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メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


信仰への道 −知ること−
   
2005.9.27(火)
ベック兄メッセージ(メモ)

 
引用聖句
ルカの福音書 23章39節から43節
 十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

ローマ人への手紙 6章1節から11節

 それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるのでしょう。それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。


 今、司会の兄弟が言われましたように、明日ドイツへ行きます。また戻ります。戻ることなく空中でみなさんと会うようになれば、そのほうが幸せだと思いますけれど…。
 ドイツでもいろいろなことがあるでしょう。前回ドイツに帰ったときのこと、私の娘の近所に住んでいるご夫婦がいますが、ずっと二人は喧嘩し続けで、奥さんは双子の子どもを残して出て行ったのです。けれど、これはやはり解決になりません。私は、一度ご主人と会うことができればと思っていました。彼は非常に悩んでいた男で、「やはりイエス様に頼ろう」と。二、三日後、双子の誕生日でしたので、奥さんは仕方がなく帰って来ました。けれども、奥さんは、ご主人の様子があまりに変わりましたので、驚いてしまいました。その結果を見て彼は、「やはりイエス様はすごい。イエス様のために生きたい」と切に望むようになりました。それから奇跡的に、その家にいろいろな人が集まるようになりました。昨日は何人集まったか分かりませんが、この前の日曜日は子どもを入れて四十八人集まるようになったらしいです。ぜひ祈ってください。

 話は変わりますが、今朝もあるご主人からの電話がありました。その人の奥さんはまだ三十八歳ですが、末期の癌だそうです。先週の水曜日に青梅の病院で奥さんに初めて会いました。本当に嬉しかったです。三歳と九歳の二人の子どもがいます。けれど、「全部イエス様にお任せします」と。この方はO兄弟の患者さんで、O兄弟からいろいろな話を聞き、「やはりイエス様に頼ろう。死は終わりではなく、イエス様と一緒になることだ」という確信を持つようになりました。そして今朝はご主人から電話があり、(その時はまだ御主人にも会っていなかったのでしたが、)彼も「今晩イエス様の話を聞きたい」と。ですから、彼のことも是非覚えていてください。

 イエス様こそが、人間を変えることのできる力を持つお方です。このイエス様を紹介で
きることとは、本当に素晴らしい特権ではないでしょうか。
 このイエス様とは、真理を教える偉大なる教師でられるというよりも、真理そのものであられます。「求めよ。そうすれば与えられる」と約束されています。
 このイエス様のことを一番嫌うようになったのは、(こんにちまでもそうですが、)宗教家たちです。自分で「わかった」と思う人たちこそ、かわいそうです。
 イエス様を信じるようになった人たちは、確信を持って言うことができます。即ち、
「イエス様は生きておられます。一度死なれましたが、それは私たちの罪滅ぼしのために身代わりとなって殺されたのであり、現在まで生きておられるお方です。このイエス様とは、あらゆる罪、過ち、わがままを赦すお方であり、また、人間一人一人のことを考えて、心配してくださるお方です」と。
 
 司会の兄弟がお読みになった箇所の中で、ある一人の犯罪人は、(たぶん人殺しだったでしょう。)ひとことだけ祈ったのです。
ルカの福音書 23章42節

「イエスさま。…私を思い出してください。」

「あなたが憐れんでくださらなければ、もうおしまいです。希望がありません。永遠の地獄に入らなくてはなりません」という意味です。イエス様は、
ルカの福音書 23章43節

「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

と。「きょう、わたしとともに天国に」。天国に入ったのは、イエス様お一人だけではありませんでした。あの犯罪人も一緒でした。そしてイエス様は誇りをもって、喜びをもって、この犯罪人を紹介なさったことでしょう。「わたしの弟です」と。イエス様とは本当に素晴らしいお方です。

 このイエス様のご目的とは、もちろん人間の救いだけではなく、救われた私たちが永遠にわたってイエス様と一緒にいることです。主のご目的は、救われた人たちがイエス様をよりよく知ることではないでしょうか。イエス様の御姿に変えられることです。

パウロは、ガラテヤ書2章20節で書いています。
ガラテヤ人への手紙 2章20節

 もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

 結局、「私は死に価する者です。十字架につけられたのはイエス様だけではなく、私も
キリストとともに十字架につけられました」。
 問題は、いかにしてイエス様をよりよく知ることができるか、イエス様に似た者となる
ことができるかということです。


 最近私たちは、どうしても知らなければならない基本的な二つのことを、一緒に考えてきました。即ち、
1.「私たちの罪、過ち、わがままと主イエス様の血潮の価値」についてです。
2.「私たちの古き人に対するイエス様の十字架の価値」についてでした。
 この事実なくして、私たちは、揺るがないしっかりとした土台の上に立つことができません。この事実は、私たちの信仰生活の土台です。

 新約聖書を見ると、イエス様の血潮と、十字架の間には、はっきり明らかに違いがあることがわかります。
・ローマ書1章から5章の11節までには、私たちが何をなしたか、即ち、「罪を犯した。
罪を消すためにはイエス様の血潮がある。その結果は赦しである」と書かれています。
ローマ人への手紙 3章25節

 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。

ローマ人への手紙 5章9節

 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。

・ローマ書5章12節から8章の終わり(39節まで)には、「私たちは何であるか。即ち、罪人である。その解決の手段は十字架。その結果は解放である」と書かれています。
ローマ人への手紙 6章6節

 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。

 ローマ書は、このようにイエス様の血潮と十字架を分けていますが、イエス様の救いの
みわざは、言うまでもなく一つでした。イエス様の救いには、この両面があるということ
です。私たちはこの両面をおのおの体験し、自分のものとしなければいけないとパウロは
書いたのです。

 父なる神のご目的とは、いったい何でしょうか。
これは何回も繰り返し言ったことですが、人間は一番大切なことを忘れ、枝葉のことを大事にしがちな者ですから、はっきり言うべきです。
 私たちが御子主イエス様の御姿に変えられていくことは、父のみこころであり、ご目的
です。このためにイエス様の血潮が流されました。私たちの赦しのために、そして赦された私たちが、御姿に変えられていくために、イエス様の血潮は流されました。
 そして、イエス様は、私たちとともに十字架の上で亡くなられたのです。これは私たちが知らなければならない、揺るがすことのできない事実です。ですから、私たちはこれらのことを学んでまいりました。

 けれど、実際面はどうでしょうか。私たちは実際にイエス様の御姿に変えられていくのでしょうか。実際に約束の勝利の生活を営んでいけるでしょうか。
この疑問に対する答えを、ローマ書6章から8章を学んで、見つけたいと思うのです。
その答えは、本当は四つの面を持っています。
1.「知ること」です。ですから、「知る」ということばはよく出てきます。ローマ書6章
3節、6節、9節です。
2.「計算すること」です。6章6節です。
3.「ささげること」です。6章12節、13節です。
4.「御霊によって歩むこと」です。ローマ書8章4節に書かれています。

 私たちは、この四つの点を実際に体験しないといけません。これを体験しないと、罪を
犯し、赦していただいて、また罪を犯すといった具合に、「信心深い顔をして回転木馬に乗っている」といった状態になってしまいます。


 今日は、この四つの面のうち、一つの面、即ち、「知ること」についてだけ、一緒に考えてみたいと思います。
 どうしたら、内面的に、霊的に進歩、前進することができるのでしょうか。
どうしたら、勝利の生活を送り続けることができるのでしょうか。
どうしたら、私たちのうちに主イエス様の御形が造られていくのでしょうか。

 まず第一に、「知ること」によってです。この、「知ること」を学ぶにあたって、これを
また、三つの質問に分けてみたいと思います。
1.私たちは、何を知らなければならないのでしょうか。
  その答えは、私たちが主イエス様とともに十字架につけられたということであり、歴史的な事実であるということです。信じても信じなくても、認めても認めなくても、事実は事実です。

2.私たちは、この歴史的事実をいかにして知らなければならないのでしょうか。
  この答えは、啓示によってです。上から与えられる光によってです。

3.私たちは、なぜこの事実をどうしても知らなければならないのでしょうか。
  それは、イエス様の十字架は、私たちの持っている問題の根にまで解決のメスを入れてくださるからです。

1.私たちがイエス様とともに十字架の上で死んだということは、歴史的な事実であるこ
とを、どうしても知らなければなりません。
 司会の兄弟がお読みになりました箇所ですが、ローマ書6章1節から11節まで、この
歴史的事実をはっきりと述べています。
イエス様の死は、私たちがイエス様のうちにあり、イエス様とともに死にましたから、私たちのための身代わりの死でした。この事実を心の目で見たことのない人は、霊的に進歩しません。
 イエス様が、私たちの罪を一身に背負って十字架の上で亡くなられたということを知ら
なければ、私たちは義とされていることが確信できません。
それと全く同じように、もし私たちがイエス様とともに十字架につけられて死んだことを心の目で見なければ、前進することもできません。罪だけではなく、私たち自身とともに、主イエス様は十字架にお架かりになったのです。

 いかにして私たちは、罪の赦しを自分のものにすることができたのでしょうか。
私たちは、イエス様が自分の過ち、罪、わがままを一身に背負い、身代わりに十字架の上で死なれたことを認めました。そして、イエス様の流された血潮が、自分のすべての罪、一つ一つの罪を、全く聖めるということを知りました。

 私たちは、主イエス様が罪の負債を全部一身に背負い、十字架の上で死なれたということを知ったとき、どうしたのでしょうか。
そのとき私たちは、「主イエス様。どうか今、私のところに来て、私の罪のために死んでください」と祈ったのでしょうか。決してそうではありません。「イエス様。あなた様は、
私のためにもうすでに全てを成し遂げていてくださったことを感謝します」と祈ったに違いありません。私たちは、「イエス様。私のところにおいでになって、私のために死んでください」とは祈りませんでした。イエス様が、私たちのために十字架の上で全てのことを成し遂げてくださったのは、もうすでに過去に行なわれた事実だったからです。

 罪の赦しのためには、どうしたらいいのでしょうか。解放のために、何をしたらいいの
でしょう。
私たちはそのために、別に祈る必要はないのです。もうすでに、救いのみわざ、解放のみわざは、過去の事実として終わっています。ですから、ただ感謝すれば良いのです。
 父なる神は、私たちを主イエス様のうちに置かれました。ですから、キリストが十字架の上で死なれた時、私たちもともに死んだのです。私たちは今さら、「イエス様。私は悪人です。私を十字架につけてください」と祈る必要はありません。
 私たちは、罪が赦されたとき、罪を赦していただくためにイエス様に、「来てください」とは祈りませんでした。それと同じように、「イエス様。私の自我を十字架につけてください」と祈る必要はありません。罪の赦しは血潮によって、自我の解放は十字架によって、もうすでに成就されています。

これは過去に行なわれた事実です。私たちができることは、主イエス様が私とともに十字架にお架かりになり、私を十字架の死に導いてくださったことを感謝することだけです。
イエス様に感謝し、この事実の光のうちを歩みましょう。そうするとき、詩篇のみことばが私たちのものとなります。一文章です。
詩篇 106篇12節

 そこで、彼らはみことばを信じ、主への賛美を歌った。

とあります。「信じ、賛美した」と。

 イエス様は、十字架の上でもうすでに死なれたということを信じますか。もちろん信じています。けれど、なぜそれを信じているのでしょうか。なぜなら、神のみことばである聖書に、それがはっきりと記されているからです。
 この神のみことばである聖書は、イエス様は私たちの罪のために亡くなられたばかりで
なく、私たちとともに亡くなられたことを告げています。

ローマ書に戻りまして、
ローマ人への手紙 5章8節

 キリストが私たちのために死んでくださった…

と書いてあります。これが揺るがすことのできない事実です。
ローマ人への手紙 6章6節

 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられた…

これも揺るがすことのできない事実そのものです。
ローマ人への手紙 6章8節

 私たちがキリストとともに死んだ…

と書いてあります。言うまでもなく、これも動かすことのできない事実です。

 なぜ、私たちはキリストとともに十字架につけられたのでしょうか。また、私たちが十字架につけられた日付はいつでしょうか。昨日だったのでしょうか。今日でしょうか。または、明日なのでしょうか。
 神のみことばである聖書は、「私たちはキリストとともに、キリストと同時に死んだ」と
語っています。私たちが十字架につけられて死んだのは、あの二千年前に十字架につけら
れ死なれた主イエス様と同時に、十字架につけられた歴史的な事実です。
 
なぜ私たちは、主イエス様が十字架で死なれたということを信じているのでしょうか。感じるようになったのでしょうか。決してそうではありません。私たちは、今までイエス様が死なれたということを感じたことがないと思います。私たちが信じているのは、神のみことばである聖書にそう書いてあるからです。
 イエス様とともに二人の強盗が十字架につけられたのです。このことも、私たちは感じ
ることはできませんが、信じています。どうしてでしょうか。神のみことばである聖書がそう語っているからです。

 イエス様が十字架にお架かりになったこと、そして亡くなられたこと、また、イエス様とともに二人の強盗が十字架につけられて死んだことを信じています。けれど、私たちもともに十字架につけられてしまったということを信じているでしょうか。
 二人の強盗は、違う十字架につけられました。また、主イエス様とは時間を異にして死
にました。けれど、私たちはイエス様と同じ十字架に架かり、同じ時間に死んだのです。

 どうしたらこの事実を信じることができるのでしょうか。イエス様ご自身がそう言われ
たから、信じることができます。この知識は、私たちの感情とは何の関わりもありません。
私たちがそれを信じようが信じまいが、主イエス様が十字架に架かって亡くなられたのは
歴史的な事実です。
 同じように、私たちがイエス様とともに十字架につけられて死んだという事実は、私た
ちが感じようが感じまいが歴史的な事実です。イエス様が十字架で死なれ、強盗も十字架で死んだということも事実です。同じように、私たちも主とともに十字架で死んだ、これも動かすことのできない事実です。

 私たちはもう死んだのです。運命のサイコロは、もうすでに振られてしまいました。
ローマ人への手紙 6章7節

 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。

と書いてありますが、これは信じる者にとっては実に喜ばしい訪れではないでしょうか。
私たちが十字架に架かるということは、私たちがどんなに意思を働かせても、もがいて努力しても、自分の体験となるものではありません。これはただ、もうすでに成就されたみわざを、信仰によって受け取り、自分のものとする以外に方法はありません。

 私たちは、どのようにして救われたのでしょうか。聖書を勉強することによってでしょうか。祈ることによって、集会に集うことによって、また献金することによって救われたのでしょうか。決してそうではありません。
 私たちは、あるとき、もうすでにイエス様が自分のために成してくださったみわざを見つけ出し、その救いのみわざを心に受け入れ、感謝したのです。そのとき、自分の心のうちに、喜びと平安と望みが湧いて来たのです。

 絶えず覚えるべきことは、救いと主イエス様の聖さに至ること、赦しと解放は同じ土台の上にあるということです。私たちは罪を赦されたのと同じように、罪からも全く解放されることができるのです。
 父なる神が用いられる解放の方法は、人間の用いるそれとは全く異なっています。人間
は、罪を下に押さえつけ、その上を乗り越えて行くことにより解放されようとしますが、
主なる神の方法は、それとは異なります。父は、古き人、罪人を捨て去ってしまうという
方法を取られます。

 多くの信者は、自分の弱さを悲しんでいます。「もっと強ければ良いのだが」と考えます。私たちが失敗するとき、その失敗の体験は私たちをしばしば誤った結論に導きます。それがどのような結果になるかと言いますと、「一生懸命努力して、自分の力で解放されなければ」と考える結果になってしまいます。罪の力を深く身に覚えます。また、罪の力に対する自分の力なさを、しみじみ味わいます。
 そのときに願い求めるのは力です。何とかして罪に打ち勝つ力を得なければならないと努力します。「私がもっと強くなりさえすれば」、「この性格的に弱い点が強くなりさえすれば」と考えて悲しくなってしまいます。けれど、そのようにおのれを憐れむのは、主なる神の取られる解放の道ではありません。

 主なる神のお用いになる、私たちを解放する方法は、私たちを次第に強くすることではありません。日増しに私たちを弱くすることです。主なる神は私たちに罪の力からの解放を成し遂げてくださいます。それは、私たちの古き人を強めることによってではなく、私たちの古き人の働きを殺すことによって、成し遂げてくださいます。これを知っている人は、自分で努力することをしないでしょう。

 私たちは何を知らなければいけないのでしょうか。その答えは、私たちが、イエス様とともに十字架につけられたということが歴史的な事実であるということです。


2.私たちは、いかにしてこの歴史的事実を知らなければならないのでしょうか。
 この答えは、啓示によってです。私たちはこの事実をどうしても啓示によって知らなければなりません。キリスト者の第一歩は、啓示による知識で始まるはずのものです。
この啓示による知識は、ほかにいろいろな真理についての教え、また頭の知識がありますが、それらとは全く違った性質のものです。私たちの心の目が開かれ、イエス様のうちに私たちが何を持っているかそれがわかったときに、この啓示による知識を自分のものとしたことになります。
 私たちは、なぜ自分の罪が赦されたということを知っているのでしょうか。その知識は
どこから来たのでしょうか。誰かが教えてくれたのでしょうか。そうではないでしょう。
この知識は、イエス様ご自身が啓示によって上から与えてくださったのです。

 もちろん聖書の中には、罪の赦しのことが書かれてあります。けれどもこれが自分自身のものとして当てはまるためには、栄光の父が、即ち、まことの唯一の主なる神が、知恵と啓示との霊を私たちにくださるときに初めて、私たちのものとなることができるのです。聖書に書かれている主のみことばは、私たちにとって生きたことばとなる必要があります。

 罪の赦しは、啓示によって自分のものとなることができましたが、罪の力からの解放の
場合も同じです。もし私たちが、心の目をはっきりと開き、イエス様のうちに自分ももうすでに死んでいることを見るなら、罪の力の驚くべき解放を体験することができるのです。

 ローマ書6章には、このことが書き記されています。みことばを暗記することができる
でしょうが、その知識では十分ではありません。「私はキリストとともに十字架につけられた」という事実を、啓示によって知らなければ駄目です。
 私たちはそれを感じることも、理解することも、またいっぺんに飲み込むこともできま
せん。けれど、それを知っています。頭でははっきりと理解できなくても、救われたこと、
イエス様とともに十字架につけられたことは、知らず知らずの間に自分のものとなってい
ます。啓示によって知ったのです。
 もし私たちが、自分がイエス様とともに十字架につけられたという事実を、啓示によって知るなら、その知識は何物によっても動かすことのできない深い知識となります。
 
 勝利の生活を送っている兄弟姉妹に会いますが、その方々に、どのようにしたらそうなったのかと尋ねると、その答えは確かにまちまちです。たいていの人は、そのようなとき、自分の体験だけが正しいということを主張するために、自分の好きなみことばだけを言います。これはちょっと悲しむべきことと言わなければなりません。その兄弟姉妹が経験した特別な経験や、特別な教えはそんなに大切ではないからです。その人が、その経験によって主イエス様を、または主イエス様が成されたみわざを、心の目で見たかどうかが大切なのではないでしょうか。もし兄弟姉妹の体験が、また証しが、主イエス様から遠く離れていて、あまりイエス様と関係がないようなら、役に立たないものであるということです。

 パウロは、この点を強調して述べたのです。
ローマ人への手紙 6章6節

 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。

 原語を見ると、「確信する」となっています。

 以前、中国で何十年間も福音を宣べ伝えた、イギリス人のハドソン・テーラーは、あるときから非常に悩むようになり、戦うようになったのです。彼は自分のうちから、イエス様のあふれるいのちが流れ出るような生活を心から願い求めていました。けれどどうしたらイエス様の中にとどまることができるか、その術(すべ)を知らなかったのです。懸命に努力しましたが、無駄でした。しかし突然、彼に解放の日がやって来ました。あるとき、彼は御霊によって心の目が開かれ、自分がすでにイエス様とともになり、イエス様とともに死に、イエス様とともに葬られ、またすでにイエス様とともによみがえり、天の御座に座する者となっているということを知ったのです。
 イエス様は彼に、これらのことをみことばを通してお語りになりましたから、「イエス様
は、私よりもすべてのことをよくご存知のお方である。私は主のみことばを信頼し、しっ
かりと信仰の計算をして踏み出そう」と自ら信仰を固めました。このときから、彼は驚くべき勝利の生活に入ることができたのです。彼は、「イエス様はぶどうの木であり、私は
その枝である。私はぶどうの木の一部分である。このことは、前からそうだったのであって、今そうなったのではない」ということを知ったのです。今さら、「主イエス様よ。私をぶどうの木の枝にしてください」と言うことは、愚かしいことだということを知ったのです。

 部屋の中にいる人が、一生懸命その部屋に入りたいと思い、努力するなどということはもちろん考えられないことです。馬鹿げたことです。同じように、もし私たちが啓示によって心の目が開かれ、「私たちはもうすでにイエス様のうちにある」ということを知るならば、主イエス様のうちに入ろうと、もがくことはなくなるはずです。
 多くの啓示を与えられれば与えられるほど、私たちは願うことが少なくなります。イエス様に感謝することが多くなるでしょう。なぜなら、私たちはそんなに自分のことについて願う必要はないからです。もうすでにイエス様が成してくださっていたことに、目が開かれていないから悩むのではないでしょうか。

 たとえば、一人の信者が自分の霊的な状態を顧みて、非常に悩んでいたとします。この人は、ほかの信者の勝利に満ちた立派な生活を見て、「自分はあのようではない。自分は信者ではないのではないか」というところまで考え込んでしまいました。
そこに二人の信者がやって来ます。その人に同情して二時間以上も、「あなたはイエス様から離れては何事も成すことができない」。また、「イエス様から離れては何も得ることができない。何も経験することができない」と一生懸命に話しますが、やはり駄目でした。
最後に、その悩んでいる信者が二人に言いました。「私はもっともっと祈らなくてはならないでしょう」。二人は、「イエス様はもうすでにあなたにすべてのものを備え、与えていてくださるのですから、別に祈り求める必要はありません。今さら必要ないですよ」と。すると、悩めるキリスト者は、「イエス様はまだ私にすべてを与えてくださっておりません。もしイエス様が私に全部を与えていてくださったなら、私はこんなにすぐ怒ったり、また、相変わらずこの弱い性格でいるはずはありません。ですから、私はもっともっと祈らなくてはなりません」と。
二人は、「あなたは祈れば、祈ったことを全部いただけますか?」。悩める信者はこれに対して、「残念ながら、今まで何もいただけませんでした」と告白せざるを得ませんでした。そこで二人は、その人に、「自分は救われたときに、何も努力することをしませんでした。また同じように、自分が聖さに至るためにも努力を必要としません」と言いました。
 そこへ、三番目の兄弟が入って来てその話を耳にし、そばにあった魔法瓶を悩んでいる兄弟に見せ、「きみ、今もしこの魔法瓶が、『どうか私を魔法瓶にしてください』と祈ったとしたなら、あなたはどう思いますか」。「それはおかしい。もうすでに魔法瓶なのですから、魔法瓶にしてくださいなどと祈ることはおかしい」と。
「きみ、そうだよ。しかし、あなたも今まで、魔法瓶と同じような愚かしいことをやり続けてきたのではないですか。主なる神は、あなたを永遠の昔からイエス様のうちに置いてくださり、キリストとともに死なせてくださり、キリストとともによみがえらせられました。すでに新しいいのち、勝利のいのちに生きているのです。ですから、『私を主とともに十字架につけてください。よみがえらせてください。勝利の生活を送らせてください』などと祈る必要はもうないのです。イエス様は、『あなたは信じる。あなたはよみがえりのいのちを持っている』と言っておいでになります。あなたがどんなに祈っても、その祈りは、魔法瓶の祈りと少しも違ったところのない愚かな祈りですよ」と。

 ですから、私たちは、このこと、あのことのために祈る必要はありません。もうすでにイエス様が成してくださったことに、心の目を留めることだけが必要なのです。私たちは、私たちの古き人が死ぬように、懸命に努力する必要はありません。また、死ぬまで辛抱して待つ必要もありません。私たちは、もうすでに死んでしまっているのですから。
 私たちは、ただイエス様の流された血潮のことを心の目で見て、それに対し心からなる感謝の祈りをささげさえすれば良いのです。「天のお父様。感謝します。あなたは、私のような者をイエス様のうちに置いてくださいました。イエス様のうちに、またキリストとともにすべてのものを与えてくださったことを、心から感謝します」と言えば良いのです。

 今日は初めに、「私たちは何を知らなければならないのか」という疑問について考えました。それに対する答えは、私たちは主とともに十字架の上で死んだということが、歴史的な事実であるということを学びました。
また今は二番目としての、「事実をいかにして知るべきか」ということについても考えてきました。それは、啓示によって知らなければならないということでした。


3.第三番目として、「私たちはなぜこの事実をどうしても知らなければならないのか」ということです。
 それは、イエス様の十字架が、私たちの持っている問題の根にまで解決のメスを入れて
くださるからなのです。私たちが持っているあらゆる問題を、その根まで解決していただくためには、十字架が必要です。

 今、日本の政府が、酒の害は大変ひどい。以後酒を飲んではいけないという法律を設けたとします。そして、警察では、あらゆるバーや酒場に行って、酒を没収したとします。
これで酒を完全に取り締まることができるのでしょうか。それだけでは解決できません。酒を造る工場を閉鎖してしまわなければ、何の役にも立たないでしょう。私は、工場です。私たちの行ないは、酒という製品です。
 イエス様は十字架の上で血潮を流され、罪をお赦しになりました。製品の取り締まりを
なさいました。けれど、イエス様はそれだけでは満足なさいません。工場を潰してしまいたいのです。罪人をどうにかしてしまわなければならないと思っておられるのです。

 イエス様の血は全く十分でしたから、私たちは罪の赦しを努力なしにいただきました。
同じように、私たちは自分の力を用いなくても、罪の力から解放されます。イエス様は、
全き救いを成し遂げられたとき、製品、即ち、罪ばかりでなく、工場、即ち、罪人自身の
ことをもお考えになっておられました。
イエス様の血潮は、全ての罪、おのおのの一つ一つの罪から私たちを聖めてくださいます。それとともに、イエス様は私たちの古き人、アダムから受け継いだ罪の性質を十字架につけて死んでくださいました。

 どうかこの事実を、この永遠なる事実を啓示によって見ることができますように。そう
するなら、全ての問題は氷が溶けるように解決してしまいます。

 もう一度、ローマ書6章6節をお読みします。
ローマ人への手紙 6章6節

 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。

 ここに、「私たちは知っています」とありますが、私たちは、これを実際に知っているの
でしょうか。それとも、まだ知らないのでしょうか。
ローマ人への手紙 6章3節

 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。

 イエス様が、私たちの心の目を開いてくださいますように。



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メッセージ・証し集インデックスページ

◆メッセージ(ベック兄)

※一部、テープの転換による不明部分あり

神のみことばは神のみことばである(5) 2006. 4. 18
神のみことばは神のみことばである(4) 2006. 4. 11
神のみことばは神のみことばである(3) 2006. 4. 4
神のみことばは神のみことばである(2) 2006. 3. 21
家族の救い 2006. 3. 19
神のみことばは神のみことばである(1) 2006. 3. 14
主イエスは神の子キリストである(4) 2006. 3. 7
主イエスは神の子キリストである(3) 2006. 2. 28
主イエスは神の子キリストである(2) 2006. 2. 14
主イエスは神の子キリストである(1) 2006. 2. 7
勝利の生活の秘訣 2006. 1. 24
イエス・キリストのからだ 2006. 1. 17
主の永遠からの予定 2006. 1. 10
元旦メッセージ 2006. 1. 1


2005年度のメッセージ集
2004年度のメッセージ集
2003年度のメッセージ集