キリスト集会のご案内
TOP日曜礼拝家庭集会よろこびの集い出版物  


メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


神の大いなるみわざ
   
2005.5.17(火)
ベック兄メッセージ(メモ)

 
引用聖句
ヨハネの福音書 7章37節から39節
 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。

使徒の働き 2章1節から4節

 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

同じく、2章22節から24節

「イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと、不思議なわざと、あかしの奇蹟を行なわれました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。

同じく、2章32節、33節

 神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。

同じく、2章36節から38節

 ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」と言った。そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」

同じく、2章41節

 そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。


 この間の金曜日から日曜日の夜まで、「北陸の喜びの集い」がありました。少し早めに行きましたから、集会が始まる前に朝八時半から四時まで遊びに出かけました。五十六人と一緒に富山県の最も素晴らしい所に行って思ったことは何かと言いますと、「もうスイスまで行く必要はない」(笑)。すごい! 周囲の山々にはもちろん雪もいっぱいありましたが、あの雪の壁は16メートルもあったのです。
 
この世には二種類のカレンダーがあります。一つは習慣と迷信に基づくカレンダーです。私もたまに使います。どうしてかと言いますと、友引がいつか知りたいからです。(火葬場が閉まっているから。)もう一つは永遠の事実に基づくカレンダーです。クリスマスのことだけでなく、受難節のこと、復活祭のこと、昇天記念日や五旬節などが、ちゃんと載っているカレンダーもあります。日本人の多くは、例えば、「五旬節はいつですか」と聞かれても分かりません。カレンダーに載っていないからです。実は、この間の日曜日が五旬節だったのです。この五旬節はドイツで非常に大切にされる日で、アイドリンゲン目指して、みんな一緒に行きます。

この間の五旬節には、少なくても六千人の若者が集まったそうです。あちこちではそのような大会があるのです。もちろん学校も休みですし、日曜日だけではなく月曜日もどこでも休みがあるのですが、最近それに反発するグループが増えたのです。「月曜日の休みはやめましょう」と。これからヨーロッパ全体は次第にそういう方向に進むのです。つまり、「聖書に基づくことは、別にどうでもいいではないか。みんなが自分たちの自由なことをすればいいだろう」と。
今のヨーロッパは、「基準のないヨーロッパ」、「尺度をなくしてしまったヨーロッパ」と
言ってもいいのではないでしょうか。

 今日は、『神の大いなるみわざ』について少し考えたいと思います。新約聖書の中には、
七つの大きなお祝いが記されています。しかも、この七つのお祝い、或いは主の大いなる七つのみわざの中で、こんにち私たちにとって一番大切なものは、五旬節なのではないかと思います。この七つのお祝いについて一緒に考えたいと思います。

1.クリスマス 
 だれでもよく知っている、いわゆる「クリスマス」です。これは、今さら改めていうま
でもなく、「イエス様の御降誕をお祝いするもの」です。
 けれども、イエス様の御降誕はイエス様の始まりではなく、イエス様がこの世に姿をお
現わしになったことに過ぎないのです。イエス様によって万物が造られ、イエス様は永遠
から永遠まで生きておられるお方です。
 多くの人たちは、イエス様が奇蹟的にお生まれになられたことは理解することができません。確かにそうです。理解できるものではありません。けれども、もしイエス様が男と女の間にできた人間であられたなら、私たちの救い主になり得なかったのです。イエス様が奇蹟的にお生まれになったからこそ喜ぶことができるのです。そして、イエス様を救い主と信じることができるのです。


2.受難節
 「受難節」です。即ち、「イエス様の十字架を記念するためのもの」です。イエス様は裸にされ、十字架に釘付けられました。イエス様のこの世でのご生涯は、三十三年間だけでしたが、その間イエス様は大工として30歳までお働きになり、残る3年間は福音を宣べ伝え、病人を癒し、死人を生き返らせなさいました。けれどもイエス様は、パリサイ人、即ち当時の宗教家たちや聖書学者たちのねたみによって、死刑の宣告を受けられるに至ったのです。
 イエス様は次のように言われました。まず、ご自分が「神の子である」ということです。
そして、イエス様がこの世に来られたのは、もちろん楽な生活をしたり、富を付け加えた
りするためではなく、「死ぬためである」ということを、はっきりとお示しになりました。
 人類は、いのちの泉である神から離れたため、死の罰を受け、永遠の滅びに行かなければならなくなりました。けれど主なる神は、人類を愛されたため、人間にただ一つの道として救いにあずかる機会を与えようとされ、イエス様が遣わされたのです。「人類の身代わりとしてわたしは死ぬ」と、イエス様は何回も何回も言われたのです。

 聖書の中心なるテーマは、いうまでもなく、イエス様の教えではありません。「イエス様
の死」です。イエス様の死とは、殉教者の死ではなく私たちの代わりの死でした。私たちは日曜日ごとにどうしてパン裂きをするのか、実はそのことのためなのです。イエス様がいかに悩まれたのか、苦しまれたのかを覚えるためなのです。それによって人間は、やはりもう、顔を上げられなくなります。恥ずかしくなります。けれども、喜ぶことができ、礼拝することができるのではないでしょうか。

 去年、日本で一本の映画が上映されました。観た人もいます。『パッション』という映画です。日本で百万人以上の人が観た映画なのです。人間的には大成功なのです。私も行きました。映画が終わってからだれも無言でした。みんな静かに出たのです。ある国では、一人の人がこれを観て心臓発作を起こして死んでしまったそうです。確かに悲惨な映画でした。そうだったでしょう?

 私は、あの映画を観る前までは、聖書のある個所がちょっと理解できなかったのです。イエス様は自分の十字架を運ばなくなってしまわれた。いったいどういうことでしょうか。
イエス様はそんなに弱い者ではあられなかった。三十三歳の男で、三十歳まで大工としてお働きになったでしょう。イエス様は、怠けられなかったのです。一緒に働いている大工たちは、適当に働いていたのではないかと思います。(イエス様のお建てになった家をちょっと見てみたいです。きっと素晴らしいと思いますが。)ですから、イエス様は間違いなくお丈夫だったのでしょうけれど、自分の十字架でさえも運べなくなってしまわれたのは、いったいどうしてでしょうか。あの映画を観ると分かります。イエス様は血まみれになってしまわれました。なぜ十字架にかかる前に死なれなかったのかということは、奇蹟ではないでしょうか。少なくとも悪魔はイエス様をその前に死なせたかったに違いないのです。
けれども、血まみれになってしまうことは、だれでも想像することができるし、だから
映画も作ることができるでしょう。けれど、イエス様の本当の苦しみとは、そういうもの
ではありませんでした。十字架につけられたイエス様は、罪のかたまりにされてしまった
のです。罪のかたまりにされた者は、いくら祈っても応えがないのです。真っ暗闇。

 この地上におられるイエス様の最高の楽しみは何だったのでしょうか。祈ることだった
と思います。み父との交わりは、イエス様にとってすべてでした。いくら疲れていても、一晩中ずっと山に登って祈られた、と聖書は言っているのです。全然寝なくても、次の朝
は、もう元気そのものでした。み父との交わりは、イエス様にとって休息だったのです。
 けれども、イエス様は十字架の上で、み父からの応えがないと分かったのです。それは
恐ろしくて、恐ろしくて仕方がなかったのです。だからイエス様は、「お父様。人類を救う
ために他の道があるなら感謝します。けれどわたしの思いではなく、みこころだけがなるように」と祈られたのです。三時間だけでしたが、イエス様にとっては地獄の地獄でした。

 ですから、聖書の中心なるものは、やはり十字架です。「完了した。すべてが終わった。万歳!」とイエス様は叫ぶことがおできになったのです。


3.復活祭
 三番目の大切にすべき日は、もちろん「復活祭」、いわゆる「イースター」です。イエス
様は復活なさったのです。もし復活なさらなかったなら、イエス様の死は意味のないもの
でした。
 ある人々は、イエス様に、「あんた、預言された救い主であることを証明してくれ」と言
ったのです。イエス様は、毎日のようになさっていた奇蹟を通して、救い主であることを証明されていたのですけれど、彼らは悔い改めようとしなかったから、「証明してくれ」と言ったのです。その時イエス様は、「わたしは三日目に復活する。復活しなければわたしは詐欺師です。嘘つきです」と、はっきり言われたのです。
 イエス様は復活なさいました。イエス様に出会った人々は何人であったか分かりません。
私は今まで五百何十人と言ったのですけど、最近私は間違っていると思ってしまいました。なぜなら、五百人の兄弟たちと書いてあるから、姉妹たちもそこにいたでしょう。復活なさったイエス様に出会ったのは、弟子たちではなく、姉妹たちだったのです。ですから、五百人以上なのではなく、もっともっと多かったに違いないのです。

 イエス様は、死の状態に長くとどまることをなさらないで、早くも三日目に復活なさったのです。イエス様の復活は、イエス様が本当に約束された救い主であり、神の子であるという事実を最もよく証明するものです。孔子も釈迦も死にましたけれど、彼らは決して復活しなかったのです。死んだままだったのです。ただイエス様だけが、復活なさったのです。なぜなら、イエス様こそ、まことの神の子であり、約束された救い主であったからです。 
 また、イエス様の復活は、全人類の贖いが実際に有効となり、本当の力を持つことの証
明でもあります。


4.昇天記念日
 四番目は、「昇天記念日」です。即ち、「イエス様が昇天されたことを記念するお祝い」
であります。この昇天記念日は、復活祭のあと四十日目に行なわれますが、その理由は、
イエス様が復活されてから四十日間弟子たちにご自分を現わされ、ともに交わりを持たれ、
食事をされ、そして何百人もの人たちが復活したイエス様を見たのです。そして弟子たちの見ている前で、天に引き上げられたのです。
使徒の働き 1章9節から11節

 こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」

同じイエス様がまたおいでになるのです。しかし今までの教会の歴史を見ると、三百人以上の人たちが、「私は再臨したキリストだ」と言っています。私が一度会った人も、その一人のようです。彼はインド人で、ちゃんと十二人の弟子たちがついていて、白い衣を着ていました。その中にはスイス人が一人、入っていました。「再び来られた救い主である」、いわゆる「キリスト」の名刺までも貰ったのです(笑)。信じる人や、ついて行く人がいます。統一教会の文鮮明は、同じことを言ったのです。「私は再臨されたキリストです」と。何十年か前にそう言い、その後、「私は天と地を造った創造主です」と言うようになったのです。笑い話です。けれども、彼のために命がけで、「死んでもいい」と思う人々が大勢います。まったく悪魔の力です。

 十字架につけられたイエス様こそが、またおいでになられます。イエス様のみ手には、釘痕が必ずあります。


5.五旬節
 第五は、「五旬節」です。復活の後、五十日目に行なわれます。これは、「ただ一度だけ、聖霊がこの地上に注がれた時のことを記念するもの」です。
 イエス様は、弟子たちに次のことをはっきりと約束なさいました。
ルカの福音書 24章49節

「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。 あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」

聖霊は、み父に約束された霊であられ、聖霊を私たちに送られるお方は、イエス様です。
「都にとどまっていなさい」とは、「エルサレムから離れてはいけない」という意味です。
使徒の働き 1章4節、5節、8節前半

 彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」
 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。


 五旬節の日に、聖霊が注がれました。前に読みました使徒の働き2章を見ると、これについての四つの特徴が記されております。
@「風が家全体を満たした」。これは聖霊のご臨在を証明するものでした。
A「みなが聖霊を受けた」。炎のような分かれた舌が、一人一人の上にとどまりました。
B「みなが聖霊に満たされた」。受けただけでなく満たされたのです。聖霊は、彼らを支配
するようになりました。
C「異言を語った」。彼らは聖霊の賜物を受け、今まで聞いたことも習ったこともないよう
な言葉で話したのです。

当時のこの「異言」は、100パーセント主の賜物でした。異言は約二千年の後、完全
になくなったのです。それからアメリカの黒人の間に現われて、その影響によって、ヨーロッパも大変なショックを受けるようになりました。今、異言は語る必要はありません。聖霊に満たされておられたイエス様でさえも異言を語られなかったのです。ほかの宗教の人たちの中に異言を語る者がいますが、違う霊が与えるもので、即ち、「惑わす霊」です。


 五旬節は一度だけのことでした。イエス様がご降誕なさり、十字架につけられて復活な
さり、昇天なさったように、これもただ一度だけのことでした。聖霊は、五旬節以来この
地上に住まわれ、まことの信者の内に宿っておられます。

 ここでは、知識の問題を大切にすることではなく、それよりもはるかに大きなことが大切であることに注意しなければなりません。私たちの人生が永遠の滅びで終わるか、それとも永遠のいのちで終わるかということこそ、一番大切なことなのです。

 イエス様は、すべての人のために完全な救いを成就してくださいましたけれど、この救
いは、私たち一人一人の体験とならなければならないのです。そして、このことは、ただ
聖霊によってのみ実現されるのです。ですから私たちが聖霊に対していったいどのような
態度を取るかということが、非常に大切な問題となるのです。

 フランス人の哲学者サルトルは、いろいろな事を書いたのです。彼の自叙伝の中でどのような文章が出てくるかと言いますと、「私の人生はもうどうすることもできないものになった」という言葉です。これは、まことに震撼すべき告白です。彼は望みなき人間、喜びなき人間になってしまったのです。どうしてこんなことになってしまったのでしょうか。彼は自ら、次のように書いたのです。「私は地下室で聖霊をつかまえ、それを追い出した」と。その結果は、目的なき人生となったのです。彼は福音を聞き、聖霊の働きを感じましたが、それに対して、意識的に心を頑なにしてしまったのです。しかし、そのことによって、彼は、最もあわれむべき人間になり下がってしまいました。それは彼が、「私の人生はもう駄目になってしまった」と言った、そのことばから明らかです。

 また、アメリカの有名な作家であるヘミングウェイは、かつて次のように言いました。
「わが人生は暗黒の道です。そして、この道はいったい何処に続いて行くのか全く分かりません。かいもく分からないのです。わが道は、終わりなき暗黒の道であり、どこにも行かない道です」と。彼の最期は自殺でした。

 私たちの人生が、目的のないものにならないように、また暗黒の道にならないようにと
聖霊が遣わされたのです。

 聖霊とは、単に神の影響、神の力、感情ではなく、人格そのものです。聖霊は創造主な
る神、また主イエス様と同じように、神そのものです。
聖霊には次のような名前がつけられています。真理の御霊、恵みの御霊、いのちの御霊、
約束の御霊、力の御霊、愛の御霊、節制の御霊、聖めの御霊、知恵の御霊、啓示の御霊、
栄光の御霊、信仰の御霊、主の霊などです。


 次に、「聖霊は、救われていない人々に対して、いかなる影響を与えるか」ということについて、考えたいと思います。答えは次の箇所なのではないかと思います。
ヨハネの福音書 16章8節

 その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。

@ まず、「聖霊は罪について目を開かせる」ということを、みことばから考えたいと思います。人間はだれでも、罪人と呼ばれています。
主なる神のご判断は、こう書かれています。
ローマ人への手紙 3章10節後半

「義人はいない。ひとりもいない。」

12節

「すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」

結局、例外はないのです。これは、すべてを知り給う主のご判断です。このような罪人
が、聖霊の働きによって、「自分の本当の姿」、即ち、「罪にまみれた姿」を認める以外には、
決して何の望みもいかなる救いもあり得ません。自分が本当に、「逃れ道のない者」であることを知った者だけが、まことの救い主を呼び求めるのです。

A また、「聖霊は義について目を開かせます」。即ち、イエス様によって救いが提供され
ているということの事実にほかなりません。イエス様はこのように私たちを義と認めてくださるのです。
次の箇所は、一文章だけですけれども、大切な個所です。
コリント人への手紙・第一 1章30節

 キリストは、私たちにとって、義になられました。

イエス様を持つ者は義とされているのです。このキリストを信頼し、受け入れる者は、
義とされます。主なる神の前に義とされることは、決して、人間の行ないや人間の努力によるのではないのです。ただイエス様を信じる、信頼することによってのみなのです。

B また、「聖霊はさばきについて私たちの目を開かれます」。イエス様を個人的に、また
意識的に受け入れない者はだれでも、さばきを受け、愛の泉、いのちの泉であられる、
まことの神から永遠に離れた状態にとどまらなければならないと、聖書ははっきり言って
いるのです。

 あなたは罪人です。そして、罪人として永遠の死に服さなければならないのです。しか
し、それは決して終わりではありません。イエス様は身代わりに死んでくださり、聖なる
神の罰をお受けになってくださったのです。イエス様に信頼をおくならば、恵みによって
義とされます。しかし、このすばらしい贈り物を拒み、自分勝手な道を行く者には、望み
がなく、救いが全然ないのです。この真理を明らかにするために、聖霊は一生懸命、夜昼
働いておられます。この真理を素直に肯定する者には、本当の悔い改めと罪の認識があり
ます。罪を告白し、罪から離れるという者は、イエス様を信じるようになるのです。

 聖書を見ると、悔い改めてイエス様を受け入れる者は、賜物として聖霊を受けることが
分かります。このように聖霊を受けることは、新しい生まれ変わりを意味します。

 イエス様は、当時の立派な聖書学者であるニコデモに、次のように言われました。
ヨハネの福音書 3章3節

「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

6節

「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。」

パウロは、次のように書き記したのであります。
テトスへの手紙 3章5節

 神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。

また、パウロは、コリントにいる人々に次のように書いたのです。
コリント人への手紙・第二 5章17節前半

 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。

そこには、新しい創造があります。新しい創造とは、どうしようもない人間の中に住む
ようになられたイエス様のことです。御霊を通して住まわれるイエス様のことです。聖霊
がなければ、望みもなく、救いもありません。

ですから、パウロは次のように書いたのです。
ローマ人への手紙 8章9節

 もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

「聖霊の宿になっていない人は、救われていない」ということです。どういう教会に属
していても、洗礼を受けても、財産全部献金したとしても、救われていないのです。

 何百年か前に、一人の農夫だったと思いますけれど、彼は主によって非常に用いられた人となったのです。彼は、主の恵みについて、人間の罪にまみれた状態について、回心の必要について、夜昼話したのです。彼の話を聞いたある人が、「あなたの話よりも、『盗んではならない、殺してはならない』というようなことについて話してほしい」と言ったのです。つまり、道徳的なことについて話した方がいいのではないかと。これを聞いた彼は、何と言ったかと言いますと、庭にある梨の木の例を引いて、分かりやすく答えました。「良い梨を作ろうと思って、ある人が毎日梨の木に向かって『良い梨を作れ!良い梨を作れ!』と命令しても何にもならない。その木を切って、良い梨を実らせる木を接ぎ木すれば、良い梨を収穫することができる」と言ったそうです。
これと全く同じように、私たち人間も、聖霊の働きなしには、新しく生まれ変わること
も、良い実を結ぶことも、もちろん無理です。


最後に、すでに救われた人々への御霊の働きについて考えたいと思います。もちろん、聖霊は未信者に対してだけではなく、信者に対しても働きます。即ち、「御霊の賜物」が問題なのではなく、「御霊の満たし」が大切です。

 五旬節に聖霊を受けた者は、「すべて聖霊によって満たされた」と書かれています。けれ
ど、「聖霊の満たし」は過ぎ行くものであり、その後も、彼らは何回も何回も「聖霊に満た
された」と聖書は言っているのです。
 「御霊の賜物」は一回限りのものであり、決して失われないものです。最近、富山に行
く途中、飛行機の中であるイギリス人の論文を読んだのです。内容は、「イエス様によって救われた人は、悪霊に取り憑かれることができるか」という題名だったのです。いろいろな聖書の個所が引かれていて、結論は、「無理である。はっきりと新しいいのちを持つようになった人、聖霊の宮になった人は、悪魔のものになることができない」ということです。
 けれども与えられた「満たし」を失ってしまう可能性は十分あります。「満たし」は失わ
れるものだから、何回も満たされる必要があります。エペソの信者たちは、「聖霊の賜物」を持ってはいましたが、それにも関わらず、パウロから「御霊に満たされなさい」という警告を受けたのです。

 次に「御霊の賜物」と「御霊の満たし」の違いを簡単に見てみることにします。
・「御霊の賜物」と、新しく生まれ変わることは、一回限りのものでいつまでも続きます。
けれど、「御霊の満たし」は、全き献身の結果として与えられるものだから、失われる性
質を持っています。
・「御霊の賜物」によって、人は新しく生まれ変わり、新たに造られた者となりますが、「御
霊の満たし」は、古き人が死に渡されることによってなされるのです。
・「御霊の賜物」によって本当の信者は生まれ、「御霊の満たし」によって信者はイエス様
に似た者とされるのです。
・「御霊の賜物」によって主なる神に対する戦いが終わり、「御霊の満たし」によって悪魔に対する戦いが始まるのです。
・「御霊の賜物」によって、主なる神との平和が与えられ、「御霊の満たし」によって主な
る神ご自身の平和が与えられるのです。
・「御霊の賜物」は罪に対する罰を無にし、「御霊の満たし」は罪を犯すことから守ってく
れます。
・私たちは罪にまみれた生活をイエス様に明け渡すことによって「御霊の賜物」を受け、
献身によって「御霊の満たし」を受けるのです。

 イエス様を信じることによって、「御霊の賜物」を受ける人は確かに大勢います。けれど、
「御霊の満たし」を受ける人は少ないのではないでしょうか。満たされることとは、聖霊
によって支配されることです。
異言を語ることは、聖霊によって満たされている証拠ではありません。そういう人々はだいたい傲慢です。「私は受けた。あなたはまだでしょう」などと。それこそ、はっきりとした傲慢の証明です。間違っています。

 イエス様を受け入れることは大切ですけれど、それで十分ではありません。イエス様と
ともに歩むことが要求されています。例えば、次のように書かれています。
コロサイ人への手紙 2章6節

 あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。

とあります。光に来ることだけが大切なのではなく、光のうちを歩むことこそ、信じる者
にとって大切です。だから、ヨハネは次のように書いたのです。
ヨハネの手紙・第一 1章7節前半

 神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、

主が光の中におられるように、私たちも光の中を歩むべきです。やっぱり、イエス様の
みもとに来るだけではなく、イエス様にとどまり、イエス様によって歩むことが大切です。
ヨハネの手紙・第一 2章6節

 神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。

とあります。新しいいのちを持つだけではなく、新しいいのちにあって新しい歩みをすることが必要です。信仰を持ってイエス様に近づくだけではなく、毎日の信仰生活において、見るところによってではなく、信仰によって歩むことが要求されています。御霊の賜物を持つだけではなく、御霊にあって歩むことが要求されています。

ですから、パウロはガラテヤ人への手紙で次のように書きました。
ガラテヤ人への手紙 5章16節

 御霊によって歩みなさい。

召しを受けることだけではなく、召しにふさわしく歩むことが必要です。イエス様の愛
を体験的に知るだけではなく、愛のうちに歩むことが大切です。

 「いったい自分はどうなのか」という問いを真剣に考えるべきではないでしょうか。
・私たちは、御霊によって動かされているのでしょうか。
・御霊は私たちの考えや行ないに臨んで働いておられるのでしょうか。
・聖霊よりも人間の方が、私たちに影響を及ぼしているのでしょうか。
・イエス様の愛こそ、私たちにとって第一のものなのでしょうか。それとも、他の別の目的があるのでしょうか。

 また一例をあげてみましょう。ここに一本の銅の針金があります。これを見て、ある人
は、「普通の針金だ」と言い、詳しいことを知っている人は、「高圧電流の針金だ」と言い
ます。普通の針金と高圧電流の針金とは、全く違います。それと同じように、私たち信者
も、普通の針金に過ぎないか、それとも大きな力を運ぶものかのいずれでしょうか。
 また、ここに一枚の紙があります。ある人は、「普通の紙だ」と言いますが、銀行員は、
「何千万円もの価値を持った小切手である」と言います。私たちも、これと同じように、
御霊が私たちを自由に用いることができるか否かによって、普通の紙切れであったり、莫
大な価値を持つ小切手であったりするのです。

 以上のことから、五旬節については、私たちが、聖霊に対していかなる態度を取るかが
非常に大切であるということ。それがどなたにもよく分かったと思います。
そこで次に、残った二つのお祝いについて、述べて終わります。


6.イエス様の再臨です。
 イエス様は、確かにいつの日にか、イスラエルを攻撃する国々を滅ぼされるようになりますし、約束された千年王国を建てられるようになりますけれども、その前にイエス様は、へりくだった人々、恵みを乞うた人々のために迎えに来てくださいます。「わたしは、あなたがたを迎えるために来る」とはっきり言われたのです。
 その日、その時がいつになるか分かりませんが、「備えあれば憂いなし」です。今日来られるかもしれません。このことを考えると、やはり、どのような苦しみ、悲しみが山のようにあっても、勇気がわいてくるのではないでしょうか。
もう間もなくイエス様は来られます。その時、イエス様のまことの姿を見ることができるため、「イエス様の再臨」は、信じる者にとって、本当に心からお祝いすべきことです。イエス様を見ることは、考えられない最高の栄光です。聖書は、「私たちがイエス様に似た者となる」と言っています。いつなるかと言いますと、それは、イエス様を見た瞬間です。毎日、このお祝いの日を待ち望むべきではないでしょうか。


7.小羊の婚姻
 最後の第七のお祝いは、最も偉大なるものでしょう。即ち、「小羊の婚姻」です。
ヨハネの黙示録 19章9節

「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、…」

「小羊の婚姻」とは、私たち信じる者が、イエス様と完全に永遠にひとつとなることです。これこそ、想像に絶する出来事です。パウロは次のように書いたのです。
コリント人への手紙・第一 2章9節

「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」

とあります。



サイトマップ
更新履歴


メッセージ・証し集インデックスページ

◆メッセージ(ベック兄)

※一部、テープの転換による不明部分あり

神のみことばは神のみことばである(5) 2006. 4. 18
神のみことばは神のみことばである(4) 2006. 4. 11
神のみことばは神のみことばである(3) 2006. 4. 4
神のみことばは神のみことばである(2) 2006. 3. 21
家族の救い 2006. 3. 19
神のみことばは神のみことばである(1) 2006. 3. 14
主イエスは神の子キリストである(4) 2006. 3. 7
主イエスは神の子キリストである(3) 2006. 2. 28
主イエスは神の子キリストである(2) 2006. 2. 14
主イエスは神の子キリストである(1) 2006. 2. 7
勝利の生活の秘訣 2006. 1. 24
イエス・キリストのからだ 2006. 1. 17
主の永遠からの予定 2006. 1. 10
元旦メッセージ 2006. 1. 1


2005年度のメッセージ集
2004年度のメッセージ集
2003年度のメッセージ集