計算しましょう(1)
2005.11.15(火)
ベック兄メッセージ(メモ)
引用聖句
詩篇32篇 1節、2節
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幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。
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ヨハネの手紙・第一 1章7節
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しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
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昨日まで沖縄でした。冷房なしでは寝られません。(笑) 海からの空気は体のために良いので、窓を開け放して寝ましたが、夜中には汗びっしょりになり、やはり冷房が必要でした。
沖縄ではいろいろな人たちと初めて会うようになり、五十歳の一人の奥さんは、「光が見えた」と言えるようになったのです。その方のご主人は愛人をつくってしまったのです。当時の彼女は、「子どもがいるから頑張らなくては」という考えでした。けれど今、子どもが大きくなり独立するようになったので、「もう私なんて居ても居なくても…」と。そして薬を飲んで死にたいと思っていたのですが、「光が見えた!」ということになって、昨日、飛行場まで飛んで来られたのです。「今度、東京まで行きます。御代田まで行きす!」と。
これはやはり、イエス様が生きて働いておられる証拠なのではないでしょうか。
では人間はどうして喜ぶことができるのでしょうか。主が、生きておられるからです。主は、生きる希望を与えてくださるからです。
先ほど、幸せな男の証しを、みことばから読んでいただきました。
詩篇32篇 1節、2節
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幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。
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どうしてこのように言えるのでしょうか。答えはその最後に読んでくださった箇所です。
ヨハネの手紙・第一 1章7節後半
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御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
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この二つのみことばを読むと、主の犠牲、主の流された血潮がどんなに尊いかが、しみ
じみとわかります。私たちは、イエス様の血潮の尊さをもっともっと感謝すべきではないでしょうか。
今回、沖縄まで、ほかの地方からも何人かみえたのです。祈り会の内容のことで問題になったとのこと、(場合によっては悪口にもなってしまいますし、分裂になります。)「やめましょうか…」と。もし祈り会をやめたら、喜ぶのは悪魔だけでしょう。それなら、祈り会を「礼拝」にすれば、自分の問題や他人の問題について一言も祈らないで、イエス様のなさった救いのみわざのために、みなが感謝すれば、よいのではないでしょうか。
主は、悩んでいる人たちの叫びよりも、兄弟姉妹の礼拝を求めておられるのではないでしょうか。人間は心から主を礼拝すると嬉しくなります。お互いの批判も、もちろん無くなります。
イエス様の血潮の価値について、聖書はたくさん語っているのです。以前に一緒に学びました。
・主なる神と人間との間を隔てている罪という名の壁は、イエス様の流された血潮によっ
て取り除かれていますので、主との交わりができるようになりました。
・それから、イエス様の十字架の血潮をよく知るなら、私たちの良心の呵責は消えて無く
なります。
・もう一つ、私たちが主イエス様の血の価値を深く知るなら、悪魔の訴えは効き目がなく
なります。
イエス様を信じるどのような者も、遅かれ早かれ、「自分は霊的にもっと成長しなくては
ならない。けれどそれが上手くいかない。どうしたらよいのだろうか」と考えるようになるのではないでしょうか。「勝利の生活を送りたい。けれど無理。どうしてもできない」。罪の性質を、自らのうちに嫌というほど知らされるけれど、どうしてもそれから解放されない。…そのようなところにはまり込みます。
今まで私たちは、主イエス様の血潮によって罪を赦され、義とされたことから更に進んで、きよめられることのほうが、どんなに難しいことなのかということを見て来ました。救われ、義とされるため、私たちは自らの努力をしませんでした。どうして救われたかと言いますと、主が恵んでくださったからです。
それと全く同じように、主をよりよく知るために自分の努力は無駄であるということも、
みことばを通して見ました。ですから、私たちは自ら努力して、罪を乗り越えていくので
なく、私たちの罪の源が何とかされなければいけないわけなのです。
しかし、主はすでに主の解放の備えを整えていてくださいました。ローマ人への手紙の、よく知られている箇所です。6章6節だけお読みいたします。
ローマ人への手紙 6章6節
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私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
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「古い人」とは、「生まれつきの性質」と言ってもよいでしょう。「知っている」とは、「確信している」です。ここではっきり書かれていることは、もうすでに解放の備えは整っているということです。もし私たちが内面的に、霊的に前進したいと思うなら、この事実をどうしても知らなければなりません。
ですから、先日私たちは、三つの質問について考えました。
1.私たちは何を知らなくてはならないのでしょうか。
答えは、私たちが主イエス様とともに十字架につけられたということです。これは歴史的な事実です。
2.私たちはどのようにして、この歴史的事実を知ることができるのでしょうか。
答えは、啓示によってです。上からの光によって示されなければ、自分のものになりません。
3.私たちにとって、なぜこの事実が大切なのでしょうか。
それは、イエス様の十字架は、私たちの持っている問題の根にまで解決のメスを入れてくださるからです。
私たちが憧れている、「勝利の生活」には入るには、どうしたら良いのでしょうか。
初代教会の人たちは、私たちは知っている、確信すると言えたのです。けれどそれは、第一段階にすぎません。第二段階について、パウロは同じくローマ書6章11節に、次のように書いたのです。お読みいたします。
ローマ人への手紙 6章11節
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このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。
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「思いなさい」。或いは、「認めなさい」と書いてありますが、「計算しなさい」と言ったほうがよいかもしれません。「思いなさい」、「計算しなさい」ということばは、提案ではなく命令です。これはいったい何を意味しているのでしょう。
今読みましたローマ書6章6節と11節は、合わせて読むべきものではないかと思います。もう一度、合わせて読みましょう。
ローマ人への手紙 6章6節
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私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
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ローマ人への手紙 6章11節
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このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。
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「知って」、次に「認めなさい」。「認め」、「計算しなさい」というのが正しい順序です。
私たちのうちの古き人は、キリストとともに、もうすでに十字架に架かって死んでしまったことを知ったなら、その次に、それを認め、計算するのです。この計算することも、もちろん啓示によって示された、その事実の上に立っていなければ、何の役にも立ちません。もしそうでないなら、私たちの信仰は、根拠のないむなしいものになってしまいます。
もし啓示によってそれを知るなら、計算するということは私たちにとって当たり前のこととなります。
この11節の計算することについて考えると、一生懸命に計算を始めるかもしれません。やがて何かの試みがやって来ますと、ぐらついてしまいます。そして計算することは無駄だと考えるようになるかもしれません。この11節は、6節の事実無しには、何の役にも立ちません。
私たちは、いつも悪魔が攻撃してくる自分の弱い点を知っています。攻撃が始まると、私たちはどうするのでしょうか。「自分は死んでいる。死んでいる」。一生懸命計算をし始めます。けれど努力して計算すればするほど、古き人が元気づいて来るのに気がつきます。いったいどうしてでしょうか。それは、第一段階に足を踏み入れていないからです。
イエス様が死なれたとき、私たちもともに死にました。それは、私たちはイエス様のうちに置かれていたからです。確かにイエス様は死なれました。それと同じように、確かに私たちの古き人も、イエス様とともに死んでしまったのです。
私たちはこの事実を、啓示によって見たのでしょうか。それとも、ただ頭の中で知って
いるのに過ぎないのでしょうか。もし、イエス様が私たちの目をこの永遠の事実に対して開いてくださるなら、私たちは主とともに死んだことを喜び、心から賛美することができるようになるに違いありません。
それでは、計算する秘訣はどこにあるのでしょうか。答えは啓示です。マタイ伝16章
の16節、17節を見ると、上から照らされる結果について、次のように書かれています。
マタイの福音書 16章16節、17節
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シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」
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上から光が与えられると、即座に確信できます。理性でもってつかめないかもしれませんが、喜びになります。そのために、主の恵みにあずかるようになった兄弟姉妹のため、パウロは祈りました。エペソ書1章に、パウロの祈りが書き記されています。
エペソ人への手紙 1章17節から19節
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どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。
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主の恵みにより救われた人たちにとって、これこそが必要だったのです。ですから、パウロは必死になってそのために祈りました。
私たちがイエス様と一つにされたことは、単なる教えではなくそれ以上のものであり、事実なのです。私たちはこの事実を、啓示によって見なければいけません。これは、はっきりとしない曖昧な出来事ではありません。
私たちは、主イエス様が私たちのために死んでくださったということを知ったとき、心
の目で見たとき、非常に深い心の体験をしましたが、私たちがイエス様とともに死んだということを心の目で見るなら、更に深い霊的体験を持つことになります。この二つの体験は、私たちの生活の土台となるべきものです。
私たちは、計算したからではなく、イエス様とともに十字架につけられたので、死んでいるのです。父なる神が私たちのために、もうすでにキリストのうちに成してくださったことを心の目で見ましたから、計算したのです。これが本当の計算です。死ぬために計算するのではなく、もうすでに死んでしまったから計算するのです。
「思いなさい」、「認め」、「計算する」ということは、何を意味しているのでしょうか。
それは、普通の算数、また通常の会計の帳簿をつけるようなものです。人間はいろいろな仕事をすることができますが、正確な答えが出るのは、何と言っても数字に関係のある仕事ではないでしょうか。
例えば、絵描きは絵を描くことができますが、決して完全な絵を描くことができません。
歴史家はその資料が百パーセント真実なものであるかどうか知りません。ですから完全に
正確な仕事をすることはできません。地図を書く人も、全く正確に書くことは不可能です。
私たちが同じことを見聞きしても、それを表現するとなると、そこにおのおのの違いが出
てきます。人間は不正確な者です。けれど算数や、会計の帳簿をつけることは、それとは別なのではないでしょうか。1+1=2です。これは東京でも、ベルリンでも、モスクワでも全く同じです。
主は、なぜこのローマ書6章11節で、次のように言われたのでしょうか。
ローマ人への手紙 6章11節
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このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。
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「思いなさい」。「認めなさい」。どうして、こう言われているのでしょうか。もうすでに、
私たちがイエス様とともに死んでしまったから、認めるべきであるということです。
もしあなたが五万円を持っているとすると、金銭出納簿に何と書き入れるでしょうか。
もちろん五万円と書き入れるでしょう。事実、五万円を持っているので、そのように書き
入れるのです。この五万円を持っているという事実に基づいて、それから計算します。買
い物に行っても、自分は五万円持っているということを、いつも考慮にいれておきます。
同じように、主なる神は、「私たちはもうすでに罪については死んだ者であると計算しな
さい」と言っておられます。「それは、事実ですからそうしなさい」とおっしゃるのです。これは主の命令です。あなたは五万円を持っていますから、帳簿にそのように書き入れました。同じように、もうすでに罪に対して死んでいますから、そのように計算しなさい。イエス様が死なれたとき、私たちもともに死にました。ですから、もうすでに罪について死んでしまっていることを計算し、信じ込まなければなりません。
罪に対して死に、主なる神に対して生きているということを認めるには、どうしたらよ
いのでしょうか。
私たちのうちにあってではなく、主イエス様によってのみ可能です。イエス様を見上げ、
イエス様の成し遂げられたみわざを思いみましょう。それが計算の秘訣です。もちろん、
これは信仰の計算でなければなりません。
ローマ書の前半は、大部分が信仰について書かれています。罪の赦し、義とされること、
主なる神との平和などはみな、信仰によって主に頼ることを通して自分のものとするこ
とができます。
これに対して、ローマ書の後半は、「信じなさい」ということより、「計算しなさい」ということばが多く書かれています。けれど、実際には信仰も計算も似ているものです。
信仰とはいったい何でしょうか。信仰とは主の成してくださったみわざを受け取ることです。信仰は、いつも過去に行なわれた事実の上に立つものです。信仰の目的を考えるときに、未来をのぞき見ますが、たいていの場合は過去に行なわれた事実に基づいています。
ローマ書後半に多く出て来る、「計算する」ということばは、全部過去の事実に基づいています。ですから、「信じなさい」ということばではなく、「計算しなさい」ということば
を使っているのです。
また、マルコ伝の11章には、「計算せよ」ということばと同じ意味のことを、イエス様が言われました。
マルコの福音書 11章24節
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だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。
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見えない、感じない、まだ考えられないけれど、すでに与えられていると信じなさい。
そうすると、結果としてそのとおりになります。イエス様にあって、もう既に与えられたと信じましょう。
信仰は、イエス様はもう既に与えられたと言います。私たちは心から喜びをもって、「私たちはもう既にイエス様とともに十字架につけられた」とイエス様を賛美することができるでしょうか。できるなら、信仰の計算ができているのです。
ローマ書3章は、イエス様が私たちの罪を背負い、私たちの身代わりに死なれた、私たちを義とし、赦してくださるために死なれたということが書き記されています。
そしてローマ書6章は、その主イエス様の死は私たちの罪の性質からの解放でもあったことを教えています。このローマ書3章の事実を啓示によって知ったとき、主イエス様を信じ、罪の赦しをいただきました。
イエス様は、この第一段階にとどまっていないで、第二段階の罪からの解放も信じ計算しなさいとおっしゃっておられます。計算とは、信仰の計算でなければなりません。
試みと失敗に対する、ただ一つの答えである信仰について、もう少し考えてみたいと思います。
先ほど述べた二つのことを私たちが本当に信じ、啓示によって知り、計算したとしても、やがて試みがやって来て失敗したとします。そのときはどうしたらよいかという新しい問題がまた起きてきます。
ローマ書6章11節は架空のものだった、実際のものではないのではないかと疑問に思
うでしょう。けれど、決してそうではありません。悪魔が一番狙っていることは、私たち
に、主なる神の動かすことのできない永遠の事実を疑わせることです。そして、悪魔は私たちの心に、「ふーん!お前のうちの古い人は、死んでいないのではないか?」と囁きかけることによって、疑いを起こさせ、その策略に乗せることに成功するのです。
これに対する私たちの対策はどうでしょうか。そのとき私たちは、目で見、手で触れ、
感じることができ、わかることができる肉的な、物質的な事がらを信じるのでしょうか。
それとも、目で見、手で触れ、感じ、信仰によるところの霊的なものを信じるのでしょ
うか。
聖書の中には、私たちが地上にいる限り罪の性質は消し去られない、罪を犯す可能性は
いつでも持っているということを、はっきり告げています。ですから、私たちは絶えず、
知る知らないにかかわらず、持っている罪を赦していただくためにイエス様が必要であるということを知らなければならないのです。
罪の性質は、いつも私たちのうちに潜んでいます。けれど、私たちは信仰により、毎日
毎日この力から解放され、罪の奴隷に甘んじていることなく、自らの肢体を義の武器とし
て主にささげなければならないということです。
ヨハネ第一の手紙の3章9節を見ると、当時の信じる者にヨハネは書き記したのです。
ヨハネの手紙・第一 3章9節
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だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです。
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このみことばによると、古い人、罪の性質からの解放は事実です。ヨハネはここで、信
じる者は罪を犯すことができないとは言っていません。イエス様を信じる者であるがゆえ
に、そのうちに宿っておられる主イエス様は罪を犯すことができないということを言っているのです。
ですから、私たち信者のうちには、二つの性質があります。一つは、罪を犯すことので
きないイエス様であり、もう一つは、古き人、生まれながらの罪の性質です。ですから、
私たちはどの事実の上に立っているか、どんな事実に基づいて計算するか、どんな事実に
よって生きるかが問題となるわけです。
即ち、私たちのうちには古い罪の性質があるという事実に基づいて生活するか、或いは、
聖なるイエス様が私たちのうちに宿り、住んでおられるという事実に基づいて生活するかが問題です。この末の世にあってどんなに信仰が大切であるか、もっと深く心に刻み込みたいものです。
ですからやはり、信仰とはいったい何なのかと考えるべきです。よく知られているヘブ
ル人への手紙11章1節は本当に大切です。なぜなら、この1節だけが信仰に対する説明として、聖書に書き記されています。
ヘブル人への手紙 11章1節
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信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
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「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」。この箇所
は、信仰とは何であるかと説明されています。信仰とは、もう既に成された事実を実現し、自分のものとすることです。
私たちは日々の生活で、目で見、耳で聴くことによって、事実を自分のものとすることができます。野には赤、青、紫、色とりどりの花が咲いています。もし、目を閉じたままでいるなら、その花は私たちのために何の役にも立ちません。けれど、目を開けると、色とりどりの花を見て、その色は私たちを楽しませてくれます。目の見えない方は色の区別がわかりません。耳の聴こえない方は音楽を理解することができません。けれど、私たちが見たり、聴いたりしなくても、花に色があること、音楽に音があることは事実です。
このように、私たちは目で見、耳で聴くことによって、実際にあるものを認めて、自分
たちのものとします。けれど、今まで学んできた、私たちが主イエス様とともに十字架に
つけられ死んだこと、血潮によって罪を赦されたことは、私たちの感覚で捉えることがで
きません。従って、多くの人たちは一度信じますけれど、確信がないと言うのです。
確信の土台とは、もちろん私たちの理性ではありません。わかったから信じると言うなら、非常に危険です。確信の土台とは、「みことば」だけです。
コリント第二の手紙の4章18節とは、勝利の生活を送った人たちの告白でもあります。
信仰によってのみ、目には見えませんが、永遠に変わらない神の臨在の事実を自分のものとすることができるのです。
コリント人への手紙・第二 4章18節
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私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。
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事実は信仰によって自分の体験となります。多くの人の場合、ローマ書6章6節を読みますが、これがその人の体験となりません。信じる兄弟姉妹には事実となりますが、イエス様がせっかく成してくださった事実を疑う兄弟姉妹や、頭で考える人たちには、残念ですが、事実とはなりません。
自分の古き人は、イエス様とともに十字架につけられてしまったということが問題です。
実は、信じても信じなくても、同じく事実です。私たちの罪の性質は、イエス様とともに
十字架につけられてしまったということを信じなくても、事実としてあくまで残りますが、私たちのためには何の役にも立ちません。信仰が、イエス様とともに十字架につけられた事実を、体験にまで結び付けてくれます。
主が用いられた兄弟が病気になりました。五日間もの間、高熱に悩まされ、眠れないほ
どでした。そうしているうちに、主が自分をいやされたという確信を得たのです。けれど、
外に表われている症状は違います。熱は相変わらず高く、脈は異常に速く、頭は割れるほ
ど痛いといった具合です。そのとき悪魔の囁きが聞こえました。「イエス様の約束はどこに
行ったのだ。お前の信仰、お前の祈りはどこにあるのだ」と囁きかけます。危うくそのこ
とばに乗りそうになったのですけれども、もう一度祈ろうと決意を固め、祈り続けようと
しました。そのとき、ヨハネ伝17章17節のことばが与えられたのです。
ヨハネの福音書 17章17節後半
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「あなたのみことばは真理です。」 |
もし神のみことばが真理であるなら、見えるところの病状は偽りであるはずです。そこ
で、その兄弟は悪魔に、「今、自分は頭が痛いのや熱のあることは嘘だ。主のみことばだけ
が真理であるはずだ」と言い返しました。五分ぐらいして眠り込んでしまいました。翌朝目を覚ましてみると、病気は完全にいやされていました。
この兄弟がいやされたのは、いやされるのが主のみこころであると確信したから、いや
されたのです。いやされない場合ももちろんあるでしょう。けれど、私たちがイエス様と
ともに十字架につけられたことは、例外なく確かです。
悪魔の訴えを退けるには、主のみことばを信じることが必要です。私たちは、どんなに
失敗しても、また悪魔がその失敗につけ込んで訴えて来ても、主のみことばを信じていか
なければなりません。
悪魔は、ことばだけではなく、誤ったしるしや経験や感情を私たちに起こさせ、私たちを主のみことばから離そうと努めます。
悪魔は、私たちの古き人は決して死なないで生きているということを、私たちに教えようと必死になっています。
私たちは、悪魔の騙しに乗るか、または主のみことばを取るか、決心しなければなりません。
私たちは、外に表われた現象によって行動するのでしょうか。それとも、主のみことばによって生きているのでしょうか。
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