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メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


いのちにあって支配されることの必要性
   
2005.4.12(火)
ベック兄メッセージ(メモ)

 
引用聖句
エペソ人への手紙 2章4節から6節
 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

ローマ人への手紙 5章17節

 もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。

ヨシュア記 22章5節

「ただ主のしもべモーセが、あなたがたに命じた命令と律法をよく守り行ない、あなたがたの神、主を愛し、そのすべての道に歩み、その命令を守って、主にすがり、心を尽くし、精神を尽くして、主に仕えなさい。」


今、司会の兄弟が言われましたように、今日の学びは、イエス様を知らない人たちは誤解して、「大変だ。勉強しなくてはいけないのだろうか」との不安感を抱くことがあります。また、聞いたメッセージの内容が理解できないことがあったとしても、それは当然のことです。けれど私たち大人は、ピンと来なくてもよいのだということがなかなかわからないので困ります。私は六十年前にイエス様を信じ救われましたが、今日までピンと来ません。(笑)
聖書のみことばとは、読めばすぐわかるというそのようなものではありません。「勉強してわかったから信じる」という信仰は間違っているのです。多くの人は、「自分は特別なことを経験したからとか、よい気持ちになったから信じます」と言うのですが、大変に危ないことです。人間の気持ちとは変わりやすいものではないでしょうか。

ではいったいどうして信じることができるのでしょうか。それはわかったからではありません。十字架の上で犠牲になられたイエス様は、絶対に嘘つきであられないからです。
このイエス様のみことばに頼るならば、決して後悔しません。しかし、そのイエス様をよりよく知るためには、やはり聖書に頼らなくてはいけません。火曜日の集いの目的は、そのためなのです。

先週、「イエス様にゆだねられた人生」についてご一緒に考えました。この日曜日には、御代田で、「イエス様に頼る者の幸せ」について考えたのです。
今日は、「イエス様に満たされる秘訣」について、或いは、今読んでいただきました、
ローマ書5章17節の中からのことば、(これも題名として使うことができるのではないかと思います。)即ち、『いのちにあって支配されることの必要性』です。

もう一度17節を読みましょう。
ローマ人への手紙 5章17節

 もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。

「いのちにあって支配されることの必要性」だけではなく、可能性についても、ご一緒に考えたいと思います。

昔、ドイツの哲学者であり、牧師の息子でもありながら無神論者であったフリードリッヒ・ニーチェという男は、次のように書いたのです。「『自分は救われている』と言う人
がいるなら、その人は、私が見ても本当に救われているような様子が見られるべきであっ
て、もしもそのような様子が見られないなら、私は、決して、救い主を信じることができない」と。
彼が何を経験したのかわかりませんが、(おそらく、彼の父親は牧師でありながら、まことの信仰をもっていなかったのでしょう。)私は、彼の親戚の人を知るようになりましたが、(その人もまたやはり牧師だったのです。)救いの確信をもっていない牧師でした。彼は、スイスの精神病院に入院しているニーチェのところに、最後まで見舞いに行き続けましたが、ニーチェは完全に狂って死んでしまったということです。
今読みました彼の文章は、ある意味で、身分の証明なのではないでしょうか。まことの主なる神を求める者に対しては、必ず、イエス様は救いを成就してくださるのですから、ニーチェのことばは単なる言い訳にすぎませんが、反面、ある程度まで一理あることばであると言わざるを得ないのではないでしょうか。

先日御代田で、詩篇の34篇の中から学んだのです。
詩篇 34篇5節前半

 彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。

喜びに輝く人に出会いますと、やはり、自分にもその喜びが欲しくなるのではないでしょうか。まことの喜びがあれば、喜びをもっていない人たちはねたむようになり、また、求めるようになるのではないでしょうか。
私たちがどのようなことを言っているかということよりも、私たちがどのような者であるかということの方が、はるかに大切なのではないでしょうか。
主様によって新しくされた人間こそ、もっとも有効な証しです。

私たちの人生が、いったいどのようなものであるか、証しとなっているかどうかという
問題は、どうでもよい問題ではありません。
また、私たちの人生が、主イエス様にとってどのようなものであるか、即ち、イエス様に対して他の人を惹きつける存在であるのか、それとも反対に、離れていく気持ちを引き起こさせるような性質のものであるかということも、どうでもよい問題ではないのです。
イエス様を信じる者の人生は、もぐらのようなものなのか、或いは、すべての上を飛ぶ鷲のようなものなのか、どちらなのでしょう。
明らかなことは、イエス様は、私たち信じる者の人生において、私たちが「乞食」のような存在ではなく、すべてを支配する「王」のような存在になることを望んでおいでになるということです。

イエス様は、天において最も高い地位を占めておられる王の王、主の主であられます。
主イエス様は、すべての権威と力の上にあって支配しておいでになるお方です。ことばを変えて言うなら、イエス様はすべてを超越したお方であるということです。

そしてまた、私たちは将来、御座に着くであろうということではなく、今現在、すでにイエス様にあってイエス様とともに御座に着いているということを、信仰を通して、信仰の目によって見ることができなければなりません。
つまり、救われているということは、罪を赦されて、永遠のいのちを持っているという
ことだけではなく、主イエス様にあって、イエス様とともにすでに今現在、御座に着いて
いるということをも含んでいるということなのです。

私たちは、祈る時、主イエス様とともに御座についている者として祈るべきです。なぜ
なら、からだなる教会は、かしらなるイエス様と結びついているからです。ほかのことばで言うなら、かしらなるイエス様と正しい関係を持つことがどうしても必要である、ということです。
この関係について、ヨハネ伝の15章に、次のように書き記されています。よく知られ
ている、毎日覚えるべきことばの一つなのではないかと思います。イエス様は、
ヨハネの福音書 15章5節

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」

 と、仰せになりました。このようなことばを知ってはいても、なかなか信じられないのではないでしょうか。私たちは、枝として、ぶどうの木であるイエス様のいのちが自由に流れ込んで働くようになっていなければならないのです。
「いのちにあって」、即ち、「主イエス様にあって支配される」ということは、信仰によって主と結びついていること、また、従順に主イエス様に従うこと、そして、御霊に導かれることを意味します。

 最後に読んでいただきました旧約聖書のヨシュア記22章5節をもう一度読みましょう。
「満たされた人生の秘訣」とは、いったい何なのでしょうか。
ヨシュア記 22章5節

「ただ主のしもべモーセが、あなたがたに命じた命令と律法をよく守り行ない、あなたがたの神、主を愛し、そのすべての道に歩み、その命令を守って、主にすがり、心を尽くし、精神を尽くして、主に仕えなさい。」

 この一節によると、「いのちにあって支配される人生」、即ち、「満たされた人生」の特徴は、次の五つに分けられます。
 1.「あなたの神、主を愛せよ」。
 2.「主のすべての道に歩め」。
 3.「主の命令を守れ」。
 4.「主にすがれ」。
 5.「心を尽くし、精神を尽くして、主に仕えよ」。
とあります。この五つの特徴、及び命令について、よく読んでみたいと思います。

1.「あなたの神、主を愛せよ」というみことばについて、考えてみましょう。
 すべてを超越して、主にあって支配される者にとって最も大切なことは、イエス様に対する愛です。人間的に考えるなら、主に奉仕することが最も大切であるかのように思われがちですが、聖書は、「主を愛することこそ最も大切な主の命令である」と言っています。

 主なる神に奉仕することは第五番目の戒めであり、従って、第一番目から第四番目までの戒めが守られて初めて有効な意味を持つのです。つまり、主イエス様に対するご奉仕は、主と結びついていることの結果でなければならないのです。イエス様に拠り頼むのでなければ、すべての人間的な努力や、私たちの奉仕も意味のないものになってしまうのです。つまり、私たちの自分の知恵や力で行なうことは、それがどれほど素晴らしいものであっても、主に受け入れられません。

 最も大切なことは、
・主のみこころが何であるかを正しく知ること。
・そして主イエス様が、私たち一人一人に対してどのようなご計画を持っておいでになるかを知ること。
・そして、主イエス様の知恵と力をお借りして、主とともに働くことです。

 私たちがどうして主を愛するかと言いますと、それは、まず最初に主が私たちを愛してくださったからです。よく引用されるヨハネ第一の手紙4章19節に、初代教会の人たちは告白しました。
ヨハネの手紙・第一 4章19節

 私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。

「主に愛されている」と知るようになった人は、主を愛さざるを得なくなります。世が造られる前に、人間が一人もいなかったとき、すでにイエス様は私たちを愛してくださったのであり、私たちの人生に対して、はっきりとしたご計画を立ててくださったのです。
エペソ書の1章を見ると、次のように書かれています。
エペソ人への手紙 1章3節から6節

 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

 主イエス様にどれほど愛されているか、私たちには想像さえ出来ません。ピンと来ません。けれども、動かすことのできない素晴らしい事実です。
エレミヤ書 31章3節に、

「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。」

と書かれています。複数形ではなく単数形に書かれていますから、主は、人間一人一人を、全く個人的に愛してくださるのです。そして、主の愛は、「永遠なる愛」です。
ですから、私たちは主を愛すべきです。愛されている者として、主を愛すべきです。

 申命記から数箇所、お読みいたします。
申命記 10章12節、13節

 イスラエルよ。今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か。それは、ただ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主に仕え、あなたのしあわせのために、私が、きょう、あなたに命じる主の命令と主のおきてとを守ることである。

申命記 11章1節

 あなたはあなたの神、主を愛し、いつも、主の戒めと、おきてと、定めと、命令とを守りなさい。

申命記 11章22節、23節

 もし、あなたがたが、私の命じるこのすべての命令を忠実に守り行ない、あなたがたの神、主を愛して、主のすべての道に歩み、主にすがるなら、主はこれらの国々をことごとくあなたがたの前から追い払い、あなたがたは、自分たちよりも大きくて強い国々を占領することができる。

 主を愛することの大切さは、聖書の中で何度も要求されています。
コリント人への手紙・第一 8章3節

 しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。

ヤコブの手紙 2章5節

 よく聞きなさい。愛する兄弟たち。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御国を相続する者とされたではありませんか。


 試練と困難の真っ只中にあってさえ、私たちは主を愛すべきです。いろいろな試練に会
うと、悪魔は、「主はもう愛していない」とささやき、私たちを惑わそうと試みることを、
私たちはしばしば経験します。けれど、主はとこしえに変わらない愛を持って、私たちを
顧みていてくださるのであり、どのようなことがあっても、私たちを捨てることはなさい
ません。最も良き友でいらっしゃるのですから、たとえ試練のときであっても、私たちは、
主に対して変わらざる愛を持ち続けるべきです。

 ダビデは、多くの試練と悩みを経験しましたが、それを主からの祝福として受け取りましたので、豊かな恵みと祝福にあずかることができました。例えば、詩篇の18篇を見ると、彼は次のように言うことができたのです。
詩篇 18篇18節、19節

 彼らは私のわざわいの日に私に立ち向かった。だが、主は私のささえであった。主は私を広い所に連れ出し、私を助け出された。主が私を喜びとされたから。

 私たちも、どのような試練と患難にあったとしても、絶えず主を見上げ続けるならば、ダビデと同じように、主の豊かな恵みと祝福にあずかることができます。

 このようにすることによって、私たちは、主をよりよく知ることができるようになり、
主の愛の素晴らしさをさらに深く体験的に知るようになります。満たされた人生を送ろう
と思うなら、苦しみを通してよりよく主を知るべきです。

 黙示録の2章4節で、主は、エペソという町にいる信者たちに、次のように言わざるを
得なかったのです。
ヨハネの黙示録 2章4節後半

「あなたは初めの愛から離れてしまった。」

「初めの愛から離れてしまった」。このエペソの信者たちは、イエス様を捨てたわけではありません。けれど、初めの愛から離れてしまいましたので、そのために、主は深く心を痛められました。試練と苦しみのときに、主に対する私たちの愛が冷えないように注意しましょう。

 イエス様に対する奉仕の原動力は、イエス様に対する「愛」でなければなりません。
「主に仕えることによって、主が喜んでくださることをしている」と思うなら、それは大
間違いです。主に対する愛は、喜んで主に従い、喜んで奉仕することを通して現われます。
イエス様に対する愛があるかないかということが、実際問題としてすべてを決定するもの
であると言えます。

 いのちにあって支配されることの秘訣とは、何なのでしょうか。今話しましたように、「主を愛すること」です。


2.「主のすべての道に歩むこと」です。
 主は、私たちが成長して、主の完全な状態にまで至るように望んでおいでになります。
 詩篇に戻りまして、18篇30節です。ここで、ダビデは心から祈りました。ダビデは
祈り人でしたから、大いに祝福されたのです。
詩篇 18篇30節

 神、その道は完全。主のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾。

 ダビデは、主をこのように経験したので言うことができたのです。「神、その道は完全。主のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾」と。
 主の道に歩むことは、実際問題として主イエス様に身を避けることです。主の道は完全
ですから、主に導かれることは安全を意味します。

また、詩篇の作者は告白したのです。
詩篇 77篇13節

 神よ。あなたの道は聖です。神のように大いなる神が、ほかにありましょうか。

 何があっても、「あなたの道は聖です」と考えるべきではないでしょうか。

 また、モーセは告白しました。
申命記 32章4節

 主は岩。主のみわざは完全。まことに、主の道はみな正しい。主は真実の神で、偽りがなく、正しい方、直ぐな方である。

 素晴らしい証しなのではないでしょうか。このモーセとは、「主の友」、「神の友」と
呼ばれていたのです。モーセは、主と語ったことが最高の幸せだったのです。この主との
交わりの結果として、モーセはこのように告白したのです。「まことに、主の道はみな正
しい」と。

 また、パウロは、「主の道」について次のように告白したのです。
ローマ人への手紙 11章33節

 ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。

「その道は、何と測り知りがたいことでしょう」と。

 もう一箇所、黙示録の15章を見ても、「主の道」について次のように書かれています。
ヨハネの黙示録 15章3節

 彼らは、神のしもべモーセの歌と小羊の歌とを歌って言った。「あなたのみわざは偉大であり、驚くべきものです。主よ。万物の支配者である神よ。あなたの道は正しく、真実です。もろもろの民の王よ。」

「あなたの道は正しく、真実です」とあります。

 これらの箇所を読んでわかることは、「主の道は、完全で、聖で、正しく、測り知りがたく、真実です」。この、「主のすべての道に歩むこと」が大切です。

 主イエス様とともに歩むことは、イエス様に賛成すること、そしてイエス様と一つの心を持つことを意味します。
アモス書に一言だけなのですが、次のように書かれています。
アモス書 3章3節

 ふたりの者は、仲がよくないのに、いっしょに歩くだろうか。

そのようなことは決してあり得ないということが、このみことばから明らかです。

 主なる神は、私たちが主とともに歩むことを、決して強制なさいません。私たちが主に
従いたくないなら、主はそこまで私たちを強制なさいません。私たちは、自発的に主に従ったり、主とともに歩んだりすべきです。主のみこころが、私たちの思いとなるべきです。私たちは、主と全く一つになるべきです。その時初めて、私たちは主とともに歩むことができます。

 主なる神は、主様が私たちに何を望んでおられるかを正しく知ることができるようにと、切に望んでおいでになるのです。主の完全なみこころを知るとき、私たちは、完全に主と一つになって歩むことができるようになります。即ち、天においでになる主様とこの地上にいる私たちは、全く一つとなって歩むことができるようになるのです。
 これは、私たち主イエス様を信じる者にとって非常に大切な経験です。私たちは一日中
祈るかもしれません。そして聖書の知識をたくさん持つかもしれませんが、もし、私たちが主のみこころを知らず、それを行なわなければ、私たちのすべての奉仕は全くむなしいものです。

 また、ダビデは詩篇の25篇で次のように告白しています。ダビデは、祈りの中で告白したのです。
詩篇 25篇4節、5節

 主よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えてください。あなたの真理のうちに私を導き、私を教えてください。あなたこそ、私の救いの神、私は、あなたを一日中待ち望んでいるのです。

 このような心構えを持つ人たちは、大いに祝福されるに違いありません。

ダビデは、主のみこころにかなう者でした。どうしてでしょうか。彼は、今読みましたように、主に祈ったからです。「主よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えてください。あなたの真理のうちに私を導き、私を教えてください。あなたこそ、私の救いの神、私は、あなたを一日中待ち望んでいるのです」と。
 また、ダビデはこのように祈りましたので、主の道を知るようになりました。私たちも
ダビデと同じように、主の道を知り、主の道を歩むべきです。その時初めて、次のように祈ることができます。「主よ。あなたは約束してくださいましたので、どうか御手を伸ば
して奇蹟をなしてください」と。

このようにして、私たちは、主イエス様とともに重荷を負う者となります。

 私たちは、乞食のような人生を過ごしているのではありません。私たちはエリヤのように権威を持って祈るべきです。私たちが主のご計画のうちにあって、主のみこころを知るなら、主は、主に頼む大胆さを私たちに与えてくださるのです。もし、私たちがすべてを主の前に明らかにして明け渡すなら、主は、日々ご自分のみこころとご計画を明らかに示してくださるのです。

 また、ダビデは詩篇の143篇で、次のように祈ったのです。
詩篇 143篇8節

 朝にあなたの恵みを聞かせてください。私はあなたに信頼していますから。私に行くべき道を知らせてください。私のたましいはあなたを仰いでいますから。

詩篇 143篇10節

 あなたのみこころを行なうことを教えてください。あなたこそ私の神であられますから。あなたのいつくしみ深い霊が、平らな地に私を導いてくださるように。

 私たちもまた、ダビデと同じように、日々このように祈るべきです。私たちが最も恐れ
るべきことは、みこころに反して自分勝手な道を行くことです。ですから、主イエス様を
信じる者は、日々主のみこころとご計画が何であるか、私たちは何をなすべきかを祈るべ
きです。

 ソロモンは、次のように書いたのです。よく知られている素晴らしいことばです。
箴言 3章5節、6節

 心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。

 私たちが、みこころにかなった歩みをしているかいないかということが、取りも直さず、
私たちが、天においての報いを得ることができるかできないかを決定します。

 昔のエノクは、主の道を歩んだ男でした。彼について次のように書かれています。
創世記 5章24節

 エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。

 主とともに歩んだエノクは、死を見ないでそのままの姿で天に移されたのです。
ヘブル人への手紙11章に、もう少し詳しく書き記されています。
ヘブル人への手紙 11章5節前半

 信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることがあかしされていました。

私たちは、主のみこころの中にいるときにだけ、主とともに歩むときだけ、主をお喜ばせすることができます。私たちは主のみこころを知る知識で満たされるべきです。
それは、パウロの絶えざる祈りでした。コロサイ書に、次のように書かれています。
コロサイ人への手紙 1章9節

 こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。

 真の知識に満たされているときにだけ、私たちは、主イエス様と結びついていることが
できます。

私たちは、主に喜ばれているということを確信できるのでしょうか。日々そのことに心を留めましょう。
 私たちは、日々新たに主に会うべきです。私たちには、「霊で始めて、肉で終わる」、即ち、始めは順調な出発をして、終わりは全く違ったものになってしまうという可能性があります。

ですからパウロは、ガラテヤ地方にいる信者たちに向けて次のように書き送ったのです。
ガラテヤ人への手紙 3章3節

 あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。

 私たちは、霊的に無関心になったり、傲慢になったりするかもしれません。ですから、
私たちは主のみこころを正しく知って、日々主のすべての道を歩むべきです。

 イエス様によって支配された人生、いのちにあって支配される人生の特徴とは、今話しましたように、「主を愛すること」であり、「主のすべての道に歩むこと」です。


3.「主の命令を守ること」です。
 いのちにあって支配される人生を送るためには、すべてのことにおいてみことばに支配される必要があります。聖書(みことば)は、本当に大切です。

ダビデの祈りを引用しましょう。詩篇の119篇です。
詩篇 119篇57節

 主は私の受ける分です。私は、あなたのことばを守ると申しました。

詩篇 119篇69節

 高ぶる者どもは、私を偽りで塗り固めましたが、私は心を尽くして、あなたの戒めを守ります。

詩篇 119篇101節  

 私はあらゆる悪の道から私の足を引き止めました。あなたのことばを守るためです。

詩篇 119篇145節

 私は心を尽くして呼びました。主よ。私に答えてください。私はあなたのおきてを守ります。

詩篇 119篇168節

 私はあなたの戒めと、さとしとを守っています。私の道はすべて、あなたの御前にあるからです。

 また、ヨハネは、信じる者のことを心配して、次のように書いたのです。
ヨハネの手紙・第一 3章22節、23節

 また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです。神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。

「主の命令に従うこと」。ヨシュアも、それを何度も強調したのです。
ヨシュア記 1章7節

「ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。」

 ヨシュアは、主に全く従順に従い、主がおっしゃったとおりのことを行なったと、聖書は言っています。
ヨシュア記 8章18節

 そのとき、主はヨシュアに仰せられた。「手に持っている投げ槍をアイのほうに差し伸ばせ。わたしがアイをあなたの手に渡すから。」そこで、ヨシュアは手に持っていた投げ槍を、その町のほうに差し伸ばした。

主の言われたとおりにしたのです。どうしてか、何故か、何のためか、はっきりわからなかったかもしれないけれど、彼は、「主に従うと必ず報いられる」と確信したのです。
私たちもまた同じように、みことばに対する全き従順を示さなければなりません。

みこころが何であるかを知るための手がかりは、まず主のみことばである聖書であり、聖霊の証しです。

 イエス様を信じる者がただ一人でいる場合には、まちがった道に行く可能性があります。主のご支配のもとにある集会全体は、まちがった道を歩むことができません。主様はかしらであられ、主様のからだである私たちは、主と結びついています。かしらとからだとの間には一体性があり、かしらなるイエス様によって支配されて、どのような小さなことにおいても主に導かれ、そして主のみことばに従うということは、素晴らしいことです。

 イエス様によって支配された人生、いのちにあって支配される人生の特徴とは、今話し
ましたように、「主を愛すること」であり、「主のすべての道に歩むこと」であり、そして、「主の命令を守ること」です。


4.「主にすがること」です。
 イエス様はぶどうの木であり、私たちはその枝です。もう一度、ヨハネ伝15章を見て
みましょう。信じる者の成長のため、実を結ぶ秘訣についての、最も素晴らしい箇所の一つなのではないでしょうか。
ヨハネの福音書 15章1節から5節

「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」

ぶどうの木のいのちがその枝に流れ込むのと同じように、主イエス様のいのちは私たちのうちに流れ込んでいます。
コロサイ人への手紙 3章3節

 あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。

 バルナバについて書かれています。
使徒の働き 11章23節

 彼はそこに到着したとき、神の恵みを見て喜び、みなが心を堅く保って、常に主に とどまっているようにと励ました。

 原語を見ると、「主にとどまっているように」ではなく、「主にすがるように」という
意味のことばが用いられています。「主にすがるように」です。
 私たちが主イエス様にすがるとき、本当の意味での一致と交わりを、ほかの兄弟姉妹との間においても持つことができるのです。
 
 イエス様によって支配された人生、いのちにあって支配されている人生の特徴とは、今
話しましたように、「主イエス様を愛すること」であり、「主イエス様のすべての道に歩むこと」であり、また、「主の命令を守ること」であり、「主にすがること」です。


5.「心を尽くし、精神を尽くして、主に仕えること」です。
 即ち、最後の特徴は、真心を持って徹頭徹尾主に仕えることです。前に申しましたよう
に、主に対する私たちの奉仕は、主に対する私たちの愛によって支配されるべきです。

 私たちは、人間にではなく、イエス様に仕えるべきです。人間に仕えようとする者は、
主に喜んでいただくことができません。人を喜ばせ、人に仕えたいと思う者は、知らないうちに人の奴隷となります。そうすると、私たちはみことばのとおりにみことばを伝えることができなくなります。つまり、私たちは、人に喜んでもらえるようなことを語るようになってしまうのです。
主のしもべとして私たちは、主イエス様と、主イエス様のからだなる兄弟姉妹に仕えるべきです。そして、私たちを通して兄弟姉妹は生かされ、よみがえりのいのちが自由に働くことができるようになるのです。そのために必要なことは、私たちが主のご支配と権威のもとに置かれることです。
 
 イエス様によって与えられるメッセージを、私たちはだれをも恐れることなく宣べ伝え
るべきです。その意味は、十字架につけられた主イエス様だけを紹介することです。
 その一つの実例は、エレミヤという預言者でした。彼は、自分を無にして、恐れること
なくさばきを、また、福音を宣べ伝えたのですが、イスラエルの民によって捕らえられ、
ほら穴の中に投げ込まれてしまいました。けれど、彼は何があっても、主によって与えら
れたメッセージを、そのまま忠実に宣べ伝え続けたのです。

 私たちが主に仕えていこうとする原動力は、主に対する私たちの「愛」であるべきで、自分の力で行なうのではなく、主によって支配され、主のみこころの中においてなされるべきです。
パウロは、当時の信じる者を励ましたのです。
コロサイ人への手紙 3章23節、24節

 何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。

 パウロは、このように喜んで、コロサイにいる人たちに書くことができたのです。
「あなたがたは主キリストに仕えている」。このみことばが、私たちにも当てはまるよう
になれば幸いです。そしてまた、いのちにあって支配される人生を、一人一人がみな実現できるようになるなら幸いです。

ダビデは、詩篇の143篇12節の中で、祈ったのです。
詩篇 143篇12節

 あなたの恵みによって、私の敵を滅ぼし、私のたましいに敵対するすべての者を消し去ってください。私はあなたのしもべですから。

 ダビデは、本当に心から言えたのです。「私は主のしもべです」と。

 最後に、もう一箇所、読んで終わります。
ローマ人への手紙 8章32節

 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

ローマ人への手紙 8章37節から39節 

 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。


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◆メッセージ(ベック兄)

※一部、テープの転換による不明部分あり

神のみことばは神のみことばである(5) 2006. 4. 18
神のみことばは神のみことばである(4) 2006. 4. 11
神のみことばは神のみことばである(3) 2006. 4. 4
神のみことばは神のみことばである(2) 2006. 3. 21
家族の救い 2006. 3. 19
神のみことばは神のみことばである(1) 2006. 3. 14
主イエスは神の子キリストである(4) 2006. 3. 7
主イエスは神の子キリストである(3) 2006. 2. 28
主イエスは神の子キリストである(2) 2006. 2. 14
主イエスは神の子キリストである(1) 2006. 2. 7
勝利の生活の秘訣 2006. 1. 24
イエス・キリストのからだ 2006. 1. 17
主の永遠からの予定 2006. 1. 10
元旦メッセージ 2006. 1. 1


2005年度のメッセージ集
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