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メ ッ セ ー ジ ・ 証 し 集


グァム喜びの集い
   
2003.1.26(日)
ベック兄メッセージ(メモ)

 
引用聖句
 ヨハネの福音書 11章1節から5節
   さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタと  
  の村の出で、ベタニヤの人であった。このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその
  足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。そこで姉妹
  たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛
  しておられる者が病気です。」イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終
  わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を
  受けるためです。」イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。

 ヨハネの福音書 11章21節
   マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄  
  弟は死ななかったでしょうに。

 ヨハネの福音書 11章32節
   マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して
  言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょう
  に。」

 ヨハネの福音書 11章35節から36節
   イエスは涙を流された。そこで、ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。主はどんな
  に彼を愛しておられたことか。」

 ヨハネの福音書 11章43節から44節
   そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」
  すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切
  れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」

 ヨハネの福音書 12章1節から3節
   イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中
  からよみがえらせたラザロがいた。人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。
  そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中
  に混じっていた。マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、
  イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっ
  ぱいになった。

 ヨハネの福音書 12章9節から11節
   大ぜいのユダヤ人の群れが、イエスがそこにおられることを聞いて、やって来た。
  それはただイエスのためだけではなく、イエスによって死人の中からよみがえったラ
  ザロを見るためでもあった。祭司長たちはラザロも殺そうと相談した。それは、彼の
  ために多くのユダヤ人が去って行き、イエスを信じるようになったからである。

 ルカの福音書 24章50節から53節
   それから、イエスは、彼らをベタニヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。そ
  して祝福しながら、彼らから離れて行かれた。彼らは、非常な喜びを抱いてエルサレ
  ムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた。

 マタイの福音書 21章17節
   イエスは彼らをあとに残し、都を出てベタニヤに行き、そこに泊まられた。


 今日の礼拝で、愛する兄弟の祈りを聞いた時、本当に嬉しく思いました。彼は、「私は、愛する妻を裏切った者です。けれども、主は赦してくださいました」と祈りました。結局、「私は、主を賛美いたします」ということです。このように言える人は、幸せなのではないでしょうか。兄弟は、東京で「眼医者」であり、グァム島で「しかいしゃ」であります(笑)。どちらの方が簡単でありましょうか。眼科の専門家ですから、おそらく「眼医者」として働くのには、確信があると思います。けれども、「しかいしゃ」になると、やはり祈らなければ、うまくいかないのではないでしょうか。「専門家」は、やはり知らないうちに自分の力に頼って、何とかなってしまうのです。
 こちらの若い兄弟のお父さんは、お医者さんなのです。東大を出て、「プロのプロ」とも言える、糖尿病の専門家なのです。彼は、東京の病院を辞めて岩手の方に行きました。そのため、そこに新しく集会が起こされるようになりました。彼は、岩手の方に行っても、医者として簡単にやっていけると思ったのかもしれないけれど、行ってみて、びっくりしてしまったのです。今までやってきた東京の病院で、糖尿病のものであるならば、もうできます!問題ありません。けれども、他の病人が来たら少し困ってしまいます。そのようなときは、別の専門家に紹介してきたのです。けれど今の病院では、それができません。全部のことを一人でしなくちゃいけません。彼は正直に言ったのです。「何にもできないと、初めて分かった」と。結局、彼は祈るようになりました。これこそ、すごい祝福なのではないでしょうか。「できる」と思えば、祈らなくてもいいし、助け求めなくてもいいでしょう。けれども、壁にぶつかると、どうしようもなくなってしまうのではないでしょうか。
 司会の兄弟、夫婦そろって祈るようになって、おめでとう!!イエス様は、すごいお方です。イエス様は、素晴らしいお方です。

 私たちにとって大切なことは、もちろん「昨日」でもないし、「明日」でもないし、「今日」なのではないでしょうか。私たちは、毎日いろいろなニュースを読んだり、聞いたり、見たりします。全部が悪いニュースです。そのような悪いニュースについて考えると、やはり少し心配するようになります。「明日のことも分からない、半年先のことも分からない」と、不安を感じるようになります。聖書は、良いニュースしか言ってないのではないでしょうか。詩篇の作者は、詩篇118章24節で、このように言っています。
   これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう。

結局、「『今日』は、主にあって大いに喜ぼう!」ということです。これは、非常に大切なことです。ヘブル人への手紙の著者は、ヘブル人への手紙4章7節で、このように言っています。
   きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。

「今日」は、非常に大切です。もちろん、イエス様にとっては、「昨日」も「今日」も「将来」も一つでしょう。そのように限られているお方ではないからです。けれども、私たちにとって大切なことは、何なのでしょうか。「心配しないこと」です。みことばに、「思い煩うな」とあります。そうすると、やはり「昨日」のことについて考えない方が良いのです。「明日」のことについても、考える必要はないのではないでしょうか。「今日」は、「今日」だけで十分なのです。イエス様は、「今日の苦労は、十分です。明日まで考えたら、耐えられないではないですか」とおっしゃいました。ですから、あらゆる人間にとって最も大切な薬は、「思い煩うな。心配するな。恐れるな」ということです。それらは、全く意味のないことであるからです。
 「昨日」のことについて考えてみると、もしかすると少し面白くなかったことがあったかもしれません。心配があったかもしれないし、間違いがあったかもしれないし、痛みもあったかもしれません。そして、失敗もあったかもしれません。けれども、もう終わったことでしょう。過ぎ去ったことではないでしょうか。私たちは、「悔い改めれば、主は赦しくださる」と確信できるから、幸せです。罪ほろぼしのために、私たちは何をやっても意味のないことであるからです。みことばによると、「悔い改めた罪」「明るみに出された罪」は、「罪」ではなく「光」なのだそうです。いくら考えてもピンと来ませんし、つかめません。「罪であったものが光になる」という、この意味は、「わたし(主)は、あなたの罪を心に留めません。忘れます」という意味です。人間にはできないことです。
 また、「昨日」は素晴らしい一日であったかもしれません。けれども、もう過ぎ去りました。主は、恵み深いお方です。だから、私たちは感謝することができるのです。
 それから、「明日」のことは、もちろんだれもわからない。「過ぎ去った日」について、私たちは、確かに何もすることができません。すでに過ぎ去ったからです。終わってしまったからです。そして、「明日」のこともいくら心配したとしても、何もなりません。「明日」は、いろいろな反対を経験するかもしれないし、とんでもない重荷が与えられるかもしれません。けれど「明日」は、いま私たちのものではありません。主のものです。主は支配しておられ、導いてくださるのです。誰にでも分かることですが、覚えるべきことがあります。すなわち「明日」は、間違いなく太陽が昇ります。もしかすると、暗い雲の上に昇るかもしれません。しかし、私たちにそれが見られないとしても、関係ないではありませんか。必ず、太陽は昇るのです。
 私たちは、「昨日」味わった主の愛・主の忍耐によって、また元気になり、喜ぶことができるのです。「明日」の恵みの日は、私たちのものではなく、主のものです。
 そして、「主の愛」は、考えられないほどのものなのです。星よりも高く、空よりも広く、海よりも深いものなのです。この辺の海は、世界中で一番深いそうです。主は、「わたしは、あなたの罪を海の深みに投げ込む」とおっしゃいました。もう探しても、見つかりません。主は、私たちの罪を赦してくださり、忘れてくださるのです。
 「今日」こそが、大切なのではないでしょうか。「今日」、主を仰ぎ見る恵みが与えられていますし、「今日」、主とともに歩むことも赦されています。もう、独りぼっちではありません!主がともにおられるからです。もしも私たちが主により頼んで歩むのならば、全能なる主は、私たちのために心配してくださるのです。主が心配してくださるのならば、もう私たちは、心配しなくてもいいのではないでしょうか。

 今、兄弟のお読みになりました箇所の中心テーマは、やはり「静まること」なのではないでしょうか。主の足元に座り、みことばに聞き入っていたマリヤは、間違いなく元気になり、喜びに満たされたに違いありません。すなわち、主のみことばこそが、彼女の心の糧となり、心の喜びとなったのです。「主の足元に座ること」「主の御前に静まること」こそが、最も大切なのではないでしょうか。
 おそらく、前の時代よりも現代人は、とても忙しくて、がんじがらめになってしまって、どうしたらいいかわからない状況に置かれているのではないかと思います。だからこそ、現代人にとって最も大切なことは、「静まること」なのです。多くの人々の特徴は、「疲れ」「無力さ」「たゆみ」なのではないでしょうか。主の御前に出るときに、私たちは、「疲れて、無能力で、たゆむ者である」ことを、告白せざるを得ないのではないでしょうか。
 前に読みました箇所の中で、ベタニヤのマリヤの態度を知ることができます。彼女は、「主よ、語ってください。聞いております」という態度をとりました。「主よ、聞かせてください!」そういう気持ちでいっぱいだったのです。
 5〜6年前だったでしょうか、岡山のある兄弟は、重病になり、死にそうになりました。医者は、命がけでいろいろなことをやりました。けれども、何をやっても駄目なのです。それはもう、誰にでも分かったのです。その時兄弟は、医者にこう頼んだそうです。「先生、もういいです。治療を止めてもらえませんか。イエス様のもとへ行かせてください」と。
 マリヤの気持ちも、だいたいそういう気持ちだったのです。「主よ、みことばを聞かせてください」という気持ちを持つことこそが、現代人にとって一番大切なのではないでしょうか。


先ほど、読んでいただきましたルカの福音書 24章50節。
   それから、イエスは、彼らをベタニヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。

 イエス様が、「彼ら」すなわち「弟子たち」をベタニヤまで導かれたことは、復活なさったイエス様が、一番最後になさったことです。弟子たちが、イエス様とともにベタニヤに行った時、その場所で、イエス様は弟子たちを祝福され、そして天に挙げられたのです。このことから、はっきり言えることは、「イエス様が弟子たちをベタニヤに導いたことは、偶然ではない」ということです。イエス様がよくお考えになった末の事柄でした。イエス様は、ベタニヤに弟子たちを導くことによって、弟子たちに大切なことを教えようとされたのです。イエス様は、弟子たちをベタニヤに導き、「さぁ、着きました。ベタニヤに来ました。この地を末永く、記憶に留めなさい。このベタニヤをいつまでも忘れることがないように」とイエス様は言われ、彼らを祝福してくださったのです。

 この「ベタニヤ」とは、どんな意味を持っている地なのでしょうか。ヨハネの福音書、11章を読むと分かります。「ベタニヤ」には、おのおの違った特徴を持った、3人の兄弟姉妹が住んでいました。すなわち、マルタ、マリヤ、ラザロが住んでいた場所でした。イエス様は、いつも好んでこの「ベタニヤ」に来られて、3人の兄弟をお訪ねになっていました。そこでお休みになり、また食事を摂ったりなさいました。いつも、楽しみに「ベタニヤ」を訪れた主イエス様でした。イエス様は、どうしてそんなに「ベタニヤ」を愛されたのでしょうか。

 イエス様が「ベタニヤ」を愛された理由は、3つあります。

1. マリヤの示した「イエス様に対する純粋な愛」です。マリヤは、生涯を通してイエス様を愛し抜きました。
2. マルタが行なった「イエス様に対する心からの奉仕」です。
3. 「イエス様のよみがえりの力」です。ラザロはベタニヤで、死よりよみがえらせられたのです。

 ベタニヤに住む3人の兄弟姉妹は、イエス様を通して初めて「内容ある人生」と、「はっきりとした目的を持った、意味のある人生」が確立される、と体験的に知るようになったのです。「イエス様」は、彼らにとって「すべて」になりました。「神なき人生の無意味さを認識すること」は、彼らにとって本当に大切なことだったのです。そして、「いかなる尽力も努力も、まことの神と人間との『隔ての壁』を取り除くことができない」ということが、彼らには分かるようになったのです。弟子たちは、「イエス様の死の大切さ」が、全然分からなかったのです。けれども、この3人には分かったようです。なぜならば、彼らは全く違う態度をとったからです。

 最も大切なことの一つは、マリヤのように主の足元に座って、みことばに耳を貸すことです。「主よ、語ってください。聞かせてください」という切なる願いを持つことです。マリヤは、生涯を通してイエス様を愛し抜いたのです。したがって、この「ベタニヤの家の雰囲気」は、ただ一言で言い現わすことができます。それは「愛」です。「マリヤは、まことの祈り人であった」とも言えます。彼女がしたように、イエス様の足元に座り続けることなしに、祈りの生活は成り立ちません。マリヤは「集会」ではなく、「自分の家」で主の足元にひざまずきました。集会の時だけではなく、ただ一人でいるとき、密室で、みことばを黙想し、主との親しい交わりを持つことこそが、大切なことなのではないでしょうか。 
 ベタニヤに住む3人の兄弟の周りにいる人々は、この小さな家族をイエス様がいかにして愛されたかがよく分かりました。
 マリヤは、イエス様が自分たちを全く欠けたところなく愛してくださっていることを、よく知っていたので、マリヤもイエス様を、少しも裏切るところなく愛したのです。聖書を見ると書いてある通りに、このマリヤは、「非常に値の高いナルドの匂い油を、主の上に惜しげもなく降り注いだ」とあります。ためらうことなく、余すところなく、匂い油をイエス様に降り注ぐことによって、イエス様に対する愛を示したのです。「ナルドの匂い油の匂いが、家全体に満ちた」と聖書に書かれてあります。それと同じように、「愛の雰囲気」が、3人兄弟の家を包んでいたのです。
 すなわち、「ベタニヤ」は、イエス様に対する愛が満ちあふれていた所です。そしてイエス様がそれを満足された所なのです。イエス様に対する、このようなマリヤの愛は、主が何にもまして求めておられるものです。イエス様は、私たちが心からすべてをささげ、主を愛しているかどうかを見ておられます。

 イエス様は、前に読んでいただきましたように、マタイの福音書21章17節で、
   イエスは彼らをあとに残し、都を出てベタニヤに行き、そこに泊まられた。

とあります。
 結局、「エルサレム」とは「宗教の町」で、イエス様は「無宗教」でした。エルサレムに住む聖書学者たちと、やはり一つになることができなかったのです。「ベタニヤ」のマリヤは、主イエス様を心から愛したのであります。ヨハネの黙示録の2章4節。
   しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。

と書かれています。

 前に話したことがありますけれども、もう何年前だったか忘れてしまいましたけれども、初めてロサンゼルスに行った時、飛行場である兄弟に会いまして、少しだけ話してから、「今晩、またサンディエゴで会いましょう」と約束しました。アメリカの初めての集会は、サンディエゴだったからです。その兄弟は、車で来ますから、「今晩また向こうで会いましょう」と言ったのです。けれども、その晩の集会が始まっても、彼はみえませんでした。集会の終わり頃になって、彼は急に入って来たのです。くるくる回って、あっちこっち行って、なかなかその場所が見つからなかったそうです。その時、私は聖書の箇所を引用せずに、吉祥寺のある姉妹のことを話したのです。どなたのことだったのか、全然覚えてないけれど、「姉妹、どう?元気ですか?」と聞いた時に、彼女は「はい」と言わないし、「いいえ」とも言わなくて、「イエス様、大好きです」と言ったのです。これも一つの答えですね(笑)。これを、サンディエゴで話したのです。「『イエス様、大好きです』と彼女が答えたのです」と。彼は、集会に入った瞬間、このことだけを聞いたのです。そして、これはどうしてなのか分からないけれど、その場で彼は救われてしまいました。考えられないことです。けれども、結局それなのです。聖書の知識は、どうでもいいのです。「イエス様、大好き」にならないと駄目なのです。彼は、次の日に洗礼を受けたのです。彼は、親戚も誘いました。そして、洗礼を受ける前に両手を上に挙げて、「イエス様、大好きです!!!」と叫んで、洗礼を受けたのです。同じ日、彼は一つの歌を作りました。後で彼は、誰と会っても、いつも歌ったのです。車の中でも、どこでも、関係なく歌ったのです。彼は、大学の教授だったし、頭が良かったのです。けれど、イエス様の話になると、もう子どものようになりました。どういう歌であったかと言いますと、

「まっかなお日さま、のぼる
 お山の上から、暖かく照らす
 兄弟姉妹、喜びに満ちて
 イエス様大好き、イエス様大好きよ

 真の光が、照らす
 心の中を、暖かく照らす
 兄弟姉妹、喜びに満ちて
 イエス様大好き、イエス様大好きよ

 大きな喜び、満ちる
 心の中に、暖かく満ちる
 兄弟姉妹、喜びに満ちて
 イエス様大好き、イエス様大好きよ」

という歌です。これは、「初めの愛」です。「私はもう、誤解されても、変な目で見られても、どうでもよい。関係ない」という気持ちなのです。今、読みましたヨハネの黙示録2章4節の中で、
   あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。

とあります。エペソにいる兄弟姉妹に言われた言葉です。もちろん彼らは、イエス様を信じなくなったのではないし、とんでもない罪を犯したのでもありません。けれども、イエス様は、「わたしは、あなたがたに非難すべきことがある」と言われたのです。原語を見ると、「わたしは、あなたに敵対する」ということになります。主が自分の「敵」になってしまったら、もうおしまいです。どうして敵対するのでしょうか。「初めの愛から離れてしまった」からです。
 それでは、「初めの愛」とは、いったい何なのでしょうか。「主との交わり」です。結局、「イエス様なしには、何事も発せず、何事もなし得ない」ということです。もし日々、主のみことばである聖書が、私たちの泉となり、慰めとなり、力となり、知恵となっており、私たちの考えている行ないの中心に、イエス様がいらっしゃるのならば、それこそが、私たちの「初めの愛」が保たれていることの証拠です。そうでなければ、「初めの愛」から離れてしまったことになるのです。
 当時のエペソの教会の「心」は、もはや主イエス様との親しい交わりの中にはなかったのです。イエス様は天にお帰りになる前に、弟子たちをこの「ベタニヤ」まで導かれたのです。もちろんイエス様は、こんにちもこのような「ベタニヤ」を求めておられるのです。私たちの「心」は、「主を愛するベタニヤ」になっているのでしょうか。私たちの心の内に、「全き分かたれざる、きよい、主に対する愛」があるでしょうか。「ベタニヤ」の特徴とは、このような「まごころからのイエス様に対する愛」でした。

 イエス様は、どうして「ベタニヤ」を愛されたのでしょうか。
 イエス様がベタニヤを愛された理由は、前に話したように、まず「イエス様に対する純粋な愛」です。そして、第2番目の理由は、「イエス様に仕える奉仕」です。マルタという女性は、忠実に主に仕えました。
 マリヤは、イエス様を心から愛しました。彼女の捧げたナルドの匂い油は、彼女の全てだったのではないでしょうか。これを買うためには、普通の社会人は、一年間働かなければならなかったのです。だから、本当に高価なものです。彼女は、もちろん自分のために使いたくありませんでした。「私には、もったいない」と思ったのです。それを、他の人に使うなんて、笑い話ではないですか。けれど、イエス様に使うのなら…。おそらく彼女は、「半分にしましょうか、全部にしましょうか」と思わなかったと思います。「イエス様のためだったら、全てがちょうどいい!」と、嬉しくなったのです。彼女は、喜んでささげました。

 イエス様は、どうして「ベタニヤ」を大好きになったかといいますと、結局そのマリヤがいただけではなく、マルタもいたからです。
 このマルタは、イエス様に心から奉仕したのです。私たちは、この「主イエス様に対する愛に満ちた家」の中で、同時に「イエス様に対してなされた忠実な奉仕」を見ることができるのです。すなわちマルタは、イエス様のために食事を準備しました。私たちもマルタと同じように、イエス様に対して奉仕する者なのでしょうか。できる限りたくさんの奉仕をするのが問題なのではありません。「主」に対して、奉仕しているかどうかが問題なのです。自分のため、または、他の人のための奉仕ならば、あまり意味のないことです。
 マルタは、食事を用意したとき、必ずこのように思っていたでしょう。「これを作ったら、イエス様は喜ばれるでしょうか。こうやったら、イエス様は満足されるでしょうか」と。それだけだったのです。彼女は自分が中心になりたいという気持ちはなかったのです。

 もちろん、マルタについては、誰でも考えることがあるでしょう。他の箇所を見るとマルタは、少しイエス様によって批判されたことがあるのです。イエス様だけが来られるのなら、何とかなるでしょう。一人の食事を作ることは、そんなに大したことではないと思います。…私、分かりませんが。女性ではないから(笑)。けれど、イエス様が来られるときには、12人の若者と一緒でした。イエス様も、弟子たちも、みんなも若いのです。13人の若者が来るのです。食べますよ!そうでしょう。けれども、マルタは「大変だ、大変だ」と思わなかったのです。「イエス様を喜ばせたい」、これだけでした。けれど、食事の準備をしながら「間に合わない」と思ってしまったから、マリヤに手伝ってほしくて、イエス様の所へ行きました。そのことは、いいことです。直接マリヤに、「マリヤ。助けてちょうだい」と言わなかったのです。イエス様の所へ行って、「イエス様。妹に、言ってください」と。やはり、直接、妹に言わないでイエス様に話すことは、すごいことなのではないでしょうか。彼女は、イエス様を「自分の家」に受け入れ、イエス様の紹介もしました。けれどもこのマルタは、イエス様に批判されました。どうして、このようになってしまったのかと言いますと、結局「主のため、主のため」と思ったけれど、準備する前にイエス様に尋ねたのなら良かったのです。彼女が、もしすぐ「イエス様、疲れておられるでしょう?どうしましょうか。まず交わりにしましょうか。それとも、まず食事にしましょうか」と尋ねたならば、イエス様は、「食べてもいいし、食べなくてもいいです。まず交わりましょう」と言われたに違いありません。けれど、彼女はそれをしなかったから、うまくいかなくなってしまったのです。けれど、そういうふうに心配したのは、おそらく1回だけです。その後もイエス様は、何回も何回も来られました。その時には、彼女はいつも先に聞いたはずです。「イエス様、どちらにしましょうか」と。そして、その時も彼女は、本当に心から「イエス様のため」と思ったのです。「やはり、イエス様に仕えたい」と、そういう気持ちを持っていたのです。

 この2人の姉妹を見てみると、イエス様に対する「まことの愛」と「まことの奉仕」という、主のみこころにかなった2つの大切な事柄を見ることができるのです。けれども、この2つのこと、すなわち「主に対する愛」そして「主に対する奉仕」だけではなく、主は、もっと大いなることを望んでおられるお方です。すなわち「主のよみがえりの力」そのものが、「ベタニヤ」で明らかになったのです。
 
 ラザロという男は病気になり、危篤状態になり、大変な問題になりました。このラザロの状態、あるいは2人の姉妹たちの気持ちについて考えると分かります。ラザロは病の床に倒れました。だんだん衰弱していきます。けれどもイエス様は、頼んだのに来てくださいません。「もし、イエス様がここにおられたら、何の問題もないのに」と、2人の姉妹は思いました。本当でしょうか。もし、イエス様がおられるなら、問題はないのでしょうか。もちろんラザロにとっては、主が来てくだされば、何の問題もなかったでしょう。病はすぐに治ったことでしょう。けれど、それは父なる神のみこころではなかったのです。だからイエス様は、すぐに来ようとはされなかったのです。イエス様は心の中で、3人の兄弟姉妹をあわれみ、泣いておられたことでしょう。イエス様は、一刻も早くラザロをお助けになりたかったのですけれど、父なる神のみこころは違うところにありました。ラザロが「よみがえりの力」を経験するには、「死」を通らなければならなかったのです。

 私たちの信仰生活においても、主は同じような導き方をされるのではないでしょうか。恐ろしい「自分を愛する愛」と、「主を愛する愛」は、共に在ることはできません。また、「自分の名前を人に知ってもらう」というような気持ちと、「主に対するまことの奉仕」は、両立しません。そして、自分の「考えと計画」も、これらと一緒に「死」に渡されなければ、「よみがえりの力」を自分のものにすることはできません。
 私たちの信仰生活には、いろいろ思いがけないことが起こります。そうすると、「いったい どうしてだろう?なぜだろう?」と誰でもが考えます。そして、それを乗り越え、見えないところを信仰によって希望を抱き、前進しますと、その結果は、思いがけない悲劇に終わることもあります。すべてを主にゆだねて進んでも、何の変化も起きてこないことが往々にしてあります。信仰によって歩み、絶望し、その絶望の中から小さな光を見つけ、それに取りすがり、何とかして浮かび上がろうとしますが、打ちのめされて全く絶望してしまいます。「自分はもう駄目だ。自分の前には『死』が待っているだけだ」と思うこともあるでしょう。そこにまで主が導いてくださる時、そうなって初めて、絶望して初めて、主は私たちをしっかりと握ってくださいます。それは、いったいどういうわけなのでしょうか。それは、イエス様が私たちを通して、「よみがえりの力」を、お現わしになりたいからなのです。
 私たちの生活そのものは、「よみがえりの力」の証しとなるべきです。もちろん、主のみこころは、最終的に「死」ではなく、「いのち」です。けれども「いのち」は、「死」を通して初めてやってくる、というところに目を留めなければなりません。前に読みました、ヨハネの福音書12章2節を読むと分かります。
   ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。

とあります。「多くの人はそれを見て、主を信じるようになった」と、聖書は言っています。「よみがえりの力」を経験したラザロを見て、多くの人は信じたのです。「ラザロは、説教した」とか、「証しした」とか、書いてないのです。もしかすると、ラザロは言葉の少ない男で、もう恥ずかしくて、どうしようもない者だったかもしれません。けれども彼の存在そのものが、すごい証しでした。
 「よみがえりの力」で生活することとは、いったい何なのでしょうか。すなわち、「主よ。あなたが召してくださった奉仕をするのに、力がありません。私は何一つできません。この奉仕をするには、あなたでなければ駄目です。どうか導いて、力を与えてください。」という、全く自分の無力を認めた生活がそれです。すなわち、生まれながらの力や人間の知恵で送る生活ではなくて、「全く 主イエス様により頼む生活」こそ、「よみがえりの力」による生活への道です。
 ラザロを見て、多くの人はイエス様を信じました。けれど、それで終わりではありません。「悪魔は、聖書学者たちを通してラザロを殺そうとした」と書いてあります。イエス様の力が現われると、これこそ悪魔にとって、もう耐えられないことです。悪魔にとって、「よみがえりの力」よりも、嫌なものはないでしょう。
 私たちは、ラザロと同じように、「主とともなる交わり」を持ちたく思っているでしょうか。「主とともなる交わり」を得るには、苦しみも経験しなければなりません。誤解もあり、迫害もあるでしょう。それとも信じる者として、もっと楽な道を選びたいでしょうか。つまり、「自分自身が中心となって、イエス様を『主』としながら、除け者にする状態」か、あるいは「自己否定によって、イエス様が私たちの中で、私たちを通して、いつも自由に働くことができる状態」かの、2つのうちのどちらかの状態にならざるを得ません。

 パウロは、常に犠牲をささげる備えができていました。コリント人への手紙第二、4章10節から11節を見ると、次のように書かれています。
   いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たち
  の身において明らかに示されるためです。私たち生きている者は、イエスのために絶
  えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体におい
  て明らかに示されるためなのです。

前に話したように「生きておられる主イエス様の前に静まること」こそ、最も大切です。
イエス様は、初めのない、終わりのない、永遠なる神であり、昨日も今日もいつまでも変わらないお方です。主は、とこしえに変わることがないお方です。そして、イエス様は万物の創り主であって、過去において目に見えるものと目に見えなものを、全て造られただけではなく、今もなお、新たなるものをお造りになっておられるお方です。そして、また「無いものを有るもののようにお呼びになる主でもある」と、聖書は言っています。詩篇33篇9節に、
   主が仰せられると、そのようになり、主が命じられると、それは堅く立つ。

とあります。イエス様が仰せられ、命じられると、無から有が実現し、信じていた者が生き返ることが実現されます。みことばにある、その「主」は、力に満ちておられた「イエス様」なのです。私たちの側はどうか、と言いますと、ただ無力さや疲れなどが満ちております。けれど、イエス様の側はどうかと言いますと、そこには、全知全能の力があることがわかります。
 そして、その永遠なる主であり、造り主であり、また支配者であられるイエス様は、私たちの敗北を勝利へと替えてくださるお方なのです。詩篇の作者は、詩篇97篇5節で、
   山々は主の御前に、ろうのように溶けた。全地の主の御前に。

と書きました。結局、主の御前に静まると、ろうのように山々が溶けてしまうのです。「問題は解決される」ということです。イエス様は、私たちにとって必要なもの、すなわち「力」と「平安」と「喜び」を、私たちに与え、提供しておられるお方です。主は、必要なものを与えてくださいます。そして、私たちはそれをいただくのです。受け取って、自分のものにする必要があります。このことだけが要求されているのです。
 それならば、問題は「受け取る」とは何なのか、ということなのではないでしょうか。答えは、「主の足元に静まること」です。すなわち「主のご臨在の前に静まること」です。この意味は、「すべてを主に明け渡すこと」であり、「主により頼むこと」であり、「主の声を聞く備えのあること」であります。
 一人の姉妹が、次のような手紙だったのですけども、詩のようなものなのですけれど、次のように書いてくださったのです。題名は、『悔い改めのゆるい坂道』というものです。彼女は、脳腫瘍で倒れて体が不自由になったのです。人間的に考えれば、可哀想です。けれど、彼女はそう思っていません。彼女の書いた手紙は、次のようなものです。

 「今 ゆるい坂道を下っています。
  『低く、低くなりなさい』と言われる声を聞いた時、
  自分の今いる場所がやっと分かりました。
  高ぶる心と、自己中心と、人への無理解を持ち、
  私は何と主から遠く離れてきてしまっていたのでしょう。
  主が私に、『帰りなさい』と呼びかけてくださったから、
  私はやっと方向を変えることができました。

  今、ゆるい坂道を下っています。
  下り始めたばかりなのに、気がつくと後戻りしたりしています。
  それでも坂道の一番下に、主は待っていてくださいます。
  両手を広げて。すべての人よりも低くなられて、
  『わたしのように低くなりなさい』と教えてくださいます。
  低く、そして大空高く、主はいつもともにいてくださいます。
  悔い改めの儀式と平安の中、私はゆっくりと坂道を下っています。
  喜びと感謝にあふれています。」

「主の前に静まること」の結果とは、このようなものなのではないでしょうか。

 もう一箇所読んで、終わります。主を仰ぎ見て、全部主にゆだねたパウロたちの、面白くない経験についての箇所です。正直な証しです。コリント人への手紙第二、1章9節です。
   ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、
  死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。

まだ、「なって」いなかった。ショックだったと思う。「なった」と思ったのに、まだでした。続いて、10節。
   ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいまし
  た。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、
  私たちはこの神に置いているのです。

主により頼む者となるために、主は、やむなく、いろいろな悩みを苦しみを与えてくださるのです。けれども主により頼むと、本当に解放され、いま読みましたように、そして、先ほどの姉妹のように、「喜びと感謝にあふれている」と、体験的に知るようになります。

                                      了


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◆メッセージ(ベック兄)

※一部、テープの転換による不明部分あり

神のみことばは神のみことばである(5) 2006. 4. 18
神のみことばは神のみことばである(4) 2006. 4. 11
神のみことばは神のみことばである(3) 2006. 4. 4
神のみことばは神のみことばである(2) 2006. 3. 21
家族の救い 2006. 3. 19
神のみことばは神のみことばである(1) 2006. 3. 14
主イエスは神の子キリストである(4) 2006. 3. 7
主イエスは神の子キリストである(3) 2006. 2. 28
主イエスは神の子キリストである(2) 2006. 2. 14
主イエスは神の子キリストである(1) 2006. 2. 7
勝利の生活の秘訣 2006. 1. 24
イエス・キリストのからだ 2006. 1. 17
主の永遠からの予定 2006. 1. 10
元旦メッセージ 2006. 1. 1


2005年度のメッセージ集
2004年度のメッセージ集
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