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メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


エルサレムか、ベタニヤか
   
2005.9.18(日)
吉祥寺福音集会にて
ベック兄メッセージ(メモ)

 
引用聖句
ヨハネの福音書 11章1節から5節
 さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。 神の子がそれによって栄光を受けるためです。」イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。

21節

 マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」

32節

 マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」

35、36節

 イエスは涙を流された。そこで、ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」

43、44節

 そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」

12章1節から3節

 イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。

9節から11節

 大ぜいのユダヤ人の群れが、イエスがそこにおられることを聞いて、やって来た。それはただイエスのためだけではなく、イエスによって死人の中からよみがえったラザロを見るためでもあった。祭司長たちはラザロも殺そうと相談した。それは、彼のために多くのユダヤ人が去って行き、イエスを信じるようになったからである。

ルカの福音書 24章50節から53節

 それから、イエスは、彼らをベタニヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして祝福しながら、彼らから離れて行かれた。彼らは、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた。


今日の題名は、『エルサレムか、ベタニヤか』。違う題名をつけてもいいかもしれません。
『祈りの家か、強盗の巣か』です。イエス様にとって、エルサレムは次第に悩みの種になってしまったのです。ベタニヤは喜びの種だったに違いありません。

最後に読みましたヨハネ伝12章の1節、「ラザロがいた。」2節、「マルタは給仕していた。」3節、「マリヤはイエスの足に香油を塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。」とあります。兄弟三人揃っていたのです。そして、三人ともイエス様の喜びの種だったに違いありません。
ルカ伝24章には、イエス様が昇天なさる時、「弟子たちを祝福された」と記されています。祝福された弟子たちは非常な喜びを持つようになりました。結果として、神をほめたたえたのです。主によって祝福された人たちは、喜びに満たされますし、そして主を心から礼拝せざるを得なくなります。

エルサレムを見て、イエス様は涙を流されたと聖書は言っています。
マタイの福音書 21章13節

 そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』」と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」

当時の聖書学者たちにイエス様は言われたのです。当時のエルサレムの宮は、祈りの家
ではなく、強盗の巣になっていたのです。
マタイの福音書 23章37節

 ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。

預言者たちは神のみことばを運ぶ者でした。エルサレムの住人たち、宗教家たち、聖書学者たちは、聞く耳を持っていなかったからです。ですから彼らは預言者たちを殺したのです。「あなたがたはそれを好まなかった」、「嫌です」と。聞く耳がなかったので、イエス様は涙を流されました。

イエス様はベタニヤに行かれて、同じように、涙を流されたと確かに書いてあります。これはちょっと違う涙でした。
イエス様はどうしてベタニヤで涙を流されたかと言いますと、ともに悩んでくださるお方であるからです。そのときマルタは、ラザロの墓の前で泣いてしまいました。どうしてイエス様は早く来られなかったのか、イエス様がおられたならラザロは死ななかったのにと。イエス様は、泣いているマルタをご覧になったとき、我慢できないでいっしょに涙を流されたのです。私たちの主イエス様とは、そのようなお方です。ともに悩むお方です。どのような人であったとしても、知らん顔をなさるお方ではありません。

イエス様は、早速「ラザロよ。出て来なさい」と叫ばれました。四日間も屍は墓の中にいたのに、健康人として出て来たのです。ここで、「ラザロはいた」と書いてあるのです。それだけなのです。説教したとも証しをしたとも書いてありません。その必要がなかったからです。いることだけで十分でした。
ここで言いたいことは、エルサレムよりもベタニヤは、イエス様にとって大好きな場所でした。ですから、
マタイの福音書 21章17節

 イエスは彼らをあとに残し、都を出てベタニヤに行き、そこに泊まられた。

できるだけあの宗教家たちから離れたい、と。
ベタニヤに行くと喜ぶことがおできになったのです。ベタニヤにいるマルタたち三人は
みな、聞く耳を持っていたのです。

ちょっと忘れましたが何年か前、岡山でひとりの兄弟が、五十二歳で天に召されました。癌でした。それは、K兄弟です。次男は先にイエス様を信じ救われ、それからお母さんもお父さんも、お兄さんも、おばあさんもと次々にイエス様を信じ救われ、喜びの家になったのです。けれども、兄弟は癌になりました。
「癌だと宣告されたときから最期まで、家はいつも明るく、私たちは全然動揺することなく、主人はますます新たにされ、精神的に元気になり、全てをイエス様にお任せすることができましたので感謝でした」と、残された奥さんは証しなさったのです。
そしてK兄弟は最後に、医者にお願いされました。「先生。お願い。輸血をやめてください。もったいない。ほかの人のために使ってください。私はイエス様のところに行きますから」と。結局彼は何を言いたかったのかと言いますと、「イエス様のところへ行かせてください」でした。

昔、アブラハムの召し使いであるしもべは、似ていることを言ったことがあります。
創世記 24章56節

 しもべは彼らに、「私が遅れないようにしてください。主が私の旅を成功させてくださったのですから。私が主人のところへ行けるように私を帰らせてください。」と言った。

今話しました、K兄弟の気持ちは、そのようなものでした。「私の主であるイエス様のところに私を帰らせてください…」と。

次にベタニヤのマリヤという女性についてですが、彼女の気持ちは、「主よ。聞かせてください! あなたのお話を聞きたいのです」と。彼女の一番好きな場所はイエス様の足もとでした。イエス様の足もとに座り、みことばに聞き入っていたマリヤは、きっと元気になり、喜びに満たされたに違いありません。主のことばは、彼女の心の糧となり、心の喜びとなったのです。

宗教によって毒された人間がみな思っていることは、聖書は勉強しなくてはいけない教科書だ、という誤った考え方です。食べれば元気になります。わからなくても、書かれているから信じるという素直な態度を取るなら、みことばは最高の薬になるのではないでしょうか。イエス様の足もとに座ること、主の前に静まることこそが最も大切なのではないでしょうか。
現代人が一番必要としているものは静まることです。なぜなら多くの人の特徴は疲れであり、無力さであり、さまようことだからです。もし私たちが本当に正直になり、偽ることなく主の前に出るなら、私たちは自分が疲れ、無能力で、さまよう者であることを告白せざるを得ません。
ルカの福音書 24章50節

 それから、イエスは、彼らをベタニヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。

 
とあります。イエス様は、弟子たちをベタニヤの近くまで導かれたのです。よみがえられた主イエス様が最後になさったことは、弟子たちをベタニヤまで連れて行かれたことでした。弟子たちがイエス様とともにベタニヤに行ったとき、そこでイエス様は弟子たちを祝福され、そののち弟子たちの目の前で天に引き上げられたのです。

はっきり言えることは、イエス様が弟子たちをベタニヤに導かれたのは、よくお考えに
なった祈りの結果です。イエス様がお考えになられた末の事がらでした。イエス様はベタニヤに弟子たちを導くことによって、弟子たちに大切なことを教えようと思われたに違いありません。「さあ、ベタニヤに来ました。この地を末永く記憶にとどめなさい。このベタニヤをいつでも忘れずにいなさい」とおっしゃりながら、イエス様は弟子たちを祝福してくださったのです。

そしてベタニヤは、マルタ、マリヤとラザロの三人の家族が住んでいたところでした。イエス様は好んでこのベタニヤに来られたのです。いい町だったから、景色が良かったからではありません。三人のためでした。そこでイエス様はお休みになり、食事を取られました。いつも楽しみにしてベタニヤを訪れられた主イエス様でした。

イエス様は、いったいどうして、そんなにベタニヤを大切にし愛されたのでしょうか。愛された理由は何だったのでしょうか。今話しましたように、この三人のためです。

・マリヤという女性は、もちろんイエス様を愛し抜いた姉妹でした。イエス様に対する純粋な愛こそが、彼女の満たされた生活の秘訣そのものとなっていました。
・彼女の姉、マルタという女性は、よく働く姉妹だったのです。ルカ伝10章40節に「…マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。『主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。』」と記されています。彼女はこのとき的外れのようでした。しかしそのあとで彼女は、違う態度を取ったに違いありません。彼女はイエス様をお喜ばせしたい気持ちでいっぱいでした。
・またラザロという兄弟は、彼が何と何をやったかではなく、彼がどうして広く知られるようになったかと言いますと、よみがえらせていただいたからです。ただそれだけなのです。自分の力では何にもできなかったのです。四日間も墓の中にいたからです。

ベタニヤに住むこの三人の兄弟姉妹は、イエス様を通して初めて意味のある人生を見出
したに違いありません。イエス様との出会いによって、彼らはだれに教えられたのでもなくてもわかりました。本物だ。私たちが必要としているのはこのイエス様との交わりだと。イエス様の近くにいると心配から不安から解放される、さらに、希望を持つようになるということを、彼らは何回も何回も経験したに違いありません。

・私たちは、神なき人生の無意味さを認識しているのでしょうか。
・それだけではなく、どんなに頑張っても、努力しても、罪の問題を解決することはできないと思うようになったでしょうか。
・そして、自分が破産したことを宣告し、自分の債務と、またわがままを、イエス様に告白したことがあるでしょうか。
・イエス様の流された血によって、自分が贖われ、主なる神の子どもとされていることを
確信できるでしょうか。
・そして、もはや裁かれることがないことも、知るようになったのでしょうか。

最も大切なことはいったい何でしょうか。最も大切なことを知ること、また、なすことです。もちろんみんな忙しいですし、このことあのことはやはりどうしてもしなくてはならないとだれも思うことがありますが、全部することは実際問題としてそれは無理です。
ですから選ばなくてはいけません。何が一番大切か。あまりたくさんですから、一番大切なことは何かと考えるべきではないでしょうか。

いうまでもなく一番大切なことは、マリヤのように主の足もとに座ることです。聞く耳を持つことです。「主よ。聞かせてください! お話しになってください。しもべは聞いております」と。もちろん、一方通行ではなかったと思います。イエス様が30分、40分、一時間お話しになって、彼女はただ黙って聞いていただけではありません。彼女もやはり話したと思います。「イエス様。ちょっとちょっと。どういうことですか。もう少し教えてください」と。

イエス様に話すこととは祈ることです。みことばを聞くことは大切です。けれど一方通
行では良くありません。ですから聖書と祈りは一つにならないとダメなのです。みことばを通して、主は私たちに語ってくださり、そして祈ることによって私たちは主にお話するのです。つまり聞く耳を持つことです。エルサレムの聖書学者たちは聞く耳を持っていませんでした。ベタニヤに住む三人は、聞く耳を持っていたのです。ベタニヤに住む三人の兄妹たちを、イエス様がどんなに愛しておられたか、周りに住む人々もわかるほどでした。

このヨハネ伝11章を読むと何回も書いています。イエス様は彼らを愛されたと。これこそが、彼らのしあわせの源でした。マリヤは、イエス様が自分たちを完全に愛しておられることをよく知っていましたから、彼女もイエス様を真心から愛したのです。

前に読みましたヨハネ伝12章に書いてある通り、彼女は非常に高価なナルドの匂い油をイエス様の上に惜しげもなく降り注いだとあります。ためらうことなく、余すところなく、匂い油をイエス様に降り注ぐことによって、イエス様に対する愛を示したのです。
三分の一にしようか、半分にしようかと彼女は考えませんでした。この匂い油を買うためには、一人の男が一年間働かなければならなかったのです。一年間の収入でやっと買うことができたものです。それは彼女の全てだったに違いありません。ですから、自分のために使いたくなかったのです。もったいないと思ったでしょうが、イエス様のためにだったら急に嬉しくなったのではないでしょうか。マリヤは純粋にイエス様をお喜ばせしたいと思っただけだったと思います。

私たちもマリヤのようにイエス様を愛しているのでしょうか。私はイエス様を愛していると多くの人たちは言うのです。たぶんエペソにいる兄弟姉妹も思っていたでしょう。「私たちはイエス様を信じているだけではなく、私たちはイエス様の再臨を待ち望んでいますし、イエス様を愛しています」と。けれど、主のご判断は違ったのです。
黙示録 2章4節

 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。

 
彼らはこの手紙を読んだときびっくりしたことでしょう。悔い改めたかどうかわかりません。けれども教会歴史を見ると、悔い改められなかったようです。このエペソの教会は死にかけていたのです。証しにならなくなってしまったのです。用いられなくなってしまいました。初めの愛から離れてしまったと認めたくなかったからでしょう。

初めの愛とはいったい何でしょうか。マリヤのような態度を取ることです。イエス様との交わりです。イエス様なしには何ごとも欲せず、何ごとも成し得ない。これこそが初めの愛の特徴です。
毎日毎日主のみことばである聖書が、私たちの喜びの泉、力の源になるなら、そして、
私たちの考えと行ないの中心にイエス様がおいでになるなら、それこそが私たちの初めの愛が保たれていることの証拠です。

自分のことについて考えると悲しくなる人が多いでしょう。満足する人もいるかもしれ
ませんが、そういう人たちこそかわいそうではないでしょうか。
結局、私も初めの愛から離れてしまったと、正直な人間はみな認めざるを得ないのでは
ないでしょうか。ああ、今日はダメだったけれど、明日から今日よりも早く起きましょう。
たくさん聖書を読みましょう。今日よりも明日からもっともっと聖書に頼りましょうと。

イエス様のために何かをしたいという気持ちがあっても、夜になると、「やはりイエス様。またダメでした。ごめんなさい」としか言えません。それだけだったらもちろん絶望的です。けれど、イエス様はダメな者をお捨てになりません。
この社会には、変人たちが沢山います。けれどももっとも変わっているお方はイエス様です。ダメな者をお捨てにならないお方です。人間は、ダメな者、役に立たない者、邪魔する者は嫌です。関係を持ちたくありません。けれど、イエス様は決してお捨てになりません。ですから夜になって、「イエス様。またダメでした。私はそういう者なのです。ごめんなさい。けれどあなたはダメな者をお捨てになりませんから嬉しいです。今からどうしたらいいですか。相変わらずわかりません。お導きになってください」。
イエス様をお喜ばせしようと思うなら、この態度を取ればOKです。ほかのことは何をやっても的外れです。イエス様はお喜びになりません。なぜなら、人間は知らないうちにやはり自分の力を頼って頑張るのではないでしょうか。マリヤはそういう女性ではなかったのです。彼女は、自分の考えていることはどうでもいい。大切なことはイエス様がお話しなさっていることだと。ですから、「イエス様お願いです。語ってください」と願ったのです。

初めの愛は、イエス様を中心に置きます。そして、このことは私たちの過去における一時的な事がらであってはなりません。私たちの全生涯を貫く事がらでなければならないのです。
イエス様をある意味で否定したペテロは、三回も「自分はイエス様という人を知らない」と言いました。「イエス? 何を言っているのですか。知りません。関係ありません」と言ったのです。考えられないことです。けれど、イエス様はあとでペテロに同じように三回もおっしゃったのです。「ペテロ。あなたはわたしを愛するか?」。その時彼は心から言えたのです。「はい。私はあなたを愛します」と。
なぜなら、主は彼を捨てようとなさらなかったからです。前よりもさらに祝福してくださったのです。イエス様は、今日も、このようなベタニヤを求めておられます。


次に、マルタの満たされた生活の特徴は、忠実な奉仕だったのではないでしょうか。
イエス様はどうしてそんなにベタニヤを愛されたのでしょうか。イエス様がベタニヤを愛されている理由は、本当の真心からの奉仕です。マルタは、本当にイエス様から愛された者として心から奉仕したかったのです。彼女はいろいろなご馳走を作りました。もちろんイエス様のだけではありません。(いつも十二人の若者を連れて来られたのです。)大変な量を作らなければならなかったはずです。けれども、彼女は、「いいのです。喜んで犠牲を払います」とご馳走を作りながらきっと思ったことでしょう。これを作るとイエス様は喜ばれるでしょうか。これをするとイエス様は嬉しくなられるでしょうか…と。
つまり、「イエス様をお喜ばせしたい」。うまく料理できたかどうかは関係ありません。まずくてもイエス様は喜ばれたはずです。なぜなら動機がわかったからです。心からイエス様をお喜ばせしたいと彼女は思ったのです。

この二人の姉妹を見ると、イエス様に対するまことの愛、まことの奉仕という、主のみこころにかなった二つの大切な事がらを見ることができます。

けれど、この二つのこと、即ち、イエス様に対する愛、そしてイエス様に対する奉仕で
終わるのではありません。主はもっと上なることを望んでおられるお方です。


これは最後の第三番目の点ですが、イエス様は、ご自分の力、ご自分のよみがえりの力を明らかにしてくださったのです。
ラザロは、ベタニヤで死よりよみがえらせられたのです。希望を持っていた人は一人も
いなかったでしょう。葬儀も終わり、屍は四日間も墓の中に横たわっていたのですから。けれども死は終わりではなく、この時イエス様が大きな声で叫ばれたのです。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」と。

イエス様は何を願っておられたのでしょうか。死の暗やみを通り、その後みことばによってよみがえらせられたラザロと食事を共にし、交わりを持ちたく願われたのです。
まずこのヨハネ伝11章を読むと、ラザロのことがわかります。彼はイエス様に愛され
ました。何回も書いています。「イエスはラザロを愛された」と。すると問題はないはずではないでしょうか。そんなに愛されているなら病気になるはずがないと考えるのではないでしょうか。けれど違います。彼は病気になりました。

もちろん、それもイエス様のご計画の中でのことだったでしょう。イエス様はラザロが一度病気になることをお許しになったのです。ラザロは、心からイエス様を愛し、また主イエス様も心からラザロを愛しておられましたのに、どうしてラザロは病気になったのでしょうか。ラザロは病の床に倒れました。だんだん衰弱していきます。イエス様はおいでになりません。「イエス様、お出でになってください」とお願いしたのに。もしイエス様がここにおられたら、ラザロの病気は治ったのにと。本当にそうでしょうか。もしイエス様がおられるなら、本当に問題ないのでしょうか。
もちろん、主がおられれば病はすぐに治ったはずです。けれども、それは父なる神のみこころではなかったのです。ですからイエス様はすぐに来ようとはなさらなかったのです。心の中では三人の兄弟姉妹をあわれみ、泣いておられたのです。もしイエス様がご自分の気持ちに頼られたなら、ラザロのところに走って行かれたことでしょう。けれどイエス様はそのようなことを一回もなさったことがありませんでした。行動する前に、また自分で考える前に、イエス様は、「お父様。どうしたらいいのですか。教えてください」。「ダメ?」。「うん。ダメ。けれどあとで行きなさい。死んでからよみがえらせなさい」と。

ですからイエス様は遠く離れていたとき、それを弟子たちにはっきりおっしゃいました。だれも伝えないのに、イエス様は「私の友であるラザロは死にました」と。イエス様は本当に、一刻も早くラザロをお助けになりたかったのですけれど、父はお許しにならなかったのです。
そしてイエス様のいつもお取りになられた態度は、「わたしの思いではなく、お父様。あなたのみこころだけがなるように」でした。

私たちの信仰生活においても、主は同じような導き方をなさいます。自分を愛する自己愛と、主を愛する愛は同時に存在することはできません。また自分の名前を人に知っても
らおうというような気持ちと、イエス様に対するまことの奉仕は両立しません。自分の考
えと計画も、これらといっしょに主にお渡しをしなければなりません。そうしなければ、よみがえりの力をいただくことができないからです。

私たちの信仰生活は、いろいろ思いがけないことが起こります。その時、「いったい、どうして、なぜ」と考えます。しかしそれを乗り越え信仰によって希望を抱き前進します。その結果が思いがけない悲劇に終わることもあります。全てを主にゆだねて進んでも、何の変化も起こってこないことがあります。信仰によって歩んだとしても、失望し、その失望の中から小さな光を見つけ、それにとりすがり、何とかして浮かび上がろうとしますが、打ちのめされて、全く絶望してしまうこともあります。自分はもうダメだ。自分の前に死が待っているだけだと思うことさえもあるでしょう。主が私たちをそこまで導いてくださ
るとき、初めて、主は私たちをしっかりと握ってくださいます。それはいったいなぜなのでしょうか。

それは、主は私たちを通してよみがえりの力を現わそうとなさっているからです。私たちの生活そのものは、主のよみがえりの力の証しでなければなりません。もちろん、主のみこころは最終的に死ではなく、復活のいのちです。けれど、いのちは死を通して初めて生まれるというところに目を留めなければなりません。

ヨハネ伝12章の2節に、「イエスといっしょに食卓に着いていた者のうちに、ラザロも加わっていた」とあります。そして、「多くの人々はそれを見て、イエス様を信じるようになった」と聖書は言っています。前に述べましたように、「彼は説教した」と書いていないのです。「短い証しをした」とも書いていないのです。けれど、ラザロのよみがえりそのものは、生きた証しだったのではないでしょうか。

よみがりの力で生活するとは、いったいどういうことなのでしょうか。「主よ。あなたが召してくださった奉仕に力がありません。何一つできません。この奉仕ができるためには、あなたご自身でなければダメです。私をどうか導いて、力を与えてください」という、全く自分の無力を認めた生活がそれなのです。即ち、生まれながらの力、人間の知恵で送る生活ではなくて、全く主に拠り頼む生活こそ、よみがえりの力による生活への道です。

ラザロを見て多くの人々は、イエス様はすごい。何でもできるお方であると確信して、
イエス様を信じました。もちろんそれで終わりではなかったのです。悪魔は、当時の聖書
学者たちを通して、ラザロを殺そうと計画したのです。結局悪魔にとっては、よみがえりの力ほど嫌なものはないのです。

私たちはラザロと同じように、主と共なる交わりを持ちたく思っているのでしょうか。
主と共なる交わりを得るには、苦しみも経験しなくてはならないでしょう。誤解もあり、迫害もあるでしょう。それとも、もっと楽な道を選びたいのでしょうか。自分自身が中心
となって、主としてのイエス様をのけ者にするのか、あるいは自己否定により、イエス様が私たちを通していつも自由に働くことがおできになるようにするか、二つのうちのどちらかの状態になります。

パウロは常に用いられた器だったのです。どうしてでしょうか。犠牲をささげる備えができたからです。コリント第二の手紙の4章を見ると次のように書かれています。
コリント人への手紙・第二 4章10節、11節

 いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。

生きておられるイエス様の前に静まることこそが大切です。イエス様は永遠の神であり、
初めも終わりもないお方です。主は変わることなく、とこしえに変わらないお方です。
そしてまた、イエス様は万物の造り主で、過去において、目に見えるものも、目に見えないものもその全てを創造されただけではなく、今もなお、新たなるものをお造りになっておられるお方です。主は生きておられます。そしてまた無いものを有るもののようにお呼びになるお方でもあります。主が仰せられるとそのようになり、主が命じられるとそれは堅く立つと書いてあります。
イエス様が仰せられ、命じられると、無から有が出現し、死んでいた者が生き返ることも実現するのです。これこそがラザロの経験でした。

私たちの状態はどうかと言いますと、無力さや疲れなどが満ちていますが、主はどうであられるかと言いますと、そこには全知全能の力があることがわかります。そして、その永遠なる主、造り主、また支配者なる主は、私たちの敗北を勝利に変えてくださることがおできになるお方です。

詩篇の作者は次のように書いたのです。
詩篇 97篇5節

 山々は主の御前に、ろうのように溶けた。全地の主の御前に。

  
「山々」とは、聖書の中で、いろいろな障害物、問題、悩みを意味することばです。「溶け
た」と言ってもいいし、「溶ける」と言ってもいいと思います。


イエス様は昨日も今日もいつまでも変わらないお方ですから、昔、新たなことを創造なさっただけではなく、今日も新たなことを創造なさるお方です。
イエス様は、私たちにとって必要不可欠なお方、即ち、力と平安と喜びをお与えになり、提供なさるお方です。
主は与えてくださいます。そして私たちは、それをいただき、受け取り、自分のものに
する必要があります。このことこそが要求されているのです。

苦難・困難を受け取るとは、何を意味し、どのようにしたならそれを自分の勝利に変えていただくことができるかということです。答えは、「主の足もとに静まる」ことによってのみです。主のご臨在の前で静まることです。

それは何を意味しているのでしょうか。
・すべてを主に明け渡すこと
・主に拠り頼むこと
・主のみ声に聞く備えがあること
・みこころに従うことによって

です。



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メッセージ・証し集インデックスページ

◆メッセージ(ベック兄)

※一部、テープの転換による不明部分あり

神のみことばは神のみことばである(5) 2006. 4. 18
神のみことばは神のみことばである(4) 2006. 4. 11
神のみことばは神のみことばである(3) 2006. 4. 4
神のみことばは神のみことばである(2) 2006. 3. 21
家族の救い 2006. 3. 19
神のみことばは神のみことばである(1) 2006. 3. 14
主イエスは神の子キリストである(4) 2006. 3. 7
主イエスは神の子キリストである(3) 2006. 2. 28
主イエスは神の子キリストである(2) 2006. 2. 14
主イエスは神の子キリストである(1) 2006. 2. 7
勝利の生活の秘訣 2006. 1. 24
イエス・キリストのからだ 2006. 1. 17
主の永遠からの予定 2006. 1. 10
元旦メッセージ 2006. 1. 1


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