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メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


主に頼る者の幸せ
   
2005.4.10(日)
西軽井沢福音センターにて
ベック兄メッセージ(メモ)

 
引用聖句
詩篇 34篇1節から10節
 私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。私のたましいは主を誇る。 貧しい者はそれを聞いて喜ぶ。私とともに主をほめよ。共に、御名をあがめよう。私が主を求めると、主は答えてくださった。 私をすべての恐怖から救い出してくださった。彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。「彼らの顔をはずかしめないでください。」この悩む者が呼ばわったとき、主は聞かれた。 こうして、彼らはすべての苦しみから救われた。主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。 幸いなことよ。彼に身を避ける者は。主を恐れよ。その聖徒たちよ。彼を恐れる者には乏しいことはないからだ。若い獅子も乏しくなって飢える。しかし、主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない。

15節

 主の目は正しい者に向き、その耳は彼らの叫びに傾けられる。

17節

 彼らが叫ぶと、主は聞いてくださる。 そして、彼らをそのすべての苦しみから救い出される。

21節、22節

 悪は悪者を殺し、正しい者を憎む者は罪に定められる。主はそのしもべのたましいを贖い出される。 主に身を避ける者は、だれも罪に定められない。

二、三日前に、北九州に住んでおられるK・H姉妹からEメールがはいりました。現在入院されています。その中の一文章だけお読みしたいと思います。
「私の左目の視力が戻らず、足も萎えていますが、どんなところにいても楽しく喜べる
ようになりました」。
そのような文章を書く人は、ちょっと頭がおかしくなったか、或いは本物を持っているかのどちらかではないでしょうか。姉妹はいろいろな病気を持っておられます。良くなる可能性はありません。けれども、「喜んでいる。楽しく喜ぶようになった」と言うことができるのです。

本日の主題は、『主イエスに頼る者の幸せについて』というものです。神のみことばである聖書は、信じる者が本当に幸せであるということが、主のご計画そのものであり、また目標であるとはっきり言っています。
けれども私たちは、時折り不幸せだと思うのではないでしょうか。イエス様との交わりは、私たちの悩みや自己中心によって濁ってしまうことがあります。私たちは、喜びよりむしろ意気消沈してしまいます。
そこで、これから詩篇34篇のみことばから、二箇所を取り出して考えてみたいと思います。今、司会の兄弟のお読みになられました8節と22節です。
詩篇34篇 8節後半

 幸いなことよ。彼に身を避ける者は。

22節後半

 主に身を避ける者は、だれも罪に定められない。

この二つの節の中に、私たちは、二つの対立を見ます。8節の中では、「幸い」という
ことばで表わされているのに対し、22節では、「罪に定められない」ということばで表わされています。
もともと罪に定められることは、すべての不幸せの原因です。けれど、「主に身を避ける者は、不幸せにとどまる必要はない」と神のみことばは言っています。「主に身を避ける者は、幸せであり、だれも不幸せになることはない」とあります。


まことの幸せの土台は、いったい何なのでしょうか。
1.主イエス様に頼る者の幸せの土台は、「絶えず父なる神の御手に守られていること」で
す。絶えず父なる神の御手に守られていることを考えると、嬉しくなります。
詩篇 34篇1節

 私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。

これは本当に幸せな人間の告白なのではないでしょうか。この節の中で一番大切なみこ
とばは、「あらゆる」と、「いつも」ということばです。もしここで、「私は、たまに、主をほめたたえる」、「私の口には、たまに、主への賛美がある」と書かれていれば、みなそのようなものだと思うでしょう。けれどここで、「あらゆる時に」、そして「いつも」と書かれています。
ダビデは、次のように心から言うことができたのです。
「雨が降っても太陽が照っても、私が苦しみを持っていても持っていなくても、また意気消沈していても、高められても、私はいつも主をほめたたえ、私の口には、絶えず、主への賛美があります。主は、私のご在天の父であり、私にとって良いことだけを考えてくださいます。主は、私のために計画を持っていてくださいます。主は、私の道を平らにしてくださいます。たとえ、逃れ道のない状態に置かれたとしても、私は私を愛してくださるお方の御手のうちにいるということを確信できる人は、幸せです」。
私は、なぜ私がこんな悩みを経験しなければならないのか、今、私にはわからない。けれど、主がなさることはすべてご自身がご存知でいらっしゃるということを考えると、楽になります。
そして、「主のなさることに無駄なことは一つもない。間違った計算や計画は、主にとって存在しない。主は私の最善を考えておられる。そして、主は決して変わることがない」。「私が感じようが感じまいが、主が私を愛しておられることを知っている」。「私は困難な導きを理解することができない。けれども、どうでもいい。主は私を贖ってくださり、決してお捨てにならない」。これこそが、ダビデの確信でした。

イエス様を信じる者は、またイエス様に頼る者は、いつも喜ぶことができます。なぜなら、この確信があるからです。多くのキリスト者は、言い表わすことのできないほど困難な悩みを持っています。
多くの人は、初めて集会に来ると、第一印象として次のような思いを持つようです。
即ち、「この人たちは何の問題もない。すべてがうまくいっている。この人たちは苦しみも悩みも何にも知らない。だから喜ぶことは当然です。けれど、私の持っている悩みを経験するならばどうでしょう」と。
私たちはみな、この考えが非常に短絡的なものであることを知っています。イエス様の
ために生きたいと願う兄弟姉妹はだれでも、苦しみと悩みを経験します。けれども、それにも関わらず、喜ぶことのできる土台とはいったい何でしょうか。
イエス様に頼る者は、自分が天にいらっしゃる父の御手の中にいることを知っているから、喜ぶことができるのです。偶然は何一つありません。主ご自身が、すべての出来事の背後に立っておられるのです。そして、主は私たちの最善を考えておられます。人間的に見るなら、私たちはみな不幸せである根拠を十分に持っています。喜ぶ根拠はほとんどありません。というのは、私たちはいろいろな問題や未解決の状況に取り囲まれているからです。

すべてがうまくいけば、だれでも喜ぶことができます。それは容易なことです。けれど
も、すべてがうまくいかなってしまうなら、「なぜこんなことを経験しなければならないのか」という思いが起こってきます。どうしても説明がつかないときに喜ぶことができるということは、人間の能力を超えており、それは主の恵みの現われなのではないでしょうか。
「イエス様が私を愛していてくださる。私の人生を計画してくださるゆえに、すべてのことは益となる」。この確信を持つことこそが、大切なのではないでしょうか。

ローマ人への手紙 8章28節

 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

原語を見ると、「確信する」となっています。初代教会の人々はこの確信を持っていたので、絶えず喜ぶことができたのです。この確信はだれも奪い取ることができません。

ヨブは、確かに考えられないほどの悩みを持っていたのです。けれども、彼は次のよう
に告白しました。
ヨブ記 13章15節

 見よ。神が私を殺しても、私は神を待ち望み、なおも、私の道を神の前に主張しよう。

主イエス様に頼る者は、いつも私の最善を考えてくださる父なる神を知っているから、喜ぶことができるのです。

パウロとシラスは、素晴らしい方法で主の器として用いられました。彼らは、ただ主の
ご栄光だけを考えていました。失われた者たちが救われるということは、彼らを一時たり
とも休ませませんでした。けれど、彼らは罪もないのに刑務所に投げ込まれました。背中
から血が流れ、足かせに繋がれたにもかかわらず、「彼らは賛美し、主をほめたたえた」と聖書は言っています。
真夜中ごろ、何一つ希望の光が見えず、まったく逃れ道のない状態の中で、彼らは主に
感謝したのです。なぜ彼らはそんなことができたのでしょうか。彼らは、主がなさり、許
しておられること、必ず主はご存知であるということを確信したからです。私には今何もわからないけれど、主は私に対して特別の目標を持っておられると。今、私にわかることができない問題があったとしても、いつか必ずそのために私たちは主に感謝するだろうと。

主に頼る者の喜びが本物です。主に頼る者の喜びは、外部の事情には関係がありません。
当時の信じる者を励ますために、ペテロは次のように書いたのです。
ペテロの手紙・第一 4章14節

 もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。

同情すべきなのではありません。可哀そうなのでもありません。「幸いです」。


2.主イエス様に頼る者の幸せの土台は、「あらゆる不安が取り除かれていること」です。
ダビデの証しです。
詩篇 34篇4節

 私が主を求めると、主は答えてくださった。私をすべての恐怖から救い出してくださった。

この節における最も大切なことばは、「すべて」ということばです。「主は私を大部分の
恐怖から救い出した」のではない。「すべて」とあります。
主はすべての恐怖から救い出してくださいました。これは聖書の教えであるばかりでは
なく、ダビデが経験した事実です。私たちのだれもが経験することができ、また経験すべき事実です。あらゆる種類の不安と恐怖がこの中にはいっています。
ある人は次のように言いました。「私は、あらゆる不安を取り去られたなら、世界中で一番幸せな人間となるでしょう」と。
次のことを覚えましょう。あらゆる不安を取り除いていただけるのです。イエス様は、あらゆる恐怖から私たちを解放したいと思っておられます。そのことをすることがおでき
になるということです
医者は、世界で最も広がっているのは恐怖症であると言います。現代社会に生きている多くの人は、生きることに対して不安を持っています。結果として、ノイローゼの状態になり、あるいは薬やアルコールで何とか解決しようと努力し、またほかの人々は何の逃れ道をも見ることができず自殺してしまうのです。

大多数の人々は将来に対しての不安を持ち、失敗に対する不安や、歳を取ることの不安、病気に対する不安、困難な試練や誘惑に対する不安、家族や知り合いとの係わり合いのための不安等を持っています。不安は、萎えさせたり、完全に麻痺させたりすることができるのです。
ですから、次のことを覚えましょう。即ち、イエス様は私たちからあらゆる不安を取り除くことがおできになりますと。
ダビデは、彼が不安を持ったり、恐れたりしたとき何をしたのでしょうか。答えは、「私が主を求めると、主は答えてくださった」。「私をすべての恐怖から救い出してくださった」。ダビデは主を求めたので、祈りが聞き届けられ、あらゆる不安や恐怖から救い出していただいたのです。

おそらく、このように思う人もいるかもしれません。「ああ、私もあらゆる恐怖から解
放されさえすれば…」と。もちろんそのようになることができます。イエス様はそれをし
たいと願っておられるからです。あらゆる恐怖は取り除かれ、あらゆる不安から解放され
ているなら、今日、想像することもできないような喜びが自分を支配することでしょう。

イエス様は全く大いなる喜びが輝き出る人間を造りたいと願っておられます。この喜び
はまた、イエス様から遠く離れている人々を引き付ける力です。この喜びを持つ人間は、
イエス様に対する飢え渇きを起こす者です。なぜなら、あらゆる人はイエス様を知ることによって、すべての恐怖から解放されたいと願うに相違ないからです。
イエス様に頼る者の幸せの土台は、あらゆる不安が取り除かれていることです。イエス
様は、あらゆる悩みを超越しておられるお方です。

イエス様は今日も次のように言われます。
マタイの福音書 14章27節

「わたしだ。恐れることはない。」

ペテロはそのとき叫んだのです。「主よ。助けてください」。そして、イエス様は直ちに
救いの御手を差し伸べられたのです。「この悩みを許したのはわたしだ。あなたの上にこの暗やみを起こさせたのもわたしだ。けれどまた光を与え、あふれるばかりの祝福を与えるのも、わたしだ」。「わたしだ。恐れることはない」。「わたしを見上げなさい。そうすれば、あらゆる恐怖は消え去ります」。「わたしは全能者です。わたしはあなたのために生きている」と主は言われます。あなたのために存在し、配慮していると。


3.主イエス様に頼る者の幸せの土台は、「罪がおおわれていること」です。
ダビデは証ししたのです。
詩篇 34篇5節

 彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。「彼らの顔をはずかしめないでください。」

「主を仰ぎ見ると、輝く」。罪がおおわれていなければ、言うまでもなく、聖なる神のみ顔を仰ぎ見ることは絶対に不可能です。私たちはイザヤと同じように叫ばざるを得ないでしょう。
イザヤ書 6章5節

「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」

「もうだめ。主を見たから」。けれども、この詩篇34篇の中で、私たちは、主の御顔を仰ぎ見ることができた人々がいたということを知らされます。「彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた」。滅びないで、しかも罪に定められないで、主の御顔をだれが仰ぎ見ることができるのでしょうか。罪がおおわれている者だけです。
そしてこのことは、あらゆる罪を負う主イエス様の流された血によってのみ、可能です。
すべての罪は明るみに出され、知られるようになるのですから。

詩篇の32篇の中でダビデはこの事実について語っています。ダビデは確かにひどい罪
を犯し、とんでもない犯罪を犯してしまいました。けれど彼は罪を隠さずに告白したあとで、また喜ぶことができるようになったのです。
詩篇 32篇1節、2節

 幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。

罪が赦されている喜びを個人的にご存知でしょうか。自由に主がいらっしゃるところに
近づく幸せをご存知なのでしょうか。それは恩赦を受け、罪が赦され、受け入れられてい
るということを知っているときに、可能となるのです。

この喜びとこの幸せの土台は、イエス様が、ご自身の流された血潮によって、私たちのために贖いの代価を支払ってくださったという事実です。私たちの罪はおおわれ、覆い隠され、決して再び現われることはありません。イエス様に頼る者は、自分の罪がおおわれているゆえに、喜ぶことができるのです。
ローマ人への手紙 8章1節

 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。

罪に定められることは決してないのです。自分の罪を意識して、イエス様のみもとに来
て、恩赦を願い求める者は赦され、受け入れられます。その罪はおおわれ、イエス様の義
でおおわれます。これこそ、イエス様に頼る者の喜びの土台です。
イエス様に頼る者は、言い表わすことのできないほどの輝かしい喜びをもって、喜びます。というのは、イエス様はすべての罪を常に、とこしえにおおってくださるからです。罪がおおわれているゆえに、イエス様に頼る者はだれでも大胆にはばかることなく、聖なる主に近づくことができるのです。
ヘブル人への手紙 10章19節

 私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。

とあります。このまったく大いなる特権は、日々私たちを溢れる喜びで満たしてくれます。


4.イエス様に頼る者の幸せの土台は、「すべての祈りが応えられること」です。
前に読みました個所を、もう一度見てみます。
詩篇 34篇6節

 この悩む者が呼ばわったとき、主は聞かれた。こうして、彼らはすべての苦しみから救われた。

15節

 主の目は正しい者に向き、その耳は彼らの叫びに傾けられる。

17節

 彼らが叫ぶと、主は聞いてくださる。そして、彼らをそのすべての苦しみから救い出される。

ここで、大変な悩みの状態に置かれたひとりの信者について報告されています。彼は、自分自身を「悩む者」と呼んでいます。本当は王でした。けれども彼は、「私は悩む者です」
と。私たちは、彼の悩みは何であったか、はっきりわかりません。おそらく、私の問題はもっと大きいと言う人がいるかも知れません。
私たちの多くの者は悩む者よりもさらに…
(テープ切れ、B面に)


私たちは自分の罪の問題に対して、どのような態度を取るかということです。その状態のままで主のみもとに行くならば、そしてまた、自分だけで解決しようとすることをやめるならば、幸いです。
この聖句においても一番大切なのは、「すべて」ということばです。すべての苦しみか
ら主は救い出してくださいます。その状態で主のみもとに行くならば、そしてまた、自分
だけで解決しようとすることをやめるならば、幸いです。ここの聖句においては、やはり
「主は救い出してくださる」。「すべての苦しみから主は救い出すお方である」とあります。

詩篇の作者であるダビデは、この苦しみの真っ只中にいたとき、圧迫され、絶望的にな
り、みじめで助けもなく、望みのない状態でした。そのとき彼は何をしたのでしょうか。
彼は祈りました。主に呼ばわりました。これこそまことの知恵です。
・イエス様のもとに急ぐ者は、イエス様に祈る者は、助けが与えられます。
・イエス様のみもとに行く者は、だれでも豊かに報いられます。
・重荷を持ってイエス様のみもとに行く人は、決して失望させられません。

自分をみじめな悩む者と感じ、重荷の下で喘ぎ、問題を自分ひとりで解決しようとする
人々がたくさんいます。そのような人々はあわれむべきです。というのは、自分の力では何にもできないからです。彼らはますますみじめになるだけです。
主は、苦しみの中にある人々が、最後に主に呼ばわり、主の助けを求めることを、切に待っておられます。
主は、強制的に干渉しようとはなさらず、私たちの祈りに応えたいと思っておられます。
・祈りがささげられる場合に、主は行動することがおできになります。
・重荷を持ってイエス様のところに来る場合に、その人は解放を経験します。
・人は、主に助けを求める場合に、聞き届けを必ず経験することができます。

次のような面会を求める信者がいます。「私は大変な苦しみの中にいます。そのことに
ついてご面会いただき、お話いただきたいのですが」。「はい。結構です。時間はかかるで
しょうか」。「はい。時間はかかります。というのは、全部の話を初めからしなければならないから。私は本当に大変な状態にあるのですよ」。そこで、「あなたは、もうそのことについて祈り、全部イエス様にお話したのでしょうか。すべてのことを打ち明けたのでしょうか」と尋ねると、たいていは、「まだです」という答えが返ってきます。
そして二、三日あとになると、嬉しそうな電話が掛かってきます。「私は祈りました。すると、イエス様は私に語ってくださいました。私はもはや特に面談に行かなくても結構です。私の祈りは答えられ、私の悩みは取り除かれました」。

私たちは、聖書の中に数え切れないほどの約束を持っています。そしてまた大いなる励
ましのことばが私たちに与えられています。イエス様は励ます専門家です。イエス様にしか出来ないことは「何でもできるお方だ」ということです。
すべての悩みを持って直接イエス様のみもとに行くことを要求されています。けれど、何と多くの人々が、こちらの信者や、あちらの信者のところに行ったり、このことをしたり、あのことをしたりすることでしょう。なされなければならないただ一つのことは、「単純にイエス様のみもとに行くこと」であり、すべてをイエス様の御手にゆだね、イエス様が約束を守ってくださることを待つことです。
私たちは、自分で重荷を担っているのでしょうか。イエス様のみもとに行き、すべてを
イエス様にゆだねましょう。そうすると、イエス様が成し遂げてくださいます。

詩篇50篇の15節は、よく知られている個所なのですけれど、素晴らしい、あらゆる問題に対する主の答えなのではないでしょうか。
詩篇 50篇15節

 苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。

   
イエス様はここではっきり言われます。「わたしを呼び求めよ。わたしのほうに向きなさい。これをしたり、あれをしたりするのではなく、そのままの状態でわたしのところに
来なさい。そうすれば、わたしはあなたを助け、あなたを救いましょう」。
このことを通して主は賛美され、ほめたたえられるのです。イエス様が私たちを通して
ほめたたえられるか、あるいは不名誉とされるかのどちらかなのではないでしょうか。


5.イエス様に頼る者の幸せの土台とは、「すべての敵が散らされること」です。ここにも、
「すべて」ということばが出てきます。
詩篇 34篇7節

 主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。

とあります。
私たちがイエス様に属し、イエス様のために生きたいと思うとき、私たちは敵の攻撃の的となります。ですから、私たちは絶えず守りと解放を経験する必要があります。けれど私たちは、今の聖句によると、守られているのです。「主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される」とあります。主の御使いが、私たちを守り解放するために遣わされているのです。

二、三の例をちょっと見てみましょう。詩篇の91篇を見ると、次のように書かれてい
ます。悪魔はイエス様を攻撃したとき、このみことばも使ったのです。
詩篇 91篇9節から12節

 それはあなたが私の避け所である主を、いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。わざわいは、あなたにふりかからず、えやみも、あなたの天幕に近づかない。まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする。

御使いたちは、私たちを守るために遣わされているのです。ダニエルもそれを経験しました。彼は次のように告白しました。
ダニエル書 6章21節、12節前半

 ダニエルは王に答えた。「王さま。永遠に生きられますように。私の神は御使いを送り、獅子の口をふさいでくださったので、 獅子は私に何の害も加えませんでした。

遣わされた御使いによって、ダニエルは守られました。
マタイの福音書 18章10節

 あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。

御使いたちに守られていることとは、何という幸せでしょう。
ペテロも、この守られること、解放されることを経験しました。使徒行伝の12章6節、
7節を見ると、彼の経験について次のように書かれています。
使徒の働き 12章6節、7節 

 ところでヘロデが彼を引き出そうとしていた日の前夜、 ペテロは二本の鎖につながれてふたりの兵士の間で寝ており、 戸口には番兵たちが牢を監視していた。すると突然、主の御使いが現われ、光が牢を照らした。 御使いはペテロのわき腹をたたいて彼を起こし、「急いで立ち上がりなさい。」と言った。 すると、鎖が彼の手から落ちた。

結局、遣わされた御使いによってペテロは解放されたのです。人間的に考えればのん気
な男でした。次の日、殺されることが決まっていたのです。それでも、彼は寝てしまうのです。ふたりの兵士の間で。兵隊につながっている者としてぐっすり寝られるということは。彼は、「私はひとりぼっちではない。心配しても意味のないことで、主は何でもおできになる」とペテロは確信していたからでした。もう一箇所、次のように書かれています。
ヘブル人への手紙 1章14節

 御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。

主の御使いに守られていることとは素晴らしいことではないでしょうか。聖書によると私たちは、主なる神が、私たちを守るように、御使いに命令なさることを知っています。私たちは出かけると、御使いが私たちの回りにいて守っていてくれることを知っています。確かに、悪霊の軍勢は私たちをだめにしようと攻撃しますが、私たちはすべての敵が散らされることを知っています。私たちは解放を経験するに違いありません。


6.イエス様に頼る者の幸せの土台とは、「あらゆる欠乏が取り除かれること」です。
詩篇 34篇9節、10節

 主を恐れよ。その聖徒たちよ。彼を恐れる者には乏しいことはないからだ。若い獅子も乏しくなって飢える。しかし、主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない。

別のことばで表現するならば、彼らはまことに満たされていることを経験するのです。
主ご自身が、彼らが必要としているものを彼らに与えてくださるのです。
詩篇 23篇1節

 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

とダビデは告白したのです。主が私たちの羊飼いであるなら、私たちが欠乏に悩むことは絶対にあり得ないと。羊飼いは羊のために配慮してくださり、羊のために心を砕き、羊のために良いと思われるものをすべて羊にお与えになってくださいます。

パウロは、これこそローマの刑務所の中で経験しましたから、次のように言ったのです。
ピリピ人への手紙 4章19節

 私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。

あらゆる必要が満たされれば、これこそ素晴らしい宝物なのではないでしょうか。

イエス様は弟子たちに言われました。
ルカの福音書 22章35節

 それから、弟子たちに言われた。「わたしがあなたがたを、財布も旅行袋もくつも持たせずに旅に出したとき、何か足りない物がありましたか。」彼らは言った。「いいえ。何もありませんでした。」

私たちはルカ伝12章の中に、ひとつの対照的な姿を見いだします。そこでは金持ちの
農夫がカラスと比較されています。
ルカの福音書 12章16節から21節までと、24節です。

 それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。 さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」

24節

 烏のことを考えてみなさい。蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。けれども、神が彼らを養っていてくださいます。あなたがたは、鳥よりも、はるかにすぐれたものです。

愚か者とも呼ばれる、豊かな農夫は大きな倉を持っていましたが、主を持っていませんでした。彼は神なしに計算しましたが、この計算は一度も成功しない計算です。「烏のことを考えてみなさい。蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。けれども、神が彼らを養ってくださいます。あなたがたは、鳥よりも、はるかにすぐれたものです」。

豊かな農夫ともいわれた男は、生けるまことの神に拠り頼まなかった故に、愚か者だったのです。彼の倉と財産すべては、彼を満たすことができませんでした。けれど、鳥は倉を持っていないにも関わらず、主なる神が養ってくださいます。鳥は主によって心配してもらい、配慮され、すべてのものを与えられています。

私たちの場合はどうでしょうか。私たちは倉を持っているのでしょうか。自給自足しようとしているのでしょうか。自分の力で築き上げ、それによって主の祝福にあずからない人間なのでしょうか。私たちが意識的に主に拠り頼みたいと思わない人間であるとするなら、実にみじめな者です。あるいは私たちは倉がなくても、まことの神を持っているのでしょうか。私たちが、主イエス様を持っているならば、何も乏しいものはありません。助けを求めつつイエス様を見上げる者は、決して見捨てられません。乏しさを持ってイエス様のみもとに行く者は、豊かに与えられます。

「イエス様を求める者は、良いものに欠けることがなく、乏しいことがない」とダビデは、この34篇の中で証ししています。
詩篇 34篇9節、10節

 主を恐れよ。その聖徒たちよ。彼を恐れる者には乏しいことはないからだ。若い獅子も乏しくなって飢える。しかし、主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない。


7.イエス様に頼る者の幸せの土台とは、「確実な将来を持っていること」です。
詩篇 34篇21節、22節

 悪は悪者を殺し、正しい者を憎む者は罪に定められる。主はそのしもべのたましいを贖い出される。主に身を避ける者は、だれも罪に定められない。

ここでは、悪者と正しい者とが対比されながら述べられています。正しい者の将来は、考えられないほど素晴らしいものであるのに対して、悪者の将来はあまりにもひどいので、描写することができないほどです。
私たちは、主イエス様に頼る者として保証された将来を持っているのです。私たちはイエス様が地上に来られるまで留まろうとも、あるいはその前に死の谷を通って行かなければならないとしても、確実なことは、私たちがイエス様を愛し、いつも主イエス様のみそばにいるようになることです。

「主イエス様に頼る者の幸せ」。これが私たちの主題でした。私たちはこの幸せの秘訣がイエス様ご自身であることを見てきました。

ですから、ダビデは次のように証ししているのです。「幸いなことよ。彼に身を避ける者は」。
イエス様のみそばで、その守り、扶養、助け、強さ、愛、喜び、平安、確信を求める者は、幸せになります。その人は心から喜ぶことができるのです。

私たちはなぜ本当に喜ぶことができるのでしょうか。今、特に七つの答えを中心に考えてまいり
ました。そこで最後に、もう一度七つの答えを繰り返してみたいと思います。

イエス様に頼る者の幸せの土台は、
1. 絶えずイエス様の御手に守られていること。
2. あらゆる不安が取り除かれていること。
3. 罪がおおわれていること。
4. すべての祈りが応えられること。
5. あらゆる敵が散らされること。
6. いかなる欠乏も取り除かれること。
7. 確実な将来を持つこと。

主イエス様に頼る者は、幸せです。主イエス様に頼る者は、最も素晴らしいものを獲得します。
主イエス様に頼る者は、生けるまことの神と共に生きるという幸せを知っているのです。

ですから、ダビデは、
詩篇 34篇8節

 幸いなことよ。彼に身を避ける者は。

と、喜びの声を上げてみ名をほめたたえることができたのです。



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◆メッセージ(ベック兄)

※一部、テープの転換による不明部分あり

神のみことばは神のみことばである(5) 2006. 4. 18
神のみことばは神のみことばである(4) 2006. 4. 11
神のみことばは神のみことばである(3) 2006. 4. 4
神のみことばは神のみことばである(2) 2006. 3. 21
家族の救い 2006. 3. 19
神のみことばは神のみことばである(1) 2006. 3. 14
主イエスは神の子キリストである(4) 2006. 3. 7
主イエスは神の子キリストである(3) 2006. 2. 28
主イエスは神の子キリストである(2) 2006. 2. 14
主イエスは神の子キリストである(1) 2006. 2. 7
勝利の生活の秘訣 2006. 1. 24
イエス・キリストのからだ 2006. 1. 17
主の永遠からの予定 2006. 1. 10
元旦メッセージ 2006. 1. 1


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