進歩への道_―捧げること―
2005.11.29(火)
ベック兄メッセージ(メモ)
引用聖句
ローマ人への手紙 6章12節、13節
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ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。
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今日の集いも、ただ、イエス様を紹介する会です。そしてイエス様を紹介することができることは、本当に素晴らしいことではないでしょうか。
いろいろな問題を持って苦しんでいる人たちは、やはり備えられている人たちです。
そのような人たちは、聞く耳を持っています。聞く耳を持つ人たちは、必ず満たされます。
この間、ある夫婦と初めて会ったのですが、夫婦一致していたのです。「死ぬしかない。もう見込みがない」と。経営している店が倒産してしまいました。人間とは本当に愚かなもので、頑張れば何とかなるのではないかと。子どもたちからもお金を借りました。借金、借金。借金をしたけれど、「やはりもうおしまい。死にましょう」と。
しかし、イエス様のことを紹介されると、イエス様は望みの神ですから、諦める必要がなくなり、その夫婦は本当に素直に祈るようになって、「主は必ず祈りを聞いてくださるから、大切なのは今からだ」と確信するようになりました。
また、別の奥さんは友だちに案内されてお出でになりましたが、全く笑うような様子は見えませんでした。末期がんで痩せていらっしゃいました。医者は長くても一月しかもたないと。けれども、そのような人たちに、「イエス様は死を克服してくださった。今の人生なんて大したものではない。死んでから始まります」と伝えることができるのは、本当に感謝なことではないでしょうか。奥さんは決心されたのです。「自分の葬儀は無宗教で行なって欲しい。イエス様を紹介していただきたい」。これは素晴らしいことではないでしょうか。つまり希望を得た証拠ではないでしょうか。
また別の奥さんは、ある医者の奥さんに案内されてお出でになりました。ご主人は自殺したのです。そのような人たちに何と言えばよいのでしょうか。励ますことができません。けれども、望みの神である主イエス様を紹介すると、希望を持つようになります。
では、私たちの人生にとっていったい何が必要なのでしょうか。
それは救われることです。救われることとは、救い主を受け入れることです。イエス様無しの救いはあり得ません。つまり、救われることとは、勉強した結果ではありません。
イエス様こそ、救い主そのものなのです。
救われるために必要なのは、「いくら頑張ってももう無理。疲れた。助けてください」。そのような飢え渇き、また告白を持つことなのです。
聖書が語っている救いとは、一時的な問題の解決ではありません。罪の問題の解決です。私たちのわがままのゆえに聖なる神の怒りのもとにある人間が、主との平和を持ち、債務が支払われ、罪が赦され、永遠のいのちをいただく、これこそがまことの救いです。
このような救いは、勉強によって、或いは宗教に入ることによっては、もちろん得られません。イエス様こそが、救いそのものなのです。
イザヤは、二千六百年前に書き記したのです。
イザヤ書 12章2節
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見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。
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「主は私の救いとなられた」。「私は救いを得た」ではありません。「主は私の救い主」。
イエス様ご自身こそが、救いそのものです。
そして、人間のなすべきこととは、ただ、助けを求めること、祈ることです。
「イエス様。私はどうしようもない者です。けれども、みもとに参ります。あなたが、私の問題を解決してくださり、私を贖ってくださったことを心から感謝します」。
この態度をとると、希望が湧いて来ます。
聖書の最後に、素晴らしいみことばが書かれています。
ヨハネの黙示録 22章17節後半
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いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。
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「いのちの水」とは、もちろんイエス様による救いの贈り物です。「ほしい者は、受けるがよい」。欲っすれば、受けるに違いありません。欲しいと思わなければ、将来は確かに真っ暗闇です。
主イエス様は永遠のいのちを与えるために、人間を救うために人間を強制なさいません。ですから、「ほしい者は」と書かれています。欲しい者は、受けます。受けた者は、持ちます。即ち、神との平和、罪の赦し、永遠のいのちを持つようになります。
救われることとは確かに素晴らしい恵みです。けれども、それだけでは十分ではありません。新約聖書の手紙を見るとわかります。使徒たちは、人々が救われたからもうOKと思ったことはありません。つまり、救われた人たちが成長しなければ、イエス様は満足されません。
では成長のために必要なこととは何でしょうか。自分自身を主に捧げることです。奴隷として、自分自身を主に捧げることです。
ですから、今読んでいただきました箇所をもう一度読みましょう。
ローマ人への手紙 6章12節、13節
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あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。
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これはもちろん、もうすでに救いにあずかるようになって、意識してイエス様を自分の
救い主として受け入れた兄弟姉妹に書かれたことばです。
ローマ書6章の13節、16節、19節に、合わせて五回も「ささげる」ということば
が出てきます。
ローマ人への手紙 6章16節
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あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。
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ローマ人への手紙 6章19節
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あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。
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多くの人たちは、キリスト者がきよめられていくことについて話すとき、「自分自身を神に捧げなさい」と言いますが、
1.いったい何を捧げるべきでしょうか。何を捧げなくてはいけないのでしょうか。
答えは、自分自身です。
2.だれに自分自身を捧げなければならないのでしょうか。
言うまでもなく、主イエス様にです。十字架の上で犠牲になられ、復活なさり、近いうちにまた来られる主イエス様に捧げるべきです。
3.どういう者として捧げるべきでしょうか。
答えは、奴隷として捧げるべきです。
1.まず何を捧げなければいけないのでしょうか。
今読みましたローマ書6章13節と19節には、自分の肢体を義の武器として、義のしもべとして神に捧げるがよいと書かれています。主イエス様は、私たちが肢体の全部を捧げることを望んでおいでになります。自分はもう自分のものではなく、主のものであるということを知るのは、実に深い体験です。
確かに今、私たちはみな歌いました。(心からそう思っているかどうかわかりませんが)「私たちは主のものです」と。おそらく歌うことによって一番嘘をつくことになっているのではないでしょうか。(笑)あまり深く考えないで歌いますけれど…。
「私は主のものです。自分のものではありません」と本当にそう思うなら素晴らしいことです。
パウロは、「私はイエス様といっしょに十字架につけられた。生きているのは私ではない。
私は主のものです」と。
例えば、ポケットに五千円あるとします。それがあなたのものならば自由に使うことができますが、そうでないなら使えません。自分のものではないお金は自由に使えません。
自分はもう自分のものではなく、主イエスのものです。このことをよくわきまえている
なら、信仰生活は急速に前進するでしょう。
私たちは、死んで、よみがえることにより、自らが主のものとなってしまったことを、本当に知っているでしょうか。
私たちの持つ全てのものは、自分のものではなく、主のものです。私たちの持っているお金は、自分のものではありません。イエス様のものです。私たちが毎日を過ごす時間は、自分で計画を立てて使うのでしょうか。それとも、イエス様の導きのままに用いるのでしょうか。時間も、結局、主のものです。
私たちはいろいろな賜物や能力を持っているかもしれませんが、だれがそれを使うのでしょうか。自分か、それともイエス様か、どちらなのでしょうか。持っているお金を自分で分け与えたり、持っている時間を自分で使ったり、持っている賜物を自分で使うのでしょうか。それとも、イエス様の導きによって使おうとしているのでしょうか。全ては主のものです。
聖書の中で、「地はわたしのものです」と主は言っておられるのです。
レビ記 25章23節
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地は買い戻しの権利を放棄して、売ってはならない。地はわたしのものであるから。あなたがたはわたしのもとに居留している異国人である。
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私たちは現在、本当は大きな集会所が欲しいのですが、なかなか見つかりません。見つかってもちょっと不便な所なので…。或いは、値段が高いし…。けれどもこの地全部は、主のものです。そうすれば、自分で考えるのはおかしいことではないでしょうか。必要なものは、必ず必要な時に与えられます。与えられなければ、必要ではないのですから。
かつて、設計士のK兄弟は一生懸命設計図を作ってくださいましたが、設計ができてから再臨だったら全て無駄です。再臨の時がわかれば、ありがたいです。(笑) わからないからちょっと…。けれども、全ては主のものです。何でもおできになるお方は、不可能を可能にすることがおできになります。ですから、お導きになってくださいと祈り続けることができることは、本当に感謝なことではないでしょうか。
ある日、一人の兄弟が未信者の人と汽車の座席に向かい合って座りました。未信者の人は三人だったのです。しばらくするうちに、未信者の三人が退屈してきたから遊ぼうと言い始めました。ところが、遊びは四人でする遊びです。三人は、信者の兄弟に一緒に遊ぼうと誘ったのですけれど、その兄弟は、「私には手がない」と言うのです。三人は驚いて、不思議だと思ったでしょう。兄弟はもちろん説明したのです。「私が持っているこの手は、また私の持っている全てのものは、私のものではありません。私を救ってくださったイエス様のものです」と説明したのです。
これが、主のきよめにあずかっている人の特徴ではないでしょうか。
ですから、パウロはローマにいる兄弟姉妹に書いたのです。19節をもう一度読みます。
ローマ人への手紙 6章19節
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あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。
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自分自身を捧げるべきです。自分はもう自分のものではないからです。
2.次に、だれに捧げるのでしょうか。
言うまでもなく、主イエス様に捧げるのです。
ローマ人への手紙 6章13節
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また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。 |
多くの人たちは、信じる者のきよさはその人のうちから悪いことを取り除くことだと考
えていますが、それは誤りです。きよめは、自分を全く主にゆだねることです。
旧約聖書を見ると、主がある人をご自分のものとしてお用いになるとき、その人に油を
注がれました。人々は、その人が油を注がれたとき、きよくされたと認めたのです。なぜ
なら、油を注がれた人は、その時から聖霊の導きに従う者となり、主の器となったのです。
人間の場合だけではなく、小羊や、また金などの場合も同じことです。小羊や金は油を
注がれた時にきよきものとされました。小羊や金から悪いものを取り除くなどということ
は考えられないことです。油を注ぐことにより主のものとなることによって、きよきもの
とされたということです。
私たちは自分の全てを主にささげます。「全き主の導きに従います」と心から言い表わす
ことが、まことのきよめです。
けれど私たちが自らを主に捧げるためには、私たちはもうすでに主のものとなっていることを知らなければなりません。主のものですから、当然持ち主である主に捧げるのです。
主に捧げるということは、何かぼんやりしたことではありません。はっきりとした体験です。「私たちは自分のものではありません。主のものです。ですから、今日から、今から主に捧げます」といった、はっきりとした一つの線が引かれる日があったはずですし、またあるはずです。
信じる者の大多数の者は、捧げるということを誤って考えています。捧げるということは、神学校に行くことや、伝道者、宣教師になることだと思っています。そして、神学校を卒業してご奉仕を始めるのは良いのですが、生まれつきの古き人のままでご奉仕をしようとします。これは、決して主に捧げることではありません。本当の献身ではないのです。
捧げるということは、いわゆるご奉仕をすることでしょうか。決してそうではありません。まことの献身は、主のみこころに自らをゆだね、主のお望みになるとおりに事をなすことです。毎日、「主よ。どうしたらよいのでしょうか。わかりません。教えてください」という心構えを持つことです。
ダビデ王は、立派な家来たちを持っていました。けれど、この家来の中には門番もいた
でしょうし、将軍もいたことでしょう。ダビデは自分の思いのままに、家来をそれぞれの
務めに任命したのです。もし主がそうしなさいと言われ、それが主の御旨ならば、私たちは門番にもならなければいけませんし、将軍にもなりましょう。主のみこころこそが大切です。私たちがあれやこれやと選ぶことはいけないのです。もし私たちが主のものなら、私たちには一人一人、主イエス様のお決めになった道が備わっているはずです。
また一番大切なことは、イエス様は私たちをどの道にお導きになりたいのかということ
を知り、主がお求めになる道を歩むことです。「イエス様。私は自分をあなたに捧げます。あなたが求めておられる道を知り、その上を歩みたい。それが私の唯一の願いです」と、心から主に言い表わすなら、それこそまことの献身ではないでしょうか。
これと違い、生涯の終わりに、「私は主の道を歩まなかった。小羊の行かれるところに従
わなかった。私は自らの道を選んでしまった」と言わなければならないようなら、それこ
そ悲劇です。私たちのいのちは一つしかありません。私たちがこの地上で生活できるのは、ただ一度だけです。もしこの生涯において、自分の道を自ら選び取るなら、主イエス様は、決してご栄光をお受けになることができません。
「私は自分のために何も欲しくありません。ただイエス様だけが御栄光をお受けになるように」と願い、立場を、願いを、憧れを絶えず持ち続けたいものです。
私たちは、自らの願い、計画、目的を持っているのでしょうか。それとも、イエス様の
みこころを成すことが自分の全てとなっているのでしょうか。イエス様の御旨は、自分に
とっても全てであり、喜ばしいことであり、また全きことであるのでしょうか。
大切なことは、私たちの意志です。自らの意志を十字架につけてしまい、そして、余すところなくイエス様にすべてを捧げるかが大切なのです。
洋服屋さんに洋服を作ってもらうとき、生地を渡さなければ、洋服屋さんはどうするこ
ともできません。家を建てるとき、請け負い業者にお金を渡さなければ、請け負い業者は
材料を買えませんから、どうすることもできないでしょう。
それと同じように、もし、イエス様がご自分のいのちを私たちのうちに豊かにお与えになり、ご自分の形を私たちのうちに形造ろうとされても、私たちが自分自身を全て主に捧げなければ、どうすることもおできになりません。余すところなく、全く主にお捧げしましょう。
3.どういう者として捧げるのでしょうか。
答えは奴隷としてです。もし私たちが余すところなく、全く主イエス様に捧げ、ゆだねるなら、いろいろな点で改めることが起こってきます。家族の中で、職場の中で、自分の私生活の中で、変化が起こってくるはずです。考えも変わるはずです。
イエス様は、私たちのうちから出てくるものを喜ばれません。お嫌いです。主は私たち
の痛いところに手を置かれ、これはいけない、直さなければいけないと言われます。
私たちは、今まで自分にとって、かけがえのない大切なものと考えていたものを、全て主にお捧げしているでしょうか。自分の思いを捨てて、イエス様にお捧げしているでしょうか。あの関係、この関係とイエス様に喜ばれない関係をすっぱりと断ち切っているでしょうか。また、これから断ち切ろうとしているでしょうか。
イエス様のみこころに従おうとしないことは、最も恐ろしいことです。また愚かなことです。
私たちのうちに、まだイエス様にお捧げしていないものがあるでしょうか。それを手離すことを恐れたり、不安を抱いたり…。それらの全てを、主におゆだねして祈ってみたらどうでしょう。
もちろんそのまま続けることはできるでしょう。しかし、それは主のみこころではありません。もし、自分の心の中に主をお迎えする場所を空け、主に全てをおゆだねするなら、限りなく豊かな祝福が私たちに注がれるに違いありません。
「私たちは自分のものではなく主のものです」ということを知ることは、最も大切であり、素晴らしいことなのです。地上で、これにまさる大きな喜びはありません。このまことの知識を得て初めて、主が絶えず臨在しておられることを知ることができるのです。
自分が、全く主イエス様に属する者であることを知らないなら、主イエス様が常にかたわらにおいでになるということもわからないでしょう。もし、私たちが主イエス様に全てを捧げ、聖霊様の導きのもとに全く自らをゆだね、イエス様のご支配のもとに入るなら、自らの努力によるきよめをもって満足させようなどという考えはなくなります。
もう一度ローマ書6章に戻りまして、6章の16節をお読みします。
ローマ人への手紙 6章16節
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あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。
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ここに、しもべではなく、奴隷ということばが使われていますが、しもべと奴隷の間に
は、どんな違いがあるのでしょうか。
しもべは、一人の主人に仕えますが、自分自身も自分の主人です。しもべは、主人が愛してくれなければ、「ふん。こんなところはもうたくさん」と言って、ほかの主人を選び、そこへ行って働きます。
これに対して、奴隷は、主人に仕えるばかりでなく、奴隷そのものが主人のものです。奴隷は自分で決め、選ぶことができません。自らは自分のものではなく、主人のものだからです。
聖書は、救われたキリスト者は例外なく主イエス様の奴隷であると言っています。
イエス様はその尊い血潮で私たちを贖い取ってくださいました。「主に買われた」。この
事実を知るなら、私たちは、その全てを主に捧げたいという願いを持つようになるのでは
ないでしょうか。
私たちは、自分で決定して、主の奴隷とならなければなりません。主イエス様は私たちを強制なさいません。強制して奴隷になった奴隷を、主は喜ばれないのです。
こんにちのいわゆるクリスチャン生活における多くの悩みは、いったい何でしょうか。
「私はイエス様のために奉仕します。私はイエス様に自らを捧げます」と言いますが、改心前の生まれながらのものを持ってそのように言っています。これは本当の献身ではありません。私たちは簡単に、「主にお捧げします。献身します」と言わないようにしましょう。イエス様は、そのことばをいい加減に受けとられません。本気に受けとられます。
ガリラヤの湖畔で、イエス様に対して、持っているパンを捧げた一人の少年がいました。捧げられたパンを、イエス様はどうされたのでしょうか。いくつにもお裂きになりました。
主は、そのように、捧げられたものを裂かれます。イエス様は捧げられたものを御手の
うちに納め、全く粉々に砕かれます。けれどイエス様はパンを裂かれたのち、それを祝福なさり、五千人の空腹を満たされました。
同じように、イエス様に捧げたものを主は砕かれますが、その後に祝福なさり、ほかの人たちの悩みをいやすためにお用いになってくださいます。
もし、今日私たちが、「主イエス様。全てをお捧げいたします」と言ってお捧げするなら、主は、御手のうちで私たちを砕かれるのです。そのとき私たちは、砕かれ、自らの有様を知り、失敗と弱さを悟り、失望し、主の導きを疑うようになるかもしれません。そして、もしそのまま疑い続けたら、その最後はどのようなことになるでしょうか。砕かれた器、役に立たない器がそこに残るだけです。
ほかの人たちの悩みも、自分を通して癒されません。主も私たちを祝福することがおできになりません。なぜでしょうか。
それは、私たちが主の御手のうちで全く砕かれきることを望まないからではないでしょうか。これは、信じる者の大きな悲劇です。
奴隷として、私たちは自らを主にゆだねなければなりません。奴隷は自分の全てが主人
のものであり、自分はどうなろうと、どうされようと、それは主人のもっている権利だということを認めているからです。私たちがこの態度をとることを、主は待ち望んでおられます。この態度をとるなら、それこそまことの献身であり、用いられる秘訣そのものです。
まことの献身とは、伝道者や宣教師、牧師になることではありません。自分の意思を主
の意思にゆだねることです。どこに行っても、時と所を問わず、会社でも家庭でも、また海の上にいても、野原にいても、すべてを主に捧げることです。
主イエス様が私たちをどこに導かれようと、主の導かれるところは私たちにとって最上
のところであるはずです。全く主にゆだね、小羊の行くところに従う人は、誤解と悩みと
迫害の道を歩むようになるでしょう。けれど、小羊に従う者は、小羊の栄光に満ちた天に
導かれます。
コリント第一の手紙6章から二節をお読みいたします。
コリント人への手紙・第一 6章13節後半
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からだは不品行のためにあるのではなく、主のためであり、主はからだのためです。
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コリント人への手紙・第一 6章15節
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あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。キリストのからだを取って遊女のからだとするのですか。そんなことは絶対に許されません。
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私たちは全く主のものです。余すところなく主のものです。私たちのからだ全部が主のものですが、私たちが自分で事をなし、自分で事を決するなら、霊的な放蕩をすることになります。
コリント人への手紙・第一 6章19節、20節
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あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。
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