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メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


主イエス様を喜ばせよ(3)
   
2005.7.12(火)
ベック兄メッセージ(メモ)

 
引用聖句
詩篇 133篇1節から3節
 見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。

 私たちの主イエス様は、偉大なる教師だけではなく、真理そのものです。イエス様の話された一つ一つのことばは、一つの教えよりも、ご自身の啓示です。
この主イエス様を紹介することとは、私たちの素晴らしい特権ではないでしょうか。
ですから、どこで集まっても、「喜びの集い」です。それはイエス様が紹介されるからです。そうすると、やはり希望があります。
 この間も、広島の「喜びの集い」に行きました。二百人以上の方がたが来られましたし、十人の兄弟姉妹は洗礼を受けられるようになりました。また、四人の赤ちゃんのために、祝福式もあったのです。
 福音書の中で、イエス様は、ある非常に悩んでいる父親におっしゃいました。「その子をわたしのところに連れて来なさい」と。その子は生まれたとき、きっと親の喜びの種だったに違いありません。けれどこの子どもが悩みの種になってしまいました。しかし、彼はイエス様のところで解放され自由になり、本人だけではなく、親も、考えられないほど喜ぶようになりました。ですから、今回の四人の親たちも多分わかったことでしょう。即ち、わが子を主イエス様のところに連れて行くと、必ず祝福されるばかりでなく、祝福されれば子どもも親も必要なものが得られるのだと。

 今まで何回も言いましたように、大切なことは、喜ぶことができるということです。
 今朝、知らない女の方から電話がありました。三、四年前、彼女の母親は南武線の電車に飛び込み、自殺をしてしまったということでした。彼女はそのとき十九歳でしたが、もちろん大変大きなショックを受け、当座は考える暇もなく、母親の代わりに一生懸命働かなければならなかったのです。やがてノイローゼになり、過食症にもなり、落ち込んでしまうと、父親は大変怒るようになったそうです。けれど、最近父親は少し親切になったらしいです。なぜなら、彼女が友だちからイエス様のことを聞いて、素直に受け入れ、信じるようになったからです。電話での話によると彼女は、「イエス様大好き。みことばを食べています」と。それで十分ではないでしょうか。そして更に、彼女は、「鬱になったけれど幸せ」と。本物のイエス様によって捕えられたからでしょう。彼女が一番好きなみことばは、イザヤ書の43章4節だそうです。
イザヤ書 43章4節

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」。

 永遠に変わらないお方によって愛されていることこそが、最高ではないでしょうか。主が働かれると、そして祝福してくださると、人間は本当の意味で喜ぶことができるのです。主の祝福がなければ、人生は無意味で、無価値なものになります。まことの満足を与えることのできるお方は、私たちの主イエス様だけです。

 今読みました、詩篇133篇3節の後半に、『主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである』とあります。普通、聖書の中で、「とこしえのいのち」とは、あまり使われていません。いつも、「永遠のいのち」です。もちろん、同じことです。
けれども、「永遠のいのち」とは、物ではありません。イエス様ご自身です。「わたしはいのちです。唯一の永遠に変わらない方です」とイエス様は言われました。確かに、このイエス様は、私たちの罪滅ぼしのために犠牲になって死なれました。

昇天なさったイエス様は言われたのです。
ヨハネの黙示録 1章18節

「わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。」

 主イエス様を持つ者は永遠のいのちを持っており、主イエス様を持たない者は永遠のい
のちを持っていない、と聖書ははっきり言っているのです。
 この主イエス様、このいのちそのものであられるイエス様は、昨日も今日もいつまでも
変わりません。ですから、永遠のいのちそのものであられるイエス様の祝福を得ることこ
そが、最も大切です。

 私たちが必要とするただ一つのものは、永遠のいのちそのものであるイエス様の祝福ではないでしょうか。なぜなら、私たちは主の祝福を受けるときに初めて、悩みながら喜ぶことができ、喜びをもって、平安をもって、生き生きとした希望をもって毎日を過ごすことができるからです。
 確かに、人間はみな、例外なく幸せになりたいのです。けれども、大部分の人間はあきらめています。「なりたいけれど、無理でしょう」と。確かに、問題を持っていない人は存在しません。信仰があっても、人間は悩む者です。問題は、悩みながら問題を持ちながら、喜ぶことができるかできないかということです。

 真の幸せの根拠とは、いったい何でしょう。主によって愛されているという確信を持つこと、主の祝福を得ることです。
では、主の祝福を得る道とは何でしょう。答えは三つです。
1.本当の意味で主を知ることです。私たちが何と何と何を信じるかは、それほど問題で
はありません。だれを信じるか、だれに頼るかということです。
2.本当の一致を持つことです。
3.心から主の栄光だけを求めることです。

1.主の祝福を得るために、私たちは、まず主を知ることです。本物のイエス様を知ることです。本物がいれば、偽物もいます。キリスト教という宗教と関係しているキリストは偽物です。十字架の上で犠牲になられたイエス様は無宗教です。宗教とは全く関係のないお方なのです。

 ダビデは詩篇の115篇で、まことの神について、いろいろなことを書いたのです。
三千年前なのです。よく知られている箇所です。1節はよく引用される大切な箇所です。1節から読みましょう。
詩篇 115篇1節から3節

 私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。なぜ、国々は言うのか。「彼らの神は、いったいどこにいるのか。」と。私たちの神は、天におられ、その望むところをことごとく行なわれる。

「私たちの神は生きている」と、ダビデは確信して喜ぶことができました。ここでは、「私たちの神」と書いているだけで、「彼らの神」とは書いてないのです。神は唯一だからです。
詩篇 115篇4節から8節

 彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。口があっても語れず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。これを造る者も、これに信頼する者もみな、これと同じである。

「人」とは、人間です。まことの唯一の神について、ダビデははっきり言ったのです。即ち、まことの神とは、
詩篇 115篇15節

 主は、天と地を造られた方である。

と書いてあります。そして、今読みました3節に、「私たちの神は、天におられ、その望む
ところをことごとく行なわれる」と書いてあります。

 一言で言いますと、まことの唯一の神は、生きておられるお方です。祈りを聞いてくださるお方です。恵んでくださるお方です。必要な助けを、必要な導きを与えてくださるお方です。従って、ほかのいわゆる神々は生きていないものであり、人間の思想であり、単なる人間の産物に過ぎません。人間によって造られた神々は、聖書の中でいつも、「偶像」と呼ばれています。ダビデは、この詩篇115篇の中で、このまことの神と偽物である偶像を比較しています。
 まことの神に出会った人たちは、主を知り、心の拠りどころを持つ者であり、また彼らは喜んで、「主は私たちのものです。神は私たちの神です」と言うことができます。3節に書いてありますように、ダビデは「私たちの神」と証しすることができたのです。
 まことの神に出会っていない人たちは、もちろん主を知らず、従って決して「主なる神は私のものです」と言えないのです。
ですから、ダビデは4節に、「彼らの偶像」と言ったのです。ダビデは、まことの神と偶像とを比較しました。「私たちの神は天におられ、その望むところをことごとく行なわれる。まことの神は天に住まわれ、この主なる神にとって不可能なことは何一つない。私たちの主にとって不可能なことはない」と考えると、希望が湧いてきます。

 偶像は、結局人間が造ったものです。芸術的によく造られているかもしれません。けれども偶像は、ある時は男に似せて造られ、ある時は女の形に似たものとして造られ、またある時は動物にかたどって造られているのです。本気になって、これは神だと思う人はいないはずです。
 いずれも偶像の共通点があります。それは、すべての偶像は語ることができません。答えることができません。
これに対して、私たちの主は真心から求める心に必ず答えてくださいます。その意味で、偶像はものが言えず、目しいであり、耳しいです。

 モーセは、四千五百年前に、まことの神について次のように書いたのです。
申命記 4章27、28節

 主はあなたがたを国々の民の中に散らされる。しかし、ごくわずかな者たちが、主の追いやる国々の中に残される。あなたがたはそこで、人間の手で造った、見ることも、聞くこともせず、食べることも、かぐこともしない木や石の神々に仕える。

 死んだ者に仕えても、これは無意味なだけではなく危険です。パウロはコリントにいる兄弟姉妹に書いたのです。生けるまことの神ではなく、例えば死んだ人にささげられているものは、結局偶像にささげられたものです。そうするとやはり悪魔の影響、悪霊の影響を受けるのは決まっています。

 私たちの主は決して、おしではありません。みことばである聖書を通して、いろいろな悩み、苦しみ、病気を通して語りかけてくださいます。
 また、私たちの主は、目しいでもありません。まことの主は、どのように隠れているも
のでも、どんな小さなものでもすべてを見通すことがおできになります。
 また、生ける私たちの主は、耳しいでもありません。必死になって救いを求める者、ま
た心の貧しい者の叫びを必ず聞いてくださいます。
エレミヤ書 33章3節

 わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え…

と。
エレミヤも、主とはどういうお方であるかについて書いたのです。一文章だけです。
エレミヤ書 10章10節

 しかし、主はまことの神、生ける神、とこしえの王。

 主はすべてを支配し給うので、すべてにまさって偉大なるお方とは、「まことの神であり、生ける神であり、またとこしえの王である」とあります。ですから、偶像に拠り頼む者は、
本当に愚かです。生けるまことの主なる神に信頼する者は、必ず助けを経験します。主は
助ける力、また守る力を持っておられるお方です。

 以前四国の高知で、ある家族が非常に悩むようになったのです。二十三歳の息子が急に亡くなったのです。それがきっかけになって、親はイエス様を信じイエス様に頼るようになりました。彼らはすぐ、今まで礼拝した物、大切にした物、仏壇など、全部燃やしてしまったのです。だれかにすすめられたわけではありませんでした。「今まで必死になって拝んだけれど役に立たなかった。役に立たない物は場所を取るだけだから捨てるべきだ」と思ったのです。まともな考えではないでしょうか。確かに多くの人は、「いや、そんなことをすると大変なことになるのではないか」と言います。とんでもないことです。私たちの主は、生きておられるお方です。妥協せず主に頼るなら、絶対に失望しません。

 ダビデという王様は、喜びをもって、確信をもって言うことができました。「私たちの神はおしでもなく、目しいでもなく、耳しいでもない。私たちの主は生きておられる。この主とは私たちの助け手であり、また盾です」と。即ち、私たちの主は、助ける力守る力を持っておられるのです。このまことの生ける神は、私たちのわがまま、過ち、罪を赦してくださり、私たちのようなつまらない者を受け入れてくださり、私たちに永遠のいのちを与えてくださるお方です。そして、主は祝福してくださるお方なのです。

 主の祝福を得る資格のある人間は、もちろんいません。どうして祝福してくださるのか
わかりません。主の愛とは、結局永遠なる愛であるからです。主を知るために頭を下げて、自分自身を低くして、正直に、「私はまことの主から離れている者です。過ちを犯す者です。満たされていない者です。心の拠りどころを持たない者です。どうかあわれんでください」と叫ぶと、主は必ず祝福してくださり、恵んでくださるのです。
 イエス様は、このように「わたしのところに来る者をわたしは決して捨てない」と約束してくださいましたので、すぐにあなたは、「赦してくださったことを感謝します」と信じまた感謝することができます。

 主の祝福を得る道とは、どのようなものなのでしょうか。
今話しましたように、初めの答えは、主を知ることです。主についての知識を得ることではありません。「主は私の心の眼(まなこ)を開いてくださった。私のわがままを赦してくださった。主は私の羊飼いです」と言える人こそが祝福されます。


2.二番目の答えは、本当の意味での一致を持つことです。
 始めに司会の兄弟のお読みになりました詩篇の133篇1節に書かれています。
詩篇 133篇1節

 見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。

 聖書の中で、一致することの必要性、大切さについて、多くのことを言っています。

まことの一致について、おもに三つの事がらが述べられています。
@ 同じ愛の心を持つこと
A 心を合わせること
B 志を一つにすること

 ピリピ人への手紙の中で、パウロは次のように書いたのです。このピリピ人への手紙と
は、「喜びの書(ふみ)」と呼ばれているものです。
人間はいつ本当の意味で喜ぶことができるかと言いますと、主が祝福してくださるときです。主はいつ祝福してくださるかと言いますと、私たちが一つになるときです。
ピリピ人への手紙 2章2節

 私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。

間違いなく、パウロは刑務所の中で悩んだり苦しんだり心配したでしょう。けれど、彼
は自分のためよりも、彼を通して導かれ、救われた人たちの成長のために心配したのです。
パウロは自分のことを忘れ、信者たちの成長のために戦ったのです。祈り続けたのです。
「私の喜びが満たされるように、お願い!お願い! あなたがは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください」と。

@「同じ愛の心を持ちなさい」。
 まず、イエス様を通して明らかになった主なる神の愛を体験的に知ることです。
それから、この愛を伝える器になってもらいたいということです。
 エペソ人への手紙の中で、同じ内容のことばが書いてあります。
エペソ人への手紙 4章2節、3節

 愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。

 まことの一致とは、もちろん人間の作るものではありません。ですからここで、「御霊の
一致」とあります。御霊が働くと、イエス様が中心になられると、人間は本当の意味で一つになります。
「信じる者一人一人を通して、ほかの信者に祝福をもたらすように召されている」と、パウロは何回も強調して書いたのです。即ち、「私たちを通して、主を信じる者たちが、イエス様とさらに深い交わりを持つようになり、初代教会の兄弟姉妹と同じように、主の栄光を見出すことができるように」。

 主なる神が関心を持っておられる唯一のことは、イエス様を信じる信者に関することで
す。主が、人間一人一人をどのように大切なものであると思っておられるか、また、その
一人一人を贖うためにどのように大きな犠牲を払ってくださったか、ということを考えて
みると、私たちも一人一人を大切にすべきではないでしょうか。これは、もちろん自分の努力の結果ではありません。主の愛の現われに過ぎません。
ローマ人への手紙 5章5節

 私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

 確かに私たちは、どなたが本当の意味で救われているか救われていないかわかりません。聖霊の住まいになった者は救われていますし、そうでない者はまだ救われていません。「主の霊を持つ者は救われている」と言っています。

 パウロは、ここで「私たちに与えられた聖霊」という表現を使うことができたのです。聖霊の宮になった者は、知らないうちに神の愛を持つようになりました。神の愛だったらできます。自分のちっぽけな愛によっては何もできません。
 主は、兄弟姉妹に対して最大の関心を払っておられます。ですから、私たちの最大の関
心事も、区別しないで兄弟姉妹を心から受け入れるということでなければならないのではないでしょうか。

 パウロは、刑務所の中で信者たちを思い、まず、「同じ愛の心を持ちなさい」と書いただけではなく、二番目に、「心を合わせて欲しい」と書いたのです。

A「同じ目的を目指して走りましょう」。
 目的とは、イエス様の再臨を待ち望むことです。イエス様の再臨について考えると、「あ
あ、そうしたら困ってしまう」。やはり家族の人たちも導かれ、救われなくてはならないでしょう。そうすると、私たちは祈らざるを得なくなります。

 幸いに祈りの材料はみことばです。主の約束です。主は、『あなたもあなたの家族も救わ
れます』(使徒の働き16章31節)と約束してくださったから、前もって感謝すべきではないでしょうか。
「ちょっと難しい」という気持ちは、不信仰の表われそのものです。ですから、おそらく多くの場合、どうしてなかなか家族が救われないかと言いますと、これは未信者の頑固さのためというよりも、信じる者の不信仰のためではないでしょうか。
「あなたの信じたとおりになる」と何回も何回も書いてあります。確かに目に見える現実だけを見ると、なかなか無理です。現実は現実だからです。けれども、現実よりも、主はすべてにまさって偉大であり、何でもできるお方です。

 一つになることは大切ですから、ダビデは、「見よ。兄弟たちが一つになって共に住む
ことは、何という幸せ、何という楽しさであろう」と書いたのです。
 イエス様のからだなる教会は分裂したものであってはなりません。かえって、それぞれ
の器官はお互いに配慮し合うべきです。御霊の一致と愛の一致があるところにのみ、とも
なる賛美と主の御名が崇められることが成就されます。

 ダビデは、確かに主を大切にする者でした。彼は、「みこころにかなう人」と呼ばれたの
です。どうしてでしょうか。主を心からほめたたえたからです。主を心の奥底から礼拝し
たからです。けれども彼はあるときわかったでしょう。大切なのは自分と主との関係だけではない。やはり周りにいる兄弟姉妹も大切だと。ですから、
詩篇 34篇3節

 私とともに主をほめよ。共に、御名をあがめよう。

 彼は、一緒に主をほめたたえたかったのです。
「心と声を合わせてください」。これはパウロの願いであり、主の命令であり、祝福される源(みなもと)そのものです。何か一緒に奉仕したり共に働くことは、もちろん誰にでもできます。けれど、心の一致がなければ疲れます。結局、本物ではないからです。一致のあるところにのみ、主は働かれます。

 五旬節の前に、イエス様を信じる人たちはみな、一つになったのです。「今からどういうことになるのでしょうか」。イエス様は、「今何もしなくてもよいです。静かにしなさい。
御霊が来ます」と。「早く出かけて福音を宣べ伝えなさい」ではありませんでした。もし、そうしたなら、失望してあきらめたに違いありません。彼らは、まず何もしなくてもよかったのです。「静かにしなさい」。

 使徒行伝1章14節を見ると、次のように書かれています。百二十人だったのですけれど、この百二十人の中に、婦人たち、イエス様の母親だけではなく、イエス様の肉の兄弟たちもいました。
使徒の働き 1章14節

 この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。

とあります。驚くべきことに、イエス様の肉の兄弟たちもその中にいたということです。
イエス様は、生きておられる間に家族の救いを経験することができませんでした。イエス様にとって辛かったと思います。マリヤは、イエス様のことを天から遣わされた御使いによって知りました。自分が生む子は約束された救い主だと、彼女は一秒も疑いませんでした。ですから、彼女とイエス様とは、いろいろな点で本当に一つでした。けれども、弟妹たちは大変でした。「あの二人は…」、ねたみがあったかもしれません。やがてそれが憎しみに変わったのです。結局、彼らは当時の聖書学者と同じ気持ちになったのではないでしょうか。
 けれども、やがて彼らは導かれたのです。すべてのことは天国へ行ってから全部わかるようになるのだと驚いたと思います。すぐ下の弟は先に救われたかもしれません。ヤコブです。なぜなら、コリント第一の手紙15章のよみがえりの書の中で、「主イエスはヤコブに現われた」と書いてあるからです。それで、彼はいっぺんにわかったのでしょう。自分は何という愚かな者だと。十字架の上で犠牲になられ、死に葬られたイエス様は、このヤコブに現われなさったのです。ヤコブはどのように謝ったのかわかりませんが、イエス様は嬉しかったでしょう。それにほかの弟たちも。それから、姉妹たちも。
 カトリック教会はそれを否定しています。ご存知でしょう。「それは従兄妹だった」と。
そのようなことはあり得ません。「男と女の間に生まれた人間はみな、罪を犯すことしかできない」と聖書は言っています。けれど、マリヤは立派な女性でした。なぜなら、「自分はどうでもよい。主に用いられれば嬉しい。殺されても結構です」と、このような気持ちを持っていたので、選ばれるようになったのです。しかし、マリヤは崇拝すべきものではありません。彼女はやはり何もできません。単なる器に過ぎなかったのです。主が恵んでくださったとしか言えなかったのです。
 最後には、みな導かれ、救われたのです。そしてみな、五旬節を経験しただけではなく、みなも心から、「イエス様こそ、生きておられる、罪を赦してくださるお方です。重荷から解放してくださるお方です」と宣べ伝えるようになったのです。彼らは本当に心を一つにしたので、考えられないほど祝福を得るようになったのです。

 第一番目に、同じ愛の心を持つこと。二番目、心を合わせることです。
 
B 三番目に、志を一つにする大切さもパウロは強調したのです。
 志を一つにすることとは、何を意味しているのでしょうか。イエス様のように人を見ることです。イエス様のようにこの目に見える世界を見ることです。イエス様の持っておられる要求を持つことです。

 パウロは、確かに信じる者の成長のために祈りました。心配しました。なぜなら、いつ
の時代でも二種類の信者がいます。
信じる者はもちろん永遠のいのちを持っていますから、行き先は決まっています。天国です。けれど、死んでから報いられるかどうかは別です。
 パウロの時代でもやはり二種類の信者がいました。ピリピ書2章を見ると、次のように書かれています。いうまでもなく、この箇所は一度主の恵みによって救われた人たちに書かれたところです。
ピリピ人への手紙 2章20節

 テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、
ほかにだれもいないからです。

 パウロはテモテのことを考えたとき、やはり嬉しくなったことでしょう。百パーセント信頼できる。彼は自分のことを考えようとしない。「イエス様は盛んになり、私はどうでもいい」、これこそテモテの気持ちでした。でも、ほかの信じる者の気持ちは違うものでした。
ピリピ人への手紙 2章21節

 だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。

 パウロの悩みの種とは、そのことでした。彼らは、疑いもなくイエス様を救い主として受け入れましたが、主のご支配を求めようとしませんでした。「主よ。語ってください。従いたいです。あなたを喜ばせたいです」。そのような気持ちがなかったようです。

 覚えるべきことは、「自分自身を無にして主の栄光を追い求める」ということによってのみ、志を一つにすることができるということです。
 イエス様は、ペテロに、「あなたはちょっと変わってもらいたい。ヨハネを見て、ヨハネのようになってもらいたい」と言われたことはありません。みな、違ってもよいのです。いろいろな問題についての思いは違っても構いません。けれども、やはり主の再臨を待つことが第一にならなければならないでしょう。なぜなら、イエス様の再臨を待ち望まなければ、家族の救いのためにそんなに真剣に祈らないからです。これも問題なのではないでしょうか。
 確かに、信仰の弱い人もいるかもしれませんし、強い人もいるかもしれません。また、能力がある人もいるでしょうし、そうでない人もいるでしょう。けれども、それとは関係なしに、主への賛美のために一つの心になるべきです。心の一致こそが大切です。

 祝福される道とは、初めに、まことの主を本当の意味で知ることが要求されています。
そしてまた、本当の一致を持つことも大切です。


3.最後に、三番目になりますが、主の栄光を求めることです。主だけが栄光をお受けになっていただきたいという切なる願いが要求されています。
もう一度、詩篇の115篇に戻りまして、1節と18節をお読みいたします。
詩篇 115篇1節

 私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。

詩篇 115篇18節

 私たちは、今よりとこしえまで、主をほめたたえよう。ハレルヤ。

 いうまでもなく、生まれつきの人間は、主の栄光を求めようとしません。自分、自分の
ことだけしか考えられないからです。従って主の栄光を求めるようになることは、まさに聖霊、主の御霊の働きの結果です。

 御霊の働きについて、イエス様は次のように言われたことがあります。「御霊はわたしの
栄光を現わします。わたしの成し遂げた救いのみわざを大切にするのです」。
 父なる神は、確かに私たち一人一人の救いを計画してくださいました。イエス様はこの計画を成就してくださったのです。
 そして御霊の働きによって、イエス様のなされた救いは、そこで初めて、人間個人個人のものになります。御霊が主の栄光を明らかにされると、人間は小さくなり、ひれ伏して主を礼拝せざるを得なくなります。即ち、ダビデのように、「私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ、帰してください」と、切に願うようになります。「ただ主にだけ栄光が帰せられますように」、これは当時の王であるダビデの切なる願い、心からの祈りでした。

 人間の危険とは、「自分が大切にされたい」という気持ちです。ただ自分の名誉だけを求
める者は、主の栄光を奪い取ってしまいます。泥棒です。反対に、ただ主の栄光だけを求
め続けると、人生は本当に満たされたものになるに違いありません。
 主の栄光を求めながら祈る者は、必ず主からの答えを与えられます。主の答えは決して
崩れることのない喜びであり、また、決して絶えることのない平安です。主の栄光を熱心
に求めることが、私たちの信仰生活の特徴となるべきではないでしょうか。

 バプテスマのヨハネは、「主イエス様は盛んになり私は衰えなければなりません」と告白
したのです。だからこそ、彼は大いに祝福され、「私の喜びは満たされている」と言うこと
ができたのです。自分自身のことが大切ではなくて、また自分の身の上に何が起こるかと
いうことも別に大切ではない。ただ主の栄光が現われることを求めることです。

満たされる秘訣は、主の栄光だけをあがめることなのではないでしょうか。

 ローマ書の8章32節、よく知られている箇所ですが、パウロは、次のようにローマに
いる人たちに書き記したのであります。
ローマ人への手紙 8章32節

 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

 イエス様によってすべてが提供されています。いうまでもなく、主の祝福とは健康とか、富とか、美しさといったような事がらではありません。イエス様ご自身です。
私たちは、主イエス様のうちにすべてを持っているのです。イエス様のうちに汲み尽くすことのできない富が、私たちのために開かれ、また提供されています。

 私たちが必要としているものは、ただ一つなのではないでしょうか。主によって祝福さ
れることです。結果として、喜びに満たされます。喜びに満たされれば、周りの人たちも
心を開くようになるに違いありません。



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メッセージ・証し集インデックスページ

◆メッセージ(ベック兄)

※一部、テープの転換による不明部分あり

神のみことばは神のみことばである(5) 2006. 4. 18
神のみことばは神のみことばである(4) 2006. 4. 11
神のみことばは神のみことばである(3) 2006. 4. 4
神のみことばは神のみことばである(2) 2006. 3. 21
家族の救い 2006. 3. 19
神のみことばは神のみことばである(1) 2006. 3. 14
主イエスは神の子キリストである(4) 2006. 3. 7
主イエスは神の子キリストである(3) 2006. 2. 28
主イエスは神の子キリストである(2) 2006. 2. 14
主イエスは神の子キリストである(1) 2006. 2. 7
勝利の生活の秘訣 2006. 1. 24
イエス・キリストのからだ 2006. 1. 17
主の永遠からの予定 2006. 1. 10
元旦メッセージ 2006. 1. 1


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