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メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


人間をとる漁師にしてあげよう(20)
   
2005.3.22(火)
ベック兄メッセージ(メモ)

 
引用聖句
出エジプト記 32章32節
「今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら――。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」

ヨハネの福音書 12章24節

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」

ローマ人への手紙 9章3節

 もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。


イエス様が、弟子たちを人をすなどる者としてお用いになるために、「従うように」と呼びかけられたとき、弟子たちは、自分たちの今まで大切にしていた網を(つまり、妨げとなるものを)、全部捨てたのです。
パウロもまた、自分の網を捨てたと言えます。「私にとって得であったこのようなもの
をみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました」(ピリピ3章7節)と。
考えられない奇蹟であり、変化です。みことばは言っています。
ゼカリヤ 4章6節

『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』

「わたしに従いなさい。わたしはあなたがたを、人間をとる漁師、人間をすなどる者にしよう」とイエス様は呼びかけておられます。

一人の人がイエス様を第一にすると、それは他の人々にも広がっていくということを、私たちは何度も経験しています。一人の人がイエス様のために失われたたましいを獲得しようとすると、その波紋は次々と広がり、他の人々も突然同じ目標と願望を持つようになります。イエス様の前に大いなることを期待しつつ立ち続ける者は、他の兄弟姉妹もまた、同じ霊によって捕らえられるということを、やがて経験するようになります。
誰もが互いに影響を及ぼす者です。自分自身を大切にしようとする者は、他の人もまた自分自身を大切にするようになり、それによって、「死」が入り込んでしまうということを経験します。
イエス様は言われました。
ヨハネの福音書 12章24節 

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」

イエス様が私たちを導きたいと思っておられる道は、長ければ長いほど狭く、十字架ま
で続いています。自分のいのちを愛する者、自分のものに固執する者、自分自身を否定す
る備えのない者は、霊的なかたわになってしまいます。
ですから、いつも覚えるべきことは、「イエス様が私たちにお与えくださったみことばは、目に見える世界のあらゆる現実よりも信じるに足るものである」ということです。

私たちのイエス様は、みことばを成就するために、自然法則全体をも打ち破ることがお
できになるということを覚えましょう。
また、私たちの主イエス様は、ご自分の約束を決してお破りになりません。イエス様は
すべての力を握っておられ、イエス様のみことばは永遠の真理ですから、必ずみことばの
通りになります。
この信頼を、私たちは必要としているのではないでしょうか。間違った謙遜、すなわち
不信仰によって、私たちは主の御名を汚すことになります。イエス様のために生きる備え
のあるところでは、歓喜の喜びが私たちの心を満たし、それは革命的な働きをします。私
たちの周囲にいる人々が急に聞く耳を持つようになり、飢え渇きを感じるようになります。そして、私たちは備えられた心に福音を宣べ伝えるチャンスと可能性を持つようになります。「あなたの信じた通りに」、「信じると神の栄光を見る」と主は約束しておられます。

主に用いられるために持つべき精神とは、いったい何なのでしょうか。
この大切な問いについて、ご一緒に考えたいと思います。先ほど読んでいただきました個所を通して、私たちは、主によって用いられた二人、すなわちモーセとパウロがどのような精神で奉仕したかがよくわかります。
モーセとパウロは、旧約聖書と新約聖書を代表する偉大な信仰の人でした。ですから、
この二人が、主に仕える奉仕に対してどんな態度を取っていたかを考えることは、非常に
大切なのではないかと思います。私たちは一人残らずイエス様に仕え、イエス様に用いられたいと願っているのではないでしょうか。ですから、正しいご奉仕の精神を、心の目を開いて、知ることが必要です。

冒頭に読んでいただきました個所は、確かにモーセとパウロのことばなのですけれど、二つとも原語では祈りのことばです。このことばを通して、主のみこころにかなった奉仕の精神がどんなものであるか知ることができます。
このみことばを読んでいきますと、直感的にわかることは、このモーセ、またパウロも、
まったく自分に死に切っているということではないでしょうか。
モーセは、「同胞のためなら、いのちの書から私の名が消されても構わない」と言った
だけではなく、思っただけではなく、主に向かって祈ったのです。
そしてパウロは、「同胞のためなら、自分はのろわれても構わない」と祈っています。
この二人のように、おのれに死に切った人が他にいるでしょうか。この二人の主のしもべは、まったく自分を忘れていました。自分の目的も、自分の願いも、自分の利益も、まったく頭の中にありませんでした。 
主に選ばれた信じる者、すなわち、まことの教会は、モーセとパウロのすべてでした。
自分の祝福、自分の義、自分の誉れ、それらはまったく二人にとっては問題ではなかった
のです。別のことばで言うなら、主の教会、また主にある兄弟姉妹は、モーセとパウロのいのちであり、すべてでした。
この二人は、「自分の持ち物、自分の時、自分の力、いのちは、主のからだなる教会のためにあるのだ。主にある兄弟姉妹のためにあるのだ」と、堅く信じていました。
「もし信じる兄弟姉妹が、霊的に成長せず、兄弟姉妹の悩みをかえりみることなく、とりなして祈ることができないなら、自分の生き甲斐はない」と、主のしもべであるモーセとパウロは確信したのです。これこそ、まことの主のしもべの、心のあり方であり、また、主が私たちにも与えたいとしておられる精神です。

四つの点について、簡単に考えたいと思います。
1.モーセとパウロの内に宿ったキリストの霊。
2.主のご目的を実現するための戦い。
3.すべてをささげることの必要性。
4.まことの奉仕に必ず伴なう火のような試みについて

1.モーセとパウロの内に宿ったキリストの霊。
もう一度、出エジプト記の32章32節をお読みいたします。
出エジプト記 32章32節 

「今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら――。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」

とモーセは祈ったのです。
パウロの持っていた精神も、もちろん同じものでした。
ローマ人への手紙 9章3節

 もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。

と。
もちろん、彼らは立派だったというよりも、彼らは主の霊によって捕えられてしまった、
主の霊に満たされた二人でした。ですからモーセとパウロの内に宿ったキリストの霊こそが、二人を用いることができたのです。
モーセとパウロの祈りを読むと、二人にはいろいろな点で共通しているところがあると
わかります。二人が祈りに導かれた原因は、結局信じる者の罪でした。
イスラエルの民、主によって特別に選ばれた国民は、エジプトの国から救い出されまし
た。これはもちろん、新約聖書では、「主に選ばれて罪赦され、救いの確信をいただいた、
主イエス様を信じる信者」を表わしています。主なる神のあわれみにより、エジプトから
救い出されたイスラエルの民は、彼らが経験した主の大いなる救い、解放、また恵みを、
まもなく忘れてしまいました。モーセがシナイ山に登っている間に(四十日間だったのですが)、とんでもないことになってしまったのです。モーセの降りて来るのが遅いと言って、アロンの考えによって金で子牛の偶像を作り、これが自分たちをエジプトの国から導き上った主であると言って、子牛を礼拝するということをしました。ちょっと考えられないことです。
モーセは罪を犯したこの民のために祈っています。心から叫んだのです。主のもとに帰
って、そして言いました。「今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら――。しか
し、もしかないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください」。
そして、ローマ書9章を読みますと、同じようなことが書かれています。イスラエルの
民は、主から離れ、主にそむき、ついにひとり子なる主イエス様を十字架につけてしまい、
大きな考えられない罪を犯してしまったのです。この恐るべき罪を犯した民のために、パ
ウロは心から祈り、叫びました。「もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のた
めに、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです」
とあります。

この祈りを読んでいきますと、モーセとパウロは、愛するに価する者のためにとりなし
てはいません。悪魔と結びつき、罪を犯して、愛そうにも愛することのできないような人
たちのために祈っているのです。これを考えるとき、私たちの心に何か教えられるものが
ないでしょうか。私たちが愛して、その愛に応えてくれる人たちのために奉仕することは
簡単です。モーセとパウロの場合は違いました。まったく違いました。モーセとパウロの
愛にまったく応えてくれない民を愛して、愛して、愛し抜いた二人でした。
私たちも、主のもとから離れている兄弟姉妹に対して、そのような心の態度を持ちたいし、持つべきなのではないでしょうか。

モーセとパウロには、その他にも共通している点があります。それは、モーセもパウロも、心からその人たちを愛してすべてをささげたために、誤解され、いじめられたという点です。
モーセは、イスラエルの民をエジプトから解放しようと思い立ったとき、民に誤解され、
自分の身に危険を覚えて逃げなければならなかったのです。また、民を導いて荒野をさま
よった四十年の間、モーセは、どれほど民に誤解され、民から苦しみを受け、民のために悩んだかわかりません。
パウロの場合もモーセと同じでした。信仰を同じくするイスラエルの民によっていじめ
られ、迫害され、誤解され、悪者のように取り扱われたのです。
けれど、この二人の主のしもべは、自分を理解してくれない人たちのために自らの生涯
を与え尽くし、ささげ尽くしたのです。
モーセは、自分をいじめ抜いた民であることをよく知りながら、主の前にとりなすよう
になったのです。「今、もし、彼らの罪をお赦しくださるものなら――」。「しかし、も
しも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を
消し去ってください」。「彼らの罪を赦してやってください」と祈るモーセの心の内には、
イスラエルの民に対する苦々しい思いはひとつもありませんでした。
パウロも主の前にひれ伏し、「もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです」。

これこそ、主が与えようと望んでおられる精神であります。これこそがイエス様の精神
です。イエス様は呪いとなってくださいました。これは何というご奉仕でしょう。私たち
の罪のために、父なる神は、主イエス様をお捨てになり、御顔をそむけられたのです。
イエス様は、一番辛いそのことにも耐えてくださいました。またイエス様は、ご奉仕の間、多くの人たちにいじめられ、責められ、誤解され通しでした。ご自分を誤解し続けた兄弟たちのために、十字架上の断末魔の苦しみの中で、イエス様は叫ばれたのです。「わが神。わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と祈りをおささげになりました。

 イエス様は、自分を見捨て、自分の選んだ人々に対して、「兄弟」と呼びかけるのを恥とされなかったのです。これがイエス様の精神でした。イエス様は、価値のない私たちのためにのろいとなってくださいました。
このイエス様の霊は、パウロの内にも生きていました。パウロはやはり民のためなら、
この身はのろわれても構わないと祈っています。
私たちはこの主の標準からなんと遠く離れていることでしょうか。

今まで、モーセとパウロの内に宿ったキリストの霊について考えました。


2.主のご目的を実現するための戦いについて。
ここまで、出エジプト記32章と、ローマ書9章から、モーセとパウロの祈りを考えて来ましたが、ここで、この出エジプト記32章とローマ書9章の前に、どのようなことが起こっていたのか読んでみたいと思います。

出エジプト記の31章は、本当にまったく違うすばらしい章です。モーセはシナイ山に
はいり、そこで主と親しい交わりをもち、主から幕屋の雛形を見せられました。シナイ山
は啓示の山です。啓示された幕屋は、主イエス様を象徴するものです。主は、ご自分の住もうとされる幕屋の模範をモーセに示されました。主はモーセに示された幕屋に住み、ご自分の栄光をお現わしになりたかったのです。モーセにとって、幕屋が上から示されたということはすばらしい体験でした。けれど、示された幕屋の建設はすぐにはできませんでした。
32章を見ると、民が罪を犯して堕落したことが書かれています。モーセにとってこれは大きな悩みであり、苦しみであり、また戦いでした。主のご目的を実現するにはいつも戦いが伴ないます。
同じくローマ書9章の前の8章を見ると、これもまた、出エジプト記32章に劣らず、
すばらしい章です。
ローマ人への手紙 8章1節、2節

 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。

17節、18節

 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。今の時のいろいろな苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

すばらしい告白なのではないでしょうか。

28節から30節

 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

31節から39節

 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか。飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、のちに来るものも、力ある者も高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

この箇所は、聖書の中でもっともすばらしい箇所の一つではないでしょうか。
このローマ書8章を読んでいきますと、私たちは、高いところへ思わず知らず引き上げられて行くような気がします。この章を読んでいきますと、主の永遠からのご目的が明らかになります。前に読みました箇所です。
29節

 神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

これが主のご目的です。さらに続いて同じくローマ書12章の4節、5節には、ご目的の実現について書かれています。
ローマ人への手紙 12章4節、5節

 一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。

けれど、このローマ書8章と12章の間には、非常に暗いことが書かれています。イス
ラエルの民が、主を離れ、油注がれた神の御子である主イエス様を十字架につけて殺してしまった、悲しむべき陰惨な出来事が書かれています。

モーセとパウロは、すばらしい神の奥義を上から示されています。すなわち、モーセは、
「神の家」「住まい」「幕屋」を教えられ、パウロは、「神の宮」「まことのからだなる
教会」を教えられています。けれど、二人とも、この主のご目的を示されて、それを実現
するまでの間には非常な戦いがありました。それは主のご目的が達成されるための激しい
戦いだったのです。
出エジプト記の32章を見ると、悪魔は、荒れに荒れて、主のご目的を駄目にしてしま
おうとしていることがよくわかります。偶像礼拝の霊がイスラエルの民の中に入って来ま
した。民は金の牛に礼拝をささげました。まことの神から離れてしまったのです。
悪魔は今、私たちの生まれながらの性質を用いて、主のご目的を実現させないように働きかけています。もし自分の弱い点にお気づきなら、そのまま主に新しくすべてをゆだねるなら、主は解放してくださいます。ありのままでいることをしない人は、主を否定することになります。主のみ前では、「私たちは貧しい者であり、みじめな者であり、あわれむべき者であり、目の見えない者であり、裸の者です」と書いてあります。主にすべてをささげ、私たちのうちに、私たちを通して主に働いていただきたいものです。

主の宮はいったいいつ建てられるようになったのでしょうか。恐ろしい戦いの後でした。
すなわち、偶像礼拝者を除くという恐ろしい戦いの後でした。モーセとレビの子たちは、
偶像を拝んだ者たちを除かなければならなかったのです。大変なことです。
出エジプト記の32章の25節を見るとわかります。
出エジプト記 32章25節から29節

 モーセは、民が乱れており、アロンが彼らをほうっておいたので、敵の物笑いとなっているのを見た。そこでモーセは宿営の入口に立って「だれでも、主につく者は、私のところに。」と言った。するとレビ族がみな、彼のところに集まった。そこで、モーセは彼らに言った。「イスラエルの神、主はこう仰せられる。おのおの腰に剣を帯び、宿営の中を入口から入口へ行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ。」レビ族は、モーセのことばどおりに行なった。その日、民のうち、おおよそ三千人が倒れた。そこで、モーセは言った。「あなたがたは、おのおのその子、その兄弟に逆らっても、きょう、主に身をささげよ。主が、きょう、あなたがたに祝福をお与えになるために。」

私たちの場合も同じだと信じます。心の偶像が取り除かれ、自分の利益、自分の考えを
主の御前に恥じるようになって初めて、主の宮が建てられていくのです。それまでの間に
は、戦いと悩みがあります。

パウロは、ガラテヤ人のためにこの戦いを戦いました。ガラテヤ書を読むと、パウロが
ガラテヤ人のために恐るべき戦いをしたことがわかります。ガラテヤ人は、誤ったユダヤ教に足を踏み入れてしまい、掟に縛られ、その霊的状態は荒野をさまよったイスラエルの民のように荒れに荒れてしまいました。
主のご目的が実現されていくところには、いつも戦いがあります。主のご目的はご自分の住む家であるまことの主イエス様のからだなる教会を建て上げることです。
エペソ人への手紙 1章23節に、次のように書かれています。

 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

教会は、徹頭徹尾主のものです。
この教会が実現しますと、あらゆる問題は解決するようになります。けれど、この教会が建て上げられていくには、多くの悩みや苦しみや誤解が伴なうでしょう。けれど、栄光に満ちた主の教会が建て上げられていくことを、もちろん信じています。

今まで私たちは二つの点について考えました。
1.すなわちモーセとパウロの内に宿ったキリストの霊について。
2.主のご目的を実現するための戦いについて。


3.すべてをささげることの必要性について。
主のご目的を私たちは上から教えられて知っているのでしょうか。主がモーセとパウロ
に示されたように、私たちにももうすでに示してくださったのでしょうか。そして、その
主のご目的が達成されるように、私たちのすべてをおささげしているのでしょうか。
すべてを主におささげすることは、本当に大切です。すべてをささげようとするとき、自らの利益、立場、名誉、それらのものはどこかへ行ってしまいます。主のご目的が何であるかを心の目で見て、すべてを主におささげするとき、教会がその人のいのちとなり、すべてとなるはずです。

モーセは、イスラエルの民を思い、主の教会を思うあまり、主の御前に心を注ぎ出して
祈ったのです。「今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら――。しかし、もしも、
かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去
ってください」。
イスラエルの民が立ち直るか、または自分がダメになるかどちらかを、主に迫っている
モーセの姿が目に映るような気がします。すべてを主にささげ、主の家を思うとき、二つの道を選び取ることはできません。私たちを通して主の家が建て上げられるか、または、私たちが駄目になるかのどちらかです。

主が私たちを通して、思うがままに働くことがおできになるように、自分で何か役割を
演じようなどとは思わないようにしましょう。自らは何の価値もない者です。モーセは、
この祈りの中で言っています。「自分は価値のない者だ。私の救いや私のいのちは必要で
はない」。またパウロは、「もし、主のみこころが、信じる同胞のうちに為されていかなければ、私は何のために救われ、何のために生きているのかわからない」と言っています。
主は、主のみこころ全部を教会に、イエス様のからだなる教会に傾けておられることを
明らかになさりたいのです。

私たちはなぜ救われたのでしょうか。何かを得るためなのでしょうか。いつか天国に入
るためなのでしょうか。いろいろな祝福をいただくためなのでしょうか。
確かに、多くの人たちはそのために救われたと考えていますけれど、本当は違います。
私たちは、主のご目的を成し遂げる主のしもべとなるために、救われたのです。
この主のご目的を成し遂げるには、いろいろな値を払わなければなりません。主の家を建て上げるという主のご目的を成就するためには、いのちをもささげなければなりません。

イエス様は次のように言われました。みなさんが暗記していることばです。
マタイの福音書 16章25節 

 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。

と、イエス様は約束してくださったのです。

「主のからだである兄弟姉妹のためなら、死もいとわない。兄弟姉妹は自分のすべてである」と思うまでに、イエス様と一つになっているのでしょうか。
私たちは、主の家である教会、主にある兄弟姉妹がひとりひとりのすべてとなっており、
この霊的知識がいのちとなっているのでしょうか。
この、主の家を建て上げたいという願いは、モーセとパウロのすべてでした。二人は、ご奉仕に際しても自分の名誉を求めず、ただただ主を思い、主の教会を建て上げるためにいのちをかけていました。
エペソ人への手紙5章27節 

 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。

とあります。もう一箇所見てみましょうか。パウロの心はどういうものであったか、これを読むとわかります。
コリント人への手紙・第二 11章2節

 私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたから。

と、パウロはコリント人に書いたのです。このコリント人は、確かに導かれ、救われたの
です。救いの確信を持っていたのです。「私たちの国籍は天国です」と確信したのですけ
れど、なかなか成長しなかったのです。パウロの悩みの種でした。パウロと同じように、この目的を持って奉仕しなければ、主は私たちを悲しく思われることでしょう。

主は、モーセやパウロと同じように、私たちを通してご自分のご目的を達成させるために、私たちを救ってくださったのです。このように、主に仕える準備が整っているのでしょうか。このまことのご奉仕は、死に至るまで従順に主にお従いしてゆく奉仕です。

今まで、
1.モーセとパウロの内に宿ったキリストの霊。
2.主の目的を実現するための戦い。
3.すべてをささげることの必要性。
について考えました。最後に短く「まことの奉仕に必ず伴なう火のような試み」について考えたいと思うのです。


4.まことの奉仕に必ず伴なう火のような試みについて
主のしもべたちは、特別に激しい試みに会ったと告白しています。私たちが救われるためには苦しみがありません。救われるためには、私たちは何の値も払いませんでした。
けれど、救われて神の子として歩み始めたそのときから、いろいろ悩みが、また苦しみが襲って来たのではないでしょうか。これはいったいどういうわけでしょうか。
それは、私たちがただ救われるために救われたのではなく、主に仕えるために救われた
からです。私たちは、「主に用いられるしもべ」となるべきです。けれど自分を無にしない限り、主のしもべとなることはできません。自分を無にするには、激しい試みを通され
なければなりません。何と多く私たちは自らを喜ばせ、自らを愛する心を持っていることでしょう。ですから主は、ご奉仕を妨げる私たちの自我を取り除くために、いろいろな悩みや苦しみの中を通されるのです。

私たちは、偉大な主の遣い人であられる主イエス様を見上げましょう。「イエスから目を離さないでいなさい」と命令されています。衣を脱ぎ、帯を締め、タオルを手にし、桶を持ちまわって弟子たちの足を洗ってくださったイエス様を、見上げたいものです。これは、当時の奴隷の仕事でした。イエス様はおのれをむなしくされたのです。自らの名誉も名前も利益もお考えにならなかったのはイエス様です。これこそまことの奉仕の精神です。

イエス様は次のように言われました。
マタイの福音書 20章28節

「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」

これはイエス様の証しです。イエス様はまことの神のしもべでした。
私たちも、まことの主のしもべとなるためには、すべてを主におささげしなければならないはずです。いのちさえささげなければなりません。すなわち、自分の自我をささげなければ、また、自分の意思をささげなければなりません。それがためには多くの苦しみや困難を通らなければなりません。この試みを通ったとき、まことの主のしもべとなっていくのです。

モーセについて、次のように書かれています。
民数記 12章3節

 さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。

 

と書いてあります。モーセは人を殺したのです。非常に短気で…。けれども、彼は主の恵みによって、「非常に謙遜であった」とあります。モーセがこのように言われるようになるまでには、想像に絶する試みを通されたのです。モーセについて書かれています。ひとことばだけですけれど。
歴代誌・第一 6章49節

 神のしもべモーセ

御霊は、「神のしもべモーセ」とモーセを呼んでいます。同じ御霊は、パウロに対して、
「イエス・キリストのしもべパウロ」と呼んでいます。

パウロは地にひれ伏し、心から祈りました。「もし、できることなら、私の同胞、肉に
よる同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ
願いたいのです」と言っています。
これが、主が私たちにも与えようと望んでおられるご奉仕の精神なのです。



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メッセージ・証し集インデックスページ

◆メッセージ(ベック兄)

※一部、テープの転換による不明部分あり

神のみことばは神のみことばである(5) 2006. 4. 18
神のみことばは神のみことばである(4) 2006. 4. 11
神のみことばは神のみことばである(3) 2006. 4. 4
神のみことばは神のみことばである(2) 2006. 3. 21
家族の救い 2006. 3. 19
神のみことばは神のみことばである(1) 2006. 3. 14
主イエスは神の子キリストである(4) 2006. 3. 7
主イエスは神の子キリストである(3) 2006. 2. 28
主イエスは神の子キリストである(2) 2006. 2. 14
主イエスは神の子キリストである(1) 2006. 2. 7
勝利の生活の秘訣 2006. 1. 24
イエス・キリストのからだ 2006. 1. 17
主の永遠からの予定 2006. 1. 10
元旦メッセージ 2006. 1. 1


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