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メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


御霊によって歩もう (1)
   
2005.12.6(火)
ベック兄メッセージ(メモ)

 
引用聖句
使徒の働き 19章1節から7節
 アポロがコリントにいた間に、パウロは奥地を通ってエペソに来た。そして幾人かの弟子に出会って、「信じたとき、聖霊を受けましたか。」と尋ねると、彼らは、「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした。」と答えた。「では、どんなバプテスマを受けたのですか。」と言うと、「ヨハネのバプテスマです。」と答えた。そこで、パウロは、「ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです。」と言った。これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。その人々は、みなで十二人ほどであった。

テモテへの手紙・第二 1章14節

 そして、あなたにゆだねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって、守りなさい。


神のみことばである聖書は、主の永遠の昔からのご予定について多くのことを語ってい
ます。即ち、主なる神はなぜ人間をお造りになったのでしょうか。主の永遠からの創造に
おける予定は、いったい何でしょうか。
 聖書は三つのことを言っています。
1.主なる神の性質にあずかるために、人間が創造された。
2.主のご愛に報い、応えるために、人間が創造された。
3.永遠のいのちを得るために、人間が創造された。
これは、人間を造られる前に、主の持っておられたご予定でした。

 救いにおける主の永遠からのご予定は何だったのでしょうか。イエス様はどうして尊い血潮を流し、十字架の上で死なれたのでしょうか。
 消極的な面は二つあります。即ち、
1.私たちの罪の問題を解決するため。
2.私たちの古き人、即ち、罪の性質の問題を解決するため。
このためにイエス様は、犠牲の死を遂げられたのです。

 今まで、私たちはこの二つの面について詳しく考えてまいりました。簡単に申しますな
ら、私たちが何をしたのか。即ち、罪を犯した。罪を消すためにはイエス様の血潮があり、
イエス様の血潮を信じると、罪の赦しの確信が与えられる。御子イエスの血は、すべての罪から私たちをきよめることができるということです。

 三千年前にダビデ王は、救いの確信を得て赦されたことをはっきり告白しました。
詩篇32篇 1節、2節

 幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。

 それは、私たちが何をしたかが問題とされているだけではありません。私たちが何であるか、つまり罪人であって、罪の性質を持つ者であるということです。そしてその解決の手段は、イエス様の十字架上の贖いの死を、感謝をもって信じる者は、まことの解放、罪の力からの解放を経験することができるのです。

 しかし、消極的な面だけではなく積極的な面もあります。イエス様の死はどうして必要
だったかと言いますと、最初の人間であるアダムが父なる神の前に失ったものを回復するため、また、悪魔のわざを滅ぼすために必要だっただけでありません。主の永遠からのご予定が成し遂げられるために必要でした。

 最初の人間が失ったものを回復するため、また、罪の赦しと罪の力からの解放だけでは
なく、自らのいのちを与えることにより、人類に永遠のいのちを得させるためにとイエス様を死に渡されたのです。
 「イエス様は教会を愛して、そのためにご自身をささげられた」と、パウロはエペソに
いる人たちに書いたのです。イエス様の死によって、私たちはアダムが堕罪する前に持っ
ていたものより、もっともっと多くのものを持つようになったのです。罪が赦され、古き
人が殺されたばかりでなく、主なる神の持っておられる永遠のいのちにあずかる者とされ
たのです。永遠のいのちを持つことにより神の子どもとされ、主イエス様の兄弟とされた
のです。主イエス様を受け入れた者一人一人は、主なる神の家族の一員とされたのです。
何という素晴らしい救いのみわざでしょう。

どうしたら実際に、イエス様の御姿が私たちに形造られるでしょうか。
どうしたら実際に、憧れの勝利の生活に達することができるでしょうか。
どうしたら実際に、信仰生活が前進するでしょうか。
 これらの疑問を今日まで考えてきましたが、その答えは、
1.霊的に知ること。
2.信仰の計算をすること。
3.おのれを主に捧げ尽すことでした。

 今日は、第四番目の点について考えたいと思います。
 即ち、「御霊によって歩むこと」です。御霊とは、いったいどのようなお方でしょうか。

 今から数十年前の地図を見ると、アジア、アフリカ、オーストラリアの部分は白いまま
で残されており、地図の側には、まだこの地方は調べ尽くされていないと書いてあり、河
川も実線で示されておらず点線で示されています。また、地図によっては都市の所在地も
まちまちというありさまでした。
 イエス様を信じる兄弟姉妹の経験においても、その地図のように、白いままで残されて
いる未知の世界がたくさんあります。とりわけ御霊についての知識に乏しい方が多いよう
です。
 エペソの信者たちがやはりそうでした。今読んでいただきました使徒行伝の19章1節
から7節までを読むとわかります。パウロが彼らに問うたのです。「信者になったときに、
あなたがたは御霊を受けましたか」と。彼らは、御霊なるものがあることさえ聞いたことがないと言ったのです。エペソの信者にとって、御霊の世界は未知の世界でした。

 こんにち多くの兄弟姉妹に、「あなたはいつ聖霊を受けましたか。御霊はあなたにとって現実のお方なのですか」と問うと、やはり答えられない方が多いのではないでしょうか。父なる神のことはよく知っていて、主なる神は全宇宙の創造者であり、私たちの天の父であり、全能にして愛に満ちておられるお方である、と心から言うことができます。また、イエス様のことも身近に覚えて、イエス様は私たちの救い主であり、私たちの持っているただ一つの富だと言います。ところが、いったん、「御霊様は?」と問われますと、御霊様についての知識を持っていても、実際には不確かな、ぼんやりしたものにしか感じていないようです。御霊様と私たちの間の関係は、私たちの霊的生活、霊的進歩に欠くことのできない関係です。

 新約聖書を読むと、初代教会の兄弟姉妹にとっては、御霊は本当に現実的なお方だったことがわかります。初代教会の兄弟姉妹は御霊様にまず教えられ、それから満たされ、また導かれたのです。二、三箇所読んでみたいと思います。
彼らが御霊様に語りかけられたということが、使徒行伝に書かれています。使徒行伝とは、いわゆる歴史の本です。教会はどのようにしてできたのか、どのように初代教会の人たちは導かれ、成長したのか、また用いられたのかについて記されています。
使徒の働き 8章29節

 御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい。」と言われた。

 御霊が命令したので、ピリポは従順に従いました。使徒行伝10章の19節を見ても、
御霊が、今度はピリポではなくペテロに語ったとあります。
使徒の働き 10章19節、20節

 ペテロが幻について思い巡らしているとき、御霊が彼にこう言われた。「見なさい。三人の人があなたをたずねて来ています。さあ、下に降りて行って、ためらわずに、彼らといっしょに行きなさい。彼らを遣わしたのはわたしです。」

 「御霊が言われた」とあります。ペテロは喜んで行く、そのような気持ちが無かったの
です。「嫌です」と。けれども最終的に同じ幻を三回見たので、仕方がなくて従ったのです。
 当時のユダヤ人にとって、異邦人の家に入るのは考えられないことでした。けれども、
御霊が語られたので彼は従いました。結果として、異邦人たちの五旬節を経験したとあります。
使徒の働き 13章2節

 彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい。」と言われた。

 ここも同じように、「聖霊が言われた」とあります。
 初代教会の兄弟姉妹にとって、御霊様とは現実的なお方でした。彼らは御霊に従うようになったのです。
それから初代教会の兄弟姉妹が「御霊に満たされた」と何度も書かれています。五旬節のことなのですが、
使徒の働き 2章4節

 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

とあります。彼らはみな、聖霊に満たされたのです。
 五旬節のとき聖霊に満たされた人たちは、更に満たされるようになりました。絶えず、
聖霊に満たされなければ、主は祝福することがおできになりません。
使徒の働き 4章31節

 彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。

 聖霊に満たされたことの一つの結果とは、どのような反対があっても、たとえ殺されたとしても、彼らはみことばを大胆に語りだしたのです。みことばとは、もちろんイエス様のことです。彼らはイエス様を紹介し続けたのです。一文章で記されていますが、
使徒の働き 13章52節

 弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。

 弟子たちは、当時の世界の中で異分子のようなものでした。初代教会の人たちは、聖霊の御声に従いましたし、御霊に満たされていたのです。

 もう一つ、使徒行伝を通して彼らが聖霊によって導かれたことを、はっきり知ることができます。次のように書かれています。
使徒の働き 15章28節

 聖霊と私たちは、次のぜひ必要な事のほかは、あなたがたにその上、どんな重荷も負わせないことを決めました。

 「聖霊と私たち」。結局、彼らは一つでした。自分の思っていること、考えていることは
大切ではありません。次の箇所、
使徒の働き 16章6節、7節

 それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。

 聖霊に止められてしまったのです。
各集会に親しく臨在なさる御霊が、まだイエス様を信じない者にとっては恐れを抱かせ、すでに救いに預かっている人たちには勝利と喜びとを無限にお与えになったのでした。

 旧約聖書においては、御霊を内に宿していた人たちは少なかったのです。限られていま
した。主に特別に選び分かたれた祭司、王、士師、預言者たちだけでしたが、新約聖書の今では、聖霊の賜物はすべての救われた者が持つことのできる特権です。
 神の友であるモーセ、神のみこころにかなったダビデ、力に満ちた預言者エリヤに臨まれたと同じ御霊様が、こんにちの信じる一人一人に内住しておられます。
現代の本当のキリスト者にとって、御霊様は旧約聖書において特別に選び分かたれた主の器の働きと同じお働きをなさっておいでになるのです。

パウロは、
ローマ人への手紙 5章5節

 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

 聖霊は、私たちに与えられたものです。いつか与えられるのではありません。すでに与えられています。
ローマ人への手紙 8章9節

 けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

 そうすると、救われた人たちとは、聖霊の宮です。御霊を持たない人はキリストのもの
ではありません。救われていないことになります。私たちに与えられるすべての賜物は、
キリストにあって私たちに与えられるのです。

 エペソ書1章3節、よく引用される箇所なのですが、御霊の賜物は、すでに今ここにあるということがわかります。
エペソ人への手紙 1章3節

 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

 過去形になっています。主の賜物は、キリストにある私たちにとり、すでに私たちのものとなっています。けれど、その賜物は、個人的に自分のものとして受け取る段階に来なければなりません。

 多くの人たちは、それでは聖霊という賜物を個人的に受け取る前提条件は何か、と聞きます。これに答えるために、今日、一つの点について考えたいと思うのです。
 即ち、聖霊は注がれています。注がれた御霊について考えるなら、使徒行伝2章を読まなくてはならないでしょう。お読みします。
使徒の働き 2章33節

「ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。」

使徒の働き 2章36節

「ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」

 このみことばの中には、三つのことが含まれています。
1.主イエス様が救いを成し終えて、高く引き上げられたこと。
2.イエス様は約束の御霊をお受けになったこと。
3.この約束の御霊を、信じる者に降り注がれたこと。

なぜ御霊の注ぎがあったか、このみことばを読むとはっきりわかります。弟子たちが祈
ったからではありません。イエス様が高く引き上げられ、御霊をお受けになったからです。
 私たちの場合も、この事実が当てはまるのではないでしょうか。もし私たちが本当に救
われているなら、すでに御霊は私たちの上に注がれているのであり、あれをしたり、これをするので御霊を受けるのではありません。イエス様が高く引き上げられたことにより、御霊が注がれたのです。

 私たちの罪はいったいどうして赦されたのでしょうか。私たちが熱心だったからでしょ
うか。私たちが自分の罪を告白したからでしょうか。決してそうではありません。
 イエス様が私たちの罪を引き受けて、私たちの受けるべき刑罰の身代わりに十字架の上
で死んでくださったからです。

 私たちはなぜ新しいいのちを受けるこができたのでしょうか。集会に集ったからでしょうか。聖書を読んだからでしょうか。決してそうではありません。
 イエス様がよみがえってくださったからです。

 なぜ、イエス様を信じる者全部が、キリストにあって御霊を受けているのでしょうか。
あのこと、このことをしたからではありません。あのこと、このことをやめたからでもありません。
 私たちの主イエス様が、高く引き上げられたからです。御霊様が降り注がれたことは、イエス様が高められた証拠です。五旬節は、イエス様が、主の主、王の王として諸々の天よりも高く引き上げられた証拠です。

 あのナザレのイエスは、自らの考えで殉教なさったのでしょうか。それとも、全人類の救い主として、十字架にお架かりになったのでしょうか。どうしたら知ることができるでしょうか。
 私たちの上に注がれた御霊によってそれがわかるのです。イエス様が高く引き上げられ
たがゆえに、私たちはイエス様を受け入れることによって聖霊を受けました。主イエス様
を受け入れた者はみな、御霊を受けています。感じても感じなくても、信じても信じなく
ても関係ありません。このことは動かすことのできない事実です。

 私たちは、どのようにして罪の赦しをいただいたのでしょうか。私たちが集会に集い、
聖書を読み、熱心に祈ったために救いが与えられたのではありません。
イエス様が血潮を流してくださったので、罪は赦され、救われたのです。

次のみことばは、聖書の中で最も大切なことばの一つではないかと思います。
ヘブル人への手紙 9章22節後半

 血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。

 救いに至るただ一つの道は、主イエス様の血潮です。

 まだイエス様に出会っていない人たちは、どうしてイエス・キリストだけなのか、と言います。ほかの宗教もなかなか良いことを言っています。もちろんそうです。みな聖書から借りています。
 けれど、聖書が語っていることは、「人間は一つの教えを信じ込むことによっては救われません。十字架が無ければ救いはあり得ません。血を流すことがなければ罪の赦しはありません」と。ですからイエス様によるしかないのです。イエス様の血潮は私たちの罪のために流されたのだということを知り、認め、それを心から感謝したとき、救われるのです。

 御霊も同じ方法で受け入れたのです。私たちは、イエス様が高く引き上げられたことを
信じました。そのとき、私たちは御霊をお受けしたのです。もし私たちがまことに救われ
た者であるなら、イエス様の血が流されているので、なお罪が赦されていないということはあり得ません。
 同じように、イエス様がすでに高められておいでになるにも拘わらず、私たちが救われ
た者として聖霊を受けていないということもあり得ないことです。

 そうは言っても、私たちは何も御霊について経験していないので、立場としては全てが与えられているとしても、実際に御霊を持っているとはいえない、と言うかもしれません。もちろん、私たちはそれらを個人として体験的に受け取っていなければなりません。
 この素晴らしい賜物を個人的に自分のものとして受け取るには、主の永遠の事実に、私たちの心の目が開かれることが必要です。
私たちは、イエス様がもうすでに全てを成し遂げられたことを感謝したとき、救いをいただきました。もし、私たちがイエス様の高められたことを心の目で見、それを感謝するなら、御霊の力を経験するはずです。

 イエス様は、私たちのためにご自分のいのちを捧げ尽くされたのです。この事実を心の
目で見ると、救いのためにもがくことをやめるはずです。そして、主の救いに自分の身を
ゆだね、豊かな赦しをいただくことができるのです。
 イエス様は高められ、御霊を教会の上に降り注がれました。この事実を心の目で見るなら、御霊をくださいと叫び求める努力をやめるでしょう。

 もし、私たちが聖書に記されている主なる神の永遠の事実を、上からの光によって知らされるなら、主は私たちに信仰を与えてくださいます。そして、この信仰によって、主の事実は私たちのものとなります。

 あるとき、若いキリスト者が祈ったのです。「イエス様。御霊を与えてください。お願いします。与えてください」と。けれどすぐにそれはおかしい、誤りだと気がつき、「主よ。もうすでに私のうちに御霊を与えてくださったことを感謝いたします」と祈ったところ、御霊の力をうちに経験し、その若者の生活が全く変わったということです。

 もう一つの大切な点について、最後に考えたいと思うのです。
 即ち、天の宝を引き出す鍵とは、信仰です。主に信頼することです。主の約束を単純に
信じることです。罪の赦しをいただくにも、聖霊を受けるにも必要なのは、結局信仰です。
イエス様が私たちの身代わりとなって死んでくださったことを知り、信じ、感謝したとき、私たちの罪が赦され、私たちは主の御前に義とされました。

 イエス様が昇天された日のことを考えましょう。イエス様が地上における三十三年の間、罪と汚れのこの世に住み続けられ、十字架の上で救いを成し遂げられ、よみがえられ、昇天されたとき、天においては言い表わすことのできないほどの喜びがあったに違いありません。イエス様は、すべてのものの名にまさる名を与えられ、高く引き上げられたのです。
 イエス様は今、天の父なる神の御座においでになります。そこからきよい御霊を私たち
に注いでくださったのです。ですから、私たちは、御霊の注ぎのために祈る必要はもはや
ありません。二千年前に、全教会に降り注いでくださり、今すでに私たちのうちにおられる御霊様を、心からお受けし、感謝すれば良いのです。

 私たちのところに、まだ御救いにあずかっていない人が来て救いを求めるなら、私たちは、その人の身代わりにすでに救いを成し終えてくださったイエス様を示し、ともに祈ります。そのとき、その求める人が、「イエス様。あなたは私の罪をお赦しになるでしょう。私をお赦しになりたいのでしょう」と祈るなら、私たちはその人が御救いにあずかったとは、信じられません。けれどその人が、「イエス様。あなたは私の身代わりに死なれ、私の罪を赦してくださいました。感謝いたします」と祈るなら、私たちは、その方の救いの確かさを認めるでしょう。

 御霊についても同じです。私たちが、「御霊をください」と何十年間祈っても同じです。
けれど、「イエス様。高く引き上げられて、御霊をお下しくださいましたことを感謝します」
と、御霊を心にお迎えするなら、私たちはその力を自らのものとすることができます。

 イエス様は、後になってあなたの主となられるのでしょうか。そうではなく、イエス様は今すでに主の主であられます。ですから、御霊を待ち望む必要はなく、私たちはすでにきよき神の霊を、信者としていただいているのです。
 心の目で御霊様の御内住の事実を見て、そこから湧き出る信仰が大切です。すでにイエス様が高められ、私たちの上に御霊をお注ぎくださったことを心の目で見る時、私たちはこの素晴らしい賜物を感謝しないではいられません。

 御霊様を受けるために必要な条件が書いてあります。
使徒の働き 2章38節

 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」

 二つの条件と、それに伴う二つの賜物について、ここで書かれています。
 二つの条件とは、「悔い改め」と「洗礼」です。洗礼とは、信仰の証しです。
 二つの賜物は、「赦し」と「聖霊」です。

 「悔い改め」とは、どういうことかと言いますと、今までの興味が全く変わるということです。
・以前は罪を愛していましたが、今はそれを嫌うようになりました。
・以前は、この世は自分にとって非常に魅力的でした。けれど、今はこの世の快楽は自分を惹きつけません。
・以前はイエス様のものとなるということが恐れでありましたが、今はイエス様のものであるということが無上の喜びで、
・以前には恥とし、また軽蔑していたものが一番尊いものとなったのです。
 このように、全く興味の変化を経験した者が初めて、まことの悔い改めをした者という
ことができるのです。

 二番目の条件は、「洗礼」です。
「洗礼」は、心の信仰の表われであり、告白であり、また証しです。ですから、洗礼式のときいつも、「式ではない、証しです」と言います。
 イエス様とともに十字架につけられ、ともによみがえらされたことを信じる者は、洗礼
を受けることを求めます。強制されたからではありません。自発的に願うのでなければ、全く意味のないことです。言うまでもなく、洗礼を受けるので教会の会員になるのでもありません。洗礼を受けたので礼拝を守らなくてはいけないのでもありません。

 この箇所によると、罪の赦しと聖霊の賜物を受ける条件が、悔い改めと洗礼にあることをはっきり記しています。私たちは、悔い改めて、ほかの人に信仰を告白したでしょうか。もしそうなら、罪の赦しと御霊の賜物をいただいているのです。
 罪の赦しは受けているが二番目の賜物である御霊は受けていない、と言うかもしれません。けれど聖書は、悔い改めと洗礼、即ち、信仰の告白という二つの条件を満たすとき、それに伴って必ず二つの賜物が与えられるとはっきり語っています。もしかすると今日まで、罪の赦しという一つの賜物だけを考えて感謝したかもしれません。

 千円で五百円の本を二冊買い、けれど一冊の本を忘れて帰るなら、思い出してそれを取
りに行くでしょう。そのとき、もう一度五百円を払う必要はもちろんありません。
 けれど、多くの兄弟姉妹は、せっかく受け取る権利のある二つの贈り物を一つしか受け
取りません。エペソの信者がそうだったのです。救いは受け取っていましたが、御霊の賜
物はまだいただいていませんでした。

 もし、私たちが二つの条件を満たしていながら、まだ御霊について知らないなら、主の
御前に静まり、「イエス様。私は二つの条件を満たしながら、一つの賜物しか受けていませ
んでした。あなたは高く引き上げられ、御霊をすでに注いでいてくださいました。感謝い
たします」と祈るなら、御霊の力を体験的に知るようになります。

 私たちはイエス様が御座のそばに引き上げられ、全教会の上に御霊を注いでくださった
ことを心から感謝し御名をほめたたえるなら、主は必ず働いてくださるのです。
 もし私たちが単純にこの事実を信じるなら、私たちは贖われた者であるだけではなく、神の霊、聖霊の宮である御霊が私たちのうちに住んでおいでになるという、はっきりとした確信が与えられるのです。

 ですからパウロは、よくコリントにいる人たちに書いたのです。「あなたがたは聖霊の宮
であることを忘れたのですか」と。
コリント人への手紙・第一 6章19節

 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。

 救われた者が聖霊の宮であることを忘れるなら、主はお導きになることも、お語りになることもおできにならないでしょうし、お用いになることもおできにならないのです。



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メッセージ・証し集インデックスページ

◆メッセージ(ベック兄)

※一部、テープの転換による不明部分あり

神のみことばは神のみことばである(5) 2006. 4. 18
神のみことばは神のみことばである(4) 2006. 4. 11
神のみことばは神のみことばである(3) 2006. 4. 4
神のみことばは神のみことばである(2) 2006. 3. 21
家族の救い 2006. 3. 19
神のみことばは神のみことばである(1) 2006. 3. 14
主イエスは神の子キリストである(4) 2006. 3. 7
主イエスは神の子キリストである(3) 2006. 2. 28
主イエスは神の子キリストである(2) 2006. 2. 14
主イエスは神の子キリストである(1) 2006. 2. 7
勝利の生活の秘訣 2006. 1. 24
イエス・キリストのからだ 2006. 1. 17
主の永遠からの予定 2006. 1. 10
元旦メッセージ 2006. 1. 1


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