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メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


豊かになる秘訣
   
2005.7.31(日)
西軽井沢国際福音センターにて
ベック兄メッセージ(メモ)

 
引用聖句
コリント人への手紙・第二 8章9節
 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

マタイの福音書 5章3節

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」


 今朝のテーマは、『貧しくなってもいいの?』或いは、『豊かになる秘訣』とつけること
ができるのではないかと思います。
「貧しくなってもいいの?」、なぜこのことこそが大切であるかと言いますと、先週も引用した箇所です。
歴代誌・第二 16章9節

 主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。

 即ち、主は必死になって、「貧しくなってもいい」という態度を取る人たちを捜しておい
でになるのです。先週、私たちは、貧しくなったダビデについて一緒に考えました。このダビデとは、「みこころにかなう人」と呼ばれたのです。いったいどうしてかと言いますと、「貧しくなってもいい」という態度を取ったからです。

 今日ももちろん「よろこびの集い」です。どうして、「よろこびの集い」であるかと言いますと、悔い改められるからです。どんなことがあっても悔い改められることは、素晴らしい恵みではないでしょうか。悔い改めたくない人たちは、本当にかわいそうです。幸せになれません。周りの人たちにとって悩みの種となります。

 救われることは、確かに素晴らしい恵みです。多くの人たちは、いわゆる救われた人たちを誤解して、「やはり何か特別なことを経験しないと救われないのではないか。もう少し聖書を勉強して、イエス様のことが理解できなければ駄目なのではないか」と考えています。この考え方は確かに宗教的ですが、間違っています。

 イエス様は、みなさんがよく知っておられるルカ伝18章で例えを話されました。聖書全体の語ろうとしていることは、全部この例えの中に含まれているのではないでしょうか。
みなさんご存知でしょう。はっきりした救いの確信を持っていない人たちが、この箇所を読むと希望を持つようになるのではないでしょうか。即ち、本当にそんなに簡単なのかと思われるに違いありません。
ルカの福音書 18章9節から14節

 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

「自分は義人だ」とは、「自分はOKだ」ということです。つまり、貧しくなりたくない人
たちに、イエス様はこの例えを話されたのです。「宮」とは、エルサレムの宮でした。
このパリサイ人は、聖書の内容をよく知って、疑わずに信じて、聖書の神こそが自分の神であると思い込んでしまった男です。道徳的にも高い生活をしていたに違いありません。尊敬された人格者でした。けれども彼の祈りは、自己満足の表われに過ぎなかったのです。主はこのような祈りは聞こうとはなさいません。
 聖書の知識をあまり持っていなかった取税人、嘘をつき、偽善者そのものの生活を送った取税人は、「神さま」と叫びました。(「神よ」ではありません。)「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」と、このひとことばで救われてしまいました。

「義と認められること」とは、受け入れられることです。永久的に救われることです。救われるための最も大切な箇所とは、これなのではないでしょうか。低くなれば、貧しくなれば、あわれんでくださいという態度があれば、主は必ず恵んでくださり、受け入れてくださるのです。

 けれども、救われた人たちの中で、二種類あります。だれもが、初めの愛にとどまるならば、飢え渇きを持って毎日聖書を開き、「主よ。語ってください。相変わらず何もわかり
ません。迷える羊に過ぎませんが、お導きになってください」という態度が取れるようになり、主イエス様に喜ばれる結果となるでしょう。テサロニケにいる人たちは、そういう人たちだったに違いありません。ですからパウロは、「私はいつもあなたがたすべてのために神に感謝しています」と祈ったのです。(パウロは、「私は時々あなたがた大部分のために感謝します」と言っているのではありません。)
 パウロのほかの手紙を見るとわかりますが、多くの人たちが、パウロの悩みの種になりました。ですから彼は正直に、「私は困っています。私は悩んでいます。苦しんでいます」と書かなければならなかったのです。

 いったいどうしてこのような違いがあるのでしょうか。確かなことは、なかなか成長しない兄弟姉妹、悩みとなっている兄弟姉妹は、イエス様の再臨を信じているかもしれませんが、待ち望んでいないのです。「まぁ、まだまだ先のことでしょう」。そのような気持ちがあれば、イエス様に対する愛はごく僅かなものでしょう。 「今日、来ていただきたい。今日、来られるかもしれない」という待ち望みを持つなら、主は心のまなこを新たに開くことができ、私たちを喜びで満たすことがおできになるのです。

 しかし救われても、ある人は自分のために生活し、自分自身を実現しようと望んでいます。そうすると、主は知らん顔をされます。主は私たちをお用いになりません。一方別の兄弟姉妹は、「何があっても主に喜ばれたい」と切に望んでいます。バプテスマのヨハネのように、「イエス様は盛んになり、私は衰えなければならない」と心から望む人たちです。結局、イエス様が中心にならなければ、祝福がありません。

 ラオデキヤの教会の中心になっていたのは、人間でした。イエス様は外でした。追い出
されてしまったか、自分で出られたのかそれは、わかりません。けれど、イエス様のための居場所が無くなってしまったのです。初めはそうではなかったのです。つまり、人間が中心になると、主は姿を消されるのです。

 ある兄弟姉妹は、イエス様にのみすべての栄光が帰されますようにと心から望みます。
別の兄弟姉妹は、知らないうちにつまづきを与えます。そして分裂を起こす者となるのです。またある人たちは、本当に命がけで集会全体の一致が現われるために祈ります。別の
人たちは、自分のことしか考えていませんから、暗やみの中にいるのです。

 マルコ伝の中に、一人の病気の女性について書かれています。彼女は、イエス様を非常
にお喜ばせしたのです。聖書は簡単に言っています。
マルコの福音書 5章33節後半

 イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。

と書いてあります。大した者ではないと考える人もいるでしょうが、イエス様が、彼女の態度を見られたときお喜びになりました。何も隠さないでイエス様のところに行くと、イエス様は喜んで受け入れてくださるのです。

 先週ご一緒に学んだダビデは、祈りました。そして祈っただけではなくて、心からそう思ったに違いありません。ある人たちは、「悪かった」と言い悔い改めます。けれど本当はそう思っていません。これこそ悲劇的ではないでしょうか。でもダビデは、本当にそう思ったのです。
詩篇 26篇2節

 主よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください。

私は心からそう祈っている、とダビデは言えたのです。「主よ。どうか調べてください。ためしてください。明らかにしてください。導いてください」。この態度を取る者は、大いに祝福されます。いつも新たにこの態度を取ることこそが、大切なのではないでしょうか。
 
 何年か前のことでした。火曜日の朝、集会の始まる前、玄関に悲しそうな顔をしている婦人がいたのです。彼女を案内して来た姉妹に、集会が終わってから彼女の話をちょっと聞いていただけないかと頼まれました。
どういう話であったかと言いますと、彼女は、まず自分の家庭について話したのです。父親は、天理教に入り、(それは別にどうでもいいですが)夢中になったのです。みなさん、わかるでしょう。夢中になった宗教家は、悪魔です。今この世界で一番捜されている男は、オサマ・ビンラディンです。(彼はテロリストではありません。)夢中になった宗教家に過ぎないのです。
彼女の父親は、夢中になった宗教家になって、結局、天理教、天理教、天理教と。すべてのすべては、天理教でした。全財産、家も土地も金も、全部天理教に差し出したのです。母親は泣きながら、私たちは生活できなくなると言いました。しかし、無視されました。母親は首を吊って死にました。そのときから、彼女は父親のことを大嫌いになりました。こんな素晴らしい母親を守ることができない父親は嫌と。その上、兄はアルコール中毒になって、大きな借金を作って姿を消して逃げました。当然でしょう、兄のことも大嫌いになりました。
彼女は、自分で頑張らなければ、努力しなければと思い、必死になって勉強し、大学を卒業して大きな会社に入り、いわゆるキャリアウーマンになったのです。十年間苦労した結果、会社の中で中心的存在になりました。彼女だったら大丈夫、何でも任せられると。同じ会社に勤めていた男性と結婚し、妊娠したときは、彼女は大喜びしたのです。母親になる!と。子どもは生まれましたが、健康な子どもではなかったのです。そのとき彼女が思ったことは、どうしたらうまく、生まれたばかりのこの子と一緒に死ぬことができるのかということでした。
そういう気持ちで、集会に来たのです。ちょうどそのとき、集会のカレンダーの見本が出来、印刷される前だったので、私だけが見本を持っていたのです。初めのページを彼女に見せました。「私はうしろのものを忘れ、目標を目ざして一心に走っている」という表紙を見せたのです。すると、彼女は急に、後ろ向きの生活はしたくないと言いました。(それなら問題ありません。)
そして彼女は、イエス様に頼るようになり、信じるようになりました。子どもは相変わらず病気です。学校に行くことはできないでしょう。死ぬまで面倒を見なくてはいけないでしょう。けれども、彼女は喜んでいます。「あの子のおかげで、私はイエス様を知るようになり、幸せです」と言えたのです。結局、彼女も、「やはり、大切なことは過去のことではありません。今からです」と。

ですから、イエス様が紹介されるとき、いつも「よろこびの集い」になるのではないでしょうか。彼女は、私も完全ではない。傲慢になってしまったし、自分の力にだけ頼るようになってしまった。悔い改めなければ心が満たされないと確信したのです。

 確かに、人間はみな、変えられなければなりません。即ち、人間はあらゆる束縛から、
あらゆる孤独から、あらゆるみじめさから解放されなければなりません。けれど、人間は
いくら努力しても相変わらずみじめで、寂しくて、束縛されています。
そのような人間を変えるために、イエス様が来られました。

 初めに司会の兄弟のお読みになりました箇所は、クリスマスの頃によく読む箇所かもしれませんが、毎日考えるべき箇所です。
コリント人への手紙・第二 8章9節

 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

富む者となるために必要なことは、貧しくなることです。へりくだることです。自分の無力さ、みじめさ、貧しさを素直に認めることです。

 主はどのような考えを持つお方なのでしょうか。イザヤは、次のように記しました。
イザヤ書 57章15節後半

「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」

前に読みました、エルサレムの宮に上った取税人はこの事実を体験したのです。へりくだることこそがすべてです。へりくだるということは、イエス様の前における憐れな乞食のような者となり、心砕かれた者となることです。そして、イエス様の光によって、自分のみじめさと、むなしさを知るようになった者です。また、自分には主のみこころにかなったものが一つもないことを、本当に知ることです。

 ダビデは、どうしてみこころにかなう人になったのでしょうか。へりくだったからです。
 パウロも、どうしてあれほど用いられたのでしょうか。へりくだったからです。彼は、
確かに特別な使命を持っていたのです。その意味で特別な使命を持つ人間は、こんにちは
いません。必要ないからです。新しい使徒たちは必要ありません。聖書が与えられているからです。

 パウロは、確かに特別に選ばれた者でした。パウロは、ほかの使徒たちは自分よりもずっと偉い、なぜなら三年半イエス様と一緒に生活することができたからと思っていたことでしょう。一緒に生活すると、やはりお互いのことをよく知るようになるからです。三年半の間、イエス様と一緒に生活することとは、素晴らしい特権だったのです。
 弟子たちは、イエス様を見つめたとき、いつも疑問符をつけたでしょう。いったいどういうお方なのだろうかと。イエス様はいつもへりくだっておられたのです。わがままな弟子たちに仕えるお方でした。

 パウロは、肉眼でイエス様を見たかどうかはわかりません。イエス様と直接、親しく交わったことはありませんでした。(ほかの聖書学者のように。例えばニコデモのように。)
けれども、パウロは、後に特別な使命を与えられたとき、自分とほかの使徒たちとを比較したのです。彼の結論はどういう結論であったかと言いますと、
コリント人への手紙・第一 15章9節前半

 私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。

「まずペテロでしょう。それからヨハネです。ヤコブでしょう、マタイでしょう…」と。
「一番下が私」。どうして一番下なのかと言いますと、
コリント人への手紙・第一 15章9節後半

 なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。

結局、過去のことが忘れられなかったのです。けれども、彼にとってそれは恵みでした。もし、彼が命がけでイエス様を信じる者を迫害しなかったなら、宗教家としては成功したでしょう。立派な大先生にもなったでしょう。

 パウロは、また自分とほかの兄弟姉妹とを比較したことがあるのです。彼の判断はもちろん間違っていると思いますが、本気になって次のように思ったのです。
エペソ人への手紙 3章8節

 すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、…

と。結局、「兄弟姉妹の中で私は一番小さな者です」という結論でした。

 パウロは、何十年間かイエス様に仕え、そして約七年間イエス様のゆえに刑務所の中で過ごし、やがて殉教の死を遂げる前に、愛弟子であるテモテに書いた手紙です。
テモテへの手紙・第一 1章15節

「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

「一番ひどいのは私です」。結局、「へりくだると豊かになる」とはっきり言えます。

 昔の預言者たちとは、主の使いとして、主のお考えや、主のみこころを明らかにした人たちだったのです。
イザヤという預言者は、次のように書いたのです。
イザヤ書 61章1節

 神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。

 主は貧しい人たちを捜し求めておいでになります。
イザヤ書 66章2節

「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」

みこころにかなうダビデも経験しましたので、次のように証ししました。詩篇の51篇、
先週ご一緒に読みました箇所です。
詩篇 51篇17節

 神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。

これも、一つの教えというよりも、ダビデの体験でした。

主を信じない人たちは、誇って自分勝手な道を歩もうとします。実際、救いにあずかっていない人たちは、乞食よりも貧しい者ではないでしょうか。従って、心貧しき者となることこそが、最も大切です。即ち、イエス様の霊によって自分の本当の姿を知り、恐れおののいて、自分からは何も期待することができない人となることが大切です。

 へりくだることとは、自分が強く、偉大な富んだ者ではなく、本当にみじめで、あわれ
な存在にすぎないということを認めることです。このことを本当に知る人たちだけが、思うところのすべてを超えて豊かに施すことのおできになる主イエス様のみもとに行くようになります。
 おごり高ぶる者、本当に心砕かれていない者は、約束も望みもありません。呪いのもと
に置かれます。

 前に読みました、コリント第二の手紙8章9節に、「イエス様は貧しくなられた」と書い
てあります。(もちろん、私たちのために貧しくなられたのです。)
 このイエス様とは、全宇宙を創造されたお方です。目に見える世界だけではなく、目に
見えない世界も、主イエス様によって、材料がなくても無から造られたと聖書は言っています。
 このイエス様とは、永遠から生きておられるお方です。初めもない、終わりもないお方です。
 このイエス様とは、全人類、私たち一人一人を救うために、三十三年間この地上に人となって住まわれ、ご自身の自由意思をもって貧しくなられたと聖書は言っています。

 いったい「イエス様の貧しさ」とはどういうことなのでしょうか。イエス様の貧しさとは、父なる神に対して、全くのご依存をお選びになったことなのです。「わたしは父から離れたらおしまい」とイエス様は、み父とご自分が一体であられるということを、ご自分で決めてくださったのです。 

イエス様は、み父からお聞きになったことばだけを語られ、み父が行なわれたことだけを行なわれました。イエス様は、決してご自分で勝手になさることはなかったのです。
み父に全く拠り頼んでおられました。いつもみ父のみこころに服従なさったのは、イエス様です。死の前だけではなく、イエス様はずっと毎日同じ態度をお取りになられました。即ち、「わたしの思いではなく、あなたの思いがなるように」。

 私たちはイエス様のことがピンと来ません。理解できません。つかめません。わかりません。私たち人間とは全く違うからです。

 このイエス様は、もちろん私たちの永遠の幸せ、私たちの救いを願っておられるお方で
あるだけではなく、私たちがこのイエス様に似た者となることも主のご計画です。
 イエス様の御姿に変えられるためには、ある程度知識にあずかる必要があるのではないかと思います。もちろん頭の知識ではありません。まことの知識とは、決して頭の知識と関係のないものです。

 では、聖書が要求している知識の内容とは、いったいどういうものなのでしょうか。
二つです。
1.私たちの生まれながらの罪の性質は決して直らない、ということを知らなければなりません。
 これを知っている人は、自分ですることはできない。主に拠り頼まなければ何もすることができないということを知っているのです。私たちは、罪を赦され、主から義と認められるために、自分で何もすることができませんでした。ただ一方的なあわれみによって、主のものとなり、義と認めていただきました。

2.私たちがきよめられていくのも、自分の行ないではありません。
 このことも知らなければわざわいです。このことを本当の知識として知っている人は、
自らを自らきよめようと努力することをやめ、ただ復活なさった主イエス様に自らをおゆ
だねするはずです。「私の思いではなく、みこころだけがなるように」と。

 けれど問題は、どのようにしてこのような知識に至るのかということです。それは、イエス様と同じみ姿に変えられていくことによってのみできるのです。けれど、イエス様の霊は、イエス様と同じ姿に私たちを変えるみわざを、「悩み」を通してのみ行なわれます。悩みと戦いの真っ只中にあって初めて、イエス様と同じみ姿に変えられていくのです。

 人間的な目で見るならば、イエス様は私たちを全く望みのない状態に導いてくださいます。いったいどうしてでしょうか。それは、私たちが、私たちの生まれながらの罪の性質が絶対に良くならないものであるということを、本当の知識として知っているかどうか、
また、私たちはきよきに至ることについて全く無力であるということ、つまりまことの知識が単なる教えであるか、私たちのいのちとなっているか、これらを試し見るために、主は悩みのうちに私たちを導いてくださいます。
 イエス様が集会全体を通して現わされていかなければなりません。これこそが、主のご計画です。そして、信じる者が悩み、苦しみ、押しつぶされているのは、主のご計画です。その苦しみによって、兄弟姉妹のうちにイエス様のみ姿がかたち造られて行きつつあるのです。イエス様に変えられることこそが主の導きの目的ですから、すぐに祈りに応え、悩みから解放されるということをなさらないのです。

 前に話しましたように、イエス様は全宇宙を創造されたお方です。けれどもイエス様はたたかれ、鞭打たれ、唾せられ、侮られました。もしイエス様が事を成そうと思われたなら、それらの人たちは、イエス様の一言でこの地上から抹殺されたはずです。たちどころに滅んでしまったはずです。けれども、イエス様は耐え忍んですべてを負われ、自ら悩みをよしとされ、両手、両足に釘を打たれ、十字架の上で、「お前は人を救ったのに、自分を救うことができないのか」と罵られたのです。イエス様がもし何かをなさろうと思えば、イエス様のために、十二の天の軍団が控えていましたから、イエス様の一言でイエス様を救うためにやって来たでしょう。けれど、イエス様はそうなさいませんでした。

 イエス様は、柔和で心へりくだったお方です。私たちは、このような主と同じみ姿に変えられていきたいものです。
 イエス様は、透き通った人格の持ち主でした。極みまでご真実なお方でした。偽善を知らないお方でした。また、二心を持たなかったお方です。イエス様は、向こうに行ってあのように言い、こっちに行って都合のよいことを言うようなお方ではありませんでした。
私たちは、この主イエス様のみ姿に変えられなければなりません。
 イエス様は、はっきりとした目的を持ったお方でした。またイエス様は祈りの人でした。
勇気の人でした。柔和で心へりくだったお方でした。平安、平和、喜びのお方でした。

 このみ姿に私たちも変えられていきたいものです。これに至る道とは、主の歩まれたように歩む道です。悩み多き道、誤解に満ちた道、またそれは、あざけりに満ちた道です。

私たちは、静かにイエス様によって吟味していただくことが必要なのではないでしょうか。イエス様が私たちに語ってくださり、妨げとなっているものを全て明らかに示してくださいますように。

前に言いましたように、ダビデは祈りました。
詩篇 139篇23節、24節

 神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。

「私の心」とは、「私の心の奥底」です。

 旧約時代の預言者たちのメッセージとは、いつも同じものでした。つまり「私たちの道を尋ね調べ、主のみもとに立ち返ろう」と。主は、待っておられます。

 どうして主のみもとに立ち返らなくてはいけないのでしょうか。なぜなら、信じる者も
知らないうちに間違った方向に進む可能性があるからです。戻らなければならないからです。どうしてでしょうか。知らないうちに主から離れてしまうからです。このことを認識
できることが、非常に謙遜なことなのです。そして、示された債務を告白することは、非常に大切な、また必要なことです。そういう実例はご存知でしょう。聖書の中に沢山あります。

*一人は、サムソンという男でした。
彼は、いうまでもなく、主によって選ばれた民に属していました。主を信じていた人で
した。そして、長い間主の御手にあり、用いられた器でした。士師記16章を読むとわかります。彼の抑えがたい情熱によって、主の霊が彼から去ってしまったのです。イスラエルの敵は、サムソンをあざ笑いました。というのは、彼は主の霊なしには、力のない者、望みのない者になってしまったからです。何という悲劇でしょう。

*それから、今日たびたび引用したダビデです。
主のみこころにかなう男は、ただ単に、イスラエルの民に属していた者というだけではなく、選ばれた指導者、王様でした。サムエル第二の11章を見ると、この王様は、バテ・シェバという女性と姦淫の罪を犯し、ナタンという預言者に指摘されて、自分自身を主の光の中に見ることができ、次のように告白せざるを得なかったのです。「その姦淫をした男は私です」。ここにも大きな悲劇があります。

*旧約聖書の中で、最も用いられた預言者はエリヤでした。
彼も、主に選ばれ遣わされたしもべでした。誰も恐れないで、主の力の現われそのものでしたが、あるとき、彼は落胆して荒野に引き退き、主に自分のいのちを奪ってほしいと真剣に祈りました。「もう死にたい!」と。列王記第一の19章を見るとわかります。彼は全く失望と落胆に打ちのめされてしまいました。そのことに対して、悪魔はどのように勝ち誇ったのでしょうか。

*もう一人の預言者イザヤは、自分自身を主の光の中に見るようになったのです。
彼は、自分の不潔さ不純さに驚き、次のように叫ばなくてはならなかったのです。「ああ、私はわざわいだ。私はもう駄目だ」と彼は自分の障害物を認識し、告白したのです。

*イエス様の弟子たちのことを考えても、同じことが言えます。
最後の晩餐のとき、イエス様は彼らに言われました。「今晩あなたがたのうち一人が、わたしを裏切ります」。すると、一人の例外もなく、全ての弟子たちは驚いて尋ねました。
「主よ。それは私でしょうか」。

私たちも、「主よ。それは私でしょうか」と問うべきです。「私はあなたを悲しませたの
でしょうか。隠れたところにある障害物を私にお示しになってください。私の障害物を認
める恵みをお与えになってください」。
弟子の一人であるペテロが、自分の恐るべき絶望的状態を認めるようになったことが、ルカ伝22章を見るとわかります。「彼は、外に出て激しく泣いた」と記されています。

これら特別に主によって選ばれたしもべたちは、確かに失敗したのです。けれど彼らはみな、立ち返りました。光の中に出ることをしたのです。「すべての偽善的な行為をやめないと祝福がない」と彼らはわかったのです。
ですから、私たちも、
サムソンのように、力のない、望みのない、助けのないあらゆる状態から脱出すべきです。
ダビデのように、あらゆる偽善と姦淫から脱出すべきです。
エリヤのように、あらゆる無気力さと失望、落胆から脱出すべきです。
イザヤのように、あらゆる盲目の状態と不純から脱出すべきです。
また、ペテロのように、あらゆる思い高ぶりと傲慢から脱出すべきです。
 
 聖書の記録とは、素晴らしいものです。もし聖書が単なる人間の書いたものだったら、
このような失敗について何も書いていないはずです。神のことばだからこそ記されているのです。サムソン、ダビデ、エリヤ、イザヤ、ペテロは、自分のわがままと罪過を認め、主に告白し主のみもとに立ち返ったあと、全く回復されただけではなく、前よりもずっと用いられるようになったのです。

 こんにち、大きな問題の一つは何であるかと言いますと、十字架のないキリスト教が宣
伝されているということです。いかなる努力、いかなる熱心さ、いかなる聖書的信仰も、
私たちが十字架、或いは、十字架につけられることを恐れるとき、すべて不十分なものと
なっています。
 イエス様の苦しみにあずかることなしには、成長も、実を結ぶこともありません。日々
打ち砕かれることなしには、私たちの自我は主の働きの妨げとなります。打ち砕かれたあとで初めて、主がお用いになります。

 このことについて、聖書の中で実例が沢山あります。例えば、
*ギデオンとともにいた三百人の兵士たちの持っていた土の器が砕かれたとき初めて、そ
の中に入っていた松明(たいまつ)が光を放ちました。
*主は、まずご自身の前に運ばれてきたパンを裂くことによって初めて、何千人もの人たちを満腹させることがおできになりました。
*ナルドの壺もまた、高価な香りを家中に満たす前に砕かれなければならなかったのです。
*サウロが徹底的に砕かれる備えを持ったときに初めて、主は彼を用いることがおできになるようになりました。
*ヤコブもまた、腰の骨を外されて、びっこを引いて歩くようになったと聖書に記されていますが、これもまた、砕かれたあとで初めて、祝福を受けるようになったのです。

 信じる者のうちにある主イエス様のいのちは、私たちが日々主に自分の意思を意識的に
従わせることによって、砕かれることによってのみ明らかになります。自己否定は自分の
権利をささげることです。自分に拠り頼まないことです。

 イエス様の祈りが、毎日私たちの祈りとなれば祝福されます。即ち、「私の心ではなく、
あなたのみこころをなしてください」。これが、イエス様のご生涯の変わらない態度でした。ですから、イエス様から恵みの流れが、いのちの泉が、人々に分け与えられていたのです。
私たちの考え、感情、意思、すべて主のご支配のもとに置かれるとき、私たちの内からも、いのちの泉が湧き出てくるはずです。


 「貧しくなってもいいの?」という質問に対する答えは、次のものであるべきでしょう。
「イエス様。私は自らに絶望しています。自ら何もすることができません。どうかそれに
しても、私を通して、ご自身のみこころをなさしめてください」と心から祈るなら、主は、あふれるばかりの祝福を与えてくださいます。



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更新履歴


メッセージ・証し集インデックスページ

◆メッセージ(ベック兄)

※一部、テープの転換による不明部分あり

神のみことばは神のみことばである(5) 2006. 4. 18
神のみことばは神のみことばである(4) 2006. 4. 11
神のみことばは神のみことばである(3) 2006. 4. 4
神のみことばは神のみことばである(2) 2006. 3. 21
家族の救い 2006. 3. 19
神のみことばは神のみことばである(1) 2006. 3. 14
主イエスは神の子キリストである(4) 2006. 3. 7
主イエスは神の子キリストである(3) 2006. 2. 28
主イエスは神の子キリストである(2) 2006. 2. 14
主イエスは神の子キリストである(1) 2006. 2. 7
勝利の生活の秘訣 2006. 1. 24
イエス・キリストのからだ 2006. 1. 17
主の永遠からの予定 2006. 1. 10
元旦メッセージ 2006. 1. 1


2005年度のメッセージ集
2004年度のメッセージ集
2003年度のメッセージ集