真(まこと)の喜びの土台
2005.4.26(火)
ベック兄メッセージ(メモ)
引用聖句
詩篇 89篇1節から18節
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私は、主の恵みを、とこしえに歌います。あなたの真実を代々限りなく私の口で知らせます。私はこう言います。「御恵みは、とこしえに建てられ、あなたは、その真実を天に堅く立てられる。」と。「わたしは、わたしの選んだ者と契約を結び、わたしのしもべダビデに誓っている。わたしは、おまえのすえを、とこしえに堅く立て、おまえの王座を代々限りなく建てる。」セラ
主よ。天は、あなたの奇しいわざをほめたたえます。また、聖徒たちの集まりで、あなたの真実をも。まことに、雲の上ではだれが主と並びえましょう。力ある者の子らの中でだれが主に似ているでしょう。主は、聖徒たちのつどいで大いに恐れられている神。主の回りのすべての者にまさって恐れられている方です。万軍の神、主。だれが、あなたのように力がありましょう。主よ。あなたの真実はあなたを取り囲んでいます。あなたは海の高まりを治めておられます。その波がさかまくとき、あなたはそれを静められます。あなたご自身が、ラハブを殺された者のように打ち砕き、あなたの敵を力ある御腕によって散らされました。天はあなたのもの、地もあなたのもの。世界とそれを満たすものは、あなたがその基を据えられました。北と南、これらをあなたが造られました。タボルとヘルモンはあなたの御名を高らかに歌います。あなたは力ある腕を持っておられます。あなたの御手は強く、あなたの右の手は高く上げられています。義と公正は、あなたの王座の基。恵みとまことは、御前に先立ちます。幸いなことよ、喜びの叫びを知る民は。主よ。彼らは、あなたの御顔の光の中を歩みます。彼らは、あなたの御名をいつも喜び、あなたの義によって、高く上げられます。あなたが彼らの力の光栄であり、あなたのご恩寵によって、私たちの角が高く上げられているからです。私たちの盾は主のもの、私たちの王はイスラエルの聖なる方のものだからです。 |
詩篇 89篇52節
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ほむべきかな。主。とこしえまでも。アーメン。アーメン。 |
今日のお証しは、司会のT兄弟の奥様であるN姉妹なのですけれど、実はどなたがお証しされるのか決まっておらず、ちょっとあわてました。けれども彼女にお願いすることができました。彼女は昨晩眠れたのかどうかよくわかりませんが…。(笑) ご主人も今日の学び会に来られたらいいなと思っていました。このお二人、実はこの間一緒にバンコクの喜びの集いに参加され、すばらしい交わりの機会が与えられました。お名前だけではなく、とてもかわいいお二人です。救われたばかりのお二人ですけれど、イエス様を心から素直に愛するように変えられました。そのことを経験すると、私たちの主は本当に素晴らしいお方ではないかと新たに思わされます。
本日の主題は、今言われましたように、『まことの喜びの土台』、あるいは、『真の幸せの根拠』とつけてもいいのではないかと思います。
おもに今読まれました詩篇89篇、特に15節から18節までをご一緒に学んでみたいと思います。
生けるまことの主なる神を信じているという人は、「理解できているのではなく、信じている人で、真の幸せを持っている人」だということなのです。幸せになりたいと思わない人は、この世にいないでしょう。けれど、幸せになりたいと思っても、本当に幸せになることはできないと思い込んでいる大勢の方がいるのではないでしょうか。
今朝電話があって、質問されたことは、「私はこのような問題をかかえています。本当の喜びを見出す可能性はあるのでしょうか?」 その時、「はい。必ずあります」と答えられるのは大変幸いなことです。「遅過ぎます。あきらめなくてはいけません」ではなく、「主イエス様に頼れる者は、本当に喜ぶことができるのです。」と…。
けれど、喜びの土台は何なのでしょう。真の幸せの根拠はいったい何でしょうか。使徒の働きの3章の中に、生まれつきの足なえの癒しが私たちに報告されています。その人は癒され、主を信じるようになり、喜びに満たされたのです。
使徒の働き 3章8節
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おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。
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「彼はおどり上がって、神を賛美した」と記されています。彼は、生まれてからその時まで、歩くことができなかったのです。けれど彼はおどり上がりました。喜びに満たされました。感謝したと書かれています。私たちは、この人がどれほど幸せになったか想像することができません。
主に頼る者は、喜びのあまりに歓呼の声をあげるはずです。この喜びは外部事情によるのではありません。主を信じない人たちの幸せは、外部事情によるので、時間的に限られています。他方において、聖書には、「信じる者は悲しむ者である」ということもはっきり書かれています。
マタイの福音書 5章4節
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悲しむ者は幸いです。 |
そうすると、「悲しまない人は不幸です」ということになるでしょう。(笑)聖書を時々逆に読めば、ああそうかと分かるようになります。うそを知らない、真理そのものであられるイエス様は、「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです」と言われました。悲しんでいない人々は慰められることがなく、希望のないままで、将来に向かうのです。
詩篇の作者も同じようなことを言ったことがあります。「不幸な人はあなたに身をゆだね
ます」と。イエス様に頼る者は、あらゆる悲しみの中で、またあらゆる試練の中で、あらゆる非難攻撃の中で、喜ぶことができる人間です。なぜなら、イエス様はいつも頼る者のそばにいてくださり、慰め続けてくださるからです。
イザヤ書の53章3節において、イエス様について、「イエス様は悲しみの人となる」とあります。「私たちの罪を担う者として、イエス様は、ことばに言い表わせないほど苦しまなければならない」と預言されています。
けれど、私たちの主イエス様は、ご自身の喜びについて語っておられます。素晴らしい約束です。
ヨハネの福音書 15章11節
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「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。」
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「わたしの喜びがあなたがたのうちにあるように」と。
・イエス様は、ご自分の喜びを提供しておられ、与えたくて仕方がないのです。宗教は、要求するだけで何も提供しません。
・イエス様の喜びは、完全な喜びです。そしてイエス様は、私たちがこの喜びを持つことを望んでおられます。
・イエス様の喜びは、永遠に変わらない壊れることのない喜びです。この喜びは、周囲の事情とはまったく無関係です。
聖書は、繰り返し「イエス様に頼る者は喜ぶべきである」。そして、「喜ぶことができる者である」ということを証ししています。というのは、彼らはまことの幸せを持っている人だからです。彼らは、生けるまことの神を信じ、主に頼っているからです。
詩篇の作者は、「主を信じる者はなぜ幸せなのか」について、七つの根拠をあげています。
1.主イエス様を信じる者は、喜びの叫びを知っているから。
2.主イエス様を信じる者は、光の中を歩むことが赦されているから。
3.主イエス様を信じる者は、日々、主イエスにあって喜ぶことができるから。
4.主イエス様を信じる者は、主イエス様の義によって、共に御座に着かせていただく者なので。
5.主イエス様を信じる者は、主イエス様が力の栄光であるから。
6.主イエス様を信じる者は、彼らの角が高くあげられているから。
7.主イエス様を信じる者は、主ご自身が王として、また守りとして、そば近くにいてく
ださるから。
1.主イエス様を信じる者は、真の喜びの叫びを知っているから幸せなのです。
まことの幸せの最初の根拠は何なのでしょうか。「主イエス様を信じる者は、喜びの叫びを知っている」と、ここで詩篇の作者は書き記したのです。
私たちは旧約時代において、ラッパが吹き鳴らされたことを思い起こすことができます。主によって選ばれた民を、主のご奉仕のために呼び集めるため、ラッパが吹き鳴らされました。主の民がラッパの響き渡るのを聞いた時、お互いに主を誉めたたえようと、大急ぎで喜びながら集まりました。主を誉めたたえることは、彼らにとって贖いのために心から主に感謝し、また、主のご配慮と絶えざるご臨在を感謝する大切な事柄でした。
「さいわいなことよ。喜びの叫びを知る民は」。ここでは、喜びの叫びを「聞く」のではなく、喜びの叫びを「知る」ことが大切です。
イエス様を信じる者は、霊的な識別能力を持っており、生けるまことの神を知っており、
自分たちの救いを確信しており、主イエス様を通して与えられた富を知っています。
パウロは次のようにエペソにいる兄弟姉妹に書き記したのです。
エペソ人への手紙 1章3節
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私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
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こんにち、現代美術において、ただ2、3色のしぶきだけで描かれている絵があります。「それが何を意味しているのか」と聞かれますと、私たちは頭を振り、「さっぱり分かりません」と言わざるを得ないのではないでしょうか。福音を宣べ伝えられる時の未信者たちの状態も、それとそれほど変わらないと言えます。
パウロは、生まれながらの人、主を信じない人々について、次のように書いたのです。
コリント人への手紙・第一 2章14節
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生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。
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いわゆる知者や博識な人にとって、聖書の福音全体は理解できません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。
イエス様は、次のように喜んでお語りになったのです。祈りの中ですけれど、
マタイの福音書 11章25節
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「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。」
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当時の学者たちに、イエス様は「あなたがたは、幼子のようにならないかぎり救われま
せん」とはっきり言われたのです。
私たちは、啓示、即ち上からの光に照らされる必要があります。さもなければ、私たちは何ものも見ることができず、何ものも知ることができず、的はずれの方向に行ってしまいます。イエス様ご自身が、その道を私たちに示してくださらなければならないのです。
ダビデは、次のように賛美したことがあります。この箇所は、聖書の中の宝物ではないでしょうか。
詩篇 16篇11節
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あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。
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イエス様がいのちの道を示してくださらなければ、人間は失われてしまい、人間自身の道の終着は死であると聖書は言っています。
箴言 14章12節
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人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。 |
私たちは、未信者を祈り会に招くことができますし、イエス様を知らない人を福音集会連れて来ることができます。私たちは、私たちがいかに主を経験したか語り伝えることができますけれど、その結果はどうでしょうか。招かれた人たちは「失礼にならないために」という理由で参加して、いろいろな質問をするかも知れません。しかし、その人たちは、主ご自身を経験した時初めて、把握することができるようになります。その時にこそ彼らは本当に喜ぶことができるようになります。
私たちは喜びの叫びを知っているでしょうか。私たちは主イエス様の恵みと愛について考えると、喜びのあまりどうしていいか分からなくなるほどなのでしょうか。
もちろん私たちは、尊敬されたり愛されたりする価値のないものです。けれど、イエス様は、私たちのためにご自身をささげてくださり、主の尊い血潮の代価をもって私たちを贖って下さったのでした。
ですから、主を信じる者は、「私は喜びの叫びを知っているので幸せです」と言うことができるのです。
2.主イエス様を信じる者は、光の中を歩むことを赦されているから幸せなのです。
詩篇 89篇15節
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主よ。彼らは、あなたの御顔の光の中を歩みます。 |
「御顔の光の中を歩む」ということは、「『主によって愛されている』ということを常に意識していること」を意味しています。
「私は愛されている」、これこそまことの幸せの土台です。「生けるまことの神は、私たちを愛してくださる」、これは信じられないことですが、本当のことなのです。ですから、主イエス様を信じる者は、みな大いに喜ぶことができるのです。
主イエス様を信じない人たちは、この幸せとこの喜びを少しも知りません。というのは、主イエス様を信じない人たちは、神様のみもとから失われているからです。
イエス様は、ルカの福音書の中で、ザアカイの家にお出でになり、家族を救われてから
次のように言われました。
ルカの福音書 19章10節
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「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」 |
「人の子は」、つまり、「わたしは」です。
救われていない人たちは、「救い主イエス様」を知っていても、知らなくても、また認めても認めなくても、失われた人々に属しているので、未信者たちは、「喜びの叫び」を知りません。なぜなら、未信者は、「失われている者」だからです。
聖書は言っています。
ヨハネの福音書 3章16節
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神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
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「世」とは、「私」のことであり、「あなた」のことです。
「イエス様を信じたくない人たちは、すでにさばかれている」とあります。
18節
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御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。
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36節
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御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。
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イエス様を信じようとしない人は、生けるまことの神の敵です。しかし、自分の債務を意識してイエス様のみもとに行って、イエス様に信頼を置く人は、本当に喜ぶことができます。
パウロは、コロサイにいる人たちに書いたのです。
コロサイ人への手紙 1章21節から22節
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あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのですが、今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。
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イエス様を知ろうとしない人は、喜びの叫びを知らず、御顔の光の中を歩むことについて、何もわかりません。ですからその人は、主を愛すること、主に従うこと、主に仕えることも、できません。その人は、主から遠く離れているのです。
エペソ人への手紙 4章18節
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彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。
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イエス様を心の内に受け入れた人は、次のことを知ることが許されています。「私たちは、御子である主イエス様の死によって、父なる神と和解ができている」と。
パウロは、この事実について多くのことを書いたのです。おもにローマ書の中ですが、
一箇所だけ読みます。
ローマ人への手紙 5章10節
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もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。
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イエス様を心の内に受け入れた人は、次のことを知ることが許されています。即ち、
「私は、イエス様によって受け入れられており、主イエス様の愛のうちにあらかじめ定めていただいている者です。イエス様によって、神との平和を持っているのです」と。
ローマ人への手紙 5章1節
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信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
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信仰によってよしとされ、義と認められた。受け入れられ、光の中を歩むことが許されて、暗闇の中で迷わなくてもよいということは、何という特権でしょうか。光の中を歩む者は、本当に深い平和を経験します。
パウロはそのことについてローマの刑務所の中で書き記したのです。
ピリピ人への手紙 4章7節
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そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。
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「神ご自身の平安が、…守ってくれます」と。
ですからイエス様を信じる者は、心から喜ぶことができ、本当の幸せを得ることができるのです。
イエス様を信じる者は幸せです。どうしてでしょうか。喜びの叫びを知っているからです。光の中を歩むことが許されているからです。
3.主イエス様を信じる者は、日々、主イエス様にあって喜ぶことができるので幸せなの
です。
詩篇 89篇16節
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彼らは、あなたの御名をいつも喜び、 |
ここに記されている「御名」とは、「イエス様ご自身」を意味し、また「イエス様の贖い
の御わざ」を意味しています。
私たちは、この詩篇89篇の中で、この主について何を知ることが出来るのでしょうか。
私たちの主イエス様について、七つのことが記されています。
@ 主は恵み深いお方です。
詩篇 89篇1節前半
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私は、主の恵みを、とこしえに歌います。 |
主の恵みにあずかるようになったので、主を誉めたたえずにはいられなかったのです。主を崇拝せずにはいられなくなったのです。もし、主の恵みがなかったならどうだったのでしょう。
A 主は忠実なお方です。
1節後半
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あなたの真実を代々限りなく私の口で知らせます。 |
10歳のある子どもが、私に質問したことがあります。「イエス様は、私のわがままを赦されるの?」と。小さな子どもが、「自分はわがままだ」と分かったのです。登校拒否をしたことや、家出をしてしまった子どもだったのです。その子どもは、イエス様に頼るようになり、家に戻り、学校にも行くようになり、現在すでに大学院生です。主のみわざとは、
本当に素晴らしいものです。
詩篇の作者は、主イエス様のご真実そのものを経験したので、そのことについて証ししないではいられませんでした。私たちは不真実であっても、イエス様はご真実であり続けられます。主様のご真実がなければ、私たちは失われていたことでしょう。
B 主はご自分の契約を守られるお方です。
3節
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「わたしは、わたしの選んだ者と契約を結び、わたしのしもべダビデに誓っている。」
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私たちの主イエス様は、ご自身が約束されたことを必ず守られます。
私たちの主イエス様は、ご自分のみことばを守ってくださいます。
私たちの主イエス様は、絶対に信頼に足るお方です。
C 主は比類なきお方です。
6節
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まことに、雲の上ではだれが主と並びえましょう。力ある者の子らの中でだれが主に似ているでしょう。 |
8節
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万軍の神、主。だれが、あなたのように力がありましょう。 |
私たちはみな、主イエス様のことをほんのわずかしか知りません。けれど、主イエス様がすべてにまさって偉大なお方であるということを知っています。主イエス様を知ることが許されていることとは、何という幸せでしょうか。
D 主は支配者であられます。
9節
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あなたは海の高まりを治めておられます。その波がさかまくとき、あなたはそれを静められます。
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地獄の力全体が、私たちを攻撃するかもしれませんが、イエス様のひとことで十分です。イエス様の勝利は明らかになっているのです。
E 主は天地の造り主であられます。
11節
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天はあなたのもの、地もあなたのもの。世界とそれを満たすものは、あなたがその基を据えられました。 |
私たちの主イエス様は、ただ単に造り主であられただけではなく、こんにちも、造り主であられます。イエス様は、こんにち、なお、新しいものを造ることがおできになります。
主は、次のように約束してくださいます。
黙示録 21章5節
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「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」 |
F 主は絶対的な主権者です。
詩篇 89篇14節
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義と公正は、あなたの王座の基。恵みとまことは、御前に先立ちます。 |
ここでは、七つの真理が証しされています。これらの真理は、未信者にとっては無関心
なことであり、無視されています。しかし、イエス様を信じる者の場合は別です。私たちにとっては、ことばをもって言い尽くせないほどの喜びなのです。
というのは、
・この大いなる、唯一無比の主イエス様は、私たちのものであるからです。イエス様は、
私たちのために生きておられます。私たちのために存在し、生き、そして私たちに配慮
してくださっているのです。
・そして、イエス様への思いを高め、信仰の高嶺へと引き上げてくださいます。私たちは、
イエス様の御約束を思う時、新たなる希望が与えられます。
イエス様を信じることが許されているとは、何と私たちは富んでいる者なのでしょうか。
イエス様を信じる者は幸せです。彼らはイエス様によっていつも喜ぶことができるからです。
16節
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彼らは、あなたの御名をいつも喜び、あなたの義によって、高く上げられます。
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イエス様を信じる者は、喜びの叫びを知っているので幸せです。光の中を歩むことができるから幸せであり、また、日々イエス様にあって喜ぶことができるので幸せなのです。
4.主イエス様を信じる者は、主イエス様の義によって高くあげられているので幸せなの です。
「自分の債務とわがままと罪をもって、イエス様のみもとに行く者は、罪の赦しをいた
だき、受け入れられ、主の義の衣を着せられる」とあります。
旧約聖書のイザヤは、この素晴らしい福音について、いろいろなことを書いたのです。
イザヤ書 64章6節
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私たちの義はみな、不潔な着物のようです。 |
主イエス様に信頼を置く者には、イエス様の義が与えられ、永久的に受け入れられた者とされます。イエス様を心の内に受け入れた者は、イザヤとともに次のように誉めたたえることができます。
イザヤ書 61章10節
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わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。
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このイザヤ書とローマ書を比べながら読むと、本当に素晴らしいと思います。
ローマ人への手紙 3章20節から22節
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なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
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欲しいと思えば、与えられます。
4章5節から8節
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何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。ダビデもまた、行ないとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。」
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8章1節
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こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
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イエス様の義の外套をまとわせられているすべての人にとっては、もはや、どのような理由による滅びも存在しません。そのような人たちは「罪に定められることは決してない」と聖書は言っているのです。
「イエス様の血潮と義、これこそ私の飾り、また名誉の衣です。これによって、御国に
入る時、私は神の前に立つことができます」と。
これは、子どもの祈りです。昔、子どもたちはみんなこの祈りを暗記して祈ったのです。非常にかわいい祈りです。
イエス様を受け入れた人々には、イエス様の義が与えられています。その人は、もはや
罪に定められることがありません。これこそ、イエス様を信じる者が心から喜ぶことがで
きることの根拠です。
5.主イエス様を信じる者は、主イエス様が力の光栄であるから幸せなのです。
ネヘミヤ記 8章10節
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「あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。」 |
「イエス様ご自身」が、「彼らの力」ですから、信じる者は、喜び、歓喜の叫びをあげることができるのです。
私たちは、私たち自身が弱い者であり、絶えず失敗を繰り返すみじめさを感じる者です。しかし、イエス様ご自身は私たちの力です。
イエス様は、私たちに次のように約束しておられます。多くの人々にとって次のことば
は力の源(みなもと)になったのです。
イザヤ書41章10節
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恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。
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「わたしがあなたの神だから」とは、「わたしはあなたのものである」ということです。
私たち自身は、弱い者であり、また、弱い者であり続けるでしょう。けれど、パウロの
ように、私たちもまた主イエス様の力を経験することができ、次のように告白することが
できます。
コリント人への手紙・第二 12章10節後半
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私が弱いときにこそ、私は強いからです。 |
弱い者として、強い主イエス様に頼ると、元気になるのです。イエス様ご自身が私たちの力ですから、私たちは喜ぶことができ、歓喜の叫びをあげることができ、歓声をあげることができるのです。
6.主イエス様を信じる者は、彼らの角が高くあげられているので幸せなのです。
ここで、「角」は何を意味しているのでしょうか。「角」は昔、美しさ、豊かさ、力の
しるしとして、男の人や女の人によって身につけられたものでした。私たちにとっては、
それは、「私たちのすべての泉が、主イエス様の内にある」ということを象徴するものです。
私たちが必要とするすべてのものは、イエス様の内にあります。
パウロは、本当に喜んで、コロサイにいる人たちに書いたのです。
コロサイ人への手紙 2章9、10節
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キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。 |
イエス様とつながっていれば問題ありません。離れるなら行き詰まりです。イエス様を持っている人、イエス様とつながっている人は、満たされています。
よみがえられ、栄光をお受けになられたイエス様は、私たちが必要とするすべてのものの源です。イエス様は、私たちのために生きておられます。イエス様は、私たちのために働こうとなさっておられます。これこそ、大きな喜びの源ではないでしょうか。
7.主イエス様を信じる者は、主ご自身が王として、また守りとして、そば近くにおいでくださるからこそ幸せなのです。
詩篇 89篇18節
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私たちの盾は主のもの、私たちの王はイスラエルの聖なる方のものだからです。 |
何と安全なことでしょうか。主イエス様、即ち、私たちの主であり王であるイエス様は、私たちの守りです。
・過去において、イエス様は、私たちの助け手であり救いでした。
・現在、イエス様は、私たちの避け所、逃げ場です。
・将来、イエス様は、私たちの唯一の望みです。
イエス様は、私たちのために考えられないほどの栄光を備えておられます。
喜びの叫びを知る民は幸いです。まことの喜び、まことの幸せの土台は、私たちの主なるイエス様です。
私たちがイエス様を知っていることと、私たちがイエス様と結びついていることとが許されているので、私たちは喜ぶことができるのです。
私たちの喜びの源はすべて、主イエス様の内にあります。
イエス様は、喜び、平和、力、愛、恵みの源そのものです。
この主を知る者は、まことに幸いです。
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