喜びの源(みなもと)
2005.5.10(火)
ベック兄メッセージ(メモ)
引用聖句
詩篇119篇 161節から168節
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君主らは、ゆえもなく私を迫害しています。しかし私の心は、あなたのことばを恐れています。私は、大きな獲物を見つけた者のように、あなたのみことばを喜びます。私は偽りを憎み、忌みきらい、あなたのみおしえを愛しています。あなたの義のさばきのために、私は日に七度、あなたをほめたたえます。あなたのみおしえを愛する者には豊かな平和があり、つまずきがありません。私はあなたの救いを待ち望んでいます。主よ。私はあなたの仰せを行なっています。私のたましいはあなたのさとしを守っています。しかも、限りなくそれを愛しています。私はあなたの戒めと、さとしとを守っています。私の道はすべて、あなたの御前にあるからです。
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今日の午後も、また葬儀があります。葬儀はいつも楽しい集いなのではないでしょうか。
(戦いが終わりましたから。)S・N姉妹のお母様です。九十六歳です。おそらく私たちは九十六歳になりたくないでしょう。人間はみんな悩む者です。例えば人間は、いろいろな問題について考えると、人によって意見が違うと思います。けれども、天国で主なる神に奉仕する天使たちに、「どうですか。あなたたちは人間について何を考えましたか」と聞くと、みんな100パーセント一致するでしょう。きっと天使たちは、「人間ですか? 人間とは悩める者です」と答えるに違いないでしょう。本当に、人間は悩む者ですね。
けれども、二種類の人間がいます。ある人々は、悩んで、がっかりして、諦めて、落ち
込み、もう一種類の人間は、悩みながらも大いに喜ぶことが出来るのです。今読みました
ダビデの告白を見るとわかります。彼は確かにいろいろなことで悩みました。また苦しみも経験しました。けれど、悩みながら、苦しみながら、大いに喜ぶことができたのです。今朝の題名は、『喜びの源』としたいと思います。
ある方々は初めて集会に来て、兄弟姉妹が聖書に非常に精通している様子や、みことば
によって生かされ、みことばから力をいただいている様子を見て驚いたのです。なぜなら、これまでみことばなしでも生活していましたし、それで過ごして来られると思っていたか
らです。みことばこそが、兄弟姉妹の光り輝く顔の秘訣であることを知ったからです。
詩篇の作者であるダビデは、主のみことばを自分自身に語らせました。そして、主のみことばに全く支配されて、次のように語らずにはいられなかったのです。
詩篇 119篇162節
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私は、大きな獲物を見つけた者のように、あなたのみことばを喜びます。 |
また、エレミヤという預言者も、同じ経験をしたのです。よく知られている個所です。
エレミヤ書 15章16節
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私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。
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わかったのではないし、理解したのでもなく、暗記したのでもなくて、みことばを「食べた」のです。自分のものにしたのです。
まさにこのことは、私たち自身の経験でもなければなりません。実際に、父なる神が、
ご自身の永遠の愛のうちに、私たちに対し、肉の形をとったみことばである主イエス様をお与えになり、更に、書かれたみことばである聖書をも与えてくださったとは何という恵みでしょうか。この書かれたみことばによって、測り知れないほどの冨が明らかにされています。
パウロは愛弟子であるテモテに次のように書いたのです。殉教の死を遂げる最期の手紙の中のことばです。
テモテへの手紙・第二 3章15節
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また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。
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この個所を見るとはっきり約束されています。すなわち、聖書はあなたに知恵を与えて、
イエス様に対する信仰による救いを受けさせることができます。またみことばは、神の人
がすべての良い働きのためにふさわしい、十分に整えられた者となるためです。
ご存知のように、この119篇は詩篇の中で一番長い箇所です。ときどき私たちは何を祈ったらよいか迷ってしまうこともありますが、聖書は、聖霊によって与えられた祈りのことばですから、この詩篇を自分のものにしましょう。詩篇を一篇でも二篇でも読んだら祈ってみることが大切です。(五節ずつくらいで十分なのではないでしょうか。)
内容的には本当にすばらしい祈りの詩です。(176節。)そしてこの主のみことばの大切さについてダビデは語っています。
ダビデは、神の道について、主の律法、あかし、命令、戒め、さばき、神の義、或いは神の真理について、この詩篇の中で語っています。このことから、この詩篇の119篇は格調の高い特別な詩です。これは主なる神の知恵の結晶そのものではないでしょうか。
ダビデは、主のみ前、或いは主のみことばの前に静まったとき、またみことばに語っていただいたとき、次のように喜んで叫んだのです。
詩篇 119篇162節
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私は、大きな獲物を見つけた者のように、あなたのみことばを喜びます。 |
結局、ダビデにとってみことばは本当にすべてのすべてでした。
ある人は、イエス様を愛していると言います。その証拠は何でしょうか。主イエス様を愛していることと、みことばを愛していることとが一つにならなければいけないのではないでしょうか。
主なる神のみことばは、測り知れない宝庫、即ち宝の蔵のようなものです。ダビデは、その宝の蔵の中を探し、掘り出しました。そして宝を見つけると、更にまた掘る気持ちを湧き起こされました。ダビデは決して失望させられなかったのです。そして、彼は探したものを見つけ、彼の飢え渇きは満たされたのでした。ダビデのあふれるばかりの喜びは私たちにも伝わってくるはずです。
私たちは心から主を愛しているでしょうか。イエス様をよりよく知りたいという願いは、私たちの切なる願いとなっているでしょうか。イエス様に対する私たちの献身が本物であるかどうかということは、主のみことばに対する私たちの切なる求めによってわかります。
次の四つの点についていっしょに考えてみたいと思います。
1.測り知れない宝庫としての神のみことば。
2.大いなる提供としての神のみことば。
3.招きと求めとしての神のみことば。
4.大いなる喜びの源としての神のみことば。
1.測り知れない宝庫としての神のみことばについて
ダビデは、この詩篇119篇の中で、何度も繰り返して、「聖書は神のことばです」と言っています。それから、「私はあなたのみことばを喜びます」とも告げています。本当に、
161節から168節を見ると、主のみことばの大切さ、尊さを知ることができるのです。
この161節から168節の間だけでも、ダビデは八回も神の律法、神のあかし、神の
戒め、神のみことばが大切であると語っています。もちろん、ダビデは三千年前に聖書の
ほんの一部分だけしか持っていなかったのです。けれど私たちには、神のみことばを完全な形で、こんにち聖書六十六巻として与えられています。
この六十六巻は、四十人の男たちによって書かれました。この人たちの背景はいろいろ
と違っていました。それはちょうど、その人たちの経験や能力が違うように違っていたのでした。そしてまた、彼らは同じ時代に生きていたのではありませんでした。
ですから、彼らは何を記したらよいのかを相談するために、一緒に集まることはなかったのです。彼らはだいたい千六百年という期間の中で生きていたのです。けれども私たちはそれぞれの書かれたもの中に完全な一致を見出すことができます。
だれもが認めなければならないことは、これら四十人の男たちが、文字通り神の御手のうちにある器だったということであり、本当の著者は、生けるまことの神ご自身であるということです。
テモテへの手紙・第二 3章16節
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聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと強制と義の訓練とのために有益です。
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前に読みました個所です。もちろんパウロだけではなく、ペテロもまったく同じことを
書いたのです。
ペテロの手紙・第二 1章21節
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なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。
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彼ら(いわゆる預言者たち)は、神のみことばを聞いたので、このみことばを宣べ伝え
たし、或いは書いたのです。ですから、聖書はまさしく神のみことばと呼ばれるのです。
主なる神が私たちに与えてくださった神のみことばは、一つの過ちもありません。主なる神のみことばは完全に信頼できるのです。私たちは、このみことばに完全に拠り頼むことができます。
神のみことばに疑問を持つ人もいますが、その人たちは羊飼いのない羊のように、放浪しながら自分勝手にやっています。そして、もっとも恐ろしいことは、羊飼いを持たないことです。神のみことばを正しく認めている人は、明確な基準を持っているだけでなく、よい羊飼いを持っているのです。
2.大いなる提供としての神のみことばについて
ここでもう一度申し上げたいことがあります。それは聖書の中に私たちが救われるため、
聖められるため、従うため、奉仕するために必要なすべてのものが、私たちに提供されて、
記されているということです。
前に読みました、第二テモテ3章15節はそれをはっきり言っているのです。テモテは、おそらく青年として、また子どもとしてみことばを聞いていたことでしょうし、彼の母親だけではなく彼のおばあさんも主を信じていましたから、聖書のみことばを喜びとしたのです。孫であるテモテも、後にパウロによってはっきりとした確信を持つようになっただけではなく、パウロの同労者になったのでした。
テモテへの手紙・第二 3章15節
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また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与え、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
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聖書は、次のように私たちに語っています。
・聖書は救いの確信を与えることができる。
・神のみことばは、知恵を与え、救いを受けさせる力である。
・神のみことばは、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益である。
ダビデはこのことを体験しました。ですから、彼は大いなる獲物として主のみことばに
ついて語っています。主のみことばは、ダビデにとって、あらゆる富にまさるものでした。
このことでの関係で、五つの真理をいっしょに考えたいと思います。
五つの真理とは、
@ 謙遜をもたらす神のことば
A 誠実さをもたらす神のことば
B 礼拝をもたらす神のことば
C 平和をもたらす神のことば
D 信頼をもたらす神のことば
です。
@ 第一の真理は、神のみことばが「謙遜」をもたらすということです。
詩篇 119篇161節
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君主らは、ゆえもなく私を迫害しています。しかし私の心は、あなたのことばを恐れています。
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「私はあなたのことばを恐れている」とダビデは告白したのです。もちろん、ダビデだけ
ではなく、モーセもまた主のみことばを体験し、その力について次のように証ししたので
す。モーセの忘れられない経験についてです。
出エジプト記 3章2節から6節
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すると主の使いが彼に、現われた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。モーセは言った。「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」主は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、「モーセ、モーセ。」と仰せられた。彼は「はい。ここにおります。」と答えた。神は仰せられた。「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」また仰せられた。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。
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モーセは主を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠したのです。
預言者イザヤも、また主のみことばを体験し、次のように告白したのです。よく引用さ
れる個所です。
イザヤ書 66章2節後半
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わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。
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主はどのような人々を捜し求めておられるかと言いますと、「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ」。
主のみことばは、砕かれた霊とまことの謙遜を与えることができます。ですから私たちは主のみことばをどれほど必要としていることでしょうか。
A 第二の真理は、神のみことばが「誠実」をもたらすということです。
詩篇 119篇163節
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私は偽りを憎み、忌みきらい、あなたのみおしえを愛しています。
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これは、ダビデの心からの告白でした。100パーセント真実で、正直で、透き通った性質を持ちたいという切なる願いがあるときには、それは何と大いなることでしょうか。
ダビデは、詩篇の中で証ししております。
詩篇 34篇13節、14節
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あなたの舌に悪口を言わせず、くちびるに欺きを語らせるな。悪を離れ、善を行なえ。平和を求め、それを追い求めよ。
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同じくダビデは、101篇の3節から次のように証ししたのです。
詩篇 101篇3節から7節
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私の目の前に卑しいことを置きません。 私は曲がったわざを憎みます。それは私にまといつきません。曲がった心は私から離れて行きます。私は悪を知ろうともしません。陰で自分の隣人をそしる者を、私は滅ぼします。高ぶる目と誇る心の者に、私は耐えられません。私の目は、国の中の真実な人たちに注がれます。彼らが私とともに住むために。全き道を歩む者は、私に仕えます。欺く者は、私の家の中には住みえず、偽りを語る者は、私の目の前に堅く立つことができません。
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聖書は私たちに真実であることの必要性を示しています。そして主のみことばの中には、
主が光の中にいらっしゃると同じように、光の内を歩む力が私たちに提供されています。
B 第三の真理は、主のみことばが「礼拝」をもたらすということです。
詩篇119篇164節
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あなたの義のさばきのために、私は日に七度、あなたをほめたたえます。
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心から感謝します。崇拝せざるを得ないのです。ダビデは自分自身を大切にしないで、
主だけを大切にしたのです。ですから、彼は感謝でいっぱいになったのです。主が内住し
てくださる人たちは、三千年前のダビデより感謝が少なくてよいものでしょうか。もし、私たちが主のことを深く考えるなら、私たちは詩篇の作者と共に言うに違いありません。
詩篇 92篇2節から6節
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朝に、あなたの恵みを、夜ごとに、あなたの真実を言い表わすことは。十弦の琴や六弦の琴、それに立琴によるたえなる調べに合わせて。主よ。あなたは、あなたのなさったことで、私を喜ばせてくださいましたから、私は、あなたの御手のわざを、喜び歌います。主よ。あなたのみわざは、なんと大きいことでしょう。あなたの御計らいは、いとも深いのです。まぬけ者は知らず、愚か者にはこれがわかりません。
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主なる神のみことばを愛し、主に対する愛の証明として、主のみことばを自分の内に受け入れる人の生涯は変えられます。即ち嬉しい告白ができれば、主の恵みは喜んで賛美 と感謝を授けてくださいます。そのとき、人は主を礼拝しないではいられなくなります。
C 第四の真理は、神のことばが「平和」をもたらします。
詩篇 119篇165節
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あなたのみおしえを愛する者には豊かな平和があり、つまずきがありません。
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私たちは、みなつまずいたり、平安がなくなったりする十分な理由を持っています。
主のみことばによって立てられ、勇気づけられない人は、そのためにさばかれています。けれど、主のみことばに拠り頼む者は大いなる平安で満たされます。私たちは主のみことばの権威のもとに身をかがめ、即ち謙遜にさせられ、主のくびきを自ら担い、主から学ぶことによって、たましいの安らぎを見出します。
マタイの福音書 11章28節から30節
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「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
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「そうしなければ」ではなく、「そうすれば」です。
イザヤの体験は、また日々、私たちの体験でもあるべきではないでしょうか。よく引用される箇所です。
イザヤ書 30章15節
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「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」
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D 第五の真理は、神のみことばが「信頼」をもたらすということです。
詩篇 119篇168節
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私はあなたの戒めと、さとしとを守っています。 私の道はすべて、あなたの御前にあるからです。
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詩篇の作者であるダビデは、このことをまた別のことばで言い表わしています。「私の全生涯はあなたの御前に広げられています」と。
詩篇 31編15節
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私の時は、御手の中にあります。 |
主なる神のみことばに基づいて信頼できる人、そして不安も心配も持たない人は、幸い
ではないでしょうか。
今、五つの事実を述べて来ました。
神のみことばは、謙遜、誠実、礼拝、平和、信頼をもたらすということです。
即ち、測り知れない、言い表わせない富が、私たちに提供されているからです。
・誇り高ぶる私たちに、主の謙遜が提供され、
・徹頭徹尾不真実な私たちに、まことの主イエス様の真実が約束され、
・しばしば、自分本位の人間である私たちにもかかわらず、主ご自身を礼拝する可能性が与えられ、
・忙し過ぎて平安のない私たちに、主ご自身の平和が与えられ、
・忍耐がなくてすぐに諦めてしまう私たちに、幼子のように主だけを信頼し、すべてを主にゆだねる勇気が与えられます。
今までいっしょに考えたのは、次の二つでした。
1.測り知れない宝庫としての神のみことば。
2.大いなる提供としての神のみことば。
3.招きと求めとしてのみことばについて
私たちは、主なる神のみことばによって、私たちに測り知れない宝庫が開かれており、言い表わすことができないほどの富が提供されているということを見て来ましたが、私たちにとって大切なことは、私たちがこの宝を取り出し、この富にあずかるようになることです。
ダビデは、主のみことばによって絶えず新たな発見をし、それによって豊かに恵まれま
したから、大いに喜ぶことができたのです。大いなる獲物はダビデに与えられたのです。
なぜなら、彼は主のみことばが約束を必ず成就してくださり、主に信頼できるということを経験したからです。ダビデは一度も失望させられなかったのです。
私たちもまた、聖書の中のみことばを探し求めるのでしょうか。イエス様をよりよく知ることが、私たちの切なる願いなのでしょうか。私たちにとって大切なことは、全世界を獲得することでなく、主のみことばに拠り頼むことだということを、本当に理解することなのです。
使徒行伝17章11節を見ると、パウロがほめた人々について書き記されていますが、彼は人々をあまりほめるようなことをしなかった男です。けれどここでは、彼がほめたのです。
使徒の働き 17章11節
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ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。
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ベレヤという町の人たちは、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどう
かと毎日聖書を調べました。彼らは、パウロに質問するとか、話を割り引いて聞いたりするようなことをしないで、「自分で聖書を開いて読んだ」のです。パウロはそれを見たとき、嬉しくなり、「彼らはすごい!」とほめたのです。ですから、私たちもベックが何と言って いるか関係ありません。自分で聖書を調べて確かめてください。騙されていないかどうかと…。(笑)
つまり、「聖書は何と言っているか」。それだけが大切なのです。ベレヤにいる人々は、自分で、毎日聖書を調べていたと書いてあります。
日々主のみことばを探り求め、まだ取り出されていない宝を毎日取り出すことが、私たちの喜びの源となるべきではないでしょうか。
詩篇 104篇34節に、
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私の心の思いが神のみこころにかないますように。私自身は、主を喜びましょう。
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とあります。これもダビデの祈りで、心の表われそのものでした。
主に語っていただきたいと思うみことばについて深く考えることは非常に大切です。
隠された宝は、私たちによって見出されるべきです。
ダビデは大喜びで証ししたのです。前に読んだ箇所です。
詩篇 119篇162節
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私は、大きな獲物を見つけた者のように、あなたのみことばを喜びます。
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見出した人は、見出す前に探しました。努力なしに、また自己否定なしに、そして犠牲なしに、主が用意された富を自分のものとすることはできないのです。しかし、そのことは報われます。骨惜しみしないで探す者は必ず見出します。主なる神は、私たちに心から与えようというお気持を持って、待っておられます。
数年前のある日、『キリストの富。あなたはなぜ乏しいの?』というパンフレットを私は読みました。その中に何が書かれていたのか、詳しく覚えていないのですが、この題名が今もなお私の頭に焼き付いているのです。『キリストの富。あなたはどうして乏しいの?』
神のみことばである聖書の中には隠された富があります。それらの富は私たちのだれにでも個人的に提供されています。しかし、私たちは豊かな富を与えられた者として、周囲の人々に飢え渇きを起こさせる者となっているのか、あるいは片隅に追いやられ、乏しい者としてとどまってしまうのかのどちらかです。
でも、自分自身が乏しい者であることに対して盲目で、自分は富んでいる、豊かであると思い込んで生活するなら、それは何という悲劇でしょう。
よく知られている黙示録の3章17節を見ると、当時のラオデキヤの兄弟姉妹はそのような状況にありました。
黙示録 3章17節
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あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
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恵みを与えられない人は、自分の責任でそうなったことを悟るべきです。なぜなら、主
イエス様は大きな獲物を与えようと言われておられるからです。
詩篇 81篇10節
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あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。
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あふれるばかりの祝福はだれに対しても用意されています。それなのに私たちはどうして乏しいのでしょうか。その責任はイエス様にあるのではなく、私たちにあるということです。いろいろなことが考えられます。
・私たちは、みことばや祈りをおろそかにしたのかもしれません。
・私たちは仕事の忙しさのあまり、主のみこころを尋ね求めなかったのかもしれません。
・和解の気持ちや、許したいと思う気持ちがなかったのかもしれません。
・或いはまた、私たちは自分のことだけを考えて、楽な道を選んでしまったのかもしれません。
今まで次の三つの点について考えてまいりました。
1.測り知れない特別な神のみことばについて
2.大いなる提供としての神のみことばについて
3.招きと求めとしての神のみことばについて
4.大いなる喜びの源としての神のみことばについて
主なる神のみことばに心酔する者は、大いなる喜びを経験します。ダビデは本当に喜ん
でいたのです。「私は、大きな獲物を見つけた者のように、あなたのみことばを喜びます」。
初代教会の人たちも同じことを経験しました。彼らは確かに、当時の社会の中でのけ者にされ、異分子のような者でした。けれど彼らは喜んだのです。ペテロ第一の手紙の1章の8節を見るとわかります。
ペテロの手紙・第一 1章8節
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あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。
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「あなたがたはことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています」。
ことばに言い尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどろうと思う者は、主の御声に耳を傾けなければなりません。「主よ。語ってください。しもべは聞いております」。
そのような態度が私たちの心からの願いになっているのでしょうか。主は喜びに満ちた人々を得たいと願っておられます。
ダビデが経験した喜びは、三種類の性質を持っています。
@ 発見の喜び
A 交わりの喜び
B 証しの喜び
@ 発見の喜び
私たちは、みことばである聖書の中に、何度も何度も新しい発見をして、隠された宝を
見出すことがどうしても必要です。私たちがみことばを読んで、突然このみことばを通して主が今私に語っておられるということを知るとき、大いなる喜びが私たちを満たします。みことばを通して、私たちは主との交わりに入り、内面的に自由になり、喜びに満たされます。私たちはイエス様を喜ぶことが私たちの力であるということを経験します。
A 交わりの喜び
これは主ご自身との交わりの喜びです。主のみことばは、私たちにとってもっとも大切な、第一のものとならなければなりません。みことばが私たちに語りかけることのできるとき、私たちは主との交わりの中に入ります。エマオの途上にあった弟子たちが経験したことは、私たちの経験となることが許されています。
ルカの福音書 24章32節
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「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」
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とあります。主のみことばを求めながら読む人は、喜びのない状態になるようなことはありません。というのは、みことばを通して、主はご自身を明らかになさるからです。主のみことばは主ご自身の啓示です。
ダビデは、私は主のみことばを喜ぶと証ししたとき、まず第一に、みことばを通してご自身を啓示してくださったお方、即ち主のことを考えていました。ダビデは、次のように言うことができたのです。「私は主を喜びます。主は私にご自身を明らかにしてくださいました。主は私に語ってくださり、主は私といっしょになってくださいました」と。
聖書は私たちにいろいろなことを教えてくれるものだと思っているのですが、それは違います。聖書は主の啓示そのものです。みことばを通して、主ご自身をよりよく知ることこそがもっとも大切なのです。人間は知識を得ることによっては、傲慢になります。
ですから、聖書を読んでわかったと言う人は、怪しいものです。そういう人は傲慢になり、高ぶるものとなり、聞く耳がまったくないのです。
やはり、イエス様をよりよく知りたいという飢え渇きを持って聖書を読むと、豊かに報われます。
主との交わりを持つことこそ、主と結び付くことで、主に拠り頼みたいと思うことこそ、
もっとも大切なことです。
発見の喜び、交わりの喜び、そして最後の第三番目、証しの喜びです。
B 証しの喜び
私たちは、私たちにとって非常に価値があるものを見出したとき、それについてほか の人に話すことが私たちの喜びとなります。けれど、私たちは何かあるものを見出したということだけでなく、ある方、すべての宝と富がその方の中に隠されているお方を見出したのです。正直に求めながらみことばを読む人は、イエス様に出会います。
前に引用しましたルカ伝の24章の中で、また次のように書かれています。
ルカの福音書 24章27節
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それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。
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主イエス様こそ、聖書全体の中心そのものです。イエス様を見出した人は、黙っていることができません。その人はイエス様のことをさらにほかの人に宣べ伝えるようになるに違いありません。そしてそのとき、アンデレが経験したことを、その人も同じように経験することができるでしょう。
ヨハネ伝の1章を見ると、次のように書いてあります。彼はイエス様に出会ってから、
黙っていることができなくなってしまったのです。
ヨハネの福音書 1章41節、42節前半
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彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った。」と言った。彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。
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ペテロの話ですが、彼はペテロに、メシヤ、つまり約束された救い主キリストの噂を聞いたではなく、「キリストに出会った」と言ったのです。彼が生まれた唯一の使命は、それだったのかもしれません。つまり、自分の兄弟であるペテロを、イエス様のみもとに導くことでした。
ここで、私たちはもう一度、今まで話したことをまとめてみたいと思います。
聖書は、神のみことばです。主なる神ご自身の啓示です。即ちそれは測り知れない宝庫
なのです。その中には多くの富と宝が隠されています。大いなる提供が、私たち与えられています。私たちはそれを取り出し、発見し、見出すように要求されています。そのとき私たちは言い尽くすことのできない喜びを知ることができるのです。喜びはほかの人を引き寄せ、喜びはほかの人の上にも広がっていきます。そしてまことの礼拝へと導くのです。
何年か前に、この集会の愛する兄弟姉妹が、思わぬことで自分のひとり子を失いました。
私は葬儀を行なうように頼まれました。結果として、そのとき私はまったく違うテーマについて話してしまったのす。それは、「まことの礼拝」についての話しでした。
ご両親は心の痛みから精神的に混乱してしまわれたのではないか。ご両親は、「主よ。どうしてあなたはそのようなことをお許しになったのでしょうか」という問いにより、あれこれ思い、考え込み、心が乱れているのではないか…。いいえ、そうではありませんでした。
当日私はこのご両親に会ったとき、言葉をもって言い表わすことができない感動を受けたのでした。そこにはイエス様ご自身の喜びが、ご両親からにじみ出てきていたのです。ペテロが、「ことばに尽くすことができない。栄えに満ちた喜び」と言っている、その喜びを見出したのです。きっと、「どうして?」「なぜ?」「何のために?」というような問いをもって、悪魔はこのご両親を誘惑したかもしれませんが、悪魔のこの問いについて、もしご両親がこれに応じたなら、結果は悪魔の勝利になったに違いありません。
ご両親はヨブと同じようにおっしゃいました。「主は与え、主は取り去られた。主の御名はほむべきかな」と。これこそが、「まことの礼拝」なのではないでしょうか。
この吉祥寺集会では礼拝に対する知識、確信があまりないようです。(私はいつもいないのですけれども、)祈りを聞いている兄弟姉妹の中に礼拝について悩んでいる人もいます。「ここに立って祈っている兄弟たちは、いったい何を考えて祈っているのでしょうか」と。平気で自分のことについて祈るのです。ほかの人々のためにも祈るのです。礼拝のときにです。礼拝の祈りとしては考えられないことです。
礼拝のとき自分のために祈る必要はありません。他人のためにも祈る必要はありません。礼拝のときは、主が中心にならなくてはいけないのです。イエス様の死、イエス様の流された血潮について考えれば、自分のことについて祈らなくなります。ですから、日曜日に、ここで祈っている兄弟たちのために祈ってください。光が与えられるように。
普通の教会で礼拝がないのはみなさんわかっているでしょう。中心になっているのは、牧師の説教ですから。この説教は素晴らしいかもしれませんが、礼拝ではありません。
初代教会の礼拝とはすべてのすべてでした。未信者が入ったとき、ここで自発的に悔い改めを経験するのです。
まことの礼拝とは、「私の思いではなく、みこころだけがなるように」と。この祈りをささげられたイエス様について考えると、自分が小さくなり、主お一人だけがご栄光を受けていただきたいと…。
今お話したご両親の名前を言ってもいいでしょうか。ここにいらっしゃらないから…。重田兄姉だったのです。今から、「どうして? なぜ?」と死ぬまで考えるか、或いは、「今からこそ、イエス様のために全生涯をささげて生きるのか、それを自分で選ばなくてはいけない」と。もちろんお二人はこの態度を取られたのです。ですから、「まことの礼拝」をささげられた兄姉を、主は恵んで祝福し、今日までお二人を導くことがおできになったのです。
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