キリスト集会のご案内
TOP日曜礼拝家庭集会よろこびの集い出版物  


メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


人間をとる漁師にしてあげよう(19)
   
2005.3.15(火)
ベック兄メッセージ(メモ)

 
引用聖句
ピレモンへの手紙 
 キリスト・イエスの囚人であるパウロ、および兄弟テモテから、私たちの愛する同労者ピレモンへ。また、姉妹アピヤ、私たちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。私は、祈りのうちにあなたのことを覚え、いつも私の神に感謝しています。それは、主イエスに対してあなたが抱いている信仰と、すべての聖徒に対するあなたの愛とについて聞いているからです。私たちの間でキリストのためになされているすべての良い行ないをよく知ることによって、あなたの信仰の交わりが生きて働くものとなりますように。私はあなたの愛から多くの喜びと慰めとを受けました。それは、聖徒たちの心が、兄弟よ、あなたによって力づけられたからです。私は、あなたのなすべきことを、キリストにあって少しもはばからず命じることができるのですが、こういうわけですから、むしろ愛によって、あなたにお願いしたいと思います。年老いて、今はまたキリスト・イエスの囚人となっている私パウロが、獄中で生んだわが子オネシモのことを、あなたにお願いしたいのです。彼は、前にはあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても、役に立つ者となっています。そのオネシモを、あなたのもとに送り返します。彼は私の心そのものです。私は、彼を私のところにとどめておき、福音のために獄中にいる間、あなたに代わって私のために仕えてもらいたいとも考えましたが、あなたの同意なしには何一つすまいと思いました。それは、あなたがしてくれる親切は強制されてではなく、自発的でなければいけないからです。彼がしばらくの間あなたから離されたのは、たぶん、あなたが彼を永久に取り戻すためであったのでしょう。もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、すなわち、愛する兄弟としてです。特に私にとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、肉においても主にあっても、そうではありませんか。ですから、もしあなたが私を親しい友と思うなら、私を迎えるように彼を迎えてやってください。もし彼があなたに対して損害をかけたか、負債を負っているのでしたら、その請求は私にしてください。この手紙は私の自筆です。私がそれを支払います。――あなたが今のようになれたのもまた、私によるのですが、そのことについては何も言いません。――そうです。兄弟よ。私は、主にあって、あなたから益を受けたいのです。私の心をキリストにあって、元気づけてください。私はあなたの従順を確信して、あなたにこの手紙を書きました。私の言う以上のことをしてくださるあなたであると、知っているからです。それにまた、私の宿の用意もしておいてください。あなたがたの祈りによって、私もあなたがたのところに行けることと思っています。キリスト・イエスにあって私とともに囚人となっているエパフラスが、あなたによろしくと言っています。私の同労者たちであるマルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくと言っています。主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊とともにありますように。


今、A兄弟に質問されたのです。「今日の副題は何ですか」と。テーマはみなさんご存知でしょう。今日は19回目だそうです。「いかにして、滅びゆく魂を主イエス様のみもとに導くか」というテーマです。言うまでもなく、私たちにはできません。けれど、主は駄目な人間を用いようと望んでおられます。副題は、「主イエス様の愛に圧倒された奴隷たち」にしたいと思います。今日の集いも、「奴隷たちの集い」になれば、嬉しいのではないかと思います。

 先週、私たちは、出エジプト記に出てくる奴隷について少し学びました。彼は、
出エジプト記 21章5節

「私は、私の主人と、私の妻と、私の子どもたちを愛しています。自由の身となって去りたくありません。」

と、言いました。「私の主人に対する愛から、私はとどまります」と。私たちの主イエス様に対する愛は、いつもイエス様の私たちに対する愛の応えです。ですからパウロは、
ガラテヤ人への手紙 2章20節後半

 私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を…

と、言うことができたのです。パウロは、主イエス様の愛によって圧倒されてしまったのです。パウロの自己紹介は1節でしょう。
ピレモンへの手紙 1節

 キリスト・イエスの囚人であるパウロ。

時々、「アルコール中毒である云々」と自己紹介されている兄弟姉妹がいらっしゃいます。パウロは、自己紹介として「キリスト・イエスの囚人(原語は、「奴隷」)」と言っています。
「イエス・キリストの奴隷であるパウロ」と。
今、兄弟が読まれました手紙を見てもわかりますように、パウロ自身さえ大切ではないのです。パウロの内におられるキリストこそ、見るべきものではないでしょうか。普通の人間とやはり違うのではないかと思います。
先日も話しましたように、イエス様の全き献身の結果は、手足が釘づけられ、刺し通されることでした。全き献身とは、「わが思いが成るのではなく、ただみこころだけが成るように」ということにほかなりません。私たちは、日々新たに、「主よ、あなたは何を望んでおられるのでしょうか」と問うべきではないでしょうか。
イエス様について次のように書いてあります。
ヘブル人への手紙 12章2節

 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

イエス様は、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架
を忍ばれました。

 それでは、今日、イエス様にとって喜びとなるものはいったい何なのでしょうか。すべ
ての人が、自分がイエス様のしもべ、イエス様の奴隷であることを告白し、「私は、あなた
を愛し、自由の身となって去りたくない」と、出エジプト記のあの奴隷のように言うこと
ができれば、これこそイエス様が一番お喜びになることです。イエス様はご自分を卑しくして、奴隷の姿をとられました。「私の代わりにのろわれたイエス様に仕えること」こそ、
幸せそのものであり、最高の特権なのではないでしょうか。
 イエス様は、本当にパウロに出会われました。このイエス様の愛によって、彼は圧倒されてしまい、「私にとって生きることとはキリストです。イエス様は、私にとってすべてのすべてです!」と、喜んで言うことができたのです。

同じ表現が出ています。
ピレモンへの手紙 9節後半

 キリスト・イエスの囚人となっている私

それから、もう一人の囚人であり、また奴隷になった者は、
23節

 キリスト・イエスにあって私とともに囚人となっているエパフラスが、あなたによろしくと言っています。

パウロとエパフラスは、主イエス様の奴隷でした。もう一人登場したのは、この手紙の中心になるオネシモです。彼は、罪の奴隷、自我の奴隷、悪魔の奴隷でした。けれども、イエス様との出会いによって、やはり彼も、「主イエスのしもべ」になったのです。主に用いられる者となったことは、素晴しいことではないでしょうか。
言うまでもなく、このピレモンへの手紙は、特に特別な教えを含んでいるものではありません。むしろ、牢獄に囚われの身となっているパウロが、古くからの親しい友達であるピレモンに書き送った愛に満ちた記録です。愛の書、いわゆるラブレターのようなものではないでしょうか。この手紙を読むと、やはり心が熱くなってくるでしょう。

 現代はある意味で手紙を書く時代ではないかもしれません。電話、ファックス、Eメールの時代になっているとも言えます。けれども、手紙は相変わらず大切ですね。家内の妹のエミリエから昨日も電話がありましたが、何か大切なことがあれば手紙を出します。結局、特別なことの場合は、Eメールですと他の人が読むかもしれませんし、ファックスもそうでしょう。ですから、やはり手紙の方が安全なようです。

 聖書に書かれている手紙は、慰めと励まし、また喜びを伝えるために書かれたものです。
一般に牢獄で書かれた手紙は大切にされるべきものです。パウロが牢獄で書いたピレモンへの手紙は、ことさら重要な意味を持っていると思います。聖霊は、多くの手紙を大切に守ってくださっただけではなく、この本当に小さな手紙をもお守りくださいました。 
 パウロはもっともっと多くの手紙を書いたはずですけれども、どこへ行ってしまったかわかりません。私たちは、コリント第一の手紙と第二の手紙を持っているのですが、第二の手紙とされている部分は、本当は第三の手紙なのです。その間の手紙は、なくなってしまったのです。ペテロもヨハネも、もっともっと多くの手紙を書いたに違いありません。
けれど、主は、「この手紙とこの手紙はそんなに大切ではない」と思われて、なくなってしまったのだと思われます。今与えられている手紙で、本当に十分なのではないでしょうか。

この小さなピレモンへの手紙があるのは、大変感謝なことではないかと思います。ある意味において、この小さな手紙は、主の愛の本当の意味、また主の愛の本当の価値を指し示している一種のたとえ話のようなものです。そしてこんにち最も大切なことは、私たちが、主イエスの愛の意味と価値を知ることではないでしょうか。信仰者は、絶えず激しい非難・攻撃に直面しますけれど、それらの問題に打ち勝つことができるのは、ただ主の愛によってだけです。ですから、大切なことは、私たちがいかに深く愛されているかということを思い起こすことです。どのような辛いことがあっても、愛されていることを思い出すと、やはり誰もが、また元気になります。

主の愛について、五つの事がらに分けて考えたいと思います。
1.愛は、痛みを共に分かち合うものです。
2.愛は、債務を支払います。
3.愛は、喜んで受け入れます。
4.愛は、新しい人生の原動力となることができます。
5.愛は、まことの希望を与えてくれます。

1.愛は、痛みを共に分かち合うものです。
 まず、「愛は痛みを伴う。愛は痛みを共に分かち合う」ということについて、ご一緒に考
えてみたいと思います。
パウロが、親しい友だちであるピレモンに手紙を書くようになったきっかけは、オネシ
モという男です。このオネシモという男は、実は、パウロの友だちであるピレモンの奴隷でした。自由になることを願って、自分勝手な行動をとり、しかも捕まえられないように、当時の大都市ローマに逃げ込み、姿を隠そうとしました。「ローマまで行けば、もう安全だ」と、彼は思ったのです。どのようにしたか、詳しいことはもちろんわかりませんけれど、オネシモはパウロと知り合いになりました。パウロと知り合いになった人は、イエス様を知るようになりました。少なくとも福音を聞くようになったに違いありません。
このオネシモという奴隷はやがて、パウロと一緒に祈り、悔い改めて、イエス様を信じ受け入れるようになりました。パウロは、オネシモの主人であるピレモンのところに、オネシモを帰すことになるわけですが、その際、一通の手紙を書いて、ピレモンに手渡すように、その手紙をオネシモに持って行かせました。

その手紙の中で、パウロはオネシモのことを、
ピレモンへの手紙 12節後半

 彼は私の心そのものです。

と表現しています。パウロによって、数え切れないほど大勢の人々が、確かに信仰に導かれたことは、疑う余地はないですけれど、それらすべての人々をパウロが心から愛したということも、間違いなく明らかなことです。このオネシモの場合、パウロは、特別に強い表現で、オネシモに対する深い愛を表わしています。「彼は私の心そのものです」と。

どうしてオネシモは、パウロにとってそんなに大切だったのでしょうか。この問いに対
する答えは、オネシモがどのようにして悔い改めに導かれたのかという事情の中に見出されるように思われます。
10節

 獄中で生んだわが子オネシモのことを、あなたにお願いしたいのです。

とパウロは書き記したのです。本当はパウロは命令することができたはずです。パウロは間違いなく年上でしたし、ピレモンは、パウロを通して導かれました。けれども、パウロは、「このようにしなさい」と言ってはいません。「あなたにお願いしたい」と言いました。

多くの人は、パウロのメッセージを通して、パウロの証しを通して、あるいは旅行などを通して、福音を聞き新しく生まれ変わりましたが、オネシモは鎖につながれている時に新しく生まれ変わったのです。オネシモが新しく生まれ変わったのは、パウロの獄中での試練とつながった直接の結果でした。したがって、別のことばで言い表わすなら、パウロの苦しみの結果が、オネシモの救い、オネシモの永遠の幸せに他ならなかったのです。
痛みを共に分かち合うとき、愛は最も強いものとなります。

創世記 35章18節に、次のように書かれています。

 彼女が死に臨み、そのたましいが離れ去ろうとするとき、彼女はその子の名をベン
オニと呼んだ。しかし、その子の父はベニヤミンと名づけた。

紀元前何世紀という時代に、ベツレヘムの近くで一人の男の子が生まれました。けれど、その時の状況は、まさに悲劇としか言いようのないほど悲惨なものでした。この子の母親は、大変な苦しみの後にその子を生んだのですけれど、自分のいのちを失うという大きな代価を支払わなければならなかったのです。それで彼女は、死の床で生んだ男の子の名前を「ベン・オニ」すなわち、「私の苦しみの子」と呼びました。しかし、その男の子の父親であるヤコブは、その子のために絶望的な状態に置かれながらも、その子の名前を、「ベニヤミン」、「右の子」「右手の子」という名前に変えました。ちょうど右の手が大切なものであるように、新しく生まれた子もかけがえのない大切なものとして、父親はいつくしみました。

これこそ、信じる者の経験でしょう。主イエス様は、十字架につけられて大変な苦しみを経験されましたので、その苦しみの結果として私たちを新しく生まれさせてくださったのです。私たちが救われたのは、自分たちの努力の結果ではありません。主の苦しみの結果に他ならないのです。
イエス様は私たちのために苦しまれましたので、私たちを大いに愛してくださるのです。イエス様にとって私たちは、「苦しみの子」でありながら、イエス様は私たちを愛していてくださいました。

イザヤ書 43章24節後半から25節

 あなたの罪で、わたしに苦労をさせ、あなたの不義で、わたしを煩わせただけだ。
わたしこのわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。

聖書の中で、最もすばらしいことばの一つなのではないでしょうか。「わたしは、もうあなたの罪を思い出さない」。赦された罪は忘れられています。

エペソにいる兄弟姉妹に、パウロはまた次のように書いたのです。
エペソ人への手紙 2章1節

 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって…

エペソ人への手紙 2章4節から5節

 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かして、…

私たち自身は、全く価値のないものでしょう。けれど、私たちは、非常に大きな代価を支払って買い取られた者です。

オネシモは、ローマからコロサイへの旅の途中で、しばしば元気を失い、迷ったことでしょう。けれど、彼が携えていく手紙の内容のことを思って、再び勇気と力とを奮い起こされたはずです。オネシモを送り出したパウロが、単なる同情によってではなく、「主の深い愛によって愛してくれている」ということを思い出すとき、オネシモは、再び新しい力と勇気を与えられました。

私たちもまた、人生の旅の途中でいろいろなことを経験しますけれど、私たちは一通の手紙よりも、たくさんの手紙、聖書全体を持っていることは、幸せなことではないでしょうか。
聖書は、本当に元気のもとです。心が暗くなり、「どうしようか」という気持ちになった時、みことばを開いて、「主よ。語ってください」という心構えがあれば、たとえ、新しい知識が与えられなくても、再び希望を持つようになり、前向きに生活することができるのです。
聖書は、私たちが主によって愛されていること、主イエス様を通して、考えられないほど心配されているということを保証してくれます。ちょうどパウロが、オネシモのことを「彼は私の心そのものです」と言ったように、私たちも、父なる神の心そのものであるということを確信しようではありませんか。ひとりひとりが、主の心そのものであるということは、動かすことのできない事実です。これこそ、まことの礼拝の根拠なのではないでしょうか。
主の愛は、痛みをともに分かち合う愛です。


2.愛は、債務を支払います。
主の愛は債務を支払います。オネシモの大きな問題の一つは、「ピレモンに対する負債をどのようにして払うべきか」ということでした。一般に考えられたことは、オネシモがピレモンのものを泥棒したということです。その当時、奴隷は、主人から逃げると、捕まった時、必ず死刑に処せられました。まして、主人の物を泥棒して逃げた場合には、どんなひどいめにあうか想像がつくでしょう。
ピレモンへの手紙 18節前半

 もし彼があなたに対して損害をかけたか、負債を負っているのでしたら、

…とパウロは書いたのです。そして、またその表現は、極めて穏やかな表現で述べられています。オネシモがしたことは、まぎれもなくピレモンの持ち物を盗んだことに他なりません。そうでなかったなら、オネシモは遠い外国まで、ローマまで行かなかったでしょう。結局、オネシモは払い切れないほどの債務を背負っていたはずです。

まことの愛は、不注意であったり、いいかげんであったりすることはできません。パウロは、友だちであるピレモンに「オネシモのしたことを忘れるように」とは薦めなかったのです。パウロがしたことは、オネシモの負債を無視したり、割引きしたりすることではなく、自分で完全な責任を取ろうとしたことでした。
18節後半

 その請求は私にしてください。

パウロのことばを手紙の中で見た時、オネシモの心は何と慰められたことでしょうか。
19節前半

 この手紙は私の自筆です。私がそれを支払います。

たとえどのように親しい友だち同士であっても、パウロは、この大切な事柄をいいかげんにすることはできないで、はっきりとした態度をとったのです。「私、…すなわちパウロが、この手紙を自分の手で書いています」と。

オネシモの負債が大きなものであったとしたなら、主に対する罪人の債務は、どれほど大きなものでしょうか。私たちはどれほど主を悲しませていることでしょうか。
パウロの手紙には、「もし」ということばが使われていますが、私たちの場合には、決して「もし」ということばはありません。なぜなら、私たちはみな例外なく、主に対して「罪」という大きな大きな負債を持っているからです。そして、その負債はどんなことをしても私たちの力では支払うことのできないほど大きなものです。私たちは、罪ほろぼしのために何をやっても駄目なのです。

「その請求は私にしてください」という、まごころからの愛を持った人の、すばらしいことばに耳を傾けてみましょう。これこそ福音の真髄です。イエス様は、罪の負債を完全に支払ってくださいました。「終わった。万歳!」と、イエス様は叫ばれたのです。
イエス様は、刺し通されたご自分の手で保証してくださいました。すなわち、「その請求はわたしにしてください」と。

もしオネシモが帰ることを恥じらい、自分で一生懸命働いて負債を支払おうとしたなら、それは何という悲劇だったでしょうか。なぜなら、その負債は彼にとって全く支払い不可能な金額だったからです。もし、そうしたなら、彼は絶対に戻ることができなかったことでしょう。それと同じように、私たちも、自分の力で、聖なる神に対する負債を償おうとしたなら、絶対に主のみもとに帰ることができなかったことでしょう。

救われた者も、まだ救われていない者も、十字架につけられた主イエス様を見上げることによってのみ、本当の慰めを与えられ、「その請求は私にしてください」という救い主の愛のことばを新たに聴き直さなければなりません。

ペテロは、当時の信じる者に書いたのです。
ペテロの手紙・第一 2章24節前半

 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。

イエス様が十字架の上で私たちの罪をその身に負ってくださったことによって、私たちは、私たちの罪が完全に贖われ、赦され、負債は支払われているということを知り、その確信を持つことができるからです。


3.愛は、喜んで受け入れます。
まことの愛、すなわち主の愛は、喜んで受け入れる愛です。パウロはピレモンに対して、オネシモを自分と同じように受け入れてほしい。すなわち、
ピレモンへの手紙 17節後半

 私を迎えるように彼を迎えてやってください。

と書き送りましたが、これほど真実に満ちた愛のことば、また良いことばは、極めて稀なものと言えましょう。

もし、このようなパウロの手紙を持たずに、オネシモが主人のもとに帰ったとしたなら、どのようなことが彼を待ち受けていたかは見当がつきます。たとえば、ドアをたたく音がします。そこで、ピレモンの一人の召使いが出て行き、来訪者を見て、それを主人であるピレモンに伝えます。「あの逃亡者、オネシモが来ました」。その時、ピレモンの気持ちはどのようなものでしょうか。たとえ、ピレモンが主イエス様を信じる者であるとしても、一人の人間である以上、「オネシモがひどいことをした」ということを思い出せば、心穏やかでないものがあったでしょう。たとえ、「イエス様を信じている者だから」と、自分に言いきかせ、心をなだめて復讐心を抑えることができたとしても、どうすることもできない心の中のたたかいが起こったことでしょう。その結果、ピレモンが以前の奴隷オネシモに対してとることができた態度は、せいぜい冷淡な態度か禁欲的な態度かのいずれかだったでしょう。

しかしながら、オネシモではなくて、「パウロ自身が来ました」と召使いが主人のピレモンに伝えたとしたならどうでしょうか。家全体が歓迎一色に包まれ、喜びと感謝と賛美が、家全体を包むことでしょう。それほど、パウロは、主にある兄弟から愛され、尊敬されていましたし、パウロ自身もみんなが大喜びで歓迎してくれることを知っていました。 
そして今、パウロは、「泥棒のようにして主人から逃げてしまった奴隷であるオネシモを、パウロ自身と同じように受け入れてほしい」とピレモンに頼んだのです。果たして、ピレモンが、パウロが書いたように、パウロ自身を迎えるのと全く同様に、オネシモを受け入れることができたかどうか、パウロの言う通りに従うことができたかどうか、私たちにはわかりません。

けれど、それは主なる神の受け入れ方であることは間違いないのです。どのようなことがあっても、私たち主イエス様を信じる者は、イエス様のゆえに受け入れられています。
主は、「決して捨てない」と約束してくださったのです。これこそが、成された救いの素晴らしい結果です。

主と人との間の、和解と罪の贖いは、十字架のみわざによって完全に成し遂げられまし
たので、父なる神は主イエス様のゆえに、私たちを、負債を負った者としてではなく、義なる者として、良しとされた者として、受け入れてくださいます。なぜなら、イエス様を信じ受け入れた者は、イエス様の義のゆえに、私たちもまた義なる者として父に受け入れられるのです。
すなわち、主イエス様は次のように父なる神に言われます。「どうか、彼を、彼女を、罪人としてではなく、わたし自身のように、すなわち、父なる神に愛されている息子、娘のように、受け入れてください」と。
ピレモンについては、よくわからない点がありますけれど、イエス様を信じる私たちを、
御子イエス様ゆえに、主なる神、父なる神は、必ず受け入れてくださるということについ
ては何の疑いもありません。


4.愛は、新しい人生の原動力となることができます。
ピレモンにとって、パウロから頼まれたように、オネシモを受け入れるべきかどうかということについては、当然問題となり得ることだったでしょう。オネシモに対して寛大な態度をとって、その後で再びもとの木阿弥になってしまうという可能性が全くないとは言い切れなかったかもしれません。ひとたび失望させられてしまったら、どのようにして、再び、ピレモンがオネシモを信頼することができるようになるでしょうか。
もともと、「オネシモ」という名前は、「助けになる」とか「役に立つ」とかということを
意味しますが、彼は自分の名前に反することをしてしまったのです。彼はもう二度と同じ
ことをしないと誰が言えるでしょうか。パウロの手紙は、まさにこの問題を十分に配慮し
て書かれました。
11節

 彼は、前にはあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私
にとっても、役に立つ者となっています。

「役に立たない者」が、「役に立つ者」「用いられる器」となった。

パウロは、オネシモの負債を認めた上で、そのオネシモが、今は全く違った者となった
ことを証明しました。「彼は、前にはあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても、役に立つ者となっています」と。この証明は、ただ単にオネシモ自身によって成されたものではなく、この手紙を自ら書いた人、すなわちパウロが、全責任を持ってピレモンに行なった約束でした。

パウロがこの手紙を書くことは、大変だったのではないでしょうか。パウロがどのよう
な病気を持っていたのかわかりませんが、長い間病気でした。パウロは、よく、「いつも喜びなさい。感謝しなさい。…」と語っていましたから、彼は大した問題を持っていなかったと思うかもしれませんが、とんでもありません。彼は他の多くの病人を癒しましたし、死んだ人を生き返らせました。けれど彼自身の病気は癒されなかったのです。
普通の病気でしたら、彼はそのために祈らなかったでしょうが、多分、マラリヤの一種類だったようです。マラリヤには三種類あるらしいのですけど、その一種類に罹ると、目が不自由になって、そのうえ、てんかんになるのです。もし、パウロがこの病気を持っていたのなら、私たちの想像できないような苦しみだったでしょう。まず、彼は自分の手紙を書くことができなかったのです。ローマ人への手紙、コリント人への手紙、ガラテヤ人への手紙、…と、自分で書くことができなかったのです。目が不自由だったので、他の人に頼んで書いてもらったのです。そして、最後に大きな字で自分の名前くらいしか書けなかったのです。ですから、この「ピレモンへの手紙」を書くのは大変な苦労だったでしょう。けれど、「自分の心であるオネシモのためだったら、私は何でもする」と。

目が不自由になるのは、確かに大変かもしれません。けれど、さらに、もしもてんかんもあったならば、考えられないほどの苦しみだったでしょう。彼はイエス様のことを紹介して言います。「イエス様に頼ると大丈夫! 信頼すれば失望させられない!」と。そして、彼が急に意識不明になって暴れるようにでもなれば…。考えてみてください。
パウロにとっても、考えられない苦難だったことでしょう。

ですから、彼はコリント人への手紙・第二の中で、「私は三回、主に頼んだ」と記されています。おそらく三日間、夜中祈り続けたのです。「主よ。 癒して! 癒して! 癒して! 私のためではないのです。私が急に意識不明になって暴れたりすると、つまずく人がいるではありませんか。もう耐えられません」と。

けれども、イエス様はある意味では答えられましたが、知らん顔をもなさったのです。
「パウロ、わたしはあなたを癒そうと思えば簡単に出来ます。一秒もかからないうちに。けれど、これからあなたが祝福され、多くの人が導かれるようになれば、あなたは知らないうちに傲慢になる。そして残念ながら、わたしは、信仰者も傲慢になると用いることができません。どうしますか。選びなさい」と。
パウロは、「そうでしたら結構です。癒されなくても結構です。用いられれば、あなたがご栄光をお受けになれば、うれしいです」。…そういう結果になってしまったのです。
ですから、この「ピレモンへの手紙」を書くのは、パウロにとって簡単なことではなかったのです。

パウロは、ローマにいる兄弟姉妹に書いたのです
ローマ人への手紙 6章17節から18節

 神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教
えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。

人は、もちろん、ものではありません。イエス様ご自身が、私たちのために義となられたのです。罪の奴隷が、イエス様の奴隷となったのです。
ピレモンにとっての最大の関心は、「悔い改めたオネシモが、その名前に忠実になろうと、どれだけ努力するか」ということだけではなく、「オネシモのことを、責任を持って保証したパウロ自身」にあったと言えます。

パウロは、エペソの兄弟姉妹にも書いたのです。
エペソ人への手紙 2章13節

 しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にある
ことにより、キリストの血によって近い者とされたのです。

オネシモにとっても、私たちにとっても、主なる神の愛は、ただ単に過去の罪を洗い清めるというだけではなく、新しい人生の道をも備えていてくださるのです。これは決して、私たち個人の努力の結果ではありません。主なる神の恵みと、主の愛の力によるものです。救いをもたらす主の愛こそが、イエス様ご自身のいのちの新しい力を、私たちに提供してくださるのです。主を信じる者は、主の愛が喜びの源であり、新しい人生の原動力であることを体験的に知ることができます。


5.愛は、まことの希望を与えてくれます。
ピレモンへの手紙 22節

 それにまた、私の宿の用意もしておいてください。あなたがたの祈りによって、私
もあなたがたのところに行けることと思っています。

このようにして、パウロの言う通りにオネシモが受け入れられたとしますと、その感動はどれほど大きなものだったでしょうか。しかし、それからの毎日は単調な生活の繰り返しになるかもしれません。そうすると、オネシモはいろいろな誘惑によって昔の古い生活に戻ってしまわないとも限りません。しかしながら、そのような誘惑に対して、彼は、「パウロがまもなくやって来る」という約束を思い出すことができます。パウロは、それほど遠く隔てた所にではなく、コロサイの旅行の途中にいたかもしれません。おそらくパウロは、非常に近いところに来ていて、今日にでも到着するかもしれません。「パウロがまもなく来るかもしれない」という思いは、オネシモにとって大きな喜びであり、また励みともなり、彼の心の支えとなっていたはずです。「まもなくやって来るパウロを悲しませてはいけない。喜んでもらえるような主のしもべ、主の奴隷にふさわしい生活をしなければ」と思ったことでしょう。主にある兄弟たちは、心からパウロの宿を準備したことでしょう。

パウロが約束通りコロサイにやって来たかどうか、私たちにはわかりません。けれども、
「イエス様がまもなく来られる」と私たちは信じることができ、この望みは確実に実現さ
れます。そして、「主は近い」という事実は、毎日の信仰にとって最大の励ましとなります。
「イエス様は、今日来られるかもしれない」。 

必要なのは、その準備が十分になされていることです。すなわち、その準備とは、「主に忠実に仕えること」に他なりません。オネシモが、毎日主に忠実に仕えているように、ピレモンに仕えていたある日、突然パウロが現われたとしたなら、その喜びはどれほど大きなものでしょうか。
おそらく、オネシモはピレモンの奴隷としてとどまっていたことでしょうが、彼は、信頼する兄弟でもあったのです。しかし大切なことは、役に立つしもべとして、主に忠実に仕えることです。
「よくやった。よい忠実なしもべよ」と、主はおっしゃいますが、「よい忠実な指導者よ」「よい忠実な長老よ」とはおっしゃいません。どこまでも、「よい忠実なしもべよ」と主は仰せになります。

なお、次のみことばは、深く考えるべきことばなのではないでしょうか。
ルカの福音書 17章10節

「あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、
『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい。」

私たちは、「なすべきことをした」と絶対に言えません。1パーセントしかやっていないかもしれません。ですから、「役に立たないしもべです」としか、言えないのではないでしょうか。
主の愛のゆえに、主のしもべとして、忠実に仕える奴隷として、主イエス様に仕えなさい。


 今まで私たちの主の愛について、みことばから学んでまいりましたが、主の愛は具体的には何らかのものとか、何らかの気持ちとかという性質のものではなく、「イエス様ご自身」に他なりません。

私たちは、イエス様を信じ受け入れたので、主の愛を経験するようになったのです。
私たちは、次のように証しをすることができます。
「主の愛、すなわち、主イエス様は、私の痛みを共に分かち合ってくださり、私の債務を
全部支払ってくださり、私のような者を受け入れてくださり、新しい人生の原動力そのも
のとなり、まことの希望、生ける希望、望みを与えてくださったお方です」と。

初代教会の人々はよく言ったのです。「私たちは、神の愛を経験した」と。

 主の愛のゆえに、忠実に仕えるしもべとして主に仕えましょう。



サイトマップ
更新履歴


メッセージ・証し集インデックスページ

◆メッセージ(ベック兄)

※一部、テープの転換による不明部分あり

神のみことばは神のみことばである(5) 2006. 4. 18
神のみことばは神のみことばである(4) 2006. 4. 11
神のみことばは神のみことばである(3) 2006. 4. 4
神のみことばは神のみことばである(2) 2006. 3. 21
家族の救い 2006. 3. 19
神のみことばは神のみことばである(1) 2006. 3. 14
主イエスは神の子キリストである(4) 2006. 3. 7
主イエスは神の子キリストである(3) 2006. 2. 28
主イエスは神の子キリストである(2) 2006. 2. 14
主イエスは神の子キリストである(1) 2006. 2. 7
勝利の生活の秘訣 2006. 1. 24
イエス・キリストのからだ 2006. 1. 17
主の永遠からの予定 2006. 1. 10
元旦メッセージ 2006. 1. 1


2005年度のメッセージ集
2004年度のメッセージ集
2003年度のメッセージ集