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メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


女弟子であるタビタ
   
2005.8.14(日)
西軽井沢国際福音センターにて
ベック兄メッセージ(メモ)

 
引用聖句
使徒の働き 9章36節から42節
 ヨッパにタビタ(ギリシヤ語に訳せば、ドルカス)という女の弟子がいた。この女
は、多くの良いわざと施しをしていた。ところが、そのころ彼女は病気になって死に、人々はその遺体を洗って、屋上の間に置いた。ルダはヨッパに近かったので、弟子たちは、ペテロがそこにいると聞いて、人をふたり彼のところへ送って、「すぐに来てください。」と頼んだ。そこでペテロは立って、いっしょに出かけた。ペテロが到着すると、彼らは屋上の間に案内した。やもめたちはみな泣きながら、彼のそばに来て、ドルカスがいっしょにいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せるのであった。ペテロはみなの者を外に出し、ひざまずいて祈った。そしてその遺体のほうを向いて、「タビタ。起きなさい。」と言った。すると彼女は目をあけ、ペテロを見て起き上がった。そこで、ペテロは手を貸して彼女を立たせた。そして聖徒たちとやもめたちとを呼んで、生きている彼女を見せた。このことがヨッパ中に知れ渡り、多くの人々が主を信じた。


先週と先々週だけではなく、昨夜もどなたか洗礼式で、このみことばを読んでくださいました。
歴代誌・第二 16章9節前半

 主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。

意味は、主は信じる者の中で、主だけを大切にしたいと望む人々を必死になって捜し求
めておられるということです。主は私たちの分裂していない単純な心、主に向かって単一
な心を求めておられるのです。救われることは、確かに考えられないほどすばらしいこと
です。けれどもそれだけでは十分でありません。主は救われた人たちを用いようと望んでおられます。

今日は、今読んでいただきました個所の、「女弟子であるタビタ」について少し考えたいと思います。彼女のような心構えを持つようになれば、本当に幸せではないでしょうか。なぜなら信じてもみな、このような態度を取っていないのではないでしょうか。
 残念ですけれど、確かにある兄弟姉妹は、自分、自分、自分のことを考えています。自分のために生活をして、自分自身を実現しようと望みます。
ある兄弟姉妹は、イエス様のために生きたいと心から望んでいます。イエス様に喜ばれたい、イエス様だけが盛んになり、自分はそんなに大切ではないと思う兄弟姉妹もいます。主が中心になっていただきたいと望む人々は、大切にされていないかもしれません。けれども主によって大いに祝福されます。
 また、ある兄弟姉妹は、本当にイエス様にのみすべての栄光を帰していきたいと望んでいます。ある兄弟姉妹は、つまずきを与え、分裂を起こす者になっています。
ある兄弟姉妹は、命懸けで集会全体のことを考えて祈り続けます。祈りの中で戦います。ある兄弟姉妹は、救われていても暗やみの中にいるので、結局自分のことしか考えられないのです。
 
大切なことは、ダビデのような祈りをささげることなのではないでしょうか。彼は詩篇139篇の中で祈ったのです。
詩篇 139篇23節

「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。」

私たちは、大きな悩みをいただいて、自らのうちを主の光によって照らし、試していただく必要があります。主の光に照らされると、確かにだれでも小さくなります。顔を上げられなくなります。どうしたらよいかとしか考えられないからではないでしょうか。

 夏の間、何回も納骨式や記念会が持たれました。「彼らの生活の結末をよく見てその信仰にならいなさい」と。
タビタの場合もそうすべきなのではないでしょうか。「彼女の生活の結末をよく見て、彼女の信仰にならいなさい」と。今読みました42節の中で、「多くの人々が主を信じた」ということは、彼女の信仰生活の結末の実ではないでしょうか。
 
私たちは、このタビタについて学ぼうと思っても、たくさんのことを話すことができません。この個所しか彼女について書き記されていないからです。
彼女は、ヨッパというところに住んでいました。このヨッパという町は地中海の近くにある町です。彼女の生い立ち、歳、家族について、その他いろいろな状況について、何にもわかりません。彼女の口から出たことばは、ひとことも記されていません。(タビタの話を、誰かテープに吹き込んでいたならよかったのですけれども、それもないのです。)彼女の証しはどういうものであったかも、はっきり知ることができません。
けれど、大切なことが私たちにはわかります。彼女は救われていて、生けるまことの神の子どもとなっただけでなく、彼女はイエス様の女弟子になったのです。このことは、その当時、非常に大切だったばかりではなく、今日でも非常に大切です。

私たちはひとりひとりがイエス様を体験的に知り、従って行こうとしているのでしょうか。イエス様を持っている者はすべてを持っており、イエス様を持っていない者は何にも持っていないのです。

数年前のことですが、ドイツのある大きな会社の社長の息子がいました。彼は、自分の欲しいものを全部持つようになったのです。何でも手に入れることができたのです。人間的に考えれば恵まれた男でした。けれど彼は、「人生は無意味である」という意味の遺書を残して自殺してしまったのです。このように、イエス様がともにいてくださらなければ、人生は本当に意味のないものです。

 何が人間に欠けているのでしょうか。何が人間を満たしてくれるのでしょうか。それは
決して、金でも健康でも立派な教養でも名誉でも力でもありません。それらのものはせい
ぜい生きている僅かな期間だけ通用するかもしれません。けれど、実際には永遠なるものが一番大切なのです。イエス様だけが、私たちの人生を意味あらしめ、価値あるものとするのです。

これこそがタビタという女性の経験でした。すべて目に見える外面的なこの世のものは、
決して彼女の飢え渇きを満たさなかったのです。なぜか彼女は重荷を感じていました。心の平安が欠けていたのです。けれどあるとき、ヨッパで、彼女は今まで聞いたこともないすばらしい福音(良いニュース)に接することができました。おそらく、ペテロが彼女に福音を宣べ伝え、イエス様を紹介したのでしょう。そのとき彼女は生まれて初めてイエス様のことについて、即ち処女生誕、数え切れないほどのいやしの奇蹟、罪なき者の苦しみと死、さらに復活と昇天のことについて聞いたのです。
このイエス様に、タビタは完全な信頼を置いたのです。彼女は、イエス様こそこの世の
救い主であり、彼女の救い主であるということを信じました。彼女は、このような霊的な体験をしたことのしるしとして、水のバプテスマを受けたでしょう。

彼女は水のバプテスマを受けたとき、次のように告白したのではないでしょうか。
「今までの私の人生には、目的も望みも、本当の喜びもなかった。けれどイエス様は私の債務を支払ってくださり、罪を赦してくださったので、まったく新しいいのちが与えられました」と。
 まったく新しい喜びと平安が、彼女の心を満たし、彼女はイエス様を心の底から敬愛し
たのです。イエス様が大好きになったのです。彼女と同じように、イエス様に対して心の
扉を開く者は本当に幸いです。

私たちの人生にとっていったい何が必要なのでしょうか。
一番大切なことは、タビタように救われること。神の子どもとなることです。
そのためには何が必要なのでしょう。
1.自分が救われなければならないという必要性を感じることです。救われるためにどう
 したらいいのかと問うことです。
2.人間的な努力はむなしいということを知ることです。 即ち、自分も他人も、決して自分自身を救うことができないということを認めることです。すべて人間的な努力は見込みなく、望みなきものです。

聖書が言っている「救い」とは、いうまでもなく、罪の問題の解決です。罪のゆえに、
聖なる、父なる神の怒りのもとにある人間が、主との平和を持ち、債務が支払われ、罪は赦され、永遠のいのちを持つと聖書は言っています。けれど、これは人間や人間によって作られた宗教によっては得られません。

イエス様は罪に対する聖なる神の裁きの的になられ、ご自身の聖い、尊い血潮によって債務を支払われ、罪を赦してくださるお方です。この真理を心で受け入れ信じる者は、神ご自身の平和を自分のものにすることができ、罪の赦しを得ることができ、永遠のいのちを持つ者となります。

「イエス様。あなたは私のために死んでくださり、尊い代価を払って、私を買い取ってくださいました。そのようにして救われた私は、あなたのためにいったい何をしたらよいのでしょうか」とタビタは思ったでしょう。
 祈りの結果として、彼女の目には、そのとき突然苦しんでいる周りの人々、やもめたちの姿が突然見えるようになったのです。 そして、彼女たちにイエス様のことを宣べ伝えることこそ、イエス様を紹介することこそが、自分の使命であることに気がついたのです。
そこで、彼女はやもめたちのために自分の財産を売って、いろいろなものを買い与え、布で衣服を縫ったりして、イエス様に仕えたのです。マタイ伝に次のように書かれています。
マタイの福音書 25章40節

 わたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。

つまり彼女の願いは、やもめたちから感謝されることではなく、イエス様に仕えること
でした。彼女は、人間を喜ばせようと思わなかったのです。一生懸命働いて、頑張って、犠牲を払って、感謝されればまだいいのです。けれど逆のことになれば……。
ですから、人間ではなく主に仕えたい。そういう心構えをどうしても持つ必要があります。このタビタという婦人は、数々の良い働きや施しをしていたと書いてあります。いうまでもなく、救われるためではありません。救われてからイエス様に対する愛の表われとして、そうせざるを得なかったのです。

彼女は愛に満ち、他の人のために、(正しく言えばイエス様のために、)自分自身を無にした人でした。けれどあるとき、病気のために彼女は死にました。もちろん主が召してくださったからです。 集まった人たちは彼女のために涙を流し、いつまでも泣いていました。葬儀は何日間もかかったようです。
どうして多くの人が悲しんだかと言いますと、それはタビタが物質的にいろいろと作っ
てくれたからではなく、自分たちを一番理解し愛してくれたからです。タビタのところに行くと話すことができる。何も隠さなくてもいい。彼女はいっしょに悩む人、いっしょに祈る人だと多くの人たちがわかったのです。悩みや苦しみのある者はみんな彼女のところに行ってすべてを打ち明けると、彼女はそれをよく理解してくれたのです。彼女は心から人を愛し、人のために配慮したのです。 彼女は、彼らにもイエス様のことを話し、それによって多くの人々が導かれたのです。イエス様こそ彼女の賛美にほかならなかったのです。 けれども、今や彼女は死んで静かに横たわっています。そのため人々は気が転倒してしまい、どうしてよいかわからなくなってしまったのです。ところがそのとき突然、尊敬すべき人が現われました。それこそほかならぬペテロでした。やもめたちはみな、ペテロの側にやって来て、タビタが生前作ったものを泣きながら見せるのでした。彼の心は非常に感動したでしょう。

ペテロは、主が何を考えておられるのか、主のみこころは何であるか、はっきりと知り
たかったので、まわりの人々に、外に出て欲しいと頼みました。おそらく、祈りながら、主の前に黙しながら、彼は自分が過去に経験したことを思い出したのではないでしょうか。
・それはカペナウムという町で起こったことでした。十二歳の少女が死に、すべての者が大声で泣き叫びました。そのとき、イエス様は、「泣くことはない。彼女は眠っているだけです」と言われたのでした。そしてイエス様は、この十二歳の少女の手を取って抱き起こし、「娘よ。起きなさい」と言われました。すると、少女は起き上がったのです。そのことは、ペテロにとって忘れられない経験だったからです。
・また、ほかのこともペテロは思い出したのではないでしょうか。それは、イエス様といっしょに、ナインという町に行ったときのことでした。葬式の行列が通ったとき、イエス様は死んだやもめの息子をよみがえらせなさったのです。弟子たちにとって考えられないことでした。
・最後に、ベタニヤのことも思い出したでしょう。そのときはラザロがすでに死んで葬られてから四日も経っていたのです。イエス様は死んだラザロの屍に向かって、「ラザロよ。出て来なさい」と言われました。するとその通りラザロは健康人として出て来たのです。
 
このような事実を思い出し、ペテロは、イエス様はここ(ヨッパ)でも、奇蹟を行なうことを望んでおられるということを確信したのです。そこでペテロはひざまずいて祈り、それから死体のほうに向いて、「タビタよ。起きなさい」と言いました。すると彼女は目を開けて起き上がったのです。
ペテロは聖徒たちを呼び入れました。驚きと崇拝と賛美と感謝が、人々の心をとらえました。そしてこのことはすぐ町中に知れ渡りました。多くの人たちは、タビタのところに飛んで来たのです。ペテロが宣べ伝えたイエス様。そしてタビタが信じたイエス様が本当に死人をよみがえらせたお方であるなら、聖書に預言された救い主に違いないと考え、多くの人々はイエス様を信じたと報告されています。

ここで一つのことがはっきりしています。即ち、タビタという婦人が、単に救われた者であって、神の子であることに満足していたなら、(つまり、主イエス様の忠実なしもべ、また弟子でなかったなら、)彼女に愛された多くの人たちが彼女のために泣き悲しんだり、ペテロを呼びに行ったりするようなことは決してなかったでしょう。もし、彼女が生きている間、自分のことばかり考え、お化粧することに夢中になったり、隣近所に出かけて、人の悪口ばかり言っていたなら、彼女が死んだとき、多くの人が彼女のために泣き悲しむようなことはなく、簡単に葬り去られ、すぐに忘れられてしまったことでしょう。

 今日の多くの問題点は、イエス様を信じる者は少なくないが、主の弟子となる者は少ないということではないでしょうか。 多くの人たちはイエス様を確かに信じます。けれど、その人たちの信仰生活は、必ずしもイエス様を証しするものではなく、むしろ恥となるようなことが少なくないのです。

イエス様の弟子とは何を意味するのでしょうか。
イエス様の望んでおられることを行なうこと。これこそ、イエス様の弟子の特徴なのです。即ち、徹頭徹尾主イエス様に従うことです。

「山上の垂訓」の中で、イエス様は次のように言われました。驚くべきことばです。
マタイの福音書 7章21節から23節

 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をしあなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

ここで、「ある者」と書いてあれば安心ですけれど、「大ぜい」、おそらく数え切れない
「大ぜい」とあります。「預言をする」こととは、みことばを宣べ伝えることです。
ちょっと考えられないイエス様の判断です。実際にイエス様に従う者こそ、イエス様の弟子なのです。イエス様に従うということは、イエス様の徹底的な支配を受けることです。したがって、イエス様の弟子は絶えず、「イエス様。私は何をしたらよいのでしょうか」と問うべきではないでしょうか。

新約聖書の中でイエス様が、「わたしに従って来なさい」と招かれたとき、それは救われるための招きではなかったのです。「わたしの弟子になりなさい」という呼びかけでした。
マタイの福音書 4章19、20節

「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」彼らはすぐに網を捨てて従った。

「二日間考えさせてください」と彼らは言わなかったのです。「すぐに」、今まで大事にしていた「網を捨てて」、イエス様に従ったのです。
マルコの福音書 2章14節後半

「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって従った。

レビのことなのです。お金、お金こそが彼にとってすべてでした。けれど彼もただちに
立ち上がって、イエス様に従いました。
ルカの福音書 5章27、28節

「わたしについて来なさい。」と言われた。するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。

外面的にイエス様に従って行くことは、今まで自分の生活の領域の中にあったものや、人を捨てることを意味しました。
マタイの福音書 19章21節

「あなたの持ち物を売り払って…わたしについて来なさい。」

アンデレとペテロは、
マルコの福音書 1章18節

 すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。

… (テープB面へ転換により不明)…

 彼はいっさいを捨てて立ち上がり、イエスに従って行ったとあります。今日のイエス様の弟子も、当時と同じようにすべてを捨ててイエス様に従う決意を常に持っていなければなりません。少なくとも、内面的なそのような態度がどうしても必要です。未信者の家族、親戚は、私たちとは別の世界に住んでいます。そこに越え難い断絶があります。ですから、みこころならば、全国を巡り歩いて、あるいは外国へまでも出かけて、主イエス様を宣べ伝えるように示される場合もあります。そのようなことが実際にしめされるかどうかは別としても、少なくともそのような備えの心構えが必要です。

イエス様の時代は、多くの人々がイエス様に従いました。福音書の中に何度も何度も、同じ表現が出てきます。「おびただしい群衆が来て、イエスに従った」と。おびただしい群衆がついて行きました。「大ぜいの群衆もイエスに押し迫りながらついて行った」と書いてあります。イエス様はこれらの群衆に対して、多くのみわざと奇蹟を行なわれました。

けれど彼らは、本当にイエス様に従って行く心の備えがまた十分にはできていなかったのです。ルカ伝9章を見ると次のように書かれています。
ルカの福音書 9章57節から62節

 さて、彼らが道を進んで行くと、ある人がイエスに言った。「私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます。」すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」イエスは別の人に、こう言われた。「わたしについて来なさい。」しかしその人は言った。「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」すると彼に言われた。「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」別の人はこう言った。「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」

「救われない」ではなく、ただ「わたしの弟子となることができない。わたしが用いることのできる器になれない」ということです。

ヨハネ伝6章60節を見ると、また次のように書かれています。
ヨハネの福音書 6章60節

 弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そ
んなことをだれが聞いておられようか。」

「弟子たち」とは、いわゆる当時の弟子たちです。それ以来、多くの弟子たちは(偽者でしたけれど)去って行って、もはやイエス様と行動をともにしなかったのでした。これらの人々は、聞くことだけで行なうことをしませんでした。
従順でない弟子は必要とされません。不従順の思いを捨てて、主のみこころだけを大切にすることがどうしても必要なのです。

マタイ伝26章。私たちの毎日ささげるべき祈りが書かれています。「マタイの受難曲」にも、このみことばが出てきます。
マタイの福音書 26章39節

 それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」

42節

 イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずに
は済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」

 主イエス様が、ご自分に従うことの重大さを弟子たちに繰り返し言われたことに間違いありません。

イエス様は次のように言われました。弟子になる条件についての個所でもあります。
ルカの福音書 14章25節から33節

 さて、大ぜいの群衆が、イエスといっしょに歩いていたが、イエスは彼らの方に向いて言われた。「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった。』と言うでしょう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。」

弟子として主イエス様に従うことは、徹底的な献身を意味し、あらゆる人間的な絆から
の分離を意味するのです。

マルコの福音書10章。よく知られている、よく読まれる個所なのですけれども、何が大切なのでしょうか。ここでは、「全部捨てなさい」とあります。主はもちろん人間の金は欲しくないのです。必要ないからです。けれども、人間が金の奴隷になれば、主に用いていただくことはできません。
マタイの福音書 10章34節から37節

「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、  平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」

マルコの福音書に、非常に似ている個所があります。
マルコの福音書 8章34節から38節

 それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。」

「わたしについて来たいと思うなら」、ついて来たくなければ結構です。主は強制なさいません。イエス様に従うことは、毎日、自分の意思、自分の思いをイエス様に明け渡すことを意味します。

イエス様は次のように言われました。
ヨハネの福音書 10章4節

「彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の
声を知っているので、彼について行きます。」

27節

「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。」

主のものであれば、どんなに愚かな羊であってもついて行くとあります。イエス様の声に聞き従わない者は、イエス様の弟子ではありません。
イエス様の声に聞き従う者は、決して道に迷うことがないのです。けれど、イエス様の声に聞き従わない者は、やみの中をさ迷い、そしていつも波のように揺れ動いて、定まることがないのです。今イエス様に従う者は、生きている間だけではなく、死んでからも、豊かな報いを受けると約束されています。
マルコ伝10章を見ると、次のように書かれています。
マルコの福音書 10章28節から30節後半

 ペテロがイエスにこう言い始めた。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。」イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。」

 倍もらってもすごいでしょう。損をしません。ここで「百倍」と書いてあるのです。
30節

「今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。」


今まで述べたことを要約してみましょう。
弟子とされることの必要不可欠な条件は、イエス様を信頼し、明け渡す献身です。

あるとき、ひとりの兄弟は次のようにおっしゃいました。「私の今年の切なる願いとは、もっともっとイエス様を信頼したい。何でも知っておられ、何でもおできになるイエス様
に、心から信頼したい」と証しなさったのです。

自分の親しい家族や友人よりもだれよりもイエス様を愛し、イエス様のためにすべてを
捨て、すべてを失う備えの出来ている者だけが、イエス様の弟子となることができるので
す。「『主よ。主よ』と呼ぶ者がイエス様の弟子なのではなく、ただ主のみこころを行なう
者だけが、本当の弟子である」と新約聖書を通してはっきり知ることができるのです。

イエス様の弟子になると、その結果、必然的に憎しみや誤解、迫害を伴なうのです。弟子は師にまさることはないと聖書に書かれているように、イエス様は「死の受難」を受けられたわけですけれど、主の弟子とされた者も、迫害を受けたり憎まれたりするぐらいのことは当然であると言えましょう。

けれどもイエス様は言われました。「しあわせだよ。さいわいだよ」と。
マタイの福音書 5章11節

「わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。」

ペテロも、当時の迫害された兄弟姉妹を励ますために書いたのです。
ペテロの手紙・第一 4章14節

 もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、
栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。

主イエス様の弟子は、あれこれと思い煩う必要はありません。イエス様ご自身がすべて
良いように配慮してくださるからです。

同じく「山上の垂訓」の中で、マタイの福音書6章の中で、次のように書かれています。
だれでも理解できる個所です。何ごとも主にゆだねれば良いのではないでしょうか。
マタイの福音書 6章25節から34節

「だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」

「異邦人」とは、主を知らない人たちのことです。主イエス様の弟子は、祈りにおいて自由と権威を持っています。

ヨハネの福音書 14章12節

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。」

14節

「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」

「イエス様の弟子は蛇のように賢く、鳩のように素直であれ」とイエス様は言われました。

マタイの福音書 10章16節

「いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。」

今日この世が必要としているものは、主に従い行く者、即ちイエス様の弟子にほかなりません。イエス様の弟子だけが、この世の光であり、地の塩です。イエス様の弟子とは、この堕落した時代にあって、みことばをしっかりと受け止め、主の御声に聞き従う者です。


私たちはみな、神の子となる特権にあずかったのでしょうか。もしそうでないなら、今この機会が与えられていますから、どうか受け入れて信じ、主の救いのわざのために感謝してください。

私たちはみな、イエス様の弟子、主に従っている者なのでしょうか。自分の罪が赦され、
神の子とされたあとで、イエス様は、ご自分に従うこと、即ち弟子となることを望んでおられます。「わたしについて来なさい」と、イエス様は私たちにも呼びかけておられます。

私たちは今までと同じように、自己決定と自己支配とをこれからも続けていきたいのか、それとも、献身と本当の自由との新しい人生を始めたいのでしょうか。

すべては、私たちが、新しい人生と証しによって、「ほかの人たちが、自由になり、本当にイエス様を信じるようになることを望むか否か」の決断にかかっています。

タビタによって、多くの人たちがイエス様を信じるようになり、救われたのです。
いったいどうしてなのでしょうか。彼女はイエスの弟子であったからです。



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メッセージ・証し集インデックスページ

◆メッセージ(ベック兄)

※一部、テープの転換による不明部分あり

神のみことばは神のみことばである(5) 2006. 4. 18
神のみことばは神のみことばである(4) 2006. 4. 11
神のみことばは神のみことばである(3) 2006. 4. 4
神のみことばは神のみことばである(2) 2006. 3. 21
家族の救い 2006. 3. 19
神のみことばは神のみことばである(1) 2006. 3. 14
主イエスは神の子キリストである(4) 2006. 3. 7
主イエスは神の子キリストである(3) 2006. 2. 28
主イエスは神の子キリストである(2) 2006. 2. 14
主イエスは神の子キリストである(1) 2006. 2. 7
勝利の生活の秘訣 2006. 1. 24
イエス・キリストのからだ 2006. 1. 17
主の永遠からの予定 2006. 1. 10
元旦メッセージ 2006. 1. 1


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