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メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


真(まこと)の喜び
   
2005.12.20(火)
ベック兄メッセージ(メモ)

 
引用聖句
ゼカリヤ書 2章10節、11節
 シオンの娘よ。喜び歌え。楽しめ。見よ。わたしは来て、あなたのただ中に住む。― 主の御告げ。― その日、多くの国々が主につき、彼らはわたしの民となり、わたしはあなたのただ中に住む。あなたは、万軍の主が私をあなたに遣わされたことを知ろう。

ハバクク書 3章17節、18節

 そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。

コリント人への手紙・第二 6章10節

 悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、 貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。


先週、こんなことがありました。それは私にとって珍しく何の予定もない空白の一日があったのです。以前から、神戸のM姉妹を訪問したい、二月頃にでもと祈っていました。しかし、神戸の兄弟は「二月では間に合うでしょうか」と。そこで、家内と一緒に日帰りでしたが出かけたのです。喜んでいるM姉妹に会いたいと思ったのです。
姉妹の様子は、ちょっと前に会った時と全く違っていました。骨と皮だけになっていて癌の末期の様相でした。お年も八十三才ですが。姉妹は自分でも祈られました。祈りの中で、彼女は何と言われたかと言いますと、「イエス様。早く引き上げてください」と。
彼女の心は、嬉しくてたまらないように見えました。もうちょっとでイエス様と一緒になれるからなのでしょう。

彼女は長い間やもめの生活をしていました。神戸の地震が起こる前夜、彼女の家で集会があったのです。彼女は平常自分の家の雨戸を閉めたことがないそうですが、(どうしてあの夜閉めたのか自分にも全くわからなかったのですけれど)閉めたおかげで、家の中では皿が一枚ぐらい壊れてしまっただけで、全く安全に守られたそうです。
それは、彼女が主のために生きたい、イエス様のために生きたいと心から望んでいたからでしょう。そして、自分の庭で神戸の集会所が建てられ、集会が開かれるようになったのです。彼女のお金でできたのです。それからの彼女は、自分の家も集会の名義にしてしまい、引っ越したのです。「もう十分です。今度はイエス様といっしょになれる。早く引き上げてください」と彼女は心から言えたのです。これこそが、彼女の心の中のクリスマスの喜びではないでしょうか。
どうして彼女は喜ぶことができたかと言いますと、絶えずイエス様の御手の中で守られ
ていて、あらゆる不安が取り除かれているから、そして確実な将来に向かうことができるようになっていたからです。

先ほど、司会の兄弟に読んでいただきました個所の中で、
ゼカリヤ書 2章10節

 シオンの娘よ。喜び歌え。楽しめ。見よ。わたしは来て、あなたのただ中に住む。― 主の御告げ。

これこそが、クリスマスのメッセージそのものではないでしょうか。

三つのことを預言者は言っているのです。
1.「喜び歌え。楽しめ。」
意味は、たとえどのような状況に置かれたとしても、また行なうことが困難であるとしても、「喜び歌え。楽しみなさい」と命令されています。単なる提案ではありません。

2.「見よ。わたしは来る。」
このみことばの中で、上に述べた命令に対してどうすれば従順に従えるかという秘訣と奥義が明らかに示されています。即ち、「見よ。わたしは来る」。「わたしを見なさい」。旧約聖書の内容とは、つまり、「あきらめる必要はない。救い主が来ます」。

3.「わたしはあなたのただ中に住む。」
このみことばから主のみこころを知ることができます。即ち、「わたしはあなたのただ中に住みたい」と。

主は、「喜び歌え。楽しめ」と命令しておられ、且つそのような勧めがなされているということは、だれでも理解することができるのではないでしょうか。


1.「喜び歌え。楽しめ。」
主の言われることは、もちろん主のみ思いであり、主が望んでおられることです。その意味で、主と人間とは違うのです。主は、人間が喜び歌うべきであるとはっきり言われました。このような主の命令に対して、不従順な態度をとることはどうでもいいことではなく、罪です。確かに多くの人々は思うでしょう。そのように言うことは簡単でしょうけれど、実際にその通り喜ぶことができないし、また無理ですと。

昨日も二人の病人を見舞いに行きました。一人はまだ若い二十四歳の青年です。リンパ腫でいつまでもつかわかりませんが、非常に聞く耳を持っていたのです。もう一人の患者さんとは話すことができませんでした。一歳の赤ちゃんだったから。(笑) 母親は看護婦さんで、なお、夜、昼子どもの面倒を見なければいけない。そのような人々に、「喜び歌え。楽しめ」と言っても無理ではないでしょうか。しかし、もしそれが不可能だとすれば、悲劇的ではないでしょうか。
私たちは自分自身の状態や状況を見ると、本当に、喜ぶことができないような場合が数多くあることを経験します。
パウロでさえも主の恵みによって救われたあと、また悩む者となりました。「私は何というみじめな人間でしょうか」と彼は告白したのです。「私はみじめです。私の肉のうちに良いものは住んでいません」と告白したのです。これは決して喜びの叫びではありません。

私たちが自分自身の内側を見ると、そこには喜ぶべき根拠が何一つないことを認めざる
を得ません。けれどその当時、主なる神は、ゼカリヤという預言者を通してイスラエルの民に、「喜び歌え。楽しめ」と命令してくださったのですが、今日も、もちろん主はひとりひとりに向かって全く同じような命令をなさいます。

現代人にとって、私たちにとって、一番大切なのは何でしょうか。
言うまでもなく静まることです。主の大いなる愛を見つめるため、主の愛を新しく体験するために静まることです。私たちは、いろいろなことについて考えたり、心配したりします。また、どうしてもしなければならないことがあまりにも多いので、どうしたらいいのかわかりません。さっぱりわかりません。けれど大切なのは静まることなのです。

主によって愛されていると新たに示されること、新しく知ること、この背後に立っておいでになる主の御愛を受けることこそが、最も大切なのではないでしょうか。自分が主に愛されているのだということは、一番信じにくいことかもしれません。理性ではつかめないことですが、最もすばらしい事実です。

クリスマスのときよく読む個所として、次の個所があります。
イザヤ書 9章6節

 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

またパウロは、
コリント人への手紙・第二 9章15節

 ことばに表わせないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。

と言ったのです。

主への礼拝のないクリスマスはあり得ません。救い主は自分のためにお生まれになられたと考えると、どうしましょうかという気持ちになるのではないかと思います。
ルカの福音書 2章9節から11節

 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」

「あなたがたのために」、ここで複数形になっていますが、単数形で読んでもいいでしょう。「あなたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」。
期待された救いの神であられるお方です。「飼葉おけに寝ておられるみどりご」とは、イエス様ではないでしょうか。

パウロは、テモテ第一の手紙の中で、次のように書いたのです。
テモテへの手紙・第一 3章16節

 確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。「キリストは肉において現われ、霊において義と宣言され、 御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」

パウロは、このすばらしい救い主とともに全てが与えられたと証ししたのです。自分で
経験したからです。
ローマ人への手紙 8章32節

 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

ヨハネの福音書 3章16節

 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

イエス様ご自身が最もすばらしい贈り物であり、父なる神の愛の表われそのものです。
この救いの神を経験した人々は、本当の意味で喜ぶようになったのです。

ダビデは、三千年前でしょうか、次のように言ったのです。
詩篇 118篇14節

 主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。

救いとはイエス様です。一時的な問題の解決ではありません。

イザヤも同じことを告白したのです。
イザヤ書 12章2節

 見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。

ダビデも、イザヤも、クリスマスの本当の喜びを味わい知るようになったのです。

イエス様を生んだマリヤは、次のように歌いました、
ルカの福音書 1章46節から48節

「わがたましいは主をあがめ、 わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。

主イエスは生きておられます。
昨日、A兄姉と一緒に市川まで行きました。市川へ行くと、必ずN・Oさんという若い姉妹がいらっしゃいます。
彼女は六年前に十一階のビルから飛び降りて、死のうとしました。ご主人はアルコール中毒で、家族を顧みないため、二人の子ども、四歳と八歳の子どもがいるにもかかわらず死のうと思ったそうですが、死ねなかったのです。市川の兄弟姉妹たちは一緒に、何回も見舞いに行きました。クリスマスの前だったでしょうか、みんな喜んでクリスマスの歌を歌いました。ところが彼女が急に輝いた顔で何と言ったかと言いますと、「生きていて良かった! 死のうと思ったけれどできなかった」と。彼女も母親もこの不幸を通してまことの幸せを得るようになったのです。死ぬことができなかったのは幸いだったと。
医者は今後車椅子の生活でさえもダメだと言ったそうですが、彼女は現在歩けるようにさえなったのです。これは考えられない奇蹟です。

私たちは、イエス様が二千年前に地上に来られたのは良かった!イエス様が私たちの罪の身代わりに死なれたのは言葉に言い尽くせない感謝ですと言えるのではないでしょうか。

イエス様について多くのことが書かれていますが、ひとつの預言のことばに、「約束された救い主は悲しみの人となる」と記されています。確かにイエス様は悲しみの人でした。いろいろな画家がイエス様の絵を描いたのです。けれどどの絵を観ても、笑っているイエス様の絵はないのです。考えられないからでしょう。けれどもイエス様は、子どもと一緒に遊んでいらっしゃったとき、きっと大きな声で笑ったりなさったに違いありません。けれど大人と一緒になったときは悲しかったに違いありません。大人は偽善者そのものです。わがままそのものです。正直でないし、透き通っていないし…。(笑)イエス様は悲しみのお方でした。それは全部私たちのためでした。

次のように書かれています。
コリント人への手紙・第二 8章9節

 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。

イエス様は、乞食の中の乞食だったと言ってもよいでしょう。ご自分の住まいを持っていらっしゃいませんでした。三畳の一部屋でさえも無かったのです。何にもありませんでした。イエス様は本当の意味で貧しくなられました。それは、「あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです」と。
イエス様を通して富む者となった者は、本当の意味で喜ぶことができます。ですから、
主なる神は、私たちがどうであるか、どのような状態であるかにはお構いなく、「喜び歌え。
楽しめ」と命令しておられ、求めておいでになるのです。

このことを示すみことばを二、三箇所見てみましょうか。
前に読んでいただきましたハバクク書3章をもう一度読みましょう。不思議な告白です。
喜びに満たされた男の証しです。
ハバクク書 3章17節〜19節

 そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。

「しかし」、このことが問題なのです。たとえ、私たちが何の実を見ることができなくても、またそれが一見むなしいように思われるときでさえも、「喜び歌え。楽しめ」と主は命令しておられます。
ハバククは、この態度をとったでしょう。
18節

 私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。

と。ひとつの断固たる決断だったのです。もし彼が自分の気持ちに支配されたなら無理でした。もし彼が目に見える現実を大切にしたならば、悲しくてたまらなかったことに違いありません。

イエス様はよく言われました。自分のいのちを失うことについて。自分のたましいを失うことがどうしても必要であると幾度も言われたのです。もしこのハバククという預言者が、自分の感情、自分の思い、自分の意思によって支配されていたならば、決して喜べなかったのです。現実の状況は、一粒の実さえも結べるように思われず、人間的には全てがむなしく思えたのです。
しかし使徒行伝の5章を読むと、このハバククのもっていた喜びを与えられた人たちについて書かれています。
使徒の働き 5章41節

 そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値するものとされたことを喜びながら、議会から出て行った。

悲しみながら、泣きながらではなく、「喜びながら」出て行ったと。

イエス様に従う者にとり、それが大きな犠牲を払わなければならないように思えたとき、使徒たちと同様に信仰のために甘んじて迫害を受けるということは、それほど簡単なことではありません。それにはただ目に見えるものから目をそらし、ただイエス様を見上げることによってのみ可能なのです。

同じく使徒行伝の16章はよく知られている、よく引用される個所です。
使徒の働き 16章23節から25節

 何度もむちで打たせてから、ふたりを牢に入れて、看守には厳重に番をするように命じた。この命令を受けた看守は、ふたりを奥の牢に入れ、足に足かせを掛けた。真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。

この二人の、主を第一にした男たちは、無実の罪で不当に牢獄に入れられてしまったの
です。そこで彼らはむちで打たれたり、棒で殴られたり、いろいろな拷問を受けました。
彼らは肉体的に大きな苦痛を受けなければならなかったのです。それにもかかわらず、真夜中ごろ、即ち真っ暗で逃れ道もなく、何の希望もないように思われたとき、二人は祈ったのです。祈っただけではなくて、賛美の歌を歌ったのです。気ちがいになったからではありません。「クリスマスの喜び」をもっていたからです。

前に読んでいただきました、
コリント人への手紙・第二 6章10節

 悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。

これこそ初代教会の兄弟姉妹の特徴だったのです。悲しんでいるようでも、いつも喜んでいる。そのような人々がいると、周りの人々も心を開くようになります。この人たちのような喜びがほしいと必ず求めるようになります。確かに、私たちはいろいろな悲しみ、苦しみなどを経験します。けれど、それにもかかわらず、いつも喜ぶことができるというこれこそが、多くの苦しみを受けたパウロの証しでした。

ヘブル人への手紙の中でも同じことについて書き記されています。
ヘブル人への手紙 10章34節

 あなたがたは、捕えられている人々を思いやり、また、もっとすぐれた、いつまでも残る財産を持っていることを知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んで忍びました。

私たちは、いろいろな思い煩いや誤解、あるいは迫害を受けるとき、心から喜ぶことは簡単なことではありません。しかしこれは、主の命令です。そしてハバククや、使徒たち、パウロやシラスは、財産をはじめその全てを失っても、イエス様の故にいつも喜ぶことができたのです。
「喜び歌え。楽しめ」。「見よ。わたしは来て、あなたのただ中に住む」。どのような状況に
置かれても、喜び歌い、楽しみなさいという命令がなされています。


2.「見よ。わたしは来る。」
ゼカリヤ書2章10節のみことばの中の、上に述べた命令はどうすれば従えるのかとい
う奥義について、
ゼカリヤ書 2章10節

 見よ。わたしは来て…

主は、なぜ私たちがいつも喜ぶことができるかという理由を説明しておられます。それは、「見よ。わたし」、ということです。結局、「わたしを見よ」。つまり、「自分自身を見たり、他人を見たり、周囲の状況を見たりしないで、ただ、主のみを見なさい。二千年前に来られた主のことについて考えなさい。また、十字架の上で犠牲になられた主を見なさい。そして、まもなく私たちを迎えに来られる主について考えなさい」と。

主の命令は同時に、主がその力を授けてくださるということです。主は決して不可能なことをお命じになりません。「見よ。わたしは」と言われるお方は、万物をお造りになったお方であり、父なる神の本質の完全な現われであられ、主なる神の右の座に座しておられ、全ての力を与えられた大能者であり、将来のさばきをもゆだねられているお方です。

目に見えるものから目を離し、ただイエス様だけを見上げることは、考えられないほど
大切です。私たちの喜びの源は、ただただイエス様の中にのみあります。本当の喜びの源は、理解、感情、愛する人、家族、預金、健康、成功などにあるのではありません。多くの人は、これとこれとこれをもっていれば安心で幸せだと考えていますが、違います。まったく違います。
ルカの福音書 2章10節、11節

「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい 喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」

「ダビデの町」すなわちベツレヘムです。
救い主があなたのために生まれ、あなたのために生きておられるということこそ、喜び
の源です。
イエス様は天の栄光を捨て、人となられ、悪魔の奴隷と罪の中に沈んでしまった人々と
ともになられ、ご自分のいのちを捨てる備えをしてくださいました。父なる神は、イエス
様を通してこの世に来られ、人々を顧み、救いの道を開いてくださいました。「終わった。
完了した」とイエス様は叫ばれたのです。


3.「私はあなたのただ中に住む。」
主のみむねは、「わたしはあなたのただ中に住みたい」ということです。昔から主なる
神のご目的は、人とともにお住みになりたいということでした。
エデンの園で、主は人間とともに住んでおられたのです。旧約聖書において、主なる神
が民を顧みてくださった期間は、ある程度制限されていました。

主のご栄光が現われたところとしては、まず第一に、会見の幕屋でした。
出エジプト記に次のように書かれています。
出エジプト記 40章35節

 モーセは会見の天幕にはいることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。

主が中心になられると、人間の入る余地はありません。そのあとで、ソロモンの宮の上にも同じような現象が起こったと聖書は言っています。
列王記・第一 8章11節

 祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである。

同じような体験を、ベツレヘムの羊飼いたちもしたのです。
ルカの福音書 2章9節後半

 主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。

とあります。この野原の上では、主は限られた期間、イスラエルの民を顧みられたので
はなく、人とともに住むために来られたのです。これこそ、御使いのお告げでした。弟子たちもこの栄光をともに体験することが許されたのです。

弟子たちは告白したのです。
ヨハネの福音書 1章14節

 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

聖書の中で私たちは、「わたしはただ中に住む」とか、「わたしは捨てない」といったよ
うなことばを非常に多く見出すことができます。「わたしはあなたとともに」、「わたしはあ
なたの中に」、ということこそ、主の願いであり、みこころです。

私たちが召し出されたのは、私たちが主の宮、主の住まいとなるためです。主なる神の
宮、主の住まいとしてのみ、私たちは本当の証人、またしもべとなることができます。
「わたしは来る。そしてあなたとともに住むことを望む」。このみことばは、私たちひとりひとりに対して向けられていることばです
・私たちひとりひとりを通して、大いなる奇蹟を現わそうと主は切に願っておられます。
・私たちひとりひとりを通して、主はご自分のご栄光を現わしたいと望んでおられます。
しかも遠い将来にではなく、まさに今日この時に、それをなそうと主は願っておられます。「わたしは来る。そしてあなたとともに住むことを望む」と。

お客が訪ねて来る場合には、目に見えるところだけ綺麗にしておけば、それで一応十分でしょう。けれど住むようなるということならば、ちょっと違うのではないでしょうか。大掃除をしなくてはいけないでしょう。
主は、ちょっとお客として訪ねたいのではありません。「あなたとともに住みたい」と。
主ご自身が、私たちのところに住みたいと願っておられます。多くの場合、イエス様は単
なるお客様として取り扱われているのではないでしょうか。けれどイエス様は、もちろん
主として、支配するお方として住みたいと望んでおられます。そのためには、あらゆる罪を断ち切らなくてはならないのではないでしょうか。
結局、罪が自分を支配するか、イエス様が私たちをご支配なさるかのどちらかです。

聖書の中で、「主イエスは救い主である」と何度も書かれています。数えてみると、二十六回です。「イエス様は救い主であり、助け手である」は二十六回書かれています。けれども、主イエス様が、「主」と呼ばれているのは、六百七十回です。結局、救い主イエス様が主となられなければ、イエス様は私たちを用いることがおできになれないことを意味しているのです。
私たちは、イエス様が地上において人間の罪を贖ってくださったという事実を単に振り返ることだけではなく、全てのことの支配者として、イエス様はまたおいでになるということ、イエス様が近いうちに再びおいでになるということを、深く心に留めておかなくてはなりません。
 
ドイツで有名な大学の教授だった○○○博士なのですが、(彼の親戚は総理大臣にもなりました。)この○○○教授はあるとき、学生たちに質問したのです。「いったい最も確実なことは何か。何だと思うか」と。学生たちはいろいろな答えを出しましたが、博士は、「ダメ」「これもダメ」「ダメ」と言い、最後にひとりの学生が立って、教授に言いました。
「先生はいったい何だと考えておられるのですか」。教授は、「イエス・キリストが来られ
るということです」と答えました。

イエス様はまた来られる。近いうちに来られるという確信を持つ人々だけが、まことの
喜びをもつことができるのではないでしょうか。

では、どうしてイエス様の再臨を待ち望む生活が大切なのでしょうか。
三つのことが言えます。
1.イエス様を待ち望む生涯は、本当の意味をもっているからです。
それに対して、イエス様を待ち望むことのない生活には本当の意味がないのです。なぜ私はあれやこれをしなければならないのか。全ては無駄なのではないか。このような疑問を抱いている人は世の中に大勢います。もし何かを待ち望む心が失われてしまったなら、人生は本当に退屈で、むなしいものになってしまいます。待ち望みの信仰がなく、期待を失ってしまった人間は、失望して何もしないか、あるいは三島由紀夫のように自殺をする道しか残されていないでしょう。
けれど私たちはイエス様を待ち望んでいます。イエス様は必ずおいでになります。

2.待ち望みの生活は、目を覚ましている生活であるため大切です。
期待は目覚めさせます。とりわけ、永遠のいのちを提供されているということに目を開
いていただかなければなりません。眠っている者は、聞くこともできません。
・イエス様を待ち望んでいる者は、自分自身の本当の状態に対して盲目ではありません。
・イエス様を待ち望んでいる者は、イエス様を悲しませないよう絶えず心を遣っています。
けれども、イエス様を待ち望まない者は盲目であり、イエス様の声に対して難聴のため聞き取ることができません。

3.待ち望みの生活は、責任ある生活です。
私たちひとりひとりは誰でも、ほかの人々に対して責任をもっています。またイエス様
を待ち望む生活は、消極的ではなく、積極的、行動的です。
・イエス様を待ち望んでいる者は、機会を十分に生かして用いています。
・イエス様を待ち望んでいる者は、自分のことを忘れ、第一に主イエス様のことを考える人です。
・イエス様を待ち望んで責任ある生活を送っている兄弟姉妹は、絶えずイエス様の眼差し
を意識している者です。
・イエス様を待ち望む者は、魅力的な人々です。思い煩いから解放されています。心配する必要はないとわかっているからです。

4.待ち望みの生活は、当然喜びの生活です。
本当にイエス様を待ち望んでいる兄弟姉妹のために、今日イエス様は来られるかもしれません。このような生き生きとした待ち望みの信仰は、人間を全く変えてしまうのです。

今話しましたように、あらゆる思い煩いや苦しみ、悩みなどは、イエス様の再臨を思うときに小さいものになります。そして、待ち望みと喜びの生活を送る源は、私たちが罪を赦されているという事実にほかなりません。
この確信をまだ持っていない人でも、持つことを真に求めるならば得られます。

現在の混乱した世界の中で、「イエス様が来られる」という真理こそが、私たちに本当の喜びと平安を与えてくれるのです。



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更新履歴


メッセージ・証し集インデックスページ

◆メッセージ(ベック兄)

※一部、テープの転換による不明部分あり

神のみことばは神のみことばである(5) 2006. 4. 18
神のみことばは神のみことばである(4) 2006. 4. 11
神のみことばは神のみことばである(3) 2006. 4. 4
神のみことばは神のみことばである(2) 2006. 3. 21
家族の救い 2006. 3. 19
神のみことばは神のみことばである(1) 2006. 3. 14
主イエスは神の子キリストである(4) 2006. 3. 7
主イエスは神の子キリストである(3) 2006. 2. 28
主イエスは神の子キリストである(2) 2006. 2. 14
主イエスは神の子キリストである(1) 2006. 2. 7
勝利の生活の秘訣 2006. 1. 24
イエス・キリストのからだ 2006. 1. 17
主の永遠からの予定 2006. 1. 10
元旦メッセージ 2006. 1. 1


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