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メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


主の十字架の価値
   
2005.9.20(火)
ベック兄メッセージ(メモ)

 
引用聖句
ローマ人への手紙 5章12節から21節
 そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、―― それというのも全人類が罪を犯したからです。というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。ただし、恵みには違反のばあいとは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。また、賜物には、罪を犯したひとりによるばあいと違った点があります。さばきのばあいは、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みのばあいは、多くの違反が義と認められるからです。もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。


「救いに至る信仰の内容とはいったい何なのでしょうか」とたずねられるなら、おそらくだれもが、「ローマ書を読みなさい」と。

 先週、私たちは、「イエス様の流された血の大切さ」について、少し一緒に考えました。
 使徒たちはみな口を揃えて、「イエス・キリストの血とは尊いものである」と告白したのです。いったいどうしてでしょうか。いろいろな答えがあります。
1.血によって、贖い、即ち罪の赦しを与えられるからです。
2.血潮を信じることによって、義と認められ、良しとされるからです。
3.流された血潮は、救われた兄弟姉妹を守り、また安全を意味しているからです。
4.血潮によって、父なる神への道が開かれたからです。
5.その血潮によって、イエス様との本当の交わりが可能になったからです。
6.私たちはイエス様の流された血によって、聖なる者、即ち、主の所有物になったからです。
7.血潮によってのみ、悪魔に対する勝利が与えられるからです。

ヨハネの黙示録 12章11節に、

「兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。」

と書かれています。
十字架の犠牲こそが、神の敵である悪魔に対する勝利を意味しているのです。イエス様の血潮によって、罪という名の壁は取り除かれ、良心の呵責は消えてなくなっただけではなく、もし、イエス様の血潮の価値を知るなら、悪魔の訴えは効き目がなくなります。
 ですから、イエス様の血と、私たちを訴える者に対する勝利について考えることとは、
非常に大切なことではないでしょうか。

 イエス様に属する者を訴えることは、悪魔の一番大切な仕事です。私たちは、いったいどうしたら悪魔に打ち勝つことができるのでしょうか。
 イエス様の血潮によってのみ、悪魔に勝ち得ることができます。イエス様の血は、もう
既に流され、もう既に聖なる父と人間との間を隔てていた罪の壁は取り除かれました。
そして今や、主なる神は、人間の側に味方となって立っておいでになります。ですから、
どんなに悪魔が訴えてきても、その訴えは全くむなしいものです。
 もしイエス様の流された血をしっかりと信じるなら、ヨハネ第一の手紙1章7節を経験
することができます。
ヨハネの手紙・第一 1章7節

 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

 このみことばは、毎日の私たちの信仰生活にとって何と尊いみことばでしょうか。このみことばに、「すべての罪、おのおのの罪から私たちをきよめる」と約束されています。
イエス様が光であるように、主の光のうちに歩むなら、私たちの罪は大小に関わらず、意識する意識しないに関わらず、すべてきよめられているのです。
 ですから悪魔は訴えても無駄です。悪魔はどんなに訴えても無駄です。イエス様の血潮のゆえに、今や主なる神が私たちの味方となっているからです。

パウロはローマにいる兄弟姉妹たちに、次のように書いたのです。
ローマ人への手紙 8章31節から34節

 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

 すごいみことばです。血潮は父なる神を全く満足させるものだという知識が必要です。
悪魔が来て訴えるでしょう。「お前だって罪を犯しただろう。主はもはやお前を用いられない」と言うなら、何と答えたらよいのでしょうか。「その通り。前から知っている。私は自分のうちには何の良いところもないが、その私のために、主イエス様が十字架の上で血を流し、罪の贖いをなされた事実がある。父なる神は、この血をご覧になって満足しておいでになる。ですから、私ははばからず祈ることができ、主に近づくことができる」と言えるのです。

 もし、私たちがこの主イエス様の血潮の価値を忘れるならば、悪魔が必ず勝利を取り、でしゃばってきます。イエス様だけが、訴える者、即ち、悪魔に打ち勝つことがおできになるのです。そして、イエス様はもう既にご自分の犠牲の死によって、悪魔に打ち勝たれたのです。
 もし、私たちが主の血潮の価値を十分に知るなら、悪魔がつけ込む余地はなくなるはずです。イエス様の血を、決して目の前から追いやってはなりません。イエス様の血は、父の満足されたものであり、イエス様の血潮は、私たちの平安の源なのですから。この事実こそ悪魔の訴えを全く退けることができるのです。私たちの力と平安と喜びの源は、全部イエス様の血潮の中に含まれています。イエス様の血を深く喜び、イエス様の血に心からの感謝をささげ、更に一歩前進すべきではないでしょうか。
 ほかの宗教、即ち、どのような宗教を見ても、「流された血」は大切にされていません。しかし、これこそが聖書の中心です。イエス様の身代わりの死、イエス様の流された血潮です。


 今日は、別のテーマについて考えたいと思います。
 今、司会の兄弟がお読みになりましたローマ書6章の中に、非常に大切なことについて書かれています。即ち、私たちの生まれつきの性質に対するイエス様の十字架の価値です。

 かつての私たちが、神なく、望みなく、滅んでいかなければならない状態であったのだということを見出したとき、「主よ。私は滅びなければなりません」と祈りました。そのと
き、私たちは、主の流された血潮は自分のすべての罪を聖める力があるということを体験したのでした。そして悔い改めて、信仰に立った私たち。
この集会の中の大部分の兄弟姉妹は、さらに進んだ経験をしたのではないかと思います。即ち、私たちは罪を犯しただけでなく、私たち自身が罪の本質を持っている、根深く持っている罪人であるということを認めるようになりました。私たちのうちには一つの力があり、その力が働くと罪を犯してしまいます。欲っしないのに犯してしまうといったことを、だれでも経験したのではないでしょうか。
 そのようにして罪を犯したとき、イエス様の十字架の血潮を仰ぎ、罪の赦しをいただき
ます。けれど、罪を赦された喜びも束の間、またすぐに罪を犯してしまいます。繰り返し、
繰り返し、同じところを堂々巡りしているのではないでしょうか。
 例えて言いますと、大人が信心深い顔をして子どもの遊園地に行って、回転木馬に乗っ
てぐるぐる回っているようなものです。罪を犯し悔い改め、悔い改めてはまた罪を犯し、なかなか進歩成長がありません。信仰の世界でいつまでも子どもであるという姿は、回転木馬に乗った私たちの姿と同じではないでしょうか。

 私たちは、流された尊いイエス様の血潮の血をくぐって、いつ、どんなところにあって
も安心して主に近づくことができます。イエス様の血は、いかなる大罪をも覆って余りがあると約束されています。このイエス様の血は、私たちを父なる神のみもとに贖い戻すために、言い換えるなら私たちが犯した罪を赦すために、流されました。
 しかし、血潮は、私たちの親から受けた生まれつきの人間の性質、即ち、罪の性質を消
し去ることはできません。ここに私たちの古き人、即ち、私たちの生まれながらの性質を
解決しなければならなくなってきます。

 私たちがどんな悩みにあるときにも、どんな難しい問題にあるときでも、それに対する主の唯一のお答えは、いつもイエス様です。イエス様は私たちの身代わりになられて、永遠の贖いのみわざを成し遂げられたのです。私たちのために死なれたイエス様は、今や、私たちの代わりに生き、私たちを自由にするために、私たちを解放するために生きたいと願っておられるのです。

 パウロは、勝利の秘訣について次のように書いたのです。ガラテヤ書2章20節です。パウロはこのことばを信仰の告白として、ほかの兄弟姉妹を励ますために証ししました。
ガラテヤ人への手紙 2章20節

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」

「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる」。これが、私たちのうちに現実となるとき、初めてイエス様は私たちの代わりに生き、私たちの解放者となられるわけです。

 どうでしょう。私たちのいのちの支配者、生活の支配者はどなたなのでしょうか。これ
に対する答えを聞くとき、その信仰生活が前進しているか、または敗北に終わっているかがすぐわかります。私たちは、信心深い顔をして回転木馬に乗っているような者になりたくありません。罪の重荷を背負ったままイエス様の御前に出て、その赦しをいただいた人は本当に幸いです。

 しかし、その状態にとどまっていては良くありません。私たちは、罪の力から解き放た
れること、生まれながらの性質から解放されること、古き人から自由になることが大切で
す。このためには十字架が必要です。イエス様が十字架で流された血によって、私たちは
罪を赦され、贖われ、父との平和を回復されました。けれど、イエス様の血潮は、私たちの生まれながらの性質を消し去ることはできません。そのためにどうしても十字架が必要です。

 初めに司会の兄弟がお読みになりましたローマ書5章12節から21節までを見ると、
いろいろなことが書いてあります。
1.まず、アダムから受け継いだ罪の性質について、いろいろなことが書いてあります。
 例えば19節をもう一度読みましょう。
ローマ人への手紙 5章19節

 すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。

 この19節は本当に素晴らしい事実について述べています。この節の中で、御霊は二つのことを私たちに教えてくださいます。
 一つは、私たちはどういう者であるかということです。即ち、私たちは罪人であるとい
うことです。
 もう一つは、この罪はどこからやって来たかということです。初めの人アダムから来たということを教えています。

 私たちが、信仰生活の第一歩を踏み出してからの生活において、行なったこと、また、行なおうとすることに気を取られています。御霊によって罪が教えられたとき、そのあまりの恐ろしさに恐れおののいたのでしたけれど、主イエス様によって罪が赦されてから後もなお、行なったこと、することに気を取られているのです。
 例えば、ときどき次のように考えるかもしれません。「私はよく聖書を読み、よく祈り、いろいろな奉仕をよくします。だからよいのではないでしょうか」。けれど、実際にはなかなか自分の思うような状態に自分がなって来ません。問題は外側に表われた祈りとか、ご奉仕ではありません。私たちが、私たちのたましいがどうあるかが問題です。
 私たちは、心から主に喜ばれたいと願っています。真剣に願っています。けれど、内を
省み、深く自らのたましいをのぞき見るなら、そこに何かイエス様に喜ばれないものがあ
るのに気づきます。謙遜でありたいけれど、自らを謙遜にさせない何かがあります。愛し
たいけれど、愛せません。愛せない分子があります。これに気がつきますと、「主よ。私の
することが罪であるだけではありません。私自身が罪人です」と言わざるを得ません。

 いったい人間はどうして罪人になったのでしょうか。このローマ書の5章19節には、アダムの不従順によって人間に罪が入ってきたと書き記されています。
 私はベックと申します。私は生まれたときに一生懸命、名前のベックをいい名前だと思ってつけたのではありません。このベックという名前は、私の父の父、またその父、ずっと昔の先祖がつけた名前です。私のせいではありません。私がこの名前をどんなに嫌っても、簡単に変えることはできないでしょうし、私が乞食になっても、大統領になったとしても、やはりベックです。
 私たちはなぜ罪人になったのでしょうか。私たちのせいではありません。アダムのため
です。私たちが罪を犯したから、罪人なのではありません。アダムが罪を犯したから罪人であると聖書は言っています。アダムが罪を犯したとき、私たちはアダムの内にいました。ですから、私たちは罪人です。アダムは最初の人間です。全人類は、アダムの子孫です。ですから、全人類はアダムにあって罪人であるとこのローマ書に書き記されています。

 例をとってみますと、私は結婚して子どもが生まれました。私は日本に来る前に婚約して、日本で結婚するようになりましたが、もし私が日本へ来る途中、台風に遭って船が沈み、死んでしまったなら、子どもはもちろん生まれなかったはずです。つまり、子どもは私とともに海の中に死んだはずです。
 私たちもまた、アダムとともに罪の中に死んだのです。聖書は、アダムが罪を犯したとき、私たちもアダムの中にあったため罪人となったと言っています。
私たちはアダムの子孫として、アダムの性質、即ち罪の性質を持っています。ですから、私たちが何をするかだけではありません。私たちが何であるのか、私たちの本質が問題です。

 この罪の性質から解放されなければなりません。解放されないでいると、信仰は成長しません。いつまでも信心深い顔をして、回転木馬に乗っていなければならないということになってしまいます。
 ローマ書の中で何回も書き記されているのは、私たちの生まれながらの性質は罪の性質
です。私たちは生まれたときに、すでに罪人という運命に決定づけられていたのです。
日本人がドイツで生まれたとします。日本語を話せません。全くドイツ流に生活します。ですが、日本人は日本人です。たくさん罪を犯す、たくさん罪を犯さない、それは問題となりません。問題は、罪の性質を持っているということです。人間は、罪の性質を持っていますから罪を犯します。

 神の子になっても相変わらず罪を犯すのは、いったいどういうわけでしょうか。それは、罪の性質の問題を解決していないからです。
 なぜ鳥は鳥なのでしょうか。鳥として生まれたから鳥です。鳥は飛ぶことができるから
鳥なのではありません。病気になって飛べなくなった鳥も、鳥は鳥です。
 なぜ人間は罪人なのでしょうか。罪人として生まれたからです。アダムから受け継いだ
性質とは罪の性質であると、このローマ書6章の中で、はっきり書き記されています。

2.次の点について、もう少し考えたいと思います。即ち、アダムのうちにあるか、それ
 ともキリストのうちにあるか、これこそ大切な問題です。
  このローマ書5章12節から21節には、アダムのことばかりではなく、イエス様についても書かれています。もう一度19節を読みましょう。
ローマ人への手紙 5章19節

 すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。

「アダムのうちに」、また「キリストのうちに」と言いますが、これはいったい何を意味しているのでしょうか。
 アダムによって、全人類は望みのない罪人となってしまいました。アダムによって罪が
この世に入り、罪によって死が入ってきました。けれど、この暗やみの中に一筋の光が差
し込んで来ました。それは、「ひとりの従順によって多くの人が義人とされる」、つまり、
イエス様の従順です。
 アダムのうちにあるということは、罪人であるということを意味しています。また、罪
の性質を持っているということを意味します。

ダビデの告白は次のようなものでした。
詩篇 51篇5節

 ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。

 罪を犯したから罪人になったのではありません。罪人として生まれたから罪を犯します。

ペテロの告白も似ています。ペテロは、イエス様の足もとにひれ伏して、
ルカの福音書 5章8節

「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」

ヨブの告白も似ています。
ヨブ記 42章6節

 それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。

パウロの告白もそういうものでした。
ローマ人への手紙 7章21節

 そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。

ローマ人への手紙 7章18節

 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。

 これは、イエス様に出会い、何十年間もイエス様に仕えてからのパウロの告白です。
アダムのうちにあるということは、結局それなのです。
これに対して、キリストにあるということは、主なる神の子であるということを意味し、
また、主の性質を持っているということを意味しているのです。
エゼキエル書の16章、旧約聖書の預言のことばです。
エゼキエル書 16章14節

「その美しさのために、あなたの名は諸国の民の間に広まった。それは、わたしがあなたにまとわせたわたしの飾り物が完全であったからだ。−神である主の御告げ。−」

雅歌の4章1節に、次のようなことが書いてあります。
雅歌 4章1節

 ああ、わが愛する者。あなたはなんと美しいことよ。なんと美しいことよ。あなたの目は、顔おおいのうしろで鳩のようだ。あなたの髪は、ギルアデの山から降りて来るやぎの群れのよう、

雅歌 4章7節

 わが愛する者よ。あなたのすべては美しく、あなたには何の汚れもない。

とあります。
マタイの福音書 9章2節

 すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われた。

 あの中風の者にとって、決して忘れられないことばだったでしょう。「あなたの罪は赦さ
れた」。
コロサイ書2章9節、10節を見ると、また次のように主の成し遂げられた救いについて書き記されています。
コロサイ人への手紙 2章9節、10節

 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。

「あなたがたは、キリストにあって、満ち満ちている」。必要なものを全部持っている。
 パウロは、コリントにいる人たち、主の救いにあずかるようになった人たちに書いたの
です。
コリント人への手紙・第一 6章11節

 あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。

 一言で言いますと、アダムのうちにあることは絶望であり、キリストのうちにいることは希望です。生まれながらの性質から解放されることが必要です。パウロはローマにいる兄弟姉妹に書いたのです。
ローマ人への手紙 6章1節

 恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。

と尋ねています。「絶対にそんなことはありません」とパウロは続けて答えています。極みまで聖なる主は、汚れた人間を良しとされるでしょうか。満足されるのでしょうか。
ローマ人への手紙 6章2節

 絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。

 イエス様が、私たちの生まれながらの性質を解決されるための備えがあるでしょうか。
性格的に弱いその弱さの代わりに、強さと信仰が置き換えられ、加えられているでしょう
か。私たちの持っている最も弱い点が、強い点になり得るでしょうか。

 今まで、二つの点について考えました。第一番目、アダムから受け継いだ罪の性質について。それから、第二番目、アダムによるか、キリストによるかについて考えました。

 
3.第三番目の点は、解放のための神の方法とはいったいどのようなことでしょうか。
 これまで、アダムのうちにいることにより罪人となったという事実を学んできました。
私たちは、いったいどうしたらアダムから逃れ出ることができるのでしょうか。
 主イエス様の十字架の血潮は、私たちを、アダムのうちから解放してくださいません。イエス様はその血潮により、罪を赦し、贖いを成し、父なる神との平和を与えてくださいます。けれど、その知識があっても、アダムの性質、即ち、罪の性質から逃れ出ることはできません。どのような方法によって自由になることができるのでしょうか。

 私たちは生まれながらにして、生まれることによって、アダムの性質にあずかりました。
今度は、死ぬことによってアダムの性質から逃れます。死ぬことによってのみ、罪の性質
から逃れることができるのです。けれど問題は、いったいどうしたら死ぬことができるかということです。
 私たちは、自分で、死のう、死のうと試みますけれど、失敗に終わります。私たちは、自分で死のうとする代わりに、主なる神がこのために何を成してくださったかを知ることが肝要です。ローマ書の6章に戻ります。
ローマ人への手紙 6章3節

 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。

 どうしたら、主イエス様の中に入っていくことができるのでしょうか。私たちは、もう
すでにイエス様のうちにいるのですから、その心配は必要ありません。私たちは、自分で
どんなにもがいても、どうすることもできません。ですから、主なる神が成してください
ました。父なる神が、あわれみによって私たちをキリストの中にいれてくださいました。
キリストの中に置いてくださいました。

コリント第一の手紙1章30節に、非常に大切な素晴らしいみことばが書かれています。
コリント人への手紙・第一 1章30節

 しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。

 ここに、「あなたがたは、キリスト・イエスのうちにあるのです」とありますが、私たち
は間違いなく、確かにもうすでにキリストのうちにあると聖書は言っています。私たちは
どんな具合にキリストのうちに入ったのか知りません。けれどもうすでにキリストのうちにあることを聖書によって知ることができ、信じることができるのです。

 私たちは幸いなことに、もうすでにイエス様のうちにあるのです。これは父のなさった
みわざです。これは、私たちがそれを信じようが信じまいが、またそれを感じようが感じまいが、動かすことのできない主なる神の事実です。
 ですから、主イエス様が十字架で死なれたとき、私たちもイエス様とともに死にました。
なぜなら、私たちはイエス様のうちにいたからです。コリント第二の手紙5章14節の後
半を見ると、次のように書かれています。
コリント人への手紙・第二 5章14節後半

 私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。

 イエス様が十字架にお架かりになったとき、そのとき私たちも十字架に架かりました。
 例えるなら、私たちは今、「日々の歌」という本を持っています。この歌の本に一枚の紙を挟み、ドイツにその本を送ります。一枚の紙を送るつもりではないかもしれませんが、とにかく本の間に挟んであるのでドイツに運ばれてしまいます。本を送ったとき、本だけがドイツに行って、一枚の紙だけフランスに行くというようなことはあり得ません。

このコリント第一の手紙1章30節は、本当にすごい事実を表わすことばです。
コリント人への手紙・第一 1章30節

 あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。

 あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。父なる神は、私たち
をイエス様のうちに入れてくださったのです。ちょうど本の間に一枚の紙が挟まったよう
に、私たちはイエス様のうちにありましたから、イエス様が十字架に架かられたとき、私
たちも十字架に架かり、主が死なれたとき、私たちもともに死んだのです。

 イエス様が十字架に架かられたとき、私たちも十字架に架かかりました。ですから、「十
字架につけてください」と願う必要はありません。イエス様が亡くなられたとき、私たち
もともに死にました。ですから、私たちの死はもう終わったのです。これから死ぬという
ことはあり得ないのです。新約聖書のどこを開いても、私たちはもうすでにイエス様とと
もに死んでしまった、死んでしまっていると言っているのです。これに関係している二、三箇所を見てみましょう。
ローマ人への手紙 6章6節

 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。

「古い人」とは、「生まれながらの性質」です。「十字架につけられた」と過去形です。罪
の奴隷でなくなるために、主は犠牲になられました。そして、前に読みましたガラテヤ書
の2章20節です。
ガラテヤ人への手紙 2章20節

 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

5章24節を見ても、同じようなことが書いてあります。
ガラテヤ人への手紙 5章24節

 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。

ガラテヤ人への手紙 6章14節

 しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。

だれも自分で自分の両手両足に釘を打つことはできません。打つことができても、せいぜい片手ぐらいです。これと全く同じように、私たちは自分で自分の罪の性質を取り除くことはできません。だからこそ、父なる神が私たちを主イエス様のうちに置いてくださいました。ですから、イエス様が十字架にお架かりになったとき、私たちもともに十字架につけられたのです。
 私たちが主イエス様とともに十字架につけられたということは、単なる教えではありま
せん。理論でもありません。永遠に変わらない事実です。

 主イエス様の死またイエス様のよみがえりは、私たちの身代わりのためでした。主イエス様が十字架の上で死なれたとき、あの罪のないしみのないご自分のからだを私たちにお与えになり、また尊い血潮を流されたとき、それは私たちの恐るべき罪を贖い、父なる神ご自身の聖と義とを満足させることができたのです。

 この救いのみわざ、贖いのみわざは、イエス様だけが成し遂げられたのです。いかなる人間であっても、このみわざに加わることができなかったのです。聖書のどのページをめくってみても、私たちの血潮がイエス様の血潮とともに流されたなどという記事は出ておりません。主なる神の御前におけるこの贖いのみわざを、主イエス様はおひとりで成し遂げられたのです。イエス様の死に、あなたも私も含まれているのです。

 こういうわけで、父なる神は、私たちを主イエス様のうちに入れ、私たちはイエス様とともに十字架で死んだのです。主イエス様の死の中には、あなたも、私も、全人類も、含まれています。全人類はイエス様とともに死にました。

 けれどイエス様の死ばかりではなく、イエス様のよみがえりもあなたたちと私を含んでいます。全人類は主とともによみがえらされたのです。
コリント第一の手紙の15章を見ると、次のように書き記されています
コリント人への手紙・第一 15章45節

 聖書に「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。

コリント人への手紙・第一 15章47節

 第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。

 この箇所の中で、イエス様は「最後のアダム」と呼ばれています。「第二のアダム」とは
呼ばれていません。それから、「第二の人」と呼ばれています。「最後の人」とは呼ばれて
いません。いったいどうしてでしょうか。
 最後のアダムとして、イエス様の中に全人類は含まれています。また、最後のアダムと
して、イエス様は、捕われの身となっている罪に堕落した全人類とともに、さばきと死に向かわれたのです。
 第二の人として、イエス様は新しい人類のかしらとなられました。また第二の人として、イエス様は新しい全人類とともによみがえられました。私たちもその中に含まれていたと聖書は言っています。

ローマ書6章5節に戻りまして、
ローマ人への手紙 6章5節

 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。

 私たちは、最後のアダムとして主とともに死に、第二の人として主とともによみがえり
ました。ですから、私たちをアダムからキリストのうちに移したその力は、十字架にあっ
たわけです。

 今日は、生まれながらの性質、即ち古き人について考えてまいりました。また、私たちの、この問題の生まれながらの性質、古き人は、イエス様の十字架によってもうすでに取り除かれていることも見てまいりました。
 主イエス様を受け入れた者のうちに支配しているのは、古き人、アダムの性質ではなく、イエス様が、ご自分のご栄光を私たちを通して現わそうとなさるのです。これこそが解放です。

 なぜ、十字架は私たちに必要なのでしょうか。イエス様がご自分のいのちを、私たちのうちに住まわせるために必要です。ですから、前に読んだ箇所です。
コリント人への手紙・第一 1章30節

 しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。

 知恵とは何でしょうか。それはイエス様です。義とは、聖とは、贖いとは、それもイエ
ス様です。私たちが聖きに至るその聖きとは、言うまでもなくイエス様ご自身です。
 私たちは、自分の高ぶりに気がつき、謙遜になりたいと思っているかもしれません。しかしそれは、謙遜を求めても得られません。私たちが求めなければならないのは、イエス様ご自身だけです。
 父なる神は、忍耐、愛、謙遜、柔和、そのように一つ一つ分けてお与えになることはありません。しかし、父なる神は私たちにすでにイエス様を与えてくださいました。私たちが、イエス様に拠り頼み、主イエス様を心に豊かにお迎えするなら、イエス様が私たちの謙遜となり、忍耐となり、また愛となってくださいます。

 父なる神は、忍耐や愛や謙遜を売りさばく商人のようなものではありません。父なる神
が、私たちのうちに住まわれるようにと、イエス様ご自身が与えてくださったのです。
私たちは無理にクリスチャンらしい生活をする必要はありません。ただ、イエス様が私たちのうちに住まわれることを受け入れさえすればよいのです。
 ですから、前に読んだガラテヤ書2章20節こそが、考えられないほど大切な箇所です。パウロは喜んであかしすることができました。
ガラテヤ人への手紙 2章20節

 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

 十字架の力によって生きているのは、もはや私ではありません。イエス様が私のうちに
生きておられるのです。
 私たち一人一人、パウロと同じように、「もはや私が生きているのではない。キリストが
私のうちに生きておられる」という堅い信仰の上に立ちたいものです。



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◆メッセージ(ベック兄)

※一部、テープの転換による不明部分あり

神のみことばは神のみことばである(5) 2006. 4. 18
神のみことばは神のみことばである(4) 2006. 4. 11
神のみことばは神のみことばである(3) 2006. 4. 4
神のみことばは神のみことばである(2) 2006. 3. 21
家族の救い 2006. 3. 19
神のみことばは神のみことばである(1) 2006. 3. 14
主イエスは神の子キリストである(4) 2006. 3. 7
主イエスは神の子キリストである(3) 2006. 2. 28
主イエスは神の子キリストである(2) 2006. 2. 14
主イエスは神の子キリストである(1) 2006. 2. 7
勝利の生活の秘訣 2006. 1. 24
イエス・キリストのからだ 2006. 1. 17
主の永遠からの予定 2006. 1. 10
元旦メッセージ 2006. 1. 1


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