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メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


共なる生活の大切さ
   
2005.5.1(火)
ベック兄メッセージ(メモ)

 
引用聖句
エペソ人への手紙 4章1節から3節
 さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。


今朝の題名は、『共なる生活の大切さ』です。私たちはどのように主をお喜ばせすることができるのでしょうか。心を一つにして、共に主を拝することではないでしょうか。私たちは一つの団体ではありません。ある組織に属する者でもありません。けれども私たちは一つの家族です。少なくとも、主の目からご覧になると私たちは一つの家族です。決して仲良しというだけではありません。

何年か前に、あるところですばらしい集会を持つことができたのです。そこに集まった
一人一人が持っている悩みや苦しみ、信仰の問題を、みなが話し合うことができたのです。
そのときみな、本当に一つである交わりということを感じ、経験したのです。これこそが集会のありかたであると思ったのです。一人一人の悩みが、他の兄弟姉妹の悩みとならなければならないはずです。「一つの肢体であるところの一人の信者が苦しめば、ほかの肢体である一人一人の信者たちも、共に苦しむ」と聖書は言っています。もしそうでなければ、根本的な誤りがどこかにあると言わなければならないでしょう。

もしだれかが自分一人で苦しんでいるなら、その人は霊的な成長ができないばかりか、そうすることによって、ほかの信者みんなに影響が及んでしまいます。自分の悩みはみんなの悩みであり、自分の喜びはほかの兄弟姉妹すべての喜びでなければならないはずです。
私たちは、だれにも言わないで、一人で苦しんでいることがないでしょうか。

エペソ書を読むと、まことの教会とはどのようなものであるかわかります。
エペソ人への手紙 3章21節

 教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。

とあります。
私たちは、「教会により」、即ち、私たち信者の群れによって、栄光が主イエス様に帰せられるようにという願いを、持っているでしょうか。
集会に来る時、どのような目的を持って来ているでしょうか。何かお喋りをするために、またはどこにでもある交わりを求めて来るのでしょうか。それとも、イエス様にみ栄えを帰し、共に主のご栄光を拝するために集会に来るのでしょうか。そのうちのどれでしょう。

私は、主が私の信仰生活を一歩一歩導き、引き上げてくださったことを思い起こします。
それは三段階に分けられます。
1.私は救われていなかったときにも、毎日聖書を読んでいました。また祈ってもいました。しかし救いの確信を持っていなかったのです。多くの人々と共に、「自分たちは罪人
である」と告白し合っていました。しかし、「『私は』罪人である」と、一人主の前に立っ
て、自分の罪を認め、悔い改めませんでした。「あの人も罪人。この人も罪人」と、「ほか
の人の中に」、自分の罪をごまかして見ていましたけれど、やがて主が私の心の目を開いて
くださいました。心の目が開かれると自分の罪だけしか目に入りません。それで私は絶望
し、自殺しようとしました。ですが、幸いにも私の恐るべき罪を十字架の上で主が負って
下さり、もうすでに解決されていることを知ったのでした。

2.その翌日、私は救われたことを知り、救いの喜びを覚えました。そしてその日、この喜びをすぐほかの人に証ししたのです。私は今まで罪人であるということがわかっては
いませんでした。ですが、罪を赦され救われたとき、自分の罪を公にして、「主イエス様は
救い主である」という大きな喜びを言い表わすことができたのです。主は、私にとって日
ごとに、偉大なお方になられました。そしてエペソ書の、おもに1章3節から15節まで
が私の身に起こったことであることを知ったとき、私はこのエペソ書の個所の「私たち」、
複数形の「私たち」というところを消して、単数形の「私」と書き直しました。実に驚く
べき幸いな救いでした。それからの八年間、イエス様こそが私の喜びそのものとなりまし
た。

3.何十年か後で、エペソ書の1章3節からのことばに、なぜ、複数形、即ち、「私たち」
と書いてあり、単数形の「私」と書いていなかったのか、その意味がようやくわかりま
した。私たち兄弟姉妹が一つになり、主イエス様のご臨在を現わし証しすることが、主にとってどれほど大きな喜びであられるかがわかったのです。
ですから、おのおのの信者が、ほかの信者と「共にする生活」こそが、考えられないほど大切です。まことの教会、即ち、救われた兄弟姉妹の群れは、霊的成長の場所、証しの場所、戦いの場所、また満たされる場所であるべきです。
使徒行伝の3章と4章の、いやされた足なえの例えをみますと、いやされた足なえが、主イエス様を知り主のもとに来て救われた時、彼はいつのまにか教会の救われた兄弟姉妹の群れに加えられていることを経験しました。どうしてでしょうか。
主のもとに行ったということは、主と一つになったことを意味し、主イエス様をかしらとする肢体に加えられたことを意味します。頭と肢体は分けることはできません。ですから、教会とは何かが問題ではなく、イエス様ご自身を知ることが大切です。
もしこれを心の奥深くで受け止めることができず、また知ることができなければ、私たちは成長することができないでしょう。

新約聖書を見ると、初代教会は、当時の政府からまったく離れ、組織や規則に縛られていませんでした。御霊だけが導き手でした。もし、この御霊の統一と導きがなければ、人の作った組織や規則が必要となってきます。「独立教会」と言いますが、この「独立」という意味は、自分勝手な、思うがままの生き方をするための自由を持っているという意味の独立ではなく、御霊が、御霊だけが、支配できるための独立を意味しています。

まことのからだなる教会の使命は、もし誰かほかの人が私たちの群れに入って来た時に、
一つの教えを信じ込んだ人々の群れではなく、私たちの内に現実に主イエス様がご臨在し
ておられることを感じさせる、そのような生きた群れとなることです。

主の恵みによって救われた者は、主イエス様をかしらとした肢体として歩みたいのです。そして主イエス様は、この肢体を通して、ご自身のご栄光を現わしたく願っておられます。否、むしろ主イエス様は、私たち信者を通してだけ、ご自身を現わすことがおできになるのです。私たちは主のみ栄えを現わす使命を特権としているのです。どうか、私たちが、主イエス様の御霊の御声を聞きとり、そのみことばを心に留めることができますように。

そのとき初めて私たちの群れ、即ち、主のからだなる教会が、霊的成長・実り多き証し・ひたすらなる祈りの戦い・また霊的満たしの場所、となることができると確信しています。
本当に、一人一人の信者と、ほかの信者との共なる生活は、主のご栄光を現わすためにどうしても必要なのです。私たちは主の満たしを、自分一人で経験することはできません。どうしてもお互いに経験し合わなければなりません。したがって、信じる者が一緒になる生活は、大切であり、非常に尊い、価値あるものと言わなければならないと思います。
この救われた者たちの交わりは、理論ではなく、一人一人が経験すべきものであり、また経験し得るものです。

パウロはそれをエペソ書に述べています。パウロの生涯を見るとわかります。彼は生まれたときは違う名前でした。「サウロ」だったのです。サウロという名は本当にすばらしい意味です。「祈りによって与えられた者」です。祈りの結果です。すばらしい名前でしょう。けれども、彼は後に自分の名前を変えたのです。「パウロ」と呼んで欲しいと言ったのです。パウロという名前の意味は、「ちいさい者」です。本当にみごとな決心ではないでしょうか。
このパウロはかつて、宗教によって夢中になった者です。夢中になった宗教家は悪魔の道具であると言わざるを得ません。けれど、パウロはユダヤ教から離れました。どうしてでしょうか。聖書の教えを耳にし、聖書を読み、学び、そしてユダヤ教と比較し、聖書の教えをより良い宗教として選んだのでしょうか。決してそうではありません。パウロが、イエス様からいただいた新しいいのちそのものが、自然にパウロを、ユダヤ教から脱皮させたのでした。

パウロにとっては、理論は一つもありませんでした。経験があるのみでした。パウロは「死といのち」を知っていました。なぜなら、パウロ自身は死に、主イエス様のよみがえりの力を、自分のものとして経験したからです。
彼はまた、主イエス様のご支配を理論的ではなく、実際に経験していました。それは、パウロが実際に、イエス様を主とし、単なる助け手として、また、単なる救い主としてではなく、「主」として認め、おのれを「主の奴隷」として生活したことからもわかります。

前にも話したことがありますが、「救い主」、「主は救い主である」という個所は、聖書の中で、合わせて二十六回しか出てきません。けれども、この「救い主は主である」という個所は、六百七十回出てきます。考えなければならないことではないでしょうか。
数え切れないほど多くの人々が、「主を、『救い主』として、また『助けていただくお方』としてだったなら、欲しい。けれど、『主として』だったら、必要ありません。自分で考えたいです。自分で決心したいです」と。それは、自分が支配したいという思いがあるからなのです。

前に読んでいただいた個所、エペソ書4章1節に、「主の囚人である私」とパウロは言っています。
エペソ人への手紙 3章1節も、同じ表現が出てきます。

 こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となった私パウロが言います。

パウロは、ローマの暴君であるネロという皇帝によって捕われたとき、自分はネロに捕われた囚人であるとは言わなかったのです。彼は心からなる喜びをもって、「私はイエス・キリストに捕われた主イエスの囚人、主に仕えるしもべである」と証したのです。これと同じように、パウロは主のからだなる教会に対しても、理論的に学んだのではなく、体験的に教えられたのでした。

彼はかつて、救われた人々を迫害しようと、ダマスコの道を急いでいました。そのとき
イエス様を迫害しようとはもちろん考えていなかったのです。イエス様はもう既にその時地上におられなかったからです。けれど、そのときどうでしょう。主はパウロに現われ、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」と仰せられました。「なぜ信者たちを、わたしを信じる者たちを迫害するのか」とは言われなかったのです。「なぜわたしを迫害するのか」と仰せられたのです。

このときパウロは、高く天に座し給う主イエス様と、地上の信じる者たちとはまったく
一つのものであることを、薄々ながら感じ取ったに違いありません。それからというもの
パウロは、「自分は、何かあるものの一部分に過ぎない」。つまり、「主イエス様のからだなる教会の一部分に過ぎない」ということを、次第に知るようになりました。彼は、最初はやはり、少ししか主を知らなかったのです。けれど次第にイエス様をよりよく知るようになり、更にイエス様を知ろうと願ったときから、イエス様を深く知るためには、ほかの救われた兄弟姉妹と共に生活しなければならないということをも、悟るに至ったのです。

パウロがダマスコの道すがら主にお会いした後、彼のところに、信者であるアナニヤという兄弟が来て、パウロにどのように挨拶したかと言いますと、「兄弟パウロよ…」でした。今まで、敵そのものであったサウロに対しアナニヤは、主のことばを信じて挨拶をしたのです。「主は、『このサウロという男はわたしの名を呼び求めている』と言われたが、今まで信者たちを、また自分たちを迫害したサウロが、イエス様に向かって祈ることなどあり得ない」と彼は思ったので、断わったのです。「主よ。恐ろしくて行きたくありません」と。けれども、主は嘘をおつきになるということはありません。
彼はきっとこう思ったに違いないのです。「何が正しいのか。私の思いと気持ちなのか。それとも主の言われているおことばなのか。それを考えると明らかになります。けれど、やはり主は嘘をおつきになることはない」と。
ですから、今度はこの確信をもってアナ二ヤは、サウロのところに行ったのです。「兄弟サウロよ。主イエスが私をあなたのところにお遣わしになりました…」と。

パウロは回心したその第一歩から、一人の兄弟アナ二ヤと、更にほかの信者と関わり合いを持ったわけです。ただ一人では決して前に進むことができなかったのです。
私たちの今までの信仰生活を静かに振り返って考えると、どんなに多くの事がらをほかの兄弟姉妹に負っているかが良く分かります。また逆に、一人で何かをやろうとして失敗に終わったことも多くありました。
パウロは、兄弟アナニヤに向かって、「あなたは何者ですか。あなたと私とは何の関係が
あるのですか。私は自分一人で主を知ったのです」と言いませんでした。パウロはイエス
様に直接お会いしましたが、あのアナニヤの助けと奉仕がなかったなら、信仰の第一歩すら踏み出すことができなかったのではないでしょうか。

パウロは、まことの主のからだなる教会、即ち、信じる者の集いがいかに大切なものであるかを本当に知るようになったのです。彼は自分が洗礼を受けた日から、自分はただ単に主のからだなる教会の一つの部分にしか過ぎない。主イエス様こそ、ご自分の教会のかしら、支配者であり、導き手であられることを知ったのです。

パウロはイエス様のからだである全世界の教会を見たとき、自分は主を見たという誇り
はどこかに消え去り、自分がいかに小さな存在であるかを知るようになったのです。
私たちは主に対する知識が大切であることをよく知っていますが、もし、この偉大なる教会を見ることができるようになれば、また、イエス様を教会のかしらとして見るならば、私たちの持っている主に対する知識はいかに卑小であるかを知るに至るでしょう。

パウロは、ローマ書の中で次のように書いたのです。
ローマ人への手紙 1章11節、12節

 私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。というよりも、あなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。

パウロは、自分の奉仕を通して、ほかの兄弟姉妹も祝福していただきたいと思っただけではなく、やはり自分もほかの兄弟姉妹によって祝福されなければダメだとはっきりわかったのです。
土、日曜日に、集会へ出かけて奉仕する兄弟たちはみな、パウロのような経験を味わうようになっているのではないでしょうか。やはり自分のみじめさを、無力さを感じます。だから、「主よ。お願いします。行き先で、兄弟姉妹に会いますけれど、彼らが本当に祝福されますように」と祈りながら出かけて行き、帰って来ると、「私は兄弟姉妹によって祝福された」と喜んで証しすることができるのではないでしょうか。パウロの経験も同じものでした。成長のため、お互いの助けを必要としています。

またエペソ書に戻りまして、3章の18節です。
エペソ人への手紙 3章18節

 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、…

とあります。このようにパウロはとりなして祈っていますが、原語では、「理解するように」
だけではなく、「完全に知るようになること」と書かれています。

イエス様を完全に知りたいと願うべきではないでしょうか。私たちは、少ししか持っていない主の知識で、満足していてよいのでしょうか。それとも、もっともっとイエス様を完全に知りたいのでしょうか。四、五年信仰生活を送ってきた人は、もうすでにイエス様を知り尽したかのように考えてしまいます。
パウロは、「今ようやく主を知り始めた」と言っています。
ピリピ人への手紙 3章12節

 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。

イエス様を完全に知りたい。これが私たちの目指す目的でなければならないのです。
エペソ人への手紙 1章23節

 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

この節には、まったき主イエス様について書いてあります。すべてのものをすべてのもののうちに満たしておられる完全なる主イエスの姿が描かれています。

イエス様は、「すべてのうちにご自身のからだなる教会に満ちようとし、それを満たそう」と願っておられるお方です。教会はイエス様の満たしです。即ち、イエス様を完全に知るには、ほかの兄弟姉妹と共にする生活が、考えられないほど大切です。

ですからパウロは、エペソ書3章18節で強調したのです。即ち、「すべての聖徒と共に」と。ある特定の聖徒たちと共に、ではありません。すべての聖徒たちと共に、です。

このイエス様を完全に知るには、「ほかの信者と共にする生活」が本当に大切です。
「すべての聖徒と共に」いなければ、主は本当の意味で、兄弟姉妹をお用いになることができないのです。

主イエス様の恵みによって救われた私たち一人一人が、もっとイエス様を知りたいと願っていることは確かです。
けれど、一人ではそれがどうしてもできないということをよく知っているのでしょうか。あなたは、自分一人で主を知りたく願っているのでしょうか。
もしそうなら、あなたは一人で何とかしようともがいていることになり、まことの心の成長を遂げることができない結果になるでしょう。もちろん、こう言うと誤解を招くかもしれません。確かに個人的に、主は導き、霊性を高めてくださいます。一人で聖書を読み、静かに黙想する時ももちろん大切です。けれどそのとき、ほかの兄弟姉妹にも考えが及ばなければならないということです。
主イエス様は、一人一人を見られるとともに、主はからだなる教会を見ておられます。私たち救われた兄弟姉妹の群れは、共にもっと主を知り、共に祝福にあずかるように祈りたいものです。

私たちは、主を知れば知るほど、主についてほとんど知っていないということを、告白せざるを得ません。もし、おのれの成長進歩だけを考え、ほかの兄弟姉妹に考えが及ばないなら、すでに自分は得ているという自己満足に追い込まれています。ほかの兄弟姉妹と共にする生活の結果は、主をほんの少ししか知っていないというところに、私たちを導きます。

イエス様の変わらない呼びかけは、マタイ伝11章29節にあります。
マタイの福音書 11章29節

 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。

そして、前に読んだ個所の内容も同じでしょう。
エペソ人への手紙 4章2節

 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、…

これを考えてみると、主を知ることと、謙遜、柔和とには深い関係があることを知るのです。ところが、私たちはほかの信者との交わりなくして、柔和と謙遜を持ち給うイエス様を知ることができません。もし、あなたがひとりぼっちで生活するなら、柔和と謙遜の尺度がなくなります。私たちは何と高ぶった者でしょう。私たちは心の底から高ぶる者であり、驕れる者であり、謙遜そうに見えても、往々にして高ぶる者なのです。

それではいったいどうしたら謙遜になることができるでしょうか。傲慢を治す薬がある
のでしょうか。あります。それは兄弟姉妹と共にする生活です。しかし、集会に来て隣に座
って話を聞く、それは他の信者と共にする生活ではありません。
「ほかの信者と共にする生活」とは、信じる者お互いがその喜びと悲しみを共にする生活を言います。また、同じ目的を目指す生活を言います。

救われた兄弟姉妹の群れは、お互いの霊的成長の場所、証しの場所、共に戦う場所、ま
た、共に満たされる場所です。それが心からわかれば幸いです。これが具体的な現われとして、自分の興味、自分の願い、自分の目的を否定することを意味しています。
これは、言うことは簡単ですけれど、実際になると、おのれが頭をもたげ、またもや不幸になってしまうといった具合に、なかなか難しいことです。

おのれの生まれながらの性質、古き人、おのれの考え、おのれの目的、これらは、信者の交わりにとって邪魔です。逆に、真の信者の交わりは、これら古き性質、おのれの考えや目的にとって恐るべきものです。
天におられるイエス様を知ることと、地上にいる兄弟姉妹の内に宿っておられる主イエス様を知ることは、まったく同じことです。

一人一人の兄弟姉妹の内に、主イエス様を見ているのでしょうか。ほかの兄弟姉妹と共
に、主イエス様をよりよく知ろうと、私たちは望んでいるのでしょうか。
遠く離れていて相愛することは、極めて簡単でしょう。けれど、共に生活してお互いに愛し合うことは、極めて難しいことです。
何か自分が役割を演じたいというような古い性質は、まったく打ち砕かれなければいけません。そうなるためには、信じる者と共に生活することこそが大切です。

私たちは今、主を追い求め始めました。パウロは、「私はまだまだです。けれども、何があっても、主をよりよく知りたい」と心から望んだのです。
その結果は、前に読みましたエペソ書3章21節の賛美です。
エペソ人への手紙 3章21節

 教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。

ということです。私たち一人一人ではなく、「イエス様に栄光があるように」。

主の目からご覧になると、からだなる教会は、あの信者、この信者という複数ではなくて、ただ一つの人格者、主イエス様お一方です。イエス様だけが、父のみこころにかなうお方であり、私たちはイエス様のからだの一部としてのみ、主のみこころにかなう者となることができるわけです。

旧約聖書を見ると、聖なる神がその宮に満ちたとき、そこにとどまり得た人間はいなか
ったのです。みんな宮から離れ、逃げ出さなければなりませんでした。もし、聖霊の宮で、
即ち、兄弟姉妹の群れで何か役割を演じようと試みるなら、その人は行き詰まるようになってしまいます。
まことの教会は、多くの人々ではなく、ただ一人のお方、主イエス様ご自身であり、私たちはその肢体の一部分に過ぎません。
まことの教会におけるご奉仕も、これとまったく同じです。イエス様は信者たちの絶対
的な支配者です。ですから、イエス様のご支配のもと、伝道者として、あるいは兄弟姉妹のお世話をするもの、共に悩む者、主イエス様だけを示す者たちそれぞれをお立てになるのです。

なぜある人々は福音を公に宣べ伝える者となり、別の人は日曜学校で主イエス様のことを話すのでしょうか。それは神学校を卒業したからなのでもなく、また生まれながら能力があるからでもありません。イエス様によって捕えられた主のしもべ、また自分のまったき無能力を深く知り、日々御霊に導かれる人が、それらのご奉仕をするだけなのです。

自分がまったくダメな破産者であり、おのれの動機と考えを憎むことを心から知り、信
者の交わりのうちに自分が見えなくなることを、そしてご栄光が主イエス様にのみ帰せられることを喜ぶことのできる人は、本当に幸いです。

イエス様が、ご自身のご栄光のために、私たちをそこまで導くことがおできになれば、本当に幸いです。



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メッセージ・証し集インデックスページ

◆メッセージ(ベック兄)

※一部、テープの転換による不明部分あり

神のみことばは神のみことばである(5) 2006. 4. 18
神のみことばは神のみことばである(4) 2006. 4. 11
神のみことばは神のみことばである(3) 2006. 4. 4
神のみことばは神のみことばである(2) 2006. 3. 21
家族の救い 2006. 3. 19
神のみことばは神のみことばである(1) 2006. 3. 14
主イエスは神の子キリストである(4) 2006. 3. 7
主イエスは神の子キリストである(3) 2006. 2. 28
主イエスは神の子キリストである(2) 2006. 2. 14
主イエスは神の子キリストである(1) 2006. 2. 7
勝利の生活の秘訣 2006. 1. 24
イエス・キリストのからだ 2006. 1. 17
主の永遠からの予定 2006. 1. 10
元旦メッセージ 2006. 1. 1


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