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メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


何をしてほしいの?薬棚である聖書
   
2005.4.19(火)
ベック兄メッセージ(メモ)

 
引用聖句
サムエル記・第二 14章5節
 それで、王は彼女に言った。「いったい、どうしたのか。」彼女は答えた。「実は、この私は、やもめで、私の夫はなくなりました。」

マルコの福音書 10章46節から52節

 彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と叫び始めた。そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい。」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている。」と言った。すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。


涼しい日本に帰りました。(笑)バンコクは、37℃だったのですけれど、今週中には
おそらく40℃になりそうです。集会所はもちろん冷房されています。インドからN家族が見えたのですけれども、「やはりバンコクはいいですね」と彼女が言われました。姉妹は、昔バンコクに住んでおられ、子どもさんの死を通して非常に悩むようになりましたが、やがてイエス様を信じ、救われたのです。今回大変よかったのは、姉妹のご主人もインドから来られて、はっきり、「イエス様を信じ、イエス様に従いたい」と言われたので、本当に姉妹は嬉しくて嬉しくてしかたがなかったのです。主は生きて働かれているのです。
主は生きておられます。

今日の題名は、今読みました二箇所の中にあるのです。第二サムエル記の、「王は彼女に言った。『いったい、どうしたのか』」の、『いったい、どうしたのか』。
またバルテマイに言われた、イエス様のことば、『何をしてほしいのか。願いなさい』。あるいは、『薬戸棚である聖書』という題名をもつけることができるのではないかと思います。イエス様ご自身が願っておられます。「願いなさい」と。何も欲しくなければ、もちろん何ももらえません。それを考えると素晴らしいチャンスなのではないでしょうか。

「何がほしいのか。願いなさい」。頼まないと損をします。もちろん救われませんし、
用いられません。ですから、聖書の中でよく、「あなたの願ったとおりになる」と書き記されています。王の王であられる主イエス様は、今日も、私たちの前に立っておられ、次のように尋ねておられます。「いったい、どうしたのか」。「あなたはわたしに何をしてほしいのか」と。

主イエス様とは、もちろんあらゆる病気をいやすことができるお方であり、イエス様は
あらゆる災いを予測できるお方であり、あらゆる罪を赦すことができるお方です。私たちは誰でも、あまり体調が良くないなあと感じる場合があります。そのときある薬によって良くなることもあります。薬とは病気を治すためか、あるいは予防するためのものです。霊的に健全でないときは、みじめに感じます。多くの人は肉体的には健康でも、たましいは健全さを失っています。どのような薬が役に立つのでしょうか。

聖書は、すべての可能な手段が使えるようになっている、いわば薬戸棚のようなものです。今日は、この薬戸棚から、詩篇の37篇という宝物を見てみたいと思います。

その中から、いろいろな薬や病人を七つに分けて見てみることにしたいと思います。
第一の病人は、悪を行なう者の繁栄に対するとまどいを持っています。
第二の病人は、すべての要求に応じることができるかの心配をしています。
第三の病人は、意気消沈し、打ちのめされ、我慢できない気持でいます。
第四の病人は、憤慨し、腹を立て、神経質で執念深い性質を持っています。
第五の病人は、自分が救われているかどうかについての病的な不安を持っています。
第六の病人は、主の導きについて動揺しています。
そして第七の病人は、絶望の淵にいる状態です。

私たちは、この重症の病気と関わりがあることが明らかです。

これらの病気は、非常に伝染しやすいので、注意が必要です。私たちは外面的には健全そうに見えますが、内側は本当に病んでいます。そのような病人に、至るところで出会います。私たちが、主のみこころの中に豊かに満たされている戸棚を持っているということは、何という素晴らしいことでしょうか。その中に入っている薬は、どれも副作用を持っていません。そしてどの薬も完全に無料です。どの薬も、治すためだけではなく、予防のためにも非常に効果があります。

1.もしかすると、あなたは第一の病人かもしれません。あなたは悪を行なう者が栄えることに、とまどっているかもしれません。最初の瓶から良い錠剤をお取りください。
詩篇 37篇1節、2節

 悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな。彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。

ダビデは、悪を行なう者がうまくいっているのを見たとき、とまどい、まったく混乱し
てしまいました。
自分のことだけしか考えず、自己中心的な人が成功しているように見えることは、いつでも私たちが経験するところです。彼らは、主に対する愛を少しも持たず、その上、主を否定し、主の御名を汚しています。それにも関わらず、すべてはうまくいっているように見えるのです。嘘をつく者が、自分の目標を達しているように見えます。欺く者が、豊かになっているように見えます。暴力を行なう者が、自らの感情を抑止できないように見えます。生けるまことの主なる神を否定し、悪に悪を重ねる国民が、いつも勝利を収めています。革命家たちが、力を奪い取っています。罪なき人間が、抑圧され、自由を奪われています。このようなことについて、多くの疑問が次から次へと現われてきますが、だれもこれに満足のいくような答えを与えてくれません。多くの人は、どうしてよいかわからず、まったくとまどってしまいます。

主のみことばの薬は、次のように言っています。まず1節、2節をもう一度読みます。
詩篇 37篇1節、2節  

 悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな。彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。

10節

 ただしばらくの間だけで、悪者はいなくなる。あなたが彼の居所を調べても、彼はそこにはいないだろう。

13節

 主は彼を笑われる。彼の日が迫っているのをご覧になるから。

35節、36節

 私は悪者の横暴を見た。彼は、おい茂る野生の木のようにはびこっていた。だが、彼は過ぎ去った。見よ。彼はもういない。私は彼を捜し求めたが見つからなかった。

主のみことばをして、あなたに語らしめなさい。主のみことばは、いやす作用を持っています。主のみことばを通して、あなたは突然いろいろな事がらを別の光の中に見ることができます。
あなたは、生けるまことの主なる神が、すべてのものの上に立っておられるのを知るようになります。主は、決して御手から手綱をお離しになりません。イエス様は、お赦しになること、また、なぜそれをお赦しになるのかを、もちろんご承知のうえでのことです。
それは主の御心の時に、主がすべてを明らかにしてくださいます。あなたが腹を立て、人々がねたみを起こす場合、あなたは内面的に別の態度を取ることを突然覚えるでしょう。あなたは神なく、望みなく、恐ろしい永遠に向かっているすべての人を気の毒に思うでしょう。悪を行なう者の時は定められています。見せかけの幸せはまもなく行き詰まります。
第一の病人は、悪を行なう者の繁栄にとまどっています。

2.第二の病人は、すべての要求に応じられるかを心配しているのです。すべてがどうなってしまうのか、不安に襲われるそのとき、二番目の瓶からもうひとつの分を取り出し
てください。神のみことばは次のように言っています。
詩篇 37篇3節

 主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。

主のご命令は、非常に健康を促進してくれます。主に信頼しなさい。目に見えるものに
支配されないようにしなさい。生けるまことの神が、私たちを養っていてくださることは素晴らしいことではないでしょうか。
旧約聖書から一箇所読みます。
列王記・第一 17章3節から6節

「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。そして、その川の水を飲まなければならない。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」それで、彼は行って、主のことばのとおりにした。すなわち、彼はヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに行って住んだ。幾羽かの烏が、朝になると彼のところにパンと肉とを運んで来、また、夕方になるとパンと肉とを運んで来た。彼はその川から水を飲んだ。

驚いたことにその川が涸れてしまったのです。どうなるのでしょうか。けれどエリヤは心配する必要がなかったのです。というのは、主が既にひとつのご計画を持っておられたからです。
9節

「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしは、そこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」

エリヤの神は、もちろん私たちの主でもあられます。主は昨日も今日もいつまでも変わ
らないお方です。烏によって養われることはちょっと考えられないことです。烏とはそのようなものではないのです。自分のことしか考えない(笑)ものなのです。けれども主が命令なさると、やはり動物でさえも従わざるを得なくなるのです。すべての心配を予防するために、主は素晴らしい約束をお与えくださいました。37篇に戻りまして、
詩篇 37篇19節

 彼らはわざわいのときにも恥を見ず、ききんのときにも満ち足りよう。

25節

 私が若かったときも、また年老いた今も、正しい者が見捨てられたり、その子孫が食べ物を請うのを見たことがない。

主は忠実なお方です。アブラハムもまた非常に大きな苦しみの中に置かれました。その
とき、アブラハムに素晴らしいみことばが与えられました。
創世記 22章8節

「神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」

心配する必要はないのです。「神ご自身が備えてくださる」から。ここで神の名前が出てくるのです。エル・シャダイという名前です。すなわち、「すべてを備えてくださる主」という神の名前が出てきます。主はすべて必要なものを間違いなく与えてくださいます。私たちは決してひとりぼっちにはさせられません。主は、配慮してくださると約束してくださいました。ですから、安心してすべてをゆだねることができるのです。主イエス様は偽ることのできないお方です。
民数記の23章を見ると、次のように書き記されています。
民数記 23章19節

「神は人間ではなく、偽りを言うことがない。人の子ではなく、悔いることがない。神は言われたことを、なさらないないだろうか。約束されたことを成し遂げられないだろうか。」

私たちが主のみことばに拠り頼むとき、主は私たちのためにみことばの約束を果たしてくださいます。


3.第三の病人は、意気消沈し、打ちのめされ、我慢できないのです。あなたは主が自分を忘れておしまいになり、自分の祈りを聞き届けてくださらないという思いを持ってい
るかもしれません。そのとき第三の瓶からその分を取り出してください。しかも、朝と晩
お飲みになってください。
詩篇 37篇4節から7節

 主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな。

突然、困難が私たちを襲うとき、私たちが落胆し意気消沈することは、いかに早く起こることでしょう。自分は忘れられてしまっている、もはや愛されていない、もう配慮されていないという印象を持ちがちです。
ある人は、足に強い痛みを持ち、ひとりの医者を訪ねました。徹底的に調べてもらった
あとで、医者はその人に緑の錠剤を与え、その錠剤が必ず効果を発揮し、間もなく痛みはなくなると約束しました。けれどその人は肩にも痛みを感じました。すると医者は診察して、今度は白い錠剤をくれました。彼は次のことを知りたいと思いました。緑の錠剤が足のため、白い錠剤が肩のためというのはどうしてわかるのかと。私たちも、おそらく似たことを言うのではないでしょうか。

4節から7節の聖句は、いかにして私たちの憂鬱な気持ちを治すことが出来るのでしょうか。主のみことばによって、打ちのめされた状態から脱出することができるのでしょう
か。もちろん私はあなたに何ひとつ説明できません。ただ、あなたに次のように言うことができます。即ち、
主のみことばを真剣に受け取ってください。それをあなたのために個人的に要求してく
ださい。主のみことばに従ってください。そうすれば、あなたはいやす力を経験するに違
いありません。
4節

 主をおのれの喜びとせよ。

あなた自身から、あなたの感情から、あなたのみじめな状態から目をそらせなさい。
5節

 あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。

すべてを主にゆだね、主に信頼せよ。イエス様はあなたを失望させないのです。
7節

 主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。

イエス様の命令に従う者はいやされ、活気を与えられ、強められます。


4.第四の病人は、憤慨し、腹を立て、神経質で執念深いのです。そのようであるならば、
第四の瓶から強い頓服薬を取り出してください。感情がすぐに爆発すると感じるなら、特に急ぐ必要があります。
詩篇 37篇8節

 怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。

とあります。予期しないことがしばしば不機嫌と怒りの原因です。私たちはだれかが不真実なことばを語ると、予期しない行為が飛び出し、憤慨してしまいます。

パウロは、エペソ書の中で、主の恵みによって救われた人々に次のように書いたのです。
大切な警告でしょう。
エペソ人への手紙 4章26節27節

 怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。

あなたは怒ることがあるかもしれませんが、この怒りが罪にならないように気をつけましょう。怒りに機会を与えてはなりません。怒りと憤慨を、日没まであなたの中に宿らせ
てはいけないのです。さもなければ、私たちは簡単に悪魔に余地を与えてしまうからです。別のことばで表現するならば、私たちは寝る前に必ず、みことばという薬を飲むべきです。
即ち、みことばによって、私たちはもはや憤らず、腹を立てず、神経過敏にならず、執念深くならないように整えるべきです。
夜になる前に私たちは、主との関係、また隣人との関係を清算しておくべきです。私たちは、このみことばを薬として食べ、自分のものとするならば、多くの問題は始めから大きくはならずに済むでしょう。また多くの悩みや、むずかしい状況は解決されるでしょう。
腹を立て、執念深く、何があっても絶対に許したくないと思う人は、自分自身を一番傷つ
けます。


5.第五の病人は、自分が救われているかどうかについての、病的な不安で満ちています。
そして、永遠の安全についての疑いで満ちています。このような病気の症状、みじめな状態に対しては、強い薬が必要です。
詩篇 37篇18節

 主は全き人の日々を知っておられ、彼らのゆずりは永遠に残る。

24節

 その人は倒れてもまっさかまさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。

28節

 まことに、主は公義を愛し、ご自身の聖徒を見捨てられない。彼らは永遠に保たれるが、悪者どもの子孫は断ち切られる。

33節

 主は、彼をその者の手の中に捨ておかず、彼がさばかれるとき、彼を罪に定められない。

はっきりした救いの確信を持っていない信者が確かにいます。そのような信者はイエス
様が本当に自分を受け入れてくださったのか、不安を持って絶えず疑っています。
その人たちは、本当に救われているのかいないのかわかりません。その人たちは、不安の中に生活し、もしかすると暗やみの中に追い出されるかもしれないという不安の中に生きています。それは悪魔のしわざです。あなたもまたこの不安、このような疑いを持っているのでしょうか。特に夜になると、悪魔はしばしば信じる者から確信を奪うために、信じる者を攻撃します。ここではどのような薬が服用されなければならないのでしょうか。

主のみことばの中で、ここで二度、「永遠」ということばが使われています。イエス様は、たとえ私たちが失敗して倒れたとしても、決して追い出さないと約束しておられます。
主イエス様の愛は、何があっても愛し続け、その愛によって回復してくださいます。この
主の愛に対して心の目が開かれる人は、回復されます。イエス様は、救われた者を決してお捨てになりせん。イエス様によって贖われた者は、永遠の安全の中にいます。

あなたがこの確信を持っていないか、あるいは失ってしまっているならば、その確信を得るただ一つの道が存在します。確信の土台は言うまでもなく、主の永遠のみことばです。
主のみことばに拠り頼み、主が約束してくださることを幼子のように信じなさい。
あなたが失われた罪人としてイエス様のみもとに行くなら、あなたは、イエス様があなたをいつまでも受け入れてくださるということを知ることができるのです。いったいどうしてなのでしょうか。この確信の土台なるものとは、いったい何なのでしょうか。
イエス様が、「わたしのもとに来る者をわたしは決して捨てない」と約束してくださったからです。

私たちが理解できるかできないかに関係なく、主は、「決して」と言われましたので、「決して」は、「決して」以外の何ものでもないのです。イエス様によって受け入れられた者は、それによって永遠の安全の内にいます。この永遠に全うする事実のために、毎日主に感謝しましょう。


6.第六の病人は、イエス様の導きについて動揺しています。自分はイエス様のご計画を理解できない。そして、イエス様がそもそも、あなたの働きとあなたの将来のご奉仕に
関心を持っておられるかどうか疑っています。この病気によって、人はだるくなり、霊的
に疲れるようになります。
詩篇 37篇23節、24節

 人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。

私たちは主の導きをじっくりと考えるなら、常に次のことを尊重しなければなりません。イエス様ご自身は、私たちが主様によって導いていただきたいと願っている以上に、私たちを導きたいと望んでおられるのです。私たちが主に信頼し、主に拠り頼み、主の導きを待ち望み、主様だけを喜びたいと思うなら、イエス様はご自分のご栄光と祝福とをもって私たちの最善に至る道を導いてくださいます。
たとえ、私たちがつまずいたり、倒れたりして、それが何度も繰り返されとしても、私たちの惨めさをよくご存知のイエス様は、私たちをお見捨てにならず、私たちを助け引き上げ、新たに強め、力を与えてくださいます。
若い青年は自分の将来について動揺するかもしれません。いったいどうなるのかと心配
するかもしれません。若い女性は将来の伴侶について、心配するかもしれません。いったいだれと結婚するようになるのかと。
すべてを主イエス様にゆだねると祝福されます。そしてゆだねたものを主の御手に任せ、明け渡しましょう。私たちのために刺し通された主の御手は、私たちを守り、導きたいと願っておられます。


7.第七の病人は、絶望の淵にいます。自分はあちらこちらと揺れ動き、出るべきか入るべきかわかりません。そのためにはどれが正しい薬なのでしょうか。37篇39節です。
詩篇 37編39節

 正しい者の救いは、主から来る。苦難のときの彼らのとりでは主である。

主ご自身が苦難のときのとりでであるということは、動かすことのできない事実です。
あなたは今、大変な苦難の中にいるかもしれません。けれど、あなたは主のみ翼のかげに逃れ、主にすべてをゆだねるなら、主は助け、守ってくださり、主の助けは奪われません。主は嘘、偽りを言われません。
薬を飲んでください。みことばを食べ、自分のものにしてください。苦しみを持ったまま主のところに行き、イエス様の前に自分の心を注ぎ出してください。

すると、あなたはイエス様が解放してくださることを経験します。また、イエス様が私
たちを圧迫する重荷を取り去ってくださることも経験し、イエス様があなたがたを決しておろそかになさったり、捨てたりなさらないことをも必ず経験します。


最後に、二つのことについて考えて終わりたいと思います。
1.昔の多くの薬戸棚は鏡の戸を持っています。人が戸棚の前に進んで行くと、自分自身が見えます。主の薬戸棚である聖書も、それに似ているのではないでしょうか。鏡は私
たちの姿を映し、私たちは、生けるまことの神がいかに私たちをご覧になっておられるか
わかります。私たちは、私たちの傷と結果を認識し、いかに憐れむべき惨めな存在である
かを見ることができます。

2.私たちは、薬戸棚の戸を開けると、その中に入っているたくさんの薬を見ます。あらゆる苦しみ、悩みに対して、ここには的確な治療薬があります。私たちは薬を見たり、
それに驚いたりしても、何の効果をも経験しません。また瓶のコルクを抜いて匂いを嗅い
でも十分ではありません。私たちは薬を飲まなければなりません。そのときに初めて、私
たちは薬の効果を経験します。

ヤコブは、そのことに対して非常に重大なことを書き記したのであります。
ヤコブの手紙 1章21節から24節

 ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。

先に読みました個所の中で、「あなたはいったいどうしたのか」と。いかがですか。

ヨハネはその第三の手紙の中で、愛するガイオへ次のように書き記したのです。
ヨハネの手紙・第三 2節

 愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。

このことばによると、ガイオが霊的に健全であったことがわかりますが、ヨハネは彼が
肉体的にも健康であるようにと願ったのです。
大部分の信者において、逆のことがほとんどではないでしょうか。すなわち彼らは肉体的には健康ですが、霊的に見ると、多くの人があわれむべき状態なのではないでしょうか。「いったいどうしたのか」。

私たちは霊的に健康なのでしょうか。イエス様の提供された薬を見て、自由にお使いく
ださい。そうすれば、ヤコブが言っているようになります。「そのような人はその行ないによって祝福されます」。

詩篇37篇を二、三度読むだけでは十分ではありません。
・主の約束について深く考えてください。
・自分の苦しみ、自分の問題を持ってイエス様のみもとに行きなさい。
・イエス様のみことばを用いてあなたに語らせなさい。主イエス様のみことばこそ、専用の薬です。主のみことばによって、ただ単に自分の救いを確信するに至るだけではなく、あなたを強め、あなたが主にご栄光を帰することができ、主イエス様おひとりがほめたたえられるようになるのです。

七つの大問題について、七種類の病人について考えてまいりました。
1.悪を行なう人の繁栄に対するとまどい。
2.あらゆる要求に応じられない心配。
3.意気消沈し、打ちのめされ、我慢できない気持ち。
4.憤慨し、腹を立て、神経質で執念深い性質。
5.自分が救われているかどうかについての不安。
6.主の導きに対する動揺。
7.絶望の淵にいる状態。

黙示録 22章17節後半に、次のように書き記されています。

 渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。

素晴らしい呼びかけなのではないでしょうか。



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メッセージ・証し集インデックスページ

◆メッセージ(ベック兄)

※一部、テープの転換による不明部分あり

神のみことばは神のみことばである(5) 2006. 4. 18
神のみことばは神のみことばである(4) 2006. 4. 11
神のみことばは神のみことばである(3) 2006. 4. 4
神のみことばは神のみことばである(2) 2006. 3. 21
家族の救い 2006. 3. 19
神のみことばは神のみことばである(1) 2006. 3. 14
主イエスは神の子キリストである(4) 2006. 3. 7
主イエスは神の子キリストである(3) 2006. 2. 28
主イエスは神の子キリストである(2) 2006. 2. 14
主イエスは神の子キリストである(1) 2006. 2. 7
勝利の生活の秘訣 2006. 1. 24
イエス・キリストのからだ 2006. 1. 17
主の永遠からの予定 2006. 1. 10
元旦メッセージ 2006. 1. 1


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