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メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


主イエス様を喜ばせよ(2)
   
2005.7.5(火)
ベック兄メッセージ(メモ)

 
引用聖句
ヨハネの福音書 3章3節
 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

コリント人への手紙・第二 5章17節

 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

ローマ人への手紙 15章1節から3節

 私たち力ある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。むしろ、「あなたをそしる人々のそしりは、わたしの上にふりかかった。」と書いてあるとおりです。


まず第一に、今日の司会者の書かれた本をご紹介いたします。(笑)彼は恥ずかしそうですけれど。たぶん本日一時ごろに、集会所に配達されるようになると思います。代金は二百円ですが、(もちろん彼は金を欲しくないので)献金箱に入れるといいと思います。
人間は何を信じるべきかより、だれに頼るべきか。そういうことが強調されている本ですから、未信者の方たちのためにも非常に役に立つ本ではないかと思います。彼が導かれてから、書かれた本です。現在彼は、本当にあちこちに、福音を宣べ伝えている兄弟です。いろいろな人々と会うと、やはりこれとこれを強調しなくてはいけないと、そのように思われたので書かれた本です。
兄弟姉妹たち是非祈ってください。主によって豊かに用いられるようにと。

先日から、私たちはテサロニケにいる人々の信仰について考えてまいりました。彼らはイエス様との出会いによって喜んで証しするようになりました。即ちイエス様のみが価値あるお方、比類なきお方、であると言えるようになったのです。イエス様の偉大さを知るようになったので、当然の結果として彼らは偶像を捨てて、生けるまことの神に立ち帰るようになっただけでなく、生けるまことの神に仕えるようになり、心から礼拝するようになりました。
そして、彼らのひとつの大きな特徴とは、「イエス様はまた来られます」と。備えあれば憂いなしで、「イエス様は今日来られるかもしれない」と。そうなれば、明日のこと、半年先のことは、別にどうでもいいのではないでしょうか。早く成長したテサロニケにいる兄弟姉妹は、本当にイエス様を知ることによって、即ち新しく生まれ変わることによって、変えられるようになったのです。当然ですがそのとき、キリスト教という宗教が存在していなかったのは幸いでした。

今朝、ある姉妹はご主人にお願いなさったらしいです。「洗礼を受けたい」と。ご主人は大いに怒って、「けしからん。もう離婚だ。云々…」。ご主人はまともな方ではないでしょうか。現代は変な宗教が沢山存在しているので、奥さんがとんでもない宗教団体に入れば困ります。ご主人の反応はまともな反応だったと思います。

この七月一日、ある二人の兄弟は定年を迎えられました。H兄弟、Y兄弟です。これからは、今までよりも忙しくなる可能性があります。人間は何もしないでいれば、ボケてしまいます。イエス様を今からこそ紹介したい。そういう気持ちこそ大切です。(もちろん、彼らは持っておられますので感謝です。)けれども多くの人々は、「あ、キリスト教か。困ります…」と。 
宗教に入ることによっても、キリスト教に入ることによっても、何にもなりません。騙されるだけです。しかし、人間にとって大切なことは、司会の兄弟も読まれましたように、「新しく生まれ変わること」です。ヨハネ伝3章3節でしたね。ニコデモという聖書学者に向かって、イエス様は、
ヨハネの福音書 3章3節  

 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

キリスト教徒の多くは、洗礼を受ければ救われると言います。これは悲劇的な考え方です。洗礼を受けることによっては人間は救われない、と聖書は言っています。新しく生まれ変わらなければ、ダメです。そして新しく生まれ変われば、新たなるものが存在すると、書いてあります。
コリント人への手紙・第二 5章17節前半

 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。

「その人は」という訳は、ちょっと間違った表現です。聖書の一番下に書かれています。「そこには新しい創造がある」と書いています。これは正しい訳なのです。「キリストのうちにあるなら、そこには新しい創造がある」。この新しい創造とは、どうしようもない人間の中に住むようになられるイエス様なのです。
17節後半

 古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

イエス様を信じると、いったい何が起こるのでしょうか。今読みました二つの個所こそが、その答えです。イエス様を信じるようになった人は、新しく生まれた人であり、また新しく造られた者です。神のみことばである聖書ははっきりそう言っています。

新しく生まれ変わった人は、新しく造られた者は、新しいいのちを持っています。新し
いいのちを持つことこそがもっとも大切なのではないでしょうか。ある宗教に入ることに
よって救われないし、新しいいのちをも得られません。いうまでもなく、キリスト教とい
う宗教に入ることによっても救われません。
イエス様を信じるとは、生まれ変わった、本当に新しく造られた者となり、イエス様を自分の救い主として受け入れることによって、今まで主なる神に対して死んでいたたましいが、新しく造られたものとなることです。
イエス様を信じることによって、今まで主に対して死んでいた人は新しく造られた者と
なり、新しいいのち、即ち、永遠のいのちを自分のものとします。

ヨハネは、その第一の手紙の中で次のように完璧に書いたのです。
ヨハネの手紙・第一 5章12節

 御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。

「いのちを持っており、」とは、もちろん永遠のいのちを持っていることです。「神の御子を持たない者は、」その人は死んでから永遠の滅びに至ります。
13節

 私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。

はっきり確信するためです。
その確信の土台とは、いうまでもなく人間の考えていること、思っていること、感じていることではなく、書かれていることばそのものです。どうしたなら信じられるでしょう。わかったからですか。いいえ、何か感じたからですか。いいえ、何も感じてなくてもです。それならどうして信じるのですか。聖書がそう言っているからです。信仰の唯一の土台は、みことばだけでなければ大変危ないことになります。


では、イエス様を信じるといったい何が起こるのでしょうか。
1.イエス様を信じるようになった人は、新しく生まれた人であり、また新しく造られた
者です。
この新しく生まれ変わった人、この新しく造られた人は、新しいいのちを持っています。新しいいのちとは、「イエス様」なのです。イエス様は、「わたしはいのちそのものです」と言われました。


2.イエス様を信じると、父なる神、また御子なる主イエス様は自分にとって生き生きと
した現実となります。そして、その現実から離れられなくなるのです。
一つの実例はパウロなのではないでしょうか。イエス様を信じる者の大迫害者であったパウロはダマスコへの道の途中で、天からの声を聞いてびっくりしました。「サウロ。サウロ。なぜわたしを迫害するのか…」。「あなたはどなたですか」と尋ねますと、主の答えは、「わたしはイエスです」と。パウロは、(十字架上で死なれたイエス様がよみがえられて、現実に生きて働かれているということを想像できなかったので)「何? イエスはまだ生きているのか。十字架の上で死んでしまったのではないのか。この十字架につけられたイエスに対する思い出を消すために、自分はこのイエスを信じる者たちを迫害しているのではなかったのか」と。

主のひとことばによって彼は変えられました。イエス様とは彼にとって生き生きとした現実となったのです。イエス様は、高く引き上げられ、すべての名にまさる名を持つお方です。
私たちは、この生き生きとした現実である主イエス様を経験すると救われます。私たちは、イエス様に話すこと祈ることこそが大切です。正直に自分の問題について、自分の心からの願いについてお話すると、主は間違いなく答えてくださいます。パウロが、「あなたはどなたですか」と聞くと、もちろんすぐ答えられたのです。「あなたが迫害しているイエスです」と。
主は確かによみがえられ、昇天なさり、私たち人間を救うために生きておられる偉大なる救い主であることを経験する人は、本当に幸せです。イエス様を知る道とは、イエス様のもとに来ることです。多くの人は、「何という馬鹿げたことでしょう。目に見えない者に話すことなんて…」と言います。
けれども、例えば私たちが、大変恐ろしい病気になったとします。「あの病院には本当にすばらしい医者がいます。一緒に行きましょう」と勧められたとしても、「嫌です。行きたくありません。信じません。そういうことができる医者はいません」と言うなら、大した病気ではないのではないかという結論になるでしょう。自分の病気の恐ろしさを意識している人は、間違いなく医者に言うでしょう。「私は紹介された者で、あなたは助けることができると聞いたので来ました。お願いします。この傷を診て、何とかして助けてください」と言うに違いありません。

罪人が、自分の失敗だらけの罪にまみれた生活を振り返って、イエス様にこのようにお話すると、イエス様は必ず、「子よ。あなたの罪は赦された」と言われるに違いありません。イエス様のところに行って、へりくだって近づくなら、必ず経験します。イエス様は生きておられるお方であるということだけでなく、イエス様にとって不可能なことはなく、罪を赦すことがおできになるということを確信するようになるのです。


3.イエス様を信じると、自分の生活は無意味でないということがわかります。
イエス様との出会いの経験をしていない人は、自分がなぜ生きているのかその意味がわかりません。そして、「永遠」という現実に対する理解力を全く持っていません。イエス様を信じない人に聖書の事実について話しても、何にもわかりません。そのような人々の中には大変高い教育を受けて、信心深い人もいるかもしれませんが、聖書の話など彼にとって馬鹿げたことに過ぎないのです。数えられないほど多くの人々は、自分がなぜ生まれて来たのか、何のために生きなくてはならないのかも全くわからないまま生きているのです。それは結局、イエス様を知らないからなのです。
主の恵みによって生まれ変わった人々は、自発的な証しを持っています。イエス様から
与えられた喜びと平安がどれほどすばらしいものであるか、ほかの人々もこの喜びにあずかることができるよう祈るようになり、また証しするようになります。ひとことばで言いますと、自分の生活は無意味ではないということがわかるからです。


4.新しく造られた人は、主イエス様との新しい関係に入り、また新しい関心を持つようになります。
生まれながらの人は自分自身に深い関心を持っていますから、イエス様を信じる人たちのことを理解できませんし、批判することもあるでしょう。彼らの行ないとあなたの行ないは正反対だからです。そして、あなたは彼らの行くところへ行かないのですから、大きな誤解が生まれてきます。彼らは、あなたが自分の自由をなくして、そして大きな誤りに入ったと考えているでしょうけれど、あなたの考えはちょうど反対です。あなたは彼らに同情します。

もう一度、パウロの生活を観察するとわかります。彼は回心する前に、一生懸命働き、
また、勉強しました。彼は自分で考え、自分で計画し、自分でいろいろなことを行ないま
した。朝から晩まで自分でものごとを決め、自分で行なう、このような生活をしました。彼は、始めから終わりまで、自分、自分、自分と考えた男でした。けれど、このパウロが回心したとき、子どものように尋ねるようになりました。「主よ。今からどうしたらいいのですか。教えてくださらなければ何もできません」。彼はイエス様の生き生きとした現実を見たとき、自発的に、「主よ。導いてください。自信が全くなりました。あなたが導いてくださらなければ、ダメです」。
そのときから、イエス様はパウロの絶対的な支配者となられました。この、自分、自分、自分だけを考えていたパウロが、「主よ。私は何をしたらいいのでしょうか」と尋ねるよう
になったのです。これが奇蹟です。回心とは、新しく生まれることそのものです。
そして、新しく造られた者は、主イエス様との新しい関係、新しい関心を持つ者となるのです。


5.イエス様を信じると、新しい能力が自分のものになります。
今まで、生けるまことの神に対して盲目であり、耳しいであった人に、突然みことばが全部明らかにされます。この新しく与えられた能力は考えられない奇蹟です。大学の教授でさえ主なる神の国の者に対して何にもわかりません。知識のない新しく生まれたばかりの人は大喜びで証しすることができます。なぜなら、このようなことは勉強によってではなく、生けるまことの主なる神との交わりによってだけ知ることができるからです。

主イエス様を信じ受け入れた人は御霊の宿になります。御霊の働きによって知ることが
でき、確信することができるのです。けれど、生まれながらの人にとっては、それは愚かなことに過ぎないのです。イエス様を信じるようになることによってのみ、全く新しい能力を持つ者となります。ほかの人々にとって全く不可能なことが、イエス様とつながっている人はできるのです。なぜなら、内に住んでおられるお方は何でもできるお方であるからです。
イエス様とは、私たちの力の源そのものです。パウロは喜んで証しました。「私を強くしてくださる方によって何ごとでもすることができる。私を愛してくださるお方によって、
私は圧倒的な勝利者です」と。


6.イエス様を信じることによって、新しい希望が与えられます。
失望や絶望はなくなります。イエス様を信じる者は、将来想像することのできないすばらしい栄光にあずかるようになると確信しているからです。いうまでもなく、これはいろいろな教えの結果というよりも、主イエス様を信じ、イエス様につながっている者は、この事実を心の内に確信しているのです。いろいろの迷いと苦しみが来ると、多くの人たちは失望してあきらめます。けれどイエス様に頼る者は、これは終わりではないという希望と確信を持っているので、前向きに生活をすることができます。イエス様を信じる者は望みの神ご自身が彼らにすばらしい希望をお与えになるからです。

今まで話してきましたように、
1.イエス様を信じる者は、新しいいのち、すなわち永遠のいのちを持っていること。
2.イエス様ご自身が、自分にとって生き生きとした現実となること。
3.そのような人たちの生活とは、決して決して無意味ではなく、はっきりとした使命を
持っていること。
4.主イエス様との新しい関係、また、新しい関心を持つようになること。
5.新しい能力を自分のものにすることができるということ。
6.新しい希望を持つ者となること。

イエス様を信じ受け入れた者は経験したのです。即ち、「すべてが新しくされた。古いものは過ぎ去った」と。
イエス様に頼る者は新しい関係、新しい確信を持つ者です。確かに、自分の弱さ自分の無力さを感じながら、私を強くしてくださるお方によって、私を愛してくださる主イエス様によって、何ごとでもすることができると経験するようになります。

主を信じる者の言い表わすことのできないすばらしい富とは、もちろん自分の内に住ん
でおられるイエス様です。けれども、救われたとしても召されるまで、あるいは主の再臨
まで、やはり戦いの連続ではないでしょうか。ですから、私たちは毎日ひとつの分かれ道に立たされるのです。何のために生きているのかと毎日問うべきです。

いろいろな可能性があります。ひとつの可能性は、自分自身のために生きるということ。つまり自分自身を喜ばせる生き方です。多くの人たちの特徴は、自分だけのことを考えるということです。だから全部上手くいきません。結婚生活も、家庭生活も、社会生活も上手くいかなくなります。ですから、どこでも競争があり、ねたみがあり、憎しみも生まれるのです。

前に読みました個所を、もう一回読みましょう。
ローマ人への手紙 15章1節から3節

 私たち力ある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。むしろ、「あなたをそしる人々のそしりは、わたしの上にふりかかった。」と書いてあるとおりです。

パウロだけではなく、ペテロも、同じことについて次のように書いたのです。
ペテロの手紙・第一 2章4節、5節

 主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。

とあります。イエス様は自分自身を喜ばせようとはなさいませんでした。自分自身を喜ばせるとは、結局自己満足です。イエス様は、そのような気持ちをお持ちになっていませんでした。確かに、人間はみな苦労したくありません。みな楽な道を選ぶのではないでしょうか。人間は、自分の利益を追求する者です。イエス様は全く違うお方でした。ですから、私たちは、一生懸命聖書を読んでも考えても、イエス様のことがつかめません。理解することもできないのです。

マタイ伝11章で、みなさんもご存知の個所ですけれど、28節から読みましょうか。
マタイの福音書 11章28節

 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

「キリスト教に入れ」ではありません。「教会に行け」でもありません。「洗礼を受けるべきだ」でもなく、「わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」とあります。人間にとって必要なのは真の平安なのではないでしょうか。

それから次は、イエス様の驚くべきみことばです。「わたしは心優しく、へりくだっている」と。イエス様にしか言えないことです。
29節

 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。

イエス様は、「わたしはへりくだっている」と言えたのです。

ヨハネの福音書の中で、イエス様は多くのことを正直に証ししてくださいました。例え
ば、5章30節を見ると、次のようにイエス様は言われたのです。福音書を読むと、イエス様はすごい!という印象を受けます。けれどもイエス様ご自身の証しを見ると、また驚きます。
ヨハネの福音書 5章30節

 わたしは、自分からは何事も行なうことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。そして、わたしのさばきは正しいのです。 わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。

イエス様の話されたことばとは、祈りを通して、以前父からお聞きになったことばでした。何を話そうかとイエス様は一回も思われたことがないのです。「お父様。何を話したらいいのですか。お教えになってください」。イエス様は絶えずこの態度をお取りになりました。

私たちは、主を信じながら、自分を喜ばせ、自分が中心になりたいと思い、自分自身の願望を追求するのです。このことはもちろん可能です。自分の最大の敵は自分だからです。自分の考えによって導かれる者は本当に気の毒です。
イエス様を喜ばせるものは私たちのうちに何一つありません。だから、イエス様はただ
単に、私たちの債務を贖うために死んでくださっただけではなく、私たちの古き人と共に
死んでくださったと聖書は強調しています。
古き人、即ち自分自身の自我は、イエス様のために全く役に立ちません。それは死に価するものです。もし私たちが自分自身の利益を考え、役割を演じたいと思うなら、もはやイエス様の喜びは私たちの上にはなく、ただ悪魔だけがそのことを喜ぶのです。

パウロは、ローマの刑務所の中で次のように書いたのです。彼は重荷を感じて、聖霊に
導かれて戦わなければならなかったのです。
ピリピ人への手紙 2章3節、4節

 何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、 互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。

なぜ実りが少ないのでしょうか。なぜ御霊はしばしば悲しまれるのでしょうか。なぜな
らば、私たちは自分自身を喜ばせているからではないでしょうか。
キリストは自分自身を喜ばせなかったと書いてあります。即ち、イエス様は自分自身を忘れ、誤解されたりそしられたりすることを良しとされました。それだけではなくイエス様は、人間の罪に対する聖なる父なる神の怒りのさばきを、ご自身の上に引き受けることも良しとしてくださったのです。イエス様はのけ者とされ、呪われることを良しとされました。「わが神、わが神。どうしてあなたはわたしをお見捨てになったのですか」とイエス様は叫ばれたのです。

また、イエス様は次のように証しされました。
ヨハネの福音書 8章50節

 わたしはわたしの栄誉を求めません。

自分自身の名誉欲を満たしたいと思う者、また自分の利益を追求する者は本当に気の毒です。

詩篇の作者であるダビデは、有名な詩篇の115篇の1節に心から言えたのです。
詩篇 115篇1節

 私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。

また、パウロは次のように書いたのです。
ガラテヤ人への手紙 5章26節

 互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。

コリント人への手紙・第一 10章33節

 私も、人々が救われるために、自分の利益を求めず、多くの人の利益を求め、どんなことでも、みなの人を喜ばせているのですから。

と、パウロは同労者たちといっしょに言えたのです。また、
ローマ人への手紙 15章2節

 私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。

と書かれています。
私たちが何のために生きたいと思うかについて考えた第一の可能性は、自分自身を喜ば
せることです。第二の可能性は、ほかの人を喜ばせることです。人間を喜ばせる願いは、
多くの人たちの特徴ではないでしょうか。

パウロは正直に告白したことがあります。ガラテヤ書1章の10節を見ると次のように
書かれています。
ガラテヤ人への手紙 1章10節

 いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや、神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。

また、テサロニケにいる兄弟姉妹に、同じくパウロは書いたのです。
テサロニケ人への手紙・第一 2章4節

 私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を
喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。

また、エペソにいる人々に、パウロは似ていることを書いたのです。
エペソ人への手紙 6章6節、7節

 人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、 キリストのしもべとして、心から神のみこころを行ない、人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。

また、コロサイ書3章22節に、パウロは当時の奴隷たちに書いたのです。
コロサイ人への手紙 3章22節

 奴隷たちよ。すべてのことについて、地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。

人間を喜ばせようとする者は、知らないうちに縛られるようになります。即ち、人間の
奴隷となります。その人は内面的に不自由になり、大変神経を使ったりします。必ず不幸
で失望します。人間は失望させますが、イエス様は決して失望させることはなさいません。

集会のある姉妹に、武蔵野市の青年犯罪について聞いたことを、話してもらったことがあります。おそらくイエス様をご存じないと思われるその講師の方は、「青少年犯罪のおもな原因は間違った教育である」と言われたそうです。子どもたちはただ人間に対してどのように行動すべきであるかを教育されるが、それは決して十分とは言えず、子どもたちは神とどのような関わり合いを持つべきかを知らなければならない、と言われたそうです。イエス様を知らない人でさえ、このような結論に至ったということはまことに驚くべきことです。

主なる神を恐れることのない人は、心の支えを持たず、自分のことばかり考え、そして
ほかの人を顧みることをせず、自分勝手でわがままな心を抑えることのできない者となり
ます。自分のことばかり考え、自分のために生きる者や、自分を喜ばせる人は不幸です。
ただ人間だけを喜ばせようとする人も、また不幸です。なぜなら、それはだれも成功しないからであり、すべての人間を喜ばせることは全く不可能なことだからです。

もうひとつの生き方があります。イエス様をお喜ばせしたいという生き方です。即ち、自分自身を否定し、人間を喜ばせる生き方をしないで、ただイエス様お一人だけをお喜ばせしたいという生き方をする人は、必ず幸せになります。
人間が私を批判したり、ほめたり、大切にしたり、誤解してもかまわない。主よ。あなたが喜んでいただけることこそ、私にとってすべてのすべてです。そのような心構えを持つことこそが、大切なのではないでしょうか。
・イエス様に喜ばれることを求める者は、人間の判断から解放されます。
・イエス様に喜ばれることを求める者は、隣人に対して取る行動も正しいものとなります。
・イエス様に喜ばれることを求める者は、自分自身のために生きるのではなく、ほかの人
のために生きたいと思うようになります。

創世記の中で、3章に書かれていることなのですけれど、アベルの兄、カインという男
は、ひどいことを言ったのです。「私は、弟の番人でなければならないのか」。このような態度を、私たちは今日も至るところで見出すことができます。
私たちは、私たちの周りの多くのたましいのために、責任を持っています。私たちは、
ただ救われて聖められるためだけにこの地上にいるのではなく、主の器となるために用い
られなければなりません。私たちを通して、イエス様はご自身を啓示なさりたいと思って
おられます。私たちを通して、主イエス様はご栄光を現わしたいと望んでおられます。
 ただイエス様だけがご栄光をお受けになってくださり、私たちの周囲の人々が救われるなら、私たち自身のことはどうなろうと構いませんという心構えを私たちが持っていれば、本当に幸せだと思うのです。

もう一箇所読んで終わりましょう。パウロの告白です。
使徒の働き 20章24節

 けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。

パウロは本当にそう言えたので、彼は最期まで大いに祝福されたのです。
歴代誌・第二 16章9節前半

 主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。

つまり主は、そのような心構えを持つ人々を求められています。
主は、主を心から愛している人、心から主を待ち望んでいる人々を捜し求めておられるのです。それはご自身を明らかにしようと望んでおられるからなのです。



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メッセージ・証し集インデックスページ

◆メッセージ(ベック兄)

※一部、テープの転換による不明部分あり

神のみことばは神のみことばである(5) 2006. 4. 18
神のみことばは神のみことばである(4) 2006. 4. 11
神のみことばは神のみことばである(3) 2006. 4. 4
神のみことばは神のみことばである(2) 2006. 3. 21
家族の救い 2006. 3. 19
神のみことばは神のみことばである(1) 2006. 3. 14
主イエスは神の子キリストである(4) 2006. 3. 7
主イエスは神の子キリストである(3) 2006. 2. 28
主イエスは神の子キリストである(2) 2006. 2. 14
主イエスは神の子キリストである(1) 2006. 2. 7
勝利の生活の秘訣 2006. 1. 24
イエス・キリストのからだ 2006. 1. 17
主の永遠からの予定 2006. 1. 10
元旦メッセージ 2006. 1. 1


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