わたしについて来なさい
2005.8.7(日)
ベック兄メッセージ(メモ)
引用聖句
イザヤ書 6章1節から8節
|
ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」
|
マタイの福音書 28章18節から20節
|
イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あながたとともにいます。」 |
先週と先々週、私は初めに同じみことばを引用しました。歴代誌第二の16章9節です。お読みいたします。
歴代誌・第二 16章9節
|
「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」
|
主は、用いられる器を必死になって捜しておいでになります。今読みましたイザヤとい
う預言者がとった態度をとる人たちを、捜しておいでになります。「主よ。私はここにおります。私をお遣わしになってください」。
彼は、確かに自分の罪深さ、みじめさを感じました。けれども、主がきよめてくださり、
赦してくださったことを確信したとき、本当に、「主よ。お遣わしになってください」と、
心から言えたのです。そういう人たちこそ、今日も捜し求められています。
そして今、司会の兄弟がお読みになりました二番目の箇所の19節です。
マタイの福音書 28章19節
|
「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」
|
「人々を弟子としなさい」。「弟子」とは、主に従う者です。「わたしについて来なさい」。
これこそ、今日の私たちに対する主のお呼びかけなのではないでしょうか。
イエス様は、弟子たちをお呼びになりました。マルコ伝の中で、このことについて一番細かく書かれています。その三箇所を読みます。
マルコの福音書 1章16節から20節
|
ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。また少し行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをご覧になった。彼らも舟の中で網を繕っていた。すぐに、イエスがお呼びになった。すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスについて行った。
|
マルコの福音書 2章13節から17節
|
イエスはまた湖のほとりに出て行かれた。すると群衆がみな、みもとにやって来たので、彼らに教えられた。イエスは、道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって従った。それから、イエスは、彼の家で食卓に着かれた。取税人や罪人たちも大ぜい、イエスや弟子たちといっしょに食卓に着いていた。こういう人たちが大ぜいいて、イエスに従っていたのである。パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちといっしょに食事をしておられるのを見て、イエスの弟子たちにこう言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。」イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」
|
もう一箇所です。
マルコの福音書 3章13節から15節
|
さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。
|
とあります。
新約聖書を読むとき、イエス様の呼びかけについて多くのことを知ることができます。
イエス様はどうして呼んでおいでになるのでしょうか。言うまでもなく、私たち人間が救いに預からせていただき、神の子となるためです。
マルコ伝全体が語ろうとしていることは、イエス様が、「遣わされた父のしもべ」として
特徴づけられていることです。
これに対して、最初の福音書であるマタイ伝では、「王の王」としてのイエス様が特徴
づけられています。
ルカ伝では、イエス様は、「人間」として紹介されています。
そして最後のヨハネ伝では、イエス様は、「永遠なる神であられながら、神の御子として遣わされた」ということについて書き記されています。
けれども、今読みましたマルコ伝においては、初めに述べたとおり、「父のしもべとして
のイエス様」が、同労者や弟子たちとなる人を捜し求められることが描かれています。
イエス様の同労者また弟子とは、イエス様とともに奉仕する備えのできている人のことを言います。そして、このマルコ伝では、イエス様が弟子たちに呼びかけておられることが、はっきりと描き出されています。呼びかけておられるお方とはイエス様です。
ここで記されている文章の中でもわかりますように、イエス様はいつも、まず率先して行動を起こされる方であるということがわかります。3章の13節をもう一度読みます。
マルコの福音書 3章13節
|
イエスは…、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられた…
|
とあります。
また、今読みました1章の16節、19節、2章14節に、何度も同じことばが出てき
ます。即ち、「イエスはご覧になった」と。イエス様は、ご覧になられたのです。
それから、1章の17節と20節、また2章の14節に、「イエスがお呼びになった」と、三回も書き記されています。イエス様は、ザアカイやサウロの名前をお呼びになったよう
に、弟子たちに対しても、決まった名前をお呼びになられました。
このことは、非常に重要な意味を持っています。なぜなら、「イエス様と私」、「イエス様
とあなた」というように、イエス様との一対一の関係こそ、非常に大切な関係であるから
です。
また、人間がイエス様を選んだのではなく、主イエス様が人間をお選びになり、その中に入って関わりを持ってくださったからです。
こんにちでも、人間の力によっては、また、人間の決定によっては救われることはあり
ません。イエス様が、私たちの心の目を開いてくださり、自分の本当の姿と、イエス様によって完成された救いとを、明らかに示してくださったからです。
一番知られているイエス様の呼びかけとは、マタイ伝11章の28節でしょう。
マタイの福音書 11章28節
|
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
|
「疲れた人」とは、もちろん、精神的に疲れた人です。
どうしようもない者のために、助けを求めている人たちのために、絶望している人たち
のために、イエス様が人となられて、天からお降りになられたのです。悔い改めと信仰を通して、イエス様の現実と救いが明らかになります。
けれども、悔い改めと信仰は、決して人間の側から生まれてくるものではなく、正に、上から与えられる賜物です。ですから、信じる者とは、この贈り物を喜んで受け取った人たちであると言えます。私たちは、もうすでにこの賜物を受けたのでしょうか。それとも、まだ受けていないのでしょうか。
人生にとって一番必要なことは、いったい何でしょう。
一番大切なことは、もちろん救われることです。聖書は、「神の子となることです」と。
多くの人たちは、人間はみな神の子であると言いますが、それは嘘です。みな神の被造物です。神の被造物でありながらも、わがままのかたまりである人間にとり、神の子になることこそ、まことの救いとなるのです。
そのために、何が必要でしょうか。
第一に、自分は救われなければならないという必要を知ることです。
第二に、自分の努力は全くむなしいということを認めることです。つまり、自分も他人
も、決して自分自身を救うことはできないということです。すべて人間的な努力は見込みがなく、望みなきものです。
聖書が言っている「救い」とは、「罪の問題の解決」です。人間のわがままのゆえに、主
なる神の怒りのもとにある人間が、主との平和をいただき、債務が支払われ、罪が赦され、永遠のいのちを持つと聖書は言っています。
けれどもこれは、人間や宗教によってではなく、主イエス様によってのみ与えられます。
なぜなら、イエス様は、人間の罪に対する神のさばきの的になられ、ご自身の聖く尊い血
によって債務を支払い、罪を赦してくださった方であるからです。この真理の事実を心で受け入れ信じる者は、主なる神との平和、罪の赦し、永遠のいのちを持つことができるのです。
すべての人間は、自分の力で罪の問題を解決することができないため、どうしても、主イエス様を必要とします。
「主よ。私は今、罪人としてあなたのみもとにまいります。あなたが私の罪の問題を解決してくださり、私を贖ってくださったことを、心から感謝します」。
このように、イエス様に向かって祈る人は、本当に幸いです。
もう一度まとめましょう。
創造主なるまことの神の子どもとなるためには、二つのことが必要です。
1.主の言われることを認めることです。
2.主を受け入れることです。
1.主なる神は、何と言っておいでになるのでしょうか。
主は、「絶対にいやされない罪の病、それは全く改善の望みがない」と、はっきり言って
おいでになります。けれども、イエス様は、私たちの身代わりとなられ、代わりに犠牲になられたのです。そして、イエス様がなしてくださったことは、本当に十分です。
2.今話しましたように、イエス様を救い主として受け入れることです。黙示録の中で、
ヨハネの黙示録 22章17節
|
「いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。」
|
と。
一般的に、ただでもらうものは大して価値のないものでしょう。罪の赦し永遠のいのちとは、考えられないほど素晴らしいものです。お金に代えられないものであるから、ただで提供されています。
ここで、「いのちの水」とは、イエス様による救いの贈り物にほかなりません。ここに、
「ほしい者は、…受けるがよい」と記されていますが、欲しがっている者は、本当に自分
のものにすることができるのです。欲っすれば、受けるに違いありません。けれど、欲し
いと思わなければ、将来は真っ暗闇です。イエス様は、永遠のいのちを与えるために、決
して強制するようなことはなさいません。
「ほしい者は受ける」と約束されています。受ける者は持つのです。その人は、生ける唯一のまことの神との平和を得、罪の赦しを受け、主なる神の子どもとされた喜びを持ち、永遠のいのちを持つことができるのです。イエス様は、呼んでおいでになります。「おいで、わたしのところに」と。
けれども、新約聖書の中のイエス様の呼びかけは、救いの提供だけではありません。「わたしの弟子になりなさい。わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」とイエス様は当時の弟子たちに言われただけではなく、この主の呼びかけは、こんにち私たちにも当てはまる呼びかけであり、素晴らしい約束ではないでしょうか。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」。
私たちは、救われるために救われたのではありません。主に仕えるため、用いられる器となるために救われたのです。救われていることは、まだ救われていない人たちをも救い
たいという思いを持つことです。まだ救われていない人たちも救いたいという切なる思い
が欠けている場合には、その人の信仰は疑わしいものです。
主イエス様は、「重荷を下ろして救いを受け入れるように」と呼びかけておられ、そして
「ご自分に仕えるように」とも呼びかけておられるのです。
けれども、イエス様に仕えるということとは、いったいどういうことでしょうか。
それはあれこれを行なうということではなく、イエス様に従って行くこと、まずイエス様の近くにいること、ではないでしょうか。
イエス様について行くとは、自分自身を否定すること、ある意味で自分自身を捨てることを意味しているのです。
マタイ伝の16章を見ると、次のように書かれています。
マタイの福音書 16章24節、25節
|
それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」
|
「ついて来たいと思うなら」です。(来たくなければ結構です。)
「いのちを救おうと思う者はそれを失う」と記されていますが、原語を見ると、『いのち』
と書いていないのです。「たましい」と書いてあるのです。「自分のたましいを救おうと思
う」ということは、自分勝手な道を歩んで行くことを意味します。
人間に与えられているたましいとは、決して悪いものではありません。人間に与えられているたましいの働きは、まず第一に、考えることです。第二に、感じることです。第三に、欲っすることです。
従って、自分自身を否定するということは、自分の考えや感情、あるいは意思を支配さ
せないことです。それに対して、たましいを失うということは、自分自身の意思を心の座
から下ろして、主イエス様を第一の座に着けることです。これがなければ、決してイエス様に従って行くことはできません。
イエス様について行くこととは、自分自身を否定すること、自分自身を捨てることだけではなく、聖書はもっと強いことばを使っているのです。自分自身を憎むことを意味しているのです。ルカ伝の14章を見てみましょう
ルカの福音書 14章26節、27節
|
「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」
|
もちろん、これは救いと関係のないことです。自分を捨てなくても、救われたいと思う
人は救われます。悔い改めれば、罪の赦しを得ることができますし、イエス様のものとな
ります。ここで問題なのは、実を結ぶか、実を結ばないか、主に用いられるか、用いられ
ないかということです。
自分を憎むこととは、自分自身に対して信用を置かないということで、その心はどうしても必要です。自信に満ちた態度が駄目にならないと、主に従うことはできません。イエス様なしには一歩も進むことができない、というようにならなければなりません。
本当の意味で、イエス様だけがこの態度をおとりになられたのではないでしょうか。
イエス様のあかしとは、驚くべきあかしです。イエス様は何と言われたかと言いますと、「わたしは自分の力だけではどうすることもできません。父が語ってくださらなければ、父が行動してくださらなければわたしは何もできない」と。罪を知らないイエス様でさえも、このようにおっしゃったのです。イエス様の思いだけを大切にしなければ妨げになります。
けれど、自分自身を信用しないどころか、「自分自身を憎まなければわたしに従うことは
できない」とイエス様ははっきり言われたのです。
いったいどうして聖書は、「憎む」というような非常に厳しいことばを使っているのでし
ょうか。パウロの答えは明確です。
ローマ人への手紙 7章18節
|
私は、…私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。
|
どうして知るようになったのでしょうか。結局、「私はどんなに努力しても、頑張っても、クリスチャンらしい生活を送ろうと思っても、あらゆる努力の結果は失敗です。私の肉のうちに善が住んでいない、そうすると悪しかない。私は罪を犯すことしかできない者です」と彼は告白したのです。
イザヤ書の55章8節を見ると、主のお考えと、イスラエルの民、主の恵みによって救
われた人たちの考えとは全く違うとあります。
イザヤ書 55章8節、9節
|
「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。−主の御告げ。− 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」
|
ちょっとだけ違っているというのではなく、「私の考えること、私の思うことは全く駄目です。全然駄目です」。このペテロのことを考えるとわかります。マタイ伝の16章を見てみましょう。21節から23節までお読みいたします。
マタイの福音書 16章21節から23節
|
その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
|
・・・(テープ切れB面に)・・・
イエス様は、ペテロに、「下がれ。サタン」と言われたのです。ペテロがイエス様を信じ
ていたにも拘わらず、イエス様から十字架を取り除こうとしたときに、イエス様は、「サタ
ンよ。引き下がれ」と言われたのです。なぜ、そんなことになったのでしょうか。
そのとき、ペテロは本当の意味での弟子ではなかったからです。ペテロの目的と動機は確かに悪くはなかったのですが、彼が人間的に考え、人間的に行動をしたため、イエス様は、「サタンよ」と厳しいことばを発せられたのです。
すべてのことにおいて、「私の思いではなく、主のみむねが行なわれますように」という
思いを持って行動しなければなりません。自分の思いを捨て、主のみこころだけを大切に
することがどうしても必要です。マタイ伝の26章39節、42節を見ると、次のように書かれています。
マタイの福音書 26章39節
|
「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」
|
42節
|
「…どうぞみこころのとおりをなさってください。」 |
「どうかみこころが行なわれますように」。
イエス様の弟子となる、イエス様に従うこととは、毎日自分の意思と自分の思いとを、主に明け渡すことです。「自分の思いではなく、みこころだけがなるように」という態度を取る者は、本当の意味での弟子であり、実を結ぶ者です。
前の箇所によりますと、結局、自分自身を憎むということについてだけではなく、「自分の家族をも憎まなくてはならない」と確かに書かれています。自分の家族を憎むということは、本当に自分の家族を無視して、全く顧みないということを意味しているのではありません。
当たり前のことですが、私たちは一つの問題について考えると、聖書から適当に一箇所
を選んで、こう書いてあるではないかという態度を取ることは、非常に危ないことです。
何でも、聖書を通して自分勝手に解釈することができます。何があっても、「聖書全体は何
と言っているか」と思うべきです。
言うまでもなく、主は、人間一人一人の救いよりも、全家族の救いを心から願っておい
でになります。そうすると、家族を憎むこととは、いったいどういうことでしょうか。
パウロが、愛弟子であるテモテに書いた大切なことばです。
テモテへの手紙・第一 5章8節
|
もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです。
|
このことばと前のことばとは、一見全く正反対のことを言っているように見えるかもしれません。聖書ははっきりと、私たちが家族を大切にし、尊敬しなければならないと言っています。けれどそれと同時に、私たちは人間に対してよりも、主に対して、より忠実に従うべきであると、聖書ははっきり言っているのです。
主、また主のみことばを第一の座に置く者は、必ず家族を大切にしています。けれど、
家族を第一の座に置く者は、結局、主をのけ者にするのです。
イエス様は、次のように言われました。マタイ伝の10章34節からお読みいたします。
マタイの福音書 10章34節から38節
|
「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」
|
その人が救われないのではありません。それは全く別です。けれども、「用いられる器、
わたしに従う弟子となることができません」。「家族が救われることを望む者は、一度家族
を捨てるべきである」と聖書は言っています。甘い態度と妥協によっては、救いが成就し
ません。もしあなたが家族の救いを真剣に望むなら、百パーセント主の側に立たなければ
なりません。
即ち、イエス様に従うということは、自分自身、及び家族を否定し、憎み、主イエス様
を第一にすることになります。妥協のない態度を取るなら、主はあふれるばかりの祝福を与えてくださり、家族も約束どおりに導かれ、救われるようになります。
あるとき、一人の刑務所の責任者は、刑務所に入っている人たちの前にひざまずいて、
質問したのです。
使徒の働き 16章30節
|
「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」 |
彼は、自分は救われていないことがわかりました。彼はそのとき、おそらく自分のこと
しか考えていませんでした。「私は…」。「家族」と考えていなかったでしょう。けれども、
答えは、素晴らしい答えでした。
使徒の働き 16章31節
|
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」
|
このみことばを初めて信じたのは彼でしょう。二、三時間以内に、家族はみな悔い改め、
イエス様を信じ受け入れて、与えられた救いを証しするために水のバプテスマを受けたのです。イエス様はおできになります。
多くの人たちは、「子どもか、主人か…」。あきらめている人たちは沢山います。これは罪です。何でもおできになるイエス様が約束してくださいましたから、祈り続けましょう。多くの人たちは祈ります。けれど、祈り続ける人は少ないのではないでしょうか。
本当に、聖書の中で、最も素晴らしい約束の一つでしょう。「主イエスを信じなさい」。
「イエス様を理解しなさい」ではありません。イエス様のことを理解している人間はいま
せん。ただ、「信じなさい」。「みことばに頼りなさい」。
そうするとまことの救いが与えられるようになり、だれもが人間をとる漁師になります。
|