たちへの御計りは、数も知れず、あなたに並ぶ者はありません。私が告げても、また語っても、それは多くて述べ尽くせません。あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。あなたは、全焼のいけにえも、罪のためのいけにえも、お求めになりませんでした。そのとき私は申しました。「今、私はここに来ております。巻き物の書に私のことが書いてあります。わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。…」
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「私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、
私の歩みを確かにされた」と、ダビデは経験しただけではなく、彼はひとつの選択の前に立たされたのです。
信じる者として彼は大きな過ちと罪を犯しました。彼は引き続き、暗やみの生活にとどまるか、あるいは光の中に来るかの二者択一に迫られたのです。「私は罪を認め、身をかがめて告白すべきか、あるいは今までのように、人の前で王としての振る舞いを続けるか、どちらかの道を選ばなければならない」。そのような選択の前に、彼は立たされたのです。
詩篇32篇の中で、ダビデは、「私は私のそむきの罪を主なるあなたの御前に告白した」と言っています。ダビデは、改めて自分自身を主に明け渡し、主を全く信頼することによって、次のように言うことができたのです。
詩篇 40篇4節から5節
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幸いなことよ。主に信頼し、高ぶる者や、偽りに陥る者たちのほうに向かなかった、その人は。わが神、主よ。あなたがなさった奇しいわざと、私たちへの御計りは、数も知れず、あなたに並ぶ者はありません。私が告げても、また語っても、それは多くて述べ尽くせません。
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ダビデは、主イエス様が彼の主の罪を赦してくださった恵みと愛とによって、克服された人でもありました。彼の証しは、6節にはっきりと記されています。
詩篇 40篇6節
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あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。
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ここで、主が「彼の耳を開いてくださった」となっておりますが、原語を見ると、「耳を刺し通された」となっています。そして、耳を刺し通すということは、まったくの献身を意味しております。そこから初めて、8節のみことばが理解できるようになるのです。
8節
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わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。
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私たちは、このみことばが何よりもまず、私たちの主なるイエス様を預言し、イエス様に当てはまるものであることを知っています。イエス様の全き献身の結果は、耳だけではなくて、手足が釘付けられる、刺し通されることでした。
全き献身とは、すなわち、「我が思いがなる」のではなくて、ただ、「主のみこころが
なるように」ということにほかなりません。
私たちも日々新たに、「主よ。あなたは私が何をすることを望んでおられるのでしょう
か」と問うべきです。
イエス様のことについて、ヘブル書の12章2節に書かれています。
ヘブル人への手紙 12章2節
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信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。 |
「イエスから目を離さないでいなさい」。イエス様はご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍ばれました。
それでは今日、主イエス様にとって、喜びとなるものは何でしょうか。
すべての人が、自分が「主イエス様のしもべ、主イエス様の奴隷である」ことを告白し、「私はあなたを愛し、自由の身となってあなたのもとを去りたくない」と、出エジプト記のあの奴隷のように言うことができれば、これこそイエス様が一番お喜びになることです。
主イエス様ご自身が、自分を卑しくなさって、奴隷の姿をとられたのです。「私たちの罪の身代わりとなってのろわれた主イエス様に仕えること」こそが、最高の特権であり、また幸せなのです。 |