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メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


計算しましょう(2)
   
2005.11.22(火)
ベック兄メッセージ(メモ)

 
引用聖句
ローマ人への手紙 6章6節
 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。

ローマ人への手紙 6章11節から23節

 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。


 今、二番目に歌いました歌の最後の文章は、非常によいものでした。「私は主のものです」。
これを心から言える人は、本当に幸せなのではないでしょうか。「私は何でもできるお方の
ものです。私はすでに富む者です。この主とは羊飼いであり、守り手であり、導き手です。ですから、満ち足りています」。

 ダビデは、「主は私の羊飼いであるから、乏しいことはない。私の杯は、溢れている」。
つまり、「喜びに満たされている」と。
 しかし、主のものになった人たちは、遅かれ早かれ、「自分は霊的にもっと成長しなければいけないけれど、それができない。どうしたらよいのか」というところにぶつかります。勝利の生活を送りたいけれども、どうしてもできません。罪の性質を、自らのうちに嫌というほど知らされますが、どうしてもそれから解放されません。そのようなところに、はまり込みます。

 今まで私たちは、主イエス様の流された血によって、罪を赦され、義とされることより、
さらに進んで、きよめられることのほうがどんなに難しいかしれないということを学んで来ました。
 救われ、義とされるために、私たちは自らの努力はしませんでした。主が恵んでくださ
いました。主の救いとは、決して人間の努力の結果でも聖書を学んだ報いでもありません。
単なる恵みです。
 けれどそれと全く同じように、きよめられるためにも自分の努力は無駄であると聖書ははっきり言っているのです。ですから、自ら努力して罪を乗り越えて行くのでは駄目であって、私たちの罪の源が何であるか知らなければいけないのです。

 今読みました箇所は、前にも何度も読みました。
ローマ人への手紙 6章6節

 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。

「古い人」とは、「生まれつきの性質」です。初代教会の兄弟姉妹はこの確信を持っていたのです。上から示されたからです。そして、11節です。
ローマ人への手紙 6章11節

 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。

 つまり、「認めなさい」。6章6節は、「私たちは知っている」「確信する」。そして11節は、「認めなさい」「計算しなさい」。「認め」、「計算する」というのが正しい順序です。
 私たちのうちの古い人は、キリストとともにもうすでに十字架につけられて死んでしま
ったことを知ったなら、その次に、それを認め、計算することです。

 この計算することも、やはり上からの光によって示されなければなりません。上からの啓示によって示された主の事実の上に立っていなければ、何の役にも立ちません。
もし、そうでないなら、私たちの信仰は、根拠のないむなしいものになってしまいます。もし、啓示によってそれを知るなら、計算するということは、私たちにとって当たり前のことになります。

 ヨハネ第一の手紙の中で、ヨハネは、次のように当時の信じる者に書いたのです。もち
ろん聖書全体ではっきりとしていることは、罪の性質はいつも私たちのうちに潜んでいるということです。
私たちは信仰により日々この力から解放され、罪の奴隷に甘んじていることなく、自らの肢体を義の武器として主にささげなければならないということなのです。
ヨハネの手紙・第一 3章9節

 だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです。

 この箇所によると、古い人、罪の性質からの解放は事実です。ヨハネはここで、信者は罪を犯すことができないとは言っていません。イエス様を信じる者であるがゆえに、その
うちに宿っておられるイエス様は罪を犯すことができないということが、ここで書かれて
います。
 ですから、私たち信者のうちに二つの性質があるのです。一つは、罪を犯すことのできないイエス様であり、もう一つは、古き人、生まれながらの私たちが持っている罪の性質です。つまり、私たちはどの事実の上に立っているか、どんな事実に基づいて計算するか、どんな事実によって生きるかということが問題となるわけです。
 私たちのうちには古い罪の性質があるという事実に基づいて生活するか、或いは聖なる主イエス様が私たちのうちに宿り、住んでおいでになるという事実に基づいて信仰生活を送るかのどちらかです。
「主は私のものです。この主は私のうちに生きておいでになる」という事実について考えると、安心して将来に向かうことができます。

 初代教会の人たちの決心とは、次のようなものです。よく知られている、多くの人たちの大好きなみことばの一つです。
コリント人への手紙・第二 4章18節

 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

 結局、いつまでも続くものに頼ると後悔しません。
 事実は、信仰によって私たちの体験となります。イエス様はみことば即ち聖書について何と言われたかと言いますと、
ヨハネの福音書 17章17節

「あなたのみことばは真理です。」

 悪魔の訴えを退けるには、主のみことばを信じることが必要です。私たちはどんなに失敗しても、また、悪魔がその失敗につけ込んで訴えて来ても、主のみことばを信じていか
なければなりません。
 悪魔はことばだけではなく、誤ったしるしや経験や感情を私たちに起こさせ、私たちを
主のみことばから離そうと努めます。悪魔は、私たちの古き人は決して死なないで生きて
いるということを、私たちに教えようと必死になっています。
 私たちは悪魔の騙しに乗るか、または主のみことばを取るか決心しなければなりません。
私たちは外に現われた事実によって行動する者でしょうか。それとも主なる神のみことばによって生きている者でしょうか。

 私の名前はベックです。みなわかっていますけれど、これは私が認めている事実です。
記憶がなくなって、私は自分の名前を忘れることがあるかもしれません。けれどその名前を感じることができなくても、忘れてしまっても、私がベックであることはいつも変わらない事実です。例えば私が自分の名前を書いて、「私は小泉です。(笑)私はベネディクト16世です」と誰かに言ったとします。けれどもこれは実際に大変難しいことで、無意識のうちに「私はベックだ」と言わないように本当に注意しなくてはなりません。うっかりしているときに、「ベック兄―!」と呼ばれたら、「はい!!」(笑)と答えてしまうことでしょう。そのように、事実はなかなか隠すことができません。ふとしたときに現われてしまいます。私がベックであるということは事実で、私がそれを認めることは難しくありません。この事実は、どんなことがあっても変わらない事実なのです。

 同じように、私たちが主イエス様とともに十字架につけられてしまったことは、私たち
がそれを感じても感じなくても、信じても信じなくても、またどんなことがあっても変わ
らない事実です。なぜなら、聖書はそう言っているからです。
次のように書かれています。
コリント人への手紙・第二 5章14節後半

 ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。

 たとえ私たちの体験がその反対であっても、事実は事実として残ります。私たちがこの事実の上に堅く立っている限り、悪魔は私たちに指一本さえ触れることができません。悪魔の攻撃は、いつも私たちの確信を揺るがせようとしてやって来ます。もし、私たちが主のみことばに対して疑問を持つようになったら、悪魔の勝利になります。イエス様の事実を計算し、信じきっている人は、悪魔の手に負えない人たちです。

コリント人への手紙・第二 5章7節

 確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。

 次の例話を覚えておられるかもしれませんが、事実と、信仰と、経験が、幅の狭い高い塀の上を一列になって歩いています。一番目、事実。二番目、信仰。三番目は、経験です。
 事実君が、先頭になって歩いていました。この事実は、右も左も見ません。後ろも振り返りません。真っ直ぐひたすら前を向いて歩いています。
 その次に、信仰君が歩いて行きます。信仰が、前を行く事実を見つめて歩いているときは、何ごともありませんでした。
 後ろからついて来る経験君も、上手い具合に歩いています。ですがある時、この信仰君は後ろの経験君を気にしました。「経験の奴、いったい何をしているだろうか」と思って、
後ろを振り向きました。そのときに、信仰君の目から事実君の姿が消えました。その途端に、信仰君はバランスを失って、塀から落ちてしまいました。そのとき、経験君も信仰君と一緒に落ちてしまったということです。

 悪魔が試みようとやって来るその目的とは、いったい何でしょうか。主から目を離し、自分のうちや、またいろいろな現実、環境を見させるためです。
 信仰は、しばしば主のみことばに反するようないろいろな事がらに出くわします。それは私たちが行なってしまう目に見える失敗です。このときに私たちのとる態度が問題です。そのとき、私たちは自分の感覚を信じ、悪魔の騙しごとを受け取るか、或いは、主のみことばに反することを全て退け、主のみことばに堅く立つかが問題です。私たちの態度一つで、主のみことばを否定しようとする材料がなくなるか、または私たちの信仰がなくなるかが決まるのです。

 目に見えないものは永遠にとどまるということを、深く思いみましょう。もし私たちが、
主の成し遂げられたみわざに目を向け続けるなら、一歩一歩その事実が私たちのものとなってくるはずです。イエス様が私たちの義であることが体験となり、また、主イエス様が私たちの希望であることが私たちのうちに現実となり、またよみがえりのいのちが私たちのものとなってくるのです。

 パウロは、ガラテヤ人に手紙を書いたとき、やはりこのことを考えたでしょう。
ガラテヤ人への手紙 4章19節

 私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。

 信仰は、主なる神の事実を実現します。永遠の客観的な主の事実が、私たちの主観的な
体験となります。
 
 私たちは信仰の計算の大切さについて考えました。また、試みと失敗に対する答えとは、
いつも信仰です。主に信頼することです。
 もう一つの大切な点は、イエス様のうちにとどまり続けることです。ヨハネ伝の15章
4節を見ると、次のように書かれています。
ヨハネの福音書 15章4節

「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。」

 前に何度も繰り返して言いましたが、もう一度まとめて繰り返します。
聖書の中には、私たちの罪の性質が取り去られたとは書いてありませんし、私たちは自分自身にあって死んだとも書いてありません。私たちはキリストにあって死に、罪の性質の働きが殺されたということが書かれています。
 もし、私たちがこの事実に立って信じるなら、また、主イエス様のうちに居続けるなら、これが私たちの体験となってくるはずです。
聖書は、力を尽くしてイエス様のうちに入り込みなさいとは言っていません。もうすでに私たちはキリストのうちに置かれているからです。イエス様のご命令は、「わたしのうちに入れ」ということではなく、「わたしにとどまりなさい」ということです。
 私たちがイエス様のうちに入れられたのは、主なる神のみわざでした。私たちが必要な
のは、ただそのうちにとどまり続けることだけです。

 主は、その救いと解放のみわざをイエス様のうちに行なわれたのであって、私たち個人
個人のうちに行なわれたのではありません。これを知ることが必要です。主なる神はこの救いと解放のみわざを、全てイエス様を通してイエス様のうちに行なわれたのです。ですから、イエス様の体験が私たちの体験とならなければならないのです。

 イエス様から離れては、霊的な体験はあり得ません。全てのみわざは、父は御子である
主イエス様にあって成し遂げられたのです。私たちはイエス様とともに十字架につけられ、
イエス様とともによみがえらされ、イエス様とともに天のみ座に座せしめられ、またイエス様にあって満ち足りた者とされ、イエス様にあって霊の諸々の祝福をもって祝福される者となったのです。全てのことを、私たちのうちにではなく、イエス様のうちに成し遂げられたのです。

 もし私たちが、主イエス様が自分とともに行なわれたことを信じ、計算するなら、主が成し遂げられたことが、そのままイエス様の中にあって自分の体験となってくるのです。主の経験が、私たちの経験となるのです。
 もし私たちが、この主の成し遂げられたみわざを認めず、計算もしないで、自分のうちを見つめ、自分の経験を追い求めるなら、主のみことばが聖書に記されていることと反対のことだという経験をすることになってしまいます。即ち、古き人、罪の性質は全く死んでいないことに気づくようになるでしょう。

 イエス様のうちにとどまり続けるということは、いったい何を意味しているのでしょう
か。どういうことなのでしょうか。
 それはどんなことがあっても変わらない、永遠に変わらない主の成し遂げられた事実の上に立つことを意味します。イエス様とともに死に、ともによみがえらされ、ともに天上の座に座せしめられ、主イエス様にあって霊の祝福にあずかる者とされたという事実の上に立つことを意味します。
 この主なる神のみわざは、確かに目に見えません。ですから、私たちは目に見えるものによらないで、即ち、外に現われた現象や自分の失敗、また生まれながらの罪の性質には目をくれないで、私たちのために主イエス様にあって行なわれた事実に目を留めて、それを認め、計算して歩みたいものです。そうしたら、イエス様の成し遂げられたことが、私たちのものとなります。

 主がイエス様にあって行なわれたみわざは、私たちの信仰によって私たちの生活に実現
して来ます。私たちは自らの古き人、罪の性質を殺そうと試みたり、またそれを良くし、
飾ろうと試みる必要はありません。いただいたよみがえりのいのちによって生活することだけであって、次第に完全な者となるように試みる必要は少しもありません。もしそうするなら、それは掟によって自分を縛り、絶望に陥ってしまうことになるでしょう。
 私たちがどうしてもしなければならないことは、ゆだねること、信頼することです。試
みることと、ゆだねることの間には、天国と地獄ほどの違いがあります。

 私たちはイエス様が死なれたとき、イエス様のうちにありました。イエス様がよみがえ
られたとき、私たちは主イエス様のうちに置かれていました。イエス様が父なる神の右に
座せしめられたとき、私たちはイエス様のうちにあったのです。この事実を計算するなら、
イエス様の体験は、私たちの体験となります。
 主なる神は、私たちを主イエス様のうちに置かれたのです。ですから、イエス様の身に起こったことは、私たちの身にも起こったことなのです。その頭(かしら)に成されたことは、肢体にも成されたのです。

 多くのクリスチャンたちは、新しい祝福、新しい経験を求め、また自分のうちにあふれるよみがえりのいのちと、御霊に満たされた生活とを追い求めています。これらを心から願い求めていますが、これらはみな、イエス様のご人格から切り離すことのできないものであることを忘れています。

 私たちの心の目が主イエス様に新しく開かれることによってのみ、まことの経験を自分
のものとすることができるのです。そのほかの祝福も経験も、全ては一時的なものであり、
やがて消え去ってしまうでしょう。
 まことの経験を得たいなら、主なる神がイエス様にあって成された事実を、心の目で啓
示によって見、信じ、計算しなければ、自分のものとなりません。

 主が、すべてのことを御子イエス様のうちに成し遂げられたのです。そして、私たちを
主イエス様のうちに置いてくださったのです。ですから、私たちがそれを信じても、信じ
なくても、イエス様が経験なさったことは、私たちも経験したことになるわけです。
 この尊い事実が、不信仰によっては、私たちに何の役にも立たないものになります。けれど信仰によるなら、イエス様の体験は私たちの体験となり、私たちは栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられるようになるとあります。


 初めに読みましたローマ書6章の11節から23節まで、非常に多くの素晴らしい事実
が述べられています。
パウロは、どうしてこの手紙を書いたのでしょうか。ローマにいる人たちが救われて欲しいからではありません。彼らはもうすでに救われていたのです。
 どうしたら、実際にイエス様の御姿が私たちのうちに形造られてくるのでしょうか。
どうしたら、実際に憧れの勝利の生活に達することができるのでしょうか。
どうしたら、信仰生活が前進するのでしょうか。
パウロの答えとは、知ることによって、心の目が開かれることによって、それから信仰の計算をすることによってです。

 私たちは、イエス様が今から二千年前に私たちの身代わりとなられ、私たちの古き人、古き性質とともに十字架で死なれ、墓に葬られ、新しい全人類とともによみがえらされた
という素晴らしい歴史的事実を、心の目で見、まことの知識として知らなければいけないということが、聖書の答えです。
それから、信仰の計算により、二千年前に成された歴史的事実を、自分個人のものとして受け取らなければいけないとこのローマ書6章に書かれています。

・イエス様が十字架の上で死なれたとき、私たちはイエス様のうちにありました。
・イエス様がよみがえられたとき、私たちはイエス様のうちにありました。
・イエス様が天のみ座に座せしめられたとき、私たちはイエス様のうちにありました。
 これらの驚くべき事実が、信仰の計算によって自分のものとなるとき初めて、私たちは
イエス様と同じ御姿に変えられていき、勝利の生活を送ることができ、また、信仰生活が
次第に前進するようになるのです。

 例えば、いわゆる水の洗礼は、体験したことを証しするものです。イエス様とともに死
に、ともによみがえらされたという事実を心の目で見た人だけが、幸いな洗礼の証しをす
ることができるのです。歴史的救いの事実を啓示によって知り、信仰の計算により自分の
ものとした人は、このように水のバプテスマを受けて証しするようになるのです。

 このローマ書6章の中で、知ることについてだけではなく、或いは計算することによってだけではなく、ささげる必要性についても書かれています。
 自分自身を、奴隷として、主に仕えるしもべとしてささげる、ということが要求されています。もし、私たちがイエス様の定められたご目的を達しようと思うなら、このことについても考えるべきではないでしょうか。

 前に読みましたローマ書6章の12節、13節をもう一度読みましょう。
ローマ人への手紙 6章12節、13節

 ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。

 このローマ書6章12節から23節までの間に一番多く出て来ることばは、「ささげる」
ということばです。13節、16節、19節に合わせて五回、この「ささげる」というこ
とばが書き記されています。
ローマ人への手紙 6章16節

 あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。

ローマ人への手紙 6章19節

 あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。

 多くの人は、キリスト者がきよめられていくことについて話すとき、自分自身を神にさ
さげなさいと言いますが、いったい何をささげるのかはっきり言いません。私たちは何を
ささげるのか、はっきりさせるべきです。
 逆に、何をささげることができないかと言いますと、それは古き人、自分の知恵と力、
生まれながらの能力と賜物を、イエス様にささげることはできません。
 主は、古き人をのろい、十字架の上で判決を下され、さばかれました。古き人につける
ものを、主は何一つ受け入れようとなさいません。
ローマ人への手紙 6章13節

 また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。

 ここにその鍵があります。
何を主にささげなければならないのでしょうか。古き人ではなく、イエス様とともに死に、よみがえらされた新しき者です。
主に自らをささげるということは、古き人はイエス様とともに十字架に死に、さばかれ済みであるという信仰の計算をした結果です。そして、信仰の計算は、主イエス様の救いの事実を知ることを土台としていることは、言うまでもないでしょう。
 初めに知り、次に信仰の計算をすると、主は私たちに、自分自身を神にささげなさいと言われます。もし、私たちが自分の古き人はイエス様とともに十字架で死んでいることを心の目で見て知っているなら、計算することは当たり前のことです。


 このローマ書6章6節、また11節を、一緒に読まなくてはならないのではないでしょうか。知っているから、思い、計算しなさい。
 もし、私たちが新しき者としてイエス様とともによみがえらされてしまっていることを
心の目で見るなら、私たちが主イエス様にあって神に生きている者であることも、当然のこととして知ることができるはずです。

 この二つの段階を自分のものとした人は、自然に第三の段階に導かれます。
 死からよみがえることなくして、主にささげることはあり得ません。主は決して汚れた古き人を受け入れられないからです。私たちが自らを主にささげる準備の土台は、死んで、よみがえることです。

 バプテスマのヨハネは、同じことを違うことばで言ったのです。
ヨハネの福音書 3章30節

「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」

 結局、「主が中心になられれば私は喜ぶ」と、バプテスマのヨハネは心から言うことができたのです。
 もし私たちも同じ態度をとることができれば、大いに祝福されるに違いありません。



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メッセージ・証し集インデックスページ

◆メッセージ(ベック兄)

※一部、テープの転換による不明部分あり

神のみことばは神のみことばである(5) 2006. 4. 18
神のみことばは神のみことばである(4) 2006. 4. 11
神のみことばは神のみことばである(3) 2006. 4. 4
神のみことばは神のみことばである(2) 2006. 3. 21
家族の救い 2006. 3. 19
神のみことばは神のみことばである(1) 2006. 3. 14
主イエスは神の子キリストである(4) 2006. 3. 7
主イエスは神の子キリストである(3) 2006. 2. 28
主イエスは神の子キリストである(2) 2006. 2. 14
主イエスは神の子キリストである(1) 2006. 2. 7
勝利の生活の秘訣 2006. 1. 24
イエス・キリストのからだ 2006. 1. 17
主の永遠からの予定 2006. 1. 10
元旦メッセージ 2006. 1. 1


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