私を遣わしてください
2005.8.21(日)
ベック兄メッセージ(メモ)
引用聖句
イザヤ書 6章1節から8節
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ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。
彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」すると、私のもとに、そのセラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」
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今年の夏は、何回も同じみことばを引用しました。
歴代誌・第二 16章9節
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主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。
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主は、必死になって捜しておられるお方です。どのような人々を捜しておられるかと言いますと、聞く耳を持つ人々なのではないでしょうか。確かに聞く耳を持つ人々は、みことばに頼るようになり、「主よ。お語りください。聞いております」という態度を取るに違いないのです。
カナダのバンクーバーに、ある姉妹が住んでいます。可愛い子どもがいます。ご主人はイギリス人です。最近また別居になったのです。初めてではありません。別居していますが、ご主人は毎日帰ってきます。奥さんのためではなく犬のために。(笑)そして、子どものためにも、です。犬も大好き、子どもも大好きなのです。これでは、やはり奥さんとの戦いの連続となるのではないでしょうか。
ある時、姉妹は手紙を私にくださいました。手紙の中に四ヶ所のみことばが引用されていました。姉妹にとっては、みことばこそ大切なのです。
詩篇 19篇12節
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だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。
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姉妹は、「主人が悪い、悪い!」というよりも、詩篇の作者と同じ気持ちを持つようになりました。
「……昨日、このみことばを読んだ時、私は自分の罪の重さに涙が止まりませんでした。今までのたくさんの罪と、今日もまた犯している罪を思うと、心が重くなりました。そして、主が与えてくださった子どもたちに、自分の感情で接してしまう、こんな罪人の私と一緒にいては、真っ直ぐ主の道を歩んで行けるのかと考えたりもしました。でも、今日、テープを聞いて聖書を開いたら、心が楽になりました。すべてを主に渡して主にゆだねたからです。
出エジプト記 15章26節
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「わたしは主、あなたをいやす者である。」 |
この頃は、できるだけたくさんイエス様からの喜びをいただこうと、いつもテーブルの上に聖書を置き、座る度に開いて、みことばを食べています。(彼女は、みことばを勉強している、暗記している、分かっているのではなく、「食べている」と書かれました。)
申命記 4章7節
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まことに、私たちの神、主は、私たちが呼ばわるとき、いつも、近くにおられる。
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コリント人への手紙 第二 4章11節
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私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。 |
私は、イエス様が大好きです。……」と。
彼女は確かに、悩みながら喜ぶようになっています。みことばのおかげです。
イエス様は捜し求めておられます。呼んでおられます。イエス様の招きの言葉は二種類
です。前にも学んだように、主は、「おいで。わたしのところに来なさい」と呼んでおられます。この意味は、キリスト教に入れではありません。教会に行けでもありません。ただ、「わたしのところに来なさい。休ませてあげます」と言われるのです。
主の招きの言葉とは神の子どもとなることです。私たちはみな、神の子どもとなる特権にあずかったのでしょうか。もしそうでなければ、今その機会が与えられていますから、どうか受け入れて信じ、主の救いのみわざを感謝してください。
けれども、神の子どもとなることだけでは、十分ではないのです。イエス様は、「わたしに従いなさい。わたしの弟子となりなさい」と呼ばれました。
私たちは、自分の罪が赦され、神の子どもとされた後に、ご自分に従うこと、すなわち弟子になることを、イエス様は望んでおられます。「わたしについて来なさい」と私たちを呼ばれました。
私たちは、今までと同じように、自己決定と自己支配とをこれからも続けていきたいのでしょうか。それとも、献身と本当の自由との新しい人生を始めたいのでしょうか。
先日、私たちは一人の女性について一緒に考えてまいりました。タビタという女性についてでした。彼女は神の子どもになっただけではなく、イエス様の弟子になったと書いてあります。
イエス様の弟子の特徴は、主の望まれることを行なうことです。それから主に徹頭徹尾
聞き従うことです。主は同労者、用いられる器、を捜し求めておられます。
イザヤ書 6章5節
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「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。」
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彼が告白した罪は赦されました。告白すると、主は必ず赦してくださいます。隠すと、主は赦そうとなさいません。祝福することがおできにならないからです。
イザヤ書 6章7節から8節
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「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」
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この態度を取ると必ず用いられます。「おいで。わたしのところに来なさい」という主イエス様の呼びかけは、救いを得るため、また解放されるための呼びかけなのです。
マタイの福音書 11章28節から30節
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「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
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「すべて、精神的に疲れた人、いろいろなことで重荷を負っている人は、わたしのところにおいで」と。悩んでいる人や助けを求めている人のために、呼びかけておいでになるのです。「いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい。」受ける者は、父なる神との平和を得、罪の赦しを受け、主なる神の子どもとされた喜びを持ち、永遠のいのちをもつことができるのです。このようにイエス様は呼びかけておられ、約束しておられるのです。
その呼びかけとは、いかなるものなのでしょうか。「わたしのもとに来なさい」。
罪の赦しを得るために、神の子となるためにです。
けれども福音書を見ると、イエス様のもう一つの大切な呼びかけの目的は違うものです。
「わたしの弟子、わたしに用いられる器となりなさい」。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」と呼びかけておられるのです。すなわち、救われた兄弟姉妹は、主イエス様に用いられる器となるべきです。
イエス様に従って行くこととは、一体どういうことなのでしょうか。自分を否定すること、自分自身を捨てることなのです。それだけではなく、自分自身を憎むことでもあり、自分の家族までも憎むことを意味します。
曖昧な態度と妥協によっては救いは成就しません。主の側に立たないと、周りの人々は決して救われません。イエス様を第一にする態度、つまり妥協のない態度を取ると、主は必ず家族も知り合いの人々も救ってくださるのです。「従う」とは、すべてを捨て置くことです。
ルカの福音書 5章27節から28節
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この後、イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留めて、「わたしについて来なさい。」と言われた。するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。
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この男は、今まで「お金、お金、お金」と思っていたのです。けれども、彼は「二、三日考えさせてください」とは言わなかったのです。「何もかも捨て、立ち上がって従った」
のです。
マルコの福音書 10章28節から30節
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ペテロがイエスにこう言い始めた。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、 あなたに従ってまいりました。」イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。」
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確かに、人間の性質は損をしたくない、利益を得たいというものです。何かをして、倍も利益を上げたら、すごいことです。イエス様は、「百倍」と約束されましたから、本当にすごいですね。
イエス様に従って行くこととは、外面的に見ると自分の生活の領域の中にあったものや、人を捨てることを意味しました。
マタイの福音書 19章21節
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「あなたの持ち物を売り払って……わたしに従って来なさい。」 |
マルコの福音書 1章18節から20節
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すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。また少し行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをご覧になった。彼らも舟の中で網を繕っていた。すぐに、イエスがお呼びになった。すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスについて行った。
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アンデレとペテロは、すぐに網を捨てて、イエス様に従いました。ヤコブとヨハネは、イエス様が彼らをお招きになると、父を雇い人たちといっしょに舟に残して、イエス様のあとについて行ったとあります。また、レビ(後のマタイ)と呼ばれた男は、一切を捨てて立ち上がり、イエス様に従って行きました。
こんにちのイエス様の弟子も、当時の弟子と同じように、すべてを捨ててイエス様に従う決意を常に持っていなければなりません。少なくとも、内面的にそのような態度を取ることはどうしても必要です。もしみこころならば、全国を巡り歩いて、あるいは外国へまでも出掛けて、イエス様を宣べ伝えるようにと示される場合もあるのです。
そのようなことが実際に示されるかどうかは別としても、少なくともそのような備えのできている心構えが必要です。イエス様の弟子たちは、結局すべてを捨てました。彼らは網を捨て、自分の職業を放棄しました。彼は父親一人を残して、家族からも離れました。イエス様に従おうとする者は、すべてを捨てる覚悟のできていることが必要です。
マルコの福音書10章30節に、「迫害」という言葉が使われています。事実、イエス様に従うことは、確かに散歩ではありません。戦いです。自分の考え、自分の感情、あるいは意思を否定するということは、簡単なことではありません。
しかし注意したいことは、ここで弟子たちがすべてを捨て置いたことが、決して大きな苦しみや犠牲で終わったのではなく、むしろその百倍のものを受けることができたということです。もし、ペテロが百パーセント主に従わなかったならば、彼の姑は、絶対に癒されずに死んでしまったことでしょう。表面的には家族を捨てたように見えますが、実際には、それは反対に得る結果となったのです。得るために捨てたのです。
主のために捨てる者は、決して損をしません。今、この世においては大きな利益を受けることができ、しかも、死んでからも大いなる報いを得ると記されています。
パウロという男は、確かに多くのものを捨てたのです。けれど、得たものはすばらしかったのです。彼は次のように書きました。(御代田の別荘ではなく(笑)、)ローマの刑務所の中で、でした。
ピリピ書 3章7節から8節
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しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。
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ルカの福音書 14章33節
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「あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。」 |
絶対的な放棄こそ、イエス様に従うことの土台です。そのためには、すべてのものから
離れるという断固たる態度と決断が必要です。すべてのものを捨ててイエス様に従うと、
その結果、おのずから前よりもはるかに多くのものを得るようになるのです。
今、イエス様に従う者は、生きている間だけではなく、死んでからも豊かに報いを得るのです。
弟子とされることの必要不可欠な条件は、絶対的に主に信頼し、明け渡す献身です。したがって、自分の親しい家族や友人よりも、誰よりも、イエス様を愛し、イエス様のためにすべてを捨て、すべてを失う備えのできている者だけが、イエス様の弟子となることができるのです。
マタイの福音書 7章21節
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「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」
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「主よ、主よ。」と呼ぶ者がイエス様の弟子なのではなく、主のみこころを行なう者だけが本当の弟子であるとイエス様はよく言われたのです。イエス様の弟子となると、その結果、必然的に憎しみや迫害が伴うのです。
マタイの福音書 10章24節
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「弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。」 |
と書かれているように、イエス様は死の受難を受けられたわけですが、イエス様の弟子とされた者が迫害を受けたり、憎まれたりするぐらいのことは、当然であると言えましょう。
マタイの福音書 5章11節
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「わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。」
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ですから同情すべきではないのです。
ペテロも、当時の迫害された兄弟姉妹を励ますために書いたのです。
ペテロの手紙・第一 4章14節
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もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。 |
「キリストの名のために非難を受けるなら、しあわせである」と言っています。
「主に従う」こととは、いったいどういうことなのでしょうか。みことばにとどまることなのです。
イエス様は次のように言われました。
ヨハネの福音書 8章31節
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そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。」
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ヨハネの福音書 15章8節
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「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」
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「主に従う」ということは、多くの実を結ぶために、主のみことばにとどまるということです。主のみことばにとどまるということとは、主のみことばをそのまま神のことばそのものとして、受け取ることを意味しているのです。
聖書のみことばは、私たちにとり、実際生活及び実際問題に対しての、最高の権威を持つものです。そのように、絶対的な権威を持った者として、イエス様のみことばを認める者は、主のみことばに留まるのみならず、イエス様ご自身の内に留まっているのです。
すなわち、イエス様につながっており、より頼んでいるのです。そして、イエス様とつながってイエス様により頼んでいると、おのずから実を結ぶ結果になるのです。つまり、私たちの小さな奉仕を通して、多くの人々が導かれ、救われます。もし、そのことを通して多くの人が救われないとするならば、私たちが本当に主に従っているかどうか疑わしいと言えましょう。
イエス様の時代に、数えられないほど多くの人たちがイエス様に従いました。おびただしい群衆が来て、イエスに従ったとあります。「おびただしい群衆がついて来た、大ぜいの群衆もイエスに押し迫りながらついて来た…」とあります。
イエス様は、これらの群衆に対して、多くのみわざと多くの奇蹟を行なわれました。けれども、彼らに本当にイエス様に従って行く心の備えがまだ十分にはできていなかったのです。
ルカの福音書 9章57節から62節
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さて、彼らが道を進んで行くと、ある人がイエスに言った。「私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます。」すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」イエスは別の人に、こう言われた。「わたしについて来なさい。」しかしその人は言った。「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」すると彼に言われた。「死人たちに 彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」別の人はこう言った。「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につ けてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」
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「わたしは乞食の乞食です。何も提供できません」とイエス様は言われたのです。また、このような理由から多くの弟子たちはイエス様から離れてしまいました。イエス様の要求は彼らにとって厳しすぎたのです。結果として、多くの人は離れて行ったのです。
ヨハネの福音書 6章60節
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そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」
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66節
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こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。
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本物ではなかったからです。これらの人々は、聞くことだけで、行なうことをしなかっ
たのです。従順でない弟子はいりません。自分の思いを捨て、主のみこころだけを大切にすることがどうしても必要です。
マタイの福音書 26章39節
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それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」
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42節
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イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」
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自分の思いではなく、「みこころだけがなるように」。この態度を取る者は、自由になります。
ルカの福音書 14章25節から33節
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さて、大ぜいの群衆が、イエスといっしょに歩いていたが、イエスは彼らのほうに向いて言われた。「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった。』と言うでしょう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。」
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弟子としてイエス様に従うことは、徹底的な献身を意味し、あらゆる人間的な絆からの分離を意味するのです。イエス様の呼びかけの目的は、「わたしはあなたがたを人間をとる漁師にしよう。わたしはしてあげよう」というものです。
私たちは自分の力で人間をとる漁師にはなれず、それはすべてイエス様ご自身のなさることです。私たちは、ただイエス様に忠実に従いさえすれば、それで良いのです。あとは主ご自身がすべてを成してくださるのです。
仕える能力、仕える力は、上から与えられるものです。イエス様が弟子たちをお招きに
なられた目的は、「人間をとる漁師にすること」です。イエス様がこんにち私たち一人一人を招いておられることの目的も、もちろん同じで、「人間をとる漁師にすること」です。
例えば、自分の職業は、もちろんお金を得るためです。そして、私たちは真心から自分の仕事に従事すべきです。けれど、イエス様は、私たちがお金を得るためにだけ私たちをお救いになったのではありません。イエス様は、「わたしはあなたを証し人にしよう。人間をとる漁師にしよう」と言われました。そのことこそ、まさに主の招きそのものであり、大切なことなのです。
私たちの召命、すなわち召しは、職業よりもはるかに大切ではないでしょうか。召命を第一にする者が、職業を損なうことはありません。そして、決して損をすることはないのです。反対に、職業を第一にする者は、召命を忘れ、損をする結果になってしまうのです。
イエス様は、「わたしについて来なさい」と招いておられます。イエス様について行くということは、従順に従うことだけです。イエス様が考えておられることは、だれにでも分かるのです。主に従うことによって、すべては根本的に全く変わってしまいます。
イエス様に従うことは、毎日自分の意思と自分の思いとを主に明け渡すことを意味しているのです。
ヨハネの福音書 10章4節
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「彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。」
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27節
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「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そし
て彼らはわたしについて来ます。」 |
ついて来るべきなのだ、ではありません。事実として言われています。「わたしの羊はわたしについて来ます。わたしに従います」。
イエス様の声に聞き従わない者は、主の弟子ではありません。救われているでしょうが、
用いられる器ではないのです。
イエス様の声に聞き従う者は、決して道に迷うことがありません。けれども、イエス様の声に聞き従わない者は、やみの中をさまようのです。そして、いつも波のように揺れ動いて定まることがないのです。
イエス様は呼んでおられます。イエス様は用いようと望んでおられるのです。主の呼び
かけは、私たちに対していかなるものなのでしょうか。イエス様の呼びかけは、こんにち
私たちにとっても、当然当てはまるものです。私たちの周囲には、神なく、望みない人が大勢います。そのような人々の救いのためには、イエス様に従い、すべてを主イエス様に明け渡すという、断固たる態度が必要です。
「わたしはしてあげよう」とイエス様は言われました。イエス様は、「おいで。ついて来なさい」と言われます。そのことが、私たちをイエス様としっかりと結び付けるのです。
イエス様に従いたいと思う人は、以前の状態に留まることはできません。イエス様に従
うということは、まさに百パーセント従うことであって、そうでなければ本当に従うこと
にはならないのです。
イエス様ご自身のなさることは呼びかけることであり、私たちのすべきことは従うこと
です。「わたしは、あなたを人間をとる漁師にしてあげよう」。
イエス様は、学校において、台所において、会社において、あなたを証し人として用いようと言われます。
イエス様が、「弟子になりなさい。従う者になりなさい。人間をとる漁師になりなさい」と呼んでおられ、そしてこの呼びかけは一人一人に当てはまるものです。
イエス様について行くということは、私たちの人生に対して、主のご計画を認め、受け
ることです。イエス様の呼びかけは、直ちに従うことを要求しておられます。
そして、イエス様が私たちに呼びかけておられることの理由は、まだ救われていないたましいを救いに導くことです。
失われた者のために、全き献身が必要です。網を手にした人にとって、網そのもの自体
は悪いものではなく、むしろ必要不可欠なものです。けれど、彼らはその網をいつまでも手にしていることはせず、それを捨て置いて直ちに主に従ったのです。
彼らは網を持ち続けるか、あるいはイエス様について行くかの二者択一に迫られたのです。彼らは、イエス様との交わりは自分の職業や家族よりも大切なものであることをよく知っていました。
エゼキエル書 22章30節
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わたしがこの国を滅ぼさないように、わたしは、この国のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口を修理する者を彼らの間に捜し求めたが、見つからなかった。
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「わたしは捜し求めたが、見つからなかった」とあります。イエス様は、私たちを捜し
求め、「わたしについて来なさい。わたしは、あなたを人間をとる漁師にしてあげよう」と
呼びかけておられます。
こんにち、この世が必要としているのは、イエス様に従って行く者です。すなわち、イエス様の弟子にほかならないのです。イエス様の弟子だけが、この世の光であり、地の塩なのです。イエス様の弟子とは、この堕落した時代にあって、主のいのちのみことばをしっかりと受けとめ、主のみ声に聞き従う者です。
私たちは主の呼びかけに従い、主について行くのでしょうか。それとも、エゼキエルの時代と同じように、「主は捜し求められたが、見つからなかった」ということになるのでしょうか。
イエス様は私たち一人一人を見ておられ、呼びかけておられます。イエス様は私たちが価値ある者であるからではなく、主の恵みによって変えられる者であることをご存知であるゆえに、呼びかけておられます。
私たちは、今までと同じように生活したいのでしょうか。あるいは何があってもイエス様をよりよく知りたいと思うのでしょうか。
もし、私たちが心の底から、「弟子となしたまえ。主よ。語ってください。私を遣わしてください」という態度を取るなら、主は大いに祝福してくださるに違いありません。
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