主を愛さない者はのろわれよ
2005.11.8(火)
ベック兄メッセージ(メモ)
引用聖句
コリント人への手紙・第一 16章21節、22節
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パウロが、自分の手であいさつを書きます。主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。主よ、来てください。
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本当は先週日本へ帰るつもりだったのですけれども、家内の妹の病気のことでちょっと一週間延ばしました。どのようになるかわかりませんが、葬儀のメッセージまで全部準備しました。意識はまだはっきりしていないようです。目を開けても見えるかどうかわかりませんし、もちろん話すこともできない状態のようです。けれども、主は完全なお方ですから、主にお任せできますので本当にありがたいと思います。
私たちの金婚式のことで、彼女は何ヶ月間も、徹底的に準備し、みなさんの祝福になるように努力したことと思います。確かに恵まれた一日だったのですけれど、その夜、急に意識不明になりました。しかしまた意識が戻ったのです。救急車が来たときに、「嫌です。病院に行きたくありません。少し良くなったから…」。けれども診察のため病院に行くことになりました。それは、「明日の朝、早く迎えに来てください…」ということだったのですが、夜のうちに入院することになりました。病院には医者がいたかどうかわかりませんし、また看護婦も仮眠していたのかも知れません。私たちには実際にその場の状況は何もわかりませんが、このことについては主のせいにしましょう。そうすると周囲の私たちは楽な気持ちになるのではないでしょうか。
一昨日はコンサートのためにミニメッセージでしたから、今日続けましょう。同じ箇所でしたね。「パウロが、自分の手であいさつを書きます。主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。主よ。来てください」。
日曜日の福音集会でもお話したように、パウロは、多くの病人を癒し、死人までもよみがえらせたのです。すごい男でした。けれど、他人を癒したパウロは自分で病気になり、やはり主に叫んだと思います。「癒してください!」と。
彼はときどき癲癇(てんかん)を起こしたのではないでしょうか。マラリヤにかかると癲癇を起こしますし、目も悪くなります。目が悪くなってもいいでしょうが、パウロが、「イエス様はすごい」と言いながら癲癇を起こして急に意識不明になれば、やはりつらいでしょう。ですからパウロはそのために「癒してください!」と。主は、「まぁ、いいよ。けれどあなたは元気になれば、また健康になれば、間違いなく傲慢になります。傲慢になれば、イエス様にとって通りよき管として用いることができないよ。いいよ。選びなさい」。パウロはそれを聞いたとき、「結構です。癒されなくてもいいです。病気のままで結構です」。
ですから、パウロはこの手紙も自分で書くことができませんでした。気の毒な男です。ほかの人に代わりに書いてもらったのです。もちろんパウロの言ったとおりに書いたものなのですが、最後に彼はかならず大きな字で、結びのことばとして、今読みました個所を書いたのではないでしょうか。
パウロはイエス様を心から愛したのです。ただ信じただけではなく「主よ。私はあなたを慕います」。イエス様をよりよく知りたいと思ったでしょう。これこそがパウロの心からの願いでした。そしてパウロの切なる願いは、コリントにいる兄弟姉妹もパウロと同じような気持ちになってもらいたいと。
そしてパウロは胸の中に燃えさかる望みを持っていました。それはイエス様が再びこの
世に来られることです。そしてコリントの信者たちに、同じような燃える望みを持つこと
を彼は望んだのです。
この二つ節には、二つのことばが原語そのままで書かれています。即ち、「アナテマ」と「マラナ・タ」ということばです。
「アナテマ」とは、「のろわれよ」。「マラナ・タ」ということばは、「主よ、来てください」。
イエス様に対して冷たい思いしか抱くことができない人、また無関心な人、生ぬるい態度
しか取らない人、これらの人々はのろわれよとパウロは言ったのです。
信じる者がイエス様に対してはっきりとした態度を取ることが求められています。私た
ちがイエス様に対してどのような態度を取るかによって、私たちが祝福されるか、或いは
祝福され得ないかのどちらかです。パウロは、「イエス様を愛さない者はのろわれる。即ち、
祝福を絶たれる」と言ったのです。
イエス様に対する愛の本質とはどのようものなのでしょうか。
1.まず罪を憎むことです。
ヨハネの福音書 14章15節
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「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」
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「わたしを愛するなら」、わたしを信じるならと書いていないのです。
23節前半
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だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。
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2.イエス様を第一にすることです。
ヨハネの福音書 15章10節前半
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「もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。」
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3.イエス様のことばのうちにとどまることです。
ヨハネの手紙・第一 2章5節前半
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みことばを守っている者なら、その人のうちには、
確かに神の愛が全うされているのです。 |
5章3節前半
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神を愛するとは、神の命令を守ることです。 |
と書き記されています。
これらのみことばによって、私たちが日々の生活においてみことばを尺度として歩んで
いないならば、私たちは主を愛する者ではないということがわかります。
主のみことばのうちにとどまること。そして主のみことばのままに行動するための備え
をすること。これは主イエス様に対する私たちの愛の証しです。
主のみことばを絶対的な尺度として自分自身に用いない人は、主を愛する者とは言えま
せん。自分自身の思いや自分自身の感情や考えによって歩むのではなくて、それらを意識
して否定した上で、みことばによって歩む者でないなら、主を愛しているとは言えません。
黙示録2章。日曜日も引用した個所です。非常に厳しいことばです。いわゆる初めの愛についての個所です。
黙示録 2章4節
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あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。 |
取りはずしてしまうようになった。歴史を見ると本当にそうなのです。エペソの教会は消えてしまったのです。彼らは本気になって悔い改めようとしなかったからです。
初めの愛とは何でしょうか。イエス様をよりよく知りたい。イエス様の声を聞きたいと
いう切なる願いを持つことです。イエス様なしに何ごとも欲っせず、何ごとも成し得ないということです。もし聖書そのものが、私たちの毎日の力の泉となれば、喜びの源になるならば感謝です。なぜなら、これこそ初めの愛が保たれている証拠だからです。
エペソにいる人々の心は、もはやイエス様との親しい交わりの中にはなかったのです。
もちろん彼らはイエス様を信じました。イエス様を捨てようという気持ちは毛頭なかったのです。しかし、「イエス様、イエス様」と言いながら、自分の気持ちによって、または考えによって動かされただけです。そのような人々は祝福されません、用いられないのです。
外面的に見ると、エペソの群れはすべてが上手くいっていたようです。けれど主は満足なさらなかったのです。熱心さがあったでしょう。困難に対する忍耐もあったでしょうが、これらのものも、初めの愛、イエス様に対する献身の代わりになるものではありません。
イエス様は何よりもまず、私たちの愛を望んでおられます。ですから、毎日祈るべきではないでしょうか。「あなたは私に対して何か対立すべきものを持っておられるのでしょうか。もしそうならお教えになってください」と。結局、聞く耳を持つことこそ、もっとも大切ではないでしょうか。
初めの愛というのは、二心のないイエス様への愛であり、本当の謙遜であり、直ちに従うことであり、イエス様の再臨を心から待ち望むことです。
ですからパウロはその次に、「マラナ・タ」ということばを使ったのです。「マラナ・タ」
ということばの意味は、今話しましたように、「主よ、来てください」という意味です。
黙示録の最後の個所になります。
黙示録 22章20節
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「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ。来てください。
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これも、「マラナ・タ」の意味です。
パウロは、ローマの刑務所に入れられたとき、自由の身となった信者たちに書いたので
す。ひとことばです。
ピリピ人への手紙 4章5節
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主は近いのです。 |
イエス様が来られることは、未信者にとっては恐れとおののきに満ちた事がらですけれど、イエス様を信じる者にとってはこの上もない大きな喜びです。「主は近い」と考えると、やはり喜ぶことができるのです。確かに、イエス様を知らない人々の心には生きる望みも希望もありません。
パウロはエペソにいる人々に書いたのです。
エペソ人への手紙 2章12節
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そのころのあなたがたは、キリストから離れ、…この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。
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望みもなく、あなたがたは神のない人々だったとパウロは書いたのです。そして同じくパウロは、テサロニケの兄弟姉妹に次のように書いたのです。
テサロニケ人への手紙・第一 4章13節後半
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あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。
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イエス様を信じない人々は、来たるべき将来の事がらに関して確信を持つことができませんし、漠然とした不安を持っています。けれど、イエス様を信じる者は次のようなことを告白することができます。
「私たちの望みはイエス様が再び来られることであり、そのときイエス様は私たちを迎えに来てくださるようになる。その結果、いつまでも主といっしょにいる」。
「主を愛さない者はのろわれよ」という表現を初めて使った男はエノクだったと伝えられています。ユダ書の中でエノクについても書かれています。
ユダ書 14節、15節
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アダムから七代目のエノクも、彼らについて預言してこう言っています。「見よ。主は千万の聖徒を引き連れて来られる。すべての者にさばきを行ない、不敬虔な者たちの、神を恐れずに犯した行為のいっさいと、また神を恐れない罪人どもが主に言い逆らった無礼のいっさいとについて、彼らを罪に定めるためである。」
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とあります。このように、アダムから七代目であるエノクは、もうすでに、イエス様の再臨、目に見える再臨について言ったのです。「千万の聖徒を引き連れて来られます」と。その聖徒たちとは、その前に死を見ないで、天に引き上げられるようになった人々です。
エノクだけではなく、イエス様もさばきについてはっきり言われました。マタイによる
福音書の25章を見ると、次のように書かれています。
マタイの福音書 25章41節
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「それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。』」
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46節
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「こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり…、」
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とあります。
パウロも、このさばきについて、はっきり語りました。
テサロニケ人への手紙・第二 1章6節から9節
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あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現われるときに起こります。そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。
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聞こうとしなかったから。悔い改めようとしなかったから。
「永遠の滅びの刑罰」については、イエス様もパウロもはっきり言われたのです。「罪と債務の問題が解決されていないならば、必ずさばかれるようになります」。
罪の中でも、最大の罪はイエス様を信じないことです。この罪のために、人間は滅びなければならないと定められているのです。ある人々はひどい罪を犯したから地獄だと言っているのですが、聖書はそのようなことを言っていません。
どのような人々がダメになるかと言いますと、正直になろうとしない人々です。それは悔い改めようとしないからです。助けてもらいたい気持ちを退けたからです。信じる者はさばきの日にあたって、不安を持つことはなく、喜びをもってその日を待ち望むことができます。イエス様なしには、恐れおののいたさばきの日を迎えなければなりません。
ヨハネの福音書 3章18節
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御子を信じる者はさばかれない。 |
パウロは「マラナ・タ」。「主よ、来てください」と書いたのです。このような願いを持つ者は、三つの事がらを語ることができます。
1.喜びに満たされており、
2.目覚めて祈る者であり、
3.自分自身を聖めます。
パウロはコリントにいる人々に書いたのです。
コリント人への手紙・第二 3章12節
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このような望みを持っているので、私たちはきわめて大胆に語ります。
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イエス様を信じる者は、不安や思い煩いによって、打ちのめされることはありません。
イエス様を待ち望む者は、真に自由な者であり、人々の評価からは免れています。
この希望を持つ者は、喜びに満たされ、大胆にイエス様を証しする者になります。なぜなら、心の満たされていることがおのずから言葉になって口にのぼるからです。
イエス様は当時の聖書学者たちに言われたのです。
マタイの福音書 12章34節、35節
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「まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。」
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とあります。
イエス様を待ち望む者は、目を覚まして祈る者です。
祈りの人について、聖書は確かに多くのことを言っているのです。その特徴はもちろん、目覚めていることです。待ち望むことです。身支度をして用意が整っている者です。
テサロニケ人への手紙・第一 5章6節
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ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。
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8節
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私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。
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・祈りの人は、主のために迫害を受ける用意のある人であり、
・祈りの人は、ほかの人たちに対して主を証しする用意のある人です。
パウロは愛弟子であるテモテに書いたのです。
テモテへの手紙・第二 4章5節
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あなたは、どのようなばあいにも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。
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とあります。
・祈りの人は恵みを待ち望む者です。すなわち、このような人は、自分自身の不確かさというものをわきまえ知っている者であり、イエス様に拠り頼む者です。
ペテロは書いたのです。
ペテロの手紙・第一 1章13節
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あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。
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とあります。
・祈りの人は、悪魔と戦う者です。ですから、ペテロは同じく第一の手紙5章8節、9節に、当時の迫害された兄弟姉妹に書き送ったのです。
ペテロの手紙・第一 5章8、9節前半
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身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。 |
祈りによってのみ、立ち向かうことができるのです。
イエス様を待ち望む者は、今話しましたように喜びに満たされており、目ざめて祈る者であり、自分自身をきよめます。
ヨハネの手紙・第一 3章2節、3節
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愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。
後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。
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イエス様を待ち望む者は、主イエス様が今日にでも来られるかもしれないという期待を
持っています。即ち、そのような人は、自分自身のことだけに目を奪われるようなことがなく、来たるべきお方に対して心を向けています。
イエス様を待ち望む者は、イエス様の血、イエス様のみことばによって、日々自分自身
を新たに清めます。ですからパウロは同じくコリントにいる人々に書いたのです。
コリント人への手紙・第二 7章1節
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愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。
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もう一箇所。非常にすばらしい約束です。
テサロニケ人への手紙・第一 5章23節
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平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。 |
これまでのことを簡単に要約しますと、
個人的な主イエス様の親しい交わりと愛がなければ、希望も喜びも、主を証しすること
も、自由も、真の祈りも、自分を清めることも、聖なる者と変えられることもありません。
主イエス様を愛する者の切なる願いは、イエス様が早く来られることです。「マラナ・
タ」。「主イエスよ、来てください」。
けれど、イエス様が来られるまで、次のようなことを心がけるべきです。
まず第一に、イエス様に対する畏れの念を持って歩むべきです。イエス様の目の前に隠し通せることは何一つとしてありません。イエス様の光の中を歩みましょう。お互いに対して何一つ隠しごとがあってはなりません。聖書を共に読み、祈りを共にしましょう。常に主がおられるということを覚えましょう。そうすれば、必ず祝福と助けと守りがイエス様から与えられます。
第二に、私たちのからだは聖霊の宮であることを絶えず覚えましょう。御霊は私たちを器として用いようと望んでおられます。いかなる罪も主から私たちを引き離し、主との交わりを断ちます。その結果は、自分自身の身に不幸を招き、喜びと平安から遠ざかってしまいます。自分は自分のものではない。御霊の宮であるということを銘記すべきです。なぜならこれもまた、祝福と助けと守りを受ける秘訣であるからです。
そして最後に、日々主イエス様の証し人として生活しなさい。例えば、ひとりだけの世界に閉じこもってしまい、ほかの兄弟姉妹と交わりを持たないことは、主のみこころにそぐわないことです。すべての事がらを、主イエス様に対する証しのために行なうべきです。
パウロはテモテに書いたのです。
テモテの手紙・第一 4章12節
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年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさい。
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三年半前でしょうか。ある兄弟姉妹は御代田で結婚しました。その前に手紙をもらった
のです。ちょっと紹介しましょう。
五月五日。御代田福音センターで結婚へと導かれました。お忙しい中、私たち、そして家族、親戚のためにお時間を割いていただき、本当にありがとうございます。
私たちの結婚指輪に刻んだみことばは、黙示録の22章20節です。
「これらのことをあかしする方がこう言われる。『しかり。わたしはすぐに来る。』アーメン。主イエスよ、来てください。」
これは、これから二人で間近に迫る主イエス様の再臨を待ち望む生活をしていきたいと思ったからです。聖書の一番最後にあるので、わかりやすいということもあります。
また、式次第には次のことばも書くことにいたしました。黙示録22章17節、21節。「御霊も花嫁も言う。『来てください。』これを聞く者は、『来てください。』と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。」
これは招いておられるイエス様を、式に来られるおひとりおひとりに知ってもらいたいからです。私は、あるとき姉妹に聞きました。「結婚式と再臨、どちらが先がいいですか」。姉妹は迷わず、「もちろん再臨です」と答えました。ぼく自身はどちらが先でもすばらしいと思っていたのですが、そうはっきり言われると正直びっくりしました。この人は本当に主を愛している、尊敬できる人だと思いました。
結婚式当日は、何十年ぶりの再会となる親戚や友人が来てくれることになっています。
その方々にも是非イエス様と再臨を知っていただきたいと思います。主イエス様だけが、
この暗い不安な時代にあって、本当の希望なのですから。そしてイエス様の再臨を待ち望
むことこそ、本当の勤勉さと豊かな報いをもたらすのですから。
当日集う多くの人々の心に、今このときも主イエスは豊かに働いてくださり、みことば
を聞く備えがなされますように、おひとりおひとりが飢え渇きを持って式に臨むことがで
きますように是非お祈りください。
最後に、主に喜ばれる家庭が築けるよう、私たちのためにもお祈りください。
「『しかり。わたしはすぐに来る』。アーメン。主イエスよ、来てください」という気持ちがあれば、主は豊かに祝福してくださり、心配、不安から解放してくださるのです。
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