主イエス様を喜ばせよ(1)
2005.6.28(火)
ベック兄メッセージ(メモ)
引用聖句
テサロニケ人への手紙・第一 4章1節
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終わりに、兄弟たちよ。主イエスにあって、お願いし、また勧告します。あなたがたはどのように歩んで神を喜ばすべきかを私たちから学んだように、また、事実いまあなたがたが歩んでいるように、ますますそのように歩んでください。
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ヨハネの福音書 15章4節から8節
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「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子になることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」
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コロサイ人への手紙 1章10節
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また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。
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先日O兄弟も言われましたように、ドイツで過ごした時間は本当に祝福された時であり、日本人だけではなく、ドイツ人でさえも、導かれ救われました。
ドイツの国だけではなくヨーロッパ全体どこの国も、今は駄目になってしまったとはっきり言えます。もう希望がありません。EUの国々は、必死になって新しい憲法を作ろうとして努力しています。即ち、各々の国の憲法は全部通用しなくなり、その上の憲法が作られるようになります。しかしいつできあがるのかはわかりません。
現実問題として、カナダに住んでいる人が日本にいる私を訴えたとします。訴える根拠
はあります。なぜなら私は、リンデの本の中でカトリック教会を批判しました。「それは
けしからん。批判してはいけない」。そうして、ドイツの大使館に電話をしても知らん顔
をされます。ドイツの憲法は通じません。やはりカナダに行って、カナダの刑務所に入る、そのような時代になります。
結局、個人個人は完全に無視されます。それは、いわゆる反キリストの来る準備に過ぎないからです。すべての点において通用しなくなり、「やりたいことをやればよいのではないか」ということになります。各々の国に共通して機能する根拠なるものはありません。
EUが作ろうとしている憲法の中では、もちろん「神」ということばは出てきません。ユダヤ人だったら、憲法を作ると、「神」ということばが出てきます。イスラム教徒が憲法を作れば必ず、「神」(違う神なのですが)、「神」ということばが出てきます。ヨーロッパが憲法を作ると、「神なし」でもOKです。本当に危険な時代です。怒りたい気持ちが湧いてきます。けれど、預言通りになっていきます。
今まで、聖書の中の預言の三千二百幾つの預言は成就されたのです。考えてください。
三千以上の預言は成就されたのですから、残りの預言も必ず成就されるようになり、将来は真っ暗やみに向かうことになります。反キリスト、偽の預言者は、近いうちに現われてくるのではないでしょうか。
このような混乱した時代の中で、十字架につけられたイエス様を宣べ伝えることができ
るのは、素晴らしい使命をいただいているということではないでしょうか。
宗教のために宣伝すると、まともな人はもちろん、「結構です」と言うでしょう。偽物は欲しくないからです。人間は、いくら素晴らしい教えを与えられたとしても救われません。イエス様の教えとは最高です。比べられるものがないのです。けれど、イエス様の教えによって誰も救われません。すべての宗教は、「一つの教えを信じ込めばOK」と言いますが、嘘です。つまり、宗教の中心は「十字架」でなければ、全く役に立ちません。
イエス様を知るようになった人は、絶対に後悔しません。そして、その人はイエス様を心から喜ばせたいという気持ちを持つようになっています。
ですから今日の主題は、『主イエス様を喜ばせよ』というものです。
イエス様を信じ、また知るようになった兄弟姉妹は、イエス様なき人生のみじめさを認
識するようになりました。また、いかなる人力も努力も、主なる神と人間との間の隔ての
壁を取り除くことができないことも知るようになったので、自分が破産したことを認め、自分の債務をイエス様に告白する恵みにあずかるようになったのです。
幼子のような信仰をもって罪の赦しを要求することの結果としては、イエス様の血によって自分が贖われ、神の子どもとされたことを知るようになります。そして、もはやさばかれることがないことをも確信することができるのです。いうまでもなく、わかったからではありません。聖書がそう言っているからです。
そして、イエス様を知るようになった兄弟姉妹は、「イエス様に喜ばれたい」と必ず望む
ようになります。
最も大切なことは、いったい何なのでしょうか。「一番大切なことがなされる」ということなのではないでしょうか。
現代人はみな非常に忙しい毎日を送っています。このこと、あのことはどうしても行なわなければならないということを、私たちももちろん知っています。私たちは、なるほどこのこともあのことも喜んでやりたいと思いますが、どんなに頑張っても時間と力には限りがあり、すべてのことをすることはできません。ですから私たちは、「何が一番大切な
ことか」と考えるべきでしょう。
最も大切なことは、主イエス様に喜ばれることです。今、司会のM兄弟のお読みになりました箇所、テサロニケ第一の手紙の4章1節に書かれています。新たに信仰に導かれたエペソにいる兄弟姉妹に対して、パウロは書いたのです。
テサロニケ人への手紙・第一 4章1節
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終わりに、兄弟たちよ。主イエスにあって、お願いし、また勧告します。あなたがたはどのように歩んで神を喜ばすべきかを私たちから学んだように、また、事実いまあなたがたが歩んでいるように、ますますそのように歩んでください。
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救われることとは、もちろん素晴らしい、主しかなさることができない奇蹟ですが、それだけでは十分ではありません。ですから、使徒たちはみな、やはり信者たちに教えたのです。「いかにして主をお喜ばせすることができるのか」と。
確かに、救われている人たちと、救われていない人たちとの間の区別があるのです。
救われている人たちは、「イエス様をお喜ばせしたい」という願いを持っていますが、救
われていない人は、イエス様に対して盲目であり、イエス様の声に対して耳しいとなっています。イエス様と関係を持っていないからです。
私たちは毎日、自分の思いはイエス様に喜ばれるか、自分の言動はイエス様に喜ばれる
かを、新たに問うべきなのではないでしょうか。これこそ最も大切なことです。
「喜ばれる」ということばは、普通どのように使われているのでしょうか。「ほかの人
に喜ばれる」ということばは、好みが合う、考えが一致するという場合によく使われます。
結婚の場合もその前に必ず、「気に入られる」ということが起こるはずです。もちろん、
例外もあります。強制されて結婚する人も、結婚させられてしまった人もいます。これこ
そ悲劇そのものではないでしょうか。けれども、普通でしたらやはり、外観、性質、全存在が魅力的な場合、男性も女性も、「気に入った」と言います。しばしば多くの場合、外面の顔形から出発します。「彼女は美しい。彼は男らしい」と言います。恰好がよい。ですから気に入るようになり、好きになります。もちろんこれは本当の愛ではありません。しばしば、多くの人が失望しているという現実があります。というのは、外側の見かけは偽り
であるからです。
外側の美しさよりも大切なのは、内面的な性質です。人間は騙したり騙されたりします。
ですから、非常に多くの苦しみ、悩み、絶望に陥るのです。
けれどここでは、人間に気に入られるのが大切なのではなく、生けるまことの主なる神に気に入られることが大切です。私たちは、このことについて真剣に考えると、驚かざるを得ないでしょう。というのは、
・いったい私たちは、どのようにして、光そのものであり、少しも暗いところをご存知ない主イエス様に喜んでいただけるのでしょうか。
・いったいどのようにして、私たちは、絶対的な聖さと神聖さそのものであられるイエス
様に、喜ばれることができるのでしょうか。
・どのようにしたら、私たちは、愛そのものであられるイエス様に喜んでいただくことが
できるのでしょうか。
・イエス様は光そのものです。けれど何と多くの利己的な性質、偽善と二重人格が私たちの内にあることでしょうか。
・イエス様は、絶対聖なるお方です。しかし何と多くの嘘と不純が私たちの内にあることでしょうか。
・イエス様は愛そのものです。けれど何と多くの自己追求と自己中心が私たちの内にあることでしょうか。
イエス様は、いかに私たちを気に入ってくださるのでしょうか。
人間の創造以前に、主なる神は、みこころにかなう人間を欲しいと計画してくださいま
した。エペソ書の1章4節を見ると、次のように書かれています。
エペソ人への手紙 1章4節
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すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
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「世界の基の置かれる前」、主は、もうすでに私たち一人一人のことを考えてくださっ
たのです。主ご自身がご自分のほうから、私たちと主との間の裂け目を塞ぐ道を用意して
くださいました。即ち、御子イエス様が、私たちの贖いの代価を支払ってくださいました。
その代価は、イエス様がささげてくださったのです。よく読まれるローマ書5章8節に、次のように書かれています。
ローマ人への手紙 5章8節
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しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
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犠牲になられ、死に渡された主イエス様こそが、父なる神の愛の表われそのものです。
父なる神は、どうして人間を喜ぶことがおできになるのでしょうか。それは決して主に
喜ばれる生涯を送ろうと、私たち人間が自分の力で努力することではなく、御子イエス様
が、私たちの代わりに死んでくださり、そして、私たちのために生きてくださるからです。
救われたばかりの兄弟姉妹に対して、私たちは言うべきではないでしょうか。「今から、いわゆるクリスチャンらしい生活をしようとすることをやめてください。できないからです」。このように言うと、多くの人は驚くのです。「そのことが要求されるでしょう」と。けれど、たとえイエス様のものになったとしても、イエス様を喜ばせようとする自分の努力は、すべて敗北から敗北へという結果に至るだけです。
イエス様がお生まれになられたとき、御使いは次のように告げ知らせたのです。ルカ伝
の2章、よく知られている箇所です。
ルカの福音書 2章9節から14節
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すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
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主キリストは、期待された救いの神であるメシヤです。
「御心にかなう人々」という表現が出てきます。生けるまことの神が喜んでくださるのは、ただイエス様だけです。今、イエス様が受け入れてくださる方は、イエス様のうちにあり、主イエス様の義によって、「御心にかなった人間」とされています。けれどそれは、自分自身の素晴らしさのゆえではなく、ただイエス様の贖いのゆえにそうされています。
イエス様のうちにある者、即ち、イエス様と結びついている者の生涯は変えられます。
そこに、実を結ぶことが見られるのです。前にエペソ書1章4節を読みましたが、続いて5節から読みます。
エペソ人への手紙 1章5節から7節
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神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。
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人間の努力の結果ではありません。学んだ報いでもありません。「神の豊かな恵みによ
る」のです。
また、前に読みましたコロサイ書1章の12節を見ても、似ている箇所があります。
コロサイ人への手紙 1章12節から14節
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また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神に、喜びをもって感謝をささげることができますように。神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。 |
これは、初代教会の確信であり、喜ばしい証しでした。
主をお喜ばせする秘訣とは、いったい何でしょうか。
もう一度、ヨハネ伝の15章。信じる者にとって最も大切な箇所の一つなのではないでしょうか。
ヨハネの福音書 15章4節から5節
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「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」
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「とどまっていなければ」、「ついていなければ」、もちろん駄目です。おそらく信じる者たちの間で一番信じられていないことばは、これなのではないでしょうか。
「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」。頑張れば何とかなるのではないか、とんでもないことです。
ヨハネの福音書 15章6節
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「だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。」
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残るのは、灰ぐらいです。
ヨハネの福音書 15章7節
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「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」
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素晴らしい約束ではないでしょうか。
ヨハネの福音書 15章8節
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「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」
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自分の努力ではなく、内におられるイエス様、これこそ勝利と、祝福と、実を結ぶこと
の秘訣です。
「主に喜ばれること」、これこそ最も大切なことです。
それは、実際には何を意味しているのでしょうか。三つのことが言えます。
1.主は、私たちの裏表のない愛を望んでおいでになります。私たちの努力よりも私たち
の裏表のない愛を望んでおいでになります。
2.主イエス様は、私たちの喜びをもった奉仕を望んでおいでになります。喜んで自発的
にできなければ、やめたほうがよいのです。
3.イエス様は、私たちの正直な態度を望んでおいでになるのです。
1.主は、私たちの愛を、真心からの愛を望んでおいでになります。
申命記の6章5節を開きましょう。旧約聖書です。
申命記 6章5節
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心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
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「主の存在を認めなさい」ではありません。或いは、「主を信じなさい」でもありません。「主を愛しなさい」。
イエス様は、ご存知のように三回ペテロに尋ねられたのです。「どう? あなたはわたし
を愛するの?」。最も大切なのはそれなのです。もちろん、イエス様は、今日も私たちに同
じように問うておいでになるのです。「あなたはわたしを愛するの?」。
最も大切なのは、心から主を愛することです。イエス様を愛するということは、ただ主
を信じるということ以上のことです。聖書全体は、主を愛することを強調しています。
例えば、旧約聖書のホセア書の6章6節です。
ホセア書 6章6節
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わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。 |
もう一箇所、サムエル第一の15章22、23節をお読みいたします。
サムエル記・第一 15章22節
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するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」
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「耳を傾けること」とは、「主よ。私はどうしたら良いの?」という態度を取ることです。
サムエル記・第一 15章23節
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「まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」
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当時の王であるサウルは、もちろん主を信じ、主のために生きたいと思ったことがあり
ました。けれども、本当の意味で悔い改めなかったのです。そうすると、主の恵みを経験
することができないし、結果として主を愛することができません。「あなたが主のことばを
退けたので、主もあなたを王位から退けた」。彼の最期は自殺でした。
イエス様を愛する者は、主がどのようなことを喜んでくださるかをわきまえています。
だからこそ、次のことを覚えるべきです。何かある律法が私たちを導くのではなく、主イエス様に対する愛が私たちを導くべきです。
毎日、「主よ。私は何をしたらいいのでしょうか。あなたは何を望んでおいでになるのでしょうか」と尋ねましょう。そうすると、主の祝福が豊かに注がれます。
「イエス様に喜ばれること」、これこそ最も大切なことです。それは、実際には何を意味しているのでしょうか。主は、私たちの裏表のない愛を望んでおいでになります。
2.主は、私たちの喜びをもった奉仕を望んでおいでになるのです。
イエス様に喜ばれる奉仕とは自分自身を無にした奉仕であり、イエス様のために喜んで犠牲を払う備え、そしてまた、自分自身をささげ、自分を否定する備えのできた奉仕です。
そのような生涯はイザヤ書に記されています。58章の5節から読みます。旧約聖書です。もちろんこれは、いわゆる異邦人、主を知らない人たちに言われたことばではありません。イスラエルの民、主を信じる者に言われたことばです。
イザヤ書 58章5節から10節
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わたしの好む断食、人が身を戒める日は、このようなものだろうか。葦のように頭を垂れ、荒布と灰を敷き広げることだけだろうか。これを、あなたがたは断食と呼び、主に喜ばれる日と呼ぶのか。わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。そのとき、暁のようにあなたの光がさしいで、あなたの傷はすみやかにいやされる。あなたの義はあなたの前に進み、主の栄光が、あなたのしんがりとなられる。そのとき、あなたが呼ぶと、主は答え、あなたが叫ぶと、「わたしはここにいる。」と仰せられる。もし、あなたの中から、くびきを除き、うしろ指をさすことや、つまらないおしゃべりを除き、飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、あなたの光は、やみの中に輝き上り、あなたの暗やみは、真昼のようになる。
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このような箇所を見ると、人間、信じる者の考えと主の考えとは全く違います。それは、自己否定が要求されます。即ち自我の死、自分自身の願いを捨てること、自分自身の利益を捨てることです。
主は何を望んでおいでになるのでしょう。今話しましたように、二心のない愛、それから、喜んで行なう奉仕を通して、主イエス様は喜んでくださいます。
3.最後にもう一つ、即ち、正直になることです。
正直な態度を通してもイエス様が喜んでくださると、聖書は言っています。もう一度、
旧約聖書の歴代誌第一の29章17節です。
歴代誌・第一 29章17節
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「私の神。あなたは心をためされる方で、直ぐなことを愛されるのを私は知っています。」
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「直ぐなことを愛される」とあります。
もう一箇所、箴言の11章です。まず20節です。
箴言 11章20節
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心の曲がった者は主に忌みきらわれる。しかしまっすぐに道を歩む者は主に喜ばれる。
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「まっすぐに道を歩む者は主に喜ばれる」。
箴言 11章27節
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熱心に善を捜し求める者は恵みを見つけるが、悪を求める者には悪が来る。
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「恵みを見つける」とは、「主に喜ばれる」ということです。
箴言 12章2節
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善人は主から恵みをいただき、悪をたくらむ者は罰を受ける。 |
「主から恵みをいただき」とは、「主に喜ばれる」ことです。
箴言 12章22節
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偽りのくちびるは主に忌みきらわれる。真実を行なう者は主に喜ばれる。 |
失敗することは別に悪いことではありませんが、曖昧にすること、隠すこと、陰でコソコソすることは大変な問題です。ただ人前だけ上手に繕い、人間を喜ばせようとする人は、物事を曖昧にしたり隠したりします。けれどイエス様の前に光のうちを歩む者は、もはや隠したり、曖昧にしたりすることはできません。
イエス様に喜ばれる生涯、これこそ私たちの人生の内容であるべきではないでしょうか。その秘訣は、私たちの内に主イエス様がおられるということです。私たちは、いつも失敗ばかりする者ですが、イエス様は何事でもおできになります。主に拠り頼み、徹頭徹尾主に信頼する者は、勝利から勝利に至ります。
ヘブル人への手紙の13章を見ると、次のように書かれています。
ヘブル人への手紙 13章20節、21節
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永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から導き出された平和の神が、イエス・キリストにより、御前でみこころにかなうことを私たちのうちに行ない、あなたがたがみこころを行なうことができるために、すべての良いことについて、あなたがたを完全な者としてくださいますように。どうか、キリストに栄光が世々限りなくありますように。アーメン。
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とあります。ここで、「みこころを行なうことができるお方」とは、内に住み給う主イエス様です。
最も大切なことは、いったい何なのでしょうか。答えは、「主に喜ばれること」です。
そして、主は、私たちの裏表の無い愛を望んでおいでになりますし、私たちの喜びをも
った奉仕を望んでおいでになります。また、私たちの正直な態度を望んでおいでになるのです。
最後に、この生活を送った一人について考えて終わります。創世記5章に、アダムから七代目の男エノクについて書かれています。彼は、主から見ると本当に成功した男でした。みこころにかなう人でした。23節、24節をお読みいたします。
創世記 5章23節、24節
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エノクの一生は三百六十五年であった。エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。
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当時、彼は若者でした。当時はみな、九百歳以上になるまで生きたのです。ですから、三百六十五歳なんて…(笑)。考えてください。「エノクは神とともに歩んだ」と。結果として、「神が彼を取られたので、彼はいなくなった」。死を見ないで、そのままで天国へ行ってしまいました。幸せな男ではないでしょうか。
ヘブル書の中でもう少し詳しく説明されています。「信仰によって」、信頼することによってと考えたほうがピンと来るでしょう。何かを信じることよりも、どなたに頼るべきかです。
ヘブル人への手紙 11章5節
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信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。
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空中再臨を経験したのは、彼が初めてではないでしょうか。
エノクはみこころにかなう人でした。主に喜ばれた男でした。主に喜ばれるということ
は、エノクにとって、毎日毎日主とともに歩むこと、一瞬一瞬主と結びついていることを
意味しました。
信じるということは、ただ単に主のみことばを幼子のように受け入れるということだけ
ではなく、意識して主にのみ拠り頼むということでもあります。信仰がなければ、主に喜
ばれることは全く不可能であると、このヘブル書にも書かれています。
いったいどうすれば私たちは主に喜ばれることができるのでしょうか。それは、私たち
が主を信頼し、主とともに歩むことによってです。それは、日々主に信頼して、お従いす
るということを意味します。
パウロは、次のように書くことができたのです。コリント第二の手紙5章の9節です。
本当に、当時の信じる者の勝利を得た秘訣なのではないでしょうか。
コリント人への手紙・第二 5章9節
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そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。
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パウロは、信者たちが未信者の真ん中で、主に喜ばれるようにと切に願っていたのです。
初めに読みましたコロサイ書1章の10節は、本当に大切なことばです。私たちの結婚
指輪に刻まれたことばは、この10節なのです。9節から読みましょう。
コロサイ人への手紙 1章9節、10節
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こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。
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このように、パウロは、もうすでに救いにあずかった人たちのために心から祈り、叫び
ました。また、彼の殉教の死を遂げる最期の手紙の中で、次のように書いたのです。
テモテへの手紙・第二 2章4節
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兵役についていながら、日常生活のことに掛かり合っている者はだれもありません。それは徴募した者を喜ばせるためです。
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主を喜ばせることこそが、最も大切です。もう一箇所。
ヘブル人への手紙 12章28節
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こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです。
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主に喜ばれることこそが、最も大切です。
エノクという名前の意味は、「主にささげられた者」を意味します。よい名前です。「主
にささげられた者」。これこそまさに、なぜエノクが主に喜んでいただけたかの秘訣です。
私たちもまた、主イエス様に献身し、主の意のままにご奉仕する備えができているので
しょうか。
最後に、もう一箇所を読んで終わります。
ローマ人への手紙 12章1節、2節
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そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
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